ピアノ騒音殺人事件

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ピアノ騒音殺人事件
場所

日本の旗 日本神奈川県平塚市田村3907番地「神奈川県営横内団地34号棟306号室」[1]

  • 現住所:神奈川県平塚市横内3907番地
座標
標的 加害者の階下住民
(母親B・長女C・次女D)[1]
日付 1974年昭和49年)8月28日
午前9時10分ごろ (日本標準時〈JST・UTC+9〉)
概要 精神病質者でかつ音に対し極端に過敏だった男が県営団地で「自身の真下の部屋に住んでいる被害者宅から発されるピアノ日曜大工の音などがうるさい」と殺意を抱き、在宅中だった親子3人を刺殺した[2]
原因 ピアノ・日曜大工などの音[2]
攻撃手段 刺身包丁で刺す(被害者3人)・さらしで首を絞める(次女D)[2]
攻撃側人数 1人
武器 刺身包丁(刃渡り20.5センチメートル〈cm〉)1本・腹巻用さらし1枚[2]
死亡者 3人
犯人 男O(事件当時46歳・被害者の真上の部屋406号室居住)[1]
動機 被害者方から発されていた物音に対し加害者Oが「自分への嫌がらせのためだ」と思い込んだこと[2]
対処 神奈川県警が加害者Oを逮捕[1]・横浜地検小田原支部が起訴
謝罪 なし(公判では全く犯行に対する反省・悔悟の情を示さず)[2]
刑事訴訟 死刑未執行
影響 加害者Oが死刑判決を受けた後に自ら「死刑になりたい」と控訴を取り下げ、弁護人がその控訴取り下げの有効性を争い裁判所(東京高裁)に異議を申し立てる日本で初の事例となった[3]
管轄 神奈川県警察(捜査一課・鑑識課および平塚警察署[1]横浜地方検察庁小田原支部
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ピアノ騒音殺人事件(ピアノそうおんさつじんじけん)は、1974年昭和49年)8月28日朝に神奈川県平塚市田村(現:平塚市横内)の県営住宅「県営横内団地」で発生した殺人事件である[1]ピアノ殺人事件とも呼称される[2][4]

加害者が「ピアノ日曜大工などの騒音がうるさい」と階下の被害者一家に殺意を抱き、母娘3人を刺殺した[2]。近隣騒音殺人事件の第1号として知られている。

加害者・死刑囚O[編集]

加害者である男性O・M(姓名のイニシャル、以下の文中では姓イニシャルを用い「O」と表記)は1928年(昭和3年)6月4日生まれ(現在91歳)で[5]東京府東京市亀戸町三丁目54番地(現:東京都江東区亀戸)で書店経営者の次男として出生したが、1938年(昭和13年)ごろに近所の吃りの子供と遊びそのまねをしているうちに自らも吃るようになり、以来無口で内向的になった[2]。1945年(昭和20年)3月には旧制錦城中学校千代田区神田)を卒業後、終戦まで両親の疎開先だった山梨県北都留郡上野原町(現:上野原市)の軍需工場に勤務していたが、親元を離れて生計を立てるようになってからは肉親とほとんど音信不通の生活を続けていた[2]。小学校では成績優秀で旧制中学校に進学したが、入学後は怠惰になり、卒業後には親類の工場で働いていた。

1947年(昭和22年)5月には日本国有鉄道(国鉄、現在の東日本旅客鉄道〈JR東日本〉)中央本線国立駅職員となったが、競輪に凝って切符の売上金を使い込むなどしたため1950年(昭和25年)には退職を余儀なくされ、それ以降は東京都内・神奈川県内の会社など職場を転々と変えた[2]。その間、Oは東京都内で勤務していた1953年(昭和28年)ごろから神経性の頭痛持ちとなったほか、1959年(昭和34年)には他家の婿養子となったが間もなく離縁・離婚した[2]。また1959年 - 1963年(昭和38年)には東京都八王子市並木町のアパートに居住しており[6]、1963年ごろには日野自動車に2交替制で勤務して早朝に就寝することが多かったが[2]、この時には隣人一家から「ステレオの音がうるさい」と苦情を受けてから物音に対し病的に敏感になっており[6][注 1]、1965年(昭和40年)ごろには神経過敏になって早朝さえずるスズメの鳴き声さえうるさく感じるようになっていた[2]

1965年4月に再婚し、1970年(昭和45年)4月以降は事件現場となった神奈川県営横内団地34棟4階(406号室)に入居した一方、1973年(昭和48年)7月以降は無職となって失業保険給付金などで暮らしていたが、事件直前の1974年7月ごろには手持ちの生活資金にも窮し始めていた[2]。1969年(昭和44年)5月 - 1970年7月には平塚市内の小松電子金属(現:SUMCO TECHXIV)に勤務していたが、当時は内向的で口数も少なく目立たない存在だったほか、同社に就職する前にも7,8か所職場を転々としていた[1]。またOは1973年7月に「仕事に飽きた」と退社するまで平塚市内の車体部品製造会社に工員として勤務していたが、同社には被害者遺族となった男性Aも(Oが退社した後の)1974年4月から勤務していた[7]

事件の背景[編集]

事件現場となった「神奈川県営横内団地」は国鉄東海道本線平塚駅から国道129号沿いに6キロメートル(km)ほど北上した田園地帯にある賃貸団地で、1967年(昭和42年) - 1971年(昭和46年)にかけ1,364戸が入居し、事件当時は約4,000人が住んでいた[1]

Oが妻とともに県営横内団地へ引っ越してからわずか2か月後となる1970年6月、Oの居室の階下である3階306号室に被害者一家(男性A・女性Bの夫婦と長女C・次女Dの4人家族)が引っ越してきたが、Oはその際に入居の挨拶を受けられなかったため被害者一家を「礼儀作法を弁えない非常識な家族だ」と思い込んでいた[2]。その後、間もなく被害者宅では日曜大工を始めるようになり金槌の音が立つようになったほか、ベランダのサッシ戸の開け閉ても静かにしなかったためかOがその音を気にしだし、「金槌の音があまりにもひどい」と感じた際には一度自宅から階下の被害者方へ「うるさい」などと怒鳴ったことがあった[2]

これに加え、Oは「団地に住む近所の人々が自分に対し冷たい態度を取っている」と感じるようになった矢先、他人には人づきあいが良かった被害者一家の妻Bが自分と会っても挨拶をしなかったことがあったため、Oは「Bが近所の人々に自分の悪口を言いふらしている」と思い込み、次第にBへの憎しみを覚えるようになった[2]。また1973年(昭和48年)11月には被害者一家宅がピアノを購入し、長女Cがこれを弾くようになったためOはその音を気にしだし、1974年4月ごろには一度妻とともに「自分が在宅しているときはピアノを弾かないで欲しい」と申し出たこともあったが、その後も被害者宅ではピアノを弾くのをやめなかったため、Oは次第に「ピアノを弾くのは自分への嫌がらせのためだ」とも思い込むようになった[2]。しかし事件発生直後の『毎日新聞』(毎日新聞社)では「被害者家族はOが自分たちや同階に住む住民へ苦情を入れてきた後、なるべくOが留守の時間帯にピアノの稽古をさせており、ピアノの音もOに酷い迷惑をかけるほどうるさいものではなかった」[8]「Oは被害者宅からピアノの音が聞こえると「うるさい」と大声で怒鳴り込んだばかりか、時には自分の妻に八つ当たりで暴力を振るうことがあった」と報道されている[7]

そして1973年7月ごろからは持病の片頭痛が再発して耳鳴りがするなどしたほか就労意欲がなく、生活費にも困窮したことで自暴自棄になりだし、同年8月1日ごろには「一家がピアノを弾くのをやめないなら妻Bとその子供たち(C・D)を殺害しよう」と考えるまでになり[2]、事件1週間前には「親のしつけが悪いからまず親を殺そう」と犯行機会を窺いつつ[9]、凶器の刺身包丁・ペンチ・背広・ガーゼなどを購入していた一方[10]、このころには妻が離婚話の相談のため八王子市内の実家へ帰っていた[7]。また事件前日(1974年8月27日)にはOに対し、階下305号室(被害者一家の隣室)に入居した女性が入居挨拶に来たが、Oはその女性に対しBの悪口を話していた[2]。この他、Oは事件前に八王子市内に住んでいた知人に対し「海で死にたい」と吐露していた[8]

事件発生[編集]

1974年8月28日7時15分ごろ、加害者O(事件当時46歳)は階下の被害者方で響いていたピアノの音で目が覚め起床したが、それまでの経緯などからピアノの音を非常に気にしていたことに加え、それまでは9時過ぎにならなければ鳴らなかったピアノの音が朝早くからなり出したことに憤慨した[11]。また前日に挨拶に来た女性に対し自分がBの悪口を話したことを思い出し「Bが自分への嫌がらせ目的で子供にピアノを弾かせている」と邪推したため、Bへの憤りを抑えることができなくなったOは女性B(事件当時33歳)・長女C(同8歳)[注 2]・次女C(同4歳)をこの際一気に殺害しようと決意し、あらかじめ犯行で使用するため購入していた凶器の刺身包丁(刃渡り20.5センチメートル〈cm〉)1本および腹巻用さらし1枚・ペンチ1個[2]・背広などを買い物用袋の中にまとめて入れ[10]、殺害の準備を行った[2]。さらしは包丁で殺害しきれなかった場合に被害者を絞殺する目的で予備の凶器として、ペンチは警察への通報を妨害するため電話線を切断する目的でそれぞれ用意していた[2]

さらに犯行を容易に遂行するため、Bの夫Aが出勤して留守になるときとB・Dが室外に出るところを確認し、9時10分ごろに306号室へ侵入した[2]。Oは玄関口の電話線をペンチで切断してドアを開け[10]、3畳間で一人立ったままピアノを弾いていた長女Cを刺身包丁で襲い、Cの左胸などを複数回突き刺した[2]。その後Oは室内のふすまの陰に身を潜めてB・Dの入室を待ち伏せ、4畳半の部屋に入室した次女Dの腹部などを数回突き刺し、持っていたさらしでDの首を絞めて殺害した[2]。そしてC・D姉妹を殺害した直後、Oは自己の犯罪を正当化する目的で3畳間・4畳半の境のふすまに鉛筆で「迷惑をかけるんだからスミマセンの一言位い言え。気分の問題だ」[2]「人間、殺人鬼にはなれないものだ」などと恨みの言葉を書き残したほか[7]、息絶えたC・D姉妹の遺体にそばにあったタオルケットを掛けたが、間もなくゴミ当番で出ていた母親Bが帰宅し[10]、子どもの名を呼びながら3畳間に入室してきたため、Bの頸部などを数回突き刺して殺害した[2]。被害者3人の死因はいずれも失血死だった[2]

  • 長女C - 即時心臓刺創等の傷害[2]
  • 次女D - 大動脈切裁等の傷害[2]
  • 母親B - 左鎖骨下動脈切断等の傷害[2]

犯行後、Oは306号室の出口を施錠しようとしていたところを隣室305号室に住んでいた女性(事件前日に引っ越してきた女性)に目撃されたため[11]、4階の自室に戻ってから犯行に使用した道具・背広の上着を手提げ袋に入れ、手製の槍[注 3]・釣り道具[9](釣り竿など)・リュックサックを持って[8]バイク[注 4]で神奈川県高座郡寒川町まで逃走し、バイクは国鉄相模線・宮山駅付近の農道[注 5]で乗り捨てた[11]。その後はタクシーで国鉄茅ケ崎駅へ向かい、バスを乗り継いで藤沢市内へ逃走すると同市内の清浄光寺(遊行寺)参道の小屋裏側に刺身包丁・背広などを捨てたほか[10]、さらに遊行寺から東京都大田区蒲田までバスを乗り継いでから電車で上野駅を経由し[9][注 6]、同日は国鉄信越本線横川駅群馬県碓氷郡松井田町横川[注 7])付近で下車して同駅付近で野宿した[11]。翌8月29日には東京都内で過ごしてから国鉄横浜線橋本駅(神奈川県相模原市)へ行き路上駐車されていた車の中で就寝し、30日は再び東京へ行ってから夜になって平塚市へ戻り、日付が変わった31日未明になって平塚署へ出頭した[11]

また逃走中、Oは自己の服装を整えて逃走するため以下の民家3軒で窃盗事件を起こした[2]

  1. 同日10時ごろ - 神奈川県高座郡寒川町宮山3478番地の民家庭先、住人所有の作業用ズボン1本(時価500円相当)[2]
  2. 同日10時30分ごろ - 神奈川県高座郡寒川町倉見648番地の民家庭先、住人所有の作業用上着1着(時価2,000円相当)[2]
  3. 8月30日6時30分ごろ - 東京都町田市相原町805番地の民家庭先、住人所有の作業用上着1着ほか1点(時価合計1,000円相当)[2]

捜査[編集]

同日9時15分ごろに被害者宅の隣室住民から「被害者宅で男が暴れている」と神奈川県警察110番通報が寄せられ、平塚警察署員が駆け付けたところ3DKの被害者宅6畳間でB・C・Dがいずれも死亡していた[1]。また事件直後に「被害者宅の真上に住んでいたOが血を浴びて被害者の部屋から逃げバイクで立ち去った」という目撃証言が寄せられたため、本事件を殺人事件と断定し県警捜査一課・鑑識課の応援を受けて捜査を開始した平塚署はOを犯人と断定し[1]、被疑者Oを殺人容疑で全国に指名手配した[7]。捜査本部は「Oが事件前、知人に対し『海に行って死にたい』と漏らしていたため、海で自殺する危険性もある」と判断して捜査員200人を派遣し[12]、平塚市・大磯町相模湾に面する海岸にも捜査網を広げたほか[8]、Oの実父・親類宅があった東京都(警視庁)や隣県の静岡県警山梨県警にも協力を要請した[12]

事件から3日後の1974年8月31日0時15分、Oは捜査本部が設置されていた平塚署へ出頭して殺人容疑で逮捕された[13]。Oは取り調べに対し犯行を全面的に自供したほか[10]、自供通り凶器の刺身包丁が藤沢市内で、逃走に使用したバイクも寒川町内で発見された[11]。またOは「1959年 - 1963年まで自分が住んでいた八王子市並木町のアパートで隣人とトラブルになり、その隣人一家4人も殺そうと思った。本事件の被害者一家宅からピアノの音が聞こえたことでその一家に対しても再び憎しみが燃え上がり、8月初めにはその転居先を調べ上げ2度下見にも行った。刺身包丁は八王子の一家を殺すため20日に茅ヶ崎市内で購入したものだ」と自供した[6]。このことから『中日新聞』(中日新聞社)は「10年以上も前の些細なトラブルに執着するOの異常さを見せている」と報道した[6]

横浜地方検察庁小田原支部は1974年9月20日に被疑者Oを殺人窃盗罪横浜地方裁判所小田原支部へ起訴した[14]

刑事裁判[編集]

第一審・横浜地裁小田原支部[編集]

1974年10月28日に横浜地方裁判所小田原支部(海老原震一裁判長)で被告人Oの刑事裁判・第一審初公判が開かれ、Oは罪状認否で「被害者3人を刺すことしか考えておらず殺すつもりはなかった」と述べて殺意を否認した[15]

第一審の公判で被告人Oは「死刑になりたかったから被害者3人を殺害した」と発言するなど異常な性格が認められたが、同公判で行われた精神鑑定では「被告人Oは精神病質者だが、犯行時に心神耗弱状態だった点は認められない」とする鑑定結果が示された[3]

Oの部屋の騒音を計測した市職員が証人として出廷。1回目は午後2時の測定では周囲の暗騒音の中央値が44ホンであり、階下で弾くピアノの音を測定できなかった。2回目は午前7時30分から測定したが、窓を開けた状態でも上限値44ホンであった。1971年5月に閣議決定された「騒音に関わる環境基準」では、住宅地において昼間50ホン以下、朝夕45ホン以下、夜40ホン以下であったため、階下のピアノの音は閣議決定の環境基準値以内であった。ただし、このときピアノを弾いた時間は約15分であり、ピアノは警察関係者が弾いていたことがのちに判明している。用いられた測定方法は神奈川県の公害防止条例に基づくものであるが、条例では40ないし45ホンの場合に人体に対する影響は「睡眠がさまたげられる、病気のとき寝ていられない」と規定されていた。また、夫婦仲が良好ではなかったOの妻が出廷し、ピアノの音は自分にも度を過ぎて聞こえたと証言した。[要出典]

1975年(昭和50年)8月11日10時から横浜地裁小田原支部(海老原震一裁判長)で論告求刑公判が開かれ、検察官・樋田誠は被告人Oに死刑を求刑した[16]。検察官は論告で被告人Oの責任能力について「被告人Oは病質者だが刑法上の心身喪失・心神耗弱ではなく、罰を償うだけの能力は持っている」と指摘した上で[17]、「犯行は計画的で執拗・残虐な殺害方法により罪のない子供2人を殺している。ピアノ・日曜大工の音は近隣者に不快を与えるほどのものではなかった。被告人Oの行為は反社会的・自己中心的で死刑が相当だ」と主張した[16]

1975年10月20日13時から判決公判が開かれ[18]、横浜地裁小田原支部(海老原震一裁判長)は横浜地検の求刑通り被告人Oに死刑判決を言い渡した[2][18]判決理由の要旨は以下の通り。

  • (責任能力に関して) - 弁護人は「日曜大工・ピアノの音から被害者一家に対し極度の憎しみを持ち始めた矢先に『Bの夫Aに刃物で刺される』と恐怖を抱いたことで『いっそ先に被害者らを殺害しよう』と思い立って犯行に至った。これは正常の審理からすれば理解不能な以上の精神状態の下での犯罪というほかなく、被告人は精神病質者であったため『事理弁識能力が著しく減弱した心神耗弱状態』とみなして量刑を減軽すべきだ」と主張するが、被告人は確かに「精神病質者でかつ音に対する過敏症」であった点は認められるものの、周到な準備の上で被害者Bの夫Aが出勤後留守になったところを確認した上で犯行に及んでいる[2]。その上、娘2人(C・D)を殺害した直後に自己の犯罪を正当化するため鉛筆でメッセージを書き残すなど、犯行を冷徹に遂行していることが認められるため、弁護人の主張は採用できない[2]
  • (量刑の理由)
    • 犯行は被害者方から発されたピアノ・日曜大工・ベランダのサッシ戸の音などに端を発したものだが、そのピアノの音は平塚市公害課による音響測定によれば被告人Oの部屋(406号室)で聞いた場合「40 - 45ホン程度」で、神奈川県公害対策事務局が行政指導上の目安として音の人体に対する影響を実験などでまとめた基準例によれば「睡眠を妨げられ、病気の人は寝ていられない」という程度の音だった[2]。また被害者方の真下206号室の住人の反応も「不快感を与えるほどの音とは感じられなかった」というもので、しかも早朝・深夜(特に通常人の睡眠時間帯)には発されていない[2]。むしろその影響は音を感受する被告人Oが「音に対し極度の神経過敏症であった上に情意に欠ける異常性格者であったこと」と、他人に対しては特に人づきあいが良く社交家肌の被害者Bが被告人Oの日常行動を見て「変人だ」と思ったためか、被告人Oに対してはほとんど近所付き合いをしなかったという「意思疎通に欠けた点」があったことに由来し、被害者方・被告人Oとの間に意思疎通があれば十分阻止し得たといえる[2]
    • しかし被害者は「被告人Oは音に極度の神経過敏症で異常性格者だ」ということを知る由はなく、意思疎通不足の点をもって被害者のみを責めることはできないし、被告人Oは「ピアノを弾く時間が一定していないので家にもいられない状態だった」と述べているが、被害者方には被告人O側から「ピアノを弾く時間を制限してくれ」と申し入れられたにも拘らずそれを拒否したと思われるような事情も認められない[2]。被告人Oが被害者方に直接苦情を申し入れたのはわずか1回で、騒音問題について被害者側と対話するよう努力した痕跡は全く認められず、被害者を責める限りは同じく被告人Oの態度も責められなければならない[2]
    • その一歩で被告人Oは自己の被害者に対する態度を一顧だにせず、被害者Bの事故に対する態度のみを自己流に責め、果てはその報復として犯行を用意周到に計画した上で実行し、一片の憐憫の情もなく罪のない幼女2人までも一気に殺害した[2]。犯行の態様は「冷静に致命傷を与える部位を狙い鋭利な刃物で突き、被害者3人中1人(次女D)に対しては『手ごたえが不十分』としてさらしで首を絞める」など残虐極まりないもので、被告人Oは法廷でも全く自己の犯した罪に対し悔悟の情を示していない[2]

第一審判決後、被告人Oは死刑を望んで東京高等裁判所控訴しようとしなかったため[3]、1975年11月1日付で弁護人が控訴した[4]。事件がマスコミによって大々的に報道されたことで、全国から騒音被害者などによって助命嘆願活動が行われた。

控訴審・東京高裁[編集]

1976年(昭和51年)5月11日に東京高等裁判所刑事第4部(寺尾正二裁判長)で被告人Oの控訴審初公判が開かれ、寺尾裁判長は東京医科歯科大学教授・中田修に被告人Oの精神鑑定実施を依頼した[3]。これを受けて中田が1976年6月30日 - 10月5日までの間、計10回にわたり被告人Oの心身状態を検査した上で「被告人Oは犯行当時パラノイア(偏執症)に罹患しており、殺人行為は妄想に影響づけられて実行したもの」とする鑑定結果を提出したが、これは「被告人にとって有利な鑑定結果」とされ「場合によっては死刑を免れる可能性」もあった[3]。しかし「死刑に処されたい」という願望を抱いていた被告人Oは「鑑定結果次第では死刑判決が破棄されて減軽されるか無罪になるかもしれない」と恐れ、検査の過程で鑑定への協力を拒否するようになっていたほか、鑑定人(中田)・東京拘置所職員に対し「控訴を取り下げたい」と漏らしていた[4]

被告人Oは鑑定最終日となる1976年10月5日付で中田や拘置所職員の説得を無視して控訴取下申立書を作成し、控訴取り下げの手続きを取ったため死刑判決が確定することとなった[3]。当時、第一審(地裁)で死刑判決を受けた被告人が高裁に控訴しなかったり、控訴審開始後に控訴を取り下げて死刑が確定したケースは極めて稀だった[3][注 8]。この際、被告人Oは驚いて面会した国選弁護人・井本良光に対し「自分は音に対し(通常の人間には見られないほど)病的に敏感だ。これ以上音の苦しみには耐えられない」「好んで死ぬわけではないが、無期懲役と死刑ならば死刑がいい。仮に死刑を免れても生き続けることに耐えきれない」と述べている[19]

これに対し弁護人・井本は「控訴取り下げは正常ではない精神状態の下で行われており無効だ」と上申書を提出したため[19]、裁判所に異議を申し立てる日本で初めて事態となったが[3]、被告人Oは控訴取り下げ後も弁護人・検察官・東京高裁に対し「第一審判決後に弁護人が行った控訴の申し立ては自分の意思に反して行われたものだ」と主張した[4]。東京高裁刑事第4部(寺尾正二裁判長)は1976年12月16日付で「被告人Oは『自分は騒音恐怖症・不眠症に悩んでいるため今後の社会生活・拘禁生活には到底耐えられないから、死刑になって一刻も早くこの世を去りたい』と願い自らの意思で控訴を取り下げたものと考えられ、これは通常人の考えからすれば不自然ではあるが、取り下げ申し立て自体は訴訟能力を欠いていない状態で行われたため有効である」として、弁護人の「控訴取り下げは無効」とする申し立てを棄却する決定を出した[4][注 9]

国選弁護人・井本が高裁決定を不服として東京高裁刑事第5部(谷口正孝裁判長)に異議申し立てを行い、これを受けた刑事第5部は1976年末に「刑事第4部の決定執行停止(=事実上の死刑執行停止)をした上で第一審以降の全記録の審査」を行ったほか、1977年(昭和52年)2月9日には非公開の法廷で被告人質問を行ったが、その際に被告人Oは「自分こそ(騒音公害の)被害者だ」と反省の情を示さず、改めて「死刑になりたい」と意思表示した[19]。また被告人Oは後述の東京高裁決定(弁護人の異議申し立て棄却)までに東京高裁による審尋に対し以下のように述べていた[20]

  • 「第一審判決後に弁護人が自分の意思に反して控訴したため『自分が控訴取り下げをすればそれで済む』と思っている」[20]
  • 「控訴取下書を書く前に控訴取り下げを後悔することがないよう、親鸞日蓮などの書物を読んで死について研究し『いかなる偉人でも絶対に死は避けられない』と知った。逃げ場のない刑務所に行って隣房者の発する騒音に耐えることは苦労で、苦労は今までの経験で十分だ。自分には死刑か無期(懲役)しかなく、そのどちらかを選択しなければならないなら(苦しみながら生きるだけの)刑務所生活より死刑になる方がいい」[20]
  • 「精神鑑定の結果(心神喪失と認定され)無罪になっても3人を殺しているから当然精神病院で一生暮らさなければならない。まず無罪にはならないだろうが、精神病院も刑務所と同じで大変だと思うから無罪にはなりたくない」[20]

1977年4月11日付で東京高裁刑事第5部(谷口正孝裁判長)は「被告人Oは『仮に死刑を免れたとしても騒音過敏症・不眠症などにより長い拘禁生活の苦痛に耐えられないばかりか、もはや人生にも疲れているのでそれらから逃避するため自殺を希望し、死刑に処されることでその目標を遂げたい』と考え控訴を取り下げた。これは異例のことであり人命にも関わることではあるが、被告人が自分の権利を守る能力(訴訟能力)を十分に有した上で自分なりに死について悟りを得た上で出した結論であり法的に有効である」と結論付け[21]、申し立てを棄却する決定を出した[22]。決定送達後5日以内(1977年4月16日まで)に最高裁判所へ特別抗告しなければ死刑が確定する事態となったため[22]、井本は4月13日に東京拘置所で被告人Oと面会して特別抗告するか否かの意思確認を行ったところ「抗告しないでほしい。もうこれ以上(裁判で)争わず死なせてほしい」と回答されたため特別抗告を断念し、抗告期限が切れる1977年4月16日をもって正式に死刑が確定した[23]

中日新聞』(中日新聞社)は1977年4月12日朝刊記事で自ら「死刑になりたい」と控訴を取り下げた被告人Oをゲイリー・ギルモア(弁護士を通じて死刑を要求し希望通り処刑されたアメリカ合衆国の殺人犯)に喩え「日本版ギルモア」と報道した[22]

死刑確定後[編集]

死刑囚O(現在91歳)は死刑確定から42年が経過した2019年令和元年)10月1日時点で[24]東京拘置所収監されているが[5]、「早く死刑になりたい」という本人の願望に反して未だに死刑を執行されていないほか、2012年(平成24年)4月時点までに再審請求も確認されていない[25]。「フォーラム90」が取りまとめた「1993年3月26日以降の死刑確定囚」の一覧表によれば、死刑囚Oより先に死刑が確定した死刑囚は病死した2人を含め3人いるが[注 10]、いずれも無罪を訴えて再審請求している(いた)ため[5]、死刑囚Oは犯行事実に関して冤罪疑惑がない死刑囚としては2019年時点で最古参の確定死刑囚である。また2017年(平成29年)6月26日には当時確定死刑囚の中で最高齢だった90歳の死刑囚[注 11]が死亡したため[27]、当時89歳の死刑囚Oが日本における存命中かつ収監中の死刑囚としては最高齢となった[注 12]

反響[編集]

被告人Oの供述・騒音被害者などによる殺された被害者を騒音加害者と断じた嘆願活動により、生き残った父親と検察が被害者の起こした騒音公害を擁護できない状態に陥り、騒音公害の問題が世間・社会に大いに知れ渡ることとなった。[要出典]

昭和40年代の高度経済成長の恩恵で暮らしが豊かになる中で、団地などの集合住宅では騒音被害が問題となっていたことから、「ピアノ公害」という言葉さえ生まれていた。この事件を受け、社会全体が騒音被害者の都合を聞き入れた社会変革をさぜるを得なくなり、住宅・都市整備公団(現:独立行政法人都市再生機構)は床厚を150 mmに増やした。また、アップライトピアノに弱音装置が取りつけられた。この事件以降、騒音などによる事件や訴訟が頻発しており、多くの専門家はこの事件を「日本人の騒音に対する考え方が劇的に変化した事件」としている[28][要出典]

また本事件を題材としたノンフィクション『狂気 ピアノ殺人事件』(上前淳一郎#関連書籍を参照)を原作としたテレビドラマ「ピアノ殺人事件」(脚本:本田英郎)が制作され、泉谷しげるが犯人役・高橋英樹が弁護士役を演じた[29]。このドラマはテレビ朝日系列の「判決」シリーズの1つとして1980年1月17日から3週連続で放送された[29]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 判決文では「当時、心無い隣人の行動などで特に周囲の音に対し敏感になりだした」と事実認定されているが[2]、本事件後に平塚署から連絡を受けた隣人一家はOとのトラブルのことを記憶していなかった[6]
  2. ^ 長女Cは事件当時、平塚市立横内小学校2年生[11]
  3. ^ Oは事件前に「護身用」としてテレビアンテナの鉄線に刺身包丁を括り付けて「槍」を製作していた[9]
  4. ^ Oが乗っていたバイクは緑色でナンバーは「平塚 あ 2773」[8]
  5. ^ 宮山駅から500メートル(m)ほど離れた寒川町倉見の「上川橋」付近の草むら[9]
  6. ^ 『毎日新聞』は「横浜駅から東京国際空港(羽田空港)へ行ってから横川駅へ向かった」と報道してい[11]る。
  7. ^ 現・安中市松井田町横川
  8. ^ 当時、近年では1971年に群馬県で若い女性8人を相次いで殺害した大久保清が1973年に前橋地方裁判所で死刑判決を受け、東京高等裁判所へ控訴しなかったためそのまま死刑が確定したケースがあった(1976年に死刑執行)。
  9. ^ なお寺尾は同決定後に「気が重かった。むしろ実態審理(控訴審の続行)をしたかった」と述べている[19]
  10. ^ うち存命中なのはマルヨ無線事件(1966年発生・1970年の最高裁判決により死刑確定)のみで、名張毒ぶどう酒事件(1961年発生・1972年の最高裁判決により死刑確定)・波崎事件(1971年発生・1976年4月1日の最高裁判決により死刑確定)の2人はいずれも病死している[5]。また3人で唯一存命しているマルヨ無線事件の死刑囚(福岡拘置所在監・収監中の死刑囚では日本最古参)は被害者の死因の1つとされる放火を否認して再審請求を行っている[5]
  11. ^ 1927年(昭和2年)3月10日生まれ[26]。1978年 - 1979年に福岡県内で保険金目当てに内縁の妻の子供ら3人を相次ぎ殺害したとして殺人罪などに問われ[27]、1988年3月8日の最高裁判決により死刑が確定した[26]
  12. ^ ただし再審で無罪が確定し釈放された人物も含めれば免田事件の元死刑囚かつ冤罪被害者・免田栄(1925年11月4日生まれ、現在94歳)の方が死刑囚Oより年上である。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j 中日新聞』1974年8月28日夕刊E版第一社会面7頁「“ピアノ騒音”から惨劇 母子三人を殺す 平塚の団地 会場の男『うるさい』と」
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av 横浜地裁判決(1975-10-20)
  3. ^ a b c d e f g h 『中日新聞』1977年1月11日朝刊第12版第一社会面15頁「“死刑志願”是か非か 波紋呼ぶピアノ殺人のO被告 東京高裁“願望”認める 有利な鑑定出たのに 控訴取り下げ 弁護士、異議申し立て」
  4. ^ a b c d e 東京高裁決定(1976-12-16)
  5. ^ a b c d e 年報・死刑廃止 (2019, p. 248)
  6. ^ a b c d e 『中日新聞』1974年9月7日夕刊E版第一社会面11頁「ピアノ殺人のO 八王子市の一家四人殺しも計画」
  7. ^ a b c d e 『毎日新聞』1974年8月29日東京朝刊第14版第一社会面19頁「ピアノ殺人 ふすまに“恨みの言葉” O、妻にも当たり散らす」
  8. ^ a b c d e 毎日新聞』1974年8月28日東京夕刊第4版第一社会面9頁「『ピアノがうるさい』と殺人 朝の団地、母子三人が犠牲 階上の男、刃物で侵入 けいこの最中?刺して逃走 平塚」
  9. ^ a b c d e 『朝日新聞』1974年8月29日東京夕刊第3版第一社会面9頁「犯行、一週間前に準備 ピアノ殺人 Oが自供」
  10. ^ a b c d e f 『中日新聞』1974年8月31日夕刊E版第一社会面11頁「【平塚】ピアノ殺人のO自供 二児を次々刺す 一週間前から犯行計画」
  11. ^ a b c d e f g h 『毎日新聞』1974年8月31日東京夕刊第4版第二社会面8頁「数日前から包丁準備 “ピアノ殺人”Oが自供」
  12. ^ a b 『朝日新聞』1974年8月29日東京朝刊第13版第一社会面19頁「平塚の母子刺殺 O追い大捜査網 海で自殺の恐れも」
  13. ^ 『中日新聞』1974年8月31日朝刊第12版第一社会面19頁「【横浜】ピアノ殺人 O逮捕」
  14. ^ 『朝日新聞』1974年9月21日東京朝刊第13版第一社会面23頁「ピアノ殺人 Oを起訴」
  15. ^ 『毎日新聞』1974年10月29日東京朝刊第14版第二社会面18頁「【小田原】ピアノ殺人公判 O、殺意を否認」
  16. ^ a b 『朝日新聞』1975年8月11日東京夕刊第3版第一社会面7頁「ピアノ殺人、死刑求刑 平塚の団地 『計画的で執よう』」
  17. ^ 『中日新聞』1975年8月11日夕刊E版第一社会面7頁「【小田原】Oに死刑求刑 平塚市のピアノ殺人」
  18. ^ a b 『中日新聞』1975年10月20日夕刊E版第一社会面7頁「【小田原】Oに死刑の判決 ピアノ殺人で横浜地裁支部 『計画的な犯行』」
  19. ^ a b c d 朝日新聞』1977年3月25日東京朝刊第13版第一社会面23頁「証言台 『音の苦痛より死刑を』 控訴取り下げたピアノ騒音殺人犯 弁護人は無効申し立て」
  20. ^ a b c d 東京高裁決定(1977-04-11)
  21. ^ 『朝日新聞』1977年4月12日東京朝刊第13版第一社会面23頁「ピアノ殺人 希望通り死刑確定 弁護人の異議棄却 東京高裁『本人の意思』認定」
  22. ^ a b c 『中日新聞』1977年4月12日朝刊第12版第一社会面19頁「“日本版ギルモア”死刑確定へ ピアノ殺人 『志願』認められる 東京高裁 弁護人の異議棄却」
  23. ^ 『中日新聞』1977年4月16日朝刊第12版第一社会面19頁「Oの死刑確定 ピアノ殺人で特別抗告断念」
  24. ^ 年報・死刑廃止 (2019, p. 275)
  25. ^ 田村栄治「法相で変わる死刑の順 国民から見えない実態」『AERA』第25巻16号1336号、朝日新聞出版、2012年4月16日、 61頁。 - 2012年4月16日号(2012年4月9日発売)。
  26. ^ a b 年報・死刑廃止 (2019, p. 250)
  27. ^ a b 死刑囚が死亡 福岡保険金連続殺人」『日本経済新聞日本経済新聞社、2017年6月26日。2019年11月20日閲覧。, オリジナルの2019-1-20時点によるアーカイブ。
  28. ^ 午後は○○おもいッきりテレビ 2007年8月28日放送分より[出典無効]
  29. ^ a b 『朝日新聞』1980年1月9日東京夕刊芸能面7頁「テレビ朝日『ピアノ殺人事件』 泉谷しげる、再び犯人役 “心理的深み出す”」

関連書籍[編集]

  • 上前淳一郎『狂気 ピアノ殺人事件』文藝春秋社、1978年7月15日、初版。ISBN 978-4163346809

参考文献[編集]

刑事裁判の判決文・決定文[編集]

  • 横浜地方裁判所小田原支部判決 1975年(昭和50年)10月20日 、昭和49年(わ)第310号、『殺人,窃盗被告事件【著名事件名:ピアノ殺人事件第一審判決】』。
    • 判決内容:死刑(求刑:同)、押収品の刺身包丁・さらしを没収
    • 裁判官:海老原震一(裁判長)・安間喜夫・藤枝忠了
判例時報』第806号112頁
判例タイムズ』第329号117頁
【判示事項】ピアノの音がうるさいと同じ団地の一階下に住む母子3人を刺殺した事件において死刑が言い渡された事例
TKCローライブラリー』(LEX/DBインターネット) 文献番号:27916840
【事案の概要】被告人が、公営住宅の自己の居室の階下に居住する被害者家族の立てる騒音等に立腹し、予め買い求めていた刺身包丁等を持参の上、被害者宅に侵入し、母親と幼い娘2名の合計3名を刺殺した等とされたいわゆるピアノ殺人事件の事案において、本件犯行時被告人は神経性の頭痛持ちであったうえ情意に掛ける性格の持主で、精神医学上でいう精神病質者であったことは認められるが、本件犯行当時被告人に事後弁識能力が著しく減弱していたものとは認められないとして、弁護人による刑事訴訟法335条2項の主張を斥け、また、被告人は、本件犯行を用意周到に計画して一片の憐憫の情もなく罪のない幼女2人までも一気に殺害し、全く自己の犯した罪に対し悔悟の情を示していないとして、被告人に死刑を宣告した事例。
【参照法令】刑法199条
  • 東京高等裁判所第4刑事部決定 1976年(昭和51年)12月16日 、昭和50年(う)第2621号、『殺人,窃盗被告事件【著名事件名:ピアノ殺人事件控訴審決定】』。
    • 決定内容:被告人Oによる控訴取下(1976年10月5日付)は有効。本事件訴訟は同日付控訴をもって終了(弁護人が異議申立)
    • 裁判官:寺尾正二(裁判長)・山本卓・田尾健二郎
『高等裁判所判例集』第29巻4号667頁
裁判所ウェブサイト掲載判例
【判示事項】パラノイア患者の控訴取下げが有効とされた事例
【要旨】パラノイア患者が控訴を取り下げたときでも、その動機など(判文参照)からみて本人の訴訟能力に欠けるところがないと認められるときは、これによつて訴訟は終了する。
『TKCローライブラリー』(LEX/DBインターネット) 文献番号:27920906
【事案の概要】被告人が、公営住宅の自己の居室の階下に居住する被害者家族の立てる騒音等に立腹し、予め買い求めていた刺身包丁等を持参の上、被害者宅に侵入し、母親と幼い娘2名の合計3名を刺殺した等とされたいわゆるピアノ殺人事件の事案の控訴審において、被告人による本件控訴取下げの申立ては被告人の罹患するパラノイアとは一応切り離して考えることも可能であるとし、本件においては、本件控訴取下げの経緯に照らすと、被告人は、控訴取下げの申立ての結果原審の死刑判決が確定し、その後これを動かす手段が全くないことになる旨を熟知した上で同申立てに及び、この決意はパラノイアとは直接関係のないものであると考えられるとして、申立てそれ自体は訴訟能力に欠けるところのない精神状態で真意を表明したものであるとして、被告人に対する殺人および窃盗被告事件は、被告人がした控訴取下げの申立てにより、終了したものであるとした事例。
【参照法令】刑事訴訟法355条・356条・359条・428条
  • 東京高等裁判所第5刑事部決定 1977年(昭和52年)4月11日 、昭和51年(け)第26号、『殺人,窃盗被告事件についての決定に対する異議申立事件【著名事件名:ピアノ殺人事件】』。
    • 決定内容:1976年12月16日付決定に対する弁護人の異議申立を棄却(特別抗告されず死刑確定)
    • 裁判官:谷口正孝(裁判長)・金子仙太郎・小林眞夫
『刑事裁判月報』第9巻3・4号222頁
【判示事項】控訴の取下げにより訴訟が終了した旨宣言した決定に対し、訴訟能力を欠くため控訴の取下げが無効であることを理由にしてなされた異議申立てが棄却された事例
『判例時報』第857号118頁
『TKCローライブラリー』(LEX/DBインターネット) 文献番号:27920929

【参照法令】刑事訴訟法355条・356条・359条・428条

【被引用判例】最高裁判所第三小法廷決定 1986年(昭和61年)6月27日 『最高裁判所刑事判例集』(刑集)第40巻4号389頁、昭和61年(し)第44号、『恐喝未遂被告事件についてした控訴取下による訴訟終了宣言の決定に対する特別抗告』「高等裁判所がした控訴取下による訴訟終了宣言の決定に対する不服申立の可否」、“高等裁判所がした控訴取下による訴訟終了宣言の決定に対しては、これに不服のある者は、三日以内にその高等裁判所に異議の申立をすることができる。”。

書籍[編集]

  • 年報・死刑廃止編集委員会『オウム大虐殺 13人執行の残したもの 年報・死刑廃止2019』インパクト出版会、2019年10月25日、初版第1刷発行、248,275。ISBN 978-4755402982

関連項目[編集]

死刑判決を受けた被告人が控訴を自ら取り下げたため、弁護人が控訴取り下げの無効を主張して裁判所に異議を申し立てた事件