ディニス1世 (ポルトガル王)

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ディニス1世(Dinis I または Diniz I, 1261年10月9日 - 1325年1月7日)は、第6代ポルトガル(在位:1279年 - 1325年)。アフォンソ3世と2番目の王妃ベアトリス・デ・カスティーリャカスティーリャアルフォンソ10世の庶子)の長男。農民王(O Lavrador)の異名で知られている。

ディニス1世は、従来ラテン語を用いた公文書をポルトガル語にするよう決定し、リスボンに、エストゥード・ジェラル(一般教養学院)を創設した。コインブラ大学の前身である。1290年、教皇勅使書により大学となり、ポルトガル語の文法、教会法、民法、医学を教えた。

リスボンポルトが、フランドル・地中海間の中継港として繁栄しており、1317年ジェノヴァからマヌエル・ペサニャ(イタリア名エマヌエーレ・ペサーノ)を招聘して商船隊長官とし、航海技術指導に当たらせた。

ポルトガル国内のレコンキスタに貢献したテンプル騎士団は、1312年にフランスフィリップ4世に取りつぶされていたので、王は教皇から新しい宗教騎士団イエス・キリスト騎士団の創設許可を取り付け、テンプル騎士団がポルトガル国内に所有していた財産を譲り受けることに成功した。大航海時代にこの騎士団の総長を務めたのがエンリケ航海王子であり、アフリカ西海岸探検航海の経費はこの騎士団の財産と収入で賄われた。

王は貴族たちに「我々は騎士であるとともに、所有する土地の耕作者であることを名誉とすべきである。」と説き、沼沢の干拓、荒れ地の開拓によって整備した農地に果樹、ぶどうを植えさせた。また、レイリアの海岸に、海岸の砂の飛来を防ぐ防風林としてを植えさせた。後年この松林は、大航海時代に活躍したポルトガル船の建造に役立った。

漁業では、捕鯨マグロ漁を始めさせ、ポルトガル漁民がイングランド領海で出漁することをイングランドに認めさせた。

商業発展のため、国内各地に課税免除の「自由市」を作った。穀物、オリーブ油、ワイン、塩、塩漬け魚の輸出に力を入れ、フランドルフランスイングランドイタリアとの貿易を振興した。

晩年、王が庶出の王子をかわいがる姿を危惧したアフォンソ王子は譲位を迫ったが、王が拒否したため、1320年に反乱を起こした。王妃イザベルが仲裁に入り、1324年に和解した。翌1325年にディニスは死去し、王子はアフォンソ4世として即位した。

聖女とうたわれた王妃[編集]

ディニス王は、1282年にアラゴン国王ペドロ3世の王女イサベル(イザベル)と結婚した。王妃は慈悲深く、常日頃から国民への奉仕を怠らなかった。伝説によると、ある日、かごにパンを入れて貧しい人々を訪ねようと、王宮を出ようとしていた王妃を王が見とがめると、王妃は「これはバラが入っているのです。」と、王の追求をかわそうとした。王がかごにかけられた布を取ると、中には赤いバラが入っていたという。1625年、和解の美徳と慈悲により、聖人として認定された。コインブラ守護聖人となっている。

2人の間には1男1女が生まれている。

参考文献[編集]

  • 安部眞穏「波瀾万丈のポルトガル史」(1994年 泰流社