牧圭次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

牧 圭次(まき けいじ、1919年11月25日 - 2012年2月26日)は、日本の裁判官最高裁判所判事宮城県出身。

概要[編集]

1941年(昭和16年)に東京帝国大学法学部を卒業[1]1942年(昭和17年)1月に司法官試補となるも、同年2月に現役兵として入隊[1]。復員後は裁判官生活に入り、東京地方裁判所函館地方裁判所などで裁判を経験後、最高裁人事局勤務、刑事局長、千葉地方裁判所所長、東京高等裁判所判事、最高裁事務総長などを歴任した[2]

東京地裁時代には東大安田講堂事件を担当した際には1969年(昭和44年)6月に騒ぐ被告たちを機動隊を入れて排除し、9人を5日間の監置処分にし、統一公判要求をする弁護側と3時間の論議を行い、8月には弁護団、被告たちに退廷命令を出し、1970年(昭和45年)5月には弁護士1人を15日間の監置処分にするなど果敢な法廷指揮をとった[1]1971年(昭和46年)3月19日飯田橋事件の東京地裁の判決公判ではプラカードを「用法上の凶器」と初めて認定した[1]

1977年(昭和52年)11月に最高裁事務総長に就任[1]。事務総長時代には岡原昌男最高裁長官が「弁護人抜き裁判法案は必要」と発言した際には事務総長として国会に呼ばれ「(最高裁長官の発言は)司法行政を総括する者として当然のこと」と答弁した[1]。その後、福岡高裁長官となった際に、安川輝夫事件を処理[1]。その後、名古屋高等裁判所長官に就任[1]

1982年(昭和57年)5月28日に最高裁判所判事に就任した[1]。牧の任命で、最高裁裁判官15人が全員大正生まれとなった[1]

1989年(平成元年)11月に定年退官。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j 野村二郎『最高裁全裁判官』三省堂、1986年、251 - 252頁
  2. ^ 野村二郎『日本の裁判史を読む事典』自由国民社、2004年、80頁