19世紀

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千年紀: 2千年紀
世紀: 18世紀 - 19世紀 - 20世紀
十年紀: 1800年代 1810年代 1820年代 1830年代 1840年代
1850年代 1860年代 1870年代 1880年代 1890年代
19世紀に君臨した大英帝国

19世紀(じゅうきゅうせいき)は、西暦1801年から西暦1900年までの100年間を指す世紀。この項目では、国際的な視点に基づいた19世紀について記載する。

19世紀の歴史

帝国主義の興隆

インド大反乱。アジア・アフリカ諸国には苦渋の時代であった。

19世紀のイギリス工業化による生産力の増大により得た、圧倒的な経済力と軍事力で世界の覇権を握った。イギリスは時には武力をも用いて世界各国に自由貿易を認めさせ、イギリスを中心とした国際経済体制に世界を組み込んでいった(パクス・ブリタニカ)。この過程で、大陸国家であるロシア海洋国家のイギリスとの間に度重なる衝突が発生し、20世紀における世界大戦の遠因が形成された。

アジアアフリカにとっては苦渋の時代であり、トルコタイ王国などの国では西欧文化を取り入れ近代化が試みられた。清国の半植民地化が実質的に始まったのは、アロー戦争敗北後に天津条約北京条約を締結してからである。オスマン帝国もヨーロッパ諸国による介入でギリシャ独立戦争において敗北し、ムハンマド・アリーエジプトでの台頭を止めることが出来なかった。インドではイギリスが19世紀にマラーター戦争シク戦争を行い、インドを植民地化した。1857年にはインド大反乱が勃発したが、翌年にイギリスはこれを鎮圧し、ムガル帝国は終焉を迎えた。

19世紀の半ば頃に中米の古代文明(マヤ文明)という考え方が、まずヨーロッパで市民権を得、世界中に広がった。

日本でも1853年アメリカペリー浦賀に来航、江戸幕府開国を認めさせ、日本も欧米を中心とした世界経済に組み込まれた。1868年には長らく続いた幕藩体制は崩壊し(明治維新)、新たに発足した明治政府は欧米文化を摂取して急速な近代化を目指した。19世紀末には、近代化に成功した日本やタイ王国などの一部の国以外は、西欧列強の植民地にされるか、強い影響下におかれた。

国民国家の成立

フランス七月革命。ヨーロッパでは革命により近代的な国家が生まれた。

西欧ではフランス革命の影響により自由主義ナショナリズムが広がった。19世紀初頭のナポレオンの興亡や反動的なウィーン体制、数々の市民革命の勃発の後、ナショナリズムの高揚によりドイツイタリアなどの新たな統一された強力な国家が登場した。また南米ではナポレオン戦争による混乱に乗じてラテンアメリカ諸国が独立した。

列強の植民地争奪戦

19世紀中頃に、ドイツ、フランス、アメリカ合衆国はイギリスに続いて産業革命をなしとげた。こうした後進産業国では政府の強力なリードのもとで産業育成がなされた。19世紀の末期には資源の豊富なアメリカ合衆国や重化学工業分野が成長したドイツの発展が著しく、事実上イギリスの覇権は崩れた(第二次産業革命参照)。これにより19世紀末には列強の植民地争奪競争がおこなわれた。日本も日清戦争日露戦争などを通じ、こうした植民地争奪戦に乗り出していく。

できごと

蒸気機関車ロバート・スチーブンソンロケット号」。
  • 日本では江戸時代の後期及び末期(幕末)から明治時代にあたる。
  • 中国ではの時代の後期から末期にあたる。
  • イギリスではジェームズ・ワットの圧縮蒸気機関が開発され、その10年後にはワットの複動式蒸気機関が完成し、炭鉱において地下300メートルの深さまで掘ることが可能になった。毎年さまざまなタイプの石炭を何百万トンも産出するようになり、世の中が一変した[1]

1800年代

江戸時代の旅行ブーム。1802年には十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の刊行が始まり、文化文政時代のおおらかな気風も相まって各地への旅行が庶民でも楽しまれるようになった。画像は歌川広重の「東海道五十三次」の「日本橋」。
ナポレオン1世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠
ゴヤの「マドリード、1808年5月3日(プリンシペ・ピオの丘での虐殺)」。

1810年代

革命への反動。画像はウィーン会議の様子を描いたJ.B.Isabenの絵画。
ナポレオン戦争の終結。画像はワーテルローの戦い

1820年代

ギリシア独立戦争。画像はウジェーヌ・ドラクロワの「キオス島の虐殺」。
グアヤキルの会談。スペイン支配からラテンアメリカを別個に独立させてきた二人の指導者ホセ・デ・サン・マルティンとシモン・ボリーバルがこの地で会見した。

1830年代

ポーランドの十一月蜂起。ポーランド人はロシアの支配からの独立を求めたが鎮圧される。この知らせを受けたショパン革命のエチュードを作曲した。
画狂人北斎。数ある浮世絵師の中でも市井の中で90歳近くまで絵筆をとり続けていた北斎は構図や構想では群を抜いており海外での評価も高い。画像は1831年頃に出版された葛飾北斎の「富嶽三十六景」の「神奈川沖浪裏」。
ウジェーヌ・ドラクロワ「アルジェの女たち」。1834年に描かれたこの作品はロマン主義の異国趣味を示すとともに、東方世界を退廃的で官能的なものと見なす「オリエンタリズム」を示す作品でもある(ルーヴル美術館蔵)。
帆船から蒸気船へ。交通革命により蒸気機関が搭載された船が海の主役になった。画像はウィリアム・ターナーの「戦艦テレメール」でトラファルガー海戦で戦った名だたる戦艦が蒸気船に引かれて解体されに向かうところである。
チャーティスト運動。1838年には「人民憲章」がまとめられ更なる選挙権の拡大が唱えられた。

1840年代

アヘン戦争。イギリスの砲撃により大破する清の軍艦。
アイルランド併合による弊害。イギリスの搾取による大飢饉の発生(1841-1851)。
諸国民の春。1848年のベルリンにおける三月革命。

1850年代

第一回万国博覧会。ロンドンで行われガラスと鋼鉄でできた水晶宮が話題となった。
白衣の天使。イスタンブル近郊のスクタリにてクリミア戦争での負傷兵を見舞うフローレンス・ナイチンゲール
パリ大改造。ナポレオン3世により生まれ変わったパリは近代都市計画の模範となった。画像はカイユボットの「パリの通り、雨の日」。

1860年代

エジプトのサムライたち。徳川幕府がフランスに派遣した横浜鎖港談判使節団の一行がスフィンクス像前で撮った写真。
同治中興。アロー戦争後に即位した同治帝の時代から清朝では洋務運動と呼ばれる近代化が進められた。画像は漢人官僚の李鴻章が1865年に南京に作らせた金陵機器製造局の写真。
スエズ運河開通。この運河によりヨーロッパからアジアへの航路は大幅に短縮された。
大陸横断鉄道。大西洋側と太平洋側から伸びた鉄路がプロモントリーサミットで結ばれた。写真はこの地での1869年5月10日の開通記念式典の模様。

1870年代

ドイツ帝国の成立。ドイツ皇帝の戴冠式は普仏戦争に敗れたフランスのヴェルサイユ宮殿鏡の間で行われた。画像はアントン・フォン・ヴェルナーによるもの。
ベルリン会議露土戦争後のこの会議によって列強諸国による地域分割の原則が確定した。
アラジンに扮したディズレーリが、ヴィクトリア女王にイギリスの王冠とインドの皇帝冠を交換するよう迫る様子を描いた風刺画(1876年)。

1880年代

世界に広がる浮世絵。浮世絵はヨーロッパ諸国のジャポニズム(日本趣味)に影響を与えた。画像は1887年に描かれたフィンセント・ファン・ゴッホの「タンギー爺さん」。
ノイシュヴァンシュタイン城。プロイセンによるドイツ統一に屈服したバイエルン国王ルートヴィヒ2世による城。中世の君侯に憧れ次第に精神を病んでいった王の夢の城とされている。画像は1890年代の城の写真。
ニューヨークの自由の女神。アメリカ独立100周年を祝ってフランスからアメリカに贈られた女神像。19世紀末までにはアメリカは世界最大の工業国となり、新天地を求めた多くの移民がこの女神像を眺めつつ入国していった。
大日本帝国憲法の発布。「憲法発布略図」楊洲周延画。

1890年代

ゴーギャンとタヒチ。フランスのポスト印象主義の画家ゴーギャンは新天地を求めタヒチへ旅立った。タヒチは必ずしも楽園とばかりは言えずゴーギャンは無理解と貧困に苦しめられたがその画業は深められた。画像は「三人のタヒチ人」(スコットランド国立博物館蔵)。
日清戦争。日本の勝利と清の敗北により東アジアの冊封体制は崩壊することになる。画像は小林清親の「於黄海我軍大捷 第一図」。
中国分割に乗り出した列強諸国の諷刺画。
映画の誕生。フランス人のリュミエール兄弟によるこの発明はメディアの可能性を一挙に広げるものとなった。

1900年代

文化

文学

思想

科学

  • 19世紀は制度としての科学が確立し、「科学の世紀」とも呼ばれる。科学が自然哲学から分離し、技術への応用が進展した。

技術

人物

ヨーロッパ

政治家・王族

ナポレオン・ボナパルト 画像はダヴィッド「アルプス越えのナポレオン」
ウイーン体制の立役者であるオーストリア宰相メッテルニヒ
サルデーニャを中心としたイタリア統一を果たしたカヴール
ナポレオン3世(左)とビスマルク(右)
種の起源』で進化論を唱えたチャールズ・ダーウィン
閣僚に奴隷解放宣言の初稿を提示するアメリカ大統領エイブラハム・リンカーン
エドゥアール・マネの描いた「メキシコ皇帝マクシミリアンの処刑
ハワイ王国最後の女王リリウオカラニ
アフリカを南北にまたぐセシル・ローズ
ハルツームの戦いでマフディー軍に包囲されるゴードン将軍
エチオピア皇帝の正装をしたメネリク2世
エジプトの近代化を推進したムハンマド・アリー
ギュルハネ勅令を出して恩恵改革(タンジマート)を行いドルマバフチェ宮殿を建設させたオスマン帝国のアブデュルメジト1世
インド大反乱で担ぎ上げられたものの廃位されミャンマーに流された最後のムガル皇帝バハードゥル・シャー2世
チャクリー改革を行いタイ王国の独立を維持したラーマ5世(チュラーロンコーン)
マレー半島南端にシンガポールを開港したイギリス人のトーマス・ラッフルズ
清朝末期の政局を左右した西太后(慈禧太后)
フランス
オーストリア=ハンガリー
ロシア
イギリス
ドイツ(プロイセンほかドイツ領邦を含む)
北欧
イタリア
スペイン
ベルギー
ギリシア

軍人

実業家

科学と技術

思想と哲学・人文諸学

宗教

文学

美術

音楽

社会事業家

探検家・旅行家

料理

その他

アングロアメリカ

ラテンアメリカ

サハラ以南のアフリカ

西アジアと北アフリカ

南アジア

東南アジア

オセアニア

東アジア

越南

日本

19世紀生まれの生き残り

アメリカの老人学研究団体ジェロントロジー・リサーチ・グループによれば、生年月日に確実な証拠のある人物で、19世紀生まれの生き残りは2015年9月28日現在、世界に4人のみ(スザンナ・マシャット・ジョーンズエマ・モラノヴァイオレット・ブラウン田島ナビの4人、いずれも女性)となっている[2][注 2]

2013年6月12日、日本木村次郎右衛門(男性での史上最高齢、および男女を通して1897年生まれの最後の生き残り)が116歳で死去し、19世紀生まれの男性は全員がこの世を去ったとされる。

脚注

注釈
  1. ^ ただし、この時点ではA型、B型、C型の3つであるとされた。
  2. ^ 1899年生まれがジョーンズとモラノの2人、1900年生まれが他の2人。
出典
  1. ^ ウィンチェスター, サイモン著、野中邦子訳『世界を変えた地図 - ウィリアム・スミスと地質学の誕生 -英語版早川書房、2004年7月、ISBN 978-4-15-208579-5、65-66頁。
  2. ^ Oldest Validated Living Supercentenarians”. ジェロントロジー・リサーチ・グループ. 2015年7月3日閲覧。

関連項目