ハレー彗星

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ハレー彗星
1P/Halley
彗星
周期彗星の一覧 / 非周期彗星の一覧
1986年3月8日に撮影されたハレー彗星
発見
発見者  不明
エドモンド・ハレー(同定・軌道計算)
発見日  紀元前240年6月(古代)
1758年12月25日(同定後初)
符号・別名  1P/-239 K1 -239 = 1P/-163 U1 = -163 =
1P/-86 Q1 = -86 = 1P/-11 Q1 = -11 =
1P/66 B1 = 66 = 1P/141 F1 = 141 =
1P/218 H1 = 218 = 1P/295 J1 = 295 =
1P/374 E1 = 374 = 1P/451 L1 = 451 =
1P/530 Q1 = 530 = 1P/607 H1 = 607 =
1P/684 R1 = 684 = 1P/760 K1 = 760 =
1P/837 F1 = 837 = 1P/912 J1 = 912 =
1P/989 N1 = 989 = 1P/1066 G1 = 1066 =
1P/1145 G1 = 1145 = 1P/1222 R1 = 1222 =
1P/1301 R1 = 1301 = 1P/1378 S1 = 1378 =
1P/1456 K1 = 1456 = 1P/1531 P1 = 1531 =
1P/1607 S1 = 1P/1682 Q1 = 168 =
21P/1758 Y1 = 1759 I =
1P/1835 P1 = 1835 III =
1P/1909 R1 = 1910 II = 1909c =
1P/1982 U1 = 1986 III = 1982i,

ハリー彗星
軌道要素 - IAUNASA
元期 1994年2月17日
離心率 (e)  0.96714291
近日点距離 (q)  0.58597811 AU
軌道長半径 (a)  17.83414508 AU
遠日点距離 (Q)  35.08231205 AU
公転周期 (P)  75.3
軌道傾斜角 (i)  162.26269°
近日点引数 (ω)  111.33249°
昇交点黄経 (Ω)  58.42008°
前回近日点通過  1986年2月5.89532日UT
次回近日点通過  2061年7月28日

ハレー彗星(ハレーすいせい、1P/Halley、ハリー彗星とも)は、約76年周期で地球に接近する短周期彗星である。公転周期は75.3年。多くの周期彗星の中で最も有名な彗星である。前回は1986年に回帰し、次回は2061年夏に出現すると考えられている。

目次

[編集] 組成

ハレー彗星の核は約 8 km×8 km×16 km の大きさでジャガイモのような不定形をしている。核の密度は 0.1 - 0.25 g/cm3 と推定されている。核の表面は非常に暗い色をしており、アルベドは約0.04と非常に小さい [1]

探査機ジオットによる調査では、彗星核表面には炭素が多く存在することが明らかになっている。核から放出された物質の組成(体積比)は、)が80%、一酸化炭素が10%、メタンアンモニアの混合物が2.5%などとなっており、他に炭化水素ナトリウムなどが微量に含まれる。またシアンガスもわずかに含まれている。

ハレー彗星から放出された物質は、5月のみずがめ座η流星群および10月のオリオン座流星群流星物質となっていると考えられている。

専門家の中には、ハレー彗星が巨大な雪の球だという者もある。

[編集] 軌道

ハレー彗星は周期約76年の楕円軌道を持ち、遠日点海王星軌道の外側に達する。また軌道傾斜角が約162度で、逆行軌道となっている。

[編集] エドモンド・ハレーの研究

ハレー彗星は周期彗星であることが初めて明らかになった彗星である。この事実を発見したのはイギリス天文学エドモンド・ハレーである。彼は、1682年に出現した彗星の観測的性質が、1531年ドイツペトルス・アピアヌスが観測した彗星および、1607年プラハヨハネス・ケプラーが観測した彗星とほとんど同じだと気づいた。このことから彼は、これら3つの彗星は実際には同一の天体が76年ごとに回帰したのだと結論づけた(実際の出現周期は惑星摂動によって彗星の軌道が絶えず変化するため、数年の幅で変動する)。ハレーはこの彗星が惑星から受ける摂動を概算し、次は1757年に再び出現すると予言した。

その後1758年12月25日に、ドイツのアマチュア天文家ヨハン・ゲオルク・パリッチュがこの彗星を発見し、ハレーの予言が証明された。実際の彗星の近日点通過は1759年3月にずれこんだが、これは木星土星の摂動によって彗星の回帰が約618日遅れたためで、このことは出現の前に、フランスの3人の数学者アレクシス・クレロージェローム・ラランドニコル=レーヌ・ルポートらが計算していた。ハレー自身はこの回帰を見ることなく1742年に没していたが、ハレーの功績を記念して、この彗星にハレーの名が付けられた。

[編集] 主な出現

ハレーの軌道計算法によって、ハレー彗星の過去の出現を歴史上の記録の中に見つけることが可能となった。

軌道計算による過去と未来のハレー彗星の近日点通過日は以下の通りである。通常、近日点通過の前後数ヶ月間は肉眼で彗星を見ることができる。また、古文書などから判明しているハレー彗星の出現記録も付記した。

[編集] 古代の出現

バイユーのタペストリーに描かれた1066年のハレー彗星の出現。上方右に見えるのが彗星。ISTI MIRANT STELLA(これらの者達は星に驚いている)の文字が見える

[編集] 近年の出現

今後の出現予定は以下の通りである。

[編集] 1910年

1910年春のハレー彗星の出現はいくつかの理由で特筆すべきだった。

特に、ハレー彗星が1909年9月11日、マックス・ウォルフにより初めて写真撮影されたこと、1909年9月15日にヤーキス天文台で実視観測されるなど、比較的地球に接近し、非常に見やすかったことなどが挙げられる。

発見当時の光度は約16等で、その後明るくなり、翌年2月に8等級、3月に7等級となり、4月に2等級となり8度ほどの尾を見せた。5月11日には最も明るく0.6等となり、尾はさらに長くなり、5月14日に58度、16日に70度、19日に105度、21日には120度となった。

暁天に観測されていたのが、21日以後は夕方西方に現れ、光度、尾の長さともに次第に減じ、7月に7等、尾の長さ2度となり、翌年1月に13等級、4月に15等級となり、1911年7月11日の写真に現れたのを最後に見えなくなった。この時太陽からの距離は約8億3000万km。

5月19日にはハレー彗星が太陽面を通過し、彗星の尾は常に太陽から遠ざかる方向に伸びるため、尾の中を地球が通過することになった。

当時すでに、彗星の尾には有毒のシアン化合物が含まれていることが知られていた。特に、フランスの科学者、カミーユ・フラマリオン1842 - 1925 日本のメディアでの表記はフレンマリオン)の説がもととなり、尾に含まれる猛毒成分により、地球上の生物は全て窒息死すると言ううわさが広まった。日本でのその日時は、5月19日11時22分とされた。

大衆向けのメディアはこのことを取り上げ、何も起こらないと説明する天文学者をよそに、この話をセンセーショナルに煽った。

だが実際には彗星のガスは非常に薄いため、地球が尾の中を通過してもハレー彗星のガスは地球の厚い大気に阻まれて地表に到達する事が無く、地球及び生命体には何の影響も与えなかった。

太古より、彗星の存在は広く知られており、豊穣不吉の前兆などと考えられてきたが、このときほどの大きな騒ぎの記録は無く、結果的に、科学とメディアの発達がかえって恐怖心をあおることとなり、世界規模のパニックとなった。

日本では、明治43年(1910年)世界中の天文台が当時としては最新の機材を使って観測にあったにもかかわらず、結局、確実に見たとの報告はなかった。東北の片田舎、現在の八戸市に住む、一人の天文愛好家、前原寅吉(1872~1950)がハレー彗星の太陽面通過を鮮明に観測したとして、大きくクローズアップされている。前原寅吉は自作の「黒色ガラス」をつけた三台の天体望遠鏡を自宅の物干し台に取り付け、観測、発表した。「5月19日、午後11時20分に至り西より東に向き太陽面上段青色に変じたり。これ全く核(ガス状になったすい星の本体)の経過せしものにて午後12時17分まで見えたるも西方より白色状の状態に復したり」とあり、すい星の通過によってそのガスがフィルターとなり太陽面が変色する様子をはっきりとらえている。寅吉の快挙について満州日々新聞の記事は「列国の天文台が観測に失敗し居れるに独り個人たる氏が此の大成果を収め得たるは独り氏の名誉なるのみならず日本学界の光栄たりと言うべし」と絶賛している。

また、1910年のハレー彗星を見たと言う者の中には、実際には、ハレー彗星とは別の、1910年1月の彗星 (C/1910 A1 = 1910 I (Great January comet)、the Great Daylight Comet of 1910) の記憶と混同している例も少なくない。この彗星はハレー彗星の接近の約4ヶ月前に現れ、最も明るい時にはハレー彗星より明るく、白昼でも見えた。太陽面を横切る様子が数多くの人々に目撃され、日本でも新聞に「白昼横行 光芒千里」との漫画が掲載されている。

[編集] 1986年

1986年の接近は、ハレー彗星の過去の全ての出現の中で地球からの観測に最も不向きだった。彗星の光度は過去の出現時のような明るさに達せず、また都市化によって光害が広がった結果、多くの人々は彗星を全く見ることができなかった。しかも彗星が最も明るくなったのは、3月から4月にかけて北半球からほとんど見られなくなった時期であった。このため多くのアマチュア天文家が、彗星を一目見ようと南半球へ移動した。

しかし宇宙探査技術の進歩によって、研究者は彗星を地球からだけでなく間近で調査することができた。この年の接近では、ハレー彗星のために数機の探査機が打ち上げられた。中でも最も華々しく成功したのは、ヨーロッパ宇宙機関 (ESA) のジオットで、ハレー彗星のコマに突入して核へ近接遭遇した。この探査により、ハレー彗星の核が推定されていた通りの汚れた雪玉状の組成を持ち、また核の形がひょうたん型であることもわかった。ほかに、ソ連・フランス合同のベガ1号ベガ2号や、日本のさきがけすいせいが打ち上げられた。アメリカは、太陽周回軌道にあった ICE (International Cometary Explorer) でハレー彗星を観測した。ICEは元々は ISEE-3 (International Sun-Earth Explorer 3) といい、太陽-地球 L-1 ラグランジュ点太陽風を観測していたが、予定のミッションを完了した後で改名され、軌道を変更しジャコビニ・ツィンナー彗星とハレー彗星を観測した。これらの探査機群は、非公式にハレー艦隊 (Halley Armada) と呼ばれた。

さらに、STS-51-L および STS-61-E の2回のスペースシャトルミッションで、低軌道からハレー彗星を観測する計画があった。61-E ミッションでは、1986年3月にスペースシャトル・コロンビアを打ち上げ、 観測装置 ASTRO-1 でハレー彗星を観測する予定だった。しかし、1986年1月28日にスペースシャトル・チャレンジャーが 51-L ミッションの打ち上げで爆発事故を起こしたため、全ての計画は中止になった。ASTRO-1 は1990年12月の STS-35 ミッションでようやく打ち上げられ、ハレー彗星には間に合わなかった。

ソ連の宇宙ステーションサリュート7号は、1986年のハレー彗星接近時には無人だった。サリュートの後継となるミールはこの接近期間中の1986年2月に打ち上げられたが、まだ乗組員は滞在していなかった。

[編集] 出現にまつわる雑学

  • 紀元前44年共和政ローマの英雄カエサルが死んだ後、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの時代に明るい彗星が現れた。アウグストゥスはこの彗星を養父カエサルの魂と見なしたと言われている。その後、この「カエサルの星」をかたどった貨幣なども鋳造された[5]。この彗星は現在では紀元前12年のハレー彗星 (1P/-11 Q1) だと考えられている。
  • 1910年明治43年)のハレー彗星の接近の際、日本ではシアン毒説の他に、地球上の空気が一時的に(5分間ほど)無くなるという噂が一部で広まった。自転車のチューブを買い占め、チューブ内の空気を吸って一時的な酸素枯渇に備える裕福な者、水を張った桶で息を止める訓練をする者、全財産を遊びにつぎ込む者、世界滅亡を憂えて自殺する者などが現れたという。しかし当時の新聞記事を見るかぎり、実際には市民の間に大規模な動揺は広がらなかったと思われる[6]
またこの顛末は、1949年日本映画社製作の『空気のなくなる日』という映画に描かれている。
  • 女優の浦辺粂子は、1986年に「子供のころハレー彗星を見たから、今度で2度目だよ」と証言している。
  • 「次回の接近でハレー彗星が太陽に衝突して地球に被害が及ぶとニュートンが唱えたという説」があるが、シミュレーションで見る限りハレー彗星は太陽に衝突しない。
  • マーク・トゥエインは生前、「私はハレー彗星が空に掛かる頃生まれた。だから私は、ハレー彗星と共に旅立つのだ」という言葉を残している。その通りに、彼は1835年の回帰時にこの世に生まれ、1910年の回帰時、丁度近日点を通過する頃にこの世を去っている。
  • 1910年の回帰時にはその他様々なパニックが世界各地で勃発した。ローマ法王庁が「贖罪券」を発行したところ、希望者が殺到し、手に入れる事が出来なかった人が悲嘆に暮れるあまり自殺すると言う事件も起きている。「彗星が持ち込むシアンの毒はこれで大丈夫」と、小麦粉を丸めただけのニセの薬を売って儲けようとした詐欺師がアメリカで摘発された事もあった。またメキシコでは、「処女生贄にすれば助かる」と信じ込んだ暴徒が女性を襲撃する事件も起きている。笑えるエピソードとして、日本では「どうせ死ぬのだから」とばかりに、歓楽街が非常に賑わい、かつて無い盛況を見せたがために、花柳界では「嗚呼ありがたきホーキ星様」と、ハレー彗星を拝む向きもあったと言う。
  • ハレー彗星の回帰では様々な便乗商品が発売された。日本では1910年の回帰の際、「口内清涼剤カオール」が発売された。仁丹のような細かい丸薬状の商品で、ハレー彗星の尾が伸びるようにカオールの売れ行きも伸びているという内容のキャッチコピーが添付されていた。1986年にはコーセーが「星化粧ハレー」という、目元のワンポイントメイクを発売した。そのほか、少女隊が「ハレーロマンス」、レベッカが「76th Star」という曲をリリースしたり、歌詞中に「ハレー」や「彗星」という言葉がある曲を様々なアーティストがリリースしていた。

[編集] 原因不明の増光

1986年の地球接近後もハレー彗星の観測は続けられた。1991年2月にはハレー彗星が突然光度を増したことが観測されている。この増光の原因は不明であるが、以下のようないくつかの説が考えられた。

  • 別の天体との衝突
  • 彗星の崩壊(太陽風の圧力などによる)
  • 内部構造を原因としたガス噴出量の増加や発熱

その後、ヨーロッパ南天天文台 (ESO) が1994年2003年3月にハレー彗星の姿を観測しているため、核本体が失われるような衝突や崩壊は起こっていないと推定されている。

[編集] フィクションの中のハレー彗星

  • 時代劇「必殺仕事人V・激闘編 」第17話「江戸の空にハレー彗星が飛ぶ」で「妖しのほうき星」と呼ばれるハレー彗星が登場。天保6年(1835年)と推定される。
  • 漫画「お〜い!竜馬」の冒頭で、坂本乙女1835年のハレー彗星に天翔ける竜と白馬の姿を見た。やがて生まれてきた弟に「竜馬」と名づけた。
  • 漫画「ドラえもん」の中に1910年のハレー彗星接近時の騒動を元にした作品「ハリーのしっぽ」がある。(原作漫画はてんとう虫コミックス33巻に収録。アニメ化もされ、1984年12月21日に初放送。)
  • アニメルパン三世の劇場版第3作バビロンの黄金伝説1985年7月公開)において、1986年の接近が物語終盤のキーになっている。
  • アーサー・C・クラークのSF小説『2061年宇宙の旅』では、2061年に回帰したハレー彗星に、有人宇宙船が着陸する。
  • グレゴリイ・ベンフォード&デイヴィッド・ブリンのSF小説『彗星の核へ』では、2061年に回帰したハレー彗星に、有人宇宙船が着陸する。
  • テレビアニメとして人気を博した魔法の天使クリィミーマミの続編OVAでは、テレビ版の結末で主人公が失った魔法の力が突如よみがえる理由(作劇上の口実)としてハレー彗星の接近を利用している。
  • 和風ホラーゲームのSIRENでは、684年(天武12年)に彗星と共に現れた「常世の存在」である堕辰子が舞い降り、その肉を食った村人の一人である妊婦が村と共に呪われる。彼女は死ぬ事を許されず、現代(2003年)まで約1300年間生き続けており、子孫を生贄とする事で罪を償っている。
  • ガイナックス製作のSFロボットアニメトップをねらえ!』では、2032年7月23日にヱクセリヲンがハレー彗星の軌道上にワープアウトした。
  • 『ラブ・ポジション ハレー伝説』 原作:手塚治虫OVA/1985年製作)
  • 映画『スペースバンパイア』(1985年製作) では、ハレー彗星に紛れて、人間の生命エネルギー(精気)を吸い取る吸精鬼(スペースバンパイア)が飛来する。物語の年代は1986年の接近時と思われるが、劇中では明確にされていない(架空のSF設定とはいえ、重力制御装置を積んだイギリス製スペースシャトルが登場するなど、1986年とは断定しがたい部分もある)。
  • アニメ映画『ゲゲゲの鬼太郎 妖怪大戦争』(1986年製作)では、舞台となった島で海の異常現象が確認され、ハレー彗星の接近が原因という説が唱えられているが、因果の程は作中でも明らかにされていない。
  • エニックス(現・スクウェア・エニックス)製作のゲーム『ジーザス』(1987年)では、2061年のハレー彗星接近を描いており、彗星内に棲息する異星生命体(モンスター)が彗星探査船に侵入し、乗組員を次々と殺害しながら、そのDNAを摂取して急速に進化していく。モンスターには弱点がある一方、耐性についても懸念されており、ラストでは次のハレー彗星接近時に予測される危機に対して警鐘を鳴らしている。

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ