林泰男

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林泰男
誕生 (1957-12-15) 1957年12月15日(59歳)
東京都小平市
ホーリーネーム ヴァジラチッタ・イシディンナ
ステージ 正悟師
教団での役職 科学技術省次官
入信 1987年
関係した事件 松本サリン事件
地下鉄サリン事件
判決 死刑(上告棄却)

林 泰男(はやし やすお、1957年12月15日 - )は、元オウム真理教幹部。確定死刑囚東京都出身。ホーリーネームヴァジラチッタ・イシディンナ。教団内でのステージは師長だったが、地下鉄サリン事件3日前の尊師通達で正悟師に昇格した。省庁制が採用された後は、科学技術省次官の一人となる。地下鉄サリン事件で唯一サリンパックを3つ携帯し一番多くの犠牲者を出したため、マスコミに「殺人マシーン」のあだ名を付けられた[1]

同姓の林郁夫(同教団幹部)と縁戚関係は無い。現在の姓は小池[2]

来歴[編集]

国鉄職員の次男として生まれる。中学校3年生時に高校受験のため戸籍謄本を取り寄せた際、父親が朝鮮籍1959年(林が2歳の頃)に帰化していた事実を知り、自身も帰化した。それによって日本社会の朝鮮人を蔑視する風潮や偏見が自分の心にも存在していたことに対し苦悩する[3][4]。祖父は戦前日本に渡り、在郷軍人会の仕事に就いていたが、祖母とともに北朝鮮の秘密工作船支援の容疑で、日本の公安調査庁の重要監視対象者だった[5]。父は1950年から国鉄に勤め、1978年に病死後、軍功により勲七等青色桐葉章に叙された。伯父と叔父は北朝鮮に帰国

1974年1月、校則が厳しいことを知らず入学した國學院大學久我山高等学校を中退し、東京都立立川高等学校定時制に入学。高校在学中に電気工事士の資格を取得する。1983年工学院大学二部電気工学科卒業後、「フツウ」の生き方をしたくないと考え就職せずに4年間世界各地を旅行する[6]。南北アメリカ大陸では貧困などの惨状を目撃し、アメリカ合衆国も人種問題を抱えていることに失望するが、インドには好感をもったという[7]。また、南米インディオの文化にも感銘を受け、メキシコでは大麻を経験する[8]

そこでヨーガチベット仏教への興味から、麻原彰晃の著書『生死を超える』を読んだことで1987年5月に「オウム神仙の会」に入信[9]。1988年12月6日に出家

オウム入信[編集]

教団内では麻原などの運転手を務めたほか、主に科学部門に属し、教団施設の電気工事や、創価学会の信者・ロシア政府関係者の盗聴などを行い[10] 、逃走した信徒の連れ戻しも担当した。麻原の四女の著書によれば[11]、「真面目な性格で、教団内の子供の世話を進んで行っていた」という。一時期、麻原に外部のスパイだと疑われ、落ち込んでいた時期があった。

1989年坂本堤弁護士一家殺害事件では、犯行現場には赴かなかったが、犯行に使用された2台の車の双方に交信用の無線機を取り付ける役割を担った。

サリン事件[編集]

1995年3月の地下鉄サリン事件ではサリン散布実行犯となった。サリンについてはサリンプラントの電気工事をしたり説法で何度も聞かされたこともあるので有毒性は知っており、嫌だと思ったが断ったらリンチされると思い承諾した。村井秀夫は一応「嫌なら断ってもいい」と言ったが、「断ることは当時の自分たちにには無理であることを村井さんは分かっているのに、そう言うのは残酷だと思った」と証言している[12]

散布した車両では最も多い8人の死者を出した。これは小伝馬町駅構内での死者が大半を占めていたことから異臭のする不審物(サリンのパックとのちに判明)を発見した乗客が車外へ蹴り出したことが原因とも考えられる(警察無線記録にも記録されている)。

林は自ら志願して他の実行犯よりも多い3袋を持ち、実行したと報道され、オウムへの忠誠心が厚くダーティーワークを厭わずに実行する「殺人マシーン」との認識が一般に広まった。だが、実際は事件の前日中川智正遠藤誠一がサリンのパックを11個用意して端数が生じたが、林が犯行当時、指示を断れない状況下にあるのを知っていた村井が5人の中で最初に林に1つ多く持ってくれるかと頼み、引き受けたものだった。井上嘉浩は「実行メンバーの中でもっとも人間的で優しい人なのでいやがることを引き受けた」と語っている。更に林が持参したサリンのパックが1つ、配布時から破損し、二重の袋内に漏れていたという[13]

1994年6月の松本サリン事件にもサリン噴霧車の製造という形で関与している[14]

逃亡[編集]

地下鉄サリン事件の他の実行犯は1995年5月頃までに逮捕される中で、林は逃亡を続けており、オウム真理教事件で特別指名手配されたオウム逃亡犯の中でも頭立った者、危険性の高い犯人として扱われた。8月には別ルートで逃亡していた平田信名古屋市で接触。その際に平田から出頭の意を打ち明けられたが、平田は林の逃走先や逃走手段を知っていたことから、出頭を思いとどまらせた[15][16]。 その後も逃亡を続けていたが、1996年12月3日沖縄県石垣市沖縄県警八重山警察署逮捕される。逃亡中、自らが殺害した犠牲者の祷りのために小さな位牌を常に持ち歩いていたと言う。なお、林の逮捕において、林と行動をしていた女性信者も逮捕された。

逃走途中に井上嘉浩の指示でVXの瓶を東京都小平市玉川上水付近に埋めており、後に発見された[17]

裁判[編集]

松本サリン事件、地下鉄サリン事件などで起訴された。法廷では輪廻転生閻魔様を信じているので嘘はつけないと語り、事件の詳細について率直に語った[18]第一審では死刑判決を言い渡したが、真面目に学業や仕事に取り組んでいたことなどを挙げ、「被告人を一個の人間としてみるかぎり、被告人の資質ないし人間性それ自体を取り立てて非難することはできない。」「およそ師を誤ることほど不幸なことはなくその意味において被告人もまた不幸かつ不運であったといえる。」とも述べた。初公判で林は麻原について、現在では信仰心がないと述べると共に、事件当時は「絶対的な存在で指示には逆らえなかった」と供述した。殺人マシンという呼称については「その通りのことをしてしまったから仕方ない」と述べた。

控訴審でも死刑判決が維持されたため上告するも、2008年2月15日最高裁第2小法廷は上告を棄却し、死刑が確定。オウム真理教事件で死刑が確定するのは5人目。2008年12月22日東京地裁再審請求するも認められなかった。

人物評[編集]

ワイドショーなどでは「殺人マシン」、「オウムの殺人マシン」、甚だしくは異名も容疑者呼称も全てが名前の一部であるかのような「殺人マシン林泰男容疑者」などと呼称された。指名手配ポスターでも、記載位置は上列の一番左すなわち筆頭だった。なお、別名の表記は事件当時は「殺人マシン」と縮めることが多く、逮捕・起訴後は「殺人マシーン」と表記するケースが多い。

広報副部長の荒木浩は「とにかく穏やかで常識のある方」と評し、拘置所で面会している森達也も同意している[19]

工学院大学時代には鮮魚店のアルバイトを続け、店主が病気を患った際には早朝の市場への買出しから店番まで行うほど真面目であったという[8]

現在[編集]

東京拘置所収監されている。死刑執行を覚悟しているという。

関連事件[編集]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 東京キララ社編集部『オウム真理教大辞典』 p.58
  2. ^ 公安調査庁 内外情勢の回顧と展望(平成24年1月)
  3. ^ 『魂の虜囚』(江川紹子著、中央公論新社
  4. ^ 「血の通った」極刑判決・林泰男の人間性に異例の評価”. 江川紹子ジャーナル. 2002年6月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年11月23日閲覧。
  5. ^ 『オウム帝国の正体』(一橋文哉著、新潮社
  6. ^ オウム『神通力者への道3』p.13
  7. ^ 『神通力者への道』p.29
  8. ^ a b 中島尚志 『オウムはなぜ消滅しないのか』p.91
  9. ^ 『神通力者への道3』p.35
  10. ^ 毎日新聞社会部『元愛弟子(治療省大臣)への無期判決―オウム「教祖」法廷全記録〈3〉』 1998年 p.26
  11. ^ 『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』(松本聡香著、徳間書店
  12. ^ 降幡賢一『オウム法廷5』 p.281, 305
  13. ^ 『オウム法廷5』 p.233, 302
  14. ^ オウム裁判:爆破計画「知らなかった」…林死刑囚証言毎日新聞 2014年02月05日
  15. ^ 林死刑囚:平田被告に「出頭しないで」 逃亡中の再開時毎日新聞 2014年02月05日
  16. ^ 全部ばれる…小池死刑囚、平田被告に「逃亡を」読売新聞 2014年02月05日
  17. ^ 降幡賢一『オウム法廷2 下』 p.308
  18. ^ 『オウム法廷5』 p.277
  19. ^ 森 2012, p. 179.