ソウ・マウン
ソウ・マウン စောမောင် Saw Maung | |
任期 | 1988年9月18日 – 1992年4月23日 |
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任期 | 1988年9月21日 – 1992年4月23日 |
出生 | 1928年12月5日 イギリス領インド帝国、上ビルママンダレー |
死去 | 1997年7月24日(68歳没) |
政党 | 国家法秩序回復評議会 |
ソウ・マウン(ビルマ語: စောမောင်、Saw Maung、1928年12月5日[1] - 1997年7月24日)はミャンマーの軍人・政治家。民族はビルマ族。1988年から1992年にかけて国家法秩序回復評議会(SLORC)議長(国家元首)・首相・国防相を務め、独裁的な政治を行った。また、1988年から1991年までは外相も務めていた。
経歴・概要
[編集]1928年12月5日、上ビルママンダレーに生まれる。1949年ビルマ国軍に入る。1950年曹長になる。1952年ビルマ士官訓練校(OTS)を卒業し(第6期)少尉に任官する。1965年第5歩兵大隊副大隊長を経て、1967年少佐に昇進、第29歩兵大隊長、第47歩兵大隊長を歴任する。1970年北西軍管区第一作戦参謀。1972年北東軍管区副司令官。1975年第99歩兵師団長。1976年北部軍管区司令官。1979年南西軍管区司令官。1981年ビルマ国防省軍務局長。1983年陸軍参謀次長を経て1985年国軍参謀総長となった。
8888蜂起への対応
[編集]1988年、8888蜂起を受けて社会主義(BSPP)政権が崩壊すると、ビルマ国軍参謀総長を務めていたソウ・マウンはクーデターを起こし、国家法秩序回復評議会(SLORC、軍事政権)を発足、その議長となって実権を握った。彼の政権は1989年に、国名をビルマからミャンマーに、首都名をラングーンからヤンゴンに変えた。
前の独裁者マウン・マウン同様、ソウ・マウンも反対勢力、民主化運動を弾圧した。1990年5月の国民議会(国会)総選挙では、与党・国民統一党が野党勢力(国民民主連盟)に大敗したために政権移譲を拒否し、野党の代表人物らを逮捕した。また、ノーベル平和賞を受賞した民主化運動家のアウンサンスーチーを自宅監禁した。
1992年4月に、健康を理由に公式に引退し、タン・シュエに政権が移った。1997年7月24日、心臓発作のため死去。68歳。[2]
脚注
[編集]- ^ 『軍政ビルマの権力構造 ネー・ウィン体制下の国家と軍隊 1962 - 1988』p262
- ^ “Heroes and Villains”. The Irrawaddy March 2007. 2008年11月26日閲覧。
外部リンク
[編集]公職 | ||
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先代 マウン・マウン ビルマ連邦社会主義共和国大統領 |
ミャンマー国家法秩序回復評議会議長 初代:1988年9月18日 – 1992年4月22日 |
次代 タン・シュエ |
先代 トゥン・ティン ビルマ連邦社会主義共和国首相 |
ミャンマー首相 第10代:1988年9月18日 – 1992年4月22日 |
次代 タン・シュエ |
軍職 | ||
先代 チョー・ティン |
ミャンマー国軍最高司令官 第8代:1985年11月4日 - 1992年4月22日 |
次代 タン・シュエ |