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東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件

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東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件
正式名称 警察庁広域重要指定117号事件
場所 東京都北西部・埼玉県南西部
日付 1988年 - 1989年
死亡者 4
犯人 1
容疑者 誘拐・殺人・死体遺棄

東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(とうきょう・さいたま れんぞくようじょゆうかいさつじんじけん)とは、1988年から1989年にかけて東京都北西部および埼玉県南西部で発生した、幼女を対象とした一連の事件である。

警察庁公式名称は「警察庁広域重要指定117号事件」。『現代用語の基礎知識』には「連続幼女誘拐殺人事件」の名で掲載された。

概要

この事件は、4歳から7歳という低い年齢の女児が被害者となり、犯行声明を新聞社に送り付ける・野焼きされた被害者の遺骨を遺族に送りつけるなどの、極めて異常な行動を犯人が取ったことから、欧米を中心に多発する児童への性的暴行を目的とした誘拐・殺害事件などとの比較も行われ、戦後日本犯罪史上にて初めてプロファイリングの導入が検討された。

特異性が強い事件であったため、事件発生当初から激しい報道合戦が繰り広げられ、後に犯人の父親が自殺したことで「メディアスクラム」をはじめとする報道のあり方が疑問視された事件でもあった。

1989年7月23日、この事件の犯人である宮崎勤八王子市にて別件のわいせつ事件を起こしているところを被害者の父親に取り押さえられ、八王子警察署現行犯逮捕された[1]。取り調べが行われる中で、8月9日に連続幼女誘拐殺人事件の一部の事件への関与を認める供述を始める。8月10日に供述どおりに遺体が発見され、その日の夕刊とテレビから大々的な実名報道が始まる。8月11日誘拐殺人の容疑で再逮捕され、以後9月にかけて4つの事件への関与を次々と供述する。なお、逮捕される前から宮崎が過去の性犯罪者リストによって捜査線上に浮かんでいたとも言われている。

宮崎が自室に所有していた「5,763本もの実写ドラマなどを撮影したビデオテープ」を家宅捜索により押収した警察側は、これらを分析するために74名の捜査員と50台のビデオデッキを動員した。2週間の捜査によって、被害者幼女殺害後に撮影したと見られる映像を発見した。そして1989年9月2日起訴に踏み切り、後に宮崎の供述により遺体が発見されたため、一連の事件犯人として追起訴した。

宮崎は公判において、「犯行は覚めない夢の中でやった」「ネズミ人間が現れた」「俺の車とビデオを返せ」など、不可解かつ身勝手な発言を繰り返していた。

1997年4月14日東京地方裁判所死刑判決が下る。通常、死刑を宣告する際は被告人の精神状態を考慮して判決理由を朗読した上で主文を後回しにするが、この裁判では例外として冒頭で主文を言い渡された。控訴するも、2001年6月28日東京高等裁判所でも控訴棄却され、一審判決の死刑を支持。弁護側は、宮崎が東京拘置所で幻聴を訴え、継続的に投薬を受けていることなどを挙げ、高裁に差し戻して再鑑定するよう求め上告したが、2006年1月17日最高裁第3小法廷は、弁護側の上告を棄却、死刑が確定した。この自身の死刑確定について宮崎本人は著書の中で「あほかと思う。あの裁判官は後から泣くことになる」と述べており、面会に訪れた人物にも「あの判決は何かの間違い」と話していた。

死刑確定後、手紙の中で絞首刑に対する恐怖を訴えており、アメリカで行われるような薬殺刑を希望していた。これについては宮崎が獄中で書いた手紙をまとめた著書に詳しく記されており、絞首台から落下する瞬間を「どん底の恐怖に陥れられ、それは人権の侵害にあたる」と主張している。また同書の中で自身の最高裁判決が大きく報道されたことを「やっぱり私は人気者だ」と語り、殺害した被害者や遺族に対しての思いのほどを問われ「特に無い。いいことができて良かったと思う」と答えた。

2008年6月17日鳩山邦夫法務大臣(当時)の下により東京拘置所に於いて宮崎の死刑が執行された。宮崎の口から遺族に対する謝罪、事件に関する反省の念が語られることはついに最期までないままであった[2]

事件

第一の事件
1988年8月22日 - 当時4歳の女児Aが誘拐・殺害される。殺害後しばらくたち、死後硬直で固くなった遺体にわいせつ行為を行う様子をビデオ撮影している。動機について簡易鑑定の問診記録では、鑑定人に「どうして写真だけでは済まなくなったか」を聞かれた際は、第一次鑑定では「よくわかんない」、最後の被告人質問では「急に子供の頃が懐かしくなった」と、証言が曖昧であった。
第二の事件
1988年10月3日 - 当時7歳の小学1年生の女児Bが誘拐・殺害される。こちらはすぐさまわいせつ行為をしたが、この時点ではまだわずかに息があった模様で足がピクピク動いていたという犯人の証言がある。動機について供述調書では「何ともいえぬスリルがあった」、第一次鑑定では「よく覚えていない」「一番印象が無い」と述べ、やはり不明瞭。
第三の事件
1988年12月9日 - 当時4歳の女児Cが誘拐・殺害される。Cは失禁した。焦ったのか犯人は被害者を山林に投げ捨てた。12月15日、Cの全裸死体発見。12月20日、C宅に葉書が届く。この遺体の発見後、テレビで被害者の父親が「死んでいても見つかってよかった」と発言するのを見た犯人が他の被害者の遺体も送ることを計画するが、Bの遺体を発見できなかった。この際、山道に脱輪してたまたま通った車に助けを求め、「紺のラングレー」「ナンバープレートが3桁」という目撃情報が浮上する。
犯行声明
1989年2月6日 - A宅に紙片と骨片などの入った段ボール箱が置かれる。2月10日には「今田勇子」名でA事件の犯行声明が朝日新聞東京本社に郵送される。2月11日には同内容の犯行声明がA宅に届く。3月11日、「今田勇子」名での告白文が朝日新聞東京本社とB宅に届く[3]。Aを入間川に沈めて殺したなど、事実と異なるいきさつが書かれていた。また後日これとは別に『告白文』と称する文章がマスコミ及び被害者宅に送りつけられる。極端に角張った利き手と反対の手で書かれたとも思える筆跡が特徴であり、筆跡鑑定が行われた。
第四の事件
1989年6月6日 - 当時5歳の女児Dが誘拐・殺害される。Dの指をもぎ、醤油をかけて焼いて食べた。また、ビニール袋に溜まったを飲んだ。6月11日、Dのバラバラ殺人遺体発見。
現行犯逮捕
1989年7月23日 - 東京都八王子市で幼い姉妹を狙った猥褻事件を起こす。妹の全裸写真を撮影中に姉の知らせを受けた父親に取り押さえられ、現行犯逮捕。父親は「D事件の犯人もまだ捕まっていないのに」と取り押さえた宮﨑を責めたが、後日それが連続殺人事件の犯人だと知って愕然としたと当時のマスコミの取材を受けている。
1989年8月9日 - Dの殺害を自供。
1989年8月10日 - Dの頭部発見。犯人のマスコミ報道が始まる。
1989年8月11日 - Dの誘拐殺人死体遺棄の容疑で再逮捕
1989年8月13日 - A・Cの誘拐殺人を自供。
1989年9月1日 - 警察庁広域重要指定117号に指定。
1989年9月2日 - 検察起訴に踏み切る。
1989年9月5日 - Bの殺害を自供。
1989年9月6日 - 五日市町でBの遺骨発見。
1989年9月13日 - Aの遺骨発見。

幼女を殺すたび、自宅に藁人形を置いて部屋を暗くし、頭に鉢巻きをして蝋燭を数本付け、黒っぽい服を身に付け手を上げ下げし、祖父復活の儀式を執り行ったという。

動機

事件の奇異さから、さまざまな憶測が飛び交い、また宮崎自身が要領を得ない供述を繰り返していることから、裁判でも動機の完全な特定には到っていない。

おたく研究家大塚英志は、幼少の孤独が彼の精神を幼児期のまま停滞させたため、子供のような性格と性的嗜好を有していたと指摘する。事実、宮崎は強制わいせつに相当する行為(体を触るなど)はしたが強姦はしておらず、幼児退行をきたしたある種のペドフィリアの行動に合致する。これは、フロイトの「射精欲求はある時期に接触欲求から派生するため、子供の精神を持った者は性的結合をする意思がない…」という説に由来する。また殺人も、かっとなった子供が暴力をふるうのと同じ行動を、大人が行ったため死に到ったのだと指摘した。

鑑定に当たった医師たちによると、彼は本来的な小児性愛者(ペドフィリア)ではなく、あくまで代替的に幼女を狙ったと証言されている。「成人をあきらめて幼女を代替物としたようで、小児性愛や死体性愛などの傾向は見られません」(第1次精神鑑定鑑定医 保崎秀夫 法廷証言)および「幼児を対象としているが、本質的な性倒錯は認められず…幼児を対象としたことは代替である」(簡易精神鑑定)。

宮崎は、1989年8月24日東京地方検察庁の総務部診断室で簡易精神鑑定を受ける。その結果「精神分裂病(当時の呼称で、現在では統合失調症に改称)の可能性は否定できないが、現時点では人格障害の範囲に留まる」と診断されたことから、これを受けて検察は起訴に踏み切っている。

公判開始後の1992年12月18日より、弁護側の依頼により3人の鑑定医により3度目(公判開始後は2回目)の再鑑定が始まる。1994年12月に鑑定書が提出される。その際の鑑定では1人は統合失調症を、2人が解離性同一性障害と異なる鑑定結果を出している。

裁判から死刑執行まで

裁判

第一審
1997年4月14日東京地方裁判所死刑判決。判決時の被告は時折周囲をしらけた表情で眺めるくらいで、いつものように机上に広げたノートに何かを書き続けていた。法廷を出る際は、薄笑いを浮かべていた。責任能力に関しては、逮捕時の彼にそのような多重人格や統合失調症を疑わせるような異常な反応は見受けられず、逮捕による拘禁反応とみなした場合に最もうまく説明できることを理由に第2回鑑定は採用されず、責任能力は完全に保たれていたとされた。即日控訴
控訴審
2001年6月28日東京高等裁判所で一審支持・控訴棄却の判決。同年7月10日上告
2004年には奈良小1女児殺害事件が起こるが、同事件の容疑者が「第二の宮崎勤」の発言を行ったことに対し「精神鑑定も受けずに、『第二の宮崎勤』は名乗らせません」(雑誌『』2006年1月号)と宮崎の名を使ったことに対し痛烈に批判した。
上告審
2006年1月17日最高裁判所が弁護側の上告を棄却。弁護側は判決訂正を求めたが、2006年2月1日に棄却[4]

死刑執行

2008年6月17日東京拘置所で死刑が執行された[5]。宮崎は冷静に執行を受け入れ、また宮崎の母親は遺体との対面後に、処置については拘置所に任せたという[6]。また、執行前に残した最期の言葉は「あのビデオ、まだ途中だったのにな……。」であるとされることがあるが、正確な情報源はなく、信ぴょう性は低い。

影響

この事件は、メディアにかつてない影響を与えた。宮崎がいわゆるおたくロリコンホラーマニアとして報道されたことから、同様の趣味を持つ者に対して強い偏見が生じた。[独自研究?]特に、宮崎が殺害後の幼女をビデオカメラで撮影、これらを膨大な数に及んだコレクション・ビデオテープの中に隠し持っていたという点で、現実と空想・妄想と犯罪行為の境界が曖昧で、明確な規範意識の無さが犯罪に及ばさせたとみなされた。

これには少なからず、前出の報道合戦の影響が見られ、特に各メディアとも宮崎の異常性の見られる性格を強調、一時は同傾向の見られる独身男性に対する、あからさまな社会的嫌悪感まで形成されるという、モラル・パニック的な風潮も見られた。特に、当時のおたく文化には提供側の趣味もあって、極端に幼女を対象に据えて性的興奮を煽る内容が散見されたことから、1990年代前半の電脳学園・宮崎県有害図書指定訴訟沙織事件有害コミック騒動などの規制強化に向けた騒動の引き金となった。

ホラー

宮崎の部屋から押収された大量のビデオテープの中に、スナッフフィルム(殺人フィルム)をリアルに再現したホラービデオ「ギニーピッグ」シリーズの第2作「ギニーピッグ2 血肉の華」が含まれていたとマスコミが報道。この作品に影響されて猟奇殺人を犯したというマスコミの一方的な解釈が世間に浸透していき、「ギニーピッグ」全シリーズが廃盤に追い込まれた。しかし実際に部屋から押収されたのは、全編コメディ調の「ギニーピッグ4 ピーターの悪魔の女医さん」であり、宮崎は「ギニーピッグ2」を見ていないと供述している。さらに「ギニーピッグ2」を監督した漫画家の日野日出志ホラー映画にまでヒステリックな批判が波及し、宮崎の逮捕後から暫くの間は全国のテレビ局でホラー映画の放送が自粛された。

ポルノ

この事件後、1989年あたりから性的なものを感じさせるあらゆるものに圧力がかかり、その余波は90年代前半ぐらいまで続いた。特に顕著だったのは漫画業界である。例えば小林よしのりは自身の漫画で、いやらしさを全く目的としていないページに、女性の乳首が見えているとして編集者から修正を加えられ、激昂したという。このころの業界は乳首の描写ですら規制する風潮であった。また遊人の青年誌漫画『ANGEL』などの人気作品も連載中止に追い込まれた。

当時この事件の取材をしていた木村透偏向報道があったと、読売ウイークリーブログ2005年11月21日)にて主張している(当該エントリーはすぐに削除された。関連記事)。削除されたエントリーで木村は、民放カメラマンが部屋の隅に数十冊あった雑誌の内、成人向け書籍を一番上に乗せて撮影するという行為があったと主張している[7]。5787本という膨大なビデオテープの大半は「男どアホウ甲子園」や「ドカベン」など大量のアニメの録画テープが占めており、いかがわしいビデオや幼女関連のビデオは44本に過ぎなかった。

これらテープは、そのほとんどは一般のテレビ放送を録画したものや、そのテレビ録画がマニアによってダビングされたもので、これらは文通などの形で交換されあったものという話がある。当時の報道によれば、こういったマニア間でのテレビ録画したダビングビデオの交換は方々で行われていたが、宮崎はこの交換で望みのテープを入手する際に、相手への返礼が十分でない、遅延するトラブルもあったという。宮崎が自分の欲しい作品をどんどん入手する割に人の頼みはできるだけ断るという行動を取ったため、除名したサークルもあった。宮崎は「完録マニア」(全話を録画しないと気がすまないタイプ)であり、子供っぽいという印象も持たれていた。[誰?]

小児児童への影響

この事件をきっかけに、年端もいかない小児に性衝動を覚えるペドフィリア嗜好の存在が広く知られることとなり(それまではそうした行為は明らかな異常者・変質者のみのものと考えられていた)、保護者が子供をめぐる性犯罪に対して強い恐怖感を抱くようになった。[要出典]

TVの幼児番組などでも、児童(女児)の裸・下着が画面に映ることを避けるようになった。[要出典]さらに、宮崎が年少のころより、動物に対して残虐な行為を行っていたという報告もあり、他の事件においての事例も含め、動物虐待行為が、これらの異常性も見られる犯罪行為の予兆であると考える向きもある。

テレビ

宮崎勤が第1の事件を供述して以降、NHKや民放のテレビの報道・ワイドショー番組は連日、連続幼女誘拐殺人事件関連の報道を大々的に伝えた。その直前、海部俊樹が第76代内閣総理大臣に就任し、第1次海部内閣が発足したばかりだが、宮崎が第2・第3の事件の供述をしたことから、事件の経緯を検証する形で誘拐殺人事件報道を優先していた。民放各局のワイドショーは8月下旬まで、連日30分〜1時間(場合により2時間も)程度で誘拐殺人事件関連の話題を優先していたが、8月26日今上天皇の次男・礼宮(現:秋篠宮)文仁川嶋紀子との婚約を発表してからは、事件報道の扱いが次第に縮小されていった。

統計データ

最近では、児童への性的暴行行為で逮捕・起訴された者に、高い再犯率が見られると報道されている。ただし、犯罪白書では、性犯罪の「累犯者(過去に同一罪種で処分を受けていた者)率」は約10%程度で、犯罪全体の中で低い部類とされている。

また、児童に多大な心身への悪影響を与えるとする統計も発表され、アメリカ同様に性犯罪者情報公開法の制定を求める声もある(ミーガン法を参照のこと)。

冤罪説

この事件については冤罪説を唱える者が集まって「M君裁判を考える会」という市民団体を組織した。代表者の木下信男応用数学者、明治大学名誉教授)は1994年、「明治大学教養論集」に「裁判と論理学─幼女連続誘拐殺人事件に見る冤罪の軌跡」と題する論文を載せ、冤罪論を説いた。

また、「M君裁判を考える会」会員である小笠原和彦は冤罪説の立場から『宮崎勤事件 夢の中:彼はどこへいくのか』(現代人文社、1997年)を書いている。

その他

  • 1989年3月11日に「今田勇子」名義で告白文を朝日新聞東京本社と殺害された女児の家に送っているが、その告白文で、前年1988年に利根川河川敷で白骨化した遺体が発見された群馬小2女児殺害事件について触れられている。群馬小2女児殺害事件は、遺体の発見現場が河川敷だったこと、遺体の両腕の肘から先と両脚の膝がなかったこと、など宮崎の事件との共通点があった。そのためこの事件も宮崎の犯行と疑うメディアもあったが、殺害時期が宮崎の第1の殺害事件から1年近く前であること、事件現場がやや離れていたこと、宮崎と結びつける証拠がみつからなかったこともあり、宮崎の犯行としては立件されず、2002年9月15日公訴時効が成立して未解決事件となった。
  • 日本のロックバンドARBの楽曲「MURDER GAME」の歌詞の内容が当事件に酷似しているとNHKから指摘があり[要出典]、放送禁止になったという逸話がある。内容は、テレビゲーム狂の男が遊び相手の子供を殺したというもので、宮崎の事件とは異なる。

注釈・出典

  1. ^ 一橋(2003)、p.12
  2. ^ “連続幼女誘拐殺人:宮崎死刑囚・刑執行(その1) 最後まで謝罪なく”. 毎日新聞. (2008年6月17日). オリジナル2008年6月18日時点によるアーカイブ。. http://megalodon.jp/2008-0620-2111-18/mainichi.jp/select/jiken/archive/news/2008/06/17/20080617dde041040003000c.html 
  3. ^ 今田勇子とは、「『勇子・今田』=“Yuuko Imada”→“Yuuka Imada”=『誘拐魔だ』のアナグラム」という説や、「今だから言う」などという説がある
  4. ^ 共同通信 2008年2月2日
  5. ^ 幼女連続誘拐殺害の宮崎勤死刑囚に死刑執行”. 産経新聞 (2008年6月17日). 2008年6月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年8月13日閲覧。
  6. ^ 読売新聞 2008年10月3日
  7. ^ 月刊ニュータイプ1989年11月号でも、とり・みきが、こうした「TVの人間」による雑誌の位置を動かすなどの「演出」があったということを主張している

関連書籍

関連項目

外部リンク