補陀落渡海
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補陀落渡海(ふだらくとかい)は、日本の中世において行われた、自発的な捨身を行って民衆を先導する捨身行の形態である。
概要[編集]
南方に臨む海岸から行者が渡海船に乗り込み、そのまま沖に出るのが基本的な形態である。その後、伴走船が沖まで曳航し、綱を切って見送る[1]。場合によってはさらに108の石を身体に巻き付けて、行者の生還を防止する。
江戸時代になると遺体を渡海船に乗せて送り出す水葬の一種に変化する。補陀洛山寺の住職の事例が知られている。
現在確認できる事例は57件で、最古の事例は貞観10年(868年)11月3日に僧侶の慶龍上人によって行われ[2]、最後に行われたのは明治42年(1909年)に同じく僧侶だった天俊上人によるものである[3][2]。最も有名なものは紀伊(和歌山県)の那智勝浦における補陀落渡海で、『熊野年代記』によると、868年から1722年の間に20回実施されたという[4]。この他、足摺岬、室戸岬、那珂湊などでも補陀落渡海が行われたとの記録がある[5]。また、鹿児島県や茨城県、日本海側の島根県から出帆した事例もある。9世紀から15世紀までは50年に1件の割合だったが、16世紀前半に4件、後半に11件、17世紀前半にかけて15件と流行のピークに達し、17世紀後半の江戸時代中頃になると、ほぼ発生しなくなる[6]。
熊野那智での渡海の場合は、原則として補陀洛山寺の住職が渡海行の主体であったが、例外として『吾妻鏡』天福元年(1233年)5月27日の条に、下河辺六郎行秀という元武士が補陀洛山で「智定房」と号し渡海に臨んだと記されている。また、『続史愚抄』文明7年(1475年)11月22日の条に、従一位に叙されて准大臣の待遇を受けていた万里小路冬房という元公家が渡海に臨んだと記されている。
補陀落渡海についてはルイス・フロイスも著作中で触れている。
渡海船[編集]
補陀落渡海に使う渡海船についての史料は少ないが、那智参詣曼荼羅には補陀落渡海が描かれており、補陀洛山寺には復元された渡海船が置かれている。これによると、一般的な貨客のための渡海船とは異なり、和船の上に入母屋造りの箱が置かれ、その四方に4つの鳥居が建てられている。鳥居の代わりに門を模したものを付加する場合もあり、この場合は門のそれぞれに「発心門」「修行門」「菩提門」「涅槃門」との名称がある[1][7]。
箱の中には30日分の食物や水とともに行者が乗り込むが、この箱は船室とは異なり、行者が中へ入ると入り口は板などで塞がれ、箱が壊れない限り出入りはできない[1][7]。図には帆が描かれているが、一般には艪、櫂なども含めて航行のための道具は備えていない。これは、生還することなく遺骸となっても戻ってこないことが浄土へ至った証との思想に基づいている。沖合まで伴走船が曳航した後、人々が海流に流されて漂流していく船を見送る。
思想的および地理的背景[編集]
仏教では西方の阿弥陀浄土と同様、南方にも浄土があるとされ、補陀落(補陀洛、普陀落、普陀洛とも書く)と呼ばれた。補陀落は、サンスクリット語の「ポータラカ」(Potalaka)の漢字による音写である。補陀落は華厳経によれば、観自在菩薩(観音菩薩)の浄土である。チベット・ラサのポタラ宮の名の由来も、このポータラカである[8]。
浄土信仰が民間でも盛んとなった平安後期から、民衆を浄土へ先導するためとして渡海が多く行われるようになった。渡海は概ね黒潮が洗う本州の南岸地域で行われた。特に南紀・熊野一帯は、それより以前から密教の聖地、さらに遡って記紀の神話も伝わる重層的な信仰の場である。『日本書紀』神代巻上で「少彦名命、行きて熊野の御碕に至りて、遂に常世郷に適(いでま)しぬ」という他界との繋がりがみえる。黒潮は地球規模でも強い海流の1つであり、この流れに漂流するとかなりの確率でそのまま日本列島の東側の太平洋に流されていき、戻ってくることがない。 ごくまれに南下する親潮により南への循環流に乗り、再び日本の沿岸へ漂着することがある。
琉球における影響[編集]
『琉球国由来記巻十』の「琉球国諸寺旧記序」によれば、咸淳年間(1265年 - 1274年)に禅鑑なる禅師が小那覇港に流れ着いた。禅鑑は補陀落僧であるとだけ言って詳しいことは分からなかったが、時の英祖王は禅鑑の徳を重んじ浦添城の西に補陀落山極楽寺を建立した。「琉球国諸寺旧記序」は、これが琉球における仏教のはじめとしている。また琉球に漂着した日秀は、現地で熊野信仰及び真言宗の布教活動を行ったり、金武町に金武観音寺を建立した。
関連作品[編集]
- 井上靖の短篇「補陀落渡海記」 - 主人公の渡海前の金光坊が、当初の崇高な思想からやがて俗世に執着するようになり、渡海船から逃げ出すが周囲の人間に捕らえられて再び海に出されてしまう。
- 内田康夫『熊野古道殺人事件』、短編「還らざる柩」 - 補陀落渡海を現代に再現したイベントの最中に殺人事件が発生する。掌編集『妖しい詩韻』にも熊野の補陀洛山寺の金光坊をモチーフにした一編がある。
- 松本清張「Dの複合」 - 作中に補陀落渡海と月山・日光二荒山神社・鋸山と日本寺などと関連性があると思わせる記述がある。
- 『美味しんぼ』103巻「日本全県味巡り 和歌山編」 - クロシビカマス(通称『ヨロリ』)について、補陀落渡海から逃げ帰った僧を村の役人が叩き殺し、その僧の祟りでヨロリが黒くなったとの言い伝えが掲載されている。
- 諸星大二郎の稗田礼二郎シリーズ『六福神』に収録されている短編漫画『帰還』 - 補陀落渡海の直前になって里の娘に恋心を抱いた僧侶が無理矢理海に流されて怨霊となり、娘の名前を呼びながら渡海船で帰還する話である。四方を鳥居で囲まれた渡海船の解説がある。
- 藤子・F・不二雄のSF短編コミック「旅人還る」において、亜光速航行と冷凍睡眠を併用して一人の宇宙飛行士を宇宙の果てへと送り届ける片道宇宙旅行は「フダラク計画」と呼ばれていた。
- 安武わたる「まんがグリム童話 日本の鬼母・悪女伝」に収録の短編「浄土へいく舟」 - 補陀落渡海をテーマに描かれた残酷童話漫画。嵐の翌朝美しい女性が砂浜に流れついた。渡海を控えた61歳の住職、日厳は寺に女を迎え入れるが次第に強い煩悩に引き込まれていく。
- 坂東眞砂子「桃色浄土」 - 大正中期、四国の隔絶された漁村にイタリア人エンゾが漂着し、海女のりんと恋に落ちる。だが海で取れる高価な桃色珊瑚とりんの肉体を巡って、浜では争いが起こる。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ a b c “補陀落渡海 〜南海の果ての補陀落浄土を目指して〜”. わかやま歴史物語. 和歌山県観光振興課. 2019年11月3日閲覧。
- ^ a b “補陀落渡海の記録”. www.city.shingu.lg.jp. 2022年12月8日閲覧。
- ^ 『室町は今日もハードボイルド 中世日本のアナーキーな世界』、清水克行、2021年6月発行、新潮社、P234~235
- ^ 『勝手に関西世界遺産』朝日新聞社2006年、182-184ページ
- ^ “補陀落渡海の記録”. 熊野学(旧サイト). 新宮市教育委員会文化振興課. 2019年11月3日閲覧。
- ^ 『室町は今日もハードボイルド 中世日本のアナーキーな世界』、清水克行、2021年6月発行、新潮社、P235
- ^ a b “歴史探訪スクール第2回講座「補陀落世界の文化的景観(フィールドワーク)」(6月16日開催)実施報告”. 熊野学の森. 新宮市教育委員会文化振興課 (2018年6月21日). 2019年11月3日閲覧。
- ^ 渡辺章悟「ポタラ宮」 - 日本大百科全書(ニッポニカ)、小学館。
参考文献[編集]
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- 根井浄『補陀落渡海史』 法蔵館、2001年(2008改訂) ISBN 9784831875334
- 川村湊『補陀落―観音信仰への旅』作品社、 2003年 ISBN 4878935928
- 神野富一『補陀洛信仰の研究』山喜房佛書林、2010年 ISBN 9784796302050
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 髙橋康夫「補陀落渡海僧日秀上人と琉球 : 史書が創った日秀伝説」『沖縄文化研究= 沖縄文化研究』第37号、法政大学沖縄文化研究所、2011年3月、1-40頁、doi:10.15002/00007282、ISSN 1349-4015、NAID 120003142298。