アウンサン

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ビルマ国の旗(1943-1945) ビルマ国の政治家
アウン・サン
အောင်ဆန်း
Aung San
Aung San in uniform.jpg
生年月日 1915年2月13日
出生地 イギリス領ビルマの旗 イギリス領ビルマ ナッマウ
没年月日 1947年7月19日(満32歳没)
死没地 イギリス領ビルマの旗 イギリス領ビルマ ラングーン
出身校 ラングーン大学英語版
称号 旭日章
配偶者 キンチー英語版
子女 アウンサンウー英語版
アウンサンリン
アウンサンスーチー
アウンサンチット
サイン Aung San Signature.svg

Flag of Burma 1943.svg ビルマ国国防大臣
内閣 バー・モウ内閣
在任期間 1943年8月1日 - 1945年3月27日
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アウン・サン、オンサン(ビルマ語: အောင်ဆန်းラテン文字転写: Aung San、1915年2月13日 - 1947年7月19日)は、ビルマ(のちのミャンマー)の独立運動家。「ビルマ建国の父」として死後も敬愛されている。民主化運動指導者と呼ばれるアウンサンスーチーは長女。

生い立ちから学生時代[編集]

1915年、ビルマ中部、現在のマグウェ地方域ナッマウの町に生まれる。生家は独立運動家として有名で、1886年にビルマを英領インドに併合したイギリス軍に抵抗していた。1933年ラングーン大学英語版に進学し、英文学近代史政治学を専攻。在学中ラングーン大学の学生会最高委員会に立候補、機関誌 "Oway (Peacock's Call)" の編集者になった[1]1936年2月、彼は機関誌に掲載され問題になった反英的記事 "Hell Hound Turned Loose" の筆者を隠し通したことによりウー・ヌと共に退学させられたが、このことは全学ストライキを引き起こし、大学側は退学を取り消した。1938年にはラングーン大学学生会と全ビルマ学生連合の委員長に選ばれビルマ学生界のリーダーとなった[2][3]

独立運動と日本への渡航[編集]

アウンサンと「三十人の志士」

1938年10月より学生運動から政治運動へと移り、反英運動を展開する。彼は独立運動組織「われらビルマ人連盟」に入り、1940年8月まで総書記として活動し、ビルマ暦に基く「1300年のストライキ」として知られる一連のストライキ活動を組織した。また民族主義団体「自由ブロック」の結党を援助。1939年8月15日ビルマ共産党が結成された際には、結党メンバーの7人の内の1人となり、初代書記長に就任している[4]。1940年にバー・モウ貧民党英語版と合流し、3月にはインド国民会議にも出席したが、イギリス官憲の逮捕状が出たためアモイへ亡命[3]、さらに中華民国に逃れようとする[5]日本軍によりアモイが陥落し、ビルマ独立を支援することで援蒋ルートの遮断を企図した鈴木敬司大佐により日本へ逃れ箱根の大涌谷に滞在していたという口碑がある[1]

1941年2月、日本の資金援助と軍事援助を約束された彼は一旦ビルマに戻ると、青年たちを募り「三十人の志士英語版」と後に呼ばれる仲間を率いて中国の海南島へ出国した[1]。彼らは鈴木大佐の南機関のもとで独立戦争のための苛酷な軍事訓練を受けた[1]

日本軍との共闘[編集]

太平洋戦争開戦後の1941年12月16日に、アウンサンと同志たちは南機関の支援を得てバンコクビルマ独立義勇軍を創設[1]。日本軍と共に戦い、1942年3月にラングーンを陥落、1942年7月ビルマからイギリス軍を駆逐することに成功し、ビルマ独立義勇軍をビルマ防衛軍に改組した。南機関はバー・モウを中央行政府長官に据えビルマに軍政を敷き、鈴木大佐は離任した。 1943年3月にはアウンサンは日本に招かれ、わずか28歳の若きリーダーと称えられ旭日章を受章し、同年8月1日にバー・モウを首相とするビルマ国が誕生すると国防相になった[3]。ビルマ防衛軍はビルマ国民軍に改組された。この時期には、「面田紋次」という日本名を名乗っていた。

抗日戦争[編集]

馬上のアウンサン

この頃、アウンサンはビルマ国民軍への日本の待遇のあり方やビルマの独立国としての地位に懐疑的になり、その後インパール作戦の失敗など日本の敗色濃厚とみるや、イギリスにつく事を決意する[6]。すでに1943年11月にはイギリス軍に「寝返りを考えている」と信書を送り、1944年8月1日、独立一周年の演説でビルマの独立はまやかしだと発言。8月後半にはビルマ共産党、人民革命党と提携して「反ファシスト組織」の軍事的リーダーとなりひそかに組織を広げていった[1]

1945年3月、北部でビルマ国軍の一部が日本軍に対し決起した。3月下旬に至り、反乱軍に対抗するためとの名目で、アウンサンはビルマ国軍をラングーンに集めた。そして3月27日、日本軍に対して銃口を開いた。「反ファシスト組織」に属する他の勢力も一斉に蜂起し、連合国に呼応した抗日運動が開始され、5月にはラングーンを恢復。6月15日には対日勝利を宣言した。「反ファシスト組織」は拡大し反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)と改称された。連合国軍は戦後のビルマ独立を認めるつもりは無かったが日本軍を崩壊させるために利用価値があると判断し、各種の援助を行った。

1945年5月、アウンサンは連合国軍のルイス・マウントバッテン司令官と会談し、ビルマ国軍がビルマ愛国軍(Patriot Burmese Forces、 PBF)と改称した上で、連合国軍の指揮下に入ることで合意した[1]

暗殺[編集]

アウンサン像

日本に勝利したもののやはりイギリスは約束を反故にし、ビルマの完全独立を許さなかった。1945年9月、ビルマは再びイギリスの植民地となり、アウンサンの率いる愛国ビルマ軍は英国指揮下のビルマ軍英語版に合併された[1]。アウンサンはイギリスから副監察官の地位を与えられたが、愛国ビルマ軍幹部や他の独立運動指導者たちの意見を受け、就任を辞退した[1]。10月には英領ビルマが再建される中、翌1946年1月、アウンサンは軍を去って反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)総裁に就任し、イギリス政府との交渉をはじめとする独立問題に専念することになった。以後、彼は英領ビルマとイギリスに対し自治を要求し続けた。元南機関長鈴木敬司予備役少将が、戦後ビルマに連行され、BC級戦犯として裁判にかけられそうになった時、アウンサンは猛反対し、鈴木は釈放された。バー・モウはビルマを脱出して日本の新潟県に潜伏していた。バー・モウは1946年1月にGHQへ出頭したが結局イギリス政府は罪を問わず、バー・モウは8月にビルマへ帰国した。

1946年9月、英領ビルマ政府の行政参事会議長に任命され、国防と外務を担当する重責を負った[1]。しかし、なお反英独立主義者であり、完全独立を目指して活動を続けた。イギリス軍の将校のうち、アウン・サンに反感を抱いていた者が何人もいた。

アウンサンが描かれた35チャット紙幣

1947年1月27日、英国首相クレメント・アトリーと、1年以内の完全独立を約束する「アウンサン・アトリー協定(Aung San-Attlee Treaty)」に調印した[1]。マウントバッテンがアウン・サンらにお墨付きを与えた結果、連合国軍はアウン・サンを戦犯にすることができなかったのである。2月27日には国内各派のリーダーたちと、ビルマの独立に向け連帯と協力を確認する「パンロン合意英語版」を発表したが、国内は混乱を続けていた[1][7]。4月には制憲議会選挙でAFPFLは202議席中196議席を獲得し圧勝したが、完全独立に向けてのイギリスとの厳しい交渉や、何度にもわたる会議で国内対立の解消と国家統一への道を模索し続けていた[8]

同年7月19日、翌1948年1月4日のビルマ独立を見ることなく、6人の閣僚とともに暗殺された[9]。暗殺犯は、政敵であり前首相のウー・ソオ(ウ・ソオ)の一味とされ、親日家のウー・ソオが自分の野心のために暗殺したとされている[9]。一方、アウンサン暗殺の黒幕はイギリスであり、ウー・ソオは犯人に仕立て上げられたのではないかという話もある[10]高山正之によると、イギリスは日本と組んだアウンサンをどうしても許せず、死刑囚としてナイロビの刑務所にいたウ・ソオが命と引き換えに暗殺の片棒を担がされた、とビルマ人は信じている[11]

死後、アウンサンの名は国家最高の栄誉称号「アウンサンの旗」として残された[12]

家族[編集]

アウンサン一家

1942年にアウンサンはキンチー英語版と結婚した。彼女の姉妹は同じ頃、ビルマ共産党の指導者の一人タキン・タントゥン英語版と結婚している。アウンサンはキンチーとの間に2男2女をもうけた。長女アウンサンスーチーはビルマの民主化指導者として世界的に評価されている。長男アウンサンウー英語版はアメリカで技術者となっており、妹の政治活動には反対している。二男アウンサンリンは8歳の時に自宅で溺死した。次女アウンサンチットは生後間もない1946年9月26日に夭折している[13]。キンチーは駐インド大使などを務めた後、1988年12月27日に没した。

ラングーン事件[編集]

1983年10月9日、アウンサンが眠る廟へ献花に訪れた韓国全斗煥大統領を狙って、北朝鮮ラングーン爆弾テロ事件を起こした。全斗煥は一命を取りとめたものの、両国関係者に多数の死者が出た。建国の父の墓所をテロに利用されたビルマは北朝鮮と国交を断絶した。両国の国交が回復したのは、24年後の2007年であった。アウンサン廟は事件後からしばらくは政府による厳重警備がされ閉鎖されていたが事件から30年目の2013年6月1日に一般公開が再開された[14]

参考文献[編集]

  • 『読売新聞』1997年8月26日東京朝刊

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l Martin Smith (1991). Burma – Insurgency and the Politics of Ethnicity. London and New Jersey: Zed Books. pp. 90, 54, 56, 57, 58, 59, 60, 65, 69, 66, 68, 62–63, 65, 77, 78, 6. 
  2. ^ Maung Maung (1962). Aung San of Burma. The Hauge: Martinus Nijhoff for Yale University. pp. 22, 23. 
  3. ^ a b c Aung San Suu Kyi (1984). Aung San of Burma. Edinburgh: Kiscadale 1991. pp. 1, 10, 14, 17, 20, 22, 26, 27, 41, 44. 
  4. ^ Lintner, Bertil (1990). The Rise and Fall of the Communist Party of Burma. Cornell Southeast Asias Program. 
  5. ^ Stewart, Whitney. (1997). Aung San Suu Kyi: fearless voice of Burma. Twenty-First Century Books. p. 17. ISBN 978-0-8225-4931-4
  6. ^ Field Marshal Sir William Slim, Defeat into Victory, Cassell & Company, 2nd edition, 1956
  7. ^ The Panglong Agreement, 1947”. Online Burma/Myanmar Library. 2016年4月29日閲覧。
  8. ^ Appleton, G. (1947). “Burma Two Years After Liberation”. International Affairs (Royal Institute of International Affairs 1944–) (Blackwell Publishing) 23 (4): 510–521. JSTOR 3016561. 
  9. ^ a b MAUNG ZARNI (2013年7月19日). “Remembering the martyrs and their hopes for Burma”. DVB NEWS. http://www.dvb.no/analysis/remembering-the-martyrs-and-their-hopes-for-burma/30028 2013年12月27日閲覧。 
  10. ^ Who Killed Aung San? - an interview with Gen. Kyaw Zaw”. The Irrawaddy (1997年8月). 2006年10月29日閲覧。
  11. ^ 高山正之『サダム・フセインは偉かった』 [要ページ番号]
  12. ^ 称号の紹介記事としては「[追悼録]泉谷達郎さん ビルマ独立の志士たちの“教官”」『読売新聞』1997年8月26日東京朝刊6頁参照。
  13. ^ Wintle, Justin (2007). Perfect hostage: a life of Aung San Suu Kyi, Burma's prisoner of conscience. Skyhorse Publishing. p. 143. ISBN 978-1-60239-266-3. 
  14. ^ アウン・サン将軍の霊廟、20年の時を経て一般公開へ - ミャンマー・ニュース(2016年4月28日閲覧)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]