エドモン・ロスタン

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エドモン・ロスタン

エドモン・ウジェーヌ・アレクシ・ロスタン(Edmond Eugène Alexis Rostand、1868年4月1日 - 1918年12月2日)は、フランスの韻文の劇作家。戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』の作者として、特に知られる。アカデミー・フランセーズ会員。

生涯[編集]

1868年マルセイユの豪商の家に生まれ、1870年の普仏戦争から翌年のパリ・コミューンに至る騒擾を、家族ぐるみ、ピレネーの山ふところのルションに避ける。

パリのスタニスラス高等学校(Collège Stanislas de Paris)、ついでパリ大学に学び、弁護士・外交官など将来に迷いながら、ルコント・ド・リールジュール・ルナールらの文人と交わる。1888年に最初の戯曲『赤い手袋』をクリュニー座(Théâtre de Cluny))で上演して、不評。1890年に、詩集『手すさび』を私費出版。

その年、2歳年長の詩人ロズモンド・ジェラール(Rosemonde Gérard)と結婚。そのときの代父はルコント・ド・リール、後見人は、アレクサンドル・デュマ・フィス(Alexandre Dumas fils)であった。1891年長男モーリス、1894年に次男ジャンを得る。モーリス(Maurice)は、後に作家。ジャン(Jean)は、後に生物学者となる(藤田嗣治の作品に『ジャン・ロスタンの肖像(Portrait de Jean Rostand)』がある)。

1894年、恋の幻滅と再生を描いた三募の韻文喜劇『ロマネスク』をコメディ・フランセーズに持ちこんで上演し、その叙情性が好評を呼んだ。ついで、中世吟遊詩人の悲恋物語『遥かなる姫君』をサラ・ベルナールのために書き、これは成功しなかったが、1897年さらに彼女のために書いた三幕の聖書劇『サマリアの女』は、ルネサンス座(Théâtre de la Renaissance)で上演して成功した。

そして、鼻が大きすぎて愛されないと信じている才人貴族の物語『シラノ・ド・ベルジュラック』で、畢生の大当たりをとった。これは、サラ・ベルナールの紹介で知り合った俳優、コンスタン・コクラン(Benoît Constant Coquelin)に依頼された五幕の韻文劇で、ポルト・サン=マルタン座(Théâtre de la Porte Saint-Martin)の1897年12月28日の蓋明けから500日間、400回を打ちつづけ、パリ中を興奮させたと言われ、今に至るまで各国で頻繁に上演されている。

その後、1900年ナポレオン2世の悲運を描いた『鷲の子』をサラ・ベルナールにより、1910年に鳥ばかりが登場する寓意的な『東天紅』をコメディ・フランセーズでサッシャ・ギトリーにより、上演するが、世評はシラノに遠くおよばなかった。時代を先取りしすぎたとの所論が、後年行われている。

1910年アカデミー・フランセーズの会員に推される。1915年、女優マリー・マルケ((Mary Marquet)との関係が原因で、妻ロズモンドと離婚。

1918年12月2日スペインかぜでパリに没。

著作[編集]

韻文劇[編集]

ロスタンにささげられた像
  • 赤い手袋(Le Gant rouge)(1888)
  • ロマネスク(Les Romanesques)(1894)
  • 遙かなる姫君(La Princesse lointaine)(1895)
  • サマリアの女(La Samaritaine)(1897)
  • シラノ・ド・ベルジュラック(Cyrano de Bergerac)(1897)
  • 鷲の子(L'Aiglon)(1900)
  • 東天紅(Chantecler)(1910)
  • 全集(7 巻)(1910-11)
  • ドン・ファンの最後の夜(La Dernière Nuit de Don Juan)(1921)(遺作)

詩集[編集]

  • 手すさび(Les Musardises)(1890)


前任:
アンリ・ド・ボルニエ
アカデミー・フランセーズ
席次31

第13代:1901年 - 1918年
後任:
ジョゼ・ペディエ