市川崑

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いちかわ こん
市川 崑
市川 崑
本名 市川 儀一
別名義 大川新之助(録音技師・大橋鉄矢との共同筆名)
生年月日 (1915-11-20) 1915年11月20日
没年月日 (2008-02-13) 2008年2月13日(92歳没)
出生地 大日本帝国の旗 日本三重県宇治山田市
死没地 日本の旗 日本東京都
職業 映画監督アニメ、人形劇制作者
活動期間 1936年(昭和11年) - 2008年(平成20年)
活動内容 劇映画、テレビ映画等の監督、演出
配偶者 和田夏十(脚本家)
 
受賞
カンヌ国際映画祭
審査員特別賞
1960年
青少年向映画賞
1965年東京オリンピック
ヴェネツィア国際映画祭
サン・ジョルジョ賞
1956年ビルマの竪琴
東京国際映画祭
黒澤明賞
2005年
英国アカデミー賞
ドキュメンタリー賞
1965年東京オリンピック
ゴールデングローブ賞
外国語映画賞
1959年
日本アカデミー賞
会長特別賞
2008年
ブルーリボン賞
作品賞
1960年おとうと
監督賞
1959年』、『野火
1960年おとうと
1962年私は二歳』、『破戒
特別賞
2008年
その他の賞
エディンバラ国際映画祭
グランプリ
1956年ビルマの竪琴
ロカルノ国際映画祭
グランプリ
1959年野火
アジア太平洋映画祭
グランプリ
1983年細雪
監督賞
1962年私は二歳
1983年細雪
審査員特別賞
1984年おはん
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市川 崑(いちかわ こん、幼名:市川 儀一、1915年大正4年)11月20日 - 2008年平成20年)2月13日)は、日本映画監督アニメ、人形劇制作者。

娯楽映画からドキュメンタリー、更にはテレビ時代劇ドラマまでを幅広く手がけ、長期間映画制作に取り組んだ。テレビ・ドラマの代表作に中村敦夫主演の『木枯し紋次郎』[1]、ドキュメンタリー映画の代表作に『東京オリンピック[2]、映画の代表作に『ビルマの竪琴』『炎上』『おとうと』『』『股旅』の他、『犬神家の一族』を始めとする金田一耕助シリーズなどがある。

来歴

戦前

1915年(大正4年)、三重県宇治山田市(現・伊勢市)生まれ。呉服問屋の生まれであったが、父が急死し4歳から伯母の住む大阪市西区九条に移り、その後脊椎カリエス長野県に転地療養。その後広島市に住む。

出生名は市川儀一という名前で、成人してから市川崑に改名した。改名の理由は、市川自身が漫画家清水崑のファンであったからとも、姓名判断にこっていた伯父の勧めからとも言われている。17歳のときに信州での初恋の女性をモデルに書いた「江戸屋のお染ちゃん」を『週刊朝日』に投稿し当選する。

当初は画家に憧れていたが、当時は財産がないと難しかったのであきらめる。1932年に公開された伊丹万作監督作品『國士無双』を見て感動し、志望を映画界に変更した。少年時代に見たウォルト・ディズニーのアニメーション映画にあこがれ、親戚の伝手で京都のJ.O.スタヂオ(のち東宝京都撮影所)のトーキー漫画部に入り、アニメーターを務める。アニメの下絵描きからスタートする。そして『ミッキー・マウス』や『シリー・シンフォニー』などのフィルムを借りて一コマ一コマを克明に分析研究し、映画の本質を学んだ。召集令状は2度きたが、脊椎カリエス、腹膜炎でともに免除となった。

1936年(昭和11年)には脚本・作画・撮影・編集をすべて一人でおこなった6分の短編アニメ映画『新説カチカチ山』を発表。漫画部の閉鎖とともに会社合併により実写映画の助監督に転じ、伊丹万作阿部豊らに師事。特に米国仕込みのモダニストとして鳴らした阿部の影響は大きく、阿部作品からは後年『細雪』(映画)『戦艦大和』(テレビ)『足にさはった女』(映画、テレビの両方)をリメイクしたほか、師が断念した『破戒』もテレビと映画の両方で実現している。さらには1955年の『青春怪談』では師弟競作まで行った。京都撮影所の閉鎖にともなって東京撮影所に転勤する。この東宝砧撮影所は、以後、短い新東宝時代、10年程度の日活大映時代を除き、没後の「お別れの会」に至るまで終世のホームグラウンドとなった。

1970年代以降の東宝は自社制作が極端に少なくなったが、そのうちのかなりの本数を市川に委ねた。市川は東宝争議の際、組合離脱派の助監督の中心となった勲功もあって監督昇進後まもなく呼び戻されているが、日活に引き抜かれて以降は完全に疎遠状態であった。関係が復活したのは撮影所システム崩壊後である。東宝および直系子会社が主に出資した作品を東宝映画とみなした場合、製作分離した1970年代以降で16本を市川が監督。現在までのところ10本以上撮っている監督は他にいない。これ以外に他社主導出資や製作委員会方式で東宝撮影所使用の作品が多数ある。

戦後

広島にいた母を含む家族8人全員が1945年8月6日、原爆に被爆したが全員無事であった。1945年(昭和20年)には人形劇『娘道成寺』を制作したがお蔵入りした。終戦を29歳で迎え、その時には実写の助監督に戻っていた。その後、市川は実写映画に活動の場を移し、1948年の『花ひらく』で監督デビューした。市川はアニメーションから実写映画に転身して成功を収めた、数少ない映画人である。

東宝争議では組合離脱派を支持し、会社側を喜ばせた。その後、新東宝撮影所に転じ、1951年(昭和26年)に藤本真澄に誘われ東宝に復帰した[3]。この時期は『プーサン』や『億万長者』などの異色風刺喜劇や早口演出の『結婚行進曲』、大胆な映像処理の『盗まれた恋』などの実験的な作品で話題を呼んだが、『三百六十五夜』のようなオーソドックスなメロドラマの大ヒット作品も撮っている。

1955年(昭和30年)にはその前年に映画制作を再開したばかりの日活に移籍、『ビルマの竪琴』を発表し、さらに大映に移籍する。ここでやや腰を落ち着け(ただし当初は東京撮影所で、のち京都撮影所にも進出した)文芸映画を中心に『』、『野火』、『炎上』、『破戒』、『黒い十人の女』、『日本橋』、『ぼんち』、『私は二歳』、『雪之丞変化』などを毎年のように発表した。とりわけ1960年(昭和35年)の『おとうと』は、大正時代を舞台にした姉弟の愛を宮川一夫のカメラで表現、自身初のキネマ旬報ベストワンに輝く作品となった。また、石原裕次郎主演で『太平洋ひとりぼっち』(1962年(昭和37年))を撮ったのもこの時期のことである。

東京オリンピック論争

1965年(昭和40年)には総監督として製作した『東京オリンピック[4]が、当時の興行記録を塗り替えた。市川はオリンピックは筋書きのない壮大なドラマに他ならないとして、開会式から閉会式に至るまでの脚本を和田夏十谷川俊太郎白坂依志夫とともに書き上げ、これをもとにこのドキュメンタリー映画を撮りあげた。しかも、冒頭に競技施設建設のため旧来の姿を失ってゆく東京の様子を持ってきたり、一つのシーンを数多くのカメラでさまざまなアングルから撮影したりした。また、2000ミリ望遠レンズを使って選手の胸の鼓動や額ににじむ汗を捉えたり、競技者とともに観戦者を、勝者とともに敗者を描くなど、従来の「記録映画」とは全く性質の異なる作品に仕上げた。

だが、完成前の試写を見たオリンピック担当大臣の河野一郎が「記録性に欠ける」と批判したことから[5][6]、「『東京オリンピック』は記録映画か芸術作品か」という大論争を呼び起こすことになった[7]

テレビ映像への挑戦

テレビ放送の開始で、映画が全盛期から斜陽期へと向かう時代が忍び寄る中、映画関係者の中にはテレビに敵対意識を持ったり、蔑視する者が少なくなかった。そんな中、市川はテレビの新メディアとしての可能性に注目し、映画監督としてはいち早く1959年(昭和34年)よりこの分野に積極的に進出した。市川はテレビ創成期の生放送ドラマ、ビデオ撮りのドラマから実験期のハイビジョンカメラを使ったドラマまでを手掛けた。1965年(昭和40年)から1966年(昭和41年)にかけて放送された『源氏物語』(毎日放送)では、美術や衣装を白と黒に統一するなど独特の演出を手がけ、演出指導を務めた「夕顔の巻」では国際エミー賞にノミネートされた。テレビコマーシャルでは、大原麗子を起用したサントリーレッド(ウイスキー)がシリーズ化され、長年に渡って放映された。

木枯し紋次郎

1972年(昭和47年)に監督・監修を手がけた、中村敦夫主演の連続テレビ時代劇『市川崑劇場・木枯し紋次郎シリーズ』(フジテレビ)はフィルム撮り作品だが、斬新な演出と迫真性の高い映像から、歴史的な名作となった。ただし市川が直接監督したのは、第一話から第三話までと、最終話であり、監修がメインだった。木枯し紋次郎は、その後のテレビ時代劇に大きな影響を与えたと言われている。

また、全民間テレビ放送局で同時放送された『ゆく年くる年』において1979年(昭和54年)から1980年(昭和55年)(東京12チャンネル制作)まで総監督も務めた。

昭和後期から平成へ

1969年(昭和44年)には黒澤明木下惠介小林正樹と4人で「四騎の会」を結成し、『どら平太』の脚本を共同で執筆、当初は4人共同監督で映画化と発表されたが、市川の撮影シーンをどの部分にするかでもめて中止となる。黒沢明は「気が付くと自分と小林正樹が映画のことで話がはずみ、市川崑は金のことばかり考えていた」と述懐している[8]。後年、3人が亡くなったのちに自身で監督している。ちなみに、市川は生涯を通じて自己出資の映画はほとんど撮っておらず大手の雇用監督に徹しており、頓挫した本作と後年の『股旅』が例外となるが、ここで既に予算管理に目配りする傾向を示していたことは、後年の東宝におけるプロデューサー兼任待遇につながっている(逆に黒澤は黒澤プロ作品ですらプロデューサーを菊島隆三に一任するなど、演出に専心したいタイプだった。木下も松竹退社後はプロダクション経営に成功しながら、自作で製作兼任することはなかった)。

この前後の約10年ほどは作品活動も沈滞気味で、1973年の『股旅』が高評価を得たり、TVの『木枯らし紋次郎』がヒットしたりしたものの、メジャー映画でこれといった代表作を出すことができず、スランプや衰弱が囁かれたこともあった。ホームグラウンドであった大映が衰退・倒産し、基本的には復帰の方向となった東宝も自社製作を大幅縮小したばかりということで、十分に腕を振るう機会が得にくくなったということもある。これは四騎の会の他の三人、豊田四郎、伊藤大輔、稲垣浩といった往年の巨匠たちに共通する悩みでもあった。職人監督として引っ張りだこだったマキノ雅弘松田定次らも、いずれも長寿を全うしたにも関わらず、ともに劇場映画監督のキャリアは60代初めで終了している。ただ、市川はこの中では小林に次いで若く(学年は同じ)、余力を残していると見られていたことが復活劇につながる。還暦以降の劇場映画22本という多忙な晩年の始まりである。

1970年代後半に入り、横溝正史の「金田一耕助シリーズ」を手掛けた。『犬神家の一族』での角川映画の大量宣伝に視聴者はうんざりしていたが、映画の出来とはかかわりなく、連日の大量CMのおかげで大ヒットとなった。角川は関連会社にチケットの購入を押し付けたりもしていた。同年のキネマ旬報ベストテン5位、同読者選出1位、第1回報知映画賞作品賞など久々に好評価も獲得。これを機に横溝正史ブームが始まる。さらに『細雪』、『おはん』、『鹿鳴館』などの文芸大作、海外ミステリーを翻案した『幸福』、時代劇『四十七人の刺客』、『どら平太』、『かあちゃん』など、多彩な領域で成果を収める。キネマ旬報ベストテンでは、13本中9本が入賞した1958年の『炎上』から1965年の『東京オリンピック』までと、6本中5本が入賞した1981年の『幸福』から1987年の『映画女優』まで(入らなかった『鹿鳴館』も14位、読者選出で7位)と、二つの全盛期を築いた。

2003年(平成15年)にはフィルムセンターにて初期作品も含めた65本を上映する特集が組まれ、前後して初期・中期の作品が相次いでDVD化された。

90歳を超えても現役で活動し、新藤兼人に次ぐ長老だった。新藤が監督としてはヌードも描く芸術・前衛・社会派で、商業ベースと距離を置く作家であったこともあり、メジャー市場という面で日本映画界においては最長老格となった。2006年(平成18年)には30年前に監督した『犬神家の一族』をセルフリメイクした。

2008年(平成20年)2月13日午前1時55分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。92歳没。3月11日日本政府閣議に於いて市川に対し、長年の映画界への貢献及び日本文化の発展に尽くした功績を評価し、逝去した2月13日に遡って正四位に叙すると共に、旭日重光章を授与することを決定した。

同年3月30日、お別れの会が成城の東宝撮影所第9ステージで開かれ、映画関係者や俳優ら850人が参列した。石坂浩二岸惠子吉永小百合山田洋次ら18人が発起人となり、石坂・岸が弔辞を読んだ。その他、中村敦夫松岡功(東宝)、角川春樹角川歴彦日枝久(フジテレビ)、黒鉄ヒロシ篠田正浩三谷幸喜谷川俊太郎和田誠浅丘ルリ子佐久間良子富司純子島田陽子浅野ゆう子鈴木京香松嶋菜々子野田秀樹岩城滉一長塚京三草笛光子中村メイコ藤村志保萬田久子中井貴惠風吹ジュン岸部一徳うじきつよし石橋蓮司横山通乃(横山道代)、三条美紀佐々木すみ江岡本信人渡辺篤史尾藤イサオあおい輝彦中井貴一豊川悦司司葉子ら豪華な顔ぶれが参列した。

人物評

有馬稲子と不倫関係を持ち、後に有馬が堕胎したことを彼女自身が書いている[9][10]

キネマ旬報社の叢書『世界の映画作家』では、ついに最後までとり上げられなかった。東宝争議では離脱派の助監督の先頭にたったことは長く尾を引き、その後、右派的な言動や作品はほとんど無かったにもかかわらず、左翼系の評論家(特に日本共産党系)には後年まで目の仇にされていた。黒澤明は市川崑について、金をもうけることばかり考えていると指摘した(ただし、市川作品の企画やマーケティングはほとんど会社側が行っており、市川自身は依頼された演出をこなすだけで興行的成否には、その名前のブランド力以外に別段関与していない。市川自身が資金負担した映画も『股旅』が唯一である)。かなり名声を得るようになってからも、というよりむしろ逆に初期作品のような風刺映画は影をひそめ、社会的テーマを前面に掲げるようなことを排除していた。性描写にもほとんど踏み込まない作家であった。こうしたこともあって、市川作品を嫌う批評家も多く、蓮實重彦山根貞男らは全く認めようとしなかった。逆に市川を高く評価し続けた批評家としては、「超の字がつく巨匠」と追悼文を書いた浦崎浩實をはじめ、佐藤忠雄双葉十三郎らがいる。荻昌弘も、市川作品の中ではほとんど無視に近い扱いを受けている『病院坂の首縊りの家』『竹取物語』を映像限定で絶賛する一文を書くなど好意的であった。娯楽に徹するという姿勢では、石上三登志森卓也ら、その志向を支持する方面からの評価も高い。

皮肉屋の一面もあった。そのため、まったくそりの合わなかった一人に『股旅』の主演者・萩原健一がいる。『日本映画[監督・俳優]論』では、萩原が顔をハチに刺された際に「すいません」と謝ると、市川昆は「おまえ、長谷川一夫じゃねえんだろ」と冷酷に言い放ったという[11]。萩原は、遠まわしな批判から始めて話しているうちに、不愉快な経験を思いだし、「大嫌い、市川崑」と述べている。一方で、自身最多である14本に出演した加藤武はカメラが回る前後に「名優、お願いします」「え、名優の演技、それだけですか」などとやられ、そこで現場が爆笑に包まれるのが凄く楽しい雰囲気だったと正反対の感想を述べ、厳粛な黒澤明と対照的な両巨匠の現場を体験できたのは幸せだったと語っている[12]。ちなみに、この二人の映画に共通して多く出演しているのは他に森雅之と仲代達矢であり、三人とも舞台俳優なのは、東宝争議までは同僚だった二人が、以後は所属会社的にすれ違いであった経歴を反映している。

60年の監督生活を長期間特定の会社に専属することなく過ごし、なおかつ低落し続ける日本映画界でほとんどブランクなく撮り続けたが、これだけ各社を飛び回りながら、大手映画会社では松竹とだけ縁がなかった[13]東映では東横映画時代に1本撮っている)。1980年代に半村良の『妖星伝』映画化が同社製作で発表され、そのほか池波正太郎作品の映画化やシネマジャパネスクでも名前があがったが、いずれも実現しなかった。五社英雄による自作の映画化の出来を嫌った池波は後継に市川を希望したが、結局条件があわず、降旗康男が立っている。ちなみに、池波は映画ファンとしては洋画に偏向しており、この際に沢島忠の名を知らなかったために退けた。

また、市川は1970年代から1980年代にかけて、6本の東宝映画をプロデューサー兼任で監督している。日本映画で、監督が自ら出資することなく社員として所属するわけでもない大手の映画に2本以上連続して兼任プロデューサーで迎えられ続けた例は非常に珍しい。しかも市川は元々東宝育ちながらかなり長期間同社と絶縁に近い状態にあったこともあり、プロデューサーシステムの厳しさで有名な東宝でこの待遇を得たのは、スタジオ制度の変質も影響しているとは思われるが、異例の厚遇である。

映像技術/作風

テクニックと演出

木枯し紋次郎においても、東京オリンピックにおいても、スローモーションを上手に使っていた。「市川マジック」とも呼ばれた所以である。一方で、細かいテレビのカット割りで、カメラがめまぐるしく動くことに対して、非難されたこともある。市川の作品には、「文芸作品」「時代劇」「アニメーション」「ドキュメンタリー」「コメディ」「メロドラマ」「ミステリー」など、非常に多くの分野が含まれた。

大作『東京オリンピック』の後に人形劇『トッポ・ジージョのボタン戦争』を手がけたり、横溝正史のおどろおどろしい『獄門島』と『女王蜂』との間にアニメ合成を駆使した漫画の神様である手塚治虫の原作を映画化した、ファンタジー映画『火の鳥』を製作し、作風は多彩である。これら、独特のカット繋ぎはコン・タッチと呼ばれ、今なお熱狂的ファンを持つに至る。キャスト・スタッフのクレジットにおいて、「画面に沿って直角に曲げて表記する」という独特の表記法が有名で、『新世紀エヴァンゲリオン』(こちらはサブタイトル並びにオープニングクレジットでの監督・庵野秀明の表記)ではオマージュが見られた。

晩年には、黒鉄ヒロシの漫画による紙人形で全編を撮影した『新選組』がある。また、30年ぶりにセルフリメイクした『犬神家の一族』では、まったく同じ脚本を用い同じ主演俳優を起用してみたりもした。カット割や構図も前作を踏襲したものが多いが、前作では飄然と汽車に向かう金田一がリメイク版では画面に向かってお辞儀するエンディングとなっており、この挨拶が(エンドロールを除いて)市川の長年にわたる監督生活のラストカットとなった。

脚本

脚本は当初、妻の和田夏十に委せることが多かった。和田は『東京オリンピック』を最後に、乳癌を発病して脚本の筆を置き、『細雪』の最後のシーンの脚本が遺作となった。和田の病気引退後は、大部分の作品に自らが執筆参加している。

ミステリ映画脚本の際に用いられるペンネーム「久里子亭」(くりすてい、アガサ・クリスティーのもじり)は、当初は和田と市川の、後年は日高真也と市川の共同名義である。「日本文学全集」(石上三登志)と揶揄気味に評されるほど純文学の映画化が多い市川だが、このネーミングに示されるようにミステリーへの造詣も非常に深い。『犬神家の一族』では脚本第1稿から謎解きドラマで、同時期の『八つ墓村』(1977年(昭和52年)、松竹、監督:野村芳太郎)と好対照を成した。その他の金田一耕助シリーズでも、派手なスプラッタ場面などを織り込みつつも、毎回同じキャラクターなのに違う役名で現れる加藤武演ずる警部には、当初金田一を邪魔者扱いしながらも後半には微かな友情が芽生えるが、毎回リセットされてしまう(次作ではまた初対面)など、遊びの要素があった。

脚本を完全単独執筆することはほとんどなかった。『女王蜂』の脚本を共同執筆した桂千穂は、市川から突然「海辺を疾駆する白い馬の絵が撮りたい」と言われ、それはストーリーとどう結びつくのかと尋ねたところ、そこを君が考えてくださいと返された。桂は脚本と平行して映画評論家としても知られるが、作家のテーマ語りや自分語りを嫌い娯楽性を重視するタイプでもあり、一貫して市川作品を支持し続けている。インタビューなどでも作品論を理論づけたりすることは得意ではなく、来日した評論家あがりのフランソワ・トリュフォーを苛々させたこともあった。和田夏十、谷川俊太郎、日高真也、長谷部慶治らがブレーンとして支えたとはいえ批評家泣かせであったといえる。

文芸映画で非常に高い業績を残している。夏目漱石、三島由紀夫、谷崎潤一郎を各2回映画化しているほか、泉鏡花、幸田文、石原慎太郎、大岡昇平、島崎藤村、瀬戸内寂聴、山崎豊子、村松梢風らを手がけている。

キャスティングとスタッフ

『犬神家の一族』以降、石坂浩二は多くの作品で重用された。市川は石坂とは年少の友人として公私に渡る付き合いだった。

岸恵子は期間、本数、役柄の多彩さ、いずれも抜群で同志的とも言える結びつきがあり、『細雪』では当初予定していた山本富士子が舞台と重なった代わりにオファーを受けている。岸は後年の市川への弔辞でも強い信頼関係をうかがわせた。

多くの大映作品で主演した船越英二と、50年にわたって要所要所で招かれた仲代達矢らも重要なパートナーであった。

脇役では岸田今日子は大映時代より長きにわたり起用していた。

他、浜村純北林谷栄草笛光子、加藤武、岸部一徳白石加代子大滝秀治らを上手く用いた。また、尾藤イサオ石倉三郎などは名バイプレイヤーとしての素質を発掘されている。

長期間現役を貫いたこともあり、親子2代・3代にわたって仕事を共にした人々も少なくない。師匠にあたる万作の息子・伊丹十三は常連出演者となり、影響を強く受けつつ監督デビュー、さらにその子である池内万作もリメイク版『犬神家の一族』に出演した。その他には作曲家の山本直純山本純ノ介、脚本家の八住利雄と白坂依志夫らが親子、詩人で多くの脚本を書いた谷川俊太郎、その子で晩年作品のほとんどで音楽監督をつとめたジャズピアニストの谷川賢作らでスタッフとなっている。

影響

市川の独特の映像表現は、後進の映画監督の一部に影響を与えている。

  • 若松孝二は『股旅』を素晴らしい映画と述べている[14]。若松は同映画が、洋画『さすらいのカウボーイ』の焼き直しであることを、知らなかったようである。
  • 伊丹十三は『お葬式』製作発表の記者会見で「師匠は市川崑さんです」と明言している。その後も、完成したシナリオは必ず市川のもとに届けられたという。
  • 三島由紀夫は、市川と和田夏十との共著『成城町271番地』の序文で「日本映画の一観客として、どの監督の作品をいちばん多く見ているか、と訊かれたら、私は躊躇なく市川崑氏の作品と答える」と寄稿している。
  • 池波正太郎は、フランス映画など洋画への造詣が深く自作にも趣向を導入している作家だが、1980年ごろに自作映画化の出来栄えを批判した文章で、かなうならば理想の監督は市川崑であると書いている。
  • ソール・バスは、「グラン・プリ」のタイトル・バックに『東京オリンピック』の影響があると語っている。
  • 日本映画好きのフランソワ・トリュフォーは、市川や中平康に影響を受けていた。
  • いわゆる「市川組」出身の映画監督には、東宝の古沢憲吾橋本幸治手塚昌明、日活の舛田利雄江崎実生、大映の増村保造田中徳三池広一夫らがいた。和田誠森遊机編の『光と嘘 真実と影 市川崑監督作品を語る』(河出書房新社、2001年(平成13年))では塚本晋也井上ひさし小西康陽橋本治椎名誠宮部みゆきなど各界の市川ファンが賛辞を寄せている。エンターテインメント小説家・安達瑶の片方である安達Oが信奉者で、一時、助監督を務めた。
  • 市川を強く敬愛する岩井俊二は『市川崑物語』を撮りあげた。類似例としては新藤兼人による『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』(1975)があるが、死後20年近くを経過して関係者証言を集めた同作に比べ、生前に本人を出演させて製作するという異色の試みとなった。

その他

「肉しか食べない」という逸話が流布されるような偏食家であった。2008年(平成20年)5月30日に放送された『スタジオパークからこんにちは』(NHK)に出演した石坂浩二の話によると、ある日、油分が多い牛丼を食べている市川を見て石坂が注意したところ「こんな年になってそう食生活なんて変えられないよ」と笑っていたという。

大変なヘビースモーカーとしても有名である[15]チェリーキャメルのどちらかを、一日に100本は欠かさずに吸っており、手を使わずに喫煙できるように、抜歯した歯の隙間に挟んで喫煙していたことでも知られ、撮影中はもちろんインタビューを受ける時もくわえたばこがトレードマークだった。文化功労者に選出された1994年(平成6年)には『NHK紅白歌合戦』に審査員として出演したが、司会の古舘伊知郎から「場内は禁煙でございますので」と忠告され頭をかいていた。編集する際もたばこを咥えていたため、フィルムをライトに透かした際にフィルムを焦がすこともあったという。


和田夏十

妻は脚本家和田夏十であった。東宝撮影所で知り合い、1948年(昭和23年)に結婚した。和田は40年近くにわたって市川の生活を支えるかたわら、生涯でほとんどの市川作品の脚本を手がけるという、文字通り公私における市川のパートナーだった。そもそも「和田夏十」(わだなっと)という名は東宝撮影所時代に2人が共同執筆するためのペンネームとして使っていたもので、1951年(昭和26年)の『恋人』で「脚本の才能ではとても妻に及ばない」と市川がこれを妻に譲り、以後彼女専用のペンネームになったという経緯がある。

受賞

映画賞

叙位・叙勲

監督作品

映画

*以下が実質的な監督昇進後作品

主なテレビ作品

主なCM作品

ドキュメンタリー

  • 『銀座100年』(資生堂=宣映、1967年)監修
  • 『京』(オリベッティ、1968年)製作・監督
  • 『太陽のオリンピア MEXICO 1968』(メキシコ・オリンピック組織委員会、1969年)日本版監修
  • 『日本と日本人』(東宝、1970年)総監督 ※日本万国博・日本館で公開された8面マルチスクリーン作品
  • 『つる』(デスクK、1970年)演出 ※日本万国博・住友童話館で公開
  • 『バンパの活躍』(デスクK、1970年)演出 ※日本万国博・住友童話館で公開
  • 長江』(さだ企画=中国中央電視台、1981年)総監修
  • 『やすらぎ』(泉放送制作、1985年)監修
  • 子猫物語』(フジテレビジョン、1986年)協力監督

舞台

書籍

  • 『成城町271番地』(白樺書房)、和田夏十との共著
  • 『市川崑の映画たち』(ワイズ出版/新編・洋泉社)、森遊机との共著
  • 『KON』(光琳社出版)、※劇場公開作品73作品の名場面を収録した大判写真集

出演

映画

  • ザ・マジックアワー(2008年)
    三谷幸喜監督作品。『黒い十人の女』のパロディ「黒い101人の女」を撮影している映画監督役で出演。市川の没後に公開され、「市川崑監督の思い出に捧げる」と映画のラストに表示された。

CM

  • シャープ「テレビデジタルセンサー、ロングランカラー」(1977年)
  • 龍角散「エチケット」(1983年)

参考

  • 映画『市川崑物語』(2006年)

注釈

  1. ^ http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-12981
  2. ^ http://movie.walkerplus.com/mv21408/
  3. ^ 『時代の証言者(1) 日本を描く―平山郁夫&市川崑』読売新聞社、2005年、p48
  4. ^ http://movie.walkerplus.com/mv21408/
  5. ^ 河野はその後高峰秀子の依頼を受けて崑と面談し、最終的に映画を容認した。詳細は『東京オリンピック』の項目を参照。
  6. ^ 後に崑は『朝日新聞』のインタビューで「要するに河野さんは、馬とかマラソンにうんちくのある方だったんですが、その辺の競技を映画で見たかったのにそれが十分入っていないのが気に食わなかった。作品を全面否定されたわけでも何でもないんです。今から言えば笑い話ですがね」と当時を振り返っている(1985年(昭和60年)8月27日付朝刊)。
  7. ^ 『東京オリンピック』は評価されて、同年度のカンヌ国際映画祭でドキュメンタリー作品として国際批評家賞を受賞している。また、同作は映画館以外にも日本各地の学校や公民館などで上映会が開かれたことから、その観客動員数では事実上日本映画史上最多であるという説がある。
  8. ^ 「日本映画監督・俳優論」104ページ
  9. ^ 有馬稲子が市川崑監督との不倫、堕胎告白 - asahi.com (2010年4月22日) 2012年4月9日閲覧。
  10. ^ 不倫中絶を告白...有馬稲子が市川崑監督と - nikkansports.com (2010年4月22日) 2012年12月13日閲覧。
  11. ^ 日本映画監督・俳優論」107ページ
  12. ^ 『加藤武 芝居語り』2019年 筑摩書房
  13. ^ ただし、『赤西蠣太』など一部のテレビドラマ作品では、松竹京都映画撮影所といった松竹関連の施設で撮影をおこなったこともあるため、一概に縁がなかったと言えなくもない。
  14. ^ 『若松孝二の時代を撃て』235ページ
  15. ^ 巨匠が1日100本のタバコをやめたワケ
  16. ^ 市川崑監督の幻アニメ発見 「弱虫珍選組」 米にフィルム”. 朝日新聞デジタル (2014年4月23日). 2014年6月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年4月23日閲覧。
  17. ^ 1995 テレビ広告電通賞 「松下電器産業 ナショナルのあかり おかえりなさい神戸のあかり篇」(演出:市川崑) 東映CMの記憶に残る作品、2006年9月7日

関連項目

外部リンク