岐部哲也

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岐部 哲也
誕生 (1955-05-12) 1955年5月12日(63歳)
大分県国東市
ホーリーネーム マハーカッサパ
ステージ 正悟師
教団での役職 防衛庁長官
入信 1986年
関係した事件 建造物侵入
判決 懲役1年

岐部 哲也(きべ てつや、1955年5月12日 - )はオウム真理教の元幹部。ホーリーネームマハーカッサパ大分県出身。省庁制が採用された後は「防衛庁長官」となる。教団内でのステージは師長だったが、地下鉄サリン事件3日前の尊師通達で正悟師に昇格した。

来歴[編集]

大分県立大分舞鶴高等学校卒業。絵描き志望で、美術大学進学を目指していたが受験に失敗[1]。親に面倒をかけたくないとの独立心が強く、奨学金を受けて新聞配達をしながら [1]阿佐ヶ谷美術専門学校でデザインを専攻した。卒業後はグラフィックデザイナーとしてデザイン会社に就職し、レコードジャケットの制作に携わり、松任谷由実のアルバムなどを制作[2]。生活は裕福で、デザイナーとして一流といわれるものをしていたため、不満もなかったが、ポスターでも広告でも雑誌でも本でも「所詮は有効期限のある紙切れ」と思い、虚しさを感じていたという [1]

オウム真理教[編集]

入信[編集]

1986年9月に教団前身のオウム神仙の会に入信。当時交際していた女性が入信したのをやめさせようとしたが、一緒に通ううちに傾倒していった。1987年6月に出家し、入信後も教団の出版物の装丁など、デザイン関係を手がけていた。写真撮影の技術にも優れており、教祖麻原彰晃の空中浮揚写真も岐部が撮ったものである[2]1988年10月20日、クンダリニー・ヨーガを成就し、マハーカッサパのホーリーネームを授かる [1]

第39回衆議院議員総選挙[編集]

1990年第39回衆議院議員総選挙真理党公認で、当時の旧東京10区から立候補して落選した。この際に、オウムとしては珍しく選挙に立候補するかどうかを幹部による多数決が採用されたが、結果は10:2で賛成派が勝利。反対した2人は上祐史浩と岐部本人であった[3]

裏ワーク[編集]

麻原は教団が保有するMi-17ヘリコプターサリン噴霧などのテロを行うことを構想しており、岐部はアメリカに派遣されヘリコプターの免許を取得[2]。また、ラジコンヘリの操縦も任されたが、実機とのレバー操作の違いに戸惑い、訓練中に大破させてしまった[4][5]。これに激怒した村井秀夫によって、事実上の降格処分を喰らってしまう[6]

逮捕・実刑[編集]

1995年4月8日に無断で地下駐車場に侵入した建造物侵入罪逮捕された。裁判の結果、懲役1年の実刑判決を受けた。建造物侵入行為自体は大きな実害をもたらしてはいない罪状で前科のない者が執行猶予が付かずに実刑判決になるのは異例であるが、密造された自動小銃部品の隠匿という計画の悪質さと、部下の信者を違法行為に巻き込んだ幹部としての責任を重く判断されたためであった。一連のオウム事件で立件された者の中で初めて実刑判決が確定した。翌年に府中刑務所を出所した。

出所後[編集]

その後、教団には戻らず身元引受人となった栃木県の寺院で過ごした後、四国で家族と暮らす。

不起訴処分事件[編集]

2004年7月7日警察庁長官狙撃事件において岐部に酷似した人間が狙撃犯の逃走ルートとは反対方向である警察署の前を自転車で通ったとする複数の目撃証言から、狙撃役の逃走を支援するダミー役を果たしていた疑いが強いと警察に判断され、殺人未遂容疑で逮捕されたが否認し、証拠不十分で7月28日釈放され、9月17日に不起訴となった。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d オウム真理教機関紙「マハーヤーナ No.18」
  2. ^ a b c 東京キララ社編集部『オウム真理教大辞典』 p.42
  3. ^ 『オウム解体』宮崎学vs上祐史浩(雷韻出版 2000年5月1日
  4. ^ 渡邉学『南山宗教文化研究所所蔵オウム真理教関係未公開資料の意義について』 2009年 南山宗教文化研究所
  5. ^ 「模型ヘリ、訓練中大破」 毎日新聞 1995年5月30日付 夕刊11面
  6. ^ 「『サリン散布』 狙った模型ヘリ 残骸を教団施設に保管」 毎日新聞 1995年6月2日夕刊

関連書籍[編集]