日本における死刑囚

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日本における死刑囚では、日本における死刑囚に関し記述する。

日本の死刑囚の処遇[編集]

日本の死刑制度の概要については、日本における死刑も参照のこと。

死刑執行が猶予される場合[編集]

闘病中や精神障害、妊娠中など刑の執行を停止しなければならない場合や、非常上告の有無、再審請求中、恩赦に相当するかどうかの件は慎重に確認されなければならないとされる。そのうち妊娠中を理由に死刑執行が猶予された者は現行法上存在しない。これは被告人が妊娠している場合には裁判手続きが停止になるためである[1]。なお1872年に処刑された夜嵐おきぬは、江戸時代の法であったが、出産まで執行が猶予されている。そのため、死刑判決確定から20年以上経過して執行されていない場合には、これらの条件のうちいくつかが該当しているといえる。また組織犯罪の死刑囚では共犯が逃亡していたり公判が終了していないため、死刑執行が行われていない例がある(例として連合赤軍事件の死刑囚や三菱重工爆破事件の死刑囚など)。

また財田川事件(後に再審無罪)の元死刑囚のように故意もしくは過失で裁判記録の一部が破棄されたために上申書作成が不可能になり死刑執行が出来なかったケースや、樺太で戦中発生した樺太・西柵丹強盗殺人事件の死刑囚が同様に、ソ連軍の侵攻で裁判記録を運び出せず消滅したために、個別恩赦で無期懲役に減刑されたケース[2]がある。

死刑囚の扱い[編集]

死刑の判決を受けた者の刑は、死刑そのものであることから、死刑執行に至るまでの期間の身柄拘束は刑の執行ではないとして、執行までの間の身柄は、通常、刑務所ではなく拘置所に置かれる。

マスコミでは、死刑確定者を「死刑囚」と呼んでいるが、既に執行された場合や、獄中で死亡した場合は「元死刑囚」と呼ぶ。再審によって無罪が確定した場合、新証拠等によって無罪の可能性が高くなり釈放された場合は敬称に戻している。

戦後、恩赦による減刑は政令恩赦は15名、個別恩赦は11名いる。政令恩赦はサンフランシスコ平和条約締結を機に行われ、個別恩赦は諸般の事情を考慮して行われたが、1975年に福岡事件の殺人の実行者に対する事例を最後に行われていない。そのため、日本において現在では死刑囚がどんなに改悛したとしても恩赦減刑される道は事実上閉ざされている。そのほか、再審で無罪になった元死刑囚は4名いたが、いずれも1980年代の事例である。また死刑が執行されず獄死したものも少なくない。1946年から2007年3月までの死刑確定者は自殺・獄死・恩赦減刑を除くと728人であった。この時点までに死刑執行者は627人、この時点での未執行者は101人であった。なお戦後女性死刑囚は12人(恩赦減刑1人、執行3人、獄死1人)である。そのため、日本において死刑が適用される凶悪犯は圧倒的多数は男性であるといえる。

2015年時点での、日本における死刑確定囚は127名(うち女性6名)であり、確定後の拘置期間は2005年9月時点[3](この時点での確定者は68名)で、平均して8年3ヶ月である。

死刑囚の処遇[編集]

日本における死刑囚の処遇は、他の懲役刑とそれと大きく異なる。まず自らの死をもって罪を償うのが死刑であるため、国家の収入の一部となる刑務作業を科されない為、「死」の直前まで原則として拘置所に収監されることになる。死刑囚の中には被害者への償いのために軽作業を行ったり、書籍の点字翻訳のボランティアをしていた[4]ものもいる。

また、たとえば東京拘置所には特別に死刑囚房といった設備がないため、死刑囚と同じフロアに刑事被告人が収監されている場合[5]があるという。実際に元外交官で文筆家の佐藤優は、東京拘置所に収監中、両隣に死刑囚袴田事件袴田巌元死刑囚(現在釈放中)と連合赤軍事件坂口弘死刑囚がいたと証言[6]している。また、死刑囚の処遇には次のようなもの[7]があるという。おもに自らの罪を悔い改めさせる事を目的としている。

  • 請願作業 - 本人が希望する場合、軽作業(内職等)を7時間程度行わす事ができ、それによって収入を得ることもできる
  • 教誨 - 死刑囚に単独の宗教教誨を受けさせる
  • 礼拝用具等の使用 - 宗教的用具を所持使用させる
  • 教科指導 - 俳句や書道などを学習させる
  • 情操教育物の使用 - 書道の道具などを所持使用させる
  • ビデオ視聴 - 映画等のビデオ鑑賞を独房内で行う

死刑囚の移送[編集]

死刑判決が確定した死刑囚を移送することは、刑事施設の側は保安上の理由等から回避したい事態と思われる。近年、死刑囚を移送する際の事故は、少なくとも報道されていない。(しかし、懲役20年の判決が確定した受刑者については、2013年に移送中に逃走を試みた事件があった[8]

死刑囚の移送は以下のような場合に行われる。

刑場のある刑事施設への移送[編集]

刑場のある刑事施設は、現在、全国で7箇所(札幌拘置支所(執行は札幌刑務所で行う)、仙台拘置支所(執行は宮城刑務所で行う)、東京拘置所名古屋拘置所大阪拘置所広島拘置所福岡拘置所)あり、多くの死刑囚は未決のうちから刑場のある上記の施設のいずれかに収容されて死刑判決が確定することになる。それは、地方裁判所で一審判決を受けた後も身柄の拘束が続く場合、原則的に高等裁判所がある場所の拘置所・拘置支所に移送されるためである。(例 ファミレス2人射殺事件の元死刑囚。千葉から東京へ移送ののち、2013年4月26日に東京拘置所で死刑執行)

高等裁判所がある場所の拘置所・拘置支所は全国で8箇所あるが、高松矯正管区以外の拘置所には刑場がある。もちろん、一審段階から刑場のある拘置所・拘置支所に収容されている者は、死刑判決が確定しても原則として移動することはない。(例:名古屋市中区栄スナックバー経営者殺害事件の元死刑囚。名古屋から移動せず、2013年2月21日名古屋拘置所で死刑執行)

刑場のない刑事施設で死刑判決が確定するのは、

などの場合である。

また、1945-1963年の間は、東京に刑場がなく、死刑執行のために宮城刑務所に死刑囚を送っていた。これは「宮城送り」と呼ばれていた。[9]

共犯死刑囚の分散[編集]

刑場のある施設であっても、1箇所に3人以上の共犯死刑囚が収容されている場合、1つの施設あたり2人以下になるよう分散が図られる。

例えば、警察庁広域重要指定118号事件の3死刑囚はもともと3人とも仙台拘置所に収容されていたが、うち1人は東京拘置所へ移送された。(三人とも執行はされず、病死)

また、大牟田4人殺害事件の4死刑囚は、死刑確定時には4人とも福岡拘置所に収容されていたが、死刑囚のうち1人は広島拘置所、もう1人は大阪拘置所に移送されている。

この他、大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の3死刑囚、マニラ連続保険金殺人事件の3死刑囚(うち一人は最近病死)も分散されている。

一方で、東京拘置所に収容中の架空請求詐欺仲間割れ殺人事件の死刑囚3人やオウム真理教事件の死刑囚13人は分散されていない。オウム真理教事件の13人の死刑囚については、2012年の春に刑場のある7施設への分散の予定があったが、2011年末に逃亡共犯者が出頭したために移送が立ち消えになった旨の報道があった[10]

なお、3人以上の共犯死刑囚を1箇所の拘置所に収容しない理由は、共犯関係にある死刑囚は同日に死刑執行されるのが原則だからである。同日に同じ刑場で3人以上の死刑を執行するのは困難とされる[11]

もっとも、1984年以降で1つの拘置所で同日に3人の死刑を執行した例も1度だけ存在する[12]

死刑囚の出廷[編集]

これは死刑囚本人が被告として出廷する場合と、死刑囚が証人として出廷する場合がある。

前者としては、宇都宮監禁殺人事件の死刑囚が、収容されていた東京拘置所から水戸へ移送され、水戸地裁で判決を受けたのち、再び東京拘置所に移送された例がある[13]

後者としては、オウム真理教の逃亡犯3人の裁判員裁判に、2013年から2015年にかけて、井上嘉浩中川智正新實智光林泰男廣瀬健一の5名が出廷した例がある。この出廷に関しては、検察側は死刑囚の心情の安定の問題、死刑囚に危害が加えられる可能性など、移送に伴う混乱は必至であるとし、「裁判所に呼ぶのはリスクしかない」と反対した[14]。これは、死刑囚13名を全国7箇所の拘置所・拘置支所へ分散しようと計画していたこととは大きな矛盾であった。一方で、拘置所で行なった死刑囚の出廷の予行演習の情報は外部へ漏れ、テレビで放映された。実際の死刑囚の出廷は厳戒態勢のもと行われ、事なきを得た。

死刑囚の医療機関への受診[編集]

死刑囚が病気に罹患し、その刑事施設で対応出来なければ、医療施設の整った他の刑事施設や外部の医療機関に受診させるため移送することがある。場合によっては入院もあり、そこで死亡する場合もある。

医療刑務所で死亡した例としては、高知連続保険金殺人事件の女性死刑囚(大阪医療刑務所)、平沢貞通元死刑囚(八王子医療刑務所)、マニラ保険金殺人事件の元死刑囚(八王子医療刑務所)[15]

外部の医療機関で死亡した例としては、高岡暴力団組長夫婦射殺事件の元死刑囚(名古屋の病院)、警察庁広域重要指定118号事件の元死刑囚(仙台市内の病院)。

外部の医療機関を受診させなかったために死刑囚で失明したとして民事訴訟となり、国側が死刑囚に対して和解金を支払った事例もある[16]

日本における死刑囚の確定と執行の推移[編集]

明治時代[編集]

執行数 備考
旧刑法施行以前
1869年(明治2年) 480以上 江戸時代の法に基づく裁き
1870年(明治3年) 1080以上 暫定刑法である新律綱領の制定。斬首刑が主に執行されていた。
1871年(明治4年) 1246以上 1871年までの数値は、戊辰戦争による刑死は含まれない。
1872年(明治5年) 1128
1873年(明治6年) 970 欧米の近代刑法の影響を受けた改定律例の制定
1874年(明治7年) 750 一般刑法犯の死刑執行方法が絞首刑に限定された。
1875年(明治8年) 451
1876年(明治9年) 391
1877年(明治10年) 160
1878年(明治11年) 175
1879年(明治12年) 154
1880年(明治13年) 125 旧刑法(明治13年太政官布告第36号)が制定される。
1881年(明治14年) 96
旧刑法施行下
1882年(明治15年) 51 1月1日に新律綱領・改定律例に代わって旧刑法が施行される。
1883年(明治16年) 61
1884年(明治17年) 52
1885年(明治18年) 130
1886年(明治19年) 131
1887年(明治20年) 97
1888年(明治21年) 60
1889年(明治22年) 49
1890年(明治23年) 39
1891年(明治24年) 66
1892年(明治25年) 51
1893年(明治26年) 46
1894年(明治27年) 52
1895年(明治28年) 75
1896年(明治29年) 72
1897年(明治30年) 21
1898年(明治31年) 48
1899年(明治32年) 39
1900年(明治33年) 34
1901年(明治34年) 29
1902年(明治35年) 28
1903年(明治36年) 38
1904年(明治37年) 45
1905年(明治38年) 39
1906年(明治39年) 19
1907年(明治40年) 12
現行刑法施行下
1908年(明治41年) 52 現行刑法が制定。刑事事件に対する刑罰が現在の法体系となる。
1909年(明治42年) 17
1910年(明治43年) 39
1911年(明治44年) 59 幸徳事件で、幸徳秋水ら12名に死刑執行される。

大正時代[編集]

執行数 備考
大正期
1912年(大正元年) 16
1913年(大正2年) 59
1914年(大正3年) 5 大正天皇即位に伴う恩赦のため大量減刑。大正時代最少執行数
1915年(大正4年) 94 大正時代最多の死刑執行数
1916年(大正5年) 56
1917年(大正6年) 53
1918年(大正7年) 51
1919年(大正8年) 43
1920年(大正9年) 39
1921年(大正10年) 31
1922年(大正11年) 32
1923年(大正12年) 32
1924年(大正13年) 13 虎ノ門事件難波大助らに死刑執行
1925年(大正14年) 19
1926年(大正15年) 29

昭和時代前期[編集]

確定数 備考
昭和前期
1927年(昭和2年) 12
1928年(昭和3年) 21
1929年(昭和4年) 13
1930年(昭和5年) 15
1931年(昭和6年) 19
1932年(昭和7年) 22
1933年(昭和8年) 28
1934年(昭和9年) 35
1935年(昭和10年) 14
1936年(昭和11年) 11
1937年(昭和12年) 23
1938年(昭和13年) 15
1939年(昭和14年) 14
1940年(昭和15年) 20
1941年(昭和16年) 22
1942年(昭和17年) 11
1943年(昭和18年) 15? 戦時法により刑事犯に対する裁判は三審制から二審制になった[17]
1944年(昭和19年) 25[18]
1945年(昭和20年) 9? 長崎市への原爆投下により死刑囚4人[19]が爆死。
1946年(昭和21年) 11
1947年(昭和22年) 12 刑法から天皇・皇族に対する大逆罪(未遂も死刑)が削除される。
1948年(昭和23年) 33 1審における死刑判決数が戦後最多の116人であった。死刑の存置を合憲とする死刑制度合憲判決事件判決が出された。

昭和時代中後期・平成時代[編集]

  • 収容数は、年末の確定死刑囚の収容者数である。
現行刑事訴訟法施行以後[20]

確定数
執行数
収容数
備考
1949年(昭和24年) 79 33 81 死刑判決確定数が戦後最多であった
1950年(昭和25年) 25 31 73
1951年(昭和26年) 32 24 81
1952年(昭和27年) 41 18 92 サンフランシスコ平和条約締結による政令恩赦で12人が無期懲役に減刑
1953年(昭和28年) 25 24 93
1954年(昭和29年) 21 30 80
1955年(昭和30年) 14 32 62
1956年(昭和31年) 24 11 75
1957年(昭和32年) 27 39 62
1958年(昭和33年) 21 7 76
1959年(昭和34年) 12 30 57
1960年(昭和35年) 33 39 51
1961年(昭和36年) 24 6 69
1962年(昭和37年) 13 26 56
1963年(昭和38年) 17 12 61
1964年(昭和39年) 9 0 70 この年は近世日本で初めて死刑執行が行われなかった。(賀屋興宣法相が元A級戦犯で実際に死刑執行を目撃した為)
1965年(昭和40年) 7 4 72
1966年(昭和41年) 13 4 81
1967年(昭和42年) 14 23 71 田中伊三次法相が新聞記者の前で一度に署名
1968年(昭和43年) 11 0 82 赤間文三法相が署名を拒否したため執行なし
1969年(昭和44年) 10 18 71
1970年(昭和45年) 14 26 58
1971年(昭和46年) 7 17 48
1972年(昭和47年) 7 7 47
1973年(昭和48年) 5 3 49
1974年(昭和49年) 2 4 46 獄死1人
1975年(昭和50年) 3 17 29 福岡事件の死刑囚2人のうち、1人に恩赦無期減刑、1人に死刑執行。他に自殺2人
1976年(昭和51年) 1 12 18
1977年(昭和52年) 3 4 16 自殺1人
1978年(昭和53年) 4 3 17
1979年(昭和54年) 4 1 20
1980年(昭和55年) 7 1 26
1981年(昭和56年) 3 1 28
1982年(昭和57年) 1 1 28
1983年(昭和58年) 1 1 27 再審無罪1人
1984年(昭和59年) 3 1 27 再審無罪2人
1985年(昭和60年) 2 3 26
1986年(昭和61年) 0 2 24
1987年(昭和62年) 8 2 29 5月に平沢貞通が病死
1988年(昭和63年) 11 2 38
1989年(平成元年) 5 1 40 再審無罪1名、獄死1名
1990年(平成2年) 6 0 46 この後、3年に及ぶ死刑執行モラトリアム
1991年(平成3年) 5 0 51
1992年(平成4年) 5 0 56
1993年(平成5年) 7 7 56 法務大臣後藤田正晴により死刑執行が再開される
1994年(平成6年) 3 2 57
1995年(平成7年) 3 6 54
1996年(平成8年) 3 6 52
1997年(平成9年) 4 4 51 刑法が片仮名漢字の歴史的仮名遣表記の文語体から、現代仮名遣い口語体に改訂される(刑法の抜本的な改訂ではない)
1998年(平成10年) 7 6 52
1999年(平成11年) 4 5 50 自殺1名
2000年(平成12年) 6 3 52
2001年(平成13年) 5 2 56
2002年(平成14年) 3 2 57
2003年(平成15年) 2 1 56 12月18日に政府が「犯罪に強い社会の実現のための行動計画」を策定し、刑罰の厳罰化を推進することになった。獄死2名
2004年(平成16年) 15 2 68 獄死1名
2005年(平成17年) 11 1 78
2006年(平成18年) 20 4 94
2007年(平成19年) 23 9 107 第二次世界大戦以後、未執行死刑囚が最多となった。獄死1名
2008年(平成20年) 10 15 100 2月と12月に死刑囚各1名が病死
2009年(平成21年) 18 7 107 1月、5月、9月、10月に死刑囚各1名が病死
2010年(平成22年) 8 2 111 1月、4月に死刑囚各1名が病死
2011年(平成23年) 24 0 132 平成期最多の死刑確定数。また19年ぶりに執行無。1月に死刑囚2名、2月に永田洋子が病死
2012年(平成24年) 10 7 135
2013年(平成25年) 6 8 130 6月、8月、11月に死刑囚各1名が病死
2014年(平成26年) 6 3 128 4月、5月、6月に死刑囚各1名、7月に死刑囚2名が病死
2015年(平成27年) 3 3 127 10月に奥西勝が病死
2016年(平成28年) 6 3 126 1月、2月に死刑囚各1名が病死

日本の死刑囚の事例[編集]

生き返った死刑囚
1872年石鉄県(現在の愛媛県)の久万山騒動に参加し、役所に放火した田中藤作(当時31歳)が絞首刑執行後に蘇生した事例があった。彼は「既に死刑が執行されており、再度執行する法的根拠がない」として、放免と原籍編入を指示された。原因は当時の処刑器具「絞柱」に構造欠陥があったため確実に絶命させられなかったためといわれている。ほかにも同時期に2人がおなじように蘇生したとされるが、こちらについての伝承は明らかではない。
執行されなかった死刑囚
1945年8月9日にアメリカ合衆国が行った長崎市への原子爆弾投下では、爆心地近くに戦時中の規定で九州地区唯一の処刑場に指定されていた長崎刑務所浦上刑務支所があったため、死刑囚2名(4名とする書籍もある)も含む刑務所にいた全員が一瞬にして死亡した。
戦後在日米軍によって処刑された少年死刑囚
上坂冬子著『巣鴨プリズン13号鉄扉』によれば、ほかの戦争犯罪人と同じように当時18歳の少年が死刑になった事実があるという。それによれば1945年12月19日に札幌にあった進駐軍宿舎に盗みに入った少年が米兵を殺害したために、アメリカ軍の軍事法廷でわずか2日の審理で1946年1月23日に死刑が確定、5月17日に巣鴨プリズンで絞首刑になった。
過去に長期収監されていた死刑囚
平沢貞通死刑囚は、1955年4月7日に最高裁で上告棄で死刑確定後、歴代法務大臣が死刑執行命令書へ署名しなかったために執行されないまま、1987年5月10日に獄中で95歳で病死した。確定死刑囚の確定後収監期間32年0ヶ月(逮捕後通算38年9ヶ月)は当時の世界最長であり、ギネス世界記録にも世界記録として認定された。ただしこの記録はすでにマルヨ無線事件の死刑囚が死刑確定後収監期間43年1ヶ月(2013年12月末時点)と超えている。なお平沢の確定後収監期間を超えているケースは、41年5ヶ月(2013年12月末時点)である名張毒ぶどう酒事件の死刑囚がいる。
福岡事件のうち、実行犯とされた死刑囚は1947年に逮捕され死刑確定後の1975年に恩赦により無期懲役に減刑された。この時点で28年収監されていたが、仮出所したのが1989年であり、釈放された元死刑囚の逮捕後収監期間としては最長の42年7ヶ月の記録を持っていた。なお逮捕後収監期間でもっとも長いのは、袴田事件で確定した死刑囚の47年4ヶ月(2013年12月末時点)である。
現在、長期収監されている死刑囚
冤罪と主張される死刑囚の執行は避けられる傾向にある。これは執行された後で仮に無罪の証拠が発見された場合、もはや回復不能であることが理由である。実際に名張毒ぶどう酒事件では1972年に死刑確定後、冤罪の可能性が指摘されていることから執行は行われていない。同様に川端町事件の死刑囚も1970年に確定しているが執行されていない。
1974年に発生したピアノ騒音殺人事件の死刑囚は1977年に死刑判決が確定したが、2013年12月末現在死刑が執行されていない。これは犯行動機(近隣騒音)に同情した全国の騒音被害者たちが助命嘆願運動を繰り広げたほか、控訴審で行われた精神鑑定で責任能力なしの判断が出され、無期懲役に減軽される可能性があったにもかかわらず、死刑囚が「刑務所内の騒音に耐えられず、死にたい」との理由で控訴を取り下げた事情がある。現在彼は精神異常が亢進しているといわれており、今後も死刑執行が行われない可能性があり、冤罪を指摘されず再審請求を提出していないにもかかわらず、前述の平沢の確定死刑囚としての年数を更新した。
確定後、最も執行までの収監期間が長かった死刑囚
1975年に発生した秋山兄弟事件は、兄弟2人が犯した事件であったが、裁判では相手が主犯であると擦り合った。裁判所は弟を主犯と認定し死刑に、兄を無期懲役とした。死刑が確定したのは1987年であったが、執行されたのは2006年であった。そのため、判決確定後19年5ヶ月で死刑が執行され、その待機期間としては戦後最長であった。また執行時の年齢が77歳であったが、記録が残る中では日本国憲法下で最高齢の記録である。
日本の女性死刑囚
現代の日本における死刑囚の大半は男性である。そのため女性死刑囚は少なく、第二次世界大戦後に死刑判決が確定した女性死刑囚は16人である。戦後初めて女性に対し死刑判決が確定したのは、1949年に発生した菅野村強盗殺人・放火事件の女性に対するものであったが、彼女は精神異常と結核のため恩赦されている。戦後初めて死刑が執行されたのは1960年に発生したホテル日本閣殺人事件の主犯(確定は3番目)に対するもので、1970年に執行された。また同じ年には女性連続毒殺魔事件で確定した59歳の女性(確定は2番目)も執行されている。また1997年に夕張保険金殺人事件の主犯の妻が執行されている。そのため11人のうち3人が執行され、1人が恩赦、2007年に1人が獄死している。2017年現在7人が収監中であるが、そのうち2004年11月に確定した女性は当時77歳であり、高齢による衰弱が激しく死刑が執行される可能性は低いといわれていたが、2011年1月に病死した、その後同年10月に大牟田4人殺害事件の犯人の死刑が確定し7人となった。しかし2012年に福島悪魔払い殺人事件の主犯の死刑が執行され女性の死刑執行は4番目になった。しかし2016年久留米看護師連続保険金殺人事件の主犯の死刑が執行され女性の死刑執行は5番目になった。これにより2017年現在死刑が未執行の女性死刑囚は再び7人に戻った。

備考[編集]

死刑執行までの最短記録[編集]

現在の刑事訴訟法が適用されて死刑が確定したのが1950年6月30日(上告棄却)であるが、執行されたのは1951年1月16日であった[21]。その後前述のように死刑執行までの期間が長くなった。この刑事訴訟法の規定よりも短い期間、すなわち最も死刑確定から死刑執行までの期間が短かったのは4ヶ月という事例がある。

これは1953年3月に発生した栃木雑貨商一家殺害事件の死刑囚であるが、彼は最高裁への上告中の1955年5月11日に東京拘置所(旧)から脱獄し、11日後に実家近くで逮捕されるまで逃走していた。彼の脱獄の動機は母親に会いたいというものであったが、その望みだけは叶えられた。しかし、脱獄したのが原因であったかもしれないが法務省当局は「迅速な処刑」を行った。1955年6月28日に最高裁は上告を棄却し死刑が確定、同年11月21日には宮城刑務所へ押送(当時の東京拘置所には死刑執行設備がなかったための措置、通称:仙台送り)し、その翌日には死刑が執行された。

死刑囚の時効[編集]

2010年(平成22年)4月27日に公布・施行された改正刑法により、死刑確定者の時効は廃止されている。

刑法第32条に「時効は、刑の言渡しが確定した後、次の期間その執行を受けないことによって完成する」とあり、死刑については30年と規定されており、30年執行されなければ時効が成立するかのような誤解があるが、刑法第34条に「死刑、懲役、禁錮及び拘留の時効は、刑の言渡しを受けた者をその執行のために拘束することによって中断する」と時効が中断することが定められているため、拘置所等に身柄が拘束されている場合は刑が時効消滅しない。

帝銀事件の元死刑囚が死刑判決確定後30年経過した際に「時効の成立」を主張したが、身柄が拘束されて時効が中断していたために認められなかった。なお、拘置所から脱獄して30年以上、逃亡生活を送れば時効が成立するものとされていた。ただし、死刑囚の脱獄は実際に何件か起きているが、30年後の時効完成まで確実に逃亡出来た者は現在まで1人もいない[22]

脚注[編集]

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  1. ^ 読売新聞1913年12月26日の紙面によれば、傷害致死で死刑を宣告され控訴中の女性(当時21歳)が妊娠していることが発覚し、出産するまで公判中止になった記事がある。
  2. ^ 村野薫「増補・改訂版 戦後死刑囚列伝」宝島社 2002年 27-33頁
  3. ^ 別冊宝島『死刑囚最後の1時間』より
  4. ^ 佐久間哲、「死刑に処す-現代死刑囚ファイル-」、自由国民社、2005年、102頁
  5. ^ 坂本敏夫『東京拘置所のすべて』日本文芸社
  6. ^ 別冊宝島「死刑囚最後の1時間」宝島社 2007年
  7. ^ 坂本敏夫『東京拘置所のすべて』日本文芸社
  8. ^ 『逃走容疑で受刑者再逮捕=「20年も入りたくなかった」―山形県警』時事通信2013年4月17日21時12分配信
  9. ^ 村野薫『日本の死刑』 柘植書房新社、1990年
  10. ^ 「オウム死刑囚13人、分散収容を検討、法務省、昨年末に。」『日本経済新聞』2012年10月07日付朝刊
  11. ^ 『死刑廃止国際条約の批准を求める フォーラム90』 vol.147 p8
  12. ^ 日本における被死刑執行者の一覧 1996年12月20日
  13. ^ 「新潮45」編集部『凶悪―ある死刑囚の告発 (新潮文庫)』新潮社、2009年
  14. ^ 「オウム3死刑囚の証人採用 心情への影響、警備の混乱…懸念多く」 『産経新聞』 2013年3月30日
  15. ^ 「死刑囚が刑務所内で病死 マニラ保険金殺人」日本経済新聞』 2016年1月23日
  16. ^ 「死刑囚が収容中に糖尿病で失明 拘置所側が適切な処置を怠ったとして提訴 400万の解決金で国と和解」 『読売新聞』 2009年5月28日
  17. ^ 村野薫「増補・改訂版 戦後死刑囚列伝」宝島社 2002年 11頁
  18. ^ 村野薫「増補・改訂版 戦後死刑囚列伝」宝島社 2002年 11頁:「昭和十九年中の確定者は二十五人。そして執行人員は二十九人。」
  19. ^ 近藤昭二の『誰も知らない「死刑」の裏側』二見書房 2008年
  20. ^ 別冊宝島『死刑囚最後の1時間』の表より一部引用(2007年以降は新聞報道から加算)
  21. ^ 佐久間哲、「死刑に処す-現代死刑囚ファイル-」、自由国民社、2005年 21頁
  22. ^ 明治時代にあった若干の例外があり、たとえば剣術家連続針金強盗団事件の一味4人が護送中に脱走する広島護送死刑囚脱獄事件を引き起こしているが、3人は殺害もしくは再拘束されたが、明石章吉だけがそのまま消息不明になっており、時効が成立した可能性もあるが、行方知れずであり時効成立まで生存していたかは不明である。

参考文献[編集]