成田空港問題

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成田空港問題(なりたくうこうもんだい)とは、日本最大の国際空港である成田国際空港を建設するに当たって発生した、三里塚闘争(別称:成田闘争)を代表とする種々の社会問題のことである。

概要[編集]

1978年昭和53年)に開港した新東京国際空港(現・成田国際空港)をめぐっては、1960年代初め頃から候補地等の検討が進められていたが、その建設に当たり、開港を急ぐ政府の強硬姿勢と当時の世相と地域固有の事情が相俟って、空港用地内外の民有地取得問題や騒音問題をめぐって近隣住民らによる激しい反対運動が社会問題化した。

その反対運動に「革命」を目的とする新左翼の各勢力が介入したため、死者を生じるほどの警察との衝突、各種テロ事件、さらには反対運動内部での主導権を巡る派閥抗争・内ゲバといった様々な事件が発生することになった。

歴史[編集]

羽田空港再拡張の検討[編集]

全体計画図

1960年代になると、大型ジェット旅客機の増加に加え高度経済成長により年々増大する国際輸送における航空機の重要性が高まったため、滑走路の拡充による発着能力の向上が望まれた。加えて、1960年代中に就航すると予想される日本航空も発注した『コンコルド』をはじめとする超音速旅客機の就航を見越して滑走路の長大化も求められた[1]

そのため、当時の国際線の主力空港であった東京国際空港(羽田空港)の再拡張により航空需要に対応しようと検討したが、

  • 羽田空港の沖合に拡張した場合、東京港の港湾計画との調整が極めて難しい。
  • 当時の港湾土木技術では不可能であった。
  • アメリカ空軍管制区域(横田飛行場上空の「横田空域」)などとの兼ね合いから、航空機の離着陸経路の設定が著しい制約を受ける。
  • 仮に拡張できたとしても、空港の処理能力は20% - 30%程度の増加に留まる。

などの理由から[2]、羽田空港の拡張のみでは長期的航空機輸送需要に対応できないことが判明した。

新空港候補地の検討[編集]

このため、再拡張の検討に合わせて1961年ごろから新たな東京国際空港の候補地についての調査が開始された。

千葉県東葛飾郡浦安町(現・浦安市)沖の埋め立て地や、印旛郡富里村(現・富里市)、茨城県霞ヶ浦神奈川県横浜市金沢区金沢八景沖の埋め立て地などが候補地とされ[3]、埋立工事を前提に木更津沖を推す建設省との対立もあったが、1963年12月11日に運輸省の諮問機関である航空審議会が富里案を最も候補地として適当とした(空港候補地選定の詳細経緯は#年表を参照のこと。)。

木更津案を特に強硬に主張していた河野一郎が急逝した後、1965年11月18日に関係閣僚懇談会が新空港建設予定地を富里に内定し、橋本登美三郎官房長官記者会見を行った。既に候補地では反対運動が起きていたが、当時伊豆で療養していた友納武人千葉県知事も含めて地元への根回しが全くされていない状態であり、突如発表を聞いた富里地区の住民らは大規模な反対運動を展開した。当時は、下筌ダム建設時に発生した蜂の巣城紛争の経験がまだ国政に反映されていなかった。

反対運動が長引く中で友納千葉県知事と水面下での調整を進めていた佐藤内閣中村寅太運輸大臣)は、新空港建設予定地を同県成田市三里塚に変更することを1966年6月22日に発表し、そのまま7月4日閣議決定した。これは、国有地である宮内庁下総御料牧場や県有林の転用が可能なこと、またその周辺には、戦後開拓で入植してきた経済力のない農民(その多くは満州国沖縄県からの引き揚げ者)が多くいたため、民有地の土地収用も容易に進むと考えたからである[4]

政府の強権的な姿勢による空港建設と反対運動の開始[編集]

御料牧場[5]は空港予定地の4割弱に過ぎず、三里塚においても民有地の取得が最重要問題となったが、富里同様に事前説明等のないまま内定を聞いた地元住民は猛反発した。地元住民らは土地を失うことや騒音問題への懸念から「三里塚芝山連合空港反対同盟」(以下「反対同盟」と略記)を結成し反対活動を開始した。

関係者による説明・移転交渉の結果、1968年4月6日には新東京国際空港公団と条件賛成派の覚書締結により民有地の89%が確保されたが、約一割の未買収地が残ったうえ、反対派が抵抗をつづけたために買収地の測量もできない状態が続いた。政府が空港反対派への説明が不十分なまま機動隊投入等により反対派を強制的に排除しようとしたことから、結果的に空港反対派を過激化させた[6]

当初は、日本社会党日本共産党などの革新政党からの支援を受けていた反対運動だったが、反対派の主張を無視する政府の強権的な姿勢に対して、反対派農民が次第に「力には力で対抗する」という方針を固めたことにより、既成革新政党は反対運動から引いていった。これについて、公安調査庁は「社会、共産の両党が反対運動を党勢の拡大に利用しようとしたため、農民から不信感を持たれた」と分析している[7]

新左翼の支援[編集]

革新政党に代わって、「暴力革命」を掲げ、羽田事件以降実力をもってして政府と対決していた新左翼諸派が「労農連帯」「国家治安の最前線の三里塚で機動隊を打ち破る」「新空港は日本に新たな軍事基地を作るものだ」「全国住民運動の頂上決戦」などの理由により、反対派農民を支援した。既存政党に不信感を募らせていた地元住民も、「支援団体は党派を問わず受け入れる」という態度を取ったため、これを受け入れた[7]

滑走路予定地を含む未買収地が残され、国家事業である空港を早期に開港したい政府の強い要請のもと、友納千葉県知事が土地収用法に基づき行政代執行1971年に2回実行、機動隊と反対派農民・支援の激しい衝突の末、9月の第二次代執行では警察官3名が殉職し(東峰十字路事件)、ようやく一期工事の用地を取得した。反対派は1972年に、航空妨害を目的とした岩山鉄塔を建てて対抗し、政府は当初の「1972年開港」の断念を余儀なくされた。1977年昭和52年)5月6日に、この鉄塔は撤去された。5月8日、鉄塔の撤去に抗議する反対派と機動隊が衝突し、反対派支援者1名が死亡した(東山事件)。5月9日、反対派によって芝山町長宅前臨時派出所が襲撃され、警察官1人が殉職した(芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件)。

管制塔占拠事件[編集]

1978年(昭和53年)3月26日、開港直前になって日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)(第四インター)派を主力とするゲリラが、新東京国際空港の管制塔に進入し、管制塔内の機器を破壊した。また、空港の各所から、反対派農民を支援する新左翼党派活動家4千人が乱入する「騒乱状態」となる(成田空港管制塔占拠事件)。このため、開港が3月30日から5月20日に延期となった。

開港後も、反対同盟は「百日戦闘宣言」を発し、ゲリラや滑走路の延長線上にアドバルーンを上げたり、タイヤを燃やした黒煙による離発着妨害が続いたため、警察は厳重な警備を敷いた。

これに対し、政府は「この暴挙が単なる農民の反対運動とは異なる異質の法と秩序の破壊、民主主義体制への挑戦であり、徹底的検挙、取り締りのため断固たる措置をとる」と声明を出し、「新東京国際空港の開港と安全確保対策要綱」を制定したほか、国会においても「新東京国際空港の安全確保に関する緊急処置法」(現・成田国際空港の安全確保に関する緊急措置法)が議員立法により成立した。

また、管制塔襲撃事件を契機に、空港の安全確保のため、千葉県警察警備部に専従の機動隊「新東京国際空港警備隊」(現・千葉県警察成田国際空港警備隊)が発足した。

国民感情との乖離[編集]

この様な、過激な破壊行為による反対運動に対しては、主に警察力を用いた封じ込め策が図られたものの、中核派はそれを嘲笑うかの様に、1978年5月5日、京成電鉄が開港後の空港連絡列車「スカイライナー」に投入するため新製し、車庫に留置されていた特急AE形車両放火し、4両を全半焼させるというテロ事件京成スカイライナー放火事件を引き起こした。また、5月19日にも京成本線5ヶ所で同時多発列車妨害事件を引き起こした。

地元住民の生活の足である『京成電鉄へのテロ行為』は、もはや空港反対運動の枠を超えた地域の社会基盤そのものへの破壊活動であり、空港周辺部以外の京成線沿線の住民からの反対派への白眼視を招いたのみならず、この頃始まった新左翼そのものの衰退や、当初の目的である開港阻止が叶わなかったことで『成田空港粉砕』を唱え、より先鋭化の傾向を見せる反対派に対して、国民感情は加速度的に乖離していった。

その後の管制塔占拠事件も含めて、空港反対派と新左翼は同列視されるようになり、大半の国民が反対運動そのものを「特異な思想を持った限られた人間による反社会的テロ行為」として捉えるようになっていった。また、政府の断固たる姿勢と開港、運用の開始、そのために空港とその周辺地域に敷かれた厳重な警備態勢は、反対派の存在を多くの国民から有名無実化させていった。

また、農村部の過疎化が加速し始めた時期とも重なり、農業以外に地場産業を持たず、かつては当地の一大産業であった馬畜産・競走馬生産とそれの周辺産業も離れ始めた三里塚地域としても、このまま衰退するよりは、成田空港と共生する道を模索するべきという意見が、主流派を占めるようになっていった。

反対運動が始まった当初は、反対派の主張に対して同情的な面を見せることもあったマスメディアの多くからも、この頃には新左翼とテロリズムの影ばかりが目立つ状況に距離を置かれるようになるなど、反対派は孤立無援の状況へと徐々に追い込まれていった。

他方で、新左翼テロリストらの多くは尚も活発にテロを行い、後述するように反対派住民にとってさえ進めば地獄で退いても内ゲバが待つだけという泥沼化の事態に至り、当初は純粋に政府の一方的な空港建設計画の反対を企図して参加した住民の多くが心身を疲弊させるとともに、やがて反対運動それ自体が、日本の社会に対する説得力を失ってゆくこととなる[要出典]

そして、成田空港問題とその泥沼化を他山の石とする形で、その後の全国各地の多くの高速道路鉄道原子力発電所ダムなどへの反対運動では、自勢力拡大という目的を伏せて反対運動に接近する新左翼の活動家たちの存在を、反対運動を立ち上げた住民自身が、強く警戒するようになった。状況次第では、新左翼勢力と繋がりを持つ『市民運動家』や新左翼勢力を積極的に自陣営に引き入れようとする人物を反対運動の組織の主流派が自ら排除に動いたり、さらには本来は対立関係にある行政などとも連携して新左翼勢力やその関連人物の排除する、などといった動きも見られるようになっている[要出典]

一坪再共有化運動に端を発する内紛(内ゲバ)[編集]

1980年代に入っても、反対運動は一定の力を維持し、二期工事の着工をしばらく阻んでいたが、反対同盟は主に「一坪再共有化運動」や「立木トラスト[8]の是非をめぐって1983年3月8日に分裂し、「一坪再共有化運動」を「土地の売り渡し」「金儲け運動」として反対した中核派[9]らは「北原派」を、「再共有化」を推進する第四インター派らは「熱田派」を支持した。

3月8日には、のちの「熱田派」が「総会」、のちの「北原派」が「実行役員会」をそれぞれ開催した。芝山町千代田公民館で行われた「総会」には反対派農民160人が出席し、「中核派支持色が強い」とされた北原鉱治事務局長の解任に反対派農家194戸のうち145戸が賛成、25戸が反対、24戸が保留し、北原の解任を決定した。また、中核派との共闘を絶つことも同「総会」で確認された。

一方、成田市天神峰「現地闘争会館」で開催された「実行役員会」には、反対派農民58人が参加。「一坪再共有化運動」を推進する青年行動隊の石井新二を「反対同盟から除名した」とし、22人を「反対同盟の役職から解任した」とした。

中核派の「再共有化」反対論は「再共有化運動」に対する「空港用地内農民」の反発を背景にし「北原派」の中心部分は「用地内農民」だったが、石井武のように「用地内農民」で「熱田派」に加わった者もいる。逆に「一坪再共有化」を推進した「用地外騒音地域農民・住民」の多くは「熱田派」についたが、「北原派」についた「騒音地域農民・住民」(戸村一作夫人など)も存在する。

また、中核派は、第四インター派を「公団に土地を売り渡そうとする新しい型の反革命」と規定して、1984年1月、全国一斉に五箇所の第四インター派メンバー宅を襲撃、一人に頭蓋骨陥没させる重傷を負わせる暴行を働いた。7月に再び一斉に三箇所の第四インター派メンバー宅を襲撃、一人に片足切断の重傷を負わせる暴行を働いた。あるいは中核派は「熱田派」農民や第四インター派メンバー、あるいは「一坪共有者」の自宅や職場を「訪問」または脅迫電話を掛けて「次はお前だ」などと組織的に恫喝を行った。

用地内農民を中心に形成された「北原派」だが、1987年9月に、やはり中核派への反発を背景に、用地内農民の大半が離脱して「小川派」が結成された。「北原派」反対同盟および中核派は、「熱田派」農民と伴に「小川派」に対しても「脱落派」と規定して、激しく非難・攻撃した。

しかし、1998年に中核派は「脱落派の再共有化に応じた人びとを含む全国1,200人の一坪共有者に訴える。その権利を絶対に守り抜くことは人民の正義であり、三里塚闘争勝利のために不可欠である」と、「一坪再共有化運動」に対する態度をそれまでの総括なく、180度転換した。ただし、第四インター派へのテロ事件、非北原派の反対派農家への脅迫や恫喝については、一切謝罪をしていない。

このような反対運動の迷走に嫌気をさし、移転に応じた地権者も多くいた。地価の高騰もあり、移転先には「闘争御殿」「ゴネ得御殿」と揶揄された豪邸が立ち並んだ。地権者の希望に応じて代替地に整備を加えたため、空港公団の負担額はさらに増大した。しかしその元地権者らも、反対運動を続けていたことによる移転先での偏見や農業を続けるにあたって必要不可欠な人間関係の再構築などに耐えねばならず、受け取った大金をめぐっての親族争いに巻き込まれた者や補償金を元手に始めた事業に失敗した者も少なくなかった[10]。また、移転先への過激派による放火等も相次いだ。

収用委員会に対するテロ[編集]

新左翼テロリストの暴走は第四インター派メンバー襲撃事件を契機に加速し、一般人をターゲットとしたテロ攻撃を起こすことになった。1985年(昭和60年)10月20日には千葉県成田市の三里塚交差点で空港反対同盟(北原派)支援の新左翼党派と警視庁機動隊が衝突した事件が発生(10.20成田現地闘争)。

1988年(昭和63年)9月21日には、千葉市内の路上で、当時千葉県収用委員会会長だった弁護士の小川彰が、フルフェイスヘルメットを被った数人に襲撃される(千葉県収用委員会会長襲撃事件)。小川は全身を鉄パイプで殴られ、両足と左腕を骨折するという重傷を負い、このテロによる重い後遺症に苦しみ、2003年(平成15年)2月入水自殺する。このテロに中核派は犯行声明を出し、収用委員に組織的に脅迫状、脅迫電話などを送り続けた。これにより収用委員全員が辞任し、千葉県収用委員会は2004年(平成16年)に再始動するまでの16年間、完全に機能停止に追い込まれた。

円卓会議と政府の謝罪[編集]

強権の発動で、新東京国際空港を開港させた政府だったが、強固な反対派住民の土地取得もままならず、空港二期工事(第2空港ターミナルビル周辺の整備・B滑走路の建設)の着工する事さえ、おぼつかない状況に陥った。

1991年平成3年)11月から、隅谷三喜男東京大学名誉教授ほか4名の学識経験者(隅谷調査団)主宰の基、熱田派との「成田空港問題シンポジウム」が15回に渡って公開討論会が開催され、引き続き1993年(平成5年)9月から、12回にわたって開催された「成田空港問題円卓会議」で、今後の新東京国際空港の整備を、民主主義に基づく対等な話し合い手続きで進めていくことが確認された。

円卓会議の結論を受け、最終的には1995年(平成7年)に、当時の内閣総理大臣村山富市が、政府を代表して、それまでの政府による強権姿勢を謝罪し、土地収用法に基づく行政代執行による成田空港の土地強制収用の手段を放棄した。この謝罪は、地元の一定の評価を得て、その後二期工事への土地収用と集団移転に応じる農民地主が出てきた。

三里塚闘争は、それまで強制的に進めることが当たり前だった、日本の公共事業のあり方を一変させた出来事だった[6]

反対運動の現在[編集]

かつては新左翼テロリスト党派によるテロ・ゲリラ事件などが多発し、空港建設や正常な空港運用に支障をきたしていたが、隅谷団長を始めとする中立委員の努力や政府の謝罪などもあって反対派住民の移転と反対運動からの離脱も進んだ(ただし、近年においてもテロを継続している組織もあり、2008年には革労協が成田空港敷地内へ迫撃弾を撃ち込む事件を起こしている)。

二期工事のうち、平行滑走路(B滑走路)については1996年には暫定滑走路を建設する案が計画され、2002年に暫定滑走路として供用開始した。この新滑走路は、反対派農家の未買収地を残したまま建設され、農家の軒先数十メートルの誘導路をジェット機が通過するという状況が続いている。

また、未買収地を滑走路側に迂回して建設されたため、誘導路は「く」または「へ」の字形に屈曲しており、航空機が離着陸する時には、他の航空機の移動が制限される。2002年12月1日には、誘導路上北緯35度47分06.65秒東経140度23分26.11秒で航空機同士の接触事故が発生した。2011年、屈曲部の改良工事がされた。

現在も、主に暫定滑走路延長線直下の騒音地帯にある、東峰部落住民を中心とする反対派農家は、「現在の暫定滑走路建設や北伸延長を進める手法も当初からの政府のやり方と何も変わっていない」と批判し、「成田空港廃港」を頑なに主張し続けている。

だが、成田周辺に数多くの空港関係者・航空関係者も暮らすようになり、「空港と地域の共生」「空港の活性化による地域経済の浮揚」と言う意見が地域の大勢として掲げられている中で、反対派はもはや完全に孤立化している状況であり、反対運動全盛期からの関係である熱心な支援者や組織によって、どうにか支えられているのが実情である。しかし、かつて積極的に支援してきた第四インター日本支部(現・JRCL)などの新左翼は沖縄の反基地運動、反原発運動に力を注いでおり、成田空港問題の取扱いや関心は総じて低い。また、反対運動初期から支援してきた国鉄千葉動力車労働組合なども近年組合員や構成員の減少に歯止めがかかっていない。さらに、反対派農家や支援組織の多くも、反対運動全盛期から半世紀を迎え、運動員の高齢化などの問題を孕んでいる。

2002年の平行滑走路(B滑走路)供用開始後は、一部の一坪共有地団結小屋を除き、天神峰地区および東峰地区(東峰神社を含む)のB滑走路南端およびB滑走路誘導路の予定敷地が未買収のままであり、反対同盟(北原派、熱田派)が反対運動を行っている。

地元の新たな危惧[編集]

二期工事真っ只中の2000年平成12年)、羽田空港の再拡張と、羽田発着定期国際線復活、羽田24時間運用の報が流れる。ほぼ時を同じくして、茨城県航空自衛隊百里飛行場の軍民共用化により、首都圏に第3の国際線空港茨城空港」の開港が決定する。地元の危惧は羽田の再拡張と茨城空港の開港による成田空港の「地位低下」という、建設開始時とは180度正反対のものになっていた。2014年平成26年)3月30日の2014年夏ダイヤでは、羽田空港国際線枠の拡大で、羽田国際線が増便の一方、逆に成田空港では、日本航空が13便を、全日本空輸が25便を減便する現象が起きている[11]

2009年平成21年)10月13日鳩山内閣前原誠司国土交通大臣(当時)は、定例記者会見にて「韓国仁川国際空港日本ハブ空港を取られている。日本にハブ空港を作らなければいけない。ハブ空港になり得るのは羽田だ」と発言し、今後は羽田空港を日本のハブ空港として整備する旨の発言があった[12]

成田空港は、東京都区部をベースとする空港として捉えた場合、都心との距離が開いているため、アクセスや利便性に優れた空港とは言い難く、羽田空港に国際線乗り入れが再開されたため、相対的に成田空港の地位が低下する。又、成田空港では国内線の便数が極端に少ない。

茨城空港は、航空会社へのPRとして「着陸料が成田の6割」である事を掲げており、利用促進に向けて、格安航空会社を中心に、新規路線やシェアの獲得を図っており、利用者に対しても、空港敷地内の駐車場料金を無料にしたり、東京駅までの高速バス利用者に対して格安運賃を設定するなど、便宜を図っている。そのため、一部国際線の逸走に繋がる可能性がある成田空港にとっては、対抗上さらなる空港整備の進捗によって、利便性や24時間運用・発着機能の向上を目指す必要がある。

反対運動の影響[編集]

ドイツミュンヘン国際空港はこのような紛争を避けるため、成田空港の事例について徹底した研究分析を重ね、これを元に反対派を十分に説得した上で建設されている(着工後、5年ほどで完成)。日本でも、成田での経験を元に大規模空港は騒音問題等が発生しにくい海上に造られるようになった。それでも関西国際空港の工事中には、成田空港反対派系の団体が空港建設の見学船を放火するテロ事件(横浜ヨット小型旅客船爆破事件)を起こしている。

年表[編集]

役職はいずれも当時のもの。

1960年代[編集]

  • 1961年:運輸省が羽田空港の処理能力の限界を見越して新空港の検討を開始。
  • 1962年
    • 3月31日:平成37年度予算に新空港調査費118万円が計上される。
    • 11月16日:羽田空港の行き詰まり打開策として、池田内閣が第2国際空港建設方針を閣議決定。
  • 1963年
    • 5月1日:航空局に東京第2国際空港計画室が設置される(翌月「新東京国際空港計画室」に改称)。
    • 6月10日運輸省航空局が「新東京国際空港」(いわゆる「青本」)を発行。立地箇所は特定せず。
    • 6月中旬:綾部健太郎運輸相が「浦安沖案」、河野一郎建設相が「木更津沖案」を発表。
    • 7月4日:綾部運輸相、河野建設相、川島正次郎国務大臣、友納武人千葉県知事が初の四者会談。木更津案を推す河野が「羽田など廃港にしてしまえばいい」と怒鳴るなど険悪な雰囲気となる。新空港立地を「東京湾沖千葉県側」とすることで一旦合意。
    • 7月30日:運輸省内で新空港関係各省の実務者での打合せが行なわれ、航空管制上の問題から浦和沖を推す運輸省と埋立工事を考慮して木更津を適地とする建設省が対立する。この中で内陸部を含めて検討を行うこととなり、千葉県富里村と茨城県江戸崎町が候補に挙げられる。運輸省では前年11月の閣議決定より前に極秘裏に富里を最有力候補として検討していたとされる[13]
    • 8月20日:綾部運輸相が候補地および規模について航空審議会に諮問、富里案が公式に登場する。
    • 8月27日:第2回四者会談で綾部運輸相が「東京湾案」に加えて「霞ヶ浦案」・「富里村付近案」を追加提案。木更津案を譲らない河野と口論になる。
    • 9月12日:友納千葉県知事が「運輸省は富里村案を検討中」と県議会全員協議会で報告。
    • 9月18日:この日から富里村・八街町の推進派と賛成派の双方が陳情を開始。
    • 12月11日:空港審議会が第一候補・富里村付近、第二候補・霞ヶ浦と答申。
  • 1964年
    • 3月4日松永安左エ門の私設シンクタンクである産業計画会議が、新空港の建設整備と運営には民間方式を組み入れることや、羽田空港との管制問題など既存施設にとらわれることなく東京湾内中北部海域(千葉県木更津・幕張沖等)・首都圏東部(八街・冨里地区)・首都圏西南部(厚木・相模原地区)等なるべく数多くの候補地について技術的調査と経済的な検討を行うことを勧告[14]
    • 3月22日日本社会党千葉県委員会が「新空港設置反対」を決議。
    • 5月26日:閣議で「浦安案」を推す河野建設相と「富里案」を推す綾部運輸相が激しく議論する。
    • 8月17日:友納千葉県知事が「木更津沖なら積極的に誘致、内陸なら消極的にならざるを得ない」と立場表明。
    • 9月15日:新空港建設について「関係閣僚懇談会」(関係閣僚懇)発足。
    • 11月10日佐藤栄作内閣が発足。
    • 11月13日:河野国務相が「富里・木更津・霞ヶ浦・羽田沖の四候補地を白紙に戻し、再検討を考慮中。500戸以上の移転は不可能」と発言。
    • 12月18日:閣議で「新空港建設に関する基本的態度」を確認。「新空港は1970年完成を目標とする」「候補地についてはさらに検討」など。
    • 12月23日:富里村の空港反対派が「血判状」を佐藤栄作首相に提出する。
  • 1965年
    • 3月3日:友納千葉県知事と佐藤首相が会談し、新空港の設置決定の際事前に地元に相談することを首相が約束する。
    • 4月1日:関係各省事務次官会議で、空域[15]・渉外[16]・土木技術[17]の3小委員会が設置される。
    • 4月5日:霞ヶ浦沿岸の漁民らが「空港設置反対集会」を開催。
    • 6月1日:参議院運輸委員会で新東京国際空港公団法案が可決成立。翌日公布(施行は'66年7月7日)。
    • 6月16日中村寅太運輸大臣が空から視察を行い「富里と霞ヶ浦のいずれか」と言明。
    • 7月8日:木更津案の推進者であった河野一郎が急死する。
    • 9月11日:霞ヶ浦沿岸の漁民1,000人が漁船300隻で湖上反対デモを行う。
    • 10月18日:友納千葉県知事が胃潰瘍治療のため入院。
    • 11月15日:富里村空港反対派がトラクター50台で千葉県庁までデモを展開。知事室に乱入する騒ぎとなる。
    • 11月18日:関係閣僚懇談会が新空港を富里に内定、橋本登美三郎官房長官が記者会見で発表。根回しがされていなかった友納千葉県知事が翌日の閣議決定の延期を要請。
    • 11月19日:千葉県側が「富里案内定」の発表に「事前連絡不充分」と不満を表明。
    • 11月25日:富里村議会と八街町議会が、それぞれ「空港設置反対」を決議。
    • 11月27日:富里・八街・山武の「空港建設同盟連合会」が、運輸省に「建設促進」を陳情。
    • 12月13日:千葉県が運輸省に「土地補償等」「代替地」「騒音対策」「職業転換対策」の4原則を提示。
    • 12月21日酒々井町議会が「空港建設反対」を決議。
    • 12月24日芝山町議会が「空港建設反対」を決議。
  • 1966年
    • 2月7日:富里の空港反対派1,500人のデモ隊が、千葉県庁に乱入する。
    • 2月28日:友納千葉県知事が地元無視の政府の態度に不満を示した上で、「政府に条件を提示しない。地元住民に説得もしない。事態の推移を見守る」と態度表明する。
    • 3月4日:閣議で「臨時新東京国際空港関係閣僚協議会」(関係閣僚協)を決定。
    • 3月11日自民党新東京国際空港推進本部が「閣議協の決定に拘らず富里案を基本的に検討する。冨里以外の候補地も検討する」と表明。
    • 5月14日:川島正次郎自民党副総裁が富里案の撤回と羽田拡張・木更津との一体化を佐藤首相に提案。後日、友納千葉県知事がこれを歓迎。
    • 5月18日:富里・八街空港反対同盟が農地不買運動(一坪マンモス登記運動)を開始する。
    • 6月7日:中村運輸相が「新空港問題は大詰めの段階を迎えたが、冨里地区に建設されると思う」と発言。
    • 6月8日:千葉県空港調査室が「三里塚案」について検討。
    • 6月17日:富里案に地元の反対運動が激化し、自民党政調会が三里塚案を提出する。川島副総裁が友納千葉県知事に経過説明。
    • 6月21日:中村運輸相が「新空港は富里・八街しかない」と発言。
    • 6月22日:佐藤首相が友納千葉県知事に、面積を原案の2分の1に圧縮した三里塚御料牧場での空港建設案を提示[18]。三里塚・芝山の地元住民が報道で三里塚案を初めて知る。
    • 6月25日:友納千葉県知事が成田市役所を訪問し、藤倉武男成田市長に新空港建設の協力を要請。同日、藤倉市長による住民向け説明会が三里塚小学校で開かれたが、市長は理解と協力を求めるのみで住民からの質問に応えることができずに大荒れとなる。
    • 6月28日:三里塚新国際空港反対同盟が3千名の参加で結成される。三里塚の農機商店を営むクリスチャン戸村一作を代表とする。遠山中学校にて「新空港反対総決起集会」を開催。同日、佐藤首相が下総御料牧場の栃木移転を昭和天皇に内奏。
    • 6月29日:運輸省が三里塚での新空港設置計画を発表。同日千葉県議会において、友納知事が、政府が補償対策に誠意を尽くすことを条件に「三里塚案」の受け入れを表明。
    • 6月30日:芝山町農協主催で反対集会が開かれ、芝山町空港反対同盟が結成される。
    • 6月30日:千葉県民ホールで新空港説明会が開催される。
    • 7月2日:友納千葉県知事が正式に三里塚案を了承。
    • 7月4日佐藤栄作内閣が、新東京国際空港の建設予定地を千葉県成田市三里塚地区の宮内庁下総御料牧場付近に閣議決定。1971年4月を開港目標とする。翌日、新東京国際空港の位置を定める政令公布。
    • 7月4日:千葉県議会が「三里塚空港建設促進決議」を、成田市議会が「三里塚空港建設反対決議」をそれぞれ可決。
    • 7月:閣議決定後に江口榛一宅で戸村代表と友納知事が遭遇し、談笑する[19]
    • 7月6日:千葉県が「国際空港相談所」を設置。
    • 7月7日新東京国際空港公団法施行。現地説明会開始のため、第一陣となる運輸省の係官7名が成田に到着する。中央官庁による地元説明は日本初。
    • 7月10日:三里塚公園で三里塚空港反対同盟及び芝山町空港反対同盟が主催する「新空港閣議決定粉砕層決起大会」が行われ、4000人が集結する。三里塚地区と芝山町の反対派農民・住民が連合して三里塚芝山連合空港反対同盟を結成[20]。代表は三里塚の戸村一作が就任する。
    • 7月20日:芝山町議会が「成田空港建設に強く反対する決議」を可決。
    • 7月28日:千葉県農業開発公社が富里村の空港賛成地主と第一回の買収交渉を行う。
    • 7月30日新東京国際空港公団 (NAA) 設立。初代総裁に成田努が就任[21]。副総裁は今井栄文。
    • 8月2日:成田市議会が、7月4日の「建設反対決議」を白紙撤回。
    • 8月25日:条件賛成派[22]166人による「成田空港対策部落協議会」が発足。
    • 8月27日:反対同盟が「一坪共有化運動」を開始。
    • 8月29日:反対同盟が天神峰の2ヶ所を共有登記する。
    • 8月30日:初の条件派の部落協議会が発足する。
    • 8月31日:反対同盟、最初の行動として運輸省及び宮内庁に800名で抗議・陳情行動を行う。
    • 9月12日:臨時閣僚協、用地買収価格を決定。
    • 9月19日:条件賛成派51人によって「成田市十余三地区経営対策協議会」が発足。
    • 9月30日:空港公団が、地元住民に対する第1回説明会を開催。土地買収価格などについて説明。
    • 10月14日:条件賛成派20人によって「成田国際空港桜台対策協議会」が発足。
    • 11月5日:条件賛成派72人によって「成田国際空港条件闘争連盟」が発足。
    • 12月12日大橋武夫運輸相が、空港公団に「平行滑走路2本、横風用滑走路1本」の基本計画を指示。
    • 12月16日:反対同盟が天神峰に最初の団結小屋(現地闘争本部)を建設。以後、駒井野、天浪、東峰、木の根などに逐次建設。
    • 12月27日:芝山町議会が、「富里案」時代の「空港設置反対決議」の白紙撤回を決議。反対同盟員500人が傍聴し異議申し立てをしたが、機動隊が投入されて排除された。
  • 1967年
    • 1月10日:航空法に基づき新空港工事実施認可の公聴会が開かれたが、反対同盟員400人の入場が阻止された。
    • 1月23日:工事実施計画が認可される。
    • 2月3日:施設配置のマスタープラン策定のため、有識者による空港公団総裁の諮問機関「空港計画委員会」が設立される。
    • 3月13日:友納知事、大橋武夫運輸相に地元対策への協力要請。騒音対策など9項目を申し入れ。
    • 3月18日:富里村議会が、66年11月25日の「空港反対決議」を白紙撤回。これにより、行政単位の反対は皆無となる。
    • 5月10日:友納知事が佐藤首相に地元対策への協力要請。
    • 6月26日:条件派2団体との会談のために成田を訪れた大橋運輸大臣に対して、反対同盟が抗議行動を展開。一時京成成田駅が占拠され、運輸相らは缶詰め状態となる。
    • 8月1日公共用飛行場周辺における航空機騒音による障害の防止等に関する法律(騒防法)が公布される。
    • 8月5日:反対派農家の子どもたちによる「少年行動隊」が結成される。
    • 8月8日米軍燃料輸送列車事故が発生。後に動労千葉が暫定輸送阻止闘争を行う際の根拠となる。
    • 8月14日:条件派が外郭測量に同意。
    • 8月15日:空港反対同盟と三里塚国際空港反対千葉県共闘会議(社会党・共産党らの革新政党の共闘組織)が「三里塚空港粉砕・強制測量実力阻止平和集会」を千葉市内で共催。反対派農民が千葉県庁に座りこみ、「少年行動隊」が知事あての抗議文を副知事らに読み上げる。翌16日、反対同盟は「あらゆる民主勢力との共闘」を確認する声明を発表。新左翼諸党派の支援が開始される。
    • 8月15日:戸村一作が三派全学連の代表と会談。
    • 9月1日:大橋運輸大臣が測量延期を発表。同日、三派全学連の秋山勝行委員長が反対同盟の集会で挨拶。
    • 9月25日:「老人行動隊」が結成される。
    • 10月2日:成田公団総裁が辞職、翌日今井栄文が総裁に昇格。
    • 10月8日第一次羽田事件が発生し、新左翼党派による実力闘争が本格化する。
    • 10月10日:空港公団による外郭測量のための杭打ちに、初めて機動隊が動員導入される。2千名の機動隊に反対同盟農民1千2百名が座り込みなどで対抗し、三里塚現地での最初の実力闘争となる。逮捕者2名、負傷者数十名、重傷1名。日本共産党の支援部隊は、衝突の最中に座り込みを解除して合唱を始めるとともに、農民に実力行使の中止を求める。これに対し農民は反発し、反対同盟農民が共産党が訣別し反代々木系学生と提携し反対運動が過激化する直接の原因となる。機動隊の実力行使により農民らは排除され、1時間程度で空港公団が予定していた3本の杭が打たれる。(測量クイ打ち阻止闘争
    • 10月16日:10日に空港公団が打った杭が何者かに引き抜かれ、空港公団は再び、1トンのセメントで固めた杭を打ち直す。4時に衝突が起こり、公団は作業を中止するが、反対派農民は2名逮捕される。
    • 10月21日:芝山町の条件派7団体が「芝山町空港対策連絡協議会」を結成。
    • 11月3日:三派全学連の150人が初めて現地入りして三里塚第一公園で開かれた県反戦青年委員会などが主催する集会に参加した後、空港予定地までデモ行進を行った。これをもって新左翼の介入が始まる
    • 11月29日:初の用地買収契約締結。(→伊藤音次郎
    • 12月15日:反対同盟が総会を開いて、日本共産党の支援と介入を排除することを決定する。10月10日の杭打ち阻止闘争以降、共産党は反対同盟幹部を名指しで批判するビラ撒きや反対同盟切り崩しのオルグ活動を行っていたことから、反対同盟との決定的な決裂に至った。
    • 12月21日:初の関係閣僚協で空港関連公共事業大綱が定められる。新御料牧場建設計画発表。
  • 1968年
    • 2月26日:反対同盟・三派全学連砂川基地拡張反対同盟が、成田市役所下にある成田市営グランド(現・栗山近隣公園)で「三里塚空港実力粉砕・砂川基地拡張阻止現地総決起集会」を共催。約1,000人が参加した全学連は、プラカードの板を外したゲバ棒を武器に、市役所に併設されている空港公団分室への突入を図り千葉県警機動隊と衝突。反対派は数十名の逮捕者を出したほか、戸村一作はじめ155人の負傷者を出す。一方、この時動員された機動隊約3000人は主に普段交番勤務をしている警察官の寄せ集めで装備も不十分であり、716人が重軽傷を負った。この混乱に乗じて反対派農民が空港公団分室に侵入して空港の設計図面を盗み出し、その図面が後の成田空港管制塔占拠事件での作戦立案に用いられた。
    • 3月3日:友納知事が成田赤十字病院に入院中の戸村代表を見舞う。
    • 3月10日:空港反対同盟と全国反戦青年委員会共催で「空港粉砕・ベトナム反戦総決起集会」を成田市営グランドで開催、総勢4500人が集結する。警察側では2月26日の集会で大きな被害を出したことから、有刺鉄線などで市役所と空港公団分室を要塞化するとともに、歴戦の警視庁機動隊を含む4700人の大警備陣を動員した。集会後、機動隊と墓地に隠していた凶器等で武装したデモ隊が大規模衝突を起こす。機動隊はガス弾でもデモ隊を止められなかったが、催涙剤を混ぜて放水することで漸く沈静化させた。衝突後に反対派が解散集会を開いていたところへ機動隊5000人が規制を開始し、反対派に対し野次馬もろともガス弾を打ち込んだうえで突入した。空港反対派に100人以上の逮捕者を出した。この日の負傷者は機動隊453人、反対派は1000人以上。また、この集会に附随してTBS成田事件が発生した。
    • 3月31日:反対同盟と新左翼運動が連帯した三度目の全国結集の大集会を開催。成田市営グランドが使用禁止され、三里塚第二公園で開催。集会後、公団分室に向けてデモ行進。機動隊と衝突し、逮捕者235名、空港反対派に300名以上の負傷者を出す。
    • 4月6日中曽根康弘運輸大臣立ち会いのもと、空港公団と条件賛成派4団体との間で「用地売り渡しに関する覚書」[23]が取り交わされる。これにより空港用地民有地の89%(597ヘクタール)が確保された
    • 4月20日:空港公団による、土地売渡同意書提出者約300世帯の家屋立入り調査が開始される。
    • 4月21日:一連の衝突の件で、農民4人を逮捕する。
    • 4月23日:土地売渡し農家への立ち入り調査が始まり、7月18日まで続く。
    • 5月10日:新左翼各派と各地の住民団体が「三里塚闘争支援連絡会議」(支援連)を結成。
    • 5月12日ボーリング調査に抗議していた青年行動隊員・島寛征が逮捕される。反対同盟は成田警察署に大挙して押しかけ、即日釈放される。
    • 5月27日:天神峰と駒井野への立ち入り測量に抗議した反対派が、機動隊300名と衝突。逮捕者2名。負傷者2名。
    • 6月5日:木の根部落で、反対派農民300名が立ち入り測量の職員を蹴散らすが、機動隊との衝突で反対派2名が重傷を負う。
    • 6月15日:再び、木の根部落への立ち入り測量で衝突。婦人行動隊員1名逮捕される。反対派に8名の負傷者。
    • 6月30日:三里塚第二公園で「全国総決起集会」を開催。5千名の結集。
    • 7月12日:芝山町千代田で立ち入り測量に対して、老人行動隊が、初めて人糞を用いた抗議行動を行う。老人行動隊1名が逮捕される。
    • 7月15日:横堀部落で、反対同盟の投石などの抵抗で、立ち入り測量の公団職員と機動隊が立ち往生する。
    • 7月17日:反対同盟が測量地点にバリケードを築いて、終日阻止行動を展開。逮捕者1名。
    • 7月18日:空港公団、立ち入り測量の終了を宣言。
    • 8月7日:空港計画委員会が、新東京国際空港の計画(第一期工事)について最終報告をした(予定より4ヶ月遅れ)。
    • 11月24日:反対同盟が「三里塚空港粉砕・ボーリング調査阻止全国総決起集会」を開催。それまでの最大規模の8千名が結集。空港公団は「年内のボーリングと調査の工事開始は困難」と発表する。
    • 12月12日:京成新空港線認可申請
    • 12月19日:青年行動隊2名が、公団職員を発見して叩き出す。2名は同日夜に逮捕される。
    • 12月26日:空港計画委員会の最終報告を受け、空港公団は運輸省に対し新空港の工事実施計画変更の許可申請を行った。(1969年1月25日許可)
    • 12月29日:反対同盟の連日300名の成田警察署への抗議行動により、19日逮捕の2人は釈放される。
  • 1969年
    • 2月5日:条件賛成派が警備会社及びショッピング・センターを設立。
    • 3月30日:反対同盟が「公団の『四月着工』声明粉砕・事業認定申請粉砕全国集会」を開催。1万2千名の結集。
    • 4月18日:老人行動隊が、空港予定地の御料牧場の存続を宮内庁に請願。
    • 4月21日:国鉄成田駅から土屋地先に至る約2.9キロメートルの資材輸送の専用鉄道工事が着工する。
    • 8月18日:御料牧場閉場式に、反対同盟200名が抗議行動。青年行動隊が乱入し、翌9月8日に青行隊8名が事後逮捕されるが、萩原進行動隊長の行方が知れず、萩原は指名手配となる。翌日から新御料牧場への移転開始。
    • 9月13日:空港公団が、土地収用法に基づく新東京国際空港建設事業の事業認定を申請。
    • 9月19日:空港建設工事(工事用道路)が着手される。
    • 9月20日:A滑走路工事が着工(完成は1973年4月30日)。
    • 9月28日:事業認定粉砕全国集会開催。1万3千名が結集した。
    • 10月5日:反対同盟が、ボーリング調査阻止の連続闘争を11月12日まで展開する。
    • 10月14日:成田警察署員が、指名手配中の萩原宅にいた青行隊員・柳川秀夫を萩原と誤認して逮捕する。反対同盟100名が成田警察署で抗議行動を展開、即日釈放となる。
    • 10月24日:空港建設工事に初めてブルドーザーが投入される。
    • 11月6日:萩原進が、自宅で作業中に逮捕される。
    • 11月12日:反対同盟が、工事用道路に座り込みブルドーザーを阻止する。反対同盟戸村代表ら13名が逮捕される。
    • 12月16日坪川信三建設大臣が土地収用法に基づく「事業認定」を承認し、告示される。

1970年代[編集]

  • 1970年
    • 1月15日:「強制測量粉砕・収用法粉砕全国総決起集会」が開催され、7000人が集結する。
    • 2月19日:土地収用法に基づく立入調査に対抗し、反対同盟が「第一次強制測量阻止闘争」に取り組む(翌日まで)。「少年行動隊」に属する生徒らも同盟休校と称して学校を休んで参加し、以降家族ぐるみの阻止闘争が実施される。
    • 2月26日:空港管理ビル建設工事が着工する。
    • 3月3日:空港公団が、千葉県収用委員会に対し第一次収用裁決を申請。
    • 3月13日:反対同盟が「事業認定取消請求訴訟」を起す。
    • 3月15日:第1旅客ターミナルビル建設工事が着工する。
    • 3月28日新東京国際空港周辺整備のための国の財政上の特別措置に関する法律(成田財特法)が公布、施行される。
    • 4月28日:資材輸送専用鉄道が部分開通する。
    • 5月14日:「第二次強制測量阻止闘争」
    • 6月12日:千葉県収用委員会が、第一次収用裁決申請に係る公開審理を開始。この日開かれた第一回公開審理を、反対同盟の1千名が傍聴。少年行動隊は「同盟休校」で闘争に参加した。反対派の抗議などで会場は混乱した。
    • 6月18日:千葉県収用委員の飯田朝教授が再任辞退を表明、「収用委員をやっているというだけで、全国から手紙や電報が舞い込み、電話が夜中にかかってくる。まるで土地を奪う悪代官のような扱いだ」「これ以上、委員をつとめるのは苦しい」と述べる[24]
    • 7月8日:エプロン工事が着工する。
    • 8月4日:誘導路建設工事が着工する。
    • 8月6日:用地交渉中の公団職員が暴行され、1人が重傷、車両大破。
    • 8月26日:「第一次申請分」六筆の土地に収用委員会の現地調査が行われる。反対同盟が1千名で阻止闘争を展開。3名逮捕。1名が手錠のまま逃走する。
    • 8月26日:資材輸送専用鉄道が全線開通。
    • 9月1日:千葉県収用委員会が第二回公開審理。混乱により開会も宣言できずに終わる。委員らが学生や青年行動隊から暴行を受け、1人が肋骨を折る怪我。
    • 9月2日:千葉県収用委員会が第三回公開審理。警察の警護下で開会を宣言するが反対同盟が審議に応じず、審理をせずに終わる。
    • 9月11日:空港公団委託の業者2名が横堀部落に入るが、現地農民が抗議行動を展開。
    • 9月16日:11日の抗議行動の件で、千葉県警が反対同盟瀬利副委員長宅を家宅捜査。
    • 9月17日:11日の抗議行動の件で、千葉県警が支援学生1名を誤認逮捕。
    • 9月30日:この日から10月2日まで「第三次強制測量阻止闘争」(のちに空港反対派は「三日戦争」と名づけた)。反対同盟は、落とし穴、「白兵戦」、「黄金爆弾(糞尿)」などを駆使して抵抗する。3日間の攻防で59名が逮捕される。
    • 10月7日:空港公団、用地取得に「特別措置法を適用する」と発表。
    • 10月22日:千葉県収用委員会が第四回公開審理。反対同盟は引き伸ばしを図って会場入りを遅らせたが、その間に空港公団が無人の席に向かって意見陳述を行う。午後4時頃に反対同盟が到着し審理が進んでいる事態に演壇に詰め寄ろうとしたが、閉会が宣言され委員らは退席した。
    • 10月24日:千葉県収用委員会が第五回公開審理。反対同盟はボイコットし、空港公団による意見陳述のみで公開審理は結審扱いとなる。
    • 11月4日公共用地の取得に関する特別措置法に基づく特定公共事業の認定を建設大臣に申請。
    • 12月6日:「強制測量粉砕・全国住民運動総決起集会」が開催される。
    • 12月25日:空港内給油施設工事が着工。
    • 12月26日:千葉県収用委員会が、第一次収用裁決申請分に対する収用裁決(権利取得の時期および明渡しの期限1971年1月31日)。
    • 12月28日:11月4日の申請を受け、新空港の特定公共事業認定が告示される。
  • 1971年
    • 1月6日:反対同盟が代執行に備え強制収用対象地に「地下壕」を掘り始める。
    • 1月13日:反対同盟の小川明治副委員長が、心筋梗塞で死去。15日に同盟葬が行われた。遺言により、空港予定地内の共同墓地に埋葬された。
    • 1月22日:翌日の友納千葉県知事との会談に応じるか否かで反対同盟の実行役員会が紛糾する。
    • 1月23日:友納千葉県知事と戸村反対同盟委員長が代執行問題について会談するが、論議が平行線のまま終わる。
    • 1月30日:資材輸送専用道路が完成する。
    • 1月31日:「強制代執行反対」を掲げて、全国全共闘と全国反戦青年委員会を中心に、千葉市内で集会を行い、知事公舎にデモ。5名が逮捕される。
    • 2月11日:少年行動隊が、150名で「強制代執行の中止」を求めて公団分室にデモ。機動隊と衝突になり、少行隊員1名負傷。
    • 2月14日:「強制代執行反対」を掲げて、全国全共闘と全国反戦青年委員会を中心に、ふたたび知事公舎に向けて千葉市内をデモ。2千5百名が結集し、28名が逮捕され、デモ隊20数人が負傷する。
    • 2月15日:友納千葉県知事が行政代執行の3週間以内の実施を発表。
    • 2月15日芝山中学校で少年行動隊に所属する生徒約40人が押しかけて放送室を占拠。他の生徒に呼びかけて校内集会を開くとともに、空港問題に対する態度を明確にしない教師陣に対し詰め寄った。
    • 2月22日:6県6筆の建設予定地に対して第一次代執行が開始される。反対同盟と支援者3千名と機動隊が衝突。少年行動隊は「同盟休校」で闘争に参加。千葉地方裁判所は、反対同盟の代執行停止処分申し立てを却下する。
    • 2月24日:少年行動隊80名が公団職員らと衝突。公団は代執行を停止するが、少年行動隊3名が負傷。午後に、ガードマンが少年行動隊に暴行を加え、多数の負傷者が出る。公団分室のガードマンらが、空港公団への面会に遅参した社会党の木原実衆議院議員と三ッ松県会議員を、背後に黒ヘルメットをかぶった学生集団がいたために反対派と誤認して排除、両議員は顔などを負傷する[25]。事態に激怒した野次馬を含む群衆が「代執行開始宣言」の横断幕を引きちぎり、公団分室に投石を行った。
    • 2月24日:航空灯火工事が着工する。
    • 2月25日:「駒井野砦」で反対派が集会中に、機動隊が突入。支援者49名が逮捕。その際に「地下壕」が落盤。農民1名が重傷を負う。この日の逮捕者141名。反対派の負傷者253名。5名が成田日赤病院に緊急搬送される。
    • 2月26日:友納千葉県知事が、27日から3月1日までの代執行の停止を表明する。少年行動隊の生徒らが通う小中学校の校長らが砦を訪れるが、生徒らは闘争現場から離れることを拒絶。校長らは県と県警に生徒の安全確保を申し入れた。
    • 2月27日:代執行が一時中止される。空港公団が、騒防法に基づく学校等の騒音防止工事の助成を開始する。
    • 3月2日:代執行再開。機動隊が2千3百名に増強される。これに対し反対同盟と新左翼党派が対峙。更に、事前に反対同盟が行っていた呼びかけに応じて集まった「野次馬」約3千名[26]が、中に紛れ込んだ支援学生らのアジテーションを受けつつ、投石を行ったり阻止線を作るなどして終始反対同盟側を支援した。更にテレビ局が中継車を反対同盟の砦に横付けしたため、機動隊と空港公団はほぼ手を出せぬまま撤収する。同日、故小川明治副委員長の四十九日の慰霊祭が砦内でとり行われる。この日の逮捕者13名。反対派の負傷者20名。成田日赤病院への緊急搬送3名。
    • 3月2日:過激派集団の実力闘争による反対運動に反対する住民らが「三里塚空港から郷土とくらしを守る会」を結成する[27]
    • 3月3日:機動隊が3000人に増強され、現場周辺の道路で「野次馬」を閉め出す検問を開始。土砂降りの雨の中の衝突となる。逮捕者19人。反対派の負傷者213人。この日から反対同盟から「壊し屋」と呼ばれた屈強な工事作業員による撤去作業が行われる。
    • 3月5日:機動隊がさらに3千5百名に増強され、現場周辺の道路で「野次馬」を閉め出す検問を開始。この日から翌日にかけて、「野次馬」から隔離された現地で空港公団・機動隊側による強硬措置が行われるようになる。
    • 3月6日:機動隊は高圧放水などで、「地下壕」を除き砦などの反対派拠点を撤去。千葉県は「地下壕」は対象外であるとして、「(第一次)代執行終了」を宣言。13日間の代執行で反対派の竹槍・投石・火炎瓶等による攻撃で警官・職員・作業員ら1171人が負傷し、反対派の逮捕者は468人にのぼった。以降、反対派のゲリラ攻撃が活発化する。
    • 3月7日:反対同盟が「緊急抗議集会」を1千5百名で開催。反対同盟は、「負傷者続出」の事態に友納千葉県知事、今井榮文空港公団総裁、本庄千葉県警本部長を告発することを決定する。十日間の第一次代執行期間で逮捕者461名、負傷者841名うち重傷43名。
    • 3月8日:空港公団と機動隊が、現場判断でブルドーザーによる「地下壕」埋め立てを実施。一部が撤去され、8名を逮捕。
    • 3月9日:反対同盟及び支援者は8日の撤去作業に法的根拠がないとして強く抗議。現場に駆けつけた空港公団副総裁と反対同盟の間で交渉が持たれ、作業の中断・休戦・反対同盟による地下壕立て籠もるメンバーの説得を約した協定書が結ばれる。
    • 3月15日:芝山中で卒業式が開かれ校長が式辞で少年行動隊の生徒らに向け「三年間、空港問題で悩みが多かったろう」と語る。少年行動隊の生徒らは国歌斉唱や証書授与での返事を拒絶し、無言で学び舎を去っていった。
    • 3月21日:反対同盟が「いかなる斡旋案も拒否する」と発表。
    • 3月24日:空港公団が、反対同盟が協定に反し「地下壕」の強化を行い、かつ再三の警告を無視したことを理由に、協定の破棄を戸村反対同盟代表に通知。
    • 3月25日:空港公団は機動隊4千名を動員し、ブルドーザーや大型ユンボを用いて8日に撤去しきれなかった頑丈な「地下壕」を撤去[28]。反対派19名逮捕。
    • 3月28日革マル派が、機動隊との攻防で負傷した者の救護に当たっていた「三里塚野戦病院」の車両を襲撃し、2名を負傷させる。
    • 5月2日:駒井野団結小屋近くでパトロール中のガードマンの車両を学生らが止めて窓ガラスを割ったことを切っ掛けに、200人の大乱闘が起きる。反対派に48名の負傷者を出し、うち17名が重傷を負った。止めに入った反対派農民1名が逮捕される。警備側の被害はガードマン29人・機動隊員2人が負傷、ガードマンの車両5台が破壊された。
    • 5月12日:反対同盟が、芝山町岩山地区に高さ30メートルの第一鉄塔を構築した。
    • 5月25日:千葉県警が反対派農民の大木(小泉)よね宅を家宅捜索。
    • 5月31日:空港公団が日本道路公団と「東関東自動車道に係わるパイプラインの敷設及び管理に関する協定」を締結。
    • 6月6日:「強制代執行土地収奪粉砕全国総決起集会」開催。
    • 6月12日:千葉県収用委員会が、期限を9月にした第二次収用の緊急裁決を下す。
    • 7月10日:成田空港警備会社が時限爆弾による攻撃を受け、近隣の民家も巻き添えを食う。
    • 7月15日:千葉地裁が、反対同盟申請の「占有権妨害禁止等仮処分」の申請を却下する。
    • 7月26日:反対同盟は、この日から30日までの間仮処分阻止闘争を取り組む。午前4時55分に千葉地裁執行官が機動隊に守られながら執行通告し、仮処分による撤去が開始される。激しい衝突となり逮捕者179人、反対派の負傷者221人。農民放送塔がクレーンによって倒された後に撤去されたが「地下壕」には手をつけられないまま夜11時に「仮処分終了」を宣言。青年行動隊と支援学生合同でのゲリラ活動が行われ、パトカーに農薬を転用した爆弾や火炎瓶が投げつけられる。
    • 7月27日:早朝5時30分から公団・機動隊が「地下壕」の撤去に着手。攻防で反対同盟の瀬利副委員長ら106人が逮捕、反対派の負傷者158人。
    • 7月28日:炎天下で完全武装で警備する機動隊の中には熱射病で倒れる者も出始め、「地下壕」を一部残したまま作業が打ち切られた。今井空港公団総裁が「執行は終わった。地下壕撤去作業は中止する」と記者会見で語った。この日の反対派の負傷者36名。
    • 7月29日:反対同盟が「駒井野砦」で「地下壕戦110時間勝利集会」を開催。
    • 7月30日:反対派拠点や各所の団結小屋に家宅捜索。抗議した秋葉哲反対同盟救援対策部長ら5人逮捕、400人が負傷。5日間の逮捕者は291人、警官の負傷者413人。地下壕の撤去が再開され、最後まで立て籠もっていた反対派が投降する。反対同盟が半年の間人力で掘り進めた横穴は全長100メートルほどもあった。
    • 8月3日:「地下壕」に最後まで立て篭もっていた北原鉱治反対同盟事務局長、石井武反対同盟実行役員が令状逮捕される。
    • 8月7日:成田警察署長官舎入口が爆発し、警視総監公舎玄関にも爆弾が仕掛けられているのが見つかる。
    • 8月8日:千葉地裁がインク瓶に偽装した爆弾による攻撃を受ける。
    • 8月14日8月16日:天神峰にて屋外コンサート「日本幻野祭」が開催され、1000人以上が参加。主催は青年行動隊。出演は高柳昌行ニューディレクション・フォー・ジ・アーツ落合俊トリオ、高木元輝トリオ、DEWブルース・クリエイション阿部薫頭脳警察ロスト・アラーフ(灰野敬二)他。婦人行動隊の竹田節ゼロ次元によるパフォーマンスなど。
    • 8月19日:空港公団が航空燃料パイプライン輸送のルート(「水道道路ルート」)を公表。
    • 8月26日:国鉄湖北駅付近の無人踏切に消火器に偽装した爆弾が仕掛けられ、無差別テロの兆しが現れる。
    • 9月15日:白昼の茨城大付近で、翌日の第二次代執行阻止闘争に向かおうとしていた活動家を私服公安刑事が木刀で襲撃する事件が起きる。活動家は23日に私服刑事を告訴・告発した。
      東峰十字路事件で殉職した福島警視の慰霊碑
    • 9月16日:5県6筆の建設予定地に対し、第二次代執行が開始される。数百名の「ゲリラ部隊」が各所で後方警備の機動隊を襲撃。神奈川県警から応援派遣されていた臨時編成の特別機動隊が潰走し、逃げ遅れた小隊長を含む隊員3名が火炎瓶による全身火傷・鉄パイプ等での殴打により殉職し、更に80名以上の隊員が重軽傷を負った(東峰十字路事件)。この日の逮捕者375名。
    • 9月17日:千葉県警は、反対同盟戸村代表宅や各団結小屋などの反対派拠点、都内13ヶ所の党派事務所を「殺人、殺人未遂、公務執行妨害、兇器準備集合罪、爆発物取締法違反」の容疑で一斉に家宅捜索を行う。
    • 9月19日:友納知事が報道陣に対し警備陣の疲れなどを理由に代執行を21日に延期すると発表[29]。これを受け支援学生の主力部隊3000人が帰京。
    • 9月20日:空港公団は突如「住居への代執行はしない」との約束を反故にして、1000人の機動隊と伴に大木(小泉)よね宅を強制収用。友納知事の会見を受けて、支援者らが引き上げた所を急襲された形となり、よねは住居を撤去されたうえ、前歯を折る怪我をした[30]。成田空港問題における個人住宅への強制代執行実施は、これが最初で最後となった。抗議した支援者ら90名が逮捕され、負傷者27名。形振り構わない行政の姿勢を目の当たりにした地権者の6,7割が闘争を断念して移転に応じることとなったが、闘争を継続する者に対しては逆に火に油を注ぐことになった[31]
    • 9月20日:青年行動隊が主導し、学生集団が大木(小泉)よね宅への「騙し討ち」への報復として同日夜から翌日にかけて工事関係業者の飯場など20棟を火炎瓶で襲撃して回った。
    • 9月20日第二次行政代執行が終了。代執行期間中の反対派ゲリラは23件、飯場28棟が焼かれ、工事作業員650人が焼け出された。更にダンプカー・ブルドーザー・警察車両等が焼き討ちされるなどして被害総額は3億円を超えた。警察発表によれば、動員された機動隊は述べ2万2000人、反対派は1万2945人、逮捕者475人、警察官の死者3人・重軽傷者206人であった(反対派の負傷者は多数とのみ)[32]
    • 9月21日:「地下壕」に立て篭もっていた農民3名が機動隊によって排除され、うち農民1名が逮捕される。機動隊3千名が捜索中に遭遇した反対派支援者ら約60人を連行。その夜、大清水に設営された「野戦病院」に機動隊約100名が突入。深夜、機動隊約500名が環視する中、反対派による飯場への放火で焼け出されて激昂した工事作業員が無人の千代田団結小屋「市民の家」を放火、全焼させる。
    • 9月27日:反対同盟が、友納知事、川上紀一副知事らを9月16日の「駒井野鉄塔」撤去に関して「殺人未遂」で千葉地検に告発する。
    • 10月1日:青年行動隊員・三ノ宮文男が「空港をこの地にもってきた者を憎む」と遺書を残して自殺する。
    • 10月15日:千葉市議会パイプライン特別委員会に学生が乱入し、流会となる。
    • 10月18日日石本館地下の郵便局で、今井空港公団総裁宛の小包が爆発し、郵便局員1人が重傷を負った(土田・日石・ピース缶爆弾事件)。
    • 10月19日三里塚小学校で初の防音校舎が完成する。
    • 12月8日:東峰十字路事件に関して、千葉県警の三警官殺害事件特別捜査本部が、青年行動隊員11名を別件逮捕。以後、翌年9月まで青年行動隊員・三里塚高校生協議会(反対同盟の高校生グループ-三高協)・支援者らの連行が相次ぎ、延べ121人が逮捕された。
    • 12月24日:釈放された1名が再逮捕される。
  • 1972年
    • 1月9日:A滑走路南側のローカライザー曲者が過激派に破壊される。
    • 1月14日:千葉市議会特別委員会で、航空燃料輸送パイプライン埋設賛成が強行採決される。
    • 1月26日:今井空港公団総裁が「6月中の開港の見通しがついた」と発表。
    • 2月11日成田新幹線の工事計画が認可を受ける。
    • 2月28日:反対同盟が、A滑走路南端にある芝山町岩山の畑に航空妨害を目的にした第二鉄塔(いわゆる「岩山大鉄塔」)の工事を始める。
    • 3月6日:飛行検査が始まり、航空局の飛行検査用航空機が空港上空300メートルを飛行通過する。
    • 3月12日:反対同盟の「岩山大鉄塔」が完成する。高さは62.26メートルに及び、航空機の進入表面を38.97メートルも上回っていた。
    • 3月15日:千葉市長がパイプライン工事を許可。
    • 3月27日:「岩山鉄塔」建設を受け、この日から予定されていた飛行検査が中止を余儀なくされる。
    • 3月31日:空港管理ビルが完成する。同日、船橋市に成田新幹線反対の住民組織ができる。
    • 4月17日:第1回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。
    • 5月11日:友納知事が都営地下鉄千葉県営鉄道を空港アクセスに用いることを提案。(→京成成田空港線
    • 6月6日:千葉市民が2万5000人余の署名でパイプ埋設許可取消しの監査直接請求。
    • 6月21日:千葉市民、埋設工事禁止の仮処分を申請(7月31日に却下される)。
    • 6月26日:航空燃料パイプラインの敷設工事が着工する。
    • 7月5日:東峰十字路事件に関して、青年行動隊員12名が傷害致死罪による逮捕。以降、同罪状での逮捕が続く。
    • 7月7日田中角栄内閣誕生
    • 8月3日:今井空港公団総裁が、佐々木秀世運輸大臣に「パイプラインの工事の遅れで年内開港は困難」としたうえで、千葉及び鹿島から成田市土屋までの鉄道による航空燃料輸送(暫定輸送)を検討する旨を報告。代執行のために犠牲者を出した警察や緊急採決をした収用委員会の不興を買う。
    • 8月3日:反対同盟が「傷害致死罪攻撃粉砕集会」を開催。
    • 8月10日:消防署や公民館等の環境整備費の支払いを巡って千葉市と空港公団の間で対立が生じ、荒木和成千葉市長が空港公団に航空燃料パイプライン埋設工事の中止を要請[33]
    • 8月19日:東関東自動車道の千葉-成田間が全通する。
    • 8月31日:千葉県警が71年9月16日の「駒井野鉄塔」撤去に関連して公団職員ら6名を書類送検。反対同盟は「殺人未遂での告訴を無視している」と反発した。
    • 9月16日:「第二次代執行阻止闘争一周年・青行隊奪還人民大集会」を開催。6千名の結集。
    • 9月17日:千葉市内で激しい反対運動が起きたことや市からの要請により、航空燃料パイプライン敷設工事が中止される。更に千葉市が市道占有許可の更新を行わず工区の原状回復を求めたことや、石油パイプライン事業法が公布され「技術基準細目」への対応を求められたことから、開港までのパイプライン完全供用の望みが潰える。
    • 9月20日:成田市が航空燃料のタンクローリー輸送に反対。
    • 9月27日:空港公団が航空燃料輸送方針として、土屋に設けられた石油基地から空港までの輸送は暫定パイプラインを用いるが、その供用開始まではタンクローリーを用いることを決定。
    • 10月3日:青年行動隊20名が保釈。
    • 10月9日:友納知事が特別立法等の騒音対策を田中首相に陳情。
    • 11月12日:東峰十字路事件第1回公判。この間、反対同盟からの逮捕者のべ139名、保釈金1350万円。
    • 12月12日:第2回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。
    • 12月21日:今井総裁、年度内開港の断念を発表。
    • 11月25日京成電鉄京成成田駅-成田空港駅(現・東成田駅)区間が完成する。
  • 1973年
    • 1月24日:空港公団が暫定パイプラインの埋設許可を成田市に申請するが、拒否される。
    • 2月14日:第3回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。
    • 3月28日佐原市議会が暫定輸送反対を決議する。後に鹿島町神栖町潮来町が続く。空港公団が成田市にパイプラインの申請を再提出。
    • 4月30日:A滑走路が完成。
    • 5月14日:誘導路が完成。
    • 6月24日:空港反対派の小原子団結小屋で、盗聴器が発見される。そのコードは条件派の家に繋がっていた。
    • 10月5日:反対同盟主催の「三里塚大政治集会」を日比谷公会堂で開催。「岩山鉄塔十万人共有化運動」を提起する。
    • 10月29日:「岩山鉄塔」付近の農道で、鉄塔防衛隊員の山口義人が機動隊員らに暴行を受け、一時重体に陥る。山口は、のちに千葉県警に対して国賠訴訟を起こし、勝訴する。
    • 11月6日:反対同盟代表である戸村一作が、翌年の参議院議員選挙全国区への立候補を表明。
    • 12月17日:1971年の第二次行政代執行で自宅を強制収用された大木(小泉)よねが死去。享年66。
    • 12月21日:成田市土屋から空港までの暫定パイプライン敷設工事が着工する。
  • 1974年
    • 2月27日:空港公団が、騒防法に基づく住宅の騒音防止工事の助成を開始する。
    • 3月28日:第4回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。
    • 7月7日:この日投票の参議院議員選挙で、「世直し一揆」を掲げて全国区に立候補した戸村一作は33万票を獲得したが落選。この「選挙闘争」で、戸村陣営の運動員のべ11人が逮捕される。
    • 10月10日:反対同盟主催で「空港粉砕全国総決起集会」を三里塚第二公園で開催。5千名が結集。第四インター系の「共青同(準)武装行動隊」がデモの途中で第5ゲートから空港に突入を図り、国道296号線にバリケードを構築して機動隊と衝突した。一部が空港に侵入。全体のデモと合わせて9人の逮捕者。
    • 10月19日:第5回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。
    • 12月9日三木武夫内閣が誕生。
  • 1975年
    • 6月30日:土屋から空港までの暫定パイプラインが完成する。
    • 7月20日:千葉市民が1万人余による本格パイプライン工事差止めを求めるマンモス訴訟を提起。
    • 10月12日:反対同盟が「空港粉砕全国総決起集会」を7千名の結集で開催。デモで逮捕者5名、反対派に数十人の負傷者。
  • 1976年
    • 1月8日:運輸省が新東京国際空港の騒音区域を告示。
    • 2月6日:第6回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。
    • 6月:「三里塚微生物農法の会」が発足し、有機農法に対する取り組みが反対同盟内に広まる。
    • 10月3日:エプロンが完成。
    • 10月10日:航空灯火が完成。
    • 10月12日:空港内の給油施設が完成。
  • 1977年
    • 1月11日福田赳夫内閣が、閣議で「年内開港」を指示。緊張が高まる。
    • 1月19日:11日の指示により、「岩山鉄塔」撤去のための道路工事が再開される。この日抗議した2名が逮捕。
    • 2月4日:パトロールをしていた青年行動隊2名が「道交法違反」で逮捕される。
    • 2月6日:「鉄塔防衛全国総決起集会」開催。
    • 2月20日:千葉市内での三里塚集会でデモの際3名逮捕。
    • 2月21日:「岩山鉄塔」の周囲を公団が鉄条網で封鎖する工事を開始。抗議した1名が逮捕。
    • 3月8日:「岩山鉄塔」防衛隊員1名が逮捕。
    • 3月15日:第1旅客ターミナルビルが完成。
    • 3月27日:「鉄塔防衛」第三波総決起集会に4千5百名結集。1名逮捕。
    • 3月28日:「三里塚闘争に連帯する会」が設営したテント村に機動隊が突入。2名逮捕。反対派2名負傷。
    • 4月9日:1971年の東峰十字路事件で指名手配されていた1名が逮捕。
    • 4月16日:翌17日の総決起集会の前段デモで1名逮捕。
    • 4月17日:「鉄塔防衛全国総決起集会」に最大の2万3千名が結集。デモで逮捕者7名。反対派の負傷者100名以上。
    • 4月18日:17日のデモの件で団結小屋4ヶ所に家宅捜索。反対同盟は、21日に告訴を発表。
    • 5月6日:千葉地裁が「岩山鉄塔撤去仮処分」を下し、その日のうちに「岩山鉄塔」が機動隊の包囲の中、撤去される。抗議した支援者ら16名が逮捕。反対派の負傷者33名。反対同盟は、「仮処分」に対する「異議申し立て」を提出する。赤坂の空港公団総裁室に、反対派3名が乱入し逮捕される。
    • 5月7日:「岩山鉄塔」撤去への抗議行動で、25名逮捕。反対派18名負傷。
    • 5月8日:「岩山鉄塔」が撤去されたことに対する抗議行動が、機動隊との大規模衝突となる(いわゆる「5.8戦闘」)。反対同盟の「野戦病院」の前でスクラムを組んでいた支援者の東山薫が、機動隊員が水平撃ちしたガス弾を受け重傷、2日後に死亡(東山事件)。衝突で逮捕者33名のうち15名に殺人未遂罪。負傷者327名うち入院3名。
    • 5月9日:「東山君虐殺糾弾対運輸省行動」で1名が逮捕。同日、芝山町長宅警官詰め所を何者かが火炎瓶攻撃。警官1名が死亡。前日の報復と見られるが、犯行声明などはなく犯人未逮捕のまま時効が成立した(芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件)。
    • 5月11日:6日から8日までの衝突の件で団結小屋9ヶ所を家宅捜索。
    • 5月13日:東山薫の両親が警察庁長官ら5名を「殺人」などで告訴。
    • 5月14日:三里塚現地の坂志岡・承天寺で東山薫の反対同盟葬がとり行われる。
    • 5月15日沖縄県米軍基地内の「反戦地主」の土地が使用期限切れになるこの日、代々木公園で「沖縄と三里塚を結ぶ中央集会」が開催される。1万5千人の結集。デモで逮捕者12名。
    • 5月28日:6日から8日までの衝突の件で団結小屋18ヶ所を家宅捜索。
    • 5月29日:「東山君虐殺糾弾集会」に1万8千名の結集。デモで逮捕者71名。反対派の負傷者79名。
    • 6月15日:千葉地裁に「東山君虐殺」の国賠訴訟を提訴。
    • 6月19日:「三里塚東京集会」開催。デモで5名逮捕。
    • 7月24日:ジャンボ飛行阻止闘争に10,950名の結集。デモで5名逮捕。
    • 8月7日ボーイング747による第一次騒音テスト飛行実験が行われる。この日から9日まで、反対同盟が三日連続で飛行阻止闘争を展開。三日間で10名の逮捕者。
    • 9月14日:運輸省と千葉市が協定書に調印し、千葉ルートによる暫定輸送が認められる。約6年を要した暫定輸送計画をめぐる関係市町村との協議が終了する[34]
    • 10月9日:反対同盟主催の「全国総決起集会」に2万2千名の結集。
    • 11月26日:空港、航空本無線施設、航空灯火が完成検査に合格する。空港公団が、開港日を1978年3月30日とする旨を運輸大臣に届け出(28日告示)。
    • 12月:全国から集まった一億円のカンパで、航空妨害を目的とした「横堀要塞」の建設が開始される。
    • 12月3日ICAO(国際民間航空機関)及び関係50ヵ国に対し、新空港に関わるノータム(航空情報)が発出される。
    • 12月21日:反対派が騒音テスト飛行阻止闘争を展開。逮捕者6名。
    • 12月22日:飛行阻止闘争で逮捕者4名。
    • 12月27日:第一期工区内でただ一つ残っていた大木(小泉)よねの養子が所有する農地を、一家の座りこみを排除して強制収用。
  • 1978年
    • 1月22日:「三里塚空港から郷土とくらしを守る会」の名称を現在の「成田空港から郷土とくらしを守る会」に変更する[35]
    • 2月6日航空法49条違反として、機動隊が「横堀要塞」とその上に立てられた鉄塔の撤去に着手する(第一次「横堀要塞」事件)。機動隊の高圧放水やガス弾などで「要塞」に立て空港反対派の排除を試み、反対派は約560本の火炎瓶投擲や、スリングショットなどで対抗した。機動隊は夜10時に篭城していた反対同盟農民6人を含む41人を逮捕。更に周辺での衝突で4人が逮捕された。
    • 2月7日:「横堀要塞」に残っていた4人の支援者は零下7度のなかで抵抗したが、夜10時の反対同盟による「勝利宣言」の呼びかけによって投降し、逮捕された。4人全員が手足に凍傷を負っていた。二日間の衝突で逮捕者49人。反対派の負傷者10数人、警察官の負傷者23人。
    • 3月1日:「横堀要塞」前で現地集会が開催され、反対同盟が「3月開港阻止決戦突入」を宣言。「横堀要塞」付近の検問で反対派2名が逮捕。
    • 3月23日:機動隊が、反対派の「開港阻止決戦」に備えて、1万4千人の配置をほぼ終える。反対派2人が検問で逮捕。
    • 3月25日:反対同盟が再度「横堀要塞鉄塔」を構築、翌日の空港攻撃においてこれが機動隊への囮となる。
    • 3月26日:開港4日前の成田空港に対し、空港反対派4千人による飽和攻撃が行われた。更に排水溝に潜んでいた15人の行動隊が管制塔を占拠し、通信機器を破壊した(成田空港管制塔占拠事件)。逮捕者115人。
    • 3月28日:閣議で3月30日開港延期を決定する。福田赳夫首相は「世界に申し訳ないことになった」と語った。
    • 3月28日:航空法違反として、「横堀要塞鉄塔」が撤去される(第二次「横堀要塞」事件)。要塞にたてこもる約100人が、火炎瓶や石などを投擲して前日から激しく抵抗した。逮捕者51人。
    • 4月2日:川上紀一千葉県知事が、反対同盟に対話を呼びかける。
    • 4月4日:空港公団が、新たな開港日を1978年5月20日とする旨を運輸大臣に届け出(7日告示)。
    • 4月7日特定空港周辺航空機騒音対策特別措置法(騒特法)が公布される。
    • 4月17日:反対同盟が「逮捕者の全員釈放・開港延期と二期工事凍結・成田新法の撤廃と機動隊の撤退」を条件に「話し合いを拒まない」と態度を決定する。
    • 5月5日:午前3時半頃、千葉県酒々井町京成電鉄操車場で、空港特急スカイライナー4両が放火され全半焼(京成スカイライナー放火事件)。
    • 5月10日:千葉日報主催で、戸村反対同盟代表と福永運輸大臣が会談。4月17日に決定された反対同盟の条件が提示されるが、物別れに終わった。
    • 5月13日新東京国際空港の安全確保に関する緊急措置法(成田新法)が公布、施行される。
    • 5月16日:木の根団結小屋及び岩山団結小屋に成田新法が適用される。
    • 5月17日:前日の成田新法適用に反対同盟が態度硬化、「一切の話し合い拒否」を表明する。
    • 5月18日:反対同盟が「開港阻止五日間戦闘」を開始する。
    • 5月19日中核派が千葉県八千代市の米本無線中継所をゲリラ活動によって破壊したが、翌日には復旧。
    • 5月20日:午前0時をもって新東京国際空港(成田空港)開港。午前10時30分から、旅客ターミナルビル北ウイング出発ロビーで56人が出席して開港式典が行われた。厳戒体制の中であったため、空港ターミナルビルには、関係者と報道陣以外の一般人は入れなかった。式典で福永健司運輸大臣は「昔から申します。難産の子は健やかに育つ」と祝辞を述べた。空港の外では反対派と機動隊の衝突とゲリラ活動が続く中での開港となった。開港当時の乗り入れ航空会社は、世界29カ国の34社だった。反対派は集会を開き、2万2千人が結集した。反対同盟は「百日戦闘宣言」を発した。第5ゲート前の反対派と機動隊の衝突で、48名が逮捕され、反対派の負傷者25名。
    • 5月20日:運輸省東京航空交通管制部の専用地下ケーブルが、埼玉県所沢・狭山両市内の計3箇所でほぼ同時に過激派によって切断され、航空管制業務が全国的に一時麻痺した。山田町の航空路監視レーダー基地も同日襲撃される。
    • 5月21日:未明に栄町の送電線が過激派によって切り倒された。空港への影響はなかったものの、約2万戸が停電となった。
    • 5月21日:航空機運航開始。8時3分に、一番機となるロサンゼルス発の貨物便日本航空1047便が、古タイヤを燃やすなどの反対派の妨害を受けつつも到着。12時3分に旅客便の一番機となるフランクフルト発の日航446便が到着。京成電鉄空港線(京成成田駅 - 成田空港駅(現:東成田駅))が開業。京成上野駅からの有料特急スカイライナーが運行開始。
    • 5月22日:8時16分、出発便の一番機となる貨物便大韓航空の802便がソウル(金浦国際空港行き)に向けて離陸。
    • 5月25日国鉄による航空燃料暫定輸送が開始される。開港当初の輸送能力は、鹿島ルートは18両編成と13両編成が各2列車、14両編成が1列車の計5列車で3800kl、千葉ルートは12両編成が2列車の1200klで、合計1日あたり5000klであった。ただし、修理等で年間30日程度は運休するため、実際の輸送能力は1日平均にすると約4500klであった。
    • 5月27日:中核派によって、国鉄成田線、佐原 - 大戸間の列車集中制御装置の回線が切断され、航空燃料の暫定輸送を行っていた貨物列車が立ち往生する。
    • 6月10日:新左翼の反対派支援者が、妨害用アドバルーン3個を打ち上げたため、約20分新東京国際空港が閉鎖される。
    • 6月13日:3月26日の成田空港管制塔占拠事件で、全身火傷を負った反対派支援の新山幸男が死亡する。
    • 6月27日:北総浄水場の沈殿池に過激派が廃油120リットルと殺虫剤ダイアジノンバイジット計12kgを投入[36]。同浄水場は周辺の一般家庭用水として利用されていることから、無関係な多数の市民の生命を危険に陥れた極めて悪質な「ゲリラ」事件として注目された[37]
    • 6月29日:航空燃料輸送列車に警備ヘリコプターが墜落し、鉄道公安員や警官など五人が死亡する。
    • 7月1日:新東京国際空港警備を目的として千葉県警察新東京国際空港警備隊が創設される。
    • 7月2日:反対同盟が「飛行阻止現地大集会」を開催。1万5千人の結集。第九ゲートから突入しようとした6名が逮捕され、デモ全体で44名の逮捕者。反対派の負傷者14名。
    • 8月2日:過激派が東京シティエアターミナルに火炎車を突入させた。
    • 9月4日:過激派が成田市内の京成線ガード下でトラックを炎上させ、鉄道輸送を妨害した。
    • 9月7日:千葉県八千代市など数か所で電話同軸ケーブルが切断され、茨城県北相馬郡守谷町(現・守谷市)守谷VOR/DMEおよび同県稲敷郡阿見町阿見VOR/DMEの機能が麻痺した。
    • 9月16日:反対派約800人が、「たいまつデモ」を行い、着陸体勢に入った航空機に花火を命中させる。過激派が成田市荒海のアウターマーカーを火炎瓶などで襲撃した。
    • 10月10日:航空燃料の暫定輸送を行っていた国鉄の貨物列車が千葉県下総町で過激派に襲われ、機関車の計器類が破壊されて運転不能となる。
    • 10月16日:右翼活動家である四元義隆の仲立を受け、反対同盟幹部と道正邦彦官房副長官が秘密裏に会合。水面下での反対同盟と政府の会談が開始される。
  • 1979年
    • 2月15日:第8回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。
    • 5月15日:本格パイプライン工事が再開される。パイプライン建設に反対していた千葉市長の荒木和成が急死し、新市長となった松井旭が空港公団の協力要請に応じていた[38]
    • 6月15日:反対同盟と政府の間で行われてきた水面下の会談が実り、加藤紘一官房副長官(道正の後任)と島寛征反対同盟事務局次長が覚書を秘密裏に締結。
    • 7月3日:航空燃料の逼迫を受け、運輸省が成田空港乗り入れ会社に給油量5%節減を要請。
    • 7月10日:運輸省が、適用を緩和した第1種騒音区域を告示した。
    • 7月10日:空港公団が千葉県に、騒特法に基づく航空機騒音対策基本方針の策定を要請した。
    • 7月19日:6月15日の覚書が一部を歪曲した形でリークされる。内部でも全容を知るものは一部しかいなかったため反対同盟は混乱に陥り、反対同盟は政府との交渉の事実をも否定する声明を発表。両者の対話は水泡に帰す。
    • 8月30日:千葉市高浜(現・美浜区高浜)にあるジェット燃料輸送パイプラインの工事現場を、中核派が時限発火装置で放火した。
    • 11月2日:反対同盟代表・戸村一作が70歳で死去。11日に三里塚第一公園での追悼集会に3千人が参加。

1980年代[編集]

  • 1980年
    • 2月15日:第9回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。
    • 10月12日:青年行動隊を中心とした反対同盟が成田用水事業に対抗して菱田地区湿田の自主基盤整備に着手。支援学生の労働力を用いて湿田の排水に成功するなど一定の成果を上げるものの、成田用水受け入れに傾いていた菱田地区等の農家を引き止めるには至らず。
    • 10月18日:過激派が京成電鉄高砂検車区、京成上野駅、京成電鉄宗吾検車区に停車中のスカイライナーに時限発火装置を仕掛け、一部を炎上させた。
  • 1981年
    • 3月16日:航空燃料暫定輸送中の貨物列車の運転手が線路で焚かれていた発煙筒を発見し急停車したところ、覆面の男数人による襲撃を受け、機関車2両と付近の草むらが放火される。
    • 4月24日:反対同盟幹部が松井航空局長と会談、以降水面下の接触が続けられる。
    • 5月1日芝山鉄道株式会社が設立される。
    • 5月11日:茨城県鹿島町(現・鹿嶋市)内で、航空燃料の暫定輸送に使われている鹿島線の橋桁(第2宮中架道橋)が溶接機で切り取られているのが見つかる。
    • 6月7日:この日投票が行われた芝山町長選挙で、反対同盟が擁立した石井新二が大方の予想を大きく上回る1,804票を獲得したが、現職の真行寺一朗に破れ、落選。
    • 6月10日:第10回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。
    • 7月31日塩川正十郎運輸相と沼田武千葉県知事が会談。沼田知事は2期工事への協力を約束したが、同時に県内自治体が要望した141項目のうち、未着手の10項目の実現と、成田新幹線の早期建設を強く要望。
    • 8月18日:この日から23日まで、反対同盟の小川源を団長に石井武、秋葉哲、石井新二、熱田誠、加瀬勉らと支援者15人が、フランスのNATO軍事基地拡張反対闘争で名を馳せていたラルザック地方を訪問。反軍拡・反原発・反開発をテーマにした「ラルザック国際連帯討論集会」に参加して、ラルザック農民や西ドイツのフランクフルト空港拡張反対派住民、フランスのプロゴフ原発建設反対派住民、ポーランドの「連帯」、北アイルランドIRAなどと交流し、講演や小川紳介監督の映画会などを開催して「三里塚闘争の国際的意義」を訴えた。
    • 10月23日:加藤紘一衆院議員・松井和治航空局長・中村大造空港公団総裁らと反対同盟の石橋正次委員長・内田寛一行動隊長・小川源・石毛常吉・梅澤勘一らが秘密裏に会合。出席予定だった小川嘉吉・喜平兄弟が参加を当日拒否。会合参加者の情報が反対同盟内にリークされる。
    • 11月30日光町議会が、二期工事早期着工を決議。以降、周辺自治体が続いて促進決議を採択した。
  • 1982年
    • 1月20日:政府側と交渉を行っていたことを暴露され中核派に嫌がらせを受けていた石橋正次委員長代行が、中核派最高幹部の北小路敏に自宅敷地の現地闘争本部撤去を突きつける。
    • 2月9日:石橋正次委員長代行及び内田寛一行動隊長が、反対同盟に自己批判書とともに辞表を提出した。石橋に追従して天神峰地区の農家も反対同盟を離脱した(石橋グループ)。石橋グループは1985年8月までに空港公団と土地売買契約を交わし、1987年に代替地へ移転する。
    • 3月:空港公団理事との個人的付き合いを糾弾されたうえ、成田用水と反対運動の二者択一を迫られた石井英祐事務局長が辞任。用水派は反対同盟での調停役を失う。
    • 3月13日:中核派によって、国鉄鹿島線、国鉄成田線、国鉄総武本線などの信号ケーブルが切断される。また、国鉄西船橋変電所が時限発火装置によって爆破され、航空燃料暫定輸送を行う貨物列車の運行停止を招く。県内の列車運行に大きな乱れが生じた。
    • 5月12日:第11回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。
    • 8月:第4インターでABCD問題が発生。第4インターは影響力を急速に失う。
    • 11月25日:千葉県が「航空機騒音対策基本方針」を公表する。
    • 9月10日 : 2時頃、京成成田空港線トンネル内で時限発火装置付きのトロッコが炎上しているのが発見される。成田空港駅(現・東成田駅)まで突入させる計画だったと見られる。影響により9時頃まで運休。
  • 1983年
    • 2月23日:運輸省が東京国際空港整備基本計画を決定。
    • 3月8日反対同盟分裂。「一坪再共有化運動」の是非等をめぐり、用地内農民を中心とした「北原派」と騒音地域農民を中心とした「熱田派」にグループが分かれる。
    • 3月27日:反対同盟両派が分裂して初の現地集会を開催。雨天の中、「熱田派」は主催者発表で3,750人(警察発表2,750人)、「北原派」は5,725人(警察発表2,530人)の結集。
    • 6月7日四街道市のパイプライン関連工事の作業員宿舎を中核派が放火、労働者2名死亡、1名が重傷を負った(→東鉄工業作業員宿舎放火殺人事件)。
    • 6月14日:第12回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。
    • 6月18日:反対同盟(熱田派)が、6月7日の放火テロを「労働者への虐殺糾弾」として非難する声明を発表する。
    • 6月29日:成田用水菱田工区の測量・杭打ちが始まり、北原派・熱田派共に阻止行動を展開する。反対同盟分裂時に用水派の多くは熱田派に付いていたが、熱田派は用水反対の立場を明確にしたことで用水派の離脱を招いた。
    • 8月8日:航空燃料パイプライン(B系)が供用開始(航空燃料暫定輸送終了)。本格パイプラインの事業が開始される、
  • 1984年
    • 1月:「一坪再共有化運動」をめぐる対立から、中核派が第四インターの5ヶ所のメンバー宅を一斉に襲撃、7月にもメンバー宅を一斉3ヶ所襲撃、片足切断と頭蓋骨陥没を含む8名に重傷を負わせる。
    • 3月1日空港公団本社が中核派に襲撃される。隣接する高速道路に停められた車両から火炎放射器による攻撃。
    • 3月14日:芝山町議会の「二期工事早期着工要請決議」に、反対同盟両派が抗議行動を展開。4名が逮捕される。
    • 6月6日:第13回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。
    • 6月23日:開港以来の国際旅客5千万人達成。
    • 8月1日:航空燃料パイプライン(A系)が供用開始。これにより成田空港への燃料輸送能力は1日あたり2万2000㎘、年間最大800万㎘を有することとなり、二期工事に向けた燃料供給体制が整う。
    • 8月6日:空港公団幹部らの自宅3軒が時限式発火装置により放火される。
    • 9月19日自由民主党本部放火襲撃事件発生。
    • 9月25日:成田用水菱田地区の工事が開始される。反対同盟の北原派・熱田派共に抗議行動を展開する。
    • 10月1日:中核派が、佐原市にある成田用水事業の請負業者社長宅を放火。社長宅のほかに無関係の近接した住宅二棟にも延焼。(成田用水工事事業者連続放火事件
    • 11月13日:航空燃料パイプラインが襲撃され送油停止を余儀なくされたほか、近隣の山林・水田・河川が汚染された。損傷を受けた系統の復旧には1か月を要した。
    • 11月27日:千葉市の沼田知事宅、成田市の水野清衆院議員事務所、松戸市の友納武人衆院議員(元知事)事務所、木更津市の浜田幸一衆院議員事務所の4カ所が、時限発火装置で全焼する。
    • 12月14日:芝山町長及び同町議会議長が、二期工事促進を要望する。
  • 1985年
    • 4月12日:発射式火炎弾により空港が襲撃される。
    • 6月23日成田空港手荷物爆発事件が発生。当初は空港反対派によるテロリズムと疑われたものの、後に空港反対派とは無関係であり、インド航空182便爆破事件と関連していることが判明する。
    • 7月29日:代替地内にある移転農家の倉庫が放火される。
    • 8月8日:第14回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。
    • 9月30日:成田市内の代替地にある詰所が襲撃され、警備員2人が重軽傷を負う。
    • 10月20日10.20成田現地闘争。千葉県成田市の三里塚交差点で反対同盟(北原派)支援グループと警視庁機動隊が衝突、機動隊員59名が負傷。241人を公務執行妨害等で現行犯逮捕した。成田空港反対運動終期の大規模な反対派と警察部隊の衝突であった。また同日、革労協系ゲリラが偽装消防車などで空港内に侵入し、施設の一部を破壊。
    • 10月22日:千葉地裁が、東山事件の国賠訴訟で原告側の訴えを退けた。
    • 11月21日:千葉市、習志野市、君津市にそれぞれある国鉄幹部の3宅が同時放火される。
    • 12月19日:成田市が市都市公園条例を改正し、過激派の公園使用を規制。
    • 12月23日成田用水工事の請負会社である石井組の駐車場で2人の男がトラックの下に時限式発火装置を設置するのを張り込み中の捜査員が発見し、見張り役を含め3人を現行犯逮捕した。同日、11.23機動隊襲撃事件も発生している。
  • 1986年
    • 7月10日:第15回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。
    • 7月17日7.17成田空港警備隊舎飛翔弾事件発生。
    • 9月4日:未明、伊勢原市で建築中の運輸省航空局幹部職員の家屋が時限式発火装置により放火されて全焼、更に周辺家屋7戸が類焼により全半焼した。なお、被害者の幹部職員は成田空港建設と無関係である。船橋市にある成田空港建設と無関係な別の航空局職員宅も中核派によって放火され、車両1台が全焼した。
    • 10月4日:警察官3名が殉職した東峰十字路事件の判決で、千葉地裁は被告55人のうち52人に執行猶予付きの有罪判決、3人に無罪判決を下し、実刑判決を受けた被告はいなかった。
    • 11月26日第二期工事に着工
  • 1987年
    • 1月14日:成田用水工事を警備していた機動隊が襲撃される。(1.14機動隊襲撃事件
    • 3月14日:空港工事関連企業の1都3県合計5箇所にも及ぶ施設に時限爆弾が仕掛けられ、ほぼ同時に爆破された。
    • 9月:度重なる集団武装闘争やゲリラ事件に疲弊した住民の間で極左暴力集団排除の気運が盛り上がり、芝山町議会は極左暴力集団排除に関する決議を採択するとともに、大型の鉄製看板「過激暴力集団排除宣言の町」を町内8箇所に設置。
    • 9月4日:反対同盟(北原派)から、新左翼との決別を主張する用地内農民らが離脱。小川嘉吉を代表として新たに「小川派」が結成される
    • 10月17日:横浜ヨット小型旅客船爆破事件
    • 10月23日:第16回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。
    • 11月5日:新東京国際空港公団の幹部職員宅が放火される。
    • 11月27日:政府・空港公団が成田新法に基づき、革労協の団結小屋である木の根団結砦を撤去(木の根団結砦撤去事件)。成田新法による初めての撤去処分。
  • 1988年
    • 3月17日:千葉市内にある、航空燃料輸送パイプラインの保安設備室が革労協(挟間派)によって爆破される。
    • 3月19日:開港以来の国際旅客1億人達成。
    • 4月13日:空港公団工事局に対し金属弾が発射される。
    • 7月4日:空港工事請負会社の車両が放火される。
    • 9月21日:当時千葉県収用委員会会長だった弁護士の小川彰が、千葉市内の路上でフルフェイスのヘルメットを被った数人に襲われる。小川弁護士は全身を鉄パイプやハンマーで殴られ、両足と左腕などを複雑骨折する重傷を負う(千葉県収用委員会会長襲撃事件)。その後中核派が犯行声明を出すとともに、「収用委員会解体闘争」と称して収用委員全員の住所と電話番号を機関紙『前進』に掲載し、組織的に脅迫じみた手紙や電話などを送り続けた。
    • 10月7日:空港公団内に「用地交渉推進本部」が発足する。
    • 10月24日:千葉県収用委員会会長襲撃事件を受けて、千葉県の収用委員会委員の全員が辞任する。以降、2004年の再建に至るまで千葉県収用委員会は完全な機能停止状態に陥る。
    • 11月30日:第2旅客ターミナルビル着工。
  • 1989年
    • 1月29日:建設省公共用地審議会会長代理宅の物置が圧力釜爆弾により爆破される。
    • 2月28日:第1旅客ターミナルビル南ウイング附属棟完成 。
    • 4月2日日本飛行機専務宅放火殺人事件発生。
    • 5月26日:第17回新東京国際空港騒音対策委員会が開催される。
    • 6月11日:この日投票の芝山町長選挙に反対同盟(熱田派)は相川勝重を擁立したが、落選。
    • 7月20日:反対同盟熱田派が戦旗荒派に対し共闘関係の断絶と現地からの退去を通告。
    • 11月16日:千葉県議会事務局次長宅が時限式発火装置により放火される。発火装置は逃げ口を塞ぐように玄関と勝手口に設置され、家人1人が2階から脱出した際に負傷する。
    • 12月4日:東峰団結会館が成田新法に基づき撤去される。
    • 12月4日:政府・空港公団が成田新法に基づき、戦旗両川派団結小屋である「東峰団結会館」を撤去。機動隊と活動家による攻防があり、火炎瓶投擲などを行ったの活動家ら5人が検挙される。
    • 12月7日:千葉県企画部職員宅が放火される。

1990年代[編集]

  • 1990年
    • 1月30日江藤隆美運輸大臣と反対同盟熱田派農民が現地で公開会談を行う。
    • 3月:全日本空輸社長宅の車両と日本航空会長宅が放火される。
    • 3月21日:政府・空港公団が成田新法に基づき、中核派の団結小屋である「木の根育苗ハウス」を撤去。
    • 5月15日:反対同盟熱田派がパンフレット『20年が過ぎた成田事業認定-私たちは政府と公開論争を続けています』を発行。
    • 8月23日:政府・空港公団が成田新法に基づき中核派の団結小屋である「三里塚闘争会館」を撤去。
    • 9月28日:開港以来の国際旅客1億5千万人達成。
    • 10月15日:政府・空港公団が成田新法に基づき、革労協の団結小屋である「大清水団結小屋」を撤去。
    • 11月1日:「地域振興連絡協議会」が発足。
    • 11月6日:開港以来の発着回数が100万回達成。
    • 11月29日:政府・空港公団が成田新法に基づき、戦旗荒派の団結小屋である「横堀団結の砦」を撤去。その際、熱田一の畑が空港公団と機動隊によって荒らされる。
    • 12月20日東京高等裁判所は77年5月8日の衝突で死亡した東山薫の死因について、一審判決を破棄して機動隊によるガス弾の頭部直撃によるものと認定し、千葉県に3,940万円の賠償命令判決を下す。千葉県は不服として27日に最高裁判所に上告したが、最高裁は96年に県側の上告を棄却。
  • 1991年
    • 1月18日:開港以来の航空貨物取扱量1千万トン達成。
    • 3月19日:成田線成田駅 - 成田空港駅、京成本線京成成田駅 - 成田空港駅が開業。
    • 4月9日:地域振興連絡協議会が空港公団、千葉県、ならびに反対同盟三派に、公開シンポジウム参加を申し入れる。熱田派は「強制収用放棄の再確認」を含む5条件を提示。翌日、北原派は「シンポに協力する脱落派を徹底糾弾する」と声明を発表。小川派は20日にシンポ不参加を声明。熱田一自身は政府との対話路線に反対であったために代表を辞任した。(以降、「旧熱田派」。)
    • 6月17日村岡兼造運輸大臣が、地域振興連絡協議会に対して、いかなる状況のもとにおいても強制的手段を取らないことを確約する旨を文書で回答した。
    • 6月17日:旧熱田派がシンポジウム参加を正式決定。
    • 8月1日:二期区域エプロン一部供用開始。
    • 8月10日:二期用地内で、地元有志企画による『三里塚・都はるみ・星空コンサート』が開催される。
    • 11月5日奥田敬和運輸大臣が記者会見で強制収用の可能性を示唆。
    • 11月6日:旧熱田派は前日の奥田発言に反発し、シンポジウム不参加を表明。
    • 11月15日:奥田大臣が、閣議で平和的解決の方針を再確認し、了承を得る。同日、旧熱田派がシンポジウム参加を再表明。
    • 11月21日第1回成田空港問題シンポジウム開催(以後15回開催)。
  • 1992年
    • 2月20日:情報通信センター、北オペレーションセンター供用開始。
    • 8月1日:南側エプロン供用開始。
    • 9月28日:革労協がシンポジウム運営委員長宅に金属弾を発射。
    • 10月31日:北側エプロン供用開始。
    • 11月11日:空港公団幹部宅が時限爆弾により爆破される。飼い犬が爆破による傷がもとで死ぬ。中核派が犯行声明。
    • 12月3日:第2旅客ターミナルビル地下の「空港第2ビル駅」供用開始。
    • 12月6日第2旅客ターミナルビル供用開始、第1旅客ターミナルビル北ウイング、第1および第2サテライト閉鎖。
  • 1993年
  • 1994年
    • 9月15日:A滑走路16(北側)進入方式フルカテゴリーII運用開始。
    • 10月11日:成田空港問題解決のための第12回成田空港問題円卓会議で、国と反対派が学識経験者による調停案を受入れ(円卓会議終了)。
  • 1995年
    • 1月24日:小川派メンバーから総理大臣及び運輸大臣あてにこれまでの空港づくりへの反省を促す書簡を送付。これに対する運輸大臣の返書を受けて小川派代表の小川嘉吉が反対運動の終了を表明。
    • 4月8日:開港以来の国際旅客2億5千万人達成、第2サテライト供用開始、第1旅客ターミナル改修開始。
    • 6月22日:第2旅客ターミナルビル南側エプロン部分の一坪共有地の所有権を空港公団が全て取得。
    • 7月20日:小川嘉吉が、国と訴訟の終結方法等について同意。
    • 8月2日:小川嘉吉が訴訟取り下げ。
    • 8月22日:空港公団が成田市芦田地区の8戸と集団移転補償契約を締結。
  • 1996年
    • 1月19日:「横堀団結の砦」撤去の際の作物被害を巡って争われた損害賠償裁判で、国と熱田一の間で和解が成立した。
    • 3月28日ILSカテゴリーIIIa運用開始、およびストップ・バーシステム供用開始。
    • 7月1日:空港公団本社が成田空港内に移転。
  • 1997年
  • 1998年
    • 1月22日:芝山鉄道線建設工事起工。
    • 2月1日:第1旅客ターミナルビル第1サテライトの供用開始。
    • 2月2日:空港へ迫撃弾2発と金属弾1発が打ち込まれ、貨物地区の作業員1名が迫撃弾の破片に被弾。救急車で近くの病院に救急搬送される。迫撃弾のうち、1発は近くで破裂、金属弾1発は不発だった。
    • 2月25日:建築途上であった元運輸省航空局長の隅谷調査団メンバーの高橋寿夫の住宅が時限発火装置で放火される。中核派が犯行声明。
    • 4月22日:千葉県幹部の自宅が放火される。中核派が犯行声明。
    • 4月25日:1日の発着枠を360回から370回へと改定。
    • 5月27日:「エコ・エアポート基本構想」を発表。
    • 6月1日:松戸市-成田空港の運行に用いられている京成バスの車両が松戸市内の車庫で炎上。中核派が犯行声明。
    • 7月15日:「地域と共生する空港づくり大綱」発表。
    • 7月29日:横浜市の運輸省幹部が自宅玄関を放火され、火傷を負う。中核派が犯行声明。
    • 9月11日:運輸省航空局課長の自宅が爆破される。中核派が犯行声明。
    • 10月28日:千葉県旭市内の自民党千葉県連幹事長飯島重雄県議宅の車両が中核派に放火される。
    • 10月31日:共生委員会事務所近くで不審な男女を警備員が発見、逃走した男女が現場に残したリュックから火炎瓶らしきものが見つかる。
    • 11月10日:空港公団とニューヨーク・ニュージャージーポートオーソリティの間で姉妹空港の締結を調印。
    • 11月18日:成田空港-羽田空港間直通列車運転開始。
    • 12月23日:開港以来の航空機発着回数200万回達成。
  • 1999年
    • 1月25日:芝山鉄道非常勤取締役宅が放火される。中核派が犯行声明。
    • 3月16日:第1旅客ターミナルビル北ウイング・中央ビル新館供用開始(南ウイング閉鎖)。
    • 4月27日:新消音施設(ノイズリダクションハンガー)竣工。
    • 4月28日:成田空港付近の路上で乗用車から迫撃弾が射出されると同時に車両が炎上する。中核派が犯行声明。
    • 5月10日:平行滑走路2000年度完成目標断念を発表。
    • 7月7日:運輸省航空局課長宅が放火される。中核派が犯行声明。
    • 9月3日:平行滑走路等の整備に関する工事実施計画の変更認可申請。
    • 9月12日太陽光発電システム運用開始。
    • 9月12日:成田駅を出発直後のJR総武線の快速電車と京成成田空港駅に停車していた京成電鉄の特急電車で、時限式発火装置による小火が発生。革労協が犯行声明。
    • 11月9日:空港公団職員宅が放火される。中核派が犯行声明。
    • 12月3日:平行滑走路工事着工。
    • 12月26日:京成線及びJRの成田空港行き列車3編成が、同時多発的に時限発火装置で放火される。

2000年代[編集]

  • 2000年
  • 2001年
    • 3月23日:空港公団と成田空港圏自治体連絡協議会の間に「地域と空港の共生に係る協定書」が締結される。
    • 10月31日:暫定平行滑走路の完成。
  • 2002年
    • 4月18日:2本目の滑走路であるB滑走路が、2180メートルの暫定平行滑走路として供用開始。東峰地区で空港反対同盟「旧熱田派」と「北原派」がそれぞれ終日抗議行動を展開。
    • 5月13日:回転翼航空機(ヘリコプター)の受け入れ条件を一部緩和。
    • 9月25日:第2旅客ターミナルビルスイングゲートの供用開始。
    • 5月27日:第2旅客ターミナルビル出発ロビー北側増築部(Wカウンター・Yカウンター)の供用開始。
    • 10月16日:空港南口ゲートの供用開始。
    • 10月27日:芝山鉄道の供用開始。
    • 10月27日:日本の市民団体の招きで来日したフランスの酪農家で社会運動家ジョゼ・ボヴェが、熱田一宅や石井武宅などのいくつかの空港反対派農家を訪問する。反対同盟は、1981年にボヴェの故郷で軍事基地反対運動が起こっていたフランス・ラルザック地方を訪問していた。
    • 12月1日:暫定平行滑走路の反対派農家の未買収地を残して建設された「くの字誘導路」上で航空機同士の接触事故が発生。
    • 12月16日:第1旅客ターミナル第3サテライトの供用開始。
  • 2003年
  • 2004年
    • 4月1日新東京国際空港公団が民営化され成田国際空港株式会社に改組(以下、NAA)。新東京国際空港から成田国際空港に改称、第2給油センター供用開始。
    • 10月19日:第1ターミナルの第1サテライトと第2サテライトを結ぶ連絡通路が開通。
    • 11月25日:第1旅客ターミナルビルの第4サテライトが開業。
  • 2005年
    • 6月8日:開港以来の発着回数が300万回達成。
    • 7月15日:暫定平行滑走路を本来の計画とは逆の北側延伸で、北側一雄国交相と黒野NAA社長が同意。
    • 11月11日:1978年に成田空港管制塔占拠事件で管制塔を占拠した元活動家16人は、政府などから事件の損害賠償を求められ、1995年に判決が確定するも支払いを拒否していたため、2005年になって給料を差し押さえられた。元同志らのカンパ運動により、賠償請求額と利息の合計、約1億300万円を法務省に支払う。
    • 11月18日:旧新東京国際空港公団発注の成田空港電気設備工事で、空港公団主導による受注調整など官製談合の疑いが浮上、関わった電機企業各社とNAAが東京地検の捜索を受ける。
  • 2006年
    • 1月15日:熱田一(元空港反対同盟熱田派代表)が、空港敷地内にある自宅敷地と、所有権を持つ「横堀墓地」を売却することを表明[40]。熱田元代表は、「若者が世界へ飛び立ち、帰ってくることによって日本の将来に役立つと考えた」とコメントし、反対運動から完全に身を引く。「横堀墓地」は他界した支援者の墓や、やぐらがあるなど、成田空港反対運動の象徴とされていた。
    • 4月13日:ILSカテゴリーIIIb運用開始。
    • 6月2日:航空会社再配置、第1旅客ターミナル南ウイング(第5サテライト)・第4-第5サテライト連絡地下通路が供用開始。
  • 2007年
    • 4月23日:NAAは暫定平行滑走路の誘導路新設に伴い、滑走路南東側の「東峰の森」(約10ヘクタール)で計画していた樹木の伐採作業に着手。NAAの発表によると、作業は6月末まで行い、4ヘクタールの森林で伐採を行う計画。
    • 5月22日:NAAの社長人事で、政府は6月下旬に任期満了を迎える黒野匡彦社長の後任として森中小三郎・住友商事特別顧問を充てる方向で最終調整に入った。民営化前の新東京国際空港公団時代も含めトップに民間人を起用するのは初めて。同社の社長人事では、民間人を起用したい首相官邸が国土交通省が打診した元運輸事務次官の黒野の再任案を拒否した一方で、自民党千葉県連や地元の成田市が黒野の続投を要請しており、首相官邸筋と地元の対立が表面化した。
    • 6月14日:東京高裁は、暫定平行滑走路の誘導路建設に伴う樹木伐採問題で、伐採禁止を求めた東峰地区住民の主張を退けた千葉地裁決定を支持し、住民の即時抗告を棄却。
  • 2008年
    • 3月1日:A滑走路に向けて迫撃弾を発射した旨を革労協が発表。7日に千葉県警が犯行に使われたとみられる迫撃弾を空港敷地内で発見。
    • 9月25日麻生太郎内閣国土交通大臣中山成彬が、産経新聞などのインタビューの際に、成田国際空港の拡張が「地元住民の反対などで進まなかった経緯」について、空港反対派農民を「ゴネ得」と述べて、千葉県知事堂本暁子から抗議されるなど社会問題化した。
    • 9月28日:国土交通大臣中山成彬は、他に「日本は単一民族」あるいは日本教職員組合に関する舌禍事件も問題視され、成田空港「ゴネ得」発言が引き金になり、国土交通大臣を辞任した。
    • 12月12日:NAAは、森中小三郎社長名で約千人の「一坪共有地」の地主に、土地の権利を約三万円で譲渡することを求める手紙を一斉に郵送。
  • 2009年
    • 3月23日:アメリカ合衆国の貨物機・フェデックス機が着陸時に突風に巻き込まれて墜落、炎上。操縦士ら2名が死亡した(フェデックス80便着陸失敗事故)。開港以来、初の空港における死亡事故となり、A滑走路が26時間21分閉鎖された。
    • 4月:成田空港地域共生委員会が成田空港地域共生・共栄会議となる。
    • 7月9日森田健作千葉県知事が定例会見で、成田空港の未買収地について、用地内の地権者に対して「早い段階で訪問したい」と述べ、直接面会する考えを示す[41]
    • 7月30日:成田空港のB滑走路とターミナルビルがある駐機場を結ぶ「東側誘導路」が供用を開始した。
    • 9月17日:NAAは、未買収用地取得を進めるため、現在空港反対派らが持つ「一坪運動共有地」と「土地」をNAAへ売却を求める訴訟を千葉地裁に起こす方針を固めた[42]
    • 10月22日B滑走路が2500mに延伸され、供用開始[43]

2010年代[編集]

  • 2010年
    • 2月25日:成田空港B滑走路西側の平行誘導路上にある、空港反対派「団結小屋天神峰現地闘争本部)」をめぐり、NAA が三里塚芝山連合空港反対同盟(北原派)を相手に、建物撤去と土地明け渡しを求めた訴訟の判決が千葉地裁であり、「地上権が成立したとの事実は認められない」とNAA側の訴えを認め、空港反対派に対し建物撤去と土地明け渡しを命じた(ただし、仮執行は認められず)[44]
    • 6月28日:B滑走路わきの市道(NAAに売却、廃止済み、通称団結街道)を閉鎖。
  • 2011年
  • 2012年
    • 11月28日:反対同盟旧熱田派の所有する「横堀団結小屋」を強制撤去[47]。人が住んでいる建物撤去は10年ぶりとなる[47]
    • 12月13日A滑走路の4000mによる全面運用を開始[48][49]
  • 2013年
    • 1月5日:元空港反対同盟熱田派代表の熱田一が死去[40]
    • 4月25日2009年9月17日にNAAが、空港反対派らが持つ横風用滑走路(C滑走路)予定地上の「一坪運動共有地」を相手取り用地の売却を求めて起こしていた訴訟について、最高裁判所は2件について地権者54人の上告を却下する決定をし、買収に応じるよう命じた一、二審判決が確定した[50][51][52]。これによりNAAが2009年に起こした6件の訴訟は4ヶ所でNAAの勝訴、2ヶ所で和解して終結した[52][51]。今後、訴訟になっていない数カ所について交渉を続け、取得を目指すとしている[51]
    • 7月29日:新東京国際空港公団が1970~2003年に地主から買収した土地を元地主との賃貸借契約により耕作を続けている農家に対しての耕作地の明け渡し請求訴訟の判決が千葉地裁であり、地裁は農地と建物の明け渡しを命じた(ただし、仮執行は認められず)[53][54][55]。耕作地は2ヵ所で計約7284平方メートル[53]。いずれもB滑走路の誘導路脇にあり、うち1カ所は誘導路が「へ」の字に湾曲する一因になっている[53]
    • 12月11日三里塚芝山連合空港反対同盟北原派の農家で、千葉県芝山町菱田の騒音区域に居住する女性と家族が反対運動から退き、 自宅と農地、航空貨物ターミナル増設予定地に所有している一坪共有地をNAAに売却したい意向を同派に伝えたことが報道された[56]。同派からの農家脱退は16年ぶり[56]
  • 2014年
    • 2月6日:NAAが三里塚芝山連合空港反対同盟に対し、空港用地内の団結小屋横堀現地闘争本部」撤去と土地(約180m2)の明け渡しを求め、千葉地裁に提訴[57]
    • 3月26日:B滑走路の誘導路脇にあり誘導路が「へ」の字に湾曲している主因になっている農家へ賃貸借契約解除を求めた控訴審が東京高裁で始まった[58]
    • 5月17日:国土交通省が成田・羽田の両空港において、2030年代を目途に滑走路をそれぞれ1本新設し、発着枠を現在の5割増となる110万回/年にする方向で本格的な検討に入った[59]。実現すれば、成田空港に3本目の新滑走路が誕生することとなる。
  • 2015年
    • 1月5日:NAAは団結小屋の一つ再共有化市民の家(通称・共有者の家)を撤去する方針を固めた[60]。現在はほとんど使用されていない小屋で、土地の所有権もNAAがすでに取得している[60]。撤去されれば、空港用地と保安用地に残る団結小屋は7カ所になる[60]
    • 2月3日1971年(昭和41年)に強制収用され、以来43年に渡り補償されないままになっている、大木(小泉)よねの自宅や宅地について、補償問題の最終解決を目指し、大木(小泉)よねの遺族[61]と、国・千葉県・NAAが、話し合いを再開することで合意した[62][63][64][65]。同地は三里塚闘争で唯一、自宅を強制収用されたため、三里塚闘争の象徴的な存在であった[62][63]
    • 2月20日:NAAが、強制執行により反対同盟旧熱田派の団結小屋である「再共有化市民の家」を撤去。空港用地内の団結小屋が残り5ヵ所となる。
    • 3月30日:1978年の開港以来続けてきた、空港入場前に一旦停止させ、利用客や送迎者の身分証明証を確認する検問が廃止され、顔認識システム監視カメラを利用した、新しい機械警備システムの運用が、正午から開始された[66][67]
    • 5月7日:成田空港用地内のB滑走路南側の土地2132平方メートルについて、NAAと地権者の間に用地売買契約が正式に成立したことが発表され[68][69][70]。同じ成田市東峰地区にある東峰墓地と野菜共同出荷場跡地に関するI氏のそれぞれの共有持ち分も、併せてNAAが取得した[68]。5月7日に一連の所有権移転登記が完了した[68]一坪共有地以外の反対派所有地を買収は、2006年3月熱田一から横堀墓地を取得して以来約9年ぶりとなり、空港用地内に土地を所有する反対派農家は3戸に減った[69][70]
    • 5月8日:「成田第3滑走路実現を目指す有志の会」が第3滑走路構想を発表。
    • 6月12日:B滑走路の誘導路脇にあり誘導路が「へ」の字に湾曲している主因になっている農家へ賃貸借契約解除を求めた控訴審で東京高裁は明け渡しを命じた一審・千葉地裁判決(2013年7月)を支持し、農民側の控訴を棄却[71]。農民側は即日上告[71]
    • 9月2日:NAAが「三里塚・芝山連合空港反対同盟」旧熱田派に、芝山町香山新田の空港用地内の団結小屋横堀現地闘争本部」の撤去と土地(約180平方メートル)の明け渡しを求めた訴訟で、千葉地裁が、NAA側の請求を認め、小屋の撤去と土地の明け渡しを命じた[72][73][74]。旧熱田派が一坪共有していたが、NAA側に土地の持ち分を売却するよう命じた判決が2013年4月に最高裁で確定しており、NAA側が2014年2月に明け渡しを求めて提訴していた[73]
    • 11月27日:千葉県・国・地元9市町・NAA が開いた4者協議会において、B滑走路の延伸と第三滑走路の新設について具体的な検討に入ることが決まった。B滑走路について、NAAは東関東自動車道の通る北部へと約1000m延伸し、B滑走路を3500m化、さらに首都圏中央連絡自動車道の東側に、新たに長さ3500mの第三滑走路を新設し、大型機の離着陸枠の増大と年間発着台数50万便(16万便増)を目指すとした。加えて都市間競争力を増すためにも、夜間飛行制限の緩和についても議論を進めていく予定である[75]
  • 2016年
    • 2月3日:NAAが「三里塚・芝山連合空港反対同盟」旧熱田派に、芝山町香山新田の空港用地内の団結小屋横堀現地闘争本部」の撤去と土地(約180平方メートル)の明け渡しを求めた訴訟の控訴審判決で、東京高裁は、一審千葉地裁に続き、原告のNAAの請求を認め、撤去と土地の明け渡しを命じた[76][77]。土地の所有権は、別訴訟で勝訴したNAAが全て取得している[76][77]
    • 3月18日芝山町にA滑走路16Rから南に600メートル離れた場所に、新観光・航空機撮影スポット「ひこうきの丘」がオープンした[78]
    • 7月21日:「横堀現地闘争本部」の撤去をNAAが求めた裁判で、最高裁が反対派の上告を棄却し、撤去と土地の明け渡しを命じた二審判決が確定した[79][80]
    • 10月25日:B滑走路の誘導路脇にあり、誘導路が「へ」の字に湾曲している主因になっている、農家へ土地の賃貸借契約解除を求めた上告審で、最高裁第三小法廷は、三里塚芝山連合空港反対同盟(北原派)の農家の上告を棄却し、これにより土地明け渡しと、上に建てられた小屋などの建物の撤去を命じた一、二審判決が確定し、もし土地の明け渡しに応じなければ、NAAの申し立てを受け、裁判所が強制執行することとなった[81][82][83]。土地(2カ所の計7284平方メートル)自体は、2003年(平成15年)にNAAが取得しており、NAAは賃貸借契約の解約を求めていた[81][82][83]
撤去前の横堀現地闘争本部

脚注[編集]

年表(2001年まで)作成に伴う参考文献

  • 郡山吉江 著 柘植書房『三里塚野戦病院日記』
  • 福田克彦 著 『三里塚アンドソイル』(2001年) 平原社
  • 警察庁『警察白書』 (各年)
  • 新東京国際空港公団『新東京国際空港公団 20年のあゆみ』(1987年) など

着陸帯、滑走路、誘導路およびエプロンの数値の推移[編集]

供用開始期日
または廃止期日
着陸帯
長さ・幅 (m)
滑走路
長さ・幅 (m)
誘導路
延長 (m)
エプロン
面積 (m2)
備考
新東京国際空港(供用開始前・予定)
1971年(昭和46年) 4月1日 A 長さ4,120
幅300
A 長さ4,000
幅60
30,117 1,907,763 昭和41年運輸省告示第397号
1974年(昭和49年) 4月1日 B 長さ2,620
幅300
B 長さ2,500
幅60
C 長さ3,320
幅300
C 長さ3,200
幅60
新東京国際空港(供用開始後)
1978年(昭和53年) 5月20日 長さ4,120
幅300
長さ4,000
幅60
12,090 1,182,910 空港供用開始(当初の予定は3月30日)
1979年(昭和54年) 2月25日 1,231,580
1980年(昭和55年) 7月10日 12,330
1983年(昭和58年) 8月4日 1,243,230
1985年(昭和60年) 5月9日 1,302,040
1988年(昭和63年) 5月16日 1,317,180
6月2日 12,680
7月28日 1,325,070
1990年(平成2年) 4月1日 1,333,444
1991年(平成3年) 5月2日 13,497
8月1日 1,531,182 第2期工事区域エプロンの一部供用開始
1992年(平成4年) 4月23日 13,898
8月1日 1,540,148
10月31日 14,595 1,903,336 第2旅客ターミナルビル供用開始(12月6日)に備えた拡張
11月12日 15,116
1993年(平成5年) 6月24日 15,079
11月11日 15,895 1,903,713
1995年(平成7年) 12月7日 1,906,155 梅の木共有地の解消
1997年(平成9年) 10月9日 15,858
1999年(平成11年) 12月2日 16,048
2001年(平成13年) 2月5日 16,560
4月19日 17,117
10月4日 17,289
2002年(平成14年) 4月17日 B' 長さ2,300
幅150
B' 長さ2,180
幅60
21,467 1,908,627 新滑走路記念便に限り着陸帯B′および滑走路B′供用開始
4月18日 25,304 1,932,651 着陸帯B′および滑走路B′正式供用開始(当初の予定は5月20日)
5月16日 1,970,056
6月13日 25,709
8月8日 25,742
12月26日 2,002,036
2003年(平成15年) 2月20日 25,947 2,011,928
4月17日 25,769 2,094,368
10月30日 26,395
12月25日 26,081 2,158,359
2004年(平成16年) 2月19日 27,351
成田国際空港
2004年(平成16年) 11月25日 26,860 2,112,606 第1旅客ターミナルビル第4サテライト供用開始
2005年(平成17年) 3月17日 26,530 2,126,248
8月4日 26,334 2,135,308
9月1日 26,310
9月29日 26,268
2006年(平成18年) 2月16日 25,509 2,187,013
5月11日 2,180,368
6月8日 25,579
2007年(平成19年) 6月7日 2,182,858
10月25日 25,392
11月22日 2,186,488
2008年(平成20年) 9月25日 26,078
10月23日 2,190,677
2009年(平成21年) 1月15日 26,284
5月7日 27,388
7月30日 29,997 2,194,385
10月22日 B' 長さ2,620 B' 長さ2,500 30,280 2,216,005 着陸帯B'および滑走路B'の北側延長部分供用開始
2010年(平成22年) 2月11日 2,248,054
3月11日 2,282,782
7月29日 29,882 2,298,687
2011年(平成23年) 3月10日 29,869 への字誘導路の改良
6月2日 29,733
6月30日 2,330,426
9月22日 29,693
2012年(平成24年) 4月5日 31,050 横堀地区誘導路共用開始
2013年(平成25年) 1月10日 31,541 横堀地区誘導路共用開始
3月7日 31,595 2,399,521 B滑走路西側誘導路および横掘地区エプロン供用開始
11月14日 31,762 2,397,664
2014年(平成26年) 9月18日 31,673 2,409,812
  • 「または廃止期日」とあるのは、転用・変更等により短縮・縮小される部分は廃止扱いとなるため。
  • 供用開始前の計画上の「誘導路の延長」および「エプロンの面積」の数値については、着陸帯A・滑走路Aに対応する部分は1971年に、着陸帯B・滑走路Bおよび着陸帯C・滑走路Cに対応する部分は1974年に、それぞれ供用開始となるとされていたが、両数値の内訳は告示されなかったため、本表では一つのセルに全延長および全面積をまとめて表示した。
  • 1978年供用開始時の告示では、「A」を付さずに単に「着陸帯」および「滑走路」と表記されたため、本表ではこれに倣って「A」を省いたが、その内容は当然に最初の告示における着陸帯Aおよび滑走路Aに係るものである。
  • ダッシュ(プライム)の付された着陸帯B'および滑走路B'は、2001年11月30日までに着陸帯Bおよび滑走路Bを完成させることが困難な場合を想定し、暫定的な施設として認可されたものである。

成田空港問題を扱った作品[編集]

漫画[編集]

映画[編集]

小川紳介監督作品
  • 日本解放戦線 三里塚の夏(1968年
  • 日本解放戦線 三里塚(1970年
  • 三里塚 第三次強制測量阻止斗争(1970年)
  • 三里塚 第二砦の人々(1971年
  • 三里塚 岩山に鉄塔が出来た(1972年
  • 三里塚 辺田部落(1973年
  • 三里塚 五月の空 里のかよい路(1977年
その他

美術[編集]

音楽[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 新東京国際空港の建設
  2. ^ 成田空港〜その役割と現状〜2011 第4章1
  3. ^ 新東京国際空港の建設
  4. ^ 時をほぼ同じくして、日本中央競馬会も関東馬の厩舎が飽和状態にあったため、大規模な競走馬収容施設を探しており、三里塚もその候補地に挙がっていた。しかし先に空港決定が決まったために、新たな用地を探すことになった。これが後の美浦トレーニングセンターである。2009年に入って『週刊Gallop』が美浦トレセンの誕生秘話を連載した中で、このことが触れられている
  5. ^ なお、宮内庁下総御料牧場については1969年に高根沢御料牧場に移転している
  6. ^ a b “【戦後70年 千葉の出来事】成田闘争(下) 公共事業のあり方一変”. 産経新聞 (産経新聞社). (2015年8月3日). http://www.sankei.com/region/news/150803/rgn1508030020-n3.html 2017年8月8日閲覧。 
  7. ^ a b “【戦後70年 千葉の出来事】成田闘争(上) さながら白昼の市街戦”. 産経新聞 (産経新聞社). (2015年8月2日). http://www.sankei.com/region/news/150802/rgn1508020033-n1.html 2015年8月3日閲覧。 
  8. ^ 空港予定地となっている農家の土地や立木を、多くの支援者で共有することで、新東京国際空港公団の土地取得を困難にさせようとする運動。沖縄本島の反米軍基地運動の「一坪反戦地主運動」からヒントを得ている
  9. ^ 中核派は革マル派との内ゲバが続いており、登記簿によって構成員の情報を公開され、襲撃を受けることを懸念していたという事情もある。( 朝日新聞成田市局『ドラム缶が鳴りやんで―元反対同盟事務局長石毛博道・成田を語る』四谷ラウンド、1998年、92p)
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  16. ^ 米軍使用飛行場の返還、利用問題を検討
  17. ^ 霞ヶ浦・木更津沖・羽田拡張・冨里の各案について土木上の問題を検討
  18. ^ この時佐藤は「東京周辺で一時間以内に行ける新空港の用地をいくら探しても北総台地しかない。空域も、自衛隊の百里空港(ママ)と羽田空港との間を調整可能であること、御料牧場、県有隣を提供してくれれば、民有地にかかる面積を圧縮できること、東京湾内は便利な羽田空港を国内線用として存続しなければならないので、新たな空港は難しい。また今度は地元との交渉条件は決定前に公表し、前例はないが、閣議決定の中に含ませる」などと伝えた(成田空港問題シンポジウム記録集編集委員会『成田空港問題シンポジウム記録集 資料編』1995年、21頁。)。
  19. ^ 大坪景章(1978年)81頁
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  22. ^ 条件が折り合えば移転を了承する地権者。
  23. ^ 反当たりの価格は、畑:140万円、田:153万円、宅地200万円、山林原野115万円。
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  28. ^ 今回も警察が検問を実施したことに加えて、代執行での"敗北"が世間に印象づけられたことにより、反対同盟は代執行時のようなマスコミや「野次馬」の支援を得られなかった。
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参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]