第一次サウード王国

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第一次サウード王国
الدولة السعودية الأولى
:en:Egypt Eyalet
:en:Sultanate of Lahej
1744年 - 1818年 第二次サウード王国
オスマン帝国
第一次サウード王国の国旗
(国旗)
第一次サウード王国の位置
第一次サウード王国の版図の変遷
公用語 アラビア語
首都 ディルイーヤ
君主
1744年 - 1768年 ムハンマド・イブン=サウード英語版(初代)
変遷
成立 1744年
滅亡 1818年

第一次サウード王国アラビア語表記でالدولة السعودية الأولى)は、1744年アラビア半島に建設された王国である。ムハンマド・イブン=アブドゥルワッハーブ英語版が唱えるワッハーブ派の運動の普及のため、ナジュドの豪族出身であるムハンマド・イブン=サウード英語版が軍事的・宗教的にキャンペーンを起こした。王国の性格からワッハーブ王国ということもある。主君はワッハーブ派イマームを兼ねる。

歴史[編集]

王国の版図は、初めはナジュドに限定されていたが、東は現在のクウェートからオマーンの国境にまで及んだ。また、北にはイラクやシリアの国境近くまで広がり、1801年シーア派聖地であるカルバラーおよびナジャフを陥落させたことで頂点に達した。この時、アリー・イブン・アビー=ターリブの墓所などシーア派の多数の聖地が破壊され、シーア派住民も虐殺された。 1802年、王国の軍隊はヒジャーズ地方に進出を開始し、イスラームの2大聖地であるメッカマディーナを陥落させた。両聖地の陥落は1517年以来、聖地の守護者を自認していたオスマン帝国に衝撃を与えた。また、イスラム原理主義であり聖者崇拝などを認めないワッハ-ブ派により、聖地メッカにおいて多数の廟が破壊されたため、それ以外の宗派から反感をもたれることになる。

オスマン・サウジ戦争[編集]

オスマン帝国は、エジプト総督ムハンマド・アリーにサウード王国を滅ぼす攻撃命令を下した。ムハンマド・アリーは軍隊を率いてヒジャース地方に殺到し(en:Battle of Yanbuen:Battle of Al-Safraen:Battle of Medina (1812)en:Battle of Jeddah (1813)en:Ottoman return of Mecca 1813)、1813年1月には聖地メッカの奪還に成功した。

1817年、ムハンマド・アリーの子供であるイブラーヒーム・パシャは、軍隊をナジュドへと進めた (en:Nejd Expedition) 。1818年4月、首都ディルイーヤを包囲した。首都でのディルイーヤ攻囲戦英語版は数ヶ月に及んだが、9月18日にエジプト軍の勝利に終わり、サウード家とワッハーブ運動を展開した主要メンバーは、エジプトやあるいはオスマン帝国の首都イスタンブルへ連行された。ディルイーヤは徹底的に破壊されたため、現在は王国が存在した当時の面影は存在しない。最後のイマーム、アブドゥッラー・ビン・サウード英語版は、後にイスタンブルで処刑され、その首はボスポラス海峡に捨てられた。

影響[編集]

こうして第一次サウード王国は滅亡したが、ワッハーブ運動の火種はアラビア半島に残っており、サウード家の生き残りとともにリヤドに本拠地を移し、第二次サウード王国を建設する(1824年から1891年まで存続した)。

第二次サウード王国の滅亡後は生き残った王子が再び王国を再建し、1931年に国王に即位し、現在のサウジアラビアとなっている。このため、サウジアラビアは第三次サウード王国と見ることもできる。

参考文献[編集]