坂本堤弁護士一家殺害事件

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坂本堤弁護士一家殺害事件
場所 神奈川県横浜市磯子区
日付 1989年11月3日 - 11月4日
攻撃手段 窒息
死亡者 3人
犯人 麻原彰晃率いるオウム真理教徒ら
岡崎一明村井秀夫新実智光早川紀代秀中川智正端本悟
動機 教団を批判する弁護士の殺害

坂本堤弁護士一家殺害事件(さかもとつつみべんごしいっかさつがいじけん)は、1989年平成元年)11月4日に旧オウム真理教の幹部6人が、オウム真理教問題に取り組んでいた弁護士であった坂本堤(当時33歳)と家族の3人を殺害した事件である[1][2]

概要[編集]

坂本弁護士一家の碑(魚津市別又谷山中)。現在は片貝山ノ守キャンプ場内に移設。
長男の慰霊碑(長野県大町市)

事件のきっかけ[編集]

「横浜法律事務所」に所属していた坂本堤弁護士は、江川紹子からの紹介で[3]、出家信者の母親から息子のオウム真理教脱会について相談されたことがきっかけとなり、1989年(平成元年)5月からオウム真理教の反社会性を批判・追及し「オウム真理教被害者の会」を組織していた。同年9月、『サンデー毎日』で「オウム真理教の狂気」特集がスタートし、坂本弁護士も取材を受ける[4]

オウム真理教に対して、批判的な記事を書いていた『サンデー毎日』の出版を差し止めるべく、出版元である毎日新聞社本社の爆破計画があった。2トントラックに爆弾を搭載し、輪転機がある(はずの)パレスサイドビルディング地下階に突っ込んで爆発させれば、サンデー毎日の出版を停止できるという計画だった。爆弾は村井秀夫が作る予定であった[5]

しかし、トラックが地下に入れないことと、そもそもサンデー毎日がパレスサイドビルディング地下階の輪転機で印刷されているかが不明であったことにより、計画は暗礁に乗り上げた。代替案として、直接爆弾を設置する計画があったが、早川紀代秀がオウム真理教のビラを千代田区一ツ橋の毎日新聞社に置いてきたため、足がつくことから頓挫した[6]

殺害決定[編集]

同年10月26日、上祐史浩青山吉伸早川紀代秀は坂本弁護士のインタビューを撮影したTBSテレビに抗議して放送を中止させる(TBSビデオ問題)。上祐、青山、早川は10月31日には横浜にある坂本の事務所で訴訟回避に向けた交渉を行ったが、坂本は麻原のDNA培養物を高額で売りつける「DNAのイニシエーション」(オウム真理教の修行を参照)はインチキであり、京都大学が認めたなどと宣伝しているがそのような事実はなかったなどの指摘を行い、訴訟の意思を変えなかったことで交渉は決裂する[7]。坂本弁護士はオウム真理教の宗教法人の認可取り消しなどの民事訴訟の準備に入った。また被害者の会も「水中クンバカや空中浮揚を公開の場で行え」と要求してきた[4]

同年11月2日か3日頃、麻原はオウム真理教幹部である村井秀夫早川紀代秀岡﨑一明新実智光中川智正をサティアンビル(後の第1サティアン)に集め、右手の親指と人差し指で輪を作ってはじく「ポアのサイン」をして、「もう今の世の中は汚れきっておる。もうヴァジラヤーナを取り入れていくしかないんだから、お前たちも覚悟しろよ」「今ポアをしなければいけない問題となる人物はだれと思う」と問い詰めた。当初『サンデー毎日』の編集長を務めていた牧太郎を、帰宅途中に抑え込み殺害するという計画であったが、牧太郎は多忙ゆえ帰宅を襲いにくいため、計画は立ち消えとなった。そこで麻原は「牧太郎ではない。坂本弁護士である」と言って突然標的を坂本堤に変更した[8]

「坂本弁護士の活動は、真理党からの出馬を予定している翌年(1990年)の総選挙や、今後の教団の発展の障害となる」と考えたことが動機とされる[4]。麻原の検察官面前調書によると、「自分(麻原)への誹謗中傷はいいが、真理への妨害は許されないため、坂本弁護士が悪業を積む前にポアした」と語っている[9]

そして「坂本弁護士をポアするんだよ」「ポアするんだよポア」「話しても無駄だから、ポアするんだ」などと言い、坂本弁護士を塩化カリウムで殺害するよう指示した(塩化カリウムは中川が以前勤務していた大阪鉄道病院から盗んだほか、村井も独自入手していた)[4][10][11][12]。また、腕力のある人材が欲しくなったのでメンバーに端本悟も加え、端本には早川から「坂本堤という弁護士をただちにポアすることとなった」と伝えられた[13][14]

3日、熊本県在住の在家信徒の弁護士から坂本弁護士の住所を電話で聞きだし、午前9時頃に実行犯らは村井が用意したセダンとワゴン車に分乗し出発した。途中で杉並の選対に向かい、2台の交信用の無線機を林泰男が用意し、ついでにかつらなどで変装した。村井は長髪、新実はアフロ、岡崎は七三分けに眼鏡であったという。その後新宿でスーツなどを買い、横浜へ向かった[13]

横浜へ[編集]

予定では、坂本弁護士が通勤で利用する横浜市磯子区洋光台駅付近で待ち伏せし、車に連れ込み塩化カリウム注射して殺害し、遺体をそのまま運び去ろうとしたが、この日は祝日であることを全員忘れていたため坂本弁護士は現れなかった。このため、麻原の指示により同区にある坂本弁護士の自宅に向かう。

午後10時、岡崎が坂本家に向かうとドアに鍵がかかっていないことが判明した。早川がこれを麻原に電話連絡した。電話では、坂本弁護士の「付属物[15]」即ち家族をどうするかが検討された。麻原は「ほほう、そうか。じゃ、入ればいいじゃないか。」「(家族を巻き添えにすることは)しょうがないんじゃないか。一緒にやるしかないだろう。」と一家全員の殺害を命令した[4][11]。麻原は検事調書の中でこの時の心境を「私は一瞬、子どものことが頭に浮かびましたが、私も小さいときから親から離れて苦労しており、子どもだけ生き残らせても逆に残酷だと思い、殺害を許可した」と語っている[16]

決行[編集]

念のため早川と新実がセダンで洋光台駅に向かい、他の四人は坂本弁護士宅近くに停めたワゴン車内で待機し、最終電車まで待ったが坂本弁護士は現れず、家にいると判断し翌11月4日午前3時頃自宅に侵入、寝ている坂本弁護士一家を発見した。抵抗が激しく中川が手間取ったため誰にも塩化カリウムをしっかり打てず、窒息させて一家全員を殺害した[4][17][18]

坂本弁護士
端本に馬乗りされ、顎を6、7回殴られた後、岡崎に首、早川に足を押さえられた。中川から尻に塩化カリウムを打たれたが筋肉注射だったため効果が無く、2、3回ほどやり直したが針が曲がった。その後窒息死[19]
坂本弁護士の妻
新実に馬乗りされる、上半身を蹴られるなどの暴行を受け、端本に腹を蹴り飛ばされ、膝落としをされた後、村井、早川、中川に首を絞められる。中川から塩化カリウムも打たれた。「子どもだけは」と命乞いをしたり、村井の指を噛んだりと抵抗したが、窒息死[19]
坂本弁護士の長男(当時1歳)
泣き出したため、中川と新実に鼻口を押さえつけられ、窒息死。検察側は顔と腹を殴られたとしているが、弁護側は否定している[20]

遺体はワゴン車で上九一色村へ運ばれた。その後車3台に分け、坂本弁護士は新潟県西頸城郡名立町(現・上越市)の山中に、妻は富山県魚津市別又の林道別又僧ヶ岳線脇に、長男は長野県大町市日向山の山中に、服を脱がして埋められた[10][21]。坂本弁護士の死体は歯型から身元がわからぬようにと歯をツルハシで叩きつけ、遺棄現場の新潟で景気付けに早川紀代秀が買ってきたベニズワイガニの殻と一緒にゴミ同然に埋められた[22][23][24]。発見された坂本弁護士の頭蓋骨には大きな穴が開いていたという。

事件後[編集]

殺害の際に中川がプルシャ(オウム真理教のバッジ)を部屋に落としたため当初からオウム犯行説が疑われることとなった[4]

11月18日夜

坂本堤弁護士に関し教団が記者会見し「(現場に落ちていたプルシャについて)坂本弁護士が被害者の会の親から預かったもの[注釈 1]か、第三者[注釈 2]が故意に置いたと考えるのが自然[25]」「警察からは事情聴取も受けていない[26]」「申し入れがあれば捜査に協力する[26]」と発表した。この時、集中修行は11月いっぱいまでという説明をした[26]

11月19日

前夜の会見を受けてか日曜日にも関わらず神奈川県警察は教団幹部に事情聴取を申し入れたが、教団側は「修行」を理由に事情聴取を拒否、「捜査本部では責任者の集中修行が終わるのを待ってあらためて事情聴取を求める方針」になってしまった[26]。その一方で麻原はある出版社のインタビューに応じる約束を入れていた[26][注釈 3]

11月21日

11月18日の会見で示し11月19日に幹部事情聴取を拒否した理由である集中修行の期間であるにもかかわらず、幹部がKLMでアムステルダムに出国してしまった[26]。しかもこれは11月20日出発の予定がエンジントラブルで1日遅れたものだった[26]

教団側はボンとニューヨークの支部に行く予定が以前から決まっていた旨説明したが、11月21日と11月27日には麻原が出演するコンサートが東京で開かれることになっており[26][25]、11月25日と11月26日には名古屋で説法会を行なう予定が入っていた[25]。ボンへ行く目的も当初は「布教活動」としていたが、現地会見で「政治活動」や「現地のビルの賃貸借契約が切れてしまうのでお金を払わなければならない。本当は11月15日に行かなければならなかった[注釈 4]」と言いだしている。岡崎は後に裁判でこの旅行は警察やマスコミから逃れることが目的であったと述べている[10]

同日、弁護士有志の団体として「坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会」が結成され、1995年(平成7年)9月に遺体が発見されるまでの間、坂本弁護士一家を救うべく、日本全国規模でチラシ等の配布やキャラバン活動が展開された。

11月30日

教団はボンで会見[26]。坂本堤弁護士失踪は横浜法律事務所が仕組んだ狂言だと主張[25]、その後もテレビなどで「被害者の会の親が、子供から取り上げたバッジを坂本氏の部屋に置いた」と主張した[25]

同行した報道関係者によると現地ではほとんど支部建物に籠り、布教や政治活動をしている形跡はなかった[25]。一行にはドイツ語を話せるものがおらずボン支部へも道に迷い語学が堪能な記者が見かねて教えたという[25]。一行はニューヨークから帰国後テレビの生番組にフル出演、その後インドに渡り年末に帰国した[27]

初動捜査問題[編集]

失踪当初、坂本弁護士が所属していた「横浜法律事務所」等の関係者からは、オウム真理教の関与を指摘する声があったが、神奈川県警察は事件性は不明であるとの認識であった。これは「横浜法律事務所」はリベラル色が強く日本共産党系とされる「自由法曹団」に所属しており、横浜法律事務所が労働問題(国労横浜人活弾圧事件[28]で神奈川県警が誤認逮捕)や日本共産党幹部宅盗聴事件において警察側と対立していたうえ、坂本が労働運動弁護を行っていたことから、神奈川県警察が反共主義的な意識(これは日本の警察全てに共通する)から坂本を快く思っておらず、捜査も「手抜き」をしているという批判があった[29]。なお、捜査の指揮を執る当時の神奈川県警刑事部長は古賀光彦であった。

一方で、事件当時に横浜地方検察庁検事正であった佐藤道夫は「この批判は的外れ」とし、県警はオウムの関与は間違いないだろうと判断しており、事の性質上、捜査の方向や進捗状況を明らかにするわけにいかなかった。あの時点では家宅捜索なりを行うことも無理であったとしている[30]

横浜法律事務所の弁護士の訴えに対して必要以上に慎重な姿勢をとっていたのではないかとの疑念も残る。特に「国労横浜人活弾圧事件」は坂本が主に担当していた。ただでさえ反権力志向とされる在野法曹の中でも、特に日本共産党系とされる弁護士らは警察と対立する立場にあった。

そのため記者クラブにおいて、神奈川県警は「坂本弁護士は借金を抱えて失踪した」「(仕事で得た)大金を持ったまま逃げた」「(学生時代から関わりのある)共産主義過激派内ゲバに巻き込まれた」[3]などの事実無根の噂を新聞社数社に流している。しかも、それと同時に神奈川県警は「任意の失踪の可能性は五分五分」とリークしている[31]

オウムもこれに便乗し「労働運動などが関係している」「犯行現場にわざわざプルシャを落とすことは明らかに不自然であり謀略」と主張した[32]

この神奈川県警の不手際は、オウムの暴走を許す結果となり、松本サリン事件地下鉄サリン事件など多くのオウム事件が発生する事になった。

事件の風化[編集]

オウム側はさかんにメディア進出を行い、テレビ番組に出演したり有名人と麻原の対談などを行い潔白を主張するようになった。これもあってオウムへの嫌疑は次第に薄れていった[33]

実行犯の一人である岡崎は、真理党候補として立候補した第39回衆議院議員総選挙の選挙運動中の1990年2月10日[34]に突然、3億円の現金を持ち逃げして教団を脱走する[35]。その後、麻原に電話をかけ、口止め料として現金1000万円を要求。現在の所持金が170万円であることを伝えると麻原は差し引き830万円を振り込むことを約束した[36]

さらに「長男は長野県大町市日向山の山中に埋めてある」という手紙を匿名で1990年(平成2年)2月16日付の速達で神奈川県警察に送付し、神奈川県警察は長野県警察と合同で地図の示す場所を捜索するものの発見できなかった[37]。警察は手紙を出したのは岡崎ではないかと感づいており、岡崎に対しウソ発見器も投入して事情聴取を行った。だが岡崎は「オウムバッシングの話題をそらすために嘘の投書を送っただけ」とはぐらかし、事態は行き詰った[38]

また、早川紀代秀1990年オウム真理教国土利用計画法違反事件で一度逮捕されたが、坂本事件については一切聞かれず、指紋除去の傷のことも指摘されなかった[39]

結局「再捜索」は1995年(平成7年)9月の坂本弁護士一家の遺体発見まで行われなかった。また、「再捜索」は長野・新潟両県警察と警視庁が行っており、坂本弁護士の地元である神奈川県警察は参加していない。

遺体発見とその後の裁判[編集]

遺体発見[編集]

1995年(平成7年)春に、岡﨑一明自供をしたことで、事件の真相が明らかになった。

地下鉄サリン事件の起きた1995年3月20日警察はオウム真理教の捜査を本格的に開始。そんな中、岡﨑が事件を仄めかすような供述を始め、4月6日に真相を語った[40][41]。岡崎の自供により坂本弁護士一家が殺害されていたことがわかり、同年9月6日警察による山中の捜索が行われた。同日、坂本弁護士と妻の遺体が発見された。妻の遺体は死蝋化していた[42]。一方、長男の捜索は難航を極めたが、4日後の9月10日発見された。一家の墓所は鎌倉円覚寺「松嶺院」にある。 坂本弁護士の妻が遺体で発見された場所は、1995年(平成7年)9月6日、新潟県と富山県の県境付近である林道別又僧ヶ岳線の魚津市別又谷の上り口から数キロの地点の山中であった[43]。発見場所[44]には遺族が木製の慰霊碑を建て、慰霊登山も執り行われている[45]

裁判と死刑執行[編集]

刺殺された村井を除き、実行犯全員に死刑判決が出た。1998年10月23日岡崎一明一審死刑判決、2000年7月28日早川紀代秀一審死刑判決など裁判は進行したが、裁判は「麻原vs麻原以外の死刑囚」の主従に構図が矮小化され、神奈川県警の不手際といった別の構図が見過ごされてしまった。麻原彰晃の死刑判決(2004年2月27日)の直前には、坂本弁護士の妻の父である大山友之は、「行方不明以降の対応ぶりから、神奈川県警の捜査は信用できなかった。」「ずさんな捜査を放置して、法廷だけに真実の発見を求めるのは酷だろう。」と述べている[46]

実行犯の死刑は、2018年7月6日7月26日の2回に分けて執行された。首謀者である麻原彰晃の死刑執行に際しては、坂本弁護士の母・さちよは「よかったね、安らかにね。」と談話し、大山友之夫妻は麻原死刑執行まで事件についての講演を依頼される事はなかったという[47]

TBSビデオ問題[編集]

1989年(平成元年)10月26日東京放送(TBS)のテレビワイドショー番組『3時にあいましょう』が、当時社会問題化し始めていたオウム真理教問題について坂本堤へインタビューを行ったが、その情報を察知したオウム真理教幹部らが、TBSの千代田分室を訪れて抗議したことにより、坂本弁護士のインタビューの放送が中止された。さらに、この時にTBS側がオウム真理教幹部に収録したインタビューのビデオを見せ、この後、同年11月4日に坂本弁護士一家殺害事件が発生した。こうした経緯から、TBSは取材源の秘匿というジャーナリズムの原則に反しただけでなく、一家失踪後もビデオをオウム真理教に見せたことを警察や弁護士会に伝えずにオウム真理教をかばい続けたと批判された[48]。この影響により、『3時にあいましょう』の後継番組『スーパーワイド』の放送が打ち切られた。

その他[編集]

  • 「被害者が戸締まりをしていなかったから」という結論に対して被害者遺族からは不満の声があり、被害者の遺族の中には、「本当の命日を知りたい」という声がある[49]
  • 事件が起きた時には、坂本弁護士の自宅は施錠されていなかったことから、当時の緊迫した状況からは考えにくいとして、早川紀代秀の弁護側から「岡崎一明が偵察に行ったとき開けたのでは?」と疑いをかけられた[50]。さらには「侵入したオウム信者とは別に、教団外の協力者がいたのではないか?」との陰謀説まである[51]
  • 坂本弁護士の自宅から茶碗が3つ消えている。[要出典]
  • 「事件に関与した」とタクシー運転手を自称する者が、坂本弁護士一家に似た客がライトバンに乗っていったのを目撃したといって1994年(平成6年)頃に月刊誌『マルコポーロ』の編集部に現われた(証言の真偽は不明なまま)。これはオウムが主張する謀略説の根拠となった[32]
  • 事件時に手袋をしていなかった村井や早川は麻原に指紋消去を命令され、熱したフライパンや豚の皮で指紋消去を行い指がボロボロになった[10]
  • 1989年11月4日(事件同日)に麻原は「山を越えて反対側に行かなければならない人がいたとしよう。その途中にね、大きな岩が三つあると。(略)ダイナマイトを使ってふっ飛ばして行けばいい」といった内容の説法をしている[52]
事件からしばらくして、麻原は実行犯と石井久子を集め、石井に六法全書の殺人罪の項目を朗読させ、「(共犯の麻原自身も)そうか、同罪だな」と言ってニヤニヤ笑ったという[10]。また1991年の夏に麻原は、青山吉伸が無能弁護士だったから坂本を抑えられず、ポアするしかなかったとして責任を青山に押し付けた[53]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ これは1個だけであり法律事務所に保管されていたため可能性はない。
  2. ^ 当初の横浜法律事務所との話の中で、教団は創価学会の名前を挙げた。
  3. ^ 11月17日夜にキャンセルされている。
  4. ^ 無論麻原本人が契約や弁済をする必要はないので、これは理由として成立していない。

出典[編集]

  1. ^ 第1期 事件発生から「救う会」結成まで - 生きて帰れ!(坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会)。
  2. ^ 坂本事件とマスコミ報道》第二 坂本事件とTBS問題》一 事実経過 - 生きて帰れ!(坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会)。
  3. ^ a b 江川紹子『「オウム真理教」追跡2200日』(文藝春秋、1995年)
  4. ^ a b c d e f g 松本智津夫被告 法廷詳報告 林郁夫被告公判
  5. ^ 法廷全記録2、328頁-329頁。
  6. ^ 法廷全記録2、333頁。
  7. ^ 降幡賢一『オウム法廷 グルのしもべたち下』 p.182
  8. ^ 法廷全記録7、110頁。降幡賢一『オウム法廷12』 p.159
  9. ^ 佐木隆三『大義なきテロリスト』 p.21
  10. ^ a b c d e 松本智津夫 第25回公判 岡崎一明証人 検察官主尋問(97・2・13)
  11. ^ a b 平成7合(わ)141 殺人等 平成16年2月27日 東京地方裁判所
  12. ^ 降幡賢一『オウム法廷11』 p.99
  13. ^ a b 降幡賢一『オウム法廷2 下』 p.85-90
  14. ^ 佐木隆三『大義なきテロリスト』 p.128
  15. ^ 佐木隆三『大義なきテロリスト』 p.23
  16. ^ 降幡賢一『オウム法廷2下』 p.274
  17. ^ “オウム裁判で分かったこと、残る謎”. Yahoo!ニュース. (2015年4月30日). http://bylines.news.yahoo.co.jp/egawashoko/20150430-00045208/ 
  18. ^ 毎日新聞社会部『裁かれる「オウムの野望」』 p.164
  19. ^ a b 降幡賢一 『オウム法廷11』 p.100, 117, 314、『オウム法廷12』 p.118
  20. ^ 降幡賢一『オウム法廷11』 p. 269, 314
  21. ^ 降幡賢一『オウム法廷6』 p.273
  22. ^ 降幡賢一『オウム法廷11』 p.146
  23. ^ 「松本智津夫被告 第55回公判 法廷詳報」1997年11月7日 読売新聞
  24. ^ 毎日新聞社会部『オウム「教祖」法廷全記録3』 p.207
  25. ^ a b c d e f g 『「オウム真理教」追跡2200日』p.94-104「七つの疑問」。
  26. ^ a b c d e f g h i 『「オウム真理教」追跡2200日』p.78-93「坂本弁護士vsオウム 暗闘六カ月」。
  27. ^ 『「オウム真理教」追跡2200日』p.105-113「血のイニシエーション」。
  28. ^ 「横浜人材活用センター」に異動させられた国労組合員が抵抗運動を貫いたところ暴力事件を捏造され、これを口実に免職や停職の懲戒処分を受けた。
  29. ^ 『オウム法廷6』(朝日新聞社 2000年)
  30. ^ 佐藤道夫『「不祥事続出警察」に告ぐ』(小学館文庫、2000年)
  31. ^ 江川紹子『全真相 坂本弁護士一家拉致・殺害事件』(文藝春秋、1997年)
  32. ^ a b 『ヴァジラヤーナ・サッチャ No.9』 p.113-115
  33. ^ (二) オウム真理教の宣伝に「文化人」「有名人」らが果たした役割 坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会公式サイト
  34. ^ 『オウム教祖法廷全記録 2』 9頁。
  35. ^ 『オウム教祖法廷全記録 2』 293頁。3億円は宅配便で友人宅に預けようとするが、早川らにより取り戻される
  36. ^ 『オウム教祖法廷全記録 2』 297頁。
  37. ^ この時長男は捜索範囲から数メートル離れたところに埋まっていた。
  38. ^ 降幡賢一『オウム法廷13』 p.181
  39. ^ 降幡賢一『オウム法廷11』 p.21
  40. ^ 降幡賢一『オウム法廷6』 p.287
  41. ^ 「オウムの関与 幹部が示唆 坂本弁護士一家の失踪事件」 朝日新聞1995年5月19日朝刊
  42. ^ 毎日新聞社会部『オウム「教祖」法廷全記録3』 p.257
  43. ^ 初めに間違って僧ヶ岳と報道されたため、現在でも僧ヶ岳山中であるような報道や資料がある。
  44. ^ 片貝地区民などが林業のために出入りするが危険であるため見学はお勧めしない。国土地理院 地図閲覧システム 2万5千分1地形図名:宇奈月
  45. ^ 土地所有者の了解を得て、有志により脇に石造の慰霊碑も作られたが、2011年11月18日までに麓のキャンプ場へと移設された。これは積雪や落石で慰霊に危険が伴うという指摘があったため。“坂本弁護士一家慰霊碑、キャンプ場内に移設”. 読売新聞. (2011年11月18日). オリジナル2011年11月21日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20111121100231/http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20111118-OYT1T00301.htm 2013年11月14日閲覧。 
  46. ^ 毎日新聞 2004年2月15日付26頁
  47. ^ 朝日新聞 2018年7月7日付茨城県版
  48. ^ 降幡賢一『オウム法廷 グルのしもべたち下』 p.248
  49. ^ 『都子 聞こえますか ―オウム坂本一家殺害事件・父親の手記―』(大山友之著、新潮社 2000年)』
  50. ^ 降旗賢一『オウム法廷5』 p.199
  51. ^ 『オウム帝国の正体』(一橋文哉著、新潮社 2000年)など
  52. ^ カナリヤの詩110号 カナリヤの会
  53. ^ 早川紀代秀川村邦光『私にとってオウムとは何だったのか』 2005年 p.156

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]