ペドロ1世 (ブラジル皇帝)

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ペドロ1世
Pedro I
ブラジル皇帝・ポルトガル国王
DpedroI-brasil-full.jpg
在位 1822年10月12日 - 1831年4月7日(ブラジル皇帝)
1826年3月10日 - 5月28日(ポルトガル王)
戴冠 1822年12月1日
別号 ペドロ4世(ポルトガル王)
全名 Pedro de Alcântara Francisco António João Carlos Xavier de Paula Miguel Rafael Joaquim José Gonzaga Pascoal Cipriano Serafim
ペドロ・デ・アルカンタラ・フランシスコ・アントニオ・ジョアン・カルロス・ザビエル・デ・パウラ・ミゲル・ラファエル・ジョアキム・ジョゼ・ゴンサガ・パスコアール・シプリアーノ・セラフィム
出生 1798年10月12日
Flag Portugal (1707).svg ポルトガル王国リスボンケルス宮殿
死去 1834年9月24日(満35歳没)
Flag Portugal (1830).svg ポルトガル王国リスボンケルス宮殿
埋葬 1972年
ブラジルの旗 ブラジルサンパウロ独立記念碑
配偶者 マリア・レオポルディナ・デ・アウストリア
  アメリア・デ・レウシュテンベルグ
子女 マリア2世
ミゲル
ジョアン・カルルシュ
ジャヌアリア・マリア
パウラ・マリアナ
フランシスカ
ペドロ2世
マリア・アメリア
王家 ブラガンサ家
王朝 ブラガンサ王朝
王室歌 独立賛歌
父親 ジョアン6世
母親 カルロッタ・ジョアキナ・デ・ボルボン
宗教 キリスト教カトリック教会
サイン Signature of Pedro I of Brazil.png
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ペドロ1世ポルトガル語: Pedro I1798年10月12日 - 1834年9月24日)は、ブラジル帝国初代皇帝(在位:1822年 - 1831年)。ポルトガル国王としてはペドロ4世ポルトガル語: Pedro IV、在位:1826年)と呼ばれる。ブラジルでは一般にドン・ペドロ1世(ドン・ペドロ・プリメイロ)、「解放者」[1]とよばれポルトガルでは「戦争王[2]」と呼ばれている。 ジョアン6世とカルロッタ・ジョアキナの第4子としてリスボンで生まれ、ブラガンサ王家の成員となった。1807年にポルトガルがフランスに侵略されているときに、ポルトガル王室は同国最大の植民地ブラジル英語版に逃げた。

リスボンで1820年自由主義革命が起きると、ペドロの父王は彼を摂政として残して1821年4月ににポルトガルに帰国した。 彼はポルトガル軍によって革命派と反乱軍にからの脅威に対処しなければならなかったがそれらすべてを彼は鎮圧した。 1808年以来ブラジルが満喫していた自治を取り消すポルトガル政府の恫喝はブラジルに広範な不平を引き起こした。 ペドロはブラジル側について、1822年9月7日にブラジルの独立を宣言した。 10月12日には彼はブラジル皇帝に即位し、ポルトガル王立軍を破った。 ほどなくして、ペドロは短命な 赤道連邦を破り、ブラジル北西部の離脱の試みを失敗させた。 1825年のはじめにシスプラチナ州南部の分離主義者とそれに続く、それとは別のリオ・デ・ラ・プラタ州連合結成の試みはブラジル帝国をアルゼンチン・ブラジル戦争に導いた。

1826年3月、ペドロは短期間ながら、長女マリア2世の同意を得て、ブラジル帝位を放棄して、ポルトガル国王に即位した(ジョアン6世が没したため、孫娘マリア2世をポルトガル国王に即位させるために、父のペドロがポルトガル王に即位することで直系相続の体裁をとった)。 南部のシスプラチナ州を喪失した1828年には状況は悪化した。 同じころリスボンでは、マリア2世の王座は、ペドロの弟ミゲルに奪われた。 同時期、皇帝は女官との性的な醜聞で彼の評判を落とした。 ほかの困難はブラジル議会で生じた。そこでは君主が政府を選ぶか、政治的に支配している議会が選ぶかの議論が1826年から1831年まで続いていた。 ブラジルとポルトガルの両方で問題に対処できないので、1831年4月7日にペドロは息子のペドロ2世に譲位してヨーロッパに帰った。 1832年7月、ペドロは軍の先頭に立ちポルトガルに侵攻した。最初に直面しているのが内戦のようななので、彼はすぐに、自由主義者の支持者とと絶対主義の復古を求めるものとの間の広範な紛争に関与しようとした。 ペドロは結核で1834年9月24日に死去し、その直後に自由主義派の勝利が確定した。彼は、同時代人によって称賛され、ブラジルとポルトガルを権威主義的な政体から代表民主制へと移行させるために自由主義の理想の普及を助けた。

生涯[編集]

1798年10月12日、ポルトガル摂政ジョアンの第4子(次男)としてリスボンに生まれる。長兄フランシスコが早世したので、実質的な王位継承者であった。1808年、ナポレオン軍のリスボン侵攻を前に、祖母である女王マリア1世や両親とともにブラジルリオデジャネイロに逃れた。

ポルトガル宮廷のリオ滞在中、マリア1世が没して父ジョアン6世が即位した。王太子となったペドロは、1817年オーストリア皇帝フランツ1世の次女マリア・レオポルディーネ(マリア・レオポルディナ)と結婚した。ペドロは粗野で横暴な人物で、ふだんは陽気だが、突然鞭を振り上げて暴れるような所もあったという。また、レオポルディナに暴力を振るう事もあり、彼女が29歳で亡くなったのは、夫の暴力が原因とも言われている。

1821年、ポルトガル宮廷がリスボンに帰還すると、ペドロはブラジル摂政として残留し、独立を望むブラジルの人々に擁立されて翌1822年に独立を宣言、皇帝ペドロ1世となった。ペドロ1世はリベラルな傾向が強く、1824年には立憲君主制の憲法を制定したが、アルゼンチンとの500日戦争に敗北すると事情が変わってきた。かつて併合したシスプラチナ州を失ったことは国民から大きな批判にさらされた。一説にはこの敗戦が退位の最大の原因だとする説もあるほどである。さらにインフレの昂進、各地での反乱、愛人ドミティラの専横を許し、ブラジル国民に絶大な人気のあった皇后レオポルディナに辛く当たった事などが原因で、人気は落ち目となった。ペドロはただ議会の決議を承認しただけで、実際にブラジルを独立に導いたのはレオポルディナの功績だったからである。

ポルトガル王の父ジョアン6世が没した後、ペドロ1世は自身の王位継承を辞退し、娘のマリア2世が正統なポルトガル王位継承者とされた。しかしマリア2世は幼少のため在ブラジルのままであり、ポルトガル本国ではペドロの弟ミゲル1世が王位を僭称し(1828年 - 1834年)、極めて保守反動的な政治を行っていた。七月革命の余波がブラジルにも波及し、近衛兵までが暴動に加わるのを見て衝撃を受けたペドロ1世は1831年にブラジル皇帝位を退き、長男ペドロ・デ・アルカンタラに譲位した。彼はイギリス軍艦に便乗して出国し、娘マリア2世の王位を主張してポルトガル本国に帰国、弟のミゲルとポルトガル内戦(1828年 - 1834年)を戦った。内戦はリベラル派の勝利に終わり、ミゲルは亡命に追い込まれたが、間もなくペドロも1834年9月24日にリスボンの宮殿で病死し、マリア2世が名実共にポルトガル女王となった。

生い立ち[編集]

誕生[編集]

Painting with a half-length portrait of a young child with wavy auburn hair, wearing a blue jacket, open-necked lace-trimmed shirt, and striped sash, and holding a small bouquet of flowers
2歳のペドロ(1800年ごろ)

ペドロは1798年10月12日8時[3]にリスボン近くのケルス宮殿で誕生した[4]

彼はアルカンタラの聖ペドロにちなんで命名され[5]、彼の全名はペドロ・デ・アルカンタラ・フランシスコ・アントニオ・ジョアン・カルルシュ・シャヴィエル・デ・パウラ・ミゲル・ラファエル・ジョアキム・ジョゼ・ゴンザーガ・パスコアル・シプリアーノ・セラフィム(Pedro de Alcântara Francisco António João Carlos Xavier de Paula Miguel Rafael Joaquim José Gonzaga Pascoal Cipriano Serafim)[6]である。彼は「ドン("Dom")」の称号を有する[7]

彼の父、ジョアン王子(のちのジョアン6世)通じて、ペドロはブラガンサ王家の成員であり、[8][9]、王配ペドロ3世とその妻のマリア1世女王の孫である(ペドロ3世とマリアは叔父と姪の関係でもある)。 [10][11] 彼の母カルロッタ・ジョアキナはスペイン王カルロス4世の娘である。 [12] ペドロの両親は不幸な結婚であった。カルロッタ・ジョアキナは野心的な女性であり、彼女はポルトカルの国益を損ねてでもスペインの国益を追求しようとした。彼女は夫に対して不誠実であり、彼女はポルトガルの不満貴族を糾合して彼の打倒をたくらんだという。 [13][14]

2人目の息子として(第4子)、彼の兄フランシスコ・アントニオが1801年に死去に伴い、ペドロは彼の父の推定相続人となり、 ベイラ公に叙された。 [15] ジョアン王子は母であるマリア1世に代わり摂政として執務していた。1792年にマリア女王が不治の精神障害を宣告されたためである。 [16][17] 1802年まで、ペドロの両親は疎遠であった。ジョアンはマフラ国立宮殿に居住し、カルロッタ・ジョアキナはラマリャン宮殿を住まいとした。 [18][19] ペドロと彼の兄弟姉妹は両親から遠く離れたケレス宮殿で、祖母のマリア1世とともに暮らした。 [18][19][18]

教育[編集]

Painting showing the head and shoulders of a boy wearing a high collar and a coat adorned with medals and a striped sash of office
11歳のペドロ(1809年ころ)

1807年11月の終わり、ペドロは9歳であったが、このときナポレオン率いるフランスの侵略軍がリスボンに迫っていたので、王室はポルトガルを脱出した。 1808年3月、ペドロと彼の家族はポルトガル最大にしてもっとも裕福な植民地であるポルトガル領ブラジル英語版の主都リオデジャネイロに到着した。 [20] 航海の間、ペドロは、航海技術を身に着け、ヴェルギリウスの『アエネーイス』を読み、船員と会話した。[21][22] ブラジルでは、市立宮殿でのわずかの滞在ののち、ペドロは弟ミゲルと父とともにサン・クリストヴァン宮殿 に居住した。[23] 父とは親密な関係とは言えないが、ペドロは父を愛し、父が母の手の中で苛まれている屈辱に憤慨した。 [18][24] 成人すると、ペドロは公然と、母に対して軽蔑の感情のみをいだき、母を「あばずれ」と呼んだ。 [25]

幼少期の裏切り、冷淡と無視の経験はペドロの人格形成に大きなインパクトを与えた。 [18] 彼の幼少期のわずかな安定はは彼の「アーヤ(aia) 」と呼ばれるガヴァネス、ドナ・マリア・ゴンヴェーヴァ・ド・レゴ・エ・モトスによって提供された。彼女はペドロから母のように愛された[26][27]。加えて、彼の「アーヨ(aio)」 (監督官)のアントニオ・デ・アラービダ修道士もそれに貢献した。彼はのちにペドロのメンターになる[22]。2人ともペドロのしつけと、彼に適切な教育を施した。 彼の学業には、政治経済、論理学、歴史、地理など幅広い科目が包含されていた。 [28] 彼はポルトガル語の読み書きを学んだだけでなく、ラテン語フランス語も学んだ。 [29] 彼は英語の翻訳ができ、ドイツ語が理解できた。[30] のちに、皇帝に即位しても、ペドロは毎日少なくとも2時間は勉強と読書をした。[30][31]

ペドロの学業が幅広いのにもかかわらず、彼の教育は欠如が明らかだった。 歴史学者のオタヴィオ・タルキニオ・デ・スーザ(Otávio Tarquínio de Sousa)はペドロは「知性がないのではいかという疑念、頭の回転の良さと洞察力の影がなかったのではなかった」という[32]。しかし歴史学者のロデリック・バーマン(Roderick J. Barman)は彼は生まれつき「活気が盛んで、漫然としすぎて、感情的すぎた」。 彼は衝動的なままで決して自己をコントロールすること、あるいは自分の決定の結末を評価することで学ばなかったし、万事行き当たりばったりであった。 [33]

彼の父は決して誰にも彼に規律つけることを許さなかった。 [28] ペドロのスケジュールはどの日も2時間の勉強があったのだが、彼は時々、自分が興味を持った活動に熱中して、教師を拒んで学習を避けた。 [28]

最初の結婚[編集]

Colored full-length portrait showing a young man with curly hair and long sideburns who is wearing an elaborate gold-embroidered blue military tunic with gold epaulets and medals, blue trousers, black boots, a striped sash of office and gold belt, with his left hand resting on a sheathed sword
Portrait by w:Jean-Baptiste Debretによるペドロの18歳のポートレート(1816年)

ペドロは、勉強部屋ですることよりも肉体的技能を要する活動を楽しみを見出した。 父のサンタクルス農園で、ペドロはいつも乗馬をし、騎馬に秀でるようになり、蹄鉄打ちも上手くなった。 [34][35]

馬上で彼と弟ミゲルは大変なスタミナと大胆さを見せつけた。 2人は見知らぬ土地に狩りに上り、森を抜け、夜や悪天候の中でも馬を駆った。 [34] 彼は描画と手工芸でも才能を示した。彼は個人的な木工と家具作りの工房を構えた。 [36] 加えて、彼は音楽の才を有してして、マルコス・ポルトゥガルの指導の下、王子は作曲を能くした。彼は美声の持ち主で、フルートトロンボーンハープシコードファゴットヴァイオリンギターの演奏に堪能で後者においては、 ルンドゥ, モディーニャファドをよく演奏した。 [37]

ペドロの性格は過敏さに縁どられた力強い情動が著しい。 彼は高飛車で短気になる傾向によって衝動的であった。 飽きっぽく、散漫で、個人的生活で、彼は女遊びに興じ、さらに狩りと馬術がそれに続いた。 [38] 彼の落ち着きのない精神は彼に冒険を強いた。 [39] 彼は時々、変装してはリオデジャネイロの悪所に通った。 [40] 彼が酒を飲むのはまれであるが[41] どうしようもない女たらしであった。[42] 彼が最初に関係を持った女性は、フランスのダンサーのノエミ・ティエリー(Noémi Thierry)だといい、彼女は彼の子を死産した。 ペドロの父(すでに即位してジョアン6世となっていた)は、彼女が息子とオーストリア皇帝フランツ1世の皇女マリア・レオポルディナの結婚の邪魔になることから追放した。 [43][44]

1817年5月13日、ペドロはマリア・レオポルディナと代理結婚した。 [45][46] 11月5日、彼女がリオデジャネイロに到着したとき、彼女はすぐに、ペドロと恋に落ちた。彼は彼女が予想していた以上に魅惑的であり、人を引き付ける人物であった。 のちに「熱帯の太陽の元での数年、彼の顔色は明るく、頬はバラ色であった」。19歳の王子は眉目秀麗で、平均よりやや高めの身長、輝く黒い瞳に暗い茶色の髪をしていた。 [34]歴史家のNeill Macaulayは以下のように書いている。「彼の良い容姿は思春期にさえ毅然としていたことと非の打ちどころのない、彼の身だしなみ、に多くを依っている。習慣的に清潔にし、彼はブラジルの入浴の習慣に親しんでいた」。 [34] 代理結婚を追認し誓約するための、結婚のミサはがのちに挙行された。 [47] 2人の間には7人の子どもが生まれた。マリア・ダ・グロリア、ミゲル(w:Miguel, Prince of Barlos, Prince of Beira)、ジャヌアリア、パウラ(w:Princess Paula of Brazil)、フランシスカとペドロ・デ・アルカンタラ(のちのブラジル皇帝ペドロ2世).[48]

ブラジルの独立[編集]

1820年の自由主義革命[編集]

Colored sketch depicting a crowd of civilian and military figures standing and waving before the crowded balcony of a pedimented building with people looking on from its windows
1821年2月26日、父王の名の下で「ポルトガル憲法」の遵守を誓うペドロ。バルコニーの真ん中で帽子を挙げている人物がペドロ。

1820年10月17日に、ポルトガルの警備隊が反乱を起こしたというニュースがもたらされた。1820年自由主義革命として知られる。 軍は暫定政府を設立し、ジョアン6世の任命した摂政にとってかわり、このときに民主的に憲法制定の目的で選出した、前世紀の議会「コルテス」を招集した。 [49]ペドロは驚いた。このとき彼の父は彼に助言を与えていないだけでなく、彼を摂政として代理統治のために彼をポルトガルに派遣し、なだめることも決定していたのだ。 [50] 王子は帝王学を受けていなかっただけでなく、政治問題への参加を許されていなかった。彼の存在意義は姉のマリア・テレサの代わりであった。ジョアン6世は彼女を頼りにしており、枢密院の参加の権利を与られていたのは彼女だったのだ。 [51]

ペドロは父王とその寵臣によって疑惑をもたれており、彼らの皆が絶対王政の原則に固執していた。 対照的に、ペドロは自由主義と立憲議会制の支援者としてよく知られていた。彼はヴォルテールバンジャマン・コンスタンガエターノ・フィランギェリエドマンド・バークの著作を読んでいた。 [52] 彼の妻、レオポルディーナでさえ「神は私たちを助け、夫は新しい思想を愛す」と述べている。 [53][54] ジョアン6世は、ペドロがいったんポルトガルにつけば革命派に称賛される王になることを恐れ、ペドロの出発を出来るだけ延期させた。 [50]

1821年2月26日、リオデジャネイロのポルトガル軍は反乱を起こした。 リオデジャネイロよりやや離れたサン・クリストヴァンは落ち着いていいるが、ジョアン6世も政府も反乱軍にたいして何の動きも見せなかった。 ペドロは独自の行動を決断し、反乱軍の味方をした。彼は反乱軍と交渉し、父王にその要求を飲ませた。その要求には、新内閣の指名と、将来のポルトガル憲法の順守の誓約が含まれていた。 [55] 4月21日、リオデジャネイロ教区選挙区は為替取引所で、コルテスの議員の選挙を行った。 扇動者の小規模なグループが選挙会場を押さえ、革命政府を樹立した。ジョアン6世と大臣らは受動的で、王家は革命派の要求を受諾しようとし、このときペドロはイニシアチブをとり為替取引所に軍を派遣し秩序を回復させた。、 [56] コルテスの圧力のもと、ジョアン6世とその家族は4月26日に、ペドロとマリア・レオポルディナを残して、帰国の途に就いた。2日前に父王はペドロに警告していた。「ペドロ、もしブラジルに何かあれば、危なっかしいことなどせずに、お前が尊敬する父のためになることをせよ」と。 [57]

「独立か死か」[編集]

Painted head and shoulders portrait showing a young man with curly hair and mustachios who is wearing a formal black coat, high collar and cravat with a city scene in the distant background
サンパウロの街を背景にした23歳のペドロの肖像画(1822年)

ペドロは質素な人物であった。習慣にも、そのほかの扱いにおいても。礼服を着る厳粛な場を除けば、彼の日頃の服装は白綿のズボンに縞の綿の上着を着用し、つばの広い麦藁帽をかぶるか、よりフォーマルな場ではフロックコートを着用し、トップハットをかぶっていた。 [58][59][60][61] 彼はよく路上で人々、世の中の問題を知るために人々と会話をした。[62] 摂政になった当初、ペドロは個人と財産の権利を保障する布告を出した。 彼は政府の支出と租税を削減した。 [54][63] 不動産所有者は土地の没収から保護されており、市民は令状なしで逮捕されることもなくなったし、刑事手続きなしで拘束されることもなくなった。 被疑者はもはや手続きなしで48時間以上勾留されなくなったし、弁護人を立てられた。 拷問秘密裁判、非人道的な拘束もまた廃止となった。 [64][65] 為替取引所を押さえた革命派でさえ自由とされた。[64] 6月5日にポルトガルのジョルジェ・アヴィレス(のちのアヴィレス伯)中将指揮下の軍が、ペドロに発布された「ポルトガル憲法」の遵守を宣誓するのを要求して、反乱を起こした。 彼は去る2月26日に、個人的に独り反乱軍に味方していた。彼は静かに、機略的に交渉し、軍の尊敬を勝ち取り、彼らのもはや容認できない要求の衝撃の軽減に成功した。[66][67] 反乱は、ペドロを単に飾りにし、アヴィレスに権力を遷すための薄いヴェールをかぶったクーデターであった。 [68] 王子は不満足な転機を容認したが、圧力に屈するのはこれが最後であった。[67][69]

継続する危機は後戻りできない点まで到達した。このとき「コルテス」はリオデジャネイロ中央政府を溶解し、ペドロの復帰を命じた。 [70][71] これは、「ポルトガル=ブラジル」は1815年以来植民地ではなく王国の地位であったブラジルを、再びポルトガルに従属させる試みとブラジル人に感ぜられた。 [72][73]1822年1月9日、ペドロは彼にブラジルを離れないでほしいという嘆願する8千人の署名を含む請願を提示された[74][75]

彼は「それがすべての良きもので、国民全体の幸福ならば、私はよろこんで、私は人々にここに留まると告げるであろう」。 [76] アヴィレスは再び反乱をお起こし、ペドロにポルトガルに戻るように強要した。この時、王子は民兵隊と市民軍からなるブラジル軍(前の反乱のポルトガル人は一緒ではない)を結集して迎え撃った[77][78][79]。劣勢のアヴィレスは降伏し、彼の軍と一緒にブラジルから追放となった[80][81]

次の数か月の間、ペドロはうわべだけのポルトガルとの連合を維持した。しかし最終的な決裂が迫った。有能な大臣w:José Bonifácio de Andradaに助けられて、彼はリオデジャネイロの外に支援を探した。 王子は4月にミナス・ジェライスを旅して、8月にはサンパウロ州を訪れた。彼は両州で温かい歓迎を受け、その権威を強化した。 [82][83] サン・パウロから戻るさいに、彼は9月7日に送られた知らせを受け取った。「コルテスはブラジルの自治政府を受諾しない。この命令を破るものは皆罰する」と。 [84]

「ペドロはいつでも速やかな衝動においては、大胆な行動を避けてきたが、彼は要求される手紙を読み時間さえももはや要しなかった」とバーマンは書く."[85] 。 ペドロは鹿毛牝馬に跨り、 [86] そして、従者と儀仗兵を前にペドロは言った。 「友よ、ポルトガルのコルテスはわれらを隷従させ虐げようとしている。今日の日をもって、われらへの束縛は終わりだ。わが血によりて、わが栄光によりて、わが神によりて、ブラジルの独立のもたらすことを誓う。ブラジル人よ、きょうのこの日より合言葉は『独立か死か!』だ!」 [87]

立憲君主[編集]

Half-length pencil or silverpoint sketch showing a young man with curly hair and long sideburns facing left who is wearing an elaborate embroidered military tunic with heavy gold epaulets, sash and medals
25歳のペドロ1世の肖像(1823年)

9月7日を過ぎてもジョアン6世はいまだに独立したブラジル王国の正当な統治者として承認されていなかった。 [88] ブラジル独立運動は王に対してではなく、単にコルテスによる支配体制とみなされていた。 [89] 摂政王子は王ではなく皇帝としてのブラジルの帝冠を受諾するように説得されていた。しかしペドロははっきりとせず、父王がブラジルに戻ってくればブラジルの王座を手放すつもりでいた。 [90] 24歳の誕生日に彼はドン・ペドロ1世とされ、10月12日にブラジル帝国を建国することで一致した。彼は12月1日に戴冠した。 彼の優位はすぐにブラジル全域に広まったわけではなかった。 彼は北部北東南部地域のいくつかの州を恭順させなければならなかった。そしてポルトガルの最後の抵抗部隊が降伏したのは1824年であった。 [91][92]


その間にペドロ1世とボニファシオの関係は悪化した。皇帝は彼をいったんは助言者とみなしたが、[93][94] ボニファシオの役割を新参者の卑屈な地位である学校長にしたことで摩擦がおきた[95]。 ペドロ1世が不適切な理由でボニファシオと兄弟のマルティン・フランシスコ・デ・アンドラダをministry portfoliosから遠ざけたとき状況は最悪になった。 権威主義者でabusiveのボニファシオはその地位を、政敵を苦しめ起訴し逮捕し、亡命させることにさえ利用してきた[96] 数か月間、Bonifácioの敵は、皇帝に勝利しようと画策した。 ペドロ1世はいまだに摂政王子であり、1822年5月13日に、彼らはペドロに「ブラジルの永遠の守護者」の称号を与えた。 [97] 8月2日に彼らはペドロ1世をフリーメーソン殿堂入りにし、[98][99]Bonifácioにはその地位を皇帝から与え、その引き換えに10月7日に皇帝にグランドマスターの地位を与えた。[100]

君主とかつての大臣との間の危機はすぐに制憲立法議会に伝播した。この議会は憲法を起草するための議員が選ばれたのである。 [101] 議会のメンバーの一人は、ボニファチオに、ポルトガル生まれのペドロ1世も加担していたブラジルの利益の示唆に対してポルトガルの大きな陰謀の存在を主張し、民衆扇動を頼んだ。 [102][103] ポルトガル生まれの市民の忠誠心と彼自身のブラジルに向けられた忠誠において彼が矛盾しているという矛盾した暗示に向けられた中傷に、皇帝は激怒した。 [104] 1832年11月12日、ペドロ1世は制憲立法議会の解散を命令し、新しい議員を召集した。 [105] 翌日、彼は土着の憲法の起草を担う枢密院を設置した。草案の写しはすべての都市の議会に送られ、大多数が賛成に投票し、帝国憲法はすぐに採用された。 [106] 1824年3月25日に憲法は公布され、厳粛に宣誓された。[107] 憲法によって建国された高度に中央集権的な国家の結果として、セアラー州, パライバ州ペルナンブコ州での反乱者はブラジルからの脱退を企み、赤道連邦と知られるものに連合したした。 [108][109]ペドロ1世は反乱軍をなだめるための申し出によって流血を避けようとしたが失敗した[108][110]。怒ってペドロ1世は言った「ペルナンブコからの侮辱は必要だったのか?必ずや罰を与える、先例として将来に資するような罰をだ!」[108] 反乱はその地域を掌握することはできずに容易に鎮圧された。 1824年の終わりまでに反乱は終息した。 [109][111] 16人の反乱者が挑戦をうけて処刑され、[111][112] 同時にほかのすべては皇帝によって赦免された[113]

内外の危機[編集]

ポルトガル王室の危機[編集]

Painted half-length portrait showing a young man with curly hair and mustachios who is wearing an elaborate embroidered military tunic with gold epaulets and medals
27歳のペドロ1世(バイーア州サルヴァドール旅行にさいして、1826年3月)

長い交渉ののち、1825年8月29日ポルトガルは「リオデジャネイロ条約」に調印し、ブラジルの独立を承認した。 [114] 独立の承認を除けば、ブラジルに、無条件のポルトガルへの賠償金の支払いの要求があるなどこの条約はブラジルには不利なものであった。 賠償は、ブラジルに常駐していたブラジルに政府に没収された不動産のようなポルトガル人の保有してきた財産的損失に対して支払われた。 ジョアン6世はブラジル皇帝を称する権利を与えられた。 [115] それに増す屈辱は、この条約は、ブラジル人が武力で勝ち取ったものではなく、「ジョアン6世の慈悲深い行動として与えられたもの」であることを、言外に記されていたことであった。[116][117] さらに悪いことに、イギリスが別の条約の調印によって交渉を進めるうえでのその役割を得たことである。この条約ではイギリスは有利な通商の権利を更新と、ブラジルは4年以内にアフリカとの奴隷貿易を廃止することに同意の2つであった。 この協定の両方ともブラジルの経済的利益に有害なものであった。[118][119]

数か月後、皇帝は父王が1826年3月26日に崩御した知らせを受け取った。彼はポルトガル王位を継承しポルトガル国王ペドロ4世となった[120]。 ポルトガルとブラジルの再統合が両国国民には容認できないことに気が付き、彼はすぐにポルトガル王から退位した。5月2日にペドロはポルトガル国王とブラジル皇帝の兼任をあきらめ、 [121] 長女をポルトガル女王に即位させた。マリア2世である。 彼の退位は条件付きであった。ポルトガルは、ペドロが起草した憲法を受諾しなければならない。またマリア2世はペドロの弟ミゲルと結婚すること。といった条件であった。 [120]ペドロは1822年以来の連合を想定し、ミゲルにブラジルへの帰還の強要をたくらんでいた。

皇帝は弟に以下のようなことを書き送った。「お前にポルトガルから離れないように言う者は後を絶たないだろうに、彼らには適当なことを言ってくがいい。彼らはブラジルの離脱とともに、お前がポルトガル国王になるというのだろう。そんな連中ににも同じように適当なことを言っておくがいい」。 [122] 退位したにもかかわらず、ペドロは、ブラジルの政府の人事のような内政同様に「本国不在のポルトガル国王」として行動と外交問題の仲裁を継続した。 [123] 彼は、たいへん後になってからそれが困難であることに気付いた。すなわちブラジル皇帝の地位を別にして、ポルトガルでの娘の利益を守り続けることである。 [123]

ミゲルはペドロの計画を遵守するふりはした。 1828年に、彼は摂政と宣言され、カルロッタ・ジョアキナによって戻るとすぐに、憲法を廃止し、ポルトガルの絶対主義者の支援を受け、ポルトガル国王ドン・ミゲル1世を名乗った。[124] 愛する弟の裏切りの痛みに、ミゲル一派に対して亡命し、存命の姉 マリア・テレザ、妹マリア・フランシスカイザベル・マリアマリア・ダ・アスンサンらの同様にペドロは耐えた。 [125] 彼のいちばん末の妹アナ・デ・ジェズスは彼に信頼をよせ[125]、のちに彼の近くにいるためにリオデジャネイロに渡った[60]。ペドロは、弟への憎悪と、ミゲルは実は父王を殺害したという噂を信じはじめ[126]ペドロは、ポルトガルに目を向け、マリア2世の権利のための国際支援のみを集めようとした[127]

アルゼンチンとの戦争と皇后の崩御[編集]

A large crowd of people and mounted horsemen fill a large public square before the steps of a twin-spired baroque church
リオデジャネイロのサンフランシスコ広場で祝賀されるペドロ1世(1826年4月4日)

リオ・デ・ラ・プラタ諸州連合 (いまのアルゼンチン)によって戻ると、1825年に小規模な集団がブラジルの最南端のシスプラチナ州の独立を宣言した[128]。 ブラジル政府は小規模な反乱として離脱の企てを当初、感知していた。 離脱には諸州連合の関与によるより大きな脅威到来前の数か月間を要し、諸州連合は同州を離脱させ、深刻な懸念を起こした。帝国は、報復としてw:Cisplatine Warを引き起こした[129]。 1826年2月に皇帝は皇后と皇女とマリアとともに北西部のバイーア州を旅行していた。 皇帝はバイーア州の住民に温かく迎えられていた。 [130] 旅行は戦争の努力の支援を醸成するために計画された。[131]

帝国の側近にはドミティリア・デ・カストロ (サントス子爵夫人、のちサントス侯爵夫人)が含まれており、1822年に出会ってから彼女は皇帝の公妾であった。 彼はマリア・レオポルディナにとってけして良き夫ではなかったが、以前は他の女性との性的な関係を隠そうとしていた[132]。 しかし、彼の新しい愛人への寵愛は「露骨にして際限のないものになり」[133]、それにさいし皇后は恥辱に耐え、ゴシップの対象となった[133]。ペドロはいっそう皇后に対して無礼で下劣にふるまうようになり、皇后には短期間の資金しか残さず、さらに宮殿から離れるのを禁じ、ドミティリアの存在を皇后付の女官として認めるように強要した[134][135]。 その間に、彼の愛人は利益を増進させることで優位に立ち、彼女の家族や友人もその余沢を受けた。 恩恵を求める、あるいは計画を増やす彼らは彼女の助けやノーマルなコネや法的なチャンネルをもとめた。 [136]

1826年11月24日、ペドロはリオデジャネイロからサンタカタリナ州サンホセへと渡航した。 そこから、彼は リオグランデ・ド・スル州の州都ポルトアレグレへと騎馬で訪れた。そこには主な陸軍が駐屯していた。 [137] 12月7日の訪問で、皇帝は軍の状況が彼の予想以上に悪化していることを知った。 彼は「彼のいつもの活力で反応した。すなわち、彼は命令の突風を吹かせ、名だたる政治屋と不適格者に砲火をあびせ、兵士と親交を深め、軍全体と行政管理にショックを与えた」。 [138] 彼が、皇后が流産の後に死去したことを知らされたのはリオデジャネイロへ戻る途上であった[139][138][140] 皇后が死んだのはペドロによる暴行の後であるという根も葉もない噂が首都に広まった。 [141]

戦争は、回避の結論のないまま、間近に迫っていた、1828年6月、アイルランド人、ドイツ人傭兵の反乱がリオデジャネイロで起きた[142][143]。 ブラジルで軍の過酷な環境に不満が原因であった。傭兵たちは諸州連合から反乱を起こすだけでなく、交渉の切り札としての人質にするために皇帝を捕まえるための賄賂をもらっていた[144][145]。 傭兵たちは多大な犠牲を出した。 ペドロは8月ににシスプラチナ州を放棄した。この州はのちにウルグアイとして独立した。[146][147]

二度目の結婚[編集]

Under a red canopy in a baroque church, a man in uniform places a ring on the finger of a woman in an elaborate white dress, attended by 4 small children, bishops and other onlookers
ペドロ1世とアメリー・ド・ボアルネの結婚。宮中席次にによって並ぶ彼とマリア・レオポルディナとの間の子どもら、ペドロジャヌアリアパウラフランシスカ

皇后崩御後、ペドロはいかに無慈悲に皇后を扱ってきたかを悟り、ドミティリアとの関係も崩壊し始めた。 皇后は寵姫と違い、人気があり、誠実で、何の見返りも期待せずに皇帝を愛していた。皇帝は大いに皇后を悼み、ドミティリアとの関係は彼の喪失感と嘆きの感情を克服することに失敗した[148]。 ある日、ドミティリアは皇帝が広間で亡き皇后の肖像を抱きしめて嗚咽しているところを見た。幽鬼のように見えたペドロは皇后に会いたいと叫んだ。 [149] のちに、皇帝はドミティリアと同衾していたベッドから離れ叫んだ「私よ失せろ!私は君主に値しない暮らしをしていたのだ。皇后の思いは私から離れていない」 [150][151]

彼は子供たちのことを忘れず、母のない、幼い息子ペドロを抱いている場面がをそれまで以上に見られた。皇帝は息子を腕に抱えて「哀れな子よ、お前は世界一不幸な皇子だ」と言いながら。[152]

ペドロの主張で、ドミティリアは1828年6月27日にリオデジャネイロを出た。 [153] 彼はより高貴な女性との再婚で解決しようとした。 彼は義父に誠心誠意説得を試みた。以下のようなことを書いた手紙で。「私の邪悪なものは終焉しました。私は再びかつて犯した過ちを繰り返さないでしょう。私は後悔し、神に許しを請い続けています」。 [154] オーストリア皇帝フランツ1世は、娘が生前に耐えた行為に激しく立腹しており、ブラジルへの支援から手を引き、ポルトガルの利益をくじいた。 [155]

ペドロの過去の振る舞いに起因する悪評で、欧州各国のプリンセスは相次いで結婚の申し出を断った。 [124] 彼の自尊心は傷つき、彼は愛人が宮廷に戻ることを許した。ほぼ1年ほどたった1829年4月29日に彼女は戻った。 [154][156] しかし、いったんは彼は婚約を済ませると、ドミティリアとの関係をきっぱりと終わらせることを学んだ。彼女は郷里のサンパウロに8月27日に戻った。 [157]それより前の8月2日に、彼はアメリー・ド・ボアルネと代理結婚した[158][159]。 彼女の生家の格式は低かったものの、[160][161]彼は、実際会ってみると彼女の美しさに言葉を失った。[162][163]代理結婚での誓約は10月17日の結婚ミサで追認された[164][165]

ポルトガルとブラジルの間で[編集]

終わりなき危機[編集]

Engraved half-length portrait showing a young man with curly hair who is wearing an elaborate brocade military tunic with epaulets, a striped sash of office and medals
32歳のペドロ1世(1830年)

1823年の立憲議会の日々以来、そして1826年に新たな活力とともに、大議会(いまのブラジル議会)の開会とともに、統治についての皇帝と立法府によって振り回された勢力均衡の上でのイデオロギー的争いが存在してきた。ペドロ1世と考えを同じくする勢力はの政治家たちは君主が自由に大臣、政策、統治方針を選択すべきだと考えていた。これの自由主義派として知られる反対派は内閣は統治の方針を決める権限を保持すべきであり、同時に内閣は議会に責任ある多数派からの代表者から構成されるべきだと考えた。 [166] 厳密に言えばペドロ1世支持派も自由主義派の両方とも自由主義思想と立憲君主制を提唱していた[167]

指摘するまでもなくペドロ1世の統治者としての失敗は憲法を尊重したことである。彼は選挙または信任投票の不正を変更しなかったし、[168]政府によって裁可された法律の署名を拒否しなかったし、言論の自由になんら制約を加えなかった。[169] [170][171]。君主大権のうち、それが自分の目的に合意しなかったときか立法院の創設を延期するときに、貴族院を解散せずに、新たな選挙を実施した。[172] 自由主義的な新聞とパンフレットはペドロ1世がポルトガルで生まれたことを明らかな罪と誤った攻撃の両方を補強するのに取り上げ(たとえば、ペドロの関心の多くはポルトガル問題に向いていた )[173](e.g., 彼は憲法を抑圧する謀議に関与して、ブラジルとポルトガルを再統合しようとした。)[174]。自由主義者に対して、"the Buffoon"ことフランシスコ・ゴメス・ダ・シルヴァを含むブラジル宮廷にいるポルトガル出身の皇帝の友人らは、これら徒党の一部であり、「影の内閣」を形成していた[175][176]。 これらの中に、このような事柄に関心を催すものはなかったし、どの関心も彼らは共有していたかもしれない、憲法を廃止またはブラジルをポルトガルの統制下に置こうとする宮廷の謀議などはなかったのである[177]

自由主義者による批判のもう一つの根拠はペドロ1世の奴隷制度廃止の考えに関係していた[178]。皇帝は当然奴隷制度廃止のための段階的な過程を考えていた。しかし、憲法では立法権は議会の手中にあり、議会は奴隷を所有する大土地所有者によって占められていた。彼らは奴隷制度廃止のいかなる試みにも反対であった。[179][180] 皇帝は土地を解放奴隷に与えることでモデルとしてサンタ・クルスに農場を建設し、道徳的事例によって信念に取り込むことを希望した。 [181][182]。 ペドロ1世はまたほかの進歩的な理想を告白していた。1822年1月9日に彼はブラジルに残る意向を宣言し、庶民は、ペドロを馬を解き放ち、彼の荷物を彼ら自身で背負う名誉を称えたときに、摂政王子は拒否した。彼の返答は王権神授説と貴族の血統の優位性と人種の白人優位説の公然たる非難であった。 「我が友人が一人の人を神のための供物にしているのを目にするのは大変悲しい。 私は我が血潮の色が黒人と同じ色であることを知っている[183][184]」。

退位[編集]

A painting showing a crowded room in which a uniformed man hands a sheaf of papers to another uniformed man while in the background a weeping woman sits in an armchair holding a young boy before whom a woman kneels
Pedro I delivers his abdication letter on 7 April 1831

ドミティリアの宮廷からの追放の後、皇帝の宣誓はその振る舞いを慈悲深いものに変えていった。ペドロ1世の2人目の妻アメリーは優しく子供たちを愛し、皇帝一家と公衆にたいして必要とされるセンスの両方を兼ね備えていた。 [185]柄にもなくペドロはもう浮名を流すこともなく、配偶者に忠実な者になった。[186] 過ちを軽減し、過去の過ち以上にしない試みにおいて、ペドロ1世はジョゼ・ボニファチオと前の大臣とメンターと和解した。 [187][188]

皇帝の自由主義派を懐柔する努力は重要な変化に結実した。彼は責任内閣制を確立した「1827年法」を支援した。[189] 1831年3月19日、彼は統治において議会により重要な役割を認め、反対派の政治家によって構成された内閣を任命した[190][185][191]

彼は狼狽し、その場しのぎの対策では自由主義派からの政府と彼の「外国生まれ」への継続的な攻撃は止まなかった。 それらの非妥協性はくじかれ、彼はしぶしぶ悪化していく政治的情勢に取り組むことになった。 [185] その間に、ポルトガル人亡命者は彼にブラジルを諦めて、その代わりにペドロの王女マリア・ダ・グロリアのポルトガル王位への主張ために精力を傾けるように説得しにやってきた。 [192] Roderick J. Barmanによれば「危機において、皇帝の能力は光り輝き、そののち神経は冷静になり、行動においては機知に富み、不退転のものとなる。退屈で、慎重で懐柔的なものは彼の人となりとは対立するものであった。」と[193] 他方で、歴史家は指摘する。彼は「彼の娘の事案に、彼の人柄を最も訴えかけるべきあらゆるものを見出した。ポルトガルに行くことで、彼は、その騎士道精神と自己犠牲精神を誇示し、虐げられた者を擁護し、憲法を支持し、彼が望む行動の自由を満喫することができたのである」。 [192]

1829年のはじめには退位とポルトガル行きの考えは彼の心の中に芽生え、彼はしばしばそれについて話していた。 [194] 機会はすぐに気まぐれによる行動で現れた。自由主義者の中の急進派はリオデジャネイロのポルトガル人コミュニティに嫌がらせをするためにストリートギャングを集めた。1831年3月11日、「割れた瓶の夜("noite das garrafadas")」として知られる事件で、ポルトガル人は報復し、騒動は首都の街頭に広まった。 [195][196] 4月5日、ペドロ1世は自由主義内閣を事態収拾の命令に対する無能力を理由に攻撃した。この内閣は3月19日に組閣されたばかりであった[190][197] 急進派によって煽られた群衆は4月6日の午後にはリオデジャネイロのダウンタウンに集まり、倒された内閣の復帰を要求した。 [198]皇帝の返答は「余は人民のためにあらゆることはしたが人民に強いられたことをしたことはない」であった。[199] 日暮れになると、近衛兵を含む軍はペドロ1世を見捨て、抗議者たちに合流した。ここにきて彼はいかに自分が孤立し、ブラジル情勢から切り離されている状態になっていたことを認識し、誰のも驚きにたいし、4月7日の3時ごろに彼は退位した。 [200] 退位の勅書が運ばれるときに彼は言った。「ここに諸君らのもとには我が退位の詔勅があるが、余がこの深く愛する国を離れ、ヨーロッパにもどっても、なおこの国を愛す」 [201][202]

ヨーロッパへの帰還[編集]

ペドロはイギリス軍艦に便乗して出国し、娘マリア2世の王位を主張してポルトガル本国に帰国、弟のミゲルとポルトガル内戦(1828年 - 1834年)を戦った。内戦はリベラル派の勝利に終わり、ミゲルは亡命に追い込まれたが、間もなくペドロも1834年9月24日にリスボンのケルス宮殿で病死し、マリア2世が名実共にポルトガル女王となった。

称号と栄典[編集]

称号と紋章[編集]

ブラジル皇帝としての称号は:立憲皇帝にしてブラジルの永遠の守護者、ドン・ペドロ1世陛下[203]

ポルトガル国王としての称号は:ポルトガルアルガルヴェアフリカの諸海洋の王にして、ギニアアラビアペルシアおよびインドの征服、航海、通商の君主…ドン・ペドロ4世陛下[204]

爵位[編集]

ポルトガル王位継承者として:[205]

栄典[編集]

Cursive monogram or cipher P with flourishes
公文書でのイニシャルによるサイン

ブラジル皇帝ペドロ1世はグランドマスターとして以下のような勲章を佩用していた。[206]

ポルトガル国王ペドロ4世はグランドマスターとして以下の勲章を佩用していた。[6]


ポルトガル王を退位後に授与された勲章。

外国からの受賞[208]

系譜[編集]

子女[編集]

名前 肖像 生没年 備考
母はマリア・レオポルディーナ (1797年1月22日 – 1826年12月11日; 1817年5月13日結婚(代理人による))
マリア2世 Painting showing the head and shoulders of a young woman wearing a lacey blue dress with auburn hair pulled back 1819年4月4日 –
1853年11月15日
ポルトガル女王「マリア2世」(在位1826年―1853年)。最初の王配w:Auguste de Beauharnais, 2nd Duke of Leuchtenbergは第一子を儲けたのち結婚後数か月で死去。次の王配ザクセン・コーブルク・ゴータ家のフェルディナント(Fernando II )彼女は11人の子どもをもうける。マリア2世の系統は1835年10月30日のブラジルの帝位継承法no. 91によってブラジル帝室の経緯継承権を失う。[209]
ベイラ公ミゲル 1820年4月26日―同月同日没 夭折
ベイラ公ジョアン・カルロス 1821年6月6日 –
1822年2月4日
夭折
ジャヌアーリア Sepia photograph showing the head and shoulders of a middle-aged woman wearing a dark dress with thin white collar 1822年3月11日 –
1901年3月13日
アクイラ公ルイージ両シチリア王国フランチェスコ1世の王子)と結婚。4人の子をもうける。1822年6月4日に公式にポルトガルのInfantaに承認される。[210]しかしブラジルの独立とともに、ポルトガル王家の系統から除外される。[211]
パウラ 1823年2月17日 –
1833年1月16日
9歳で夭折。髄膜炎か?[212]ブラジル独立後に誕生。ポルトガル王家の系統から除外。[213]
フランシスカ Faded sepia photograph showing the head and shoulders of a lady wearing a veil over her hair 1824年8月2日 –
1898年3月27日
ジョアンヴィル公フランソワ・フィリップ(フランス7月王政のルイ・フィリップの王子)と結婚。3人の子をもうける。ブラジル独立後の誕生のためポルトガルの王室の系統から除外。[214]
ペドロ2世 Sepia photograph showing the head and shoulders of a bearded, light-haired man wearing a formal black coat, white shirt and dark cravat 1825年12月2日 –
1891年12月5日
2代ブラジル皇帝(在位1831年―1889年)。テレサ・クリスティナ(両シチリア王国フランチェスコ1世の王女)。4人の子をもうける。父帝がポルトガル王を退位したために「ポルトガル王ペドロ5世」にはなれず。系統もポルトガル王室から除外。[215]
母はアメーリエ・フォン・ロウヒテンベルク (1812年7月31日 – 1873年1月26日;1829年8月2日結婚(代理人による))
マリア・アメリア Painted head and shoulders portrait of a young woman wearing an ermine stole thrown over one shoulder, a double strand of large pearls around her neck, pearl drop earrings, and a pink camellia arranged in the hair over her right ear 1831年12月1日 –
1853年2月4日
彼女はヨーロッパで育ち、ブラジルに行くことはなかった。マリア・アメリアは第2次メキシコ帝国の皇帝となるハプスブルク家のマクシミリアン大公の婚約者であった。父がポルトガル王退位後に誕生したため、ポルトガル王位継承権喪失。[216]
母はサントス侯爵夫人ドミティッラ・デ・カストロ (1797年12月27日 – 1867年11月3日)
ゴイアス女公イザベル・マリア Black and white copy of a painted portrait showing the head and shoulders of a woman with dark, curled hair, large eyes and wearing a circlet of flowers and veil on her head 1824年5月23日 – 1898年
彼女はペドロ1世の子どものうち彼本人が公式に婚外子であることを認めたただ一人の子どもである[217]

1826年5月24日、イザベル・マリアはゴイアス女公の爵位と殿下の称号とドーニャ("Dona")を使用する権利を与えられる。 [217] 彼女はブラジル帝国で初めて公爵の爵位を保持した人物である[218]。 これらの栄典は彼女にブラジル皇女の地位を授与する者でもなければ、彼女を皇位継承対象者に含めるものではなかった。 ペドロ1世の意志で、彼女にはペドロの財産の分け前が与えられた[219]。彼女は1843年4月17日に外国人貴族トロイベルク伯爵エルンスト・フィッシュラー・フォン・トロイベルクと結婚し、それに伴いブラジル帝国での栄典を喪失した[220][221]

ペドロ・デ・アルカンターラ・ブラシレイロ 1825年12月7日 –
1825年12月27日
ペドロは「サン・パウロ公」の爵位を与えたようだが夭折して不明。[222]
マリア・イザベル・デ・アルカンターラ・ブラシレイロ 1827年8月13日 –
1828年10月25日
ペドロ1世は彼女にセアラ女公の爵位と殿下の称号、ドーニャ("Dona")を使用する権利を与えた。[223]これは彼女の早すぎる死で効力を発揮しなかった。しかしながら、彼女をセアラ女公と呼ぶのはすっかり常識となっており、たとえ彼女の称号が、「帝室の公式な台帳に記載されていなくとも」そう呼ばれていた[223]
イグアス女伯マリア・イザベル・デ・アルカンターラ Black and white photograph showing the head and shoulders of a woman with dark hair wearing a dress with a large, white collar 1830年2月28日 – 1896年 Countess of Iguaçu女伯は1848年のw:Felisberto Caldeira Brant, Marquis of Barbacenaの息子ペドロ・カルデイラ・ブラントと結婚した[222]。アメリの結婚のせいで彼女には父によって爵位は与えられなかった。しかし、ペドロ1世は自身の意志において彼女を彼の娘として認めたが、財産の分け前を与えなかった。彼の寡婦が教育と養育のための要求を除いては[219]
母はソロコバ男爵夫人マリア・ベネディタ(1792年12月18日 – 1857年3月5日)
ロードリゴ・デルフィム・ペレイラ Faded sepia photograph showing the head and shoulders of a man with dark, wavy hair, mustache and wearing a dark coat, white shirt with wingtip collar and dark cravat 1823年11月4日 –
1891年1月31日
ペドロ1世の意志で、息子として認められ、財産の分け前を与えられた[219]。彼はブラジルの外交官となり生涯のほとんどをヨーロッパで過ごした[224]
母はエンリエッテ・ジョセフィーヌ・クレマン・セー
ペドロ・デ・アルカンターラ・ブラシレイロ 1829年8月23日 ペドロの意志で、息子として認められ、財産の分け前を与えられた[219]

その他[編集]

1964年よりブラジルで発行されていた100クルゼイロ紙幣で肖像が使用されていた。

注釈[編集]

  1. ^ Viana 1994, p. 252.
  2. ^ Saraiva 2001, p. 378.
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