コンテンツにスキップ

カレンニー族

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
カレンニー族(カヤー族)
総人口
n.d.
居住地域
ミャンマーの旗 ミャンマーn.d.
タイ王国の旗 タイn.d.
言語
赤カレン諸語
(カヤー・パダウン系、ブエ・カヨー系、他)
宗教
上座仏教キリスト教精霊信仰
関連する民族
カレン族

カレンニー族(カレンニーぞく、ビルマ語: ကရင်နီ: Karenni) または カヤー族 (カヤーぞく、英: Kayah) は、主にミャンマー東部のカヤー州(旧カレンニー州)および隣接するタイ国境地帯に居住する、シナ・チベット語族系に属する少数民族の総称である。歴史的に「赤カレン (Red Karen)」とも呼ばれ、カヤー、カヤン(首長族として知られるパダウンを含む)、カヨー、ブウェなど、言語や文化を異にする複数のサブグループ群によって構成されている[1]

「カレンニー」と「カヤー」という二つの呼称は、単なる自他称の違いにとどまらず、同地域の複雑な政治状況とアイデンティティを象徴している。「カレンニー」は元来ビルマ語由来の他称であるが、イギリス植民地時代に独立状態を保っていた同地域の歴史的地位や、域内の多様な少数民族を包摂・連帯させるための「総称」として、カレンニー民族進歩党(KNPP)などの抵抗勢力によって積極的に用いられてきた。一方で「カヤー」は域内最大多数を占める集団の自称であり、ミャンマー政府はKNPPが掲げる分離独立の政治目標とその名称が結びつくことを回避し、連邦体制へ組み込む目的から、1952年に州名を「カレンニー州」から現在の「カヤー州」へと変更した[2]

1948年のミャンマー独立以降、連邦政府への統合に反発するカレンニーの武装勢力は独立を求めて武装闘争を開始し、世界で最も長く続く内戦の一つを経験してきた。数十年におよぶ紛争と「ビルマ化」政策、天然資源をめぐる権益争いなどにより、現在も数十万規模の難民および国内避難民(IDP)がタイ国境周辺のキャンプ等で生活している[1]

抗争の過程では、独自の「カレンニー文字」が創出・教育されるなど民族統合を図る運動が続けられてきたが、同時に「カレンニー社会」内部におけるマジョリティ(カヤー)とマイノリティ(非カヤー)間の構造的な課題も内包しており、近年はそうした多様性を前提とした平和構築のあり方が模索されている[2]

基本情報

[編集]

名称

[編集]

「カレンニー」とは、ビルマ語の「カインニー(赤カレン)」を植民地統治に携わったイギリス人が「カレンニー」と呼んだことが始まりで、ビルマ語起源の他称である。一方、カヤーとは、カヤー語で「人間」を意味する自称である。カヤーリープとも自称され「赤い人」という意味になる[3][2]

この際、「赤」という色は、民族衣装の色、または肌の色であるなどの諸説があるが定かではない。言語学上の分類においてもカレンニーとカヤーは同一の集団とされ、両者には自他称の違いしかない[3][2]

「カレンニー」という総称は少数民族としての政治的連帯と歴史的独立を示すために抵抗勢力(カレンニー民族進歩党 〈KNPP〉など)によって用いられる。一方、ミャンマー政府は、分離独立の政治目標と名称が結びつくことを避けるため、域内で最大多数を占める集団の名称である「カヤー」を採択し、1952年に州名をカレンニー州からカヤー州に変更した[3][2]

民族構成

[編集]
カレンニー族の9部族

ミャンマー政府が公認する135の民族(タインインダー)のうち、カヤー系列には以下の9つの主なサブグループが存在すると分類されている[4]

  • カヤー (Kayah)
  • ザイン (Zayein)
  • カヤン / パダウン (Ka-Yun / Padaung) ※いわゆる「首長族」として知られる
  • ゲコ (Gheko)
  • ケバー (Kebar)
  • ブウェ / カヨー (Bre / Ka-Yaw)
  • マヌマノー (Manu Manaw)
  • インタレー (Yin Talai)
  • インボー (Yin Baw)

居住

[編集]

主にミャンマー東部のカヤー州(国内で最も面積が小さい州)に居住する。カヤー州は西にカレン州、北にシャン州と接し、東はタイ王国のメーホンソーン県と国境を接している。長きにわたる内戦と国軍による迫害、諸民族間の対立などにより、多くのカレンニー族がタイ側に逃れて数万人規模の難民となっているほか、州内および周辺地域の森林地帯に潜伏する国内避難民(IDP)も多数存在する[5]

メーホンソーン県には、ナイソーイ新村難民キャンプ英語版メースリン難民キャンプというカレンニー族の難民キャンプが存在する[6]

人口

[編集]

内務省総務局(GAD)の2019年報告では、カヤー族は19万4,382人[7]、カヤン族は9万237人などとなっている[8]

言語

[編集]

シナ・チベット語族チベット・ビルマ語派カレン語支に属する諸言語(カヤー語群)を話すが、各サブグループ間で言語的差異が大きい。独自の共通文字を持たなかったが、独立した民族国家構築運動の一環として、KNPPの指導者によって1963年に固有の「カレンニー文字」が考案された。これは長らく独立運動の象徴であったが、近年は「チェボジ文字」としてカヤー州の公認文字の一つとしても位置づけられるようになった。ただし、サブグループによっては同文字(カヤー語ベース)の習熟度が低く、難民キャンプや実生活での共通語としてはビルマ語が広く使われている[2]

宗教

[編集]

カヤー(カレンニー)族は、先祖伝来のケトーボー信仰(Kay Htoe Boe)を基層としつつ、キリスト教や仏教も受容しており、複数の宗教が併存する信仰構造を持つ。森・山・水・大地にはそれぞれ守護霊(精霊)が存在するという世界観が、宗教生活全般の根底にある[9]

  • ケトーボー信仰:カヤー族に伝わる最も重要な信仰で、1948年のミャンマー連邦独立後に「精霊信仰」として公式に認められた。「ケ」は「領土・領域」、「トー」は「成就する」、「ボー」は「細い棒状の柱」を意味し、全体で「領土を成就する御柱」を意味する。この信仰の核心は、天地と万物を創造した至高神「ピトゥル」を祀る神聖な柱を建立し、その祝福を祈ることにある。カヤーの古い韻詩イーヨーによれば、カヤーの人々がミャンマーの地に入るよりはるか以前からピトゥル神への信仰は存在していたとされる。ピトゥル神は人間に対し、3年に1度の「ケタラー」(国に関わる祭祀)、農作を祈る「ケトーボーボーパリャー」、人畜の繁栄を祈る「トーティ」、子供たちの和合のための「ケトーボープーテー」、旱魃や水害から逃れるための「ホートー」など、複数の祭祀を行なうよう定めたとされる[9]
  • 精霊信仰と守護霊の祭祀:カヤーの人々は洪水・旱魃・凶事は精霊の罰と考えており、これを回避するために年1回、森や山に赴き守護霊を祭る。祭祀を怠ると精霊が憑依したり農作物が不作になるなど、さまざまな災厄が訪れると信じられている。精霊に取り憑かれた病人には、司祭が鶏卵や鶏を用いて「魂を呼び戻す儀礼」を行なう。鶏の骨の占いで良い託宣が出れば魂は帰還するとされ、それでも回復しない場合は精霊の要求する動物(鶏→豚→水牛と病状に応じて大きくなる)を供儀し、精霊に取り憑かれた場所で祭祀を行なわなければならない。治癒後には「吉祥を与える祭り」が催され、年配者たちが白い綿糸を病人の右手に結んで回復と繁栄を祈願する[9]
  • 伝統的な占術:カヤー族の宗教生活において占いは極めて重要な位置を占める。冠婚葬祭・農作業・家の建築・病気の原因究明など、あらゆる重大な決定に先立って占いが行なわれる。鶏の骨を刺す占いは最も重要な占術で、鶏の太腿骨にある穴の状態と数を左右で比較し、吉凶を判断する。この占いの起源は、ピトゥル神が与えた金の本が犬→豚→鶏へと渡り、その真理が鶏の大腿骨の中に宿ったとする神話に基づく。この占いは司祭か熟練者のみが行ない、女性が行なうことは固く禁じられている[9]
  • キリスト教:カヤーの人々は120年以上前からキリスト教を受容している。1858年、カトリックの宣教師ビガンデーがヤンゴンからタウングーに来た際、一部のカヤー人がキリスト教の教えを受け入れた。最初の布教者であるビッフィ、トルナトーレ、カルボーネ、コンティらの努力により、1873年から1876年にかけてゲーバーおよびカヤン(ゲーコー)の人々の多くがキリスト教徒となった。カヤーの人々は文字を持たなかったため、ビッフィ神父がゲーバー人の文字を最初に創り、主禱文や歌集を印刷した。1884年にはアメリカのバプテスト宣教師バンカーがカヤー州に来訪し、同年バプテスト教会の組織が設立された[9]

生業

[編集]

伝統的に山間部や丘陵地帯での焼畑農業や、谷間での水稲栽培など農業を主たる生業としている。主要な作物は米、トウモロコシ、ゴマなどである。また、居住地であるカヤー州はチーク材などの豊富な森林資源のほか、タングステンやスズなどの希少な鉱物資源を有しており、これらは長年にわたるミャンマー軍(国軍)や武装勢力の資金源や利権と結びついてきた。日本との関わりとして、戦後賠償で建設されたバルーチャウン水力発電所が存在する[2][10][11]

歴史

[編集]

民族の起源と定着

[編集]

カレンニーの口承伝承および歴史研究によれば、彼らの祖先は紀元前2015年頃にモンゴルから南下を開始したチベット・ビルマ語族の一派とされる。その後、中央アジアからチベット、インド、ブータンを経由してサルウィン川流域に到達した。紀元前739年頃、現在のカヤー州デモソ(Demawso)周辺に最初期のコミュニティが形成され、定住が始まったと伝えられている[12]

カレンニー諸州の形成と主権

[編集]
1917年のカレンニー諸州の地図

植民地時代以前のカレンニー地域には、主にボーラケ、チェボジ、ナメコン、ナウンパレ(西カレンニー)、およびカンタラワディー(東カレンニー)といった、シャン族に由来する称号「ソーピャー(ソーブワ)」を持つ領主(土侯)が治める複数の土侯国が存在していた[12][13]

1875年、ビルマ(コンバウン朝)のミンドン王と英領インド総督との間で交わされた条約により、西カレンニーに対する双方の不干渉が約束され、西カレンニーの「独立」の地位が実質的に承認された。その後、1889年には東カレンニーも英国に降伏したことで、同地域一帯は英国の保護下に置かれた。 イギリスは、ビルマ族の居住する平野部を直接統治とする一方で、カレンニーを含む山岳地帯を「辺境地域」として間接統治下に置いた。中でもカレンニー地域は、他の間接統治地域とも異なる「独立」した特殊な地位を与えられていた。この分割統治による制度的な差異やキリスト教の布教活動が、その後のビルマ族との対立や分離独立運動の淵源となったと指摘されている[12][13]

現代の変遷と改称

[編集]

1948年のミャンマー独立後、カレンニーは1947年憲法で保障された分離独立権を求めて中央政府と対立した。1951年、政府はそれまでの「カレンニー州」を「カヤー州」へと一方的に改称したが、これは「カレンニー」という呼称が持つ包括的な民族アイデンティティを縮小させ、民族的な連帯を分断する(分断と統治)目的があったとされる。これ以降、名称と自治権を巡る武装闘争が激化した[12]

社会

[編集]

結婚に関する慣習

[編集]

カヤン(パダウン)の伝統では、結婚相手は両親が決めるが本人にも選択・拒否の権利がある。男性は満25歳以上で農作業等の生活技能を、女性は満20歳以上で手織り・糸紡ぎ・薪割り等の技能を備えていなければ結婚は許可されない。オジと姪・オバと甥の関係や、先祖7代にわたる呪いが掛かった者同士、イーループとケプの家族間など、複数の婚姻禁忌が存在する[14]

婚約は男性側の既婚の仲人が、面子を傷つけぬよう夜明け前か夜更けに密かに女性側を訪問する形で進められる。承諾されれば金・銀・装飾品が贈られ、鶏の骨の占いで結婚式の日取りが決められる。式当日の早朝に屠った豚の胆を確認し、変形があれば不吉として式が中止される場合もある。式の席上では新婦側から新郎側に「乳代」と「身体代」が要求され、地区の長老たちの立会いのもと結婚の成立が宣告される[14]

妊娠と出産に関する慣習

[編集]

妊婦には厳格な食物禁忌が課される。鶏卵やバナナのつぼみを食べることは胞衣の異常や難産に繋がるとされ、蛇や猿を見ることも禁じられる。夫にも土を掘ること、葬式の食事や発酵食品を食べることが禁じられ、違反すれば子供が病気がちになるとされる。妊産婦は他の家人と台所や器具を共用できず、別の場所で煮炊きしなければならない[14]

出産後7日間は近所の人々の訪問が禁じられ、その後に親族を呼んで名づけ式が行なわれる。名前は茅の茎を折る占いで決められ、合わなければ改名される。名づけ式では鶏4羽の骨を刺す儀式が行なわれ、それぞれ産婦の災厄除け・家族の守護・新生児の命名・一家の幸福祈願という異なる役割を担う[14]

命名に関する慣習

[編集]

カレンニー族の名前はその人がカどの民族に属するかを識別する手がかりとなる。例えば、カヤー族の男性は名前の最初に「Khu」を用いることが多く、名前の最後は必ず「Reh」である。女性の場合は、名前の最初に「Maw」を用いることが多く、名前の最後は「Meh」「Myar」「Moe」のいずれかである。カヤン族の男性は名前の最初に「Khun」を用い、女性は「Mu」を用いる。カヨー族の男性は名前の最初に「El」、女性は「Mu」を用いる。パクー族(Pa Ku、スゴー・カレン族の一支系)の男性は名前の最初に「Saw」を用いることが多く、名前の最後は必ず「Htoo」である。女性は名前の最初に「Naw」を用い、名前の最後には「Htoo」または「Paw」を用いる[11]

葬式に関する慣習

[編集]

カヤン族は土葬を行なう。遺体は水で洗い新しい衣服を着せて木棺に納め、故人の愛用品とともに1〜3日間客間に安置される。人が亡くなると銅鼓・銅鑼・カウベル・両面太鼓が昼夜各3回以上打ち鳴らされ、女性を中心に哀悼歌が謡われる。弔問客は男女でペアになり、フルートと長太鼓の伴奏で遺体の周囲を夕暮れから夜明けまで踊り続ける[14]

埋葬は午前中に行なわれ、棺には食物・酒甕・愛用品が入れられ、遺体の口に酒が注がれる。棺は普段の階段ではなく仮設の階段から下ろされ、男性のみが墓地へ運ぶ。埋葬の前後に銃が撃たれ、参列者は直帰せず葬式の家で手を洗ってから帰宅する。カヤーの死生観では、死者の魂は「ディーモボー山」に集まるとされ、故人の頭はその方角に向けて埋葬される。遺体に赤い鉢巻と針が添えられるのは、死者の国への道を塞ぐ巨大な毛虫を突いてどかすためであるという[14]

文化

[編集]

旗とシンボル

[編集]
カレンニー諸民族防衛隊(KNDF)の旗

カレンニー族にとって、伝統的な青銅製の太鼓(カレンニー語で「Klo」)は、単なる祭祀の道具を超え、民族のアイデンティティと政治的団結を表す至高の歴史的シンボルとなっている[15][16][17]

独自の文字や明確な国境線を持たなかったカレンニーの人々にとって、この銅鼓は自治や主権を視覚的に主張する最重要のモチーフであり、カヤー州の公式な州旗や民族運動組織(KNPPなど)の旗にも描かれている。かつてカレンニー地域は、最高品質の銅鼓を鋳造する高度な技術と独自の経済基盤を持っており、その存在は「周辺の強国に従属しなかった豊かな過去」を現代の世代に力強く想起させる役割を果たしている。さらに、かつて雨を呼び精霊と交信するとされた重厚な音色は、現在では軍事政権などの抑圧に対する抵抗と連帯を呼びかける声へと昇華し、国内外に離散したディアスポラ層など人々を精神的に結びつける求心力となっている[15][16][17]

音楽

[編集]

カレンニーの音楽は、祭祀や生活の場面に応じて多様な楽器や歌謡が受け継がれている。使用される楽器は、めでたい吉事に用いられるものと凶事に用いられるものに厳格に分けられているのが特徴である[18]

主な楽器

[編集]
  • 銅鼓(近代以前からの神聖な楽器): 古くから伝わる吉祥の楽器として最も珍重されており、新築祝いや雨季前の祭りなど、限られためでたい式典でのみ演奏が許される。カヤー州のグエダウンなどで鋳造され、普段は金銀などとともに洞穴や家の中に秘蔵される。四隅にカエルの装飾が施されたものなどがあり、ビルマ族の王宮で用いられた吉祥の大銅鑼と同様に大切に崇められてきた[18]
  • その他の打楽器・管楽器 :祭りでは長短の太鼓(単面太鼓、両面太鼓)、大銅鑼、小銅鑼、シンバルなどの打楽器のほか、竹笛や大型の縦笛(チャルメラやビルマのフネーに似たもの)などが演奏される。「ピーコーシャー」や「テーロウッ」と呼ばれるフルートは、未婚の若者が他家を訪問する際などによく吹かれる。また、水牛の角で作られた単音しか出ない「トーライッカヤー(森入りラッパ)」は、退屈しのぎに吹かれるなど日常的に親しまれており、複数名で集まって演奏される。近年ではバンジョーなどの現代楽器と合わせて演奏されることもある[18]

伝統歌謡

[編集]
  • イーヨー: 遠い昔の創世記から現在に至るまでの事跡を綴った古典歌謡で、4語(あるいは5語、6語)の音節を基本とする韻文詩である。家を新築した際などの吉事に、親戚一同が競い合うように歌う。詩や格言の豊かな教養が必要であり、口頭伝承で受け継がれてきたため、現在では完全に歌いきれる者は非常に少なくなっている[18]
  • ヘートゥーセー: 伴奏なしで泣き声のように音を長く引っ張って歌われる哀悼歌(挽歌)。故人の生前の功績を称え、彼岸での安寧を祈るために追慕の式典などで歌われる[18]

舞踊

[編集]

カヤー(カレンニー)の伝統的な舞踊は、季節の祭りや冠婚葬祭において重要な役割を担っている。近年は廃れつつあるものもあるが、現在も多様な踊りが受け継がれている[18]

  • ケトーボー踊り: 精霊信仰や先祖伝来の習わしに基づく重要な祭りで披露される踊りで、地域により大きく2つのスタイルに分かれる。なお、いずれの形式においても女性は絶対に参加しないという厳格な掟がある[18]
    • カヤー州北部(チーケーノーコー地方): 踊り手が一列に並び、その後ろに大銅鑼を担いだ演奏者らが立ち止まって演奏する。ゆったりとしたリズムと動きが特徴である[18]
    • カヤー州南部(グエダウン、チェボジ周辺): 非常に賑やかで、滑らかな赤い鉢巻を振って踊る。楽器の演奏者や外部の人間も踊りの輪に加わる。両面太鼓の熟練した演奏者が踊りのステップを先導し、その合図によって踊りの速度や場面が徐々に変化していく[18]
  • ディークー祭の踊り: 年に1回開催される祭りで見られる踊り。北部では「レーパイエー」、南部では「ボーカラー踊り」と呼ばれ、皆ではしゃいで跳ね回りながら、村の家々を回って踊る。ケトーボー踊りと同じく女性は参加しない[18]
  • パーエーティートー :出稼ぎから数年ぶりに帰郷した若者たちが中心となって行われるチェボジ地方一帯の踊り。涼季から乾季にかけて、顔を色彩豊かに変装し、親戚に濁酒(カウンイェー)をねだりながら踊る。台所を囲んで敷物を荒々しく踏みつけ、酒甕をひっくり返すなど、自由で歓喜に満ちた踊りである[18]
  • 楯踊り・葬式の踊り: 「楯踊り」は、かつて出陣の際などに刀や槍、楯を用いた戦いの技量を示すために踊られたものであり、現在は娯楽や儀礼として、武具の扱い方を示しながら披露される。また、葬式の際にも踊りが行われる。夜間に遺体を囲んで踊る風習があり、この場合は男女がペアになって遺体の周囲を回りながら踊る[18]

美術

[編集]

文学

[編集]

祭り

[編集]

カヤー(カレンニー)族の社会では、古くからアニミズム(精霊信仰)に根ざした多くの祭りが営まれてきた。いずれの祭りにも共通するのは、鶏の骨を用いた占いによる吉日の選定、司祭(ケプ)の先導による供儀と祈祷、そして銅鼓や長胴太鼓の演奏に合わせた伝統舞踊という儀式的構造である[19]

  • ケトーボー祭:カヤー族の最も代表的な祭りであるケトーボー祭は、神聖なトーテム・ポール(柱)の建立を中心とする年中行事である。カヤー族の創世神話に基づき、天と地を繋ぐ柱を立てることで好天と豊作、村の平穏を祈願する。柱に用いる木の選定や日取りは鶏の骨の占いで決められ、建立の際には銅鼓が打ち鳴らされる中、村人が総出で柱の周囲を踊る[19]
  • 森に入る祭り(ケ祭):「ケ」とは「村」や「地域」を意味し、水・大地・山・森の守護霊に供儀を行なうことで、自分たちの土地が永続するよう祈願する祭りである。一部では「ケコーゲー」とも呼ばれ、年に2回から3回、また5年に1度は7日間にわたる盛大な式典が催される場合もある。祭りの間、銅鼓を鳴らしながらマントラや偈文が唱えられ、村人は連日森に入って野生動物を追い、供儀獣を捕らえなければならない。家族は全員仕事を休み、外来者の村内への立入りも禁じられる。捕獲した動物の肉は各家に均等に分配され、司祭ケプが野生動物の各部位を「ケープー」と呼ばれる木の上に供える。供儀の終了は水牛の角笛「トゥー」を3度吹き鳴らすことで全村に告げられる[19]
  • 粽祭(エードゥー):毎年9月から10月に3日間にわたって開催される粽祭(エードゥー)は、一切の病気を村の外に追い出し、農作物を自然災害から守ることを目的とする。初日に村人は森へ葉を摘みに行き、もち米を包んで粽を作る。2日目には粽を家の守護霊と村の守護霊に捧げた後、「魂を呼ぶ祭り」が行なわれる。家長は雄鶏を毛布にくるんで村外の道の分岐点まで行き、木の葉やバッタなどの「吉祥の魂」を持ち帰って家の聖なる方角に安置する。夕方になると未婚の男女が長胴太鼓や両面太鼓、銅鑼を打ち鳴らしながら各家々を回り、伝統の踊りを披露する。3日目の大祭の後、各家では目の粗い籠に炭・ぬか・とげのある草木などを入れて村外に捨て、夜にはバケツを打ち鳴らし先込め銃を撃って悪しきものを追い払う。翌日、司祭は「プディーカレー」と呼ばれる精霊の像を作り、銅鑼と太鼓に伴われたこの像が村外へと運び出されることで、村内の一切の病気と禍が持ち去られると信じられている[19]
  • 新築祝い:カヤー族は新居を建て終わると、司祭の先導のもとで新築祝いの儀式を執り行なう。この儀式を済ませなければ新居に住むことはできない。司祭は鶏・槍・毛布・鉦などを携えて空き地で「吉祥の魂」である虫を捕らえ、新居の正面階段でトウガンを割り、家の中に入って槍で床板を叩きながら悪霊を追い出す偈文を唱える。鶏の骨の占いで新居への託宣を下した後、銅鼓を鳴らしながら竹を挟む踊りや「ダイン」踊りなどが踊られ、男性は床を足で力強く蹴りながら踊ることで新居の堅牢さを確かめるとされている[19]

衣装

[編集]

料理

[編集]

カレンニーの食文化は、周囲の豊かな自然環境から得られる食材を最大限に活かす工夫に満ちており、同時に食事を通じてコミュニティの絆を深め、独自の伝統を次世代へと継承する重要な役割を担っている。長引く紛争によって多くの人々が国内外で避難生活(難民キャンプなど)を余儀なくされてきた背景もあり、手近な食材からいかにして故郷の味やアイデンティティを保つかという点もカレンニー料理の大きな特徴である[20][21]

主な特徴と調理法 伝統的なカレンニー料理の多くは、森で採集したタケノコやキノコ、山菜などの植物性食材と、小川で捕まえた小魚や小エビ、カエル、カニなどの動物性タンパク質を組み合わせた、持続可能な自給自足のスタイルに基づく。また、鍋などの金属製調理器具を使わずに、切り出した竹筒を容器として直接火にくべる独自の調理法が古くから存在し、竹の風味が食材の旨味を引き立てると重宝されてきた[20][21]

代表的な料理

  • ディーサー(Dee Sah / 搗き飯) カレンニーの最も古く伝統的な料理の一つ。米を柔らかく炊き、鶏肉や豚肉、魚(食材が乏しい場合は森のキノコ)、レモングラス、生姜、ウコンなどを煮合わせたスープと一緒に、粘り気が出るまで棒で何度も搗き合わせて作る。最後に揚げたニンニクや玉ねぎを混ぜ込む。かつては油やニンニクが貴重であったため特別なご馳走とされ、現在でも結婚式や葬式、ケトーボー祭などの重要な行事の際にコミュニティ総出で作られ、皆で分け合って食べる習慣がある[21]
  • イーニャター(Ee Mya Hta / 竹筒の詰め物焼き) 森で得たカエルや小魚、野鳥(あるいは鶏肉や豚肉)などの肉を青菜や香辛料と混ぜ合わせ、中を空洞にした竹筒に詰めて直接炭火や焚き火で数時間ローストする料理。水や鍋などを一切必要とせず、使用後の竹は森に還すことができるため、環境負荷を持たない料理として受け継がれている[21]
  • カレンニー風モヒンガー(Mote Hee Kha) ミャンマー全土で親しまれている麺料理「モヒンガー」は、カレンニー州でも特別な祭りや誕生パーティーなどでよく振る舞われる。ナマズなどの魚で出汁をとり、バナナの茎やレモングラスなどをじっくり煮込んだスープに米麺を合わせる。ビルマ文化とカレンニー文化が融合した料理として親しまれており、フライド・イエロービーン(サクサクに揚げた豆)などをトッピングして食される[21]
  • 各種サラダ(和え物) 茹でたタケノコや青パパイヤ、きゅうりなどを、ピーナッツ、唐辛子、ニンニク、ライムなどと共にすり鉢で潰しながら和えるサラダ(タケノコサラダ、パパイヤサラダなど)も日常的に食されている[21]

脚注

[編集]

出典

[編集]
  1. 1 2 Karenni in Myanmar (英語). Minority Rights Group. 2026年4月10日閲覧。
  2. 1 2 3 4 5 6 7 カレンニーとカヤー:2つの「名」をめぐって”. 笹川平和財団. 2026年4月10日閲覧。
  3. 1 2 3 Kramer et al.| 2018, pp. 101–103.
  4. Embassy of the Union of Myanmar, Brussels”. www.embassyofmyanmar.be. 2026年4月10日閲覧。
  5. Kramer et al.| 2018, pp. 12, 88–92.
  6. タイ・ミャンマー(ビルマ) 国境の難民キャンプ”. 外務省. 2026年4月14日閲覧。
  7. Ethnic Population Dashboard (英語). PonYate. 2026年4月11日閲覧。
  8. Ethnic Population Dashboard (英語). PonYate. 2026年4月11日閲覧。
  9. 1 2 3 4 5 伊東 2011, pp. 354–367.
  10. 第12回 バルーチャン発電所|鹿島の軌跡|鹿島建設株式会社”. www.kajima.co.jp. 2026年4月11日閲覧。
  11. 1 2 Profile of the Karenni Community in Nebraska (英語). Omaha Refugee Task Force. 2026年4月16日閲覧。
  12. 1 2 3 4 In Brief of Karenni History”. 2026年4月13日閲覧。
  13. 1 2 伊東 2011, pp. 323–335.
  14. 1 2 3 4 5 6 伊東 2011, pp. 368–376.
  15. 1 2 Karen Drum 2 k”. www.drumpublications.org. 2026年4月19日閲覧。
  16. 1 2 KARENNI MYTHOLOGIES AND HISTORY (英語). University of Victoria. 2026年4月20日閲覧。
  17. 1 2 Space-making of Karenni Refugee Identity (英語). Chiang Mai University. 2026年4月20日閲覧。
  18. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 伊東 2011, pp. 349–354.
  19. 1 2 3 4 5 伊東 2011, pp. 377–380.
  20. 1 2 Karenni Culture – Karenni Social Development Center (英語). 2026年4月19日閲覧。
  21. 1 2 3 4 5 6 Traditional Karenni food cook book (英語). Karenni Social Development Center. 2026年4月19日閲覧。

参考文献

[編集]
  • 伊東, 利勝『ミャンマー概説』めこん、2011年。ISBN 978-4839602406 
  • Kramer, Tom; Russell, Oliver; Smith, Martin (2018). From War to Peace in Kayah (Karenni) State A Land at the Crossroads in Myanmar. Transnational Institute. https://www.tni.org/en/publication/from-war-to-peace-in-kayah-karenni-state 

関連項目

[編集]