ピアノ騒音殺人事件

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ピアノ騒音殺人事件
場所 神奈川県平塚市
標的 加害者の階下住民
(母親、長女、次女)
日付 1974年昭和49年)8月28日
午前9時20分頃 (UTC+9)
概要 殺人事件
原因 ピアノ騒音
攻撃人数 1
武器 刺身包丁
死亡者 3

ピアノ騒音殺人事件(ピアノそうおんさつじんじけん)は、1974年昭和49年)8月28日の朝に神奈川県平塚市で発生した殺人事件である。ピアノ騒音を理由として母子3人が殺害された。近隣騒音殺人事件の第1号として知られている。

犯人の生い立ち[編集]

犯人である男性Oは、東京市亀戸で書店の息子として産まれた。小学校では成績優秀で旧制中学校に進学したが、入学後は怠情になり、卒業には親類の工場で働いていた。1941年には国鉄国立駅の駅員になったが、1951年に少額の公金を横領して逃亡。その後、ひったくりをして逮捕され、執行猶予付きの判決を受けた。その後は職を転々とし、一時はホームレスも経験している。1959年、農家の婿養子という形で結婚したが、妻が前の夫と会っていたことを知り、すぐに離婚した。

その後再婚したOだったが、1963年にOのステレオの音に苦情を言ってきた隣人とトラブルになった。この頃から、Oは騒音に敏感な神経質な男になり、近所のよく吠える犬を殺して警察に通報されたり、テレビを見るときにもイヤホンを付けて見るほどであった。事件の供述調書によると、Oは近所のガラス戸の開閉音でさえ爆弾の炸裂音のように聞こえ、脳が破壊されるような気がしたという。

事件の背景[編集]

1970年5月、Oと妻が平塚市の県営住宅に引っ越してしばらくしてから、階下に4人家族が引っ越してきた。この一家は2人の娘が幼いこともあって騒々しく、特に夫は日曜大工が趣味だったため工作音を出していた。両家の間にある床板は12cmしかなく、騒音は階上にも響きOはより神経質になっていった。Oはたびたび階下の夫婦に苦情を訴えていたが、夫婦は相手にすることもなかった。

事件の前年の1973年秋、階下の家族の長女がピアノを習い始め、階下からピアノの音が毎日のように流れるようになった。工場の工員を失業していたOは、妻との離婚話も浮上していた上に、ピアノの騒音にも苛まれるという状態であった。Oは階下家族に苦情を言うのみならず、「親が日曜大工で騒音を出しているから子供も遠慮しない」という旨の恨み節も述べたが、階下の夫婦は一笑に付すのみであった。やがて、Oはこの一家がわざと騒音を立てていると思い込むようになり殺害を決意。妻に仕返しを示唆する発言をするようになり、そのために刺身包丁を購入していた。

事件の概要[編集]

1974年8月28日、朝から蒸し暑かったこの日も階下からピアノの音が聞こえ、O(犯行当時46歳)の怒りは爆発した。午前9時20分頃、階下家族の夫(当時36歳)が出勤して、妻(当時33歳)がゴミ出しに外出したのを確認したOは階下の一家宅に侵入して、ピアノを弾いていた長女(当時8歳)の胸を刺身包丁で一刺しして殺害。続いて、傍らにいた次女(当時4歳)を殺害した。2人を殺したOは、そばにあったマジックペンで襖に夫婦への恨み節を書きなぐった。それを書きかけていたところへ妻が帰宅したため、Oは妻も刺して殺害して逃亡した。Oは「海で死にたい」と思い自殺を試みるが失敗し、3日後の8月31日に出頭して殺人容疑で逮捕された。

裁判[編集]

裁判ではOの部屋の騒音を計測した市職員が証人として出廷。1回目は午後2時の測定では周囲の暗騒音の中央値が44ホンであり、階下で弾くピアノの音を測定できなかった。2回目は午前7時30分から測定したが、窓を開けた状態でも上限値44ホンであった。1971年5月に閣議決定された「騒音に関わる環境基準」では、住宅地において昼間50ホン以下、朝夕45ホン以下、夜40ホン以下であったため、階下のピアノの音は閣議決定の環境基準値以内であった。ただし、この時ピアノを弾いた時間は約15分ぐらいであり、しかもピアノは警察関係者が弾いていたことが後に判明している。用いられた測定方法は神奈川県の公害防止条例に基づくものであるが、条例では40ないし45ホンの場合に人体に対する影響は「睡眠がさまたげられる、病気のとき寝ていられない」と規定されていた。

また、夫婦仲が良好ではなかったOの妻が出廷し、ピアノの音は自分にも度を過ぎて聞こえたと証言した。一方で、被告人となったOを精神鑑定した医師は、Oは精神病症状は見られず、知能も普通であり、責任能力はあるが、道徳感情が鈍麻した精神病質に該当すると述べた。

1975年8月11日検察側は論告で「事件は計画的犯罪であり、殺害方法は残虐。ピアノの音が不快であるという犯行の動機に酌量の余地はない。極悪非道の犯罪であり、極刑をもって挑む以外にはない」と述べて死刑求刑。同年10月20日横浜地方裁判所小田原支部でOに対して死刑判決が下された。

しかし、事件がマスコミによって大々的に報道されたことで、全国から騒音被害者などによる助命嘆願活動が行われた。1976年5月、Oに対して精神鑑定が実施され、責任能力なしの判断が下った。ところが同年10月、「拘置所内の騒音に耐えられず、死にたい」との理由でOは控訴を取り下げた[註 1]1977年に死刑が確定した。拡大自殺ともいえる控訴取り下げによる死刑確定であった。

死刑確定後[編集]

東京拘置所収監されているOであるが、2016年時点においても死刑は執行されていない。また、再審請求も確認されていない。Oは犯行事実に関して冤罪疑惑がない死刑囚としては2016年時点で最古参の死刑確定囚である[註 2]

Oは自分が音に対して病的に敏感であるとの自覚はあったが、殺人を犯したことについては1977年2月9日被告人質問の際にも「自分こそが被害者」との姿勢を崩さなかった[1]

昭和40年代の高度経済成長の恩恵で暮らしが豊かになる中で、団地などの集合住宅では騒音被害が問題となっていたことから、「ピアノ公害」という言葉さえ生まれていた。この事件を受け、住宅・都市整備公団(現・独立行政法人都市再生機構)は床厚を150mmに増やした。また、アップライトピアノに弱音装置が取り付けられた。また、この事件以降騒音などによる事件や訴訟が頻発しており、多くの専門家はこの事件を「日本人の騒音に対する考え方が劇的に変化した事件」としている[2]

関連書籍[編集]

脚注[編集]

  1. ^ この際、驚いて面会した国選弁護人に対し、Oは「好んで死ぬわけではないが、無期と死刑ならば死刑がいい」と述べている
  2. ^ Oよりも古くから獄中にいる死刑囚としてはマルヨ無線事件があるが、殺人について冤罪疑惑が指摘されている。

脚注[編集]

  1. ^ 「音の苦痛より死刑を 控訴取り下げたピアノ騒音殺人犯」1977年3月25日付『朝日新聞』朝刊23面
  2. ^ 午後は○○おもいッきりテレビ 2007年8月28日放送分より

関連項目[編集]