ジャン・アンリ・ファーブル

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ジャン=アンリ・ファーブル
人物情報
生誕 1823年12月21日
Flag of the Kingdom of France (1814-1830).svg フランス王国アヴェロン県、サン・レオン
死没 1915年10月11日(満91歳没)
フランスの旗 フランス、セリニャン・デュ・コンタ
国籍 フランスの旗 フランス
学問
研究分野 生物学
主な業績 アリザリン精製の工業化、昆虫学の普及
主な受賞歴 レジオンドヌール勲章
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ナダールの撮影によるアンリ・ファーブル

ジャン=アンリ・カジミール・ファーブルフランス語: Jean-Henri Casimir Fabre1823年12月21日 - 1915年10月11日)はフランス生物学者である。昆虫の行動研究の先駆者であり、研究成果をまとめた『昆虫記』で有名である。同時に作曲活動をし、プロヴァンス語文芸復興の詩人としても知られる。

概説[編集]

南フランスのアヴェロン県にある寒村サン・レオンに生まれ、3歳のとき山村にある祖父母の元に預けられ、大自然に囲まれて育った。7歳の時祖父母のいるマラヴァルから呼び戻され、父母と弟のフレデリックの4人で暮らせる様になり、小学校に入学した[1]。父の家業が失敗し、14歳で学校を中退するが、師範学校を出て中学の教師になり、物理学、化学の普及書を著した。コルシカ島アヴィニョンを経てセリニアン(セリニャン・デュ・コンタ)で暮らし、様々な昆虫の観察を行い、それらをまとめて発表したのが『昆虫記』である。

ファーブルが生きていた当時、彼の業績は祖国フランスではあまり理解されなかった。しかしその後『昆虫記』は世界中で翻訳されて注目を浴び、文章の魅力もあいまって[誰によって?]業績が評価されていった。ファーブルの開拓した行動学的研究は、その後フランスよりもカール・フォン・フリッシュコンラート・ローレンツのようなドイツ語圏、あるいはニコ・ティンバーゲンのようなオランダ語圏の研究者に継承されて発展を遂げることになった。また、古くからの昆虫愛好文化をもつ[要出典]日本でも読まれ、昆虫学の普及に役立った。

経歴[編集]

ファーブルは、ギリシア、ローマ、パレスチナ、サラセンの文化に培われたプロバンスの地に生涯を送った[2]

サン・レオン - トゥールーズ - モンペリエ[編集]

ファーブルの父方の祖父は、羊飼いや小作人を抱えたそれなりの経営規模の自作農であったが、そこから自立して農場を離れた父のアントワーヌ・ファーブルは定職に就けず、様々な手伝い仕事を転々とした。母のヴィクトワール・ジョルゲは、大規模な自作農であった妻の実家サルグ家に経済的援助をあおぎ、妻の婦人用皮手袋作りの内職で生計を立てるなど一家の生活は貧しかった。サン・レオンの家で生まれた。ファーブルは4歳から7歳までの間、弟のフレデリックの育児や母の内職を妨げないために、20km程離れた父の郷里マラヴァルの祖父の家に預けられた。自然豊かな環境で育ったことが、その後の人生に影響を与えたと言われている[要出典]。7歳になって、学校に行くためにサン・レオンの父の家に戻り、フランス語の読み書きを身に付けた。

1833年、ファーブルが10歳の時に一家はサン・レオンを離れ、アヴェロン県の県庁所在地ロデズに出てカフェを開業した。依然一家は貧しかったが、両親が教育には理解があったこと、王立中学校の礼拝堂で司祭ミサを手助けして聖歌隊の役を務めることを条件に学費が免除されたこともあって中学校に進学、ラテン語ギリシア語で優秀な成績を収めた。しかし接客の下手な両親のカフェ経営は失敗し、1年足らずで店を畳んでロデズを離れることとなった。父はその後オーヴェルニュトゥールーズモンペリエと各地を転々としながらカフェを開いては失敗を重ねていった。ファーブルは父の開店先の一つであったトゥルーズのエスキーユ神学校で再び授業料免除の入学を認められて、中学2年に相当する第5学級を終えたが、15歳で一家は離散状態となり、肉体労働で糊口を凌ぎながら独学で学問を続けることとなる。

アヴィニョン - カルパントラ - コルシカ[編集]

1840年にファーブルはアヴィニョンに滞在していた時に、そこの師範学校で学生を募集していることを知り、入学試験を受け首位で合格する。3年後には師範学校を首席で卒業、1842年の春、小学校上級教員免状を取得した。その後、もう一段上の仕事へ付くために、独学で数学と物理、化学をも習得した。しかし、こんな間にも昆虫のことは頭から離れなかった。[3]

カルパントラのビクトル・ユーゴー学院で数学と物理学の教師になり、1844年、21歳で同じ学院の教師である2歳年上のマリー・セザリーヌ・ヴィアーヌと結婚する。両親は酷く反対した。この時期に娘と息子を儲けるも、幼いうちに亡くしている。 その後コルシカ島の大学に進み数学を研究しながらも、昆虫学に傾倒していく。

アヴィニョン[編集]

アヴィニョンに戻ったファーブルは1861年、博物館の館長として働き、同時に研究資金を稼いで大学教授となるための財産基準を満たすために、染料の材料であるアカネの研究に没頭した。そして天然アカネから効率よく染料のアリザリンを抽出し、精製する技術開発で大きな成果を挙げる。この成果でファーブルはレジオンドヌール勲章を得ることになる。しかしこの研究成果に基づく工業化は、ほぼ同時にドイツで人工合成に成功し、工業化された合成アリザリンとの競争に敗れ、事業からの撤退を余儀なくされた。

1863年、アヴィニョンのサンマルシャル礼拝堂で市民を対象に「植物はおしべとめしべで受粉をする」という原理を説明するも、参加者のほとんどが女性であったことから大きな非難を浴びた。その後政界や教育界からの圧力により、彼は教壇を降りることとなる。この事件には独学で名を成したファーブルへの妬みや、文部大臣デュリュイへの宗教界からの意趣返しの側面[4]もあったとされる[要出典]。教員を辞めさせられると、彼の講義を受けていた生徒たちは置時計を記念に贈呈した(彼の生家に現在も置かれている[要出典])。

1865年、突然、細菌学者のパスツールが、ファーブルを訪れた。

その後、家主にも追い立てられたファーブルは、住み慣れたアヴィニオンを出てセリニアンに移り住む(セリニアンに移り住む前にアヴィニオンに近いオランジュの町に一時移住していた)。たまたまアヴィニオンに滞在していたイギリスの思想家ジョン・スチュアート・ミルに、ファーブルの生涯でただ一度の借金(3000フラン)を申し込んだのもこの頃である。ファーブルは大きな試練に立たされるが、『昆虫記』の執筆に注力するのはこの後のことである。

オランジュ - セリニャン[編集]

1879年、56歳に時、セリニアンに移り住んで、後(1885年、62歳)に最初の妻マリー(54歳)を病気で失い、1887年、64歳で23歳の村の娘ジョゼフィーヌ・ドーテルと再婚する。[5]。3人の子に恵まれ家族は8人の大所帯となる。

ファーブルが自らアルマスと名付けたセリニアンの自宅には1ヘクタールの裏庭があり、ファーブルは世界中から様々な草木を取り寄せて庭に植え付けると共に様々な仕掛けを設置した。以後、死去までの36年間、彼はこの裏庭を中心として昆虫の研究に没頭した。

この時期にファーブルはオオクジャクヤママユの研究から、メスには一種の匂い(現在でいうフェロモン)があり、オスはその匂いに引かれて相手を探し出すということを突き止めた。試しに部屋にメスのヤママユを置いて一晩窓を開けていると、翌日60匹ものオスのヤママユが部屋を乱舞したという。

ファーブルは高齢になると年金による収入がなく、『昆虫記』ほか科学啓蒙書の売れ行きも悪かったため、生活は極貧であったと言われている。一方で、この話はかなり誇張されて伝えられており、実際のファーブル家は極貧どころか使用人を雇える余裕すらあった。最後の妻マリー・ジョセフィーヌはそのようにしてファーブル家に雇われた家政婦である。また終の棲家となったアルマスもその地方ではお屋敷と呼ばれるに相応しい邸宅であった。さらにファーブルが極貧にあえいでいるとの噂を聞きつけフランス全土から多額の義捐金がファーブルの元に送付されたが、こうした人の情けを嫌う彼の性格もあり、それらは全て差出人に送り返されている。[要出典]

このころヨーロッパ全土にファーブルを救えという運動が起き、1910年、当時のフランス大統領ポアンカレはファーブルに年2,000フランの年金と第5等のレジオンドヌール勲章を与えた。当時85歳を超えていたファーブルは健康を損なっており、横になったままの時期が多くなっていく。

1915年5月、ファーブルは担架に乗せられて、アルマスの庭を一巡りする(彼にとって最後の野外活動となった)。同年10月11日、老衰と尿毒症のため92歳で死去した。

昆虫の習性研究[編集]

ファーブルはフンコロガシが大好きだったようで、昆虫記の第1巻はフンコロガシで始まり、後に再びフンコロガシの子育てについて追記している。その他の糞虫についても、子を守る行動などを詳しく記録している。また、ハチについては多くの種の行動を記録した。特に、狩りバチの習性、狩りの方法などについて詳しく報告している。狩り蜂が獲物を麻酔することは、彼の発見になるところである。また、彼はヌリハナバチを用いての帰巣実験も行なっている。自宅庭で飼育していたヌリハナバチに塗料をつけて自宅から4km程離れた川原で放し、どれ位の蜂が巣に帰ってこられるかを実験した。

それらの研究を通して、彼は昆虫の行動を支える本能というものについて、深く考えようとした。

ファーブルは自分の研究した多くの昆虫について、学術論文ではなく読み物の形で世に送り出した。彼には多くのファンがいたが、その多くは科学者ではなかった[6]。彼に対してノーベル文学賞を与えるべきとの声があった程である(実際にはそれは叶わなかった)。

ただ、そこで問題とされたのは、彼が見ていないこと、想像したことをも、実際に見たかのように思える書き方をしている場合があることである。このような点で、科学者としてのファーブルを支持しない向きもある。

たとえばナガコガネグモの項では、その卵嚢が破裂して子供を外に出すかのような記述があるが、これは完全な創作らしい。日本語訳、特に子供向けではこの下りは省略されていることが多い。他にもナガコガネグモについては疑問のある記述が多く、それについては該当の項を参照されたい。それほど極端ではなくとも、第一巻第二章(虫籠)でタマコロガシが子供のための糞玉を作るに違いないが、それはいまだ見つけられていないことを説明した後、それはこのようなものであろう、という予想について極めて微にいり細にいり説明している。もちろんそれは予想であることを断った上のことであるが、しかし数種の糞虫についての観察を継ぎ合わせたもの、と言っているから、それなりの根拠があるように見える。しかし、後に発見されたものは随分と異なったものであった。こういったことは、他の観察の信頼度をも下げることとなろう。

他方、習性の研究と言うと、ただ漫然と昆虫を眺め、それを記録しただけのように見えるが、ファーブルは行動の研究に実験的手法を持ち込んだ点で、先進的であった。飼育する場合でも、必ず何通りかの対象を置いて、信頼性を確保しようとしている。例えば土の中に巣を作る虫を観察するために、瓶に虫を入れて紙で覆って暗くしておく場合は外で植木鉢に巣を作らせ、同じ時期に鉢をひっくり返し瓶の中と同じ状態であることを確認するという具合である。「その態度は現代のナチュラリストよりもはるかに機械論的」との評もある[7]

進化論への批判[編集]

ファーブルは、他方で進化論に対して非常に強く反対意見を持っていた。『昆虫記』の中で、再三そのことに触れており、特にチャールズ・ダーウィンの祖父エラズマス・ダーウィンの観念的な進化論には強い批判を記している。ファーブルはチャールズとは親交があり、チャールズも彼を「たぐいまれなる観察家」と高く評価したが、彼は進化論への批判をやめなかった。

ファーブルが行った批判のひとつに狩りバチの例がある。例えば「進化論へのお灸」と題した章がある(岩波文庫版では第6分冊)。ここで彼は進化論を現実から乖離させた概念のお遊びであると非難し、具体的な問題提起として、アナバチの例を挙げている。彼の知る何種かが近縁であることは形態等から明らかであるから、進化論的にはそれらに共通祖先があったことが想定される。しかし現実の種はそれぞれに別な固有の獲物(ある種はコオロギ、別の種はキリギリスモドキ、また別の種はカマキリ類)を狩る。では、それらの祖先はいったい何を狩っていたのか、と問い、もし祖先の中から特定の獲物を狩るものが出たのだとすれば、祖先はそれら全部を獲物の選択肢にしていたことになる、とすれば、多様な獲物を狩れる中から、限られたものしか狩れない者が出てくるのでは、明らかに進化しているものの方が不自由であり、変であると論じる。もし、祖先がある1つの獲物を狩っていたとしても、そこから現在のさまざまな種が出る間には、複数種を狩れる段階があったはずであり、同じ問題を生じる。

狩りバチはその種によって特定のイモムシなどの昆虫を捕まえ、幼虫の餌にするために神経節を針で刺して麻酔する。そのために、決まった種のイモムシを決まった場所で探し、見つけたら決まった方法で攻撃し、決まった場所を針で刺さねばならない。しかも、昆虫は学びもせず、それを生まれつき行う。もし、これらの行動のどれか一つが欠けても、この昆虫の習性は完成しないのである。だとすれば、進化する途中の狩りバチなどあり得ないのではないかというのである[8]

ファーブルの疑問は何よりも現実の生物の観察研究に裏打ちされていたという点で、進化論への鋭い批判であったといえる。[要出典]

その他[編集]

パスツールとのやりとり[編集]

1865年微生物学者のルイ・パスツールの病気の研究を行うことになったとき、ファーブルを訪ね、蚕についての基礎知識を得たという。ところが、パスツールはその時まで蚕の繭は蚕の幼虫になるために作るものだと言うことすら知らず、繭の中に蛹があることをこのとき初めて知ったので、ファーブルはたいそう驚くとともに、そこまで基礎知識を欠きながらも蚕の病原体の研究に挑もうとする蛮勇にむしろ感動したと昆虫記の中で述べている。しかし、裕福な家庭に育ったパスツールは、このときワインコレクションに関する話題をファーブルにふって少々気分を害させてもいる[要出典]。その後、パスツールはカイコの微粒子病病原体を発見している。

オック語の詩と歌[編集]

ファーブルの時代は、南フランスで使われていたオック語が徐々にフランス語(オイル語)に取って代わられる時期で、ファーブルはオック語の保護運動をしており、沢山のオック語の詩や歌も書いている。

ファーブルの知名度[編集]

アヴィニョンには現在ファーブルの功績を称えて、Rue Henri Fabre(アンリ・ファーブル通り)と名のついた道があるほか、パリにも蚤の市で有名なクリニャンクール Clignancourt に Rue Jean-Henri Fabre 通りがある。だが、皮肉なことにそれら道を行き交うほとんどの人が、「アンリ・ファーブル」が誰であるか知らないと言われている[要出典]さらに、ほとんどのフランス人はファーブルが何者であるかを知らない、とも言われている[誰によって?]

サン・レオンのファーブルの生家と銅像

ファーブルの生地であるサン・レオンにもファーブルの功績を称えて銅像が立てられた。第二次世界大戦時に進駐してきたナチス・ドイツによって、武器の材料として接収されたが、その後レジスタンスによって奪還されて地中に秘匿され、今は彼の生家の庭にたたずんでいる。

なお、日本、韓国、中国、ロシアなどではファーブルの『昆虫記』を題材にした子供用の本が発行されていて、読まれ、彼の名は一般大衆に広く知られている。しかし、フランス、ドイツ、英米などではそういった本はなく、彼の名はそれほどよく知られていない。日本語ではなぜ「アンリ・ファーブル」と呼ばれるようになったかは不明。[要出典]

脚注[編集]

  1. ^ 奥本大三郎監修 津田正夫著 『ファーブル巡礼』 《 新潮選書 》新潮社 2007年 74ページ
  2. ^ 奥本大三郎監修 津田正夫著 『ファーブル巡礼』 《 新潮選書 》新潮社 2007年 8ページ
  3. ^ 津田正夫 2007年 102-107ページ
  4. ^ デュリュイはカトリック教会から教育切り離す改革に尽力しており、彼の教育改革を象徴する教育者としてファーブルを大変ひいきにしていた。
  5. ^ 年齢差40に近いこの結婚は村人からあまり祝福されず、結婚後しばらくの間アルマスの屋敷には毎夜石が投げ込まれる始末であった。[要出典]
  6. ^ 大串(1992)p.64
  7. ^ 引用を含み大串(1992)p.66
  8. ^ なお、彼の後継者たちは、それらを詳細に比較検討することからむしろそこに進化の過程を読み取るようになった。日本の岩田久二雄はその代表例である。

昆虫記[編集]

昆虫記』の邦訳をした日本人一覧

他の著作の邦訳[編集]

  • 『ファーブル植物記』日高敏隆林瑞枝訳、平凡社 1991年/平凡社ライブラリー上下 2007年
  • 『昆虫 ファーブルの写真集』実子のポール・アンリ・ファーブルと共著、山内了一訳・解説 新樹社、2008年
  • 『ファーブル博物記』松原秀一ほか訳、岩波書店全6巻 児童向けの抄訳 

評伝・研究[編集]

訳者の平野威馬雄はヘンリー・パイク・ブイと、日本人の妻との間に産まれた息子。ヘンリー・パイク・ブイは法学者、バイオリン奏者で、1868年にファーブルが皇帝ナポレオン3世からレジオンドヌール勲章を受けた時に同時に皇帝に拝謁している。拝謁以降ファーブルと交友をもった。平野自身は父とは違い、ファーブルと直接の面識はないが、大杉栄との交流の縁でファーブル関連著書の翻訳をいくつか行っている。ルグロはファーブルの晩年親しく交友を持ち、弟子を自認していた人物で、評伝の巻頭にはファーブル自身の感謝の言葉がある。
  • G・V・ルグロ 『ファーブル伝』 平岡昇野沢協訳、白水社もある。
  • イヴ・ドゥランジュ 『ファーブル伝』 ベカエール直美訳、平凡社 1992年
  • 『日高敏隆選集7 帰ってきたファーブル』 ランダムハウス講談社 2008年
  • 奥本大三郎 『伝記 虫の詩人の生涯』 ファーブル昆虫記8.集英社、1991年/昆虫記6.集英社文庫、1996年

 

参考文献[編集]

  • 大串龍一、『日本の生態学 今西錦司とその周辺』、(1992)、東海大学出版会
  • 奥本大三郎監修 津田正夫著 『ファーブル巡礼』 《新潮選書》新潮社 2007年 74ページ ISBN 978-4-10-603583-8

外部リンク[編集]