ゴットロープ・フレーゲ

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ゴットロープ・フレーゲ
ゴットロープ・フレーゲ

ゴットロープ・フレーゲFriedrich Ludwig Gottlob Frege, 1848年11月8日 - 1925年7月26日)は、ドイツ人の数学者論理学者哲学者である。現代の数理論理学分析哲学の祖と呼ばれる。

フレーゲはバルト海に面したドイツの港町ヴィスマールの生まれである。彼ははじめイェナ大学で学び、その後ゲッティンゲン大学に移り1873年に博士号を取得した。その後イェナに戻り、1896年から数学教授。1925年に死去した。

フレーゲはアリストテレス以来の最大の論理学者といわれる。革命的なBegriffsschrift(『概念記法』)は1879年に出版され、アリストテレス以来二千年変わらずに続いていた伝統論理学を一掃して論理学の新時代を切り開いた。今日の数学で定着している∀(任意の)や∃(存在する)のような量化はこのフレーゲの仕事に基づいている。

フレーゲは命題論理述語論理の公理化を最初に行った人物であり、特に述語論理はそれ自体がフレーゲの発明である(実際には概念記法は高階論理の体系であり、ラムダ計算の祖ともいえる極めて先駆的なものである)。しかしフレーゲの同時代にはその意義は十分に理解されず、彼の概念が広まったのは、ジュゼッペ・ペアノバートランド・ラッセルらによるところが大きい。またウィトゲンシュタインフッサールも、フレーゲの影響を大きく受けた哲学者である。

またフレーゲは言語哲学分析哲学の基礎を確立した人物の一人としても数えられる。意味(meaning, reference 独語Bedeutung)と意義(sense 独語Sinn)の区別、概念と対象との区別などで知られる。

フレーゲは数学は論理に帰着しうるとする論理主義の最初の主要な論客でもあり、彼のGrundgesetze der Arithmetik(『算術の基本法則』)は自然数論および実数論を論理から導こうとする企てであった。しかしラッセルが『算術の基本法則』の公理系が矛盾を引き起こすこと(いわゆるラッセルの逆理)を発見して指摘したため、2巻の補遺にこの矛盾について認める文言が付されている。フレーゲ自身はなんとか矛盾を回避する方法を模索したが、フレーゲの修正案にも欠陥があることが、1938年レシニェフスキによって示された。

フレーゲの体系に矛盾が生じた原因は、ながらく彼の第5法則に帰されてきた。しかし後にチャールズ・パーソンズジョージ・ブーロスリチャード・ヘックらによって、第5法則に訴えずとも、いわゆる「ヒュームの原理」から自然数論が導出可能であることが示された。これにより、近年ではフレーゲの論理主義を再評価する動きが強まっている。

目次

[編集] 経歴

  • 1848年 ドイツのヴィスマールに生れる。
  • 1854年 ヴィスマールのギムナジウムに進学する。
  • 1866年 父カール・アレクサンダーが死亡する。
  • 1869年 ヴィスマールのギムナジウムを卒業する。イエナ大学に進学する。
  • 1871年 イエナ大学を卒業する。
  • 1871年ゲッティンゲン大学に移動する。
  • 1873年 数学の博士号を取得する。
  • 1874年 イエナ大学に大学教授資格論文を提出し、数学科の私講師に採用される。
  • 1879年概念記法』を刊行する。
  • 1879年頃 イエナ大学の員外教授に昇進する。
  • 1884年算術の基礎』を刊行する。
  • 1885年 イエナ医学・自然科学協会で「算術の形式的理論について」を講演する。
  • 1887年 マルガレート・リーゼブルグと結婚する。
  • 1891年 イエナ医学・自然科学協会で「関数と概念」を講演する。
  • 1892年 論文「意義と意味について」、「概念と対象について」を発表する。
  • 1893年算術の基本法則』第1巻を刊行する。
  • 1895年 リューベックで第67回ドイツ自然科学者・医学者大会の数学・天文部会で講演し、ヒルベルトと出会う。。
  • 1896年 イエナ大学の正名誉教授に昇進する。
  • 1898年 母アウグステ・ビアロブロツキーが死亡する。
  • 1899年 フレーゲとペアノとの交換書簡をペアノの雑誌Rivista di matematica上に発表する。
  • 1900年頃 アルフレートを養子に迎える。
  • 1900年 パリ国際哲学会議に招待講演を依頼されるが断る。
  • 1902年 ラッセルから「ラッセルのパラドックス」を知らせる手紙が届く。
  • 1903年 『算術の基本法則』第2巻を刊行する。枢密顧問官の称号を授与される。
  • 1905年 妻マルガレートが死亡する。
  • 1911年 ウィトゲンシュタインがフレーゲを訪ねる。
  • 1912年 ケンブリッジ数学会議に招待講演を依頼されるが断る。
  • 1917年 ウィトゲンシュタインがウィーンに招待するが断る。
  • 1918年 イエナ大学を退職。バート・クライネンに引退する。
  • 1925年 バート・クライネンで死亡する。

[編集] 代表的な著書

[編集] 参考文献

  • 藤村竜雄 「フレーゲの生涯――解説に代えて――」『フレーゲ著作集1 概念記法』、勁草書房、249-275頁、1999年。
  • 野本和幸 「編者解説」『フレーゲ著作集2 算術の基礎』、勁草書房、199-239頁、2001年。
  • 野本和幸 「編者解説」『フレーゲ著作集3 算術の基本法則』、勁草書房、435-479頁、2000年。
  • 野本和幸 「編者解説」『フレーゲ著作集4 哲学論集』、勁草書房、313-343頁、1999年。
  • 野本和幸 「編者解説」『フレーゲ著作集6 書簡集 付「日記」』、勁草書房、385-431頁、2002年。

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