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カチン族

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
カチン族
カチン族の伝統衣装
総人口
n. d.
居住地域
ミャンマーの旗 ミャンマーカチン州
シャン州
中華人民共和国の旗 中国徳宏タイ族チンポー族自治州
インドの旗 インドアッサム州
アルナーチャル・プラデーシュ州
言語
ジンポー語 (カチン語、景颇语)、ザイワ語 (アツィ語、载瓦语)、ロンウォー語 (マル語、浪速语)、ラシ語 (勒期语)、ンゴーチャン語、ラワン語、リス語 (傈僳语)、ビルマ語中国語アッサム語シャン語
宗教
キリスト教精霊信仰
関連する民族
景颇族シンポー族

カチン族(カチンぞく、ビルマ語: ကချင်လူမျိုး英語: Kachin people)は、主にミャンマー最北部のカチン州およびシャン州北部の山岳地帯に居住する、チベット・ビルマ語派の諸部族からなる民族連合の総称である。国境を越えた中国の雲南省では景頗族(チンポー族)、インド北東部のアルナーチャル・プラデーシュ州などではシンポー族(Singphoと呼ばれ、3カ国にまたがる広域なネットワークを持つ。人口は推計でおよそ120万〜170万人とされる。

ミャンマー政府の分類では12のサブグループからなるとされ、その中で最大勢力であるジンポー(Jinghpaw)を中心として、ラワン、リス、ザイワなどの近縁グループが緩やかに統合されている。民族内の共通語(リンガ・フランカ)としてはジンポー語が用いられる。

古くから山地での焼き畑農業(タウングヤ)に従事し、精霊(ナッ)を信仰するアニミズムを基盤としていたが、19世紀末に欧米の宣教師が独自のラテンアルファベット文字体系を考案したことで識字化が急速に進み、現在では人口の約9割がキリスト教(主にバプテスト派)を信仰している。社会構造においては、「ドゥワ(Duwa)」と呼ばれる世襲の首長や、「マユ・ダマ(妻方と夫方)」に基づく厳格な氏族・親族関係のシステムを持つことで知られる。また、手織りで精巧な幾何学模様が施された民族衣装や、豊穣を祈る大規模な伝統儀式「マナウ(Manau)」など、豊かな独自の文化を強固に受け継いでいる。

歴史的に「誇り高き戦士の民族」として勇名を馳せ、第二次世界大戦では連合国軍のゲリラ部隊の中核として活躍した。独立後はミャンマー中央政府との間で自治権の拡大を求め、カチン独立機構(KIO)およびその武装部門であるカチン独立軍(KIA)を結成。特産品である世界最高級の翡翠(ジェダイト)や木材貿易を背景に強固な防衛基盤を築き、現在に至るまでミャンマーにおける最も有力な少数民族勢力の一つとして大きな政治的・軍事的影響力を持っている。

基本情報

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名称

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カチン(Kachin)とは、主にミャンマー北部の山岳地帯に居住するチベット・ビルマ語派の諸部族を総称するビルマ側での呼称である。

「カチン」という呼称がいつ、どのような経緯で定着したかは定かではないが、アッサム(インド)や中国(雲南省)の居住地域では用いられないことから、ビルマ語に由来する名称であることは確実視されている[1]

記録上の初出は1837年に遡る。旅行家であり宣教師のエウジェニオ・キンケイド英語版博士が、ビルマ北部のモガウン周辺で「カ・キエン(Ka-Khyen)」と呼ばれる人々と接触した際の記録が最初とされる。当時、キンケイドは彼らをビルマ南東部の「カレン族と同じ人種である」という印象を受けたと記している[1]

シャン族、パラウン族は、カチン族を「カン(Kang)」と呼ぶ。これはカチン族がチン族を指す際に用いる名称と同じである。「カン」という言葉には「混血」あるいは「混血の親を持つ者」という意味が含まれている。一方、中国人(漢族)は、 伝統的にカチン族を「イェ・ジェイン(Ye-Jen / 野人)」と呼んできた。これはジンポー語では「ヤウイン(Yawyin)」と音写され、リス族を指す際にも用いられる[1]

民族構成

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ミャンマー政府が公認する135の民族(タインインダー)のうち、カチン系列には以下の12の主なサブグループが存在すると分類されている。このうち最大多数を占め、民族の中核となっているのが自らを「ジンポー」と呼ぶグループである[2]

  • カチン
  • トロン(Trone)
  • ダラウン(Dalaung)
  • ジンポー(Jinghpaw)
  • グアリ(Guari)
  • ハクー(Hkahku)
  • ドゥレン(Duleng)
  • マル/ロンウォー(Maru / Lawgore)
  • ラワン(Rawang)
  • ラシー/ラチッ(Lashi / La Chit)
  • アツィ/ザイワ(Atsi/Zaiwa)
  • リス(Lisu)が

中国側では「景頗(チンポー)族」[3]、インド側では「シンポー(Singpho)」として知られている[4]

居住

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主な居住地はミャンマー最北端のカチン州全域からシャン州北部にかけての急峻な山岳・丘陵地帯である。国境を越えた中国・雲南省徳宏タイ族チンポー族自治州周辺や、インド北東部のアルナーチャル・プラデーシュ州などにも多数が定住している[5]。また、KIOの創設者たちがカレン民族同盟(KNU)の一員として泰緬国境で活動していた関係で、カチン州の紛争を逃れた避難民がタイのチエンマイ県チエンダーオ郡に定住して、現地の人々と結婚して土着化している[6](cf.カチン族の民族運動#国境を越えたジンポー族)。

人口

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ミャンマー国内には推定約110万人から150万人が居住しているとされるが、正確な把握は困難である。内務省総務局(GAD)の2019年報告では、75万2,254人(全人口の1.50%)である[7]。この他、中国側に約15万人[8]、インド側に1万人前後が居住しているとされる[要出典]

言語

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言語体系としてはシナ・チベット語族のチベット・ビルマ語派に属するジンポー語がもっとも広く話されており、異なるサブグループ間の共通語(リンガ・フランカ)として機能している。一方で、ラワンやリスをはじめとする各サブグループはそれぞれ独自の言語や方言を保持している。伝統的にカチン族は独自の表記文字を持っていなかったが、19世紀末に欧米の宣教師がラテンアルファベットを応用したジンポー語の正書法(文字体系)を考案した。これにより初めて母語による聖書の翻訳や辞書の編纂が行われ、近代教育と識字化が広く普及することとなった[9]

宗教

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かつてのカチン族は「ナッ(Nat)」と呼ばれる自然や祖先の精霊を信仰するアニミズムが社会の基盤であり、現在でも豊穣などを祈る「マナウ(Manau)」という大規模な祭事や儀式舞踊にその伝統が深く息づいている。しかし、19世紀後半にアメリカの宣教師(主にバプテスト派)が到来して以降、圧倒的多数の人々がキリスト教に改宗した。現在ではカチン族の約9割がキリスト教徒(その多くがプロテスタントのバプテスト派であり、一部がカトリック)とされ、仏教徒はごく少数にとどまっている(cf.カチン族#キリスト教の伝来と文字の獲得)。

生業

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古来からの伝統的な生業は、傾斜地を利用した「タウングヤ(Taungya system)」と呼ばれる焼き畑農業であり、陸稲(山地米)を中心にトウモロコシや粟、野菜類を栽培してきた[10]。また、カチン州が世界最高級の品質を誇る翡翠(ジェダイト)の世界的産地であることや、貴重なチーク材などの天然資源が豊富であることから、歴史的に中国やタイと結んだ宝石鉱山や木材の採掘・密輸取引にも深く関与してきた。さらに、カチン族は古くから武勇に優れる民族としても知られ、イギリス植民地時代には王立軍の兵士として重用されたほか、独立後もカチン独立軍(KIA)をはじめとする軍事組織に属して戦闘活動を生業としてきた人々も少なくない[11]

歴史

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起源と南下

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カチン族(ジンポー語群を話す諸部族の総称)の正確な起源は碑文や初期の文字記録がないため謎に包まれているが、口承伝承を司る「ジャイワ(語り部)」たちの間では、「マジョイ・シンラ・ブム( Măjoi Shingra Bum、「自然に平らな山」」と呼ばれるチベット高原付近から南下してきたと語り継がれている。およそ300〜400年前、カチン族は現在のミャンマー最北部(カムティ平原北部)から移動を開始し、強大なジンポー族を中心に西や南へと勢力を拡大した。彼らは先住のシャン族などを押し退けてフーコン渓谷一帯を占領し、さらにバモーモガウンといった地域へ定住して、複雑な氏族制度(グムサやグムラウ)を築き上げた[12]

宣教師の到来と文字の獲得

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20世紀初頭のカチン族

伝統的にカチン族は文字を持たず、万物に宿る精霊(ナッ)を信仰するアニミズムの世界観を持っていた。しかし、19世紀中頃からアメリカのバプテスト派宣教師らがビルマ北部に到達すると、カチン族社会は劇的な変化を遂げた。特に1890年に到着したスウェーデン系アメリカ人宣教師のオラ・ハンソン英語版は、ラテンアルファベットを用いたジンポー語の正書法(文字体系)を開発し、カチン語による聖書の翻訳や辞書の編纂を行った。文字の獲得とキリスト教(主にバプテスト派、一部にカトリック)の普及は、散在していた各部族に共通の信仰と教育をもたらし、今日の近代的な「カチン族」としての強いアイデンティティと誇りを形成する最大の要因となった[13]

英緬戦争と武勇の伝統

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19世紀後半、イギリスがビルマ王国(コンバウン王朝)を併合して北上してくると、カチン族は険しい地形を利用して強く抵抗した(サドン英語版砦包囲戦など)。しかしイギリスによって武力平定されると、イギリス軍はその勇敢で好戦的な民族性を高く評価し、カチン族を植民地軍に積極的に徴発した。カチン族の兵士たちは第一次世界大戦時には西アジア(メソポタミア)にまで派兵され、独自の武器である「ダ(剣)」を携えて戦い、「武勇に優れた戦士」としての名声を国際的に高めることになった[14]

第二次世界大戦と独立闘争

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第二次世界大戦が勃発し日本軍がビルマに進攻すると、カチン族は主に連合軍(米英軍)側について戦った。彼らは「北部カチン・レヴィーズ 」やアメリカ軍の「第101分遣隊英語版」といった非正規ゲリラ部隊を組織し、故郷のカチン丘陵英語版を熟知した地の利を活かして日本軍に多大な損害を与えた。この戦争での活躍は彼らに大きな自信を与えたが、同時に多大な犠牲を払い、ケシ(アヘン)が戦地での軍資金や給与として流通する負の側面も残した。 戦後、カチン族の指導者たちはビルマ独立の英雄アウンサンらと協力し、1947年の「パンロン協定」に署名して新しいビルマ連邦への参加に合意し、独立後のミャンマー軍(国軍)でも最大派閥の兵力を担うこととなった[15]

カチン独立軍(KIA)の闘争

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独立後、自治権の形骸化や経済的冷遇への不満が高まる中、1961年2月にゾーセンらを中心にカチン独立機構(KIO)およびその武装部門であるカチン独立軍(KIA)が結成され、完全なる独立共和国の樹立を目指してヤンゴンの中央政府に対する武装闘争を開始した。KIAはカチン州特産の翡翠(ジェダイト)の密輸貿易を資金源に、当初はタイ国境の中国国民党軍残党(泰緬孤軍)、後にはビルマ共産党(CPB)と同盟を結んで中国から大量の武器を調達し、独自の行政や軍事インフラを備えた強大な「解放区」を築き上げた。数十年に及ぶ内戦とCPBの崩壊を経て、1994年2月に当時の軍事政権と停戦協定を結んだが、政権主導の大規模なダム開発等への反発から2011年6月に停戦は崩壊し戦闘が再開された。2021年ミャンマークーデター以降は、全国の民主派勢力(国民統一政府〈NUG〉や国民防衛隊〈PDF〉)を積極的に支援して共闘関係を築き、ミャンマー北部において国軍に多大な損害を与え続ける最も強大な反政府武装勢力の一つとして現在も闘争を継続している[16]

社会

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氏族制度と首長(ドゥワ)

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カチン族の社会は、強固な血縁(親族)ネットワークによって結びつけられている。ビルマ族やシャン族などミャンマーの多くの民族が「姓(名字)」を持たないのに対し、カチン族は父系の血統を重視する明確な「氏族(アミュー、amyu)」の姓を持っていることが大きな特徴である。神話上の祖先ワキェット・ワ(Wakhet Wa)から分かれたとされる「マリプ(Marip)」「マラン(Maran)」「ラパイ(Lahpai)」「ンクム(N'hkum)」「ラッタウ(Lathaw)」の5大氏族が最も有力であり、それぞれの氏族はさらに「枝(ラクン)」「小枝(ラキイン)」と呼ばれる無数の細かい血統へと細分化されている。「ドゥワ(Duwa)」と呼ばれる世襲の首長もこの氏族階層の中に位置づけられており、かつては奴隷を所有するほどの権力と広大な領地を持っていた首長も存在した。遠方で初めて出会うカチン族同士であっても、互いの氏族や血統を確認し合い、兄弟関係や親戚関係を特定してから本題に入るほど、氏族の連帯感は非常に強い[17]

このような氏族制度を基盤とするカチン社会の政治・社会体系は、伝統的に「ガムサ(Gumsa)」と「ガムラオ(Gumlao)」という二つの対照的なモデルの間で変動してきたことで知られる。ガムサは、世襲の首長が支配する階層的な社会体系であり、近隣のシャン族(タイ系)の政治モデルを模倣した、より国家に近い組織形態を指す。ここでは首長が婚姻関係や儀礼を通じて広範な親族ネットワークを束ね、土地や資源の管理を主導する。これに対し、ガムラオは「反乱」や「拒絶」を意味し、特権を独占し抑圧的になったガムサの首長に対する抵抗として生まれた、平等主義的な社会体系である。ガムラオのコミュニティでは世襲の権威が否定され、長老たちによる集団的な合意形成が重視される。社会人類学者のエドマンド・リーチは、カチン社会がこれら二つの体系の間を循環しながら変容してきたと分析している[18]

家族と家制度

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伝統的なカチン族の家族は「ティンガウ(htinggaw)」と呼ばれる拡大家族であり、夫婦と子供だけでなく、両親や同族の年長者も一つ屋根の下で共に生活する。伝統的な住居である高床式の巨大なロングハウス(長屋)の中には、「ダップ(dap)」と呼ばれる複数の暖炉(囲炉裏)が設けられており、調理用、来客用、既婚の息子の家族用など、役割ごとに空間が仕切られている[19]

このような家制度における共同生活の秩序を支えるのが、婚姻が禁止されている兄弟・同族関係を指す「カプ・カナウ(kahpu kanau)」という概念である。この言葉はジンポー語で「兄(カプ)」と「弟(カナウ)」に由来し、カプ・カナウ関係にある相手に対しては、儀礼的義務を負うことなく、あるいは禁忌を破ることなく、便宜を求めたり金銭や資源を借りたりすることが可能であり、この関係性が日常的な相互扶助を支えている。このカプ・カナウ関係にある者同士の通婚が許されないが、この紐帯はジンポー集団および非ジンポー集団を広大なジンポー・ネットワークへと取り込むうえで、極めて重要な役割を果たしており、カチン族が異なる地域や民族を越えて社会を構築する際の基盤となっている[20]

結婚とマユ・ダマ関係

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カチン族の社会関係を規定する最も重要な概念が、「マユ・ダマ(Mayu-Dama)」と呼ばれる婚姻を介した縁結びと親族関係のシステムである[21]

  • マユ(Mayu):自分の氏族に妻を与える氏族(妻方・上位)。
  • ダマ(Dama):自分の氏族から妻をもらう氏族(夫方・下位)。

同じ姓を持つ者同士の結婚は近親相姦とみなされ、厳格な同族嫌悪のタブーが存在する。結婚の原則として、夫方であるダマは、妻方であるマユに対して牛、宝石、武器、金銭などの多額の結納品(貢物)を贈らなければならず、ダマはマユに対して生涯従属的な立場を維持する。かつて首長階級において、マリプ氏族の首長はマラン氏族から妻を娶り、マラン氏族の首長はンクム氏族から娶るなど、氏族ごとに嫁取り先のローテーションが厳密に定められていた。 また家督相続においては、「末子相続」が原則とされている。長男をはじめとする年長の息子たちは結婚すると生家を出て新たなティンガウ(家庭)とダップを築くのに対し、一番下の末息子がティンガウの長として父親の後を継ぐ。また、夫と死別した未亡人は亡夫の兄弟と再婚することが求められる慣習(レビラト婚)も存在する[21]

命名規則

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カチン族の家庭では、出生順に基づいた厳格な命名規則が存在する。一家の最初の7人の子供は、神話の祖先の息子たちの名前に由来する決まった順番で名付けられる[22]

  • 男子:第1子から順に「ガム(Gam)」「ナウ(Naw)」「ラ(La)」「トゥ(Tu)」「タン(Tang)」「ヤウ(Yaw)」「カ(Hka)」
  • 女子:第1子から順に「カウ(Kaw)」「ル(Lu)」「ロイ(Roi)」「トゥ(Htu)」「カイ(Kai)」「カ(Hka)」「プリ(Pri)」

また、首長(ドゥワ)の家系では、男子の名前に「領主」を意味するシャン語由来の「ゾー(Zau)」という称号が付けられ(例:ゾー・ガム、ゾー・トゥ)、女子には「姉妹」を意味する「ナン(Nang)」という称号が付けられる。近年では平民であっても「ゾー」を名乗ることが一般的になっている[22]

キリスト教の布教

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カチン族と欧米のキリスト教宣教師との最初の接触は、1837年に先駆的なアメリカ人宣教師エウジェニオ・キンケイド英語版モガウン周辺でカチン(当時の記録ではカ・キエン)の人々と遭遇したことに端を発する。本格的な布教活動が始まったのは19世紀後半であり、ウィリアム・H・ロバーツ英語版ジョージ・J・ゲイス英語版といったアメリカのバプテスト派の宣教師らが、マラリアなどの熱帯病の危険を冒しながら北ビルマの山間部へと足を踏み入れた[23]

オラ・ハンソン夫妻

布教活動における最大の転換点は、1890年にバモに到着したスウェーデン系アメリカ人の宣教師オラ・ハンソン英語版の功績である。当時、カチン族は独自の文字を持たない無文字社会であり、万物に宿る精霊(ナッ)を信仰するアニミズム社会であった。ハンソンはカチンの共通語となっていたジンポー語を習得し、ラテンアルファベット(スウェーデン語の音声学を一部応用)を用いて、カチン族にとって初となる文字体系(正書法)を考案した。そしてこの文字を使って辞書の編纂や賛美歌の作成を行い、1927年にはカチン語による新旧約聖書の全巻翻訳という偉業を成し遂げた[23]

文字の獲得とミッション・スクールでの教育は、カチン社会の近代化を促す一因となった。しかし、歴史的な統計によれば、植民地時代の改宗率は極めて限定的であった。1941年時点でのバプテスト派受洗者は約1万1,000人にとどまり、カチン人口全体に占めるキリスト教徒の割合は3 - 4%(イギリスの行政管轄区域内に限っても7 - 8%)に過ぎず、大多数の住民は依然として伝統的な精霊信仰を維持していた。当時のエリート層は、社会進出に有利な英語やビルマ語での教育を優先しており、ジンポー語の文字化やキリスト教への改宗が民族全体の運動となったのは、1948年のビルマ独立後の政治的情勢変化が要因であった[24]

1960年代、ウー・ヌ政権による仏教の国教化や、その後の軍事政権による同化政策(ビルマ化)への反発から、キリスト教はビルマ族中心の中央政府に対する「精神的防衛線」として再定義された。1966年に外国人宣教師が国外追放されると、宣教活動はカチン人自身の手による土着の運動へと移行した。こうした戦後の宣教活動の拡大は、武装独立運動を主導するカチン独立機構(KIO)の政治・軍事的な庇護のもとで進められた。KIOは教会組織に活動の安全保障を提供し、一方で教会は中央政府が放棄した支配地域において教育や社会福祉、救済活動を一手に担った。この強固な協力関係を通じて、教会の説教壇や集会所は、政府の検閲を受けないジンポー語による「公共圏」として機能し、中央政府に対する抵抗イデオロギーを育む場となった[25]

1977年にミッチーナーで開催された「バプテスト宣教100周年記念祭」では、1日で6,213人が受洗する大規模な改宗が発生した。翌1978年には、カチン・バプテスト連盟(KBC)が「3/300宣教」を開始し、300人の若手宣教師を未改宗の村々へ派遣したことで、1980年代までに「カチン人口の9割以上がキリスト教徒である」という現在のアイデンティティが確立された[26]

聖書翻訳の過程では、伝統的なカチン語の用語がキリスト教的な意味へと再解釈された。例えば、現在は「神」を指す「カライ・カサン(Karai Kasang)」という語は、本来の伝統的詠唱には登場せず、宣教のために構築された概念である可能性が高いと指摘されている。また、キリスト教化と口語ジンポー語への普及が進む過程で、伝統的な儀礼言語に付随していた精緻な動植物の知識や親族制度のニュアンスが失われるなど、社会記憶の変容も生じた。現在では、日曜礼拝や神学校での教育訓練が、カチン社会の運営とナショナリズムの中核を担っている[27]

文化

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旗とシンボル

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カチン族のシンボルは、中央に配された交差する2本のカチン・ダー(伝統的な刀)を特徴とする。この意匠はカチン独立機構およびカチン独立軍(KIO/A)の旗にも採用されている。旗の配色は二色構成となっており、下部の緑色はカチンの豊かで肥沃な土地と自然を、上部の赤色は民族の自由と自決を求める闘争(反乱)の中で犠牲となった人々への哀悼と、不屈の精神を象徴している[28]

他にも、自由、誠実、水資源(エーヤワディ川)を象徴する青のラインが入ったものや、中央の刀の背後に「マナウの柱(Manau Shadung)」の円形紋様を配したものも存在する[29]

音楽

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1962年頃の景頗族の歌手

カチン族の音楽は、伝統的な精霊(ナツ)信仰、キリスト教、そして現代のポピュラー音楽が融合した重層的な構造を持つ[30]

楽器は青銅製のゴング(バウ)や大太鼓(チヤン)、竹笛などが中心で、自然素材の倍音を活かした音響が、精霊との交信手段として重視されてきた。巨大な祭祀「マナウ」では、規則的かつ催眠的なリズムに合わせ数千人が踊り、宇宙の秩序や民族の結束を表現する[30]

19世紀以降のキリスト教普及により、教会合唱に由来する多部合唱(ポリフォニー)の文化が定着した。現在はジンポー語によるロックやポップスも盛んだが、その歌詞や旋律には依然として伝統的な自然観や民族の歴史が色濃く反映されている[30]

美術

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文学

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祭り

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マナウの柱

カチン族の社会において最も重要な伝統祭祀は、アニミズムや古代の儀式にルーツを持つマナウ英語版である[31]

伝説によれば、カチン族が聖地・マジョイ・シングラ・ブム(Majoi Shingra Bum)から南下し、クラン・ク・マジョイ( Hkranghku Majoi)という地に至って文明化した際、精霊たちがジャワ・ルムジャ(Jawa Rumja)という人物に命じて最初のマナウを開催させたのが始まりとされる。歴史的には、繁栄を司る精霊マダイ・ナッ(Madai Nat)への供物を捧げることを許された、世襲の首長(ドゥワ)や一部の裕福な有力者のみが主催できる特権的な儀式であった[31]

祭りは数日間にわたって厳格な手順で進行する。まず、雄牛や水牛を犠牲として捧げる儀式から始まり、その肉は親族や近隣住民に分配される。これは共同体の結束を固める重要プロセスである。主催者の家の前には、独自の幾何学模様が描かれた4本の「マナウの柱」が立てられる。そのうち最短の柱には大きな太鼓が吊り下げられ、祭りの中心的なシンボルとなる。祭りでは、伝統衣装を纏った人々が、2人のリーダーに先導されて円を描くように踊る(マナウ・ダンス)。この踊りは、アニミズムの司祭(ジャイワ)による祝福や物語の語りと共に、伝統的に4日間、連日繰り返される。マナウの柱は祭りの12ヶ月後に破壊されなければならず、そのため、村々に常設の踊り場はほとんど存在しない[31]

マナウには、これらは個人の慶弔や健康祈願から、出陣・勝利など約10種類あるとされている[31]

衣装

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カチン族の伝統衣装

カチン族の伝統衣装は、精巧な手織りのテキスタイルと、銀細工や特有の装身具を用いた非常に装飾的で美しいスタイルで知られている[32]

ミャンマーの他の民族と同様に、男女ともに「ロンジー(Longyi)」と呼ばれる筒状の腰布(サロン)を身につける。特に女性の伝統的なロンジーは、黒色の綿やウールをベースに、赤や緑といった鮮やかな色彩で複雑な幾何学模様が織り込まれているのが特徴である。これらは「腰機(こしばた、バックストラップ・ルーム)」と呼ばれる伝統的な機織り機を使って手作業で織られ、完成までに数ヶ月を要することもある。カチン族の女性は、ミャンマー全土の民族の中でも特に機織りと刺繍の技術に優れていると高く評価されている[32][33]

女性の伝統衣装の上衣には、黒いベルベット(ビロード)調の生地で作られた長袖または七分袖のジャケットが用いられます。このジャケットの襟元から前身頃にかけては、精巧な彫刻が施された「銀のメダリオン(銀貨や銀飾りの円盤)」が多数縫い付けられている[32]

女性の衣装において最も特徴的な装身具の一つが、腰の周りに何重にも巻かれる「ウェスト・フープ(Waist-hoops)」である。これらは伝統的に重厚な銀、または黒漆を塗った割り竹(籐)で作られている。地元の神話・伝承によれば、このフープは「動物の罠」を象徴しており、これを身につける女性を悪霊や危険から保護する魔除けの意味合いがあるとされている。同時に、巻き付けたロンジーの腰部分をしっかりと固定する実用的な役割も果たしている[32]

また、足元にはロンジーの柄と同様の、鮮やかな色彩で織られた布製の足首飾り(アンクレット)を身につけ、さらに頭部には銀飾りのついたヘッドピース(頭飾り)を被るのが伝統的な正装のスタイルである[32]

料理

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カチン料理は、近隣のビルマ料理やシャン料理と比較して油の使用量が極めて少なく、野生のハーブやスパイスを多用する、山岳民族ならではの健康的かつ刺激的な特徴を持つ[34]

料理の基本は「酸味と辛味」にあり、唐辛子、ニンニク、生姜に加え、山椒(現地語でmachyang si)に似た痺れを伴うスパイスが多用される。ミャンマー中央部の料理とは対照的に、油で炒める工程よりも、和える、蒸す、煮る、焼くといった調理法が中心である。また、バナナの葉で材料を包んで蒸し焼きにする手法や、石臼で食材を叩き潰してペースト状にする手法も一般的である[35]

代表的な料理に、シャ・ジャム(Shat Jam)、シャン・カッ(Shang Hkak)、ジャプ・トゥ(Jap htu)、シ・パ(Si pa)などがある[34][36]

日本との関わり

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  • 『カチンの首かご』:戦後の日本において、カチン族独特の謎めいたイメージを広く知らしめるきっかけとなった一冊のノンフィクション書籍がある。それが、元日本軍兵士である妹尾隆彦による特異な戦争体験記『カチン族の首かご:人喰人種の王様となった日本兵の記録』(1956年・文藝春秋新社刊)である[37]。 この記録によれば、1942年にビルマ北部に進軍した一等兵であった妹尾は、様々な事情から部隊を離れて未知のカチン族の集落へと入り込み、言葉も通じない状態から奇跡的に彼らの信頼を得て、ついには集落の「王様(長)」として迎え入れられたという。 タイトルの「首かご(首狩りかご)」は、当時の日本軍内で恐れられていた「カチン族は敵の首を狩ってかごに入れる」「人食い人種である」といった誇張された恐怖の噂を象徴的に表したものである。実際の作中では、野蛮な噂とは裏腹に、豊かな人間性や独自の社会秩序を持つカチン族の人々の生活風習が詳細に描かれており、過酷な戦争という異常な環境下で発生した「敵国兵士と現地少数民族との個人的・文化的な交流」を記した貴重な記録文学として、現在も語り継がれている[37]
  • 日本の遺骨収集団:1976年1月23日、カチン州を訪れた日本遺骨収集団をKIA戦闘員が銃撃し、護衛兵が応戦して戦闘状態となった。これにより護衛兵7人、日本人2人、通訳1人が負傷した[38]

脚注

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出典

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  1. 1 2 3 Lintner 1997, p. 18.
  2. Embassy of the Union of Myanmar, Brussels”. www.embassyofmyanmar.be. 2026年4月9日閲覧。
  3. 雲南省少数民族”. 認定NPO法人 日本雲南聯誼協会. 2026年4月9日閲覧。
  4. Project, Joshua. Singpho in India (英語). joshuaproject.net. 2026年4月9日閲覧。
  5. カチン ポータルサイト”. kachinportal.aa-ken.jp. 2026年4月9日閲覧。
  6. Sadan 2013, pp. 357–358.
  7. Ethnic Population Dashboard (英語). PonYate. 2026年4月9日閲覧。
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参考文献

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  • 吉田敏浩 (1995)『森の回廊 ビルマ辺境民族開放区の1300日』東京: 日本放送出版協会. ISBN 978-4140802335
  • 吉田敏浩 (1997)『宇宙樹の森 北ビルマの自然と人間その生と死』東京:現代書館. ISBN 978-4768467220
  • 吉田敏浩 (2000)『北ビルマ、いのちの根をたずねて』東京: めこん.
  • 吉田敏浩 (2001)『生命の森の人びと アジア・北ビルマの山里にて 』東京: 日本放送出版協会.
  • 吉田敏浩 (2011)「カチン世界」伊東利勝編『ミャンマー概説』475-538. 東京: めこん.

関連項目

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外部リンク

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