即身仏

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即身仏(そくしんぶつ)は、主に日本の仏教民間信仰)に見られる僧侶ミイラのこと。

概要[編集]

日本の一部地方に見られる民間信仰において、僧は死なず、生死の境を超え弥勒菩薩出世の時まで、衆生救済を目的として永遠の瞑想に入る(入定:にゅうじょう)と考えられている。僧が入定した後、その肉体は現身のまま即ちになるため、即身仏と呼ばれる。原義としての「入定」(単に瞑想に入ること)と区別するため、生入定(いきにゅうじょう)という俗称もある。日本においては山形県庄内地方などに分布し、現在も寺で公開されているところもある。

江戸時代には、疫病や飢饉に苦しむ衆生を救うべく、多くの高僧が土中に埋められて入定したが、明治期には法律で禁止された。また入定後に肉体が完全に即身仏としてミイラ化するには長い年月を要したため、掘り出されずに埋まったままの即身仏も多数存在するとされる。

木の皮や木の実を食べることによって命をつなぎ、経典を読んだり瞑想をする。まず最も腐敗の原因となる脂肪が燃焼され、次に筋肉として消費され、皮下脂肪が落ちていき水分も少なくなる。生きている間にミイラの状態に体を近づける。生きたまま箱に入りそれを土中に埋めさせ読経をしながら入定した例もあった。この場合、節をぬいた竹で箱と地上を繋ぎ、空気の確保と最低限の通信(行者は読経をしながら鈴を鳴らす。鈴が鳴らなくなった時が入定のときである)を行えるようにした。行者は土中に入る前に、の防腐作用[注 1]に期待しまたは嘔吐することによって体の水分を少なくする目的で、漆の茶を飲むこともあった。

これらは死を前提にするため当然ながら大変な苦行であり、途中で断念したものも存在する。湿潤で温暖な気候の日本では有機体組織を腐敗から防ぐのは非常に困難を伴い、死後腐敗してミイラになれなかったものも多い。ミイラになれるかなれないかは上記の主体的な努力によることと、遺体の置かれた環境にも大きく影響するだけでなく、関係者により適切な時期に掘り出され、保存の努力が成されるか否かにも左右される。生入定においては当人が死後に「即身仏」として安置されることを望んでいない場合もあるが(ミイラとならないケース、すなわち補陀落渡海なども含まれる)、望んでいた場合でも死後の処理が遅れた、ないしは処理が不完全だったために即身仏として現在安置されていないケースもある。

科学的には、僧が死んでミイラとなることであり、一見生きているように見えても、実際は死んでいる。生入定を作ることは、現在では自殺幇助罪または死体損壊罪・死体遺棄罪に触れるため、事実上不可能になっている。

他国の例では、中国チベットなどでは一部の寺院で、今もなおミイラ化した高僧が祀られている。しかし、それらのほとんどは日本のように苦行の果てに自死したものではなく、自然死した遺体をミイラ化したものである。

修行方法[編集]

  • まず、木食修行を行う。
  • 死後、腐敗しないよう肉体を整える。
  • 米や麦などの穀類の食を断ち、水や木の実などで命を繋ぐ。
  • 次に、土中入定を行う。
  • 土中に石室を設け、そこに入る。
  • 竹筒で空気穴を設け、完全に埋める。
  • 僧は、石室の中で断食をしながら鐘を鳴らし読経するが、やがて音が聞こえなくなり、長い歳月の後(約56億7000万年後)に弥勒菩薩と共に姿を現すとされる。

日本国内の即身仏[編集]

日本国内において、文献上確認できる即身仏の最も古い例は、長保5年(1003年)6月9日(7月10日)の大和国多武峰寺蔵賀である。これより先に承和2年(835年) の空海入定が挙げられることがあるが、空海の話は死後数百年経た後からの説話に現れるのみであり、『続日本後紀』などに拠り史学的には火葬にされたと結論付けられている。高野山で即身仏の記録は、嘉保3年(1096年)の維範からである。以降、創作された空海の伝説にあやからんとしてか、高野山での即身仏の記録が続くが、ある時期から途絶える。次に同じ真言宗系の東北の寺院にて、即身仏の記録が多く残るようになる。現存するものも東北地方およびその寺院の信仰勢力圏内が中心である。「海」の字が含まれるものは、おおよそこの系統に属する。

ただし上記のどの例も実物(仏)は現存していない。日本の多湿という風土の悪条件や、保存技術などの難しさなどもあり、現在は残っていない「史上の即身仏」の文献記録が多く残る。東京都稲城市の平尾入定塚などは即身仏伝承の地を発掘した結果、入定した史跡であることが確認された珍しい例であり、入定の形式が確認された珍しいケースではあるが、即身仏としての遺体は発見されなかった。現存するものでも、維持保存されているのは極めて幸運なケースである。山形県の光明海上人の場合は、「死後100年経ったら掘り起こして欲しい」という伝承があった、とする説に基づいて、墓地伝承地を地元の教育委員会の手により昭和53年10月11日から三日間かけて発掘した結果、入定形式の室と一部白骨化、一部ミイラ化、という状態で発見され、新潟大学の協力により保存処理をされて現在に至っている。明治時代後期に即身仏となることを希望し入定した仏海は、死後三年後に掘り起こされることを希望していたが、明治政府が発した墳墓発掘禁止令のために発掘(掘出)することができないままでいた。昭和36年7月になってようやく発掘されたが、木棺と共に遺体はばらばらで発見されたため、いわゆる組み立てと保存処理が施されて、現在は安置されている。明治14年(1881年)の鉄龍海の場合も、前年に発布されたこの墳墓発掘禁止令が問題となったが、1000日後に信者の手により秘密裏に発掘され、即身仏としての処理がなされ祀られた。信者らは没年を明治元年と偽り続け、真の没年が明らかにされたのは昭和中期のことであった。この他にも東北地方、湯殿山を中心として、即身仏の伝承が残る塚や墳墓推定地が存在するが、それらは未発掘であったり、発掘を試みた例においても遺体は残っていなかった。その他、ある時期まで現存し信仰されていたが火災で焼失した例や、見世物的に持ち出されて(出開帳。江戸時代以降、流行した。)大正時代に行方不明となった萬蔵稲荷神社の萬蔵の例もある。

即身仏の中には、当人が入定後に祀られることを予定していたものと、入定した遺体を掘り起して後世の人が祀った、すなわち本人が祀られることを認識・了承していなかった可能性があるものとがある。また、特に後期の即身仏は、その出生身分が当時の身分制度下では比較的低いもの、生前に仏僧としての高い地位に登っていないものが目立つ。

現存する即身仏[編集]

現存する即身仏の一覧
人名 寺院名 所在地 入定年または没年 享年
石頭希遷[注 2] 總持寺 14神奈川県横浜市鶴見区 0790年延暦9年) 91
弘智法印 西生寺 15新潟県長岡市寺泊野積 1363年貞治2年) 82
弾誓上人(?) 阿弥陀寺 26京都府京都市左京区大原古知原 1613年慶長18年) 63
本明海上人 本明寺 06山形県鶴岡市東岩本 1683年天和3年) 61
宥貞法印 貫秀寺 07福島県石川郡浅川町小貫 1683年(天和3年) 92
舜義上人 妙法寺 08茨城県桜川市本郷 1686年貞享3年) 78
全海上人 観音寺 15新潟県東蒲原郡阿賀町豊実甲 1687年(貞享4年) 85
心宗行順大行者 瑞光院 20長野県下伊那郡阿南町新野 1687年(貞享4年) 45
忠海上人 海向寺 06山形県酒田市日吉町二丁目 1755年宝暦5年) 58
秀快上人 真珠院 15新潟県柏崎市西長島鳥甲 1780年安永9年) 62
真如海上人 大日坊 06山形県鶴岡市大網 1783年天明3年) 96
妙心法師 横蔵寺 21岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲神原 1817年文化14年) 36
円明海上人 海向寺 06山形県酒田市日吉町二丁目 1822年文政5年) 55
鉄門海上人 注連寺 06山形県鶴岡市大網 1829年(文政12年) 62
光明海上人 蔵高院 06山形県西置賜郡白鷹町黒鴨 1854年嘉永7年) 不明
明海上人 明寿院 06山形県米沢市簗沢小中沢 1863年文久3年) 44
鉄龍海上人 南岳寺 06山形県鶴岡市砂田町 1881年明治14年) 62
仏海上人[注 3] 観音寺 15新潟県村上市肴町 1903年(明治36年) 76

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 胃からの吸収だけで全身の腐敗を防止する成分を行き渡らせることは到底不可能であり(それ程吸収量が多ければ中毒死する)、気休め、あるいはおまじない程度の効果しかない。
  2. ^ 中国で安置されていたものが、後世に日本に渡来したもの。
  3. ^ 仏海上人については、病死したあと遺体をミイラにしたという説と、土の中で即身仏になったが官憲の目をあざむくため病死ということにした(明治時代に入り、即身仏は禁止された)という説がある[1]

出典[編集]

  1. ^ 土方正志『新編 日本のミイラ仏をたずねて』p.170 ISBN 978-4635820677

即身仏のページ https://www4.hp-ez.com/hp/ufokure-n/sokusinbutu

関連項目[編集]