ロートレアモン伯爵
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ロートレアモン伯爵(Le Comte de Lautréamont, 1846年4月4日 - 1870年11月24日)は、フランスの詩人、作家。
本名はイジドール・リュシアン・デュカス(Isidore Lucien Ducasse)。フランスから1839年にウルグアイのモンテビデオに移住し、後に領事館の副領事となった父フランソワと母ジャケットの間に生まれる。13歳で帰国後父の出身地タルブ及びポーのリセにて学生生活を送る。
学校を出た後一時ウルグアイの父の元に身を寄せていたが作家を志して再びパリに戻り、1868年に突如、彼の名を後世に残すこととなる問題作『マルドロールの歌・第一歌』を匿名(「***」と表記されていた)で出版した。
当初第一歌にはそれほどの反響は無かったが、翌1869年に完成した全六歌を印刷費用400フラン全て自己負担し「ロートレアモン伯爵」名義で満を持して出版しようとしたところ、出版社だったラクロワ社はこの過激な内容では当局による発禁勧告は必至と二の足を踏み、結局全六歌の出版は中止となってしまった。彼はボードレールの『悪の華』を出版した実績のあるプーレ=マラシにベルギーとスイスでの出版を依頼したが、これも結局実現しなかった。
しかしながら彼はそんな困難な状況を意に介さず立て続けに新作詩『ポエジー』を執筆。1870年4月に今度は本名イジドール・デュカス名義で出版にこぎつけるが、6月に第二集を出版した直後居住先のホテルで謎の死を遂げた。24歳没。自殺説はもちろん政治運動に関わっていたが故の暗殺説もあるが、当時は普仏戦争によるパリ包囲の真っ最中で、研究者の間では混乱の中の食糧不足と疫病の流行が彼の死の要因となったのではないかという推測が有力である。
遺体は現在のモンマルトルの墓地に収容されたが、後に行われた区画整理の際に行方が分からなくなってしまっている。
後、20世紀に入ってから、詩人アンドレ・ブルトンによって「マルドロールの歌」「ポエジー」が再発表され、特にシュルレアリスム文学に大きな影響を与えている。長きにわたって、ロートレアモンに関する資料はほとんど見つからず、「顔のない詩人」とも言われてきたが、現在では肖像写真や自筆の書簡の発見などによって、生涯はいくらか明らかになりつつある。
「ロートレアモン」の名はフランスのゴシック作家ユージェーヌ・シューによる1837年の作品『ラトレオーモン(Latréaumont)』に由来する。「伯爵」となっているがデュカス家は貴族の家系ではない。


