宮崎勤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
本来の表記は「宮﨑勤」です。この記事に付けられた題名は、技術的な制限により、記事名の制約から不正確なものとなっています。
宮﨑 勤
個人情報
生誕 1962年8月21日
日本の旗 日本東京都西多摩郡五日市町(現あきる野市
死没 (2008-06-17) 2008年6月17日(満45歳没)
東京都葛飾区東京拘置所
死因 絞首刑
判決 死刑
殺人詳細
犠牲者数 4人
犯行期間 1988年–1989年
逮捕日 1989年8月11日

宮﨑 勤 (みやざき つとむ、1962年8月21日 - 2008年6月17日)は日本の確定死刑囚東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件警察庁広域重要指定第117号事件)の容疑者として逮捕起訴され、死刑判決が確定し、刑死した人物である。

生い立ち[編集]

幼少期
東京都西多摩郡五日市町(現あきる野市)にある地元の新聞会社を経営する、裕福な一家の長男として出生[1]。両親は共働きで忙しかったため、産まれてまもなく、30歳ぐらいの知的障害を持つ子守りの男性を住み込みで雇い入れている[2]。幼い勤の世話のほとんどは、この男性と祖父が行っていた[3]。宮崎家は曽祖父は村会議員、祖父は町会議員を務めており、地元の名士であった[4]。家族は祖父、祖母、両親、妹二人の7人[4]。祖父は引っ込み思案な勤を連れて歩き、可愛がっていた[5]
幼い頃から手首を回せず手のひらを上に向けられない「両側先天性橈尺骨癒合症」(りょうがわせんてんせいとうしゃくこつゆごうしょう)[6]という、当時の日本には150ほどしか症例のない珍しい身体障害があったが、医者から「手術しても100人に1人くらいしか成功しない。日常生活に支障がないなら、手術するにしても、もっと大きくなってからの方がいいだろう」と言われ、両親は「勤は幼い時から掌が不自由なのを気にしており、うまくいかないことを、掌のせいと考えてきたとされる。4歳の時に手術も考えたが、もし、手術して身障者のレッテルを張られたら、勤の将来に悪い結果となると判断し、そのままにした」と、積極的な治療を受けさせなかった[7]。そのため、幼稚園ではお遊戯や頂戴のポーズもできず、周囲からからかわれても幼稚園の先生は何も対応しなかったため「非常に辛かった」と供述している[8]
小学校時代
小学生時代は「怪獣博士」と呼ばれるほど怪獣に夢中になったが、クラスの人気者というわけではなかった[9]。成績は上位であって、小学校の頃から算数数学)が得意と語っており、また宮崎の母が「うちの子は英語が得意なの」と自慢しており、英数の成績は良かった[10]。しかし、その一方で国語社会科を苦手としていた[10]
中学校時代
中学生時代は1、2年生の時には陸上部、3年生の時には将棋部に所属し、負けると異常に悔しがり、さまざまな攻略本を読み、負けた相手には必ず勝つまで勝利に執着した[11]。また通信教育空手を習い、空手の型を同級生に見せることがあった[11]
高校時代
1978年、手の障害を気にし、自宅から片道2時間もかかる男子校であった明治大学付属中野高等学校へ進学するが、両親は“英語教師になるためにわざわざ遠い高校へ進学した”と勘違いしていた。同級生は、暗く目立たない少年だった、と証言している。高校に入ってからの成績は下降の一途で、本人は明治大学への推薦入学を希望していたが、クラスでも下から数えたほうが早い成績にまで落ちていたことから、その希望は果たす以前の問題となっていた。
短期大学時代
高校卒業後の1981年4月、東京工芸大学短期大学部画像技術科に進学[12]。この頃はパズルに夢中になり、自作のパズルを専門誌に投稿したり、雑誌のパズル回答者として雑誌に名前が掲載されることもあった[13]1982年短期大学在学中にNHKのトーク番組『YOU』のスタジオ収録に友人とともに出かけているが、アナウンサーが近づきインタビューをしようとすると、すぐさま他の出演者の後ろに隠れ、インタビューを受けることはなかった[14]
俳優の川崎麻世は短大の同級生であるが、宮﨑の逮捕時のインタビューでは「僕は記憶力が良い方だし、クラスは全部で80人ほどだったから、忘れるはずはないんだが、そんな奴いたかって感じなんだ。同級生にも聞いてみたけど、誰も覚えていなかった」というほど影が薄い存在であった[15]
印刷会社に就職
1983年4月の短大卒業後は叔父の紹介で、小平市の印刷会社に就職し、印刷機オペレーターとして勤務[16]。勤務態度は極めて悪く、評判も非常に悪かった[17]1986年3月に勤めていた印刷会社の上司から神奈川県への転勤を勧められたが本人が拒否した為自己都合退職(実質的には解雇)する。[18]。家業を手伝うよう両親が何度か声をかけたが、自室にこもる生活が数ヶ月続いた[19]。9月ごろから家業を手伝い始めるが、広告原稿を受け取りに行く程度の簡単な手伝いであった[20]
この頃アニメ同人誌を発行するが、態度や言動から仲間に嫌われ、1回だけの発行で終わっている。その後は数多くのビデオサークルに加入し、全国各地の会員が録画したテレビアニメや特撮番組のビデオを複製し交換・収集するようになるが、持つだけで満足してしまい、テープのほとんどは自ら鑑賞することはなかった[21]。ビデオサークルでは、他の会員に無理な録画やダビング注文をするため、ここでも仲間から嫌われていた[22]。逮捕後の家宅捜索では6000本近くのビデオテープを所有していたことが判明する[23]
1988年5月16日、祖父が死去[24]8月22日に第一の犯行を起こす[25]1989年3月には晴海のコミックマーケットに漫画作品を出品している[26]

連続幼女誘拐殺人事件[編集]

逮捕[編集]

1989年7月23日、わいせつ事件を起こそうとしていたところを被害者の父親により取り押さえられ、宮﨑は強制猥褻容疑で現行犯逮捕された[27]

8月9日から連続幼女誘拐殺人事件への関与を認め、8月10日にその供述どおりに遺体が発見されたことから、同日の夕刊とニュースで宮崎の実名報道が始まる[28]。翌8月11日に連続幼女誘拐殺人事件の容疑で再逮捕された[29]。以後、次々と事件が明るみに出た後、後藤正夫法務大臣(当時)は、「死刑くらいでは収まらない残酷な出来事だ」と発言した[30]

精神鑑定[編集]

1989年8月24日東京地方検察庁の総務部診断室で簡易精神鑑定を受ける。精神分裂病(当時の呼称で、現在では統合失調症に改称)の可能性は否定できないが、現時点では人格障害の範囲に留まるとされ、これを受けて検察起訴に踏み切った。初公判では「全体的に、醒めない夢を見て起こったというか、夢を見ていたというか・・・」と罪状認否で訴えた。

公判開始後の1990年12月より、5人の精神科医と1人の臨床心理学者による精神鑑定が実施される[31]。この鑑定では動物虐待などの異常行動に目が向けられ、祖父の遺骨を食べたことなどは供述が曖昧なため事実ではないとみなされた[32]1992年3月31日精神鑑定書が提出され、人格障害とされた[31]。祖父の骨を食べた件については弁護側は墓石などが動かされたことを証拠としたが、検察側はそれだけでは確証ではないと反論した[33]

1992年12月18日より、弁護側の依頼により3人の鑑定医により再鑑定が始まる[32]1994年12月に鑑定書が提出される[32]。第2回鑑定では1人は統合失調症、2人が解離性同一性障害(多重人格)の鑑定を出した[34]

裁判[編集]

第一審
1997年4月14日東京地方裁判所死刑判決。判決時の被告は時折周囲をしらけた表情で眺めるくらいで、いつものように机上に広げたノートに何かを書き続けていた。法廷を出る際は、薄笑いを浮かべていた。責任能力に関しては、逮捕時の彼にそのような多重人格や統合失調症を疑わせるような異常な反応は見受けられず、逮捕による拘禁反応とみなした場合に最もうまく説明できることを理由に第2回鑑定は採用されず、責任能力は完全に保たれていたとされた。即日控訴
控訴審
2001年6月28日東京高等裁判所で一審支持・控訴棄却の判決。同年7月10日上告
2004年には奈良小1女児殺害事件が起こるが、同事件の容疑者が「第二の宮﨑勤」の発言を行ったことに対し「精神鑑定も受けずに、『第二の宮崎勤』は名乗らせません」(雑誌『』2006年1月号)と宮﨑の名を使ったことに対し痛烈に批判した。
上告審
2006年1月17日最高裁判所が弁護側の上告を棄却。弁護側は判決訂正を求めたが、2006年2月1日に棄却[35]

死刑執行[編集]

2008年6月17日東京拘置所で死刑が執行された[36]。執行命令書の署名を行った法務大臣は鳩山邦夫。宮﨑は冷静に執行を受け入れ、また宮﨑の母親は遺体との対面後に、処置については拘置所に任せたという[37]

宮﨑の手紙[編集]

雑誌『』の篠田博之編集長に宛てた手紙には日本の現行の死刑方法における批判がしばしば書かれており、2006年には「踏み板がはずれて下に落下している最中は、恐怖のどんぞこにおとしいれられるのである」と絞首刑を批判、薬物注射による死刑導入を訴えていた。2007年の書簡には「この国の現行の死刑執行方法だと、死刑確定囚の人は、『私は刑執行時は死の恐怖とたたかわねばならなくなるから、反省や謝罪のことなど全く考えられなくなる』」とも記していた[38]。編集部に宛てた手紙はおよそ300通、内容は拘置所内で読んだ漫画本のタイトルを並べただけの物がほとんどであった。知人にも合計で2000通近くの手紙を拘置所内から送っていた。また、死刑判決が決定してからは独房でアニメビデオを鑑賞することが許可されていた[39]

動機[編集]

事件の奇異さから、さまざまな憶測が飛び交い、また宮崎自身が要領を得ない供述を繰り返していることから、裁判でも動機の完全な特定には到っていない。

鑑定に当たった医師たちによると、彼は本来的な小児性愛者(ペドフィリア)ではなく、あくまで代替的に幼女を狙ったと証言されている。「成人をあきらめて幼女を代替物としたようで、小児性愛や死体性愛などの傾向は見られません」(第1次精神鑑定鑑定医 保崎秀夫 法廷証言)および「幼児を対象としているが、本質的な性倒錯は認められず・・・幼児を対象としたことは代替である」(簡易精神鑑定)。

一方で、彼の性愛の対象は、成人の女性より幼女を(幼女性愛)、幼女よりその死体を(死体愛)、死体よりそれを解体したものを(死体加虐愛)、さらにそれをビデオに撮ったもの(拝物愛)と移っていった、とする意見もある[40]

アニメ・漫画の影響[編集]

宮﨑が暴力的、性的、猟奇的な内容の漫画やビデオを多数所持していた事から、一部マスコミでは、それらの悪影響を主張する意見も見られた。しかしながら実際には、そうした内容の漫画やビデオは、宮崎の膨大なコレクションのごく一部に過ぎなかった(東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件#影響を参照)。宮崎の趣味の特異性は、むしろジャンルに関係なく無作為に多数の漫画やビデオを収集していた事とされる。

この事件により、「有害コミック騒動」が活発化し、アニメ・漫画・ゲームなどが人間に悪影響を及ぼすという風潮が高まり、マスコミやPTAなどでの議論となった。その後の「有害コミック騒動」においても、事件の代表格である「幼女連続誘拐事件」は取り上げられている。

家族[編集]

稀に見る凶行であったため、家族へ及んだ影響も大きかった。人々の宮﨑への憎悪はそのまま彼の家族・親族へと波及した。

家族・親戚らの境遇
宮﨑は両親の他に姉妹二人兄弟二人がいたが、彼らに対して「お前達も死ね」「殺してやる」という旨の嫌がらせの手紙が大量に殺到した[41]。長女は勤めていた会社を辞め、既に結婚間近だったが自ら婚約を破棄した。次女は在学していた看護学校にいられなくなり、自主退学に追い込まれた。二人の兄弟もいずれも辞職した。父親の弟は、5つの会社の役員を全て辞職した。
父親の弟2人も仕事を退職した上、次男は持っていた会社を妻の名義に変更。三男には娘が2人おり、宮﨑姓を名乗ることの影響を考え、苦渋の決断の末に「巻き込むわけにいかないから」と妻を説得して離婚、娘達は妻に引き取らせた[42]。母親の兄の2人の息子は警察官、高校教師であったが辞職した[43]。背景には週刊誌で暴露された影響があったと言われる[44]
父親の自殺
家族は宮﨑の逮捕から1年後に引越をした。宮﨑は父親に対して私選弁護人をつけてくれるよう要請したがこれを拒絶。4年後の1994年に父親は自宅を売って、その代金を被害者の遺族に支払う段取りを付けると、東京都青梅市多摩川にかかる神代橋(水面までの高さ30m)から飛び降り自殺を遂げた。
作家の佐木隆三は父親の自殺を「現実逃避であり被害者家族を顧みない行為である」と非難した。佐木は他に、私選弁護士をつけるよう要請して来た宮崎を拒絶したことについても批判している[45]。私選弁護人を選定しなかったことで国選弁護人が選ばれ結果国費が使われるからというのがその論旨であった。宮崎の父親には私選弁護人をつけるだけの経済力が十分備わっており、佐木は父親への批判として「家庭における父親の不在」というキーワードを挙げている。
父親とかねてから交流があり、事件後も父親へのコンタクトを定期的に続けた新聞記者は、「この事件を通して、加害者の家族は罪を犯した加害者以上の苦痛に苛まれることを知った」「加害者家族が直面する現実を、初めて目の当たりにした」と語っている[46]
宮崎の父親は、自分が糾弾されるのは、息子が犯した罪を思えば当然だが、全く関係のない自分の親族らにまで非難の矛先が向けられ、辞職したり、逼塞することを余儀なくされていることに苦悩していると、インタビューで言及していた[47]
自宅跡地
現在、宮﨑の生家は取り壊されて空き地になっているが、事件の影響が大き過ぎたために土地の買い手が誰も現れず、完全に荒れ地となっている。