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ロヒンギャ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ロヒンギャ
𐴌𐴗𐴥𐴝𐴙𐴚𐴒𐴙𐴝
難民となったロヒンギャの人々(2012年)
総人口
1,800,000
居住地域
ミャンマーの旗 ミャンマー800,000[1]
サウジアラビアの旗 サウジアラビア400,000[2]
バングラデシュの旗 バングラデシュ400,000[3][4][5]
パキスタンの旗 パキスタン200,000[6][7][8]
タイ王国の旗 タイ100,000[9]
マレーシアの旗 マレーシア40,000[10]
インドの旗 インド14,000以上[11]
言語
ロヒンギャ語
宗教
イスラーム教
関連する民族
ベンガル人
民族旗

ロヒンギャ: Rohingya people)とは、ミャンマーラカイン州(旧アラカン州)に住む人々である。英語や現地ミャンマーではロヒンジャ、隣国タイ王国ではロヒンヤと発音される[12][13]。ロヒンギャと呼ばれる人の大半はムスリムだが、少数ながらヒンドゥー教徒もいる。ミャンマー政府の公式見解では、ベンガル語の1方言を話すインド系住民はムスリムだろうとベンガリと呼ばれ、バングラデシュからの不法移民という位置づけである[14]

基本情報

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名称

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ミャンマーではロヒンギャという集団の存在自体が否定されており、バングラデシュから流入した不法移民であるとの主張から、ベンガル人という意味のベンガリビルマ語: ဘင်္ဂါလီ)と呼ばれている。

本項では、原則としてロヒンギャと表記し、ミャンマー側見解など、他の表記が必要な時は「バングラ人」「ベンガル人」「ベンガル系ムスリム」などカギカッコつきで表記する。

日本は、「バングラ系イスラム教徒のロヒンギャ」[15]と表記している。外務大臣記者会見などではロヒンギャの語は避け、「ラカイン州のムスリム」などの表現を使っている[16]

また、国際赤十字では、「政治的・民族的背景および避難されている方々の多様性に配慮」という理由で「ロヒンギャ」という表現を使用しないとしている[17]

居住

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ミャンマーの民族分布。ミャンマーのロヒンギャは、バングラデシュ国境沿いの地域(黄緑色の領域)に居住する

ロヒンギャの居住地域は、ミャンマー西部のヤカイン州北部(旧アラカン州、古い発音ではラカイン州と発音)にあるマウンドー郡区ブティダウン郡区ラテダウン郡区の3つの郡区に集中しており、これらの地域の人口の85~95%を占めていたとも言われている。ラカイン州以外のミャンマーの他の地域にも多数住んでいるとされるが、正確な数は分かっていない[18]

2017年のロヒンギャ危機以降、バングラデシュ東部のチッタゴン管区コックスバザール周辺のマユ国境一帯に大規模な難民コミュニティが存在する[19]

人口

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ロヒンギャの総人口については正確な統計が存在せず、推計には幅がある。2017年のロヒンギャ危機以降、ミャンマー国内に残存するロヒンギャの人口は、おおむね約60万人前後と推定されている。国際危機グループの推計によれば、2025年の時点で約45万人のロヒンギャがラカイン州に居住しており、その大半がアラカン軍(AA)の支配地域にいるのだという[19][20]

また、コックスバザールの難民キャンプには、約100万人のロヒンギャ難民が居住していると推定されている[19]

言語

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インド語派東部語群ベンガル・アッサム語英語版に属するロヒンギャ語を使用、チッタゴン語に近いが、類縁とされるベンガル語との相互理解は難しい。ロヒンギャはミャンマーの公用語であるビルマ語シナ・チベット語族)を使用しないことも統合に支障を生じる原因となっている。

正書法が確立しておらず、アラビア文字ウルドゥー文字ラテン文字ビルマ文字等による表記が入り乱れている。1980年代には、モーラナ・ハニフィが、アラビア文字をもとに書法を作成し、これが、ハニフィ(Hanifi)又はロヒンギャ文字と呼ばれているものである。

ただ、そもそも、ロヒンギャの識字率は極めて低く、2017年の国連の調査報告書によると、ロヒンギャのうち、女性の3分の1以下、男性の半数以下しか、どの言語でも簡単な文章を理解して読み書きすることができないとのことである[21]

宗教

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ロヒンギャの大半はスンナ派・ムスリムである。少数ながらヒンドゥー教徒もいる[18]

生業

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主に農業で生計を営むが、商人としての交易活動も盛んである。

しかし、ミャンマーでは「不法移民」と見なされているため、移動の自由は認められておらず、修学も、就職も厳しく制限されている[22]。そのため、農業や日雇い以外の仕事に就くことは困難である[23]

歴史

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前史からイギリス植民地時代まで

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ラカイン州の地図

9世紀頃よりラカイン地方にはラカイン族(仏教徒)が定住していたが、同地はベンガル湾に面して多様な民族が往来する海洋王国であり、アラブやペルシャ系のムスリムも古くから共存していた。一部のロヒンギャの歴史家は自らの祖先をこれら初期のムスリム定住者に見出しているが、学術的な見解は定まっていない[24][25]

1826年から始まったイギリスの植民地支配下において、ラカイン地方の農地開発の労働力として、近隣のベンガル地方から膨大な数のムスリム移民が組織的に導入された。これにより、北部を中心にムスリム人口が爆発的に増加し、先住のラカイン族との間に潜在的なコミュニティの分断が生じていった[26]

第二次世界大戦と対立の激化

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1942年、日本軍の侵攻によってイギリス政府の統治機能が後退すると、潜在していた両者の対立が一気に表面化した。日本軍に協力的なビルマ独立義勇軍(BIA、ビルマ族・ラカイン族主体)と、イギリス軍から武器供与等を受けたムスリム系部隊(Vフォース英語版など)との間で苛烈な相互襲撃が発生。一連の衝突により双方で数万人の死傷者と大量の避難民を出し、現代に至る民族・宗教間対立の決定的な亀裂を生んだ[27][28][29][30]

独立期の分離独立運動(ムジャーヒディーンの反乱)

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第二次世界大戦終結後、新たに生じた権力の空白を突き、バングラデシュ(当時の東パキスタン)方面からさらなるムスリム移民集団が流入した。彼らは「ムジャヒッド(Mujahid)」と呼ばれ、既存のムスリム定住者とは区別された[31]

1948年にミャンマーがイギリスから独立すると、これら急進的なムスリムの一部は、ラカイン地方北部のパキスタンへの併合や独立したイスラム国家の樹立を求めて蜂起し、「ムジャーヒディーンの反乱」と呼ばれる武装闘争を開始した。この反乱は1950年代を通じて断続的に続いたが、パキスタン政府や国際社会の公式支援を得られず、1961年に政府へ降伏して一時的に収束した[32][33][34]

「ロヒンギャ」アイデンティティの誕生と政治参加

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独立当初、ラカイン地方に定住するムスリムの多くは「アラカン・ムスリム」等と自称しており、国民登録証(NRC)も発行され、国や州の議会に議員を輩出するなど合法的政治参加が認められていた[35]

しかし、ムジャーヒディーンの武装反乱が長期化するにつれ、地元のラカイン族や政府から「不法移民」や「反政府組織の協力者」という疑念の目が強まった。これを危惧したムスリムのエリート層(議員や知識人ら)は、自らを分離主義者である「ムジャヒッド」と明確に区別し、ミャンマーの正当な土着民族(タインインダー)としての地位を政府に認めさせるため、1950年代頃から新たな政治的アイデンティティとして「ロヒンギャ」という名称を積極的に用い始めた(「#ロヒンギャという呼称」節で詳述)[36]

彼らの政治的働きかけが一定の成果をあげ、1961年には部にマユ辺境行政区(MFD)が設置されるなど、政府から政治的な譲歩(限定的な自治的地位)を引き出した時期もあった[37]

軍事政権下の弾圧と武装闘争の過激化

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1962年のネ・ウィンによる軍事クーデター以降、状況は一変した。同化主義と厳格な外国人排斥を掲げる軍事政権下でMFDは解体され、ロヒンギャの政治的権利は次々と剥奪されていった[38]。1970年代以降、軍事政権は「不法移民の取り締まり」を名目に度重なる大規模な軍事・戸籍調査作戦(チーガン作戦、ナガーミン作戦など)を実施。これにより、数十万規模の難民が隣国バングラデシュへ流出する惨事が繰り返された[39]

追い打ちをかけるように、1982年の改正国籍法によってロヒンギャは135の「土着民族」から除外され、国民登録証も没収されるなどして、事実上の無国籍状態に置かれることとなった(「#国籍問題」節で詳述)[40]

合法的な政治参加の道を絶たれ、国籍も剥奪された状況下で、ロヒンギャの民族運動の一部は過激化への道を歩んだ。1982年にはロヒンギャ連帯機構(RSO)などの強硬派武装組織が結成され、彼らは当時の国際的なイスラム過激派ネットワークとも接触しつつ越境での武装闘争を展開した。しかし、ミャンマー軍(国軍)の徹底した部隊掃討作戦により、2000年代初頭には組織的な武力闘争は一度壊滅状態に追い込まれた[40]

民主化以降の排斥とARSAの台頭(ロヒンギャ危機)

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2011年の民政移管による言論の自由化は、皮肉にも過激な仏教徒ナショナリズムの台頭とSNSを通じた反ムスリム感情の爆発を招いた。2012年には深刻なコミュニティ衝突が発生し、ロヒンギャは強制居住区や難民キャンプへの隔離を余儀なくされた。さらに2015年には唯一の身分証であった「仮登録証明書」も無効化され、選挙権すら完全に失われた[41][42]

こうした「完全な排除」という絶望的な状況を背景に、サウジアラビアなどで育ったロヒンギャ移民一世らを中心に、新たな武装組織・アラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)が結成された。そして2017年8月、ARSAがミャンマー治安部隊の拠点を一斉襲撃したことを契機に、国軍による大規模な掃討作戦(民族浄化とも形容される)が行われ、70万人以上のロヒンギャがバングラデシュへ脱出するという未曾有の「ロヒンギャ危機」へと発展した[43]

クーデター後の複雑化と代理戦争

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2021年ミャンマークーデター以降、ミャンマー全土が内戦状態へ突入する中、ラカイン州ではラカイン族の強力な少数民族武装組織であるアラカン軍(AA)と国軍との戦闘が激化している[44]

この過程で、兵力不足の危機に陥った国軍は、かつて迫害・討伐の対象としたARSAや、再起したRSOなどのロヒンギャ武装勢力を自陣営に引き入れ、難民キャンプの若者を強制あるいは志願によって動員し、AAと戦わせるという事態が発生している。結果として現代のロヒンギャは、ラカイン州におけるAAと国軍の覇権争い(代理戦争)の最前線に立たされており、植民地時代から続く先住民と定住者の間の歴史的な対立をいっそう複雑で深刻なものにしている[44][45][46]

ルーツ

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ミャンマー近現代史の専門家・根本敬は、ロヒンギャのルーツを次の3つに分類している[47]。これらさまざまなルーツを持つ人々が婚姻などを通じて融合しあい、現在では弁別困難である[48]

アラカン王国時代の「ムスリム住民」(1430年 - 1784年)

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歴史セクションでも触れた通り、ラカイン地方は多様な民族が交差する交易拠点であった。アラブやペルシャ系の商人・傭兵として訪れた者や、隣接するベンガル地方からの移民・捕虜として初期から定住し、地元のラカイン族などと混血して土着化していった無名のムスリムたちが第一のルーツである[25]

英植民地期に流入・定住した「ベンガル人」(1826年 - 1942年)

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イギリスの植民地政府によって、農地開拓の安価な労働力として人為的に導入・移住させられたムスリム集団のルーツである。この政策の結果、1872年から1931年にかけて、ラカイン族(仏教徒)の人口増加率は79%であったのに対し、ムスリムの人口増加率は297%に達した。この数字が示す通り、極めて短期間に爆発的な人口増加が引き起こされた[注釈 1][49]

なお、1937年にミャンマーが英領インドから分離されて「英領ビルマ」になるまでは、ベンガル地方からの移民はあくまで「同一植民地内での合法的な移動」に過ぎず、不法移民ではなかった点に注意が必要である。また歴史学者のミンテインは、1935年に結ばれた協定により一時的に出入国法が無効とされた結果、「将来ミャンマーへ入国できなくなる」と危惧したベンガル地方のムスリムが、駆け込みで大量にラカイン地方へ流入したとも主張している[50]

英植民地時代のラカインの人口推移[49]

ラカイン全体 うち仏教徒 うちムスリム うちシットウェ うち仏教徒 うちムスリム
1829 121,288
1832 195,107 109,645
1842 246,766[注釈 2] 130,034
1852 352,348 201,677
1862 381,985 227,231
1872 484,363(100%) 364,023(75,2%) 64,315(13.3%) 276,671(57.1%) 185,266(38.2%) 58,263(12%)
1881 588,690(100%) 422,396(71.8%) 106,308(18.1%) 359,706(61.1%) 230,046(39.1%) 99,548(16.9%)
1891 671,899(100%) 472,684(70.4%) 126,604(18.8%) 416,305(62.0%) 238,259(35.5%) 119,157(17.7%)
1901 762,102(100%) 511,635(67.1%) 162,754(21.4%) 481,666(63.2%) 280,649(36.8%) 154,432(20.3%)
1911 839,896(100%) 529,943(63.1%) 301,617(35.9%) 178,647(21.3%)
1921 909,246(100%) 596,694(65.6%) 218,737(24.1%) 576,430(63.4%) 315,140(34.7%) 208,961(23.0%)
1931 1,008,535(100%) 653,699(64.8%) 255,469(25.3%) 637,580(63.2%) 337,661(33.5%) 242,381(24.0%)

独立後に流入した不法移民の「東パキスタン(バングラデシュ)人」(1948年 - )

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第二次世界大戦が終了した1945年以降、ラカイン北部にはイギリス領インド(独立後のパキスタン領東ベンガル、現在のバングラデシュ)から新たなムスリム移民が不法に流入し始めた。1947年2月に英ビルマ総督が英インド総督に宛てた手紙には、ブティタウン英語版とマウンドーに約6万3千人の不法移民がいたと記されており、他にも1940年代から1960年代にかけて、東パキスタンからラカインへ絶えず不法移民が流入していたことを示唆する公文書が多数存在する[51]

さらに、1971年に第三次印パ戦争が勃発した際には、バングラデシュからラカインへ一時的に約50万人の難民が流入したと言われている[52][注釈 3]。その多くが定住したのか等、詳細な真偽は不明であるが、こうした「大移動」の事実はミャンマー人の間に広く膾炙し、「ロヒンギャの大半は不法移民である」という根強い偏見を決定づける要因となった[53]。1983年や2014年の国勢調査でも、ラカイン州におけるムスリム人口の絶対数は着実に増加し続けていることが示されている[54]

なお、タンミンウーは「(国軍の)ビルマの大臣たちは非公式には、(ロヒンギャの)最大20%が不法移民であることを認めた」と述べていおり、これはロヒンギャのほぼ100%を不法移民と考えているミャンマー人の一般的認識よりははるかに低い数字である[55]

ロヒンギャという呼称

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「ロヒンギャ」の語源

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ロヒンギャ(Rohingya)という言葉の起源については諸説ある。歴史家のチョーミンティンは、もともとベンガル語チッタゴンの方言で、ラカインのことを「ロハン(Rohang)」または「ロアン(Roang)」[注釈 4]と呼び、そこに住む人々を「ロアンヤ(Roangya)」または「ローインガ(Rooinga)」と呼ばれていたと主張している[56]注意が必要なのは、この「ロアンヤ」「ローインガ」という呼称は、ラカインに住むムスリム、ヒンドゥー教徒、仏教徒の総称だったという点である[注釈 5]

一方、ラカインの歴史の専門家・ジャックス・P・ライダー英語版は、文献上で「ローインガ」に類する言葉が初めて見られるのは、1799年にイギリス人の軍医・フランシス・ブキャナンが発表したビルマ語に関する報告書の中であるという[57]。ただ、ブキャナンは、ラカインには行ったことがなく、マンダレー近郊のコンバウン朝の首都・アマラプラ英語版にいた時に、「アラカン族」の人々からアラカン族のベンガル語名は「ローインガ」だと聞かされただけだった。しかもヴィシュヌというヒンドゥー教の神を崇拝しているとあるので、彼らはムスリムではなく、ヒンドゥー教徒だった可能性もある[58]

ブキャナンの記述は概ね以下のようなものであった[58]

(1795年)10月9日。アラカン族[注釈 6]の言語のサンプルを得るために、何人かのアラカン族を呼び寄せたところ、3人の男が連れてこられた。彼らは自分たちをロサン族(Rossawns)と呼び、2人はバモン族(Bamons)、もう1人はスードリー族(Soodrie)だと言った。バモン族はベンガル語でブラミン族(Bramin)と呼ばれる人々を指す。彼らの言語は明らかにベンガル語と同じだった。彼らは、アラカン族のベンガル語名はローインガ(Rooinga)だと言った。彼らは主にヴィシュヌ(Veeshnu)を崇拝しているが、アラカンの王はグエトム/ゴダマ(Guetom/Godama)またはブッダを崇拝し、王の僧侶は、ビルマ族の発音でポウンジー(Poungee)とかポウンジェ(Poungye)と呼ばれていた。これは偉大な徳を意味する一般的な僧侶の呼び名である。彼らは、アラカンの原住民は自分たちをラカイン(Rakain)と呼び、首都はロサン(Rossang)、王国全体のことはヤカプラ(Yakapula)と呼んでいると語った。しかし彼らは決してアラカンの本当の原住民ではないと思う。(本当の原住民は)ヒンドゥー教徒で、彼らはずっと昔からこの国に定住していた[58]

ブキャナンはその後、1829年に亡くなるまで多くの旅行記録を残したが、以降「ローインガ」という言葉を用いることは一度もなく、同時代やイギリス植民地政府の公式文書にも一切登場しない。そのため、語源に関する学術的決着は現在もついていない[58]

「ロヒンギャ」の誕生

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植民地時代~独立初期におけるラカインのムスリムの呼称
ラカインに居住した時期 呼称
植民地化前 アラカン・マホッメダン
植民地時代 チッタゴニアン
独立後 ムジャヒッド

英植民地政府(日本占領下の1942年~1945年を除く1824年~1942年)は、「ロアンヤ」「ルワンヤ」など、「ロヒンギャ」を想起させるような言葉を公式には1度も使っていない[注釈 7][59]

英植民地政府は、当初、統治前から住んでいたムスリムと統治後に移民としてやってきたムスリムを区別せず、「マホメッダン(Mahomedans)」「チッタゴニアン(Chittagonian)」と総称していた[56]。しかし、1921年と1931年の国勢調査では、前者を「アラカン・マホメッダン(Mahomedans)」(1931年時点で5万1,615人)と呼んでインド系ビルマ人に分類し、後者を「チッタゴニアン(Chittagonian)」(1931年の時点で25万2,152人)と呼んでインド人に分類した[60]。当時、「アラカン・マホメッダン」は「チッタゴニアン」を見下して交わろうとせず、両者は明確に区別されていたのだという[61]

1945年に第ニ次世界大戦が終了すると、既述のとおりラカイン北部にはバングラデシュからの不法移民が流入し始め、この戦後の不法移民は「アラカン・マホメッダン」とも「チッタゴニアン」とも区別され、「ムジャヒッド(Mujahid)」と呼ばれた[61]。実際、1948年に反乱を起こしたラカイン北部のムスリムは、自らを「ムジャヒディーン(聖戦の兵士)」と称していた[注釈 8][62]

しかし、1948年にミャンマーがビルマ連邦として独立した後、イギリス軍に約束されたムスリム国家の樹立もパキスタンへの編入も実現困難となり、さらに、ムジャヒディーンの乱によってラカインのムスリムの評判が著しく傷ついた。こうした事態に、独立以前からラカインに住むムスリムのエリート層は深刻な危機感を抱き、自分たちを「ムジャヒッド」と明確に区別し、政府に独自のアイデンティティ(土着民族)として認めさせる戦略を模索した[63]。これが、現代的な意味での「ロヒンギャ」という政治的呼称が誕生した直接的な契機である。当時のミャンマーの出版物には、ラカインのムスリムを表すために、「Rwangya」「Rawangya」「Roewenhnya」「Roewengya」 「Rushangya」「Rohingya」「Rohinja」「Rohinga」「Ruhangya」「Rohangya」など、すべて「R」で始まる言葉の使用が提唱されていたのだという[64]

「ロヒンギャ」という呼称が初めて使われた時期については、明確にはわかっていないが、1948年にアブドゥル・ガッファーが、ウー・ヌ首相に宛てた書簡の中で、「ロヒンギャ」とほぼ同義の「ルワンヤ」という言葉を使った時とも、1950年10月1日の制憲議会会議においてアブドゥル・ガッファーが「ロヒンギャ」という言葉を使用した時とも言われている[65][56]。歴史家のチョーミンティンによれば、「ロヒンギャ」という呼称が英語とミャンマー語で初めて使われたことを確認できるのは、1959年に結成されたヤンゴン大学の学生団体「ラングーン大学ロヒンギャ学生協会(Rangoon University Rohingya Students Association)[66]」で、彼らは翌年『ロヒンギャ小史』というブックレットを発行している[注釈 9]。ミャンマー学者の中西嘉宏は、「ロヒンギャは、1950年代に、ラカイン出身のエリートムスリムによって作られた集団名である可能性が高い」と述べており[56]、ライダーは「ロヒンギャは民族概念ではない」と述べている[67]

ムジャヒディーンの乱鎮圧のためにラカインのムスリムの協力を取り付ける必要に迫られた政府は、やがて「ロヒンギャ」の呼称を受け入れるようになった。1961年のマユ行政区設置記念式典では、当時国軍ナンバー2だったアウンジーが「ロヒンギャ民族、ロヒンギャ指導者、ロヒンギャ宗教指導者」という言葉を使って、国軍への協力と情報提供を呼びかけたという記録が残っている[56]。中西嘉宏は、アウンジーの発言は、国境の東側にいるのがロヒンギャで、西側にいるがパキスタン人という認識にもとづいており、ロヒンギャを「土着民族」と見なしているものだと指摘している[68]

「ロヒンギャ」という呼称の浸透

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ただ当時、ロヒンギャという言葉は、政府と一部のエリートムスリムの間で使われていたのみで、それほど人口に膾炙してはおらず、この時期のラカイン北部出身のムスリム国会議員たちも、自認は「アラカン・ムスリム」だったとされる[62]。ラカイン・ムスリムの有力議員であるスルタン・ムハンマドなどは、ラカインのムスリムコミュニティの分裂を招きかねない「ロヒンギャ」という言葉の使用に反対していたと伝えられる[注釈 10][69]。さらに、ロヒンギャの歴史家たちは、自らをミャンマーの「土着民族」に含めるべく、アラカン王国時代のポルトガルやオランダの資料、ベンガル語で書かれた文学作品、過去の伝説を参照して、ロヒンギャをラカインの先住民族とする「ロヒンギャの歴史」を創り、それを英語で発信し始めたが、既述のとおりその信憑性には疑義が呈されている[24]

なお、1973年の国勢調査において、ラカイン州のムスリムは「アラカン・ムスリム」または「ビルマ・ムスリム」と呼称されていたれ[70]。1978年のナガーミン作戦による大量流出の際には、アメリカは「アラカン・チッタゴン」、イギリスは「アラカン・ムスリム」という呼称を用いたが、ミャンマー政府はこの時期を境に「ベンガル人」という呼称を使用し始めた[71][72][73]。その後の1983年の国勢調査では、「バングラデシュ人」という呼称が用いられている[74]

西側諸国が「ロヒンギャ」という呼称を公式に使用し始めたのは、1991年後半にあった2回目のロヒンギャの大量流出劇の際である。この時の大量流出劇のきっかけとなったのが、ロヒンギャ連帯機構(RSO)やアラカン・ロヒンギャ・イスラム戦線(ARIF)など、その名前に「ロヒンギャ」を冠した武装勢力に対する国軍の掃討作戦だったことがその理由である[72]

「ロヒンギャ」という呼称が人口に広く膾炙したのは、2012年の仏教徒・ムスリム間のコミュニティ紛争がきっかけで、比較的新しい現象である。テインセイン政権下のミャンマー平和センター英語版のメンバーだったチョーインフラインは、以下のように語っている[41]

ムスリムは2011年までは自らが置かれた地位に甘んじなければならないと感じていた。だが、自ら投票した2010年の選挙の後、2011年の政治の変化の後では、より自由に物事を考えるようになった……2012年に彼らと話したとき、自らをロヒンギャと呼ぶ者は1人もいなかったが、2012年の末には誰もがそうしていた。チョーフライン

また、国際危機グループの『The Politics of Rakhine State(2014)』[75]というレポートには、以下のようなロヒンギャ長老の言葉が紹介されている[76]

2012年の暴力が状況を変えました。 暴力が起こる前は、私たちのロヒンギャの名前は毎日考えるようなものではありませんでした。 暴力以来、私たちからすべてが奪われ、今、私たちに残っているのはロヒンギャのアイデンティティだけです。

国籍の変遷

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現在、ロヒンギャはミャンマー政府が公認する135の「土着民族(タインインダー)」に含まれておらず、公式には不法移民として扱われている。しかし、独立当初の法制度の下では、彼らの多くが国民としての権利を認められていた。

1947年憲法下の国籍

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1948年のビルマ独立に際して制定された「1947年憲法」第11条では、以下のいずれかの条件を満たす者に国籍を認めていた[77]

  1. 両親が土着民族である者ビルマ族ラカイン族チン族カチン族カレン族カレンニー族モン族シャン族など、1823年(第一次英緬戦争開始)以前からミャンマー領内に居住していた民族。
  2. 祖父母の代からの定住者:ミャンマー領内で生まれ、祖父母の少なくとも1人が土着民族に属する者。
  3. 特定の資格を満たす土着民族の子供:両親が存命であれば国籍取得資格を満たしていた者の子。

当時の憲法や実務は、後の時代ほど民族や宗教を厳格に峻別するものではなかった。1952年から発行が始まった『国民登録カード(National Registration Cards:NRC)』[78]には民族や宗教の記載欄がなく[79]、さらに帰化規定も寛容で、「憲法制定前の10年、あるいは1942年1月(日本軍の侵攻開始の年月)までの10年間のうち8年以上ミャンマーに居住していた者」には広く国籍が認められていた。これらの措置により、植民地時代に流入した移民の多くがこの措置によって正式な国民となり[77][80]ロヒンギャに対しても『国民登録証(NRC)』が発行され、NRCを紛失または損傷させた場合は、新たなNRCが発行されるまでの間の一時的な文書用として『仮登録証明書(Temporary Registration Certificates:TRC)』(通称:ホワイト・カード)が発行された[81][82]。当時のサオ・シュエタイッ大統領も「アラカンのムスリムは土着民族の1つに属する[注釈 11]」と明言している[83]

しかし、1970年代に入りバングラデシュからの不法移民問題が政治化すると、当局の運用に変化が生じた。ラカイン州北部のロヒンギャに対してNRCの新規発行が停止されただけでなく、既存のNRCが当局によって組織的に押収される事態が発生した。さらに1974年に制定された緊急移民法により、多くのロヒンギャがNRCを剥奪され、外国人登録証に差し替えられた[84][85]

1982年の国籍法

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1982年、新たな国籍法[86]が制定され、国籍取得の資格のある者は以下の3つに分類された。

  • 国民:第一次英緬戦争が始まる1823年以前からミャンマーで暮らしていた土着民族(タインインダー)。
  • 準国民:1948年国籍法に従い国籍取得を申請したものの、本法改正時までに決定を受けていない者。
  • 帰化国民:1948年1月4日までにミャンマーに住んでいることを証明できて、1948年国籍法にもとづいて国籍取得の申請をしていなかった者。[87]

「国民」の定義に「土着民族」という言葉があることからも明らかなように、1947年憲法および1948年国籍法に比べて、新国籍法は、民族、人種、宗教で国籍の有無を判断する意図があった。また条文には、国民、準国民、帰化国民との間に明白な権利・義務の格差は存在しなかったが、実際には「準国民」「帰化国民」には、公職に立候補したり、政党を結成したり、軍隊、警察、行政機関で勤務したり、土地や金銭を相続したり、医学や法律などの特定の専門学位を取得したりすることができないなどの差別的取扱いが存在しているとされる[19][88][89]

しかし、タンミンウーが「社会通念では、ロヒンギャの人々はこの法律によって国籍を剥奪されたことになっているが、それは真実ではない」と、中西嘉宏が「国籍法それ自体はロヒンギャを狙ったものではない」と言うとおり、この新しい法律自体が即座に彼らの国籍を一律で剥奪したわけではない[90][91]。1948年1月4日の独立記念日が基準になっていることからもわかるとおり、新国籍法の目的は独立後の不法移民を取り締まることだった。それは新国籍法制定にあたって、1982年10月8日にネ・ウィンが行った演説からも窺い知れる[92]

われわれは現実には、さまざまな土地からさまざまな理由でやってきた人々をすべて追い払う立場にはない。われわれは、このように長い間ここにいた人々に同情し、心の安らぎを与えなければならない。 そこでこの法律では、彼らを「準市民」と呼ぶことにした。 なぜこのような名前をつけたのか? というのも、われわれは皆、初めは市民でした。その後、この人たちはゲストとしてやって来て、やがて帰ることができなくなり、残りの人生をここで暮らすことを決めたのです。 そんな彼らの苦境を見て、われわれは彼らを市民として受け入れる。 この国に住み、正当な方法で生計を立てる権利を寛大に与えることができる。 しかし、国の問題や国家の運命に関わる問題については、彼らを除外せざるを得ません。ネ・ウィン

ロヒンギャは「土着民族」に含まれなかったが、新国籍法第6条には「既に市民権を有する者は、虚偽の申告により市民権を取得した場合を除き、引き続き市民権を認められる」と規定されており、1947年憲法および1948年国籍法にもとづいてNRCを取得していれば、ロヒンギャにもそのまま国籍を認められた[93]。また第6条で救済されないロヒンギャも、「準国民」「帰化国民」と認められる可能性があり、さらに新国籍法第7条には「準国民』『帰化国民』も3代経てば『国民』になれる」と規定されていた。これはのちにテインセイン大統領[注釈 12]アウンサンスーチー[注釈 13]も確認している[55][94]

問題の核心は、法律の規定そのものではなく、その極めて恣意的な運用実態にあった。1947年憲法および1948年国籍法にもとづくNRCを取得していないロヒンギャは、独立直後の武装反乱による混乱や貧困・文盲率の高さが原因で、「準国民」の要件でる「1948年国籍法に従い国籍取得を申請する」ことも、「帰化国民」の要件である「1948年1月4日までにミャンマーに住んでいることを証明する」ことも実質不可能だった。その結果、第6条で救済されたロヒンギャ以外は無国籍状態となり、不法移民と見なされるようになったのである[注釈 14][95][96]

これまでロヒンギャであると特定または自認していたが、現在公式に「ベンガル人」と指定されている数十万人を無国籍にするプロセスは、法律上のものではなく、事実上のものだった。これは、市民権法の条項自体を遵守することによって達成されたのではなく、法律の内容は一般的にこの人口の利益に反する意図を持っていたにもかかわらず、意図的な違反と選択的な適用によって達成された。ニック・チーズマン
彼ら(ロヒンギャ)は、1978年に最初の脱出劇が起こるまで、かつてはミャンマーの市民であったことは事実である……この記事では、ロヒンギャの慢性的な無国籍の根本的な原因は、ロヒンギャを市民権または帰化させる法律を意図的に実施しなかったことにあると主張する。したがって、歴代の政府が、差別的な法律の下でも、ロヒンギャが市民権を得るのを意図的に排除してきたという事実を強調する。ニーニーチョー

その後のロヒンギャの国籍の取り扱い

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ミャンマーの国民登録証。民族(လူမျိုး)欄には「ビルマ(ဗမာ)」と記載されている。

新国籍法は、制定されたものの長い間施行が見送られており、1989年になってからようやく、1947年憲法および1948年国籍法にもとづくNRCを有していた者は、『市民権セキュリティ・カード(Citizenship Scrutiny Cards:CSC)[注釈 15]への切り替えが認められた。しかし、ロヒンギャがNRCを返却しても、「国民」「準国民」「帰化国民」いずれのCSCも発行されず、NRCも戻ってこないことが多かった[注釈 16][42]

国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の働きかけにより、1995年になってようやく、ロヒンギャにも『仮登録証明書(TRC)』が発行されるようになり[42]2014年の段階でラカイン州のロヒンギャの90%がTRCを保有していたとされる[97]

しかし、2015年2月、テインセイン大統領が、TRCを所持しているロヒンギャに参政権を与える提案をしたところ、過激派仏教徒による激しい反対運動が巻き起こって撤回に追い込まれた。次いで、テインセインは、TRCは同年3月31日に失効するので5月末までに返却しなければならないという声明を出し、代わりに6月から『国民証明書(National Verification Certificates:NVC)』(通称:グリーン・カード)[注釈 17]の交付を開始した。しかし、交付する際に、当局がロヒンギャにベンガル人と自認することを求めたり、NVCを受け取ろうとしたロヒンギャが正体不明の集団に脅迫される事態が生じた[98]。このような状況下、『エーヤワディ』紙によると、NVCを受け取ったロヒンギャはわずか4,600人にとどまった[42]

2015年12月には、NLD政権下で、新しい『国民認証用身分証明書(Identity Card for National Verification:ICNV)』が発行された。その趣旨は「申請者がミャンマー国民になる資格を満たしているかどうかを精査し、市民権を確認するプロセス中にミャンマーの居住者であることを確認すること(参政権は含まない)」であり、一種の仮身分証明書だったが、これもNVCと同じ理由で交付が進まなかった[99][100]

以上の事情により、2015年以降、大半のロヒンギャは有効な身分証明書を所持しておらず、名実ともに無国籍状態にある[42]

2021年クーデター後の状況

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2023年の段階で、ラカイン州外に居住する一部のロヒンギャが、バマー・ムスリム(Bamar Muslim)またはカマン族としての身分証明書を取得していると報告されている[19]

なお、軍政は、2024年5月から『固有識別カード(Unique Identification Card:UID)』(通称:スマートカード)という新しい身分証明書を発行している[19]

参政権の変遷

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独立期における政治参加と国政進出(1948年 - 1962年)

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ビルマ独立当初、1947年憲法や1948年国籍法に基づき、ラカイン地方のムスリムには『国民登録カード(NRC)』が発行され、正式な参政権が認められていた。 1947年、1951年、1956年の総選挙では、ムスリムが多数を占めるマウンドーおよびブティダウンの両郡区から複数のムスリム議員が連邦議会に選出されている。なかでもアブドゥル・ガッファーやスルタン・ムハンマドといった有力議員は国政で活躍し、特にスルタン・ムハンマドは1960年から1962年まで連邦政府の保健大臣を務めた。当時の彼らは、ミャンマーの政治システムに組み込まれた合法的な主体として機能していた[35]

軍政下での一時的回復(1990年総選挙)

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1962年ビルマクーデターと、それに続く1982年の新国籍法によってロヒンギャの無国籍化が進んだが、8888民主化運動を経て実施された1990年の総選挙おいては、再びロヒンギャにも一時的ながら参政権が与えられた。 この選挙では、ロヒンギャ系政党人権国民民主党英語版(NDPHR)が4議席を獲得した。しかし、軍事政権(SLORC)が選挙結果を反故にして民主化勢力を徹底的に弾圧する中、NDPHRも1992年に活動禁止処分を受け、政治参加の道は再び閉ざされた[101]

民主化移行期の参政権復活(2010年総選挙)

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この時点では、大半のロヒンギャは『仮登録証明書(TRC)』しか保有していなかったが、2008年の憲法承認の国民投票、2010年の総選挙、2012年の補欠選挙のいずれにおいても参政権が認められた。国軍系政党USDPは、ロヒンギャからの集票を狙ってTRCを発行したとされる[102]

またこの選挙では、国民発展民主党(NDPD)と国民発展平和党(NDPP)というロヒンギャ政党も参加し、NDPDは州議会で2議席を獲得した。USDPからもアウンゾーウィン英語版シュエマウン英語版といったロヒンギャを自認する候補者が出馬し、連邦議会議員として当選を果たした[103]

その後、2015年にTRCが失効したので、2026年3月の時点では、2010年総選挙がロヒンギャに参政権が認められた最後の選挙ということになる[42]

人権状況

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ラカイン州

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1992年から2013年まで、ラカイン州北部には国境地帯入国管理機構(ナサカ)という行政機関があった。ナサカは主にロヒンギャの人口抑制策を任務とし、その過程で、結婚の制限、移動の規制、強制労働・課税、土地収用・強制移住などの人権侵害が生じていたと報告されている(cf.国境地帯入国管理機構#活動[104]

2013年7月、テインセイン大統領は国際社会からの批判を受けナサカを解体したが[105]、その権限はミャンマー警察や国境警備警察(BGP)、および国軍へと分散・継承され、人権侵害が組織的に継続していたと指摘されている[106]

2021年ミャンマークーデター後、ラカイン州では国軍とアラカン軍(AA)との戦闘が再され、国軍とAAの双方がロヒンギャに対する強制徴兵、身体的暴力、虐待、居住区の破壊といった人権侵害に関与していると報告されている(cf.アラカン軍#ロヒンギャ)。また、国際機関の調査によれば、2026年3月時点でのラカイン州内における国内避難民(IDP)は約50万人に達しており、そのうち約22万人をロヒンギャが占めている。彼らは避難先やキャンプにおいて、極めて劣悪な環境下での生活を余儀なくされている[19]

一方、2025年以降ラカイン州のほぼ全土を掌握したAAは、国際的な正当性を得るために、自らの支配地域においてロヒンギャ住民を「アラカンの市民」として包摂する姿勢を示しており、移動の自由の緩和や商取引の奨励、さらにはバングラデシュ政府との間で難民帰還に向けた実務的な対話を開始するなど、関係改善に努めていると報じられている[107][108]

ラカイン州以外のミャンマーの他の地域

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ラカイン州以外の都市部に住むロヒンギャは、バマー・ムスリムとして身分証明書を入手することができ、ラカイン州で直面するような差別的取り扱いを回避して、比較的高い生活水準を維持していと報告されている[109]

難民問題

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ロヒンギャの難民キャンプ(2013年)

UNHCRは、関係諸国にロヒンギャ難民の保護を求めている。しかしバングラデシュでは、ロヒンギャは難民や不法移民と扱われている[110]。またASEAN加盟国のうち難民条約を批准しているのはカンボジアとフィリピンだけであり、他のASEAN加盟国では不法入国者として取り締まりの対象になっている。

バングラデシュの旗 バングラデシュ - 2024年の時点で、約160万人のロヒンギャがバングラデシュに居住し、そのうち約100万人がコックスバザールにある33の難民キャンプに収容されていると報じられている。世界のロヒンギャ人口の実に3分の1がバングラデシュに居住しているとする報告もある[19]

1978年、1991年の大量流出の際、バングラデシュ政府はロヒンギャを「難民」として扱い、ミャンマー政府との合意の下、大半のロヒンギャ難民をミャンマーへ帰還させた。しかし、1992年に難民の地位の付与が停止され、その後、バングラデシュに流入してきたロヒンギャは不法移民として扱われることになった[111]

バングラデシュ政府はロヒンギャの帰還を推進しつつ、バシャンチャール島に避難民収容施設を建設して、ロヒンギャの人々の移住を推進している[111]。ただし、バシャンチャール島については、国際的な批判や資金難により政府はプロジェクトの継続に消極的となり、施設を閉鎖して難民を本土へ戻すべきとの議論が加速している[112]

2022年ロシアのウクライナ侵攻後、ロヒンギャへの国際関心が低下し、支援が減少したことで、バングラデシュ当局は徐々にロヒンギャに対する管理を強化し[113]、移動制限の強化、キャンプ周辺の鉄条網設置、コミュニティ主催の学校の取締り、キャンプ内の市場などの破壊を行っていると伝えられている。また、さらに、キャンプではロヒンギャの武装勢力による徴兵が行われているとの報告もある[114]

インドの旗 インド - UNHCRは、2025年6月の時点で約2万3,000人のロヒンギャ難民が居住していると推定している[19]

2025年5月、インド当局はニューデリーなどで拘束したロヒンギャ難民約40名を、航空機でアンダマン・ニコバル諸島へ移送。その後、一行はインド海軍の艦船に乗せられ、ミャンマー南部タニンダーリ地方域沿岸の沖合まで運ばれ、そこで目隠しをされ、救命胴衣のみを渡されて、岸まで泳いで渡るよう強制される事件が起きた。自力で上陸したロヒンギャは、タニンダーリ地方域で活動する武装勢力によって即座に拘束された。このインド当局の対応は、事実上の「海上への遺棄」であり、国際的な人道基準を著しく逸脱するものとして批判された[115]

マレーシアの旗 マレーシア - UNHCRは、2025年6月の時点で11万9,100人のロヒンギャ難民が居住していると推定している[19]

マレーシアには、1991年から1992年にかけての「清潔で美しい国作戦」を機にミャンマーから逃れてきたロヒンギャの人々がそのまま居住している[116]。2006年頃からアンダマン海を渡り、タイ経由でマレーシアを目指すロヒンギャの人々が急増した。2020年にムヒディン首相は「これ以上の難民は受け入れられない」と述べている[117]。2024年2月には入管の収容施設で暴動が起こり、約100人のロヒンギャが脱走する事件が発生した[118]

インドネシアの旗 インドネシア - UNHCRは、2025年6月の時点で約2,500人のロヒンギャ難民が居住していると推定している[19]

インドネシアでは、2015年5月、約2千人のロヒンギャがボートでアチェ州に漂着[119]。当初、アチェ州の住民はロヒンギャに同情的で[120]、州内に建設された難民キャンプに収容された。ただキャンプに収容されたロヒンギャの人々は、その後さまざまな伝手を頼って、より賃金の高いマレーシアに渡る者が多かった[116]。2021年ミャンマークーデター以降、ミャンマーの治安・経済状況の悪化、コックスバザールの難民キャンプの治安悪化を受け、アチェ州に漂着するロヒンギャが急増[121]。住民の間から受け入れを拒否する動きが出始めている[122][123]

タイ王国の旗 タイ - UNHCRは、2025年6月の時点で約500人のロヒンギャ難民が居住していると推定している[19]

タイは、ロヒンギャの人々がマレーシアへ渡る中継地点であり、タイ当局に収容されたり、追い返されたりしている。またタイの入管当局者と業者が共謀するロヒンギャの人身売買が大きな問題となっている[124]

パキスタンの旗 パキスタン - パキスタンは英領インドの一部であり、パキスタン独立時はバングラデシュは東パキスタンだったことから、従来よりロヒンギャとの関係が深く、現在25万人ほどのロヒンギャがカラチ中心にパキスタンに住んでいると言われている。しかしその大半が身分証明書を所持していないため就学・就労に制限があり、貧しい劣悪な生活を余儀なくされているとされる。そのような境遇から逃れるために過激派に身を投じる若者もいるのだという[125]

サウジアラビアの旗 サウジアラビア - サウジアラビアには約25万人、アラブ首長国連邦(UAE)には約1万人のロヒンギャが住んでいると言われている[126]

日本の旗 日本 - 日本政府はロヒンギャ難民支援のためにさまざまな人道支援を行っている[127][128][129]。他にも日本財団が人道支援を行っている他、ロヒンギャ難民を収容したバサンチャール島に職業訓練学校を建設している[130]

ミャンマーの要人のロヒンギャに関する見解

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名前 見解
アウンサンスーチー わかりません。 (2012年6月、ヨーロッパでの公開イベントで、もっとも迫害され弱い立場にあるロヒンギャは、ミャンマーの国民であると思うかと尋ねられた時の返事)[131](cf. アウンサンスーチーと少数民族との関係#ロヒンギャとの関係
イエミンアウン

(Ye Myint Aung) (香港駐在ミャンマー総領事。後に国連大使)

現実には、ロヒンギャは「ミャンマー人」でもなければ、ミャンマーの民族でもありません。写真を見ると、彼らの肌は「こげ茶色」です。ミャンマー人の肌は白く、柔らかく、見た目も良いのですが…彼らは鬼のように醜いのです。(2009年2月、他の公使に宛てた書簡の中で)[131]
コーコージー

(88年世代の民主化活動家、人民党党首)

この委員会がこれらのベンガル人に関して「人権」という言葉を使うなら、私はこの委員会を辞任します。 (2012年、ムスリムと仏教徒との衝突を解決するために設けられたラカイン州調査委員会のメンバーだった氏が、他のメンバーと電話で会話した時の発言)[131]
ミンコーナイン

(88年世代の民主化活動家)

(EUがロヒンギャ問題を強調する理由は) ムスリム側に立ってイメージを変える意図があるからだ[132]
アウンミョーミン

(ビルマ人権教育研究所〈HREIB〉の設立者。現国民統一政府〈NUG〉人権大臣)

このような微妙な状況で「民族浄化」という言葉を使うのは受け入れられません。民族浄化とは他の民族を排除することを意味します。これはラカイン州には当てはまりません。 (2017年のロヒンギャ危機に関する見解)[131]
ミョーミン博士

(Myo Myint) (コーネル大学歴史学博士、元マンダレー大学歴史学講師、元内務省宗教局長)

彼ら(バングラデシュ全土から来た「ベンガル人」)はすでにここにいる。簡単に追い出すことはできない。どうすればいい? (電話での会話)[131]
インインヌエ博士

(Yin Yin Nwe) (ケンブリッジ大学地質学博士、ネ・ウィンの義理の娘、テインセインの宝石顧問。彼女はこの発言で有名人になった)

教育を受けていないベンガル人女性は、狂ったように子供を産みます。平均して、女性1人は10〜12人の子供を産みますが、男性は妻を1人以上持つことが許されています。私は、子供は1人しかいないと伝えましたが、それでも教育費はかなり高額です。この人口爆発により、現在、ブティダウンとマウンドーの人口の90%以上はベンガル人で、ラカイン族とビルマ族はわずか5〜6%です。ですから、ここでは誰が多数派で誰が少数派なのか、自分で考えてみてください。だからこそ、私たちは人口抑制を提案したのです[131]
ザガナー

(Zarganar) (国民的人気のあるコメディアンで、政府批判で4度の服役歴がある)

これは捏造された報告書だ。 (ヒューマン・ライツ・ウォッチによる2012年のムスリム・仏教徒間の衝突に関する報告書について)[131][133]
アウンミャーチョー

(Aung Mya Kyaw) ラカイン民族発展党所属のラカイン州議会議員)

これは不公平です。私たちの党は声明をまったく受け入れません。ラカイン州の地元住民は皆、事件のすべてを知っています。暴力は人種や宗教から生じたものではありません。領土を奪おうとする者と、その領土を守ろうとする者の間で起こったのです。民族浄化はこの問題の本質ではありません。 (ヒューマン・ライツ・ウォッチによる2012年のムスリム・仏教徒間の衝突に関する報告書について)[131][133]
エイマウン

(Aye Maung) (ラカイン民族発展党議長)

私たちはラカイン州の村々を(ベンガル以前の時代に)復元しなければなりません。イスラエルからインスピレーションを得て、イスラエルをモデルに(ラカイン州をラカイン州だけのために)復元する必要があります。[131]
ウィンミャイン

(Win Myaing) (ラカイン州政府報道官)

どうして民族浄化になるのか?彼らは民族ではない[131]

日本におけるロヒンギャ

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難民条約加盟国である日本でもロヒンギャが難民申請しているが、入国管理局によって退去を強制させられている事例がある。日本の法廷で争われている[134]とおり、ロヒンギャ難民の問題には不可解な点が多く認められ、加えて「難民条約」の定義では解決し難いため、難民認定は低調な数字のままである。

在日ビルマロヒンギャ協会によると、2015年6月現在、日本には約230人のロヒンギャが生活している。そのうち約200人が、群馬県館林市に集中している[135]。また、日本政府は、ロヒンギャをミャンマー国籍として扱っているが、国籍を剥奪されたためにそのほとんどが無国籍である実態とかけ離れた国籍認定が懸念されている[136]。2017年8月4日、国連難民高等弁務官事務所のダーク・ヘベカー駐日代表が館林市を訪れ、ロヒンギャの現状を視察した。ヘベカーは、NPO法人が行うロヒンギャの子供たちの学習支援教室などを見学し、「素晴らしいプロジェクトで、学ぶ意欲を感じた」と評価した[137][138]

日本ロヒンギャ支援ネットワークのゾーミントゥ事務局長は、「世界に向かってミャンマー軍が何をやっているか語ってほしい」とアウンサンスーチーに呼びかけた[139]

2017年9月には、日本赤十字社の医療チームがバングラデシュの避難キャンプに派遣された[17]9月8日、東京・品川のミャンマー大使館に、ロヒンギャら約150人が抗議デモを行った[140]

その一方で、在日ミャンマー人社会との対立は深まっている。1988年9月に在日ミャンマー人協会が設立された当初は、ロヒンギャが協会書記長を務めたことがあるなど、表だった排斥は見られなかった。しかし2000年以降、ミャンマーの政情が落ち着くと、在日ミャンマー人の間に「ロヒンギャ(「ベンガル人」)はミャンマー人ではない」という認識が浸透し、表だった迫害こそ起きていないが、ロヒンギャは排除されるようになった[141]。2015年には、日本放送協会の(「ベンガル人」に対する)ロヒンギャ表記への抗議声明を、複数の在日ミャンマー人団体が出した[142]

来歴

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  • 11世紀 パガン朝成立。
  • 16世紀 タウングー朝成立。アラカン人によるベンガル人の拉致が横行。
  • 17世紀 ベンガル人がアラカン王国で隷属化に。
  • 1752年 コンバウン朝成立。
  • 1784年 アラカン王国がコンバウン朝に併合され消滅。
  • 1799年 ビルマ人の迫害により、アラカン人が英領インドへ難民化。
  • 1824年 第一次英緬戦争。
  • 1826年 「ヤンダボ協定」締結。アラカン西部のチッタゴンを英領インドに割譲。
  • 1828年 アラカン州をアキャブ,チョクピュー,サンドウェイの3郡に分割。
  • 1852年 第二次英緬戦争。英領インドは下ビルマを併合。
  • 1879年 飢餓が発生したことから、ベンガル人のビルマへの大規模移住が開始。
  • 1885年 第三次英緬戦争。
  • 1886年 コンバウン朝滅亡。英領インドの一州として完全植民地化。
  • 1887年 英国はベンガル系移民に対する農地の貸借契約を承認。
  • 1911年 20年前に比べ、アラカン人口が80%近く上昇。
  • 1913年 アラカン人とベンガル系移民との間で土地訴訟が発生。
  • 1937年 英領インドから分離。
  • 1939年 アラカン国民会議(ANC)が西部一帯を事実上統治。
  • 1941年 30人の志士から成る国民義勇軍(BMI)結成。
  • 1942年 日本軍の侵攻で英軍が後退。
  • 1943年 反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)結成。
  • 1944年 日本軍の撤退で英軍が再侵攻。「アラカン会議」開催。
  • 1945年 反ファシスト人民自由連盟が抗日運動開始。
  • 1946年 アラカンの東パキスタン統合が拒否され、ベンガル系移民のムジャヒッド蜂起。
  • 1947年 「アウンサン=アトリー協定」締結も、アウンサン暗殺。
  • 1948年 「ビルマ連邦」独立。「ムジャヒッドの乱」でアラカン人とベンガル系移民との抗争が激化。
  • 1951年 「全アラカン・ムスリム協議会」においてムスリム国家の設立を表明。
  • 1954年 ミャンマー=日本間で「平和条約」に調印
  • 1960年 アウンサンの後継ウーヌは、アラカン人に独立国家の樹立を容認。
  • 1962年 ネ・ウィンによる軍事クーデタ発生。ビルマ式社会主義体制へ。
  • 1972年 「ロヒンギャ民族の解放」を唱える会議を開催。
  • 1974年 国号を「ビルマ連邦社会主義共和国」に変更。
  • 1978年 ビルマ当局は「ナーガミン作戦」を各地で展開。
  • 1982年 「市民権法」でベンガル族を除くムスリム(ロヒンギャ)を非国民として規定。
  • 1985年 アウンサンスーチーが日本の京都大学東南アジア研究センターで客員研究員に。
  • 1987年 国連から「低開発国(LDC)」指定。「1982年市民権法」施行により、ロヒンギャの国籍剥奪。
  • 1988年 「8888民主化運動」発生。ソオマオン主導のSLORC(国家法秩序回復評議会)による軍政移管。
  • 1989年 再び国号を「ミャンマー連邦」に変更。
  • 1990年 総選挙実施でNLD(国民民主連盟)が圧勝するも軍政は結果を反故。亡命政府「NCGUB(ビルマ連邦国民連合政府)」設立。
  • 1991年 アウンサンスーチーがノーベル平和賞受賞。ロヒンギャの第一次難民化。
  • 1992年 ミャンマー=バングラデシュ間で「難民帰還覚書」を交換。軍政がタンシュエ麾下に。
  • 1995年 カレン族の拠点基地であるマナプローが陥落し、カレン族の多くがタイ領へ大量避難。
  • 1997年 軍政がSPDC(国家平和発展評議会)に改組。ロヒンギャの第二次難民化。
  • 1998年 ミャンマー=バングラデシュ間で「難民帰還協定」を締結。
  • 2004年 バングラデシュ政府はミャンマーからのロヒンギャを不法移民に認定。
  • 2006年 ネーピードーへ遷都。ロヒンギャの一部がクォータ難民としてカナダで第三国定住。
  • 2007年 「サフラン革命」発生。タイ当局はラノーンで拘束したロヒンギャを強制送還。
  • 2009年 ロヒンギャのボートピープルがタイ海軍によって強制送還。
  • 2010年 国旗と国号を「ミャンマー連邦共和国」に変更。アウンサンスーチー解放。
  • 2012年 ヤカイン州で仏教徒とイスラム教徒が衝突。アウンサンスーチーは介入を避ける。
  • 2015年 インドネシア・マレーシア・タイがロヒンギャを含む漂流難民の一時的受け入れ施設の設置で合意[143]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ロヒンギャの歴史家たちは、この時期のベンガル地方からの大規模な移民を否定して、自然増だと主張している。
  2. アメリカ人宣教師・コムストック牧師 は、1842年の年次国勢調査で当時のラカイン州の人口は約25万7,000 人と推定され、「そのうち約16万7,000 人がラカイン族、4万人がビルマ族、2万人がムスリム、5,000 人がベンガル族、3,000 人がトゥングムルー族、2,000人がケミ族、1,250人がカレン族、残りは少数ながら様々な人種とその他さまざまな民族である」と述べている。
  3. しかし、後述するように1983年の国勢調査ではラカイン州のムスリム人口は49万7208人とされているので、不法移民ではなく、ラカイン州のムスリム人口を指していた可能性がある。
  4. ロハン(Rohang)・ロアン(Roang)の由来は、アラカン王国の首都・ムラウク・ユー(Mrauk-U)のかつての呼び名「Mrohaung」だとする説がある。
  5. ミャンマー人が「ロヒンギャ」という言葉に嫌悪感を感じるのは、その言葉がラカイン全体を意味していることに負うところが大きい。(『ビルマ危機の本質』P140)
  6.  「アラカン」とは英語から派生した言葉で、かつてミャンマーとバングラデシュにまたがった広大な仏教徒の地域を意味し、現在ではビルマ国内のラカイン州を指す。「ラカイン」とは、文字どおりビルマ西部のラカイン州を意味する。また、「アラカン」を民族として呼ぶ場合、多数派のラカイン族を中心に、ムロ族などの他の仏教徒民族を総称している。彼らはチッタゴン丘陵からミャンマーのラカイン州の国境の両側に暮らしている。
  7. 「英国人は『ロヒンギャ』という言葉を一度も使ったことがありません。それは、特にアラカン北部に住むイスラム教徒の一部が、ベンガル語に近い言語で自分たちを呼ぶときに使った言葉です。それは単に『ロハンの』という意味で、アラカンの彼らの呼び名です。アラカンが彼らの故郷であることを暗示していました。同じように、国境のすぐ向こうの人々は、お互いに理解できるベンガル語の方言を話し、自分たちを『チッタゴンの』チャイガヤと呼んでいました」(タンミンウー)
  8. ロヒンギャの歴史家は、英植民地時代の移民の存在も、独立後の不法移民の存在も認めていないので、やがてこのような区別はされなくなった。
  9. 他にも当時、統一ロヒンギャ機構(United Rohingya Organization)、ロヒンギャ青年機構(Rohingya Youth  Organization)、ロヒンギャ学生機構(Rohingya Students Organization)、ロヒンギャ労働機構(Rohingya Labour Organization)といったロヒンギャの名前を冠した組織があった
  10. この時点では、大戦終了後のバングラデシュからの不法移民「ムジャヒッド」は「ロヒンギャ」に含まれていなかったためである。(『Rohingya: The History of a Muslim Identity in Myanmar』P9)
  11. 憲法制定当時、スルタン・ムハンマドが、ラカインのムスリムがこの「土着民族」に含まれるか、議会で異議申し立てをしたところ、サオ・シュエッタイは、「アラカンのムスリムは、あなたが代表するビルマの先住民族の1つに属していることは確かです。実際、ビルマには純粋な先住民族は存在せず、あなたがビルマの先住民族に属していないのであれば、私たちもビルマの先住民族とは見なされません」と答えた。
  12. 2012年7月11日、当時国連難民高等弁務官だったアントニオ・グテーレスと面会したテインセイン大統領は、ミャンマー語の声明で「植民地時代に多くのベンガル人が職を求めてラカインを訪れ、その一部はミャンマーにとどまることを選んだ。ミャンマーの憲法の下では、これらの移民の3代目の子孫は、すべてミャンマーの市民権を得る権利を保障されている。しかし、植民地時代が終わった後にミャンマーにやってきて、ロヒンギャと名乗っている不法移民もいる。彼らの存在は安定を脅かしており、われわれは彼らに責任を持つことができない。国連は彼らを、第三国に移送されるまで、難民キャンプに収容すべきだ」と述べた。ちなみにこの声明は、英語では英語では「テインセイン大統領は『国連はすべてのロヒンギャを抑留して、海外に放逐すべきだ』と述べた」と誤って報道された。(『ビルマ危機の本質』P229)
  13. 2013年4月に来日した際、人権NGOとの交流会で、スーチーは、3世代以上にわたって住んでいるロヒンギャたちには国籍を与えるべきであり、国籍法の差別的な内容ついて再検討する必要があると語っている。
  14. ただし、前述したように1950年代はロヒンギャに対してもNRCが発行されたのであるから、1982年に国籍法が制定されていない時点でNRCを所持していない者は、それ以降にミャンマーに入国した人々ではないかという疑義が生じる。
  15. CSCは市民権の地位ごとに色分けされており、国民=ピンク、準国民=青、帰化国民=緑となっていた。国民の間ではこれもNRCと呼ばれている。
  16. ラカインでは偽造NRCが蔓延していたため、本物のNRCを所持していたロヒンギャでも、文書の確認が完了するまでCSCを発行しないという措置が取られた。逆にラカイン以外に住むロヒンギャには比較的スムーズにCSCが発行されたようである。CSCを発行されなかった者は、NRCを返却した際に渡された領収書を身分証明書代わりにした。
  17. カードの色からして、帰化国民扱いをしたものと思われる。しかし、民族や宗教の情報は含まれておらず、身分証明書や市民権の証明とはみなされていないのだという。

出典

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参考文献

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関連項目

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外部リンク

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  • Ek Khaale(ロヒンギャ自身によるロヒンギャ迫害のアーカイブ)