アウンサンスーチー

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アウンサンスーチー
အောင်ဆန်းစုကြည်
Aung San Suu Kyi ノーベル賞受賞者
Remise du Prix Sakharov à Aung San Suu Kyi Strasbourg 22 octobre 2013-18.jpg
生年: 1945年6月19日(70歳)
生地: Flag of British Burma (1937).svg 英領ビルマラングーン管区ラングーン都
思想: 仏教慈悲非暴力[1]
活動: ミャンマーの非暴力民主化運動
所属: Flag of National League for Democracy.svg国民民主連盟
投獄: 自宅軟禁3回 合計約14年9か月(現在は解除)
受賞: トロルフ・ラフト人権賞(1990年
サハロフ賞1991年
ノーベル平和賞(1991年)
議会名誉黄金勲章2008年
レジオン・ドヌール勲章コマンドゥール(2012年
母校: デリー大学(政治学学位)
オックスフォード大学(学士、修士)
ロンドン大学SOAS(修士)
信教: テーラワーダ仏教
影響を受けたもの: マハトマ・ガンディー非暴力不服従運動
現職: 国民民主連盟中央執行委員会議長
外務大臣
大統領府大臣
国家顧問

ミャンマー連邦共和国外務大臣
在任期間 2016年3月30日 -
大統領 ティンチョー

ミャンマー連邦共和国大統領府大臣
在任期間 2016年3月30日 -

ミャンマー連邦共和国国家顧問
在任期間 2016年4月6日 -

連邦議会人民代表院議員
在任期間 2012年5月2日 - 2016年3月30日

国民民主連盟中央執行委員会議長
在任期間 2011年11月18日 -

その他の職歴
ミャンマー連邦共和国教育大臣
(2016年3月30日 - 2016年4月6日)
ミャンマー連邦共和国電力エネルギー大臣
(2016年3月30日 - 2016年4月6日)
国民民主連盟書記長
(1988年9月27日 - 2011年11月18日)
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アウン・サン・スー・チービルマ語: အောင်ဆန်းစုကြည် (画像による標示:Aung San Suu Kyi (Burmese).svg)、ラテン文字転写: Aung San Suu Kyi、国際音声記号 [aʊŋˌsæn.suːˈtʃiː]。1945年6月19日 - )は、ミャンマーにおける非暴力民主化運動の指導者、政治家。現在、国民民主連盟中央執行委員会議長。2016年3月30日ティンチョーを大統領とする新政権が発足したことにともない、外相、大統領府相を兼任(当初は教育相と電力エネルギー相も兼任していた)[2]、さらに新設の国家顧問にも就いた。

ビルマの独立運動を主導し、その達成を目前にして暗殺された「ビルマ建国の父」ことアウン・サン将軍の娘である。敬虔なテーラワーダ仏教徒とされる[3]。使用言語はビルマ語英語フランス語日本語[4]。ただし、2013年訪仏時にはフランス語で講演を行っているが、同年の訪日時には、英語で記者会見を行っている[5][6]

日本や、英語メディア、仏語メディア、独語メディアなどの報道では「スー・チー」「スー・チーさん」などと表記されることもあるが、原語では姓名の区別なく「アウンサンスーチー」と一語で表記する(後述)。

ソウル大学校名誉教育学博士(2013年)、モナシュ大学名誉法学博士(2013年)、オーストラリア国立大学名誉文学博士(2013年)、シドニー大学名誉法学博士(2013年)、シドニー工科大学名誉博士(2013年)、ローマ名誉市民(2013年)、ボローニャ名誉市民(2013年)、ボローニャ大学名誉哲学博士(2013年)、京都大学名誉フェロー(2013年)、龍谷大学名誉博士(2013年)、ワルシャワ名誉市民(2013年)、オックスフォード大学名誉私法学博士(2012年)、パリ名誉市民(2012年)、香港大学名誉法学博士(2012年)、ヨハネスブルグ大学名誉博士(2010年)、カナダ名誉市民(2007年)、ルーヴァン・カトリック大学名誉博士(2006年)、アメリカン大学名誉博士(1997年[7][8]ノーベル平和賞受賞(1991年)、オックスフォード大学名誉フェロー(1990年)、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院名誉フェロー(1990年)。

来歴[編集]

1945年6月イギリス統治下のビルマ首都ラングーンで生まれた。当時は、ビルマの戦いの末期で、敗勢の日本を裏切った父アウンサンらの攻勢もあり、同年5月にラングーンから日本軍が駆逐され、日本の支援を受けていたビルマ国も崩壊。日本統治時代が終わりイギリスの支配に戻ったばかりのころだった。日本の降伏後、1947年に父アウンサンが、政敵ウー・ソオの部下に暗殺される。[9]以降ラングーンで元看護師の母親キンチー(en:Khin Kyi)と2人の兄とともに暮らし、母からテーラワーダ仏教の厳しい教育を受けた。

次兄アウンサンリンが8歳の時、自宅庭の池で溺死したのち、ラングーン市内のインヤー湖畔に転居した。なお長兄のアウンサンウー(en:Aung San Oo)は、のちにサンディエゴ移民として移り、アメリカ合衆国の市民権を取得した。妹の政治活動には反対しているとされる。

スーチーは、ラングーンの聖フランシス修道会学校を経て、ダゴン郡区にあった、ビルマのトップ英語学校メソジスト英語学校(現ダゴン第一高等学校、en:Basic Education High School No. 1 Dagon)に通った。同校の同級生に、のちにスーチー側近となるティンチョーがいた。

1960年に母親のキンチーが、ウー・ヌ政権で駐インド兼駐ネパール特命全権大使に着任すると、スーチーは母に伴いニューデリーに移り、同地のキリスト・メリー修道会学校に通った。1962からデリー大学en:University of Delhi)レディ・スリラム・カレッジ(en:Lady Shri Ram College for Women)で政治学を学び、1964年に卒業。インドでは、ジャワハルラール・ネルーの家族などと親交し、マハトマ・ガンディー非暴力不服従運動の影響を受けたとされる。

1964から1967年までイギリスのオックスフォード大学セント・ヒューズ・カレッジ(en:St Hugh's College, Oxford)哲学政治経済学部(PPE、en:Philosophy, Politics and Economics)で哲学・政治学・経済学を学ぶ。1967年に学士号を取得後、ビルマ政治史担当の助手に就任しヒュー・ティンカーfr:Hugh Tinker)教授に師事。1968年には同大学を卒業して政治学修士号を取得した。しかし、オックスフォード大学での成績は不振で、二度コースを変更しようとしたもののいずれも失敗し、結局の評価で卒業したため研究を続けることが困難となった[10][11][12][13]。なお1990年にはオックスフォード大学名誉フェローに選出された。また1993年にはオックスフォード大学名誉博士の授与を打診されたものの出国できず断念。その後2012年に名誉博士号を取得した[14]

大学卒業後、友人のタンイー(en:Than E)とともにニューヨークで暮らし、1969年からニューヨーク大学大学院で国際関係論を専攻してビルマ政治史が専門のフランク・トレイガー(Frank Trager)教授に師事したが、中退し、1969-1971年にはニューヨークの国際連合事務局行政財政委員会で書記官補を務める[15]。1972年にオックスフォードの後輩で、当時ブータン在住だったチベット研究者のマイケル・アリス(1946-1999)と結婚し、国際連合事務局を退職し、専業主婦となった。1972年から73年までブータン外務省研究員。1973年に長男アレキサンダー(en:Alexander Aris)を、1977年に次男キムをもうける。

オックスフォード大学クイーン・エリザベス・カレッジで研究を再開し、1975年から77年までオックスフォード大学ボドリアン図書館編纂研究員を務めた。1985年から87年までロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)で研究生を務め、ビルマ文学とナショナリズムの関係を研究し、1988年にSOASでビルマ文学修士号を取得した[16]。また父の研究をするため、オックスフォード大学で2年間かけ日本語を習得。その後1985年10月-86年7月までの約9ヶ月間、国際交流基金の支援で京都大学東南アジア研究センターの客員研究員として来日し、大日本帝国軍関係者への聞き取り調査や、外務省外交史料館、旧防衛庁戦史部、国会図書館などでの資料調査を行い、父アウンサン将軍についての歴史研究を進める。当時の受け入れを行ったのは、当時同センター長の石井米雄(前神田外語大学学長)らである。またシムラーでインド教育省Indian Institute of Advanced Studies(IIAS)特別研究員を2年間務めたほか、ビルマ連邦政府でも勤務した。1986年7月から10月までヤンゴンの母を訪ねたのち、オックスフォードに戻った[17]

軍事政権との対峙[編集]

1988年3月31日に、母が危篤との知らせを受け、4月2日に、病気の母を看護するためビルマに戻る。1987年9月の高額紙幣廃止令などをきっかけに、学生を中心に始まった反政府運動(8888民主化運動)は、デモ中の学生が虐殺された同年3月以降に激化した。同年7月には1962年の軍事クーデターより独裁政治を敷いていたネ・ウィン将軍・ビルマ社会主義計画党議長が辞任した。戒厳令下では学生、市民らが大規模なデモを行った。アウンサンスーチーは8月26日にシュエダゴン・パゴダ前集会で50万人に向け演説を行った。9月18日には国軍がクーデターを起こし、ソウ・マウン議長を首班とする軍事政権(国家法秩序回復評議会、SLORC。のちのSPDC―国家平和発展評議会)が誕生した。民主化運動は徹底的に弾圧され、数千人の犠牲者が出た。アウンサンスーチーは9月に、翌1990年に予定された選挙への参加を目指し、1988年の国民民主連盟(NLD)の結党に参加し、書記長に就任[18]。全国遊説を行うが、1989年7月に自宅軟禁され、NLD書記長を解任される。国外退去を条件に自由を認めるともちかけられたが拒否したと言われる。

軍事政権は1990年5月27日に総選挙を行い、アウンサンスーチーの率いる国民民主連盟が大勝した。しかし、軍政側は、「民主化より国の安全を優先する」と権力の移譲を拒否した。この強硬な姿勢は国際的に激しい非難を招き、アウンサンスーチーは1990年10月12日にトロルフ・ラフト財団からトロルフ・ラフト人権賞(en:Thorolf Rafto Memorial Prize)を受賞。1991年7月10日にサハロフ賞受賞、同年10月14日にはノーベル平和賞を受賞した。ノーベル賞賞金の130万ドルはビルマ国民の健康と教育のための基金の設立に使われた。ただし自宅軟禁中のため授賞式には出席できず、受賞演説を行ったのは軍政が民主化に本腰を入れ始めてから21年後の2012年6月16日のことであった[19]

1995年7月10日に自宅軟禁から解放される。週末に自宅前集会を行って大勢の聴衆を集めたが、軍政によって中止に追い込まれる。10月10日にNLD書記長に就任。NLDは同年11月に制憲国民会議のボイコットを決断し、軍政は、対抗措置として同党側委員を除名した。会議は事実上休眠状態となる(2003年に再開)。

NLDは1996年5月、アウンサンスーチー釈放以後初の党大会を計画したが、軍政側は国会議員235人を拘束する弾圧策に出た。軍政はアウンサンスーチーにヤンゴン外への移動を禁止していた。アウンサンスーチー側は1996年と1998年にこれに抵抗したが、いずれも妨害された。NLDは1998年9月、国会招集要求を無視した軍政に対抗し、アウンサンスーチーら議員10人で構成する国会代表者委員会(CRPP)を発足させる。

1999年3月、夫マイケル・アリスが前立腺癌で死亡。ビルマ入国を求めたアリスの再三の要請を軍政は拒否した。再入国拒否の可能性があるアウンサンスーチーは出国できず、夫妻は再会することができなかった。

度重なる自宅軟禁[編集]

2000年8月24日、ダラーのNLD青年部への訪問を再び阻止される。抗議の篭城を行うが、9月2日に首都ヤンゴンに強制送還された。同月22日にマンダレー行きを試みたが、再度拘束され、翌22日から再度自宅軟禁された。同10月から、ラザリ国連事務総長特使らが仲介し、アウンサンスーチーと軍政との間で国民和解対話に向けた前段交渉が始まった。2002年5月6日に自宅軟禁は解除される。その後NLDの党組織再建のため、各地を遊説し、訪問先で熱狂的な歓迎を受ける。2002年5月14日、アウンサンスーチーと久米宏が5分間の電話対談を行い、録音した音声がテレビ朝日系列の「ニュースステーション」で放送された。2003年5月30日、ビルマ北部を遊説中に軍政による計画的な襲撃に遭い、活動家や支援者に多数の死傷者と逮捕者が出た。襲撃の責任者がのちに首相となるソー・ウィン中将とされる。その後は軍施設に連行され、三度目の軟禁状態に置かれる。外部からの訪問はほぼ完全にシャットアウトされた。同年9月に手術入院した後は自宅に移され、自宅軟禁状態となる。

2007年9月23日、仏教僧侶らの反政府デモが広がるのに伴い、軟禁先を自宅からインセイン刑務所に移されたとの情報がある。9月30日、ミャンマーを訪れたイブラヒム・ガンバリ国連事務総長特別顧問と1時間にわたり会談した。

国際社会からの支援[編集]

2007年10月、カナダ名誉市民の称号を受けた[20]。2008年4月、アメリカにて議会名誉黄金勲章授与法案可決。同年5月10日に軍事政権が信任選挙を強行した新憲法草案では、当初「配偶者および子供が外国人、もしくは外国の市民権を有する国民には選挙権を認めない」との条項があり、前夫が外国人のアウンサンスーチーの被選挙権を事実上剥奪していた。しかし、諸外国の抗議もあり、軍事政府はこの条項は撤回。同月23日、アウンサンスーチーは事前投票したと伝えられた。

2009年5月、アメリカ人の男が自宅に侵入したのが軟禁条件違反に当たるとして、「国家転覆防御法」違反の罪で起訴される。5月18日、ヤンゴン市・インセイン刑務所内の裁判所で裁判が始まった。規定では有罪なら禁固3-5年が科せられる。自宅軟禁の最長期限は6年であるから、同月末を迎えると軟禁が解かれる予定だった。同日、アウンサンスーチー率いる野党・国民民主連盟(NLD)が刑務所周辺で抗議行動を行った。17日の前日には、ニコール・キッドマンブラッド・ピットデビッド・ベッカムら著名人44人が、アウンサンスーチーの訴追に反対し、解放を求める共同声明を発表した。26日午前、タン・シュエをトップとする軍事政権は軟禁期限は同年11月との声明を出し、アウンサンスーチーと弁護士にも軟禁解除を伝えた。その上で8月11日、国家転覆の罪で禁固3年の実刑を言い渡し、直後に執行猶予と1年6か月分の特赦を付けて再度の軟禁状態に置いた。侵入者のアメリカ人は禁固7年の実刑判決を受けた。

政治活動の再開[編集]

2012年9月、ホワイトハウスにてバラク・オバマと会談を行うアウンサンスーチー

2010年1月21日、軍事政権のマウン・ウ内相が地方の会合でアウンサンスーチーについて「軟禁期限となる11月に解放される」と述べていたことが判明し、11月13日に軟禁を解除された[21]。政治活動の再開を進めるアウンサンスーチーに対し、政府は2011年6月28日に活動停止を通告[22]。7月25日、8月12日には政府側と会談し、国家の発展のため協力していくことで合意したが、これには懐疑的な見方もある[23]。8月14日には地方都市での政治活動を再開させた[24]。2012年4月1日に行なわれたミャンマー連邦議会補欠選挙にNLDより立候補[25]し、当選を果たす[26]。だが軍事政権が定めた憲法に反対する立場から、議員就任の際に求められる憲法遵守の宣誓を拒否することを理由に、4月23日の初登院に応じず宣誓内容の修正を求めた[27]。その後方針転換し、5月2日に正式に議員に就任した[28]

2012年1月10日、NLD中央執行委員会議長に選出。1月13日、ニコラ・サルコジフランス大統領が、レジオンドヌール勲章コマンドゥール(3等)の授与を電話で伝える[29]。1月25日、アースィフ・アリー・ザルダーリーパキスタン大統領より、ベナジル・ブット賞を授与される[30]。2月10日、国際連合教育科学文化機関が、2002年に授与が決定していたマダンジート・シン賞を授与する。 11月、インドを訪問し、1993年に受賞が決定していたネール賞の受賞演説などを行う[31]。2012年2月15日香港大学から名誉法学博士号を受ける[32]。2012年6月、24年ぶりにヨーロッパ諸国を歴訪し、同月27日に、パリ名誉市民の称号を受け、フランス語で講演を行った[33]

2013年2月1日ソウル市冠岳区ソウル大学校文化館でソウル大学校名誉教育学博士号を授与された。また同日行われた宋永吉仁川広域市長との会談で、日本の慰安婦問題について、日本統治時代ビルマ日本帝国主義への抵抗運動を主導した父アウンサンの「誰にでも長所と短所がある」との言葉を引用し、「過ちは誰でもするが、過ちを認めることをためらうことこそ本当の過ち」とし、問題を否定する日本の姿勢を批判した[34]。 2013年4月13日、27年ぶりに来日。在日ミャンマー人や、京都滞在中に家族ぐるみの付き合いをしていた日本人との懇談や、経済界へのミャンマーへの支援の呼びかけ、安倍晋三首相などの日本政府要人との会談を行う[35]京都大学では名誉博士号の授与を検討したが、アウンサンスーチーの京都大学への貢献が少ないと判断し断念。代わりに、京都大学名誉フェローの称号を新設して、4月15日の講演時にこれを授与した。また、同日、日本滞在時から親交の深い大津定美教授夫妻がかつて教鞭をとっていた龍谷大学で講演を行い、龍谷大学名誉博士号を授与された。講演では、仏教の慈悲に基づく非暴力民主化運動を行う必要があると論じ、「仏教の教えを心に置きながら変革を進めないといけない」と述べた。[36]2013年9月12日、ポーランドレフ・ヴァウェンサ初代大統領と昼食をともにし、外国人として2人目のワルシャワ名誉市民の称号を受ける。2013年10月、イタリアに訪問し、ローマ教皇フランシスコと面会したのち、1994年に授与が決定されたものの、出国できなかったため20年間受け取ることのできなかった、ローマ名誉市民の称号を、同日27日にローマ市庁舎で開かれた記念式典で受けた。その後、ボローニャ名誉市民の称号も授与された[37]

「事実上のアウンサンスーチー政権」の樹立[編集]

2015年11月8日に実施された総選挙において、NLDが圧倒的な勝利を収め、アウンサンスーチー自身も連邦議会下院議員に当選したことが選挙管理委員会に発表された。10日に行われた外国メディアの取材に対し、アウンサンスーチーは新たに選出される新大統領について、憲法上アウンサンスーチーの就任が禁じられていることに合わせた措置に過ぎず何らの権限を持たない傀儡であり、「私が全てを決定する」と断言した。

ただし、こうしたアウンサンスーチーの立場や、コーコージーなど民主化運動の有力者を議員候補リストから排除するなどの党運営は、憲法の無視や、権威主義的な姿勢であるとの批判がニューヨーク・タイムズなどからなされ、違憲の疑いも指摘されるが、アウンサンスーチー自身は憲法に規定がないため違憲ではないと主張している[38][39][40]

2016年3月22日、ミャンマー次期大統領のティンチョーは議会に新内閣の閣僚名簿を提出し、新政権にアウンサンスーチーが入閣することを明らかにした。同年3月30日、ティンチョーは正式に大統領に就任し、新政権が発足した。日本のマスコミはこの政権を「事実上のアウンサンスーチー政権」と評価している。アウンサンスーチーは外務大臣(国防治安評議会英語版のメンバー)、大統領府大臣、教育大臣、電力エネルギー大臣の4閣僚を兼任した。ただし、この中の教育大臣と電力エネルギー大臣のポストについては他に適任者が現れるまでの暫定措置であったとされており、政権発足後すぐに電力・エネルギー相はテイン・セイン政権でエネルギー省次官を務めたペー・ジン・トゥン(Pe Zin Tun)、教育相は教育省勤務経験のある西ヤンゴン大学学長のミョー・テイン・ジー(Myo Thein Gyi)へ交代させる人事案が連邦議会に提示されている[41][42]。なお、ミャンマーの憲法では国会議員と国務大臣を兼任することはできないため、アウンサンスーチーは大臣就任にともなって連邦議会下院議員を自動失職した。

同年4月6日、ミャンマー連邦共和国国家顧問のポストを新設し、それにアウンサンスーチーを任命する法案が成立した。この「国家顧問」は、憲法の規定で大統領に就任できないアウンサンスーチーに国家の最高指導権を委ねるための措置であるとみなされている。国家顧問は大統領に政治上の「助言」を与えることができるとされているが、アウンサンスーチーの「助言」は、事実上は大統領への「指示」となると予想されている。

外相就任後の4月5日、中国の王毅外相と会談した。王外相は今回の訪問がアウンサンスーチーからの招待であることを明かしたうえで「政権が交代しても両国の永続的友好関係は変わらない。農業やインフラ分野の経済協力を進める」と応じている。なお王外相は6日までミャンマーに滞在し、ティンチョー大統領とも会談する予定[43]

人物[編集]

名前について[編集]

アウンサンスーチーの名前は、父親の名前(アウンサン)に、父方の祖母の名前(スー)と母親の名前(キンチー)から一音節ずつ取って、付けられたものである。

ミャンマーに住むビルマ民族は性別に関係なくを持たない。アウンサンスーチーの「アウンサン」も姓や父姓ではなく、個人名の一部分に過ぎない。彼女の名前は「アウンサンスーチー」で、原語では分割することはない。したがって、彼女のことを「スー・チー」「スーチー」などと呼ぶのは誤りとなる。ただし日本の新聞や報道などでは便宜上短い表記を使うことがほとんどとなっている。日本の大手メディアでは毎日新聞が1996年から、朝日新聞が2012年から「アウンサンスーチー」と表記しているがそれ以外は「アウン・サン・スー・チー」と表記している。

なおビルマ人は、通常、年配の女性につける「女史」に相当する敬称「ドー」(Daw) をつけて「ドー・アウンサンスーチー」と呼ぶ。また、親しみを込めて「ドー・スー」ということもある。

逸話・評価[編集]

  • アウンサンスーチーがいつも髪に差している鮮やかな花の髪飾りは、再会することなく死別した英国人の夫とかつて誕生日に贈りあった品種。彼女にとってこれをつけることが無言の抵抗の証となった[要出典]
  • 日本留学中(25年以上前に)、市川崑監督の映画「ビルマの竪琴」を鑑賞し、「中井貴一ってハンサムね」と述べたという[44]
  • 高山正之はアウンサンスーチーについて、父を殺し、祖国を破壊したイギリスに忠誠を誓い、イギリスに背く祖国を非難し「植民地支配の糾弾」事業を潰したと評している[45]
  • 彼女の半生をもとにした映画「The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛」が2011年に制作された。
  • 旧軍事政権との繋がりの深い政商から、NLDが金を受け取っていた事が判明。彼ら政商は軍事政権の取り巻きの立場を利用して富を築いており、国内でも悪評が高い。内訳は教育・医療対策の為に実業家テー・ザTay Zaから8万2353ドル、チョー・ウィンから15万8824ドル。テー・ザは武器密輸の疑い、チョー・ウィンは南部カレン州で起きた強制土地収用に関係している。また同じくNLDに献金していたゾー・ゾーが所有する財閥マックス・ミャンマーは、2013年1月現在も欧米からの制裁を受けている。イラワジ誌によれば、NLDの行動を擁護し、「軍事政権の取り巻きだったとされる人々は、NLDなどの社会活動を支援してきた。そのどこが悪いのか?目的もなく金を使う代わりに、彼らは支援するべきことを支援した。それはいいことだ」と語った[46]
  • 国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウオッチ(本部ニューヨーク)は2013年版の年次報告において、アウンサンスーチーについて「少数民族の人権保護に消極的で、失望している」との批判を掲載した[47][48]。アラブ系メディアのアルジャジーラもまた2015年、イスラム系少数民族のロヒンギャの難民問題について、多数派である仏教徒の支持を得るために迫害を黙殺しているとの報道を行っている[49]
  • 2016年にはスーチーのロヒンギャ問題に対する差別的な発言をめぐり、「ノーベル平和賞を取り消せ」という署名キャンペーンがChange.orgで行なわれ、5万人以上の署名が行われた[50][51]

著書[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 「社会変化のプロセスにおける仏教の役割」2013 年 4月 15日 アウン・サン・スー・チー氏 龍谷大学名誉博士号授与式 記念講演会 深草キャンパス顕真館
  2. ^ スーチー政権が発足、外相、大統領府相、教育相、電力相を兼任”. アセアンポータル. 2016年3月30日閲覧。
  3. ^ 「アウンサンスーチー氏:仏教思想に基づいた非暴力、大学講演で訴え 「他者を愛し、慈しむ」」毎日新聞2013年04月16日朝刊
  4. ^ Aung San Suu Kyi: A Biography, p. 142
  5. ^ 「ミャンマー国民民主連盟党首アウンサン・スーチーさん会見(日本語同時通訳版)」
  6. ^ 「アウン・サン・スー・チー氏、パリ名誉市民に 仏語でスピーチ」
  7. ^ 産経新聞「スー・チー氏、京都大なども訪問」2013年4月15日号
  8. ^ 「スー・チー氏、英オックスフォード大から名誉博士号」2012年06月21日 12:03
  9. ^ 、『アウン・サン—封印された独立ビルマの夢』、岩波書店、1996 、140–191 頁
  10. ^ Phadnis, Aditi (2012年5月30日). “Much warmth, some restraint at Manmohan's meeting with Suu Kyi”. Retrieved 27 March 2016閲覧。
  11. ^ Popham, Peter (2012). “Aung San Suu Kyi”. St. Hughs College Magazine. http://www.st-hughs.ox.ac.uk/wp-content/uploads/2014/12/St-Hughs-Magazine-2012.pdf 2016年3月27日閲覧。. 
  12. ^ AUNG SAN SUU KYI: HER EARLY LIFE, FAMILY AND CHARACTER” (2008 Jeffrey Hays, last updated May 2014.). 2016年3月27日閲覧。
  13. ^ Aditi Phadnis. "Much warmth, some restraint at Manmohan's meeting with Suu Kyi". Business Standard. Retrieved 30 May 2012.
  14. ^ 「スー・チー氏、英オックスフォード大から名誉博士号」2012年06月21日 12:03
  15. ^ Ma Than E, “A Flowering of the Spirit: Memories of Suu and Her Family”, in Aung San Suu Kyi (edited by Michael Aris), 1991, Freedom From Fear and Other Writings, Penguin Books, pp. 250–251.
  16. ^ 「SOAS alumna Aung San Suu Kyi calls for 'Peaceful Revolution' in Burma」SOAS
  17. ^ 根本敬「アウンサンスーチーの思想と行動」
  18. ^ 「国民民主連盟」知恵蔵2015
  19. ^ “受賞から21年…スー・チー氏がノーベル賞演説”. 読売新聞. (2012年6月16日). http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20120616-OYT1T00795.htm 2012年6月16日閲覧。 
  20. ^ 「アウン・サン・スー・チー氏、カナダの名誉市民に」AFP2007年10月18日
  21. ^ “スー・チーさん解放、7年半ぶり自由に” (日本語). 読売新聞. (2010年11月13日). http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20101113-OYT1T00657.htm 2010年11月13日閲覧。 
  22. ^ “スー・チーさんに活動停止通告 ミャンマー政府”. 朝日新聞. (2011年6月29日). http://www.asahi.com/international/update/0629/TKY201106290616.html 2011年8月15日閲覧。 
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関連項目[編集]

外部リンク[編集]