永山則夫連続射殺事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
永山則夫事件
場所 東京都港区
京都府京都市
北海道函館市
愛知県名古屋市
日付 1968年 - 1969年
概要 連続殺人事件
武器 拳銃
死亡者 4名(27歳男性、69歳男性、31歳男性、22歳男性)
犯人 永山則夫(19歳)
対処 警視庁逮捕
最高裁判所判例
事件名 窃盗、殺人、強盗殺人、同未遂、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反被告事件
事件番号 昭和56年(あ)第1505号
1983年(昭和58年)7月8日
判例集 刑集37巻6号609頁
裁判要旨
  1. 死刑制度を存置する現行法制の下では、犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大であつて、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許されるものといわなければならない。
  2. 犯行時少年であった者でも、18歳以上であり、犯行の態様も残虐であることなどから、無期懲役とした原判決を破棄した事例。
第二小法廷
裁判長 大橋進
陪席裁判官 木下忠良 塩野宜慶 宮崎梧一 牧圭次
意見
多数意見 全員一致
意見 なし
反対意見 なし
参照法条
刑法9条、199条、240条
テンプレートを表示

永山則夫連続射殺事件(ながやまのりおれんぞくしゃさつじけん)とは、1968年10月から11月にかけて、東京都区部京都市函館市名古屋市において発生した、拳銃による連続殺人事件である。警察庁による名称は「警察庁広域重要指定108号事件」である。

事件の概要[編集]

警察は、一連の事件を警察庁広域重要指定108号事件命名している。

横須賀アメリカ海軍基地から盗んだ拳銃[1]により、社会への復讐のために短期間のうちに4人を射殺した。なお、年齢は当時のものである。

第1の殺人事件
1968年10月11日東京東京プリンスホテル綜合警備保障(現愛称:ALSOK)に勤務する27歳のガードマンに対し2発撃って射殺した。
第2の殺人事件
1968年10月14日京都八坂神社境内で69歳の守衛員に対し6発撃って射殺した。
第3の殺人事件
1968年10月26日函館で31歳のタクシー運転手に対し2発撃って射殺した。
第4の殺人事件
1968年11月5日名古屋で22歳のタクシー運転手に対し4発撃って射殺した。

身柄拘束[編集]

犯行の1か月後、拳銃を横浜の寺「大聖院」の境内に埋め、中野区都立家政駅近くにアパートを借り、歌舞伎町の大衆マンモスバー「スカイコンパ」とジャズ喫茶「ビレッジバンガード」で働きながら潜伏していた。

1969年4月7日に一連の犯行に使用した拳銃を持って千駄ヶ谷の専門学校「一橋スクール・オブ・ビズネス」に金銭目的で侵入した所を、機械警備の警報で駆けつけた日本警備保障(現・セコム)警備隊員に発見されるが、発砲して隊員が怯んだ隙に逃走。しかし、警視庁緊急配備を発令。数時間後、警戒中の代々木警察署のパトカーに発見され逮捕された[2]

裁判[編集]

永山則夫は、犯行当時19歳の少年だったが、犯行累積の抑止と逮捕のために指名手配されたこともあり、当初から実名報道がなされる[3]

10年を費やした一審の審理では、1979年東京地方裁判所死刑判決を受けたが、東京高等裁判所での控訴審では、心境の変化(下記参照)家庭環境・生育状況が劣悪であった事、配偶者を得たことを酌量による減刑の理由として、犯行時未成年であったことからその更生を期して1981年無期懲役に減刑された。

しかし検察側は上告し、最高裁判所1983年に控訴審判決を破棄して事件を東京高裁に差し戻した。1987年の東京高裁(第二次)と1990年の最高裁(第二次)は「永山が極貧の家庭で出生・成育し、両親から育児を放棄され、両親の愛情を受けられず、自尊感情を形成できず、人生の希望を持てず、学校教育を受けず、識字能力を獲得できていなかったなどの、家庭環境の劣悪性は確かに同情・考慮に値するが、同じ条件下で育った他の兄たちは概ね普通の市民生活を送っており、また上京から3年以上社会生活を送った後に保護観察措置を自ら拒否して逃避した末に連続殺人の犯行を犯していることから、生育環境の劣悪性は4人連続殺人を犯した決定的な原因とは認定できない」と判断して、死刑判決が確定した。

獄中での心境の変化[編集]

一審頃まで[編集]

永山は生育時に両親から育児を放棄され(ネグレクト)、両親の愛情を受けられなかった。裁判が始まった当初は、逮捕時は自尊感情や人生に対する希望や他者を思いやる気持ちも持てず、犯行の動機を国家権力に対する挑戦と発言するなど、精神的に荒廃していた。

二審頃まで[編集]

その後、獄中結婚した妻や作家・井出孫六らの多くの人の働きかけと、裁判での審理の経験を通じて、自己が犯した罪と与えた被害の修復不可能性に関して、自己に対しても他者に対しても社会に対しても客観的に認識・考察する考え方が次第に深まった。その結果、反省・謝罪・贖罪の考えが深まり、最終的には真摯な反省・謝罪贖罪の境地に至った。また5人分の命(被害者と自分)を背負って贖罪に生きることが償いになるのではないかといったやり取りが残されている。二審のやり取りの中でもし社会復帰をしたらの問いに対し「テストで1番の子がビリの子を助けるような塾をやりたい」といった趣旨の発言をしている。

差し戻しから死刑確定頃[編集]

差し戻し審で無期懲役が難しくなると一転して1審のような国家権力に対する発言に変わったが関係者の話では1審のような迫力はなかった。また拘置所で面会に訪れた人に対して社会に出た時の話をしなくなった。弁護士に対して「生きる希望の無かった人に生きる希望を与えておきながら結局殺す。こういうやり方をするんですね」といった趣旨の発言をしたとされている。

死刑執行[編集]

永山則夫は、1997年8月1日東京拘置所において死刑が執行された。享年48。

死刑の執行の署名をした法務大臣松浦功。親族は遺骨の引取りを拒否し、国選弁護人遠藤誠が引き取った。遺骨は本人の遺志でオホーツク海散骨された[4]

精神鑑定[編集]

当時、精神犯罪医学者として嘱望されていた精神科医・石川義博による緻密なカウンセリングを長期にわたり八王子医療刑務所で受けており、PTSDに着目した日本初の鑑定書として一審から提出され続けたが、東京地裁は黙殺したものの控訴審の東京高裁では重視され無期刑への減刑判決となった。しかし上告審では再度採用されなかった。 石川は、死刑確定後、いっさいの鑑定依頼を断り、町医者として現在も医療に従事している。

獄中での文筆活動[編集]

書籍[編集]

永山は父親から育児を放棄され、貧しい中荒れた生活を送り学校教育を受けず、逮捕時は読み書きも困難な状態だった。しかし獄中での独学によって識字能力を獲得し、執筆活動を開始した。1971年に手記「無知の涙」をはじめ多くの文学作品を発表している。後にこれらは「日本」という書籍にまとめられる。

1983年には小説「木橋」で第19回新日本文学賞を受賞するなど創作活動を通して自己の行動を振り返るという、死刑囚としては稀有な存在であった。また、それらの印税を4人の被害者遺族へ支援者を通して渡している(受け取りを拒否した遺族もいる)。

手紙[編集]

永山は獄中からたくさんの手紙を書いている。内容は獄中結婚した妻や支援者とのやり取りから本の読者からの悩み相談まで多岐に渡る。また永山は返信する文面を写していたため遺品の中には受け取った手紙と返信した手紙が対になって保管されている。

永山基準[編集]

この事件以降殺人事件において死刑判決を宣告する際は、永山判決の傍論である死刑適用基準を判例と同等に参考にしている場合が多く、永山基準(Nagayama Criteria)と呼ばれその影響力も大きい。1983年に第1次上告審判決では基準として以下の9項目を提示、そのそれぞれを総合的に考察したとき、刑事責任が極めて重大で、罪と罰の均衡や犯罪予防の観点からもやむを得ない場合に許されるとした:

  1. 犯罪の性質
  2. 犯行の動機
  3. 犯行態様、特に殺害方法の執拗性、残虐性
  4. 結果の重大性、特に殺害された被害者の数
  5. 遺族の被害感情
  6. 社会的影響
  7. 犯人の年齢
  8. 前科
  9. 犯行後の情状

このように具体的に基準が示され、傍論の効果や是非について議論される時には、永山基準が参考にされることが多い。しかし光市母子殺人事件の最高裁の判断では、「特に酌量すべき事情がない限り死刑の選択をするほかない」とし、事件発生時に被告が少年であったとしても、特別な情状酌量の余地がない場合『原則・死刑適用、例外・死刑回避』という新たな判断の枠組みが示され、永山基準は変化を遂げつつある。

殺害された被害者の数[編集]

この判例以降、4人以上殺害した殺人犯に対しては、裁判所が被告人の犯行時の心神耗弱自首従犯未必の故意などを認定して無期懲役に減刑して判決をした事例(1980年新宿西口バス放火事件(6人殺害)や1981年深川通り魔殺人事件(4人殺害)、1982年西成区麻薬中毒者殺人事件(4人殺害)、1995年地下鉄サリン事件林郁夫2000年テレホンクラブ放火殺人事件(4人殺害)、2002年北九州監禁殺人事件(6人殺害、1人傷害致死)等の例)、2005年中津川一家6人殺傷事件(5人殺害)を除けば、裁判所は原則としては死刑判決を適用している。尚、1989年熊谷養鶏場宿舎放火殺人事件は、殺人の前科があったものの、共犯者が無期懲役が確定していたため、刑の均衡を失するとして、無期懲役が確定している。

また、1人だけを殺害した殺人犯に対しては身代金目的誘拐や強盗・強姦などの目的ではなく、殺人の前科がない場合は死刑判決を回避する傾向が長らく続いてきたが、近年は厳罰化の世論の影響で、身代金目的誘拐以外強盗・強姦などの目的がなく、かつ殺人の前科がなく被害者が1人であっても死刑判決が確定されるケースが見られるようになった(三島女子短大生焼殺事件奈良小1女児殺害事件闇サイト殺人事件横浜中華街料理店主射殺事件、岡山元同僚女性バラバラ殺人事件)。また、地下鉄サリン事件横山真人は自身が散布した車両では一人の死者も出さなかったが、サリン散布計画の内容全体を熟知し関与したことを裁判所は重視して、地下鉄サリン事件全体の関与者の一人として殺人罪が適用されて死刑が確定している。

なお、産経新聞は裁判員裁判での死刑判決が破棄され、無期懲役とされた判決が確定したケースが確定した[5]際に「裁判員制度は、国民の司法参加により、その日常感覚や常識を判決に反映させることを目的に導入された。過去の公式に当てはめて量刑を決めるなら、制度の趣旨は生かされない」「死刑は究極の刑罰であり、慎重な判断が求められるのは当然である。一方でこの判断は先例を重視しすぎていないか。先例が現状に即しているかについても、議論を尽くしてほしい」「『国民感覚や常識』と『先例の傾向』の間に距離があるなら、その理由、背景についての分析、議論を深めることも必要ではないか」と、ゆくゆくは「永山基準の見直し」の必要性についても言及している[6]。また、その際の最高裁の決定でも千葉勝美裁判長は補足意見で「判例の集積からうかがわれる検討結果を量刑を決める共通認識とし、それを出発点として評議を進めるべきだ」とする一方、「従前の判例を墨守するべきであるとはしていない」とも述べている[7]

事件をもとにした作品[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 永山は自殺願望があり、米軍基地に乗り込み暴れれば射殺されるだろうと思い忍び込んだところ、偶然に宿舎内に置いてあった婦人護身用の22口径の小型拳銃を入手したので、社会への復讐心から計画を変更したと供述している。
  2. ^ NHKプロジェクトX『勝負の警備システム 作動せよ』の中で(番組内では直接犯人の名には触れなかったが)、この様子の再現シーンが放送されている。
  3. ^ 1965年少年ライフル魔事件でも同様である。
  4. ^ 遠藤誠の談によると、遠藤を通じて花柳幻舟に身元引受人を要請したが、断られている。また、自分が死刑になれば「著作を通して自分を支持してくれている人達が一斉蜂起し、内乱になるぞ!」とも語ったという。
  5. ^ 松戸女子大生殺害放火事件長野市一家3人殺害事件の共犯の一人、南青山妻子殺人服役後男性殺害事件(殺人前科あり)。なお、これらの判決は全て東京高等裁判所にて村瀬均裁判長が関わっている。
  6. ^ 【主張】 死刑判決破棄 永山基準見直しも議論を(1/2ページ) - 産経新聞(2015.2.7 05:04。オリジナルからの2016年8月5日付のアーカイブ)
  7. ^ 【主張】 死刑判決破棄 永山基準見直しも議論を(2/2ページ) - 産経新聞(2015.2.7 05:04。オリジナルからの2016年8月5日付のアーカイブ)
  8. ^ びーとたけしの新宿を歩く東京紅團、2004年2月28日
  9. ^ [1]

参考文献[編集]

  • 永山則夫『捨て子ごっこ』河出書房新社
  • 永山則夫『人民をわすれたカナリアたち』河出書房新社
  • 永山則夫『無知の涙』河出書房新社
  • 永山則夫『なぜか、海』河出書房新社
  • 永山則夫『異水』河出書房新社
  • 永山則夫『華』I~IV、河出書房新社
  • 永山則夫『木橋』立風書房
  • 永山則夫『文章学ノート』朝日新聞社
  • 永山則夫『死刑確定直前獄中日記』河出書房新社
  • 永山則夫『永山則夫の獄中読書日記 死刑確定前後』朝日新聞社
  • 池上正樹『連続殺人事件』同朋舎出版
  • 佐木隆三『死刑囚 永山則夫』講談社
  • 見田宗介『まなざしの地獄――尽きなく生きることの社会学』河出書房新社

関連項目[編集]