即身成仏

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即身成仏(そくしんじょうぶつ)は、仏教人間がこの肉身のままで究極の悟りを開き、になることである。即身成仏の思想は、主に真言密教の教義であり、真言宗において説かれる。空海の『即身成仏義』により確立される。また、天台宗日蓮宗においても『法華経』に基づき説かれる。即身仏(修行者が瞑想を続けて絶命し、そのままミイラになること)と混同されがちであるが、即身成仏とは全く別物である。

厳しい修行[編集]

即身成仏を開くためには、日常生活の枠から逸する必要があり一定以上の修行が必要とされる。時には比叡山千日回峰行のように限りなくに近接することもある。これらの修行の面を重視したのが天台・真言など密教山岳信仰の流れを汲む修験道である。修験道では修験者(山伏)が白装束(古来の日本では死装束でもあった)を纏って修行するなど死を前提とした点での即身仏と混同されやすい由縁もある。背景には擬死再生の思想があり、山伏の籠もる深山は山中他界と観念されていたのである。山伏は一種の他界から帰還する(=蘇る)ことによって超人的な力(法力)を獲得すると考えられ、平地民の間では天狗のイメージのように畏怖の対象ともなっていた。

禅宗の間でも只管打坐という修行が知られている。

即身成仏の別の解釈[編集]

仏教は、仏となること、すなわち成仏を最終目標とし、修行を重ね、さまざまな事象に関する悟りを開くことによって、仏への道を歩み続けて行く求道の宗教である。 精神の高揚を求めて荒行をする宗派もあるが、荒行は悟りを開く為の方法として、それぞれの宗派で考え出された修行法の一種で、必ずしも必要な行というわけではなく、それをやったからといって必ず悟りを開けるというものでもない。

修行をするにあたっては、通常、出家して修行に専念する。それは、通常の日常生活の中では、さまざまな邪念が存在したり、雑多なことに時間を取られたり、気に掛けなればならないことができたりする為、修行の妨げになるからである。しかし、たまに、高度な精神的志向性を持ち、日常の生活をしながら修行を積んでいる効果があって、それにより悟りを開き、そういったことを積み重ねているうちに、仏のレベルに達する人がいる。そういった、出家しないで普通の社会生活をしている中に居ながら、仏となったケースを「そのままの生活をしながらの成仏」、つまり即身成仏と表現する、という説もある。

参考文献[編集]