宮崎勤

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宮﨑 勤
個人情報
別名 今田 勇子
生誕 1962年8月21日
日本の旗 日本東京都西多摩郡五日市町小和田(現・東京都あきる野市小和田)
死没 (2008-06-17) 2008年6月17日(45歳没)
日本の旗 日本東京都葛飾区東京拘置所
死因 絞首刑
有罪判決 殺人罪死体遺棄罪死体損壊罪誘拐罪など
判決 死刑東京地方裁判所
殺人詳細
犠牲者数 4人
犯行期間 1988年8月22日1989年7月23日
日本の旗 日本
東京都の旗 東京都
埼玉県の旗 埼玉県
逮捕日 1989年7月23日逮捕
1989年8月11日再逮捕

宮﨑 勤(みやざき つとむ、1962年8月21日 - 2008年6月17日)は日本のシリアルキラーであり、誘拐わいせつ犯である。1988年から1989年まで4人の幼女を誘拐、殺害した。東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件警察庁広域重要指定第117号事件)の容疑者として逮捕起訴され、死刑判決が確定し、刑死した人物である。

生い立ち[編集]

幼少期
東京都西多摩郡五日市町(現在のあきる野市)小和田で、地域新聞会社「秋川新聞」を経営する、裕福な一家の長男として出生する[1]。両親は共働きで多忙なため、生まれてまもなく30歳ぐらいの知的障害を持つ子守りの男性を住み込みで雇い入れている[2]。幼少期の勤を、ほとんどこの男性と祖父が面倒をみていた[3]。宮崎家は、曽祖父が村会議員、祖父が町会議員を務めるなど地元の名士であった[4]。家族は祖父、祖母、両親、妹二人の7人である[4]。祖父は引っ込み思案な勤を連れて歩き、かわいがっていた[5]
幼い頃から手首を回せず手のひらを上に向けられない「両側先天性橈尺骨癒合症[6]に罹患し、当時は日本で症例が150程度の珍しい身体障害があったが、医者から「手術しても100人に1人くらいしか成功しない。日常生活に支障がないなら、手術するにしても、もっと大きくなってからの方がいいだろう」と言われ、両親は「勤は幼いころから掌が不自由なのを気にしており、うまくいかないことを、掌のせいと考えてきたとされる。4歳のときに手術も考えたが、もし、手術して身障者のレッテルを張られたら、勤の将来に悪い結果となると判断し、そのままにした」と、積極的な治療を受けさせなかった[7]。そのため、幼稚園ではお遊戯や頂戴のポーズもできず、周囲からからかわれても幼稚園の先生は何も対応しなかったため「非常に辛かった」と供述している[8]
小学校時代
小学生時代は「怪獣博士」と呼ばれるほど怪獣に夢中になったが、クラスの人気者というわけではなかった[9]。成績は上位で、自身は小学校のころから算数が得意と語り、宮崎の母は「うちの子は英語が得意なの」と自慢するなど英数の成績は良かった[10]が、国語社会科を苦手としていた[10]
中学校時代
中学生時代は1、2年生のときは陸上部、3年生のときは将棋部に所属し、負けると異常に悔しがり、さまざまな攻略本を読んで負けた相手には必ず勝つまで勝利に執着した[11]通信教育空手を習い、空手の型を同級生に見せることがあった[11]
高校時代
手の障害を気にして、自宅からの通学に片道2時間を要する男子校であった明治大学付属中野高等学校1978年に進学するが、両親は「英語教師になるためにわざわざ遠い高校へ進学した」と勘違いしていた。同級生は「暗く目立たない少年だった」と証言している。高校に入ってからの成績は下降の一途で、本人は明治大学への推薦入学を希望していたが、クラスでも下から数えたほうが早い成績にまで低下し、希望を果たす以前の状態であった。
短期大学時代
高校卒業後の1981年4月、東京工芸大学短期大学部画像技術科に進学[12]する。このころはパズルに夢中になり、自作のパズルを専門誌に投稿したり、雑誌のパズル回答者として雑誌に名前が掲載されることもあった[13]1982年短期大学在学中にNHKのトーク番組「YOU」のスタジオ収録に友人とともに出かけているが、アナウンサーが近づきインタビューをしようとすると、すぐさまほかの出演者の後ろに隠れてインタビューを受けることはなかった[14]
俳優の川崎麻世は短大の同級生であるが、宮﨑の逮捕時のインタビューでは「僕は記憶力がいい方だし、クラスは全部で80人ほどだったから、忘れるはずはないんだが、そんな奴いたかって感じなんだ。同級生にも聞いてみたけど、誰も覚えていなかった」というほど影が薄い存在であった[15]
印刷会社に就職
1983年4月の短大卒業後は叔父の紹介で、小平市の印刷会社に就職し、印刷機オペレーターとして勤務[16]。勤務態度は極めて悪く、評判も非常に悪かった[17]1986年3月に勤めていた印刷会社の上司から神奈川県への転勤を勧められたが、本人が拒否したため自己都合退職[注 1]する[18]。家業を手伝うよう両親が何度か声をかけたが、自室にこもる生活が数か月続いた[19]。9月ごろから家業を手伝い始めるが、広告原稿を受け取りにいく程度の簡単な手伝いであった[20]
このころアニメ同人誌を発行するが、態度や言動から仲間に嫌われ、1回だけの発行で終わっている。その後は数多くのビデオサークルに加入し、全国各地の会員が録画したテレビアニメや特撮番組のビデオを複製し交換・収集するようになるが、持つだけで満足してしまい、テープのほとんどは自ら鑑賞することはなかった[21]。ビデオサークルでは、ほかの会員に無理な録画やダビング注文をするため、ここでも仲間から嫌われていた[22]。逮捕後の家宅捜索では6,000本近くのビデオテープを所有していたことが判明する[23]
1988年5月16日、祖父が死去[24]。8月22日に第一の犯行を起こす[25]1989年3月には晴海のコミックマーケットに漫画作品を出品している[26]

東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件[編集]

東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件
正式名称 警察庁広域重要指定117号事件
場所 日本の旗 日本
東京都北西部・埼玉県南西部
日付 1988年 - 1989年
死亡者 幼女4人
犯人 宮崎勤
容疑 誘拐・殺人・死体遺棄
対処 逮捕・起訴
謝罪 なし
刑事訴訟 死刑執行済み
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事件の経緯[編集]

第一の事件
1988年8月22日 - 当時4歳の女児Aが誘拐・殺害される。殺害後しばらく経ち、死後硬直で固くなった遺体にわいせつ行為を行う様子をビデオ撮影している。動機について簡易鑑定の問診記録では、鑑定人に「どうして写真だけでは済まなくなったか」を聞かれた際は、第一次鑑定では「よくわかんない」、最後の被告人質問では「急に子どものころが懐かしくなった」と、証言が曖昧であった。
第二の事件
1988年10月3日 - 当時7歳の小学1年生の女児Bが誘拐・殺害される。こちらはすぐさまわいせつ行為をしたが、この時点ではまだわずかに息があった模様で足がピクピク動いていたという犯人の証言がある。動機について供述調書では「何ともいえぬスリルがあった」、第一次鑑定では「よく覚えていない」「一番印象がない」と述べ、やはり不明瞭であった。
第三の事件
1988年12月9日 - 当時4歳の女児Cが誘拐・殺害される。Cは失禁した。焦ったのか犯人は被害者を山林に投げ捨てた。12月15日、Cの全裸死体が発見される。12月20日、C宅に葉書が届く。この遺体の発見後、テレビで被害者の父親が「死んでいても見つかってよかった」と発言するのを見た犯人がほかの被害者の遺体も送ることを計画するが、Bの遺体を発見できなかった。この際、山道に脱輪してたまたま通った車に助けを求め、「紺のラングレー」「ナンバープレートが3桁」という目撃情報が浮上する。
犯行声明と告白文
1989年2月6日 - A宅に紙片と骨片などの入った段ボール箱が置かれる。2月10日には「今田勇子」名でA事件に関する第1の書簡『犯行声明』が朝日新聞東京本社に郵送される。2月11日には同内容の犯行声明がA宅に届く。Aを入間川に沈めて殺したなど、事実と異なるいきさつが書かれていた。3月11日、「今田勇子」名での第2の書簡『告白文』が朝日新聞東京本社とB宅に届く[注 2]。両書簡とも極端に角張った利き手と反対の手で書かれたとも思える筆跡が特徴であり、筆跡鑑定が行われた。
第四の事件
1989年6月6日 - 当時5歳の女児Dが誘拐・殺害される。Dの両手を焼いて食べたと宮崎は罪状認否で述べるが、検察は自己の異常性を強調するため虚偽の事実を述べたものだと論告で主張した。判決では検察側の主張を認め、宮崎の主張する食人行為は虚偽の疑いが濃厚だとされた[27]6月11日、Dのバラバラ殺人遺体が発見された。

現行犯逮捕[編集]

1989年7月23日、東京都八王子市で幼い姉妹を狙ったわいせつ事件を起こす。妹の全裸写真を撮影していたところを被害者の父親により取り押さえられ、宮﨑は強制猥褻容疑で現行犯逮捕された[28]。宮崎を取り押さえた被害者の父親は「D事件の犯人もまだ捕まっていないのに」と取り押さえた宮﨑を責めたが、後日それが連続殺人事件の犯人だと知って愕然としたと当時のマスコミの取材を受けている。

8月9日から連続幼女誘拐殺人事件への関与を認め、8月10日にその供述どおりに遺体が発見されたことから、同日の夕刊とニュースで宮崎の実名報道が始まる[29]。翌8月11日に連続幼女誘拐殺人事件の容疑で再逮捕された[30]。以後、次々と事件が明るみに出たあと、後藤正夫法務大臣は「死刑くらいでは収まらない残酷な出来事だ」と発言した[31]

取り調べでの自供[編集]

1989年8月9日 - Dの殺害を自供。
1989年8月10日 - Dの頭部発見。犯人のマスコミ報道が始まる。
1989年8月11日 - Dの誘拐殺人死体遺棄の容疑で再逮捕
1989年8月13日 - A・Cの誘拐殺人を自供。
1989年9月1日 - 警察庁広域重要指定117号に指定。
1989年9月2日 - 検察起訴に踏み切る。
1989年9月5日 - Bの殺害を自供。
1989年9月6日 - 東京都西多摩郡五日市町(現・あきる野市)でBの遺骨発見。
1989年9月13日 - Aの遺骨発見。


1989年頃の宮崎勤の写真

精神鑑定[編集]

1989年8月24日、東京地方検察庁の総務部診断室で簡易精神鑑定を受ける。精神分裂病の可能性は否定できないが、現時点では人格障害の範囲に留まるとされ、これを受けて検察起訴に踏み切った。初公判では「全体的に、醒めない夢を見て起こったというか、夢を見ていたというか……」と罪状認否で訴えた。

公判開始後の1990年12月より、5人の精神科医と1人の臨床心理学者による精神鑑定が実施される[32]。この鑑定では動物虐待などの異常行動に目が向けられ、祖父の遺骨を食べたことなどは供述が曖昧なため事実ではないとみなされた[33]1992年3月31日精神鑑定書が提出され、人格障害とされた[32]。祖父の骨を食べた件については弁護側は墓石などが動かされたことを証拠としたが、検察側はそれだけでは確証ではないと反論した[34]

1992年12月18日より、弁護側の依頼により3人の鑑定医により再鑑定が始まる[33]1994年12月に鑑定書が提出される[33]。第2回鑑定では1人は統合失調症、2人が解離性同一性障害の鑑定を出した[35]

裁判[編集]

第一審
1997年4月14日、東京地方裁判所死刑判決。判決時の被告は時折周囲をしらけた表情で眺めるくらいで、いつものように机上に広げたノートに何かを書き続けていた。法廷を出る際は、薄笑いを浮かべていた。責任能力に関しては、逮捕時の彼にそのような多重人格や統合失調症を疑わせるような異常な反応は見受けられず、逮捕による拘禁反応とみなした場合にもっともうまく説明できることを理由に第2回鑑定は採用されず、責任能力は完全に保たれていたとされた。即日控訴
控訴審
2001年6月28日、東京高等裁判所で一審支持・控訴棄却の判決。同年7月10日上告
2004年奈良小1女児殺害事件被疑者が「第二の宮﨑勤」の発言を行ったことに対し、「精神鑑定も受けずに、『第二の宮崎勤』は名乗らせません」と宮﨑の名を用いたことを雑誌『』2006年1月号で痛烈に批判した。
上告審
2006年1月17日、最高裁判所が弁護側の上告を棄却する。弁護側は判決訂正を求めたが、2006年2月1日に棄却される[36]

死刑執行[編集]

法務大臣鳩山邦夫が執行命令書に署名し、2008年6月17日に東京拘置所で死刑が執行された[37]

宮﨑は冷静に執行を受け入れ、また宮﨑の母親は遺体との対面後、拘置所に処置を任せたという[38]

宮﨑の手紙[編集]

雑誌『』の篠田博之編集長に宛てた手紙には日本の現行の死刑方法における批判がしばしば書かれており、2006年には「踏み板がはずれて下に落下している最中は、恐怖のどんぞこにおとしいれられるのである」と絞首刑を批判、薬物注射による死刑導入を訴えていた。2007年の書簡には「この国の現行の死刑執行方法だと、死刑確定囚の人は、『私は刑執行時は死の恐怖とたたかわねばならなくなるから、反省や謝罪のことなど全く考えられなくなる』」とも記していた[39]。編集部に宛てた手紙はおよそ300通、内容は拘置所内で読んだ漫画本のタイトルを並べただけのものがほとんどであった。知人にも合計で2,000通近くの手紙を拘置所内から送っていた。また、死刑判決が決定してからは独房でアニメビデオを鑑賞することが許可されていた[40]

動機[編集]

事件の奇異さから憶測が飛び交い、宮崎自身が要領を得ない供述を繰り返していることから、裁判でも動機の完全な特定には至っていない。

鑑定に当たった医師たちによると、彼は本来的な小児性愛者ではなくあくまで代替的に幼女を狙ったと証言されている。第1次精神鑑定鑑定医の保崎秀夫は法廷で「成人をあきらめて幼女を代替物としたようで、小児性愛や死体性愛などの傾向は見られません」と証言し、簡易精神鑑定書は「幼児を対象としているが、本質的な性倒錯は認められず……幼児を対象としたことは代替である」としている。

一方で彼の性愛の対象は、成人の女性より幼女とする幼女性愛、幼女よりその死体とする死体愛、死体よりそれを解体したものとする死体加虐愛、さらにそれをビデオに撮ったものとする拝物愛へ移っていった、とする意見もある[41]

1989年8月24日東京地方検察庁の総務部診断室で簡易精神鑑定を受ける。その結果「精神分裂病(当時の呼称で、現在では統合失調症に改称)の可能性は否定できないが、現時点では人格障害の範囲に留まる」と診断されたことから、これを受けて検察は起訴に踏み切っている。

公判開始後の1992年12月18日より、弁護側の依頼により3人の鑑定医により3度目(公判開始後は2回目)の再鑑定が始まる。1994年12月に鑑定書が提出される。その際の鑑定では1人は統合失調症を、2人が解離性同一性障害と異なる鑑定結果を出している。

アニメ・漫画の影響[編集]

宮﨑が暴力的、性的、猟奇的な内容の漫画やビデオを多数所持していたことから、一部マスコミではそれらの悪影響を主張する意見もみられた。実際はそれら内容の漫画やビデオは、宮崎の膨大なコレクションのごく一部であった。宮崎の趣味の特異性は、むしろジャンルに関係なく無作為に多数の漫画やビデオを収集していたこととされる。

この事件により「有害コミック騒動」が活発化してアニメ・漫画・ゲームなどが青少年に悪影響を及ぼすとする風潮が高まり、マスコミやPTAなどでの議論となった。のちの「有害コミック騒動」で、事件の代表格である「幼女連続誘拐事件」が取り上げられている。

オタクバッシング[編集]

宮崎がいわゆるおたくロリコンホラーマニアとして報道されたことから、同様の趣味を持つ者に対して強い偏見が生じた。宮崎が殺害後の幼女をビデオカメラで撮影し、膨大なコレクションのビデオテープの中に隠し持っていたことから、現実と空想・妄想と犯罪行為の境界が曖昧で、明確な規範意識の欠落が犯罪に及んだとされ、これがおたくだと誤解された。

ホラー作品[編集]

宮崎の部屋から押収された大量のビデオテープの中に『ギニーピッグ2 血肉の華』が含まれていたと報道されると、この作品に影響されて犯行に至ったという解釈が世間に広まり『ギニーピッグ』シリーズは全作品が廃盤となる。しかし実際に部屋から押収されたのは、全編コメディ調の『ギニーピッグ4 ピーターの悪魔の女医さん』であり、宮崎は『ギニーピッグ2』を見ていないと供述している。この影響で宮崎の逮捕後しばらく、ホラー映画のテレビ放送が自粛された。

ポルノ作品[編集]

この事件後、1989年あたりから創作物における性的描写に規制が強まった。少年漫画などで女性の裸体を表現する場面で乳首が見えないように修正を施されたのもこのころからである。青年誌では『ANGEL』などの人気作品が連載中止となった。

当時この事件の取材をしていた木村透偏向報道があったと、「読売ウイークリー」のブログ2005年11月21日)にて主張している(当該エントリーはすぐに削除された)。そのエントリーで木村は、民放カメラマンが部屋の隅に数十冊あった雑誌のうち、成人向け書籍を一番上に乗せて撮影するという行為があったと主張している[42]。5,787本という膨大なビデオテープの大半は『男どアホウ甲子園』や『ドカベン』など大量のアニメ作品の録画テープが占めており、いかがわしいビデオや幼女関連のビデオ作品は44本にすぎなかった。

これらテープは、そのほとんどは一般のテレビ放送を録画したものや、そのテレビ録画がマニアによってダビングされたもので、これらは文通などの形で交換されたものという話がある。当時の報道によれば、こういったマニア間でのテレビ録画したダビングビデオの交換は方々で行われていたが、宮崎はこの交換で望みのテープを入手する際に、相手への返礼が十分でなく、遅延するトラブルもあったという。また宮崎が自分の欲しい作品をどんどん入手するわりに相手の頼みはできるだけ断るという態度を取ったため、宮崎を除名したサークルもあった。またサークルのメンバーからは、宮崎は「完録マニア」(全話を録画しないと気がすまないタイプ)であり、子どもっぽいとの印象も持たれていた。

小児児童への影響[編集]

この事件をきっかけに、年端もいかない小児に性衝動を覚えるペドフィリア嗜好の存在が広く知られることとなり、保護者が子どもをめぐる性犯罪に対して強い恐怖感を抱くようになった。

テレビの幼児番組などでも、児童(女児)の裸・下着が画面に映るのを避けるようになった。さらに、宮崎が年少のころより、動物に対して残虐な行為を行っていたという報告もあり、動物虐待行為がこれらの犯罪行為の予兆であると考える向きもある。

テレビ番組における報道[編集]

宮崎勤が第1の事件を供述して以降、NHKや民放のテレビの報道・ワイドショー番組は連日、連続幼女誘拐殺人事件関連の報道を大々的に伝えた。その直前、海部俊樹が第76代内閣総理大臣に就任し、第1次海部内閣が発足したばかりだが、宮崎が第2・第3の事件の供述をしたことから、事件の経緯を検証する形で誘拐殺人事件報道を優先していた。民放各局のワイドショーは8月下旬まで、連日30分〜1時間(場合により2時間も)程度で誘拐殺人事件関連の話題を優先していたが、8月26日礼宮文仁親王(現・秋篠宮)が川嶋紀子との婚約を発表してからは、事件報道の扱いが次第に縮小されていった。

その他の影響

事件当時、フジテレビで放送中のアニメ「らんま1/2」において、8月19日放送予定だった 第14話「さらわれたPちゃん 奪われたらんま」が誘拐を連想させるとして急遽放送内容を差し替え、後日放送予定だったアニメオリジナルエピソードの回を放送したが、その話の回想シーンにまだ未放送回のシーンがあったため、話がつながらない部分が発生する影響があった。また、この回は放送枠移動後に放送されたが、一部の局では打ち切られたためソフト化まで見られない地域もあった。

家族[編集]

まれに見る凶行であったため、家族へ及んだ影響も大きかった。人々の宮﨑への憎悪はそのまま彼の家族・親族へと波及した。

家族・親戚らの境遇
宮﨑は両親のほかに姉妹二人がいたが、彼らに対して「お前たちも死ね」「殺してやる」という旨の嫌がらせの手紙が殺到した[43]。長女は勤めていた会社を辞め、すでに結婚間近だったが自ら婚約を破棄した。次女は在学していた看護学校にいられなくなり、自主退学に追い込まれた。二人の兄弟もいずれも辞職した。父親の弟は、5つの会社の役員をすべて辞職した。
父親の弟2人も退職したうえ、次男は持っていた会社を妻の名義に変更。三男には娘が2人おり、宮﨑姓を名乗ることの影響を考え、苦渋の決断の末に「巻き込むわけにいかないから」と妻を説得して離婚、娘たちは妻に引き取らせた[44]。母親の兄の2人の息子は警察官、高校教師であったが辞職した[45]。背景には週刊誌で暴露された影響があったと言われる[46]
父親の自殺
家族は宮﨑の逮捕から1年後に引っ越した。宮﨑は父親に対して私選弁護人をつけてくれるよう要請したが父親はこれを拒絶。4年後の1994年に父親は自宅を売って、その代金を被害者の遺族に支払う段取りをつけると、東京都青梅市多摩川にかかる神代橋(水面までの高さ30m)から飛び降り自殺を遂げた。
作家の佐木隆三は父親の自殺を「現実逃避であり被害者家族を顧みない行為である」と非難した。佐木はほかに、私選弁護士をつけるよう要請してきた宮崎を拒絶したことについても批判している[47]。私選弁護人を選定しなかったことで国選弁護人が選ばれ結果国費が使われるからというのがその論旨であった。宮崎の父親には私選弁護人をつけるだけの経済力が十分あり、佐木は父親への批判として「家庭における父親の不在」というキーワードを挙げている。
父親とかねてから交流があり、事件後も父親とのコンタクトを定期的に続けた新聞記者は、「この事件を通して、加害者の家族は罪を犯した加害者以上の苦痛にさいなまれることを知った」「加害者家族が直面する現実を、初めて目の当たりにした」と語っている[48]
宮崎の父親は、自分が糾弾されるのは、息子が犯した罪を思えば当然だが、まったく関係のない自分の親族らにまで非難の矛先が向けられ、辞職したり、逼塞したりすることを余儀なくされていることに苦悩していると、インタビューで言及していた[49]
自宅跡地
現在、宮﨑の生家は取り壊されて空き地になっているが、事件が大きく影響して土地の買い手が現れず、完全に荒れ地となっている。

死刑執行の背景および波紋[編集]

鳩山邦夫法務大臣が死刑執行命令書に署名して2008年6月17日午前に東京拘置所で宮﨑の死刑は執行された[50]。45歳没。犯行動機は未解明のまま、精神鑑定も継続中であった。過去10年間における死刑確定から死刑執行までの平均は約8年であり、死刑確定から2年4か月というスピード執行となる[51][注 3]

鳩山は法務大臣退任後の2010年末、民放テレビのインタビューで「(宮﨑勤の事件は)もっとも凶悪な事犯の一つだと思うから、死刑執行すべきと思うが検討しろ」と、自身が執行手続きを指示したと述べた[52]

2008年6月8日秋葉原無差別殺傷事件が影響を及ぼした可能性も指摘されていたが[53]、ジャーナリストの上杉隆は宮崎勤死刑執行は秋葉原事件とは関係ないとしている。鳩山は同年3月に執行命令をすでに出しており、秋葉原事件と関連があるとするには矛盾がある。アムネスティ・インターナショナル日本や、「死刑廃止を推進する議員連盟」など人権団体が同日、相次いで抗議を表明した[54][55]

日本弁護士連合会は宮崎誠会長名で「半年あまりで13人の大量の死刑執行が行われた。政府に対し、死刑制度の存廃を含む抜本的な検討と見直しを行うまでの一定期間、執行を停止するよう重ねて強く要請する」との声明を出した[56]。宮﨑の国選弁護人を務めた田鎖麻衣子弁護士は同日、「数か月前から再審請求の準備を進めていた。こうした事情を知りながら、死刑を執行したことに強く抗議する」との声明を発表した[57]。5月末には鳩山邦夫法相に死刑を執行しないよう文書にて要請していたという[57]

犠牲者[編集]

  • 1988年8月、埼玉県 入間市に住む当時4歳の幼女(第1の事件)
  • 1988年10月、埼玉県 飯能市に住む当時小学1年生(7歳)の女子児童(第2の事件)
  • 1988年12月、埼玉県 川越市に住む当時4歳の幼女(第3の事件)
  • 1989年6月、東京都 江東区に住む当時5歳の幼女(第4の事件)

冤罪説[編集]

この事件については冤罪説を唱える者が集まり「M君裁判を考える会」という市民団体を組織した。代表者の木下信男応用数学者、明治大学名誉教授)は1994年、「明治大学教養論集」に「裁判と論理学─幼女連続誘拐殺人事件に見る冤罪の軌跡」と題する論文を載せ、冤罪論を説いた。

また、「M君裁判を考える会」会員である小笠原和彦は冤罪説の立場から『宮崎勤事件 夢の中:彼はどこへいくのか』(現代人文社、1997年)を書いている。

著書[編集]

雑誌『』編集部との往復書簡を掲載したものが出版されている。

  • 『夢のなか - 連続幼女殺害事件被告の告白』 創出版、1998年12月。ISBN 9784924718302
  • 『夢のなか、いまも - 連続幼女殺害事件元被告の告白』 創出版、2006年2月。ISBN 9784924718722

学歴[編集]

演じた俳優[編集]

映画[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 実質的には解雇される。
  2. ^ 今田勇子とは、「『勇子・今田』=“Yuuko Imada”→“Yuuka Imada”=『誘拐魔だ』のアナグラム」という説や、「今だから言う」などという説が、当時の犯罪分析専門家などのコメントとして報道された。
  3. ^ 附属池田小事件の犯人である宅間守は、死刑確定から1年で執行されている。宮崎と同様、遺族への謝罪は一切ないまま執行された。
  4. ^ 劇中では宮崎をモデルとした人物が登場するが、フィクション作品であるため、名前の表記は「宮島ツトム」と変更されている。
  5. ^ 劇中では名前の表記は「宮島ツトム」に変更されている。
  6. ^ 劇中では同事件以外にも、オウム真理教による一連の事件や和歌山毒物カレー事件に関連する人物などもモデルとなって登場する。

出典[編集]

  1. ^ 一橋(2003)、pp.61-62
  2. ^ 一橋(2003)、p.164
  3. ^ 一橋(2003)、p.166
  4. ^ a b 一橋(2003)、p.62
  5. ^ 一橋(2003)、pp.130-131
  6. ^ 肩・肘の外傷と疾患 先天性橈尺骨癒合症
  7. ^ 一橋(2003)、pp.64, 87-88
  8. ^ 一橋(2003)、pp.66-68
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  10. ^ a b 一橋(2003)、p.76
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  15. ^ 一橋(2003)、pp.100-101
  16. ^ 一橋(2003)、pp.109-110
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  20. ^ 一橋(2003)、p.113
  21. ^ 一橋(2003)、pp.119,340
  22. ^ 一橋(2003)、pp.345-346
  23. ^ 一橋(2003)、p.331
  24. ^ 一橋(2003)、p.175
  25. ^ 一橋(2003)、p.9
  26. ^ 一橋(2003)、p.348
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参考文献[編集]

  • 鈴木伸元『加害者家族』幻冬舎新書、2010年11月27日。ISBN 978-4-344-98194-2
  • 一橋文哉『宮﨑勤事件—塗り潰されたシナリオ—』新潮文庫、2003年9月1日。ISBN 978-4-10-142624-2

関連項目[編集]