アルフレート・フォン・ヴァルダーゼー

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アルフレート・フォン・ヴァルダーゼー伯爵(1901年に中国からドイツに郵送された絵葉書)

アルフレート・ハインリヒ・カール・ルートヴィヒ・フォン・ヴァルダーゼー伯爵(Alfred Heinrich Karl Ludwig Graf von Waldersee1832年4月8日 - 1904年3月5日)は、ドイツ帝国軍人陸軍元帥。ドイツ帝国の陸軍参謀総長を務めた。義和団の乱後に中国に駐屯した8ヶ国連合軍の総司令官として知られる。

生涯[編集]

紫禁城で連合軍兵士を閲兵するヴァルダーゼー元帥
  • 1900年 陸軍元帥に列せられる。9月、義和団の乱鎮圧の8ヶ国連合軍司令官となり中国に派遣される。略奪を続ける連合軍兵士に軍規を徹底し、また各国間の調整にあたったが、共和制国家の軍隊であるアメリカ軍フランス軍は決してヴァルダーゼーの指揮下に入ろうとはしなかった。義和団残党に対する懲罰遠征を繰り返す。
  • 1901年 中国から帰国し第3軍総監に復帰。義和団の乱鎮圧を評価され、プロテスタント教徒としては初めてカトリック教会から「ピウス勲章」を受章した。
  • 1904年3月5日 ハノーファーで没。

歴史的評価[編集]

ヴァルダーゼーはドイツ帝国で最初の「政治的」軍人として知られている。前任者大モルトケにも政治的意欲はあったが、ビスマルク首相のイニシアチブに従っていた。ヴァルダーゼーはフランスがその軍事力を再建する以前にロシアに対する予防戦争を行うことを主張しており、そのためビスマルクと対立してその倒閣に参加することになった。ヴァイマル共和政時代にヒンデンブルクルーデンドルフが登場する以前は、政界でもっとも成功した軍人といわれている。

日露戦争勃発の直後に死去したが、死の直前にロシアに対する日本軍の作戦計画私案を立案していた。のちにシュリーフェン参謀総長はヴァルダーゼーの従兄弟に対し、日本軍が実際に採った作戦計画がヴァルダーゼー私案と一致していたと述べている。前任者モルトケと後任者シュリーフェンが高名なため、評価されることは少ないが、作戦能力はこの二人に劣らず優れていたといわれる。ヴァルダーゼーの対露・対仏戦略は後任のシュリーフェンに受け継がれて「シュリーフェン・プラン」として結実し、第一次世界大戦冒頭のドイツ軍の基本戦略となった。

外部リンク[編集]


先代:
ヘルムート・フォン・モルトケ
ドイツ帝国陸軍参謀総長
1888–1891
次代:
アルフレート・フォン・シュリーフェン