ティコ・ブラーエ
| ティコ・ブラーエ (Tycho Brahe) |
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| 人物情報 | |
| 誕生 | 1546年12月14日 |
| 死没 | 1601年10月24日(満54歳没) |
| 国籍 | |
| 学問 | |
| 研究分野 | 天文学 |
| 研究機関 | ウラニボリ天文台 ステルネボリ天文台 |
| 母校 | ロストック大学 |
| 主な業績 | 超新星SN 1572の発見 |
ティコ・ブラーエ(Tycho Brahe
[tˢyko ˈb̥ʁɑːɑ]、1546年12月14日 - 1601年10月24日)は、デンマークの天文学者、そして占星術師でもあった。膨大な天体観測記録を残し、晩年の助手ケプラーによるケプラーの法則を生む基礎を作った。
[編集] 生涯
デンマークの貴族の出身に生まれる。生まれたときの姓名はTyge Ottesen Brahe。13歳のとき(1560年8月21日)に部分日食を見て、強い衝撃を受けたといわれている。その後ロストック大学に学ぶ。1563年8月に木星と土星の会合を観測した時、当時用いられていた天文暦とずれがあることを発見した。このとき、天体の動きを精密に観察して正しい天文暦を作る必要を感じたといわれている。1572年、カシオペヤ座に超新星(SN 1572:通称「ティコの新星」)を発見し、肉眼で確認できなくなるまでの14ヶ月間観察を続け、記録を残した。その才能を認めたデンマーク王フレゼリク2世の支援を受け、ベーン島にウラニボリ天文台、ステルネボリ天文台を建設し大量かつ精密な観測記録を残した。フレゼリク2世が没すると、1599年には、神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世の皇室付帝国数学官に迎えられ、プラハに移住した。
ティコ・ブラーエは、1577年に出現した彗星についても多くの観測結果を残し、その現象が月よりも遠方で起きていることを証明した。この彗星の観測結果と、さきの新星の発見は、月より遠方ではいかなる変化も起きないと考える天動説を覆す重要な証拠ともなった。彼の残した膨大な天体の観測結果は、望遠鏡が使用される以前の肉眼による天体観測としては、最高の精度を誇るものであった。
ただし彼自身は、地動説が正しければ当然観測されるであろう年周視差が観測できなかった事から、地動説には否定的な立場をとり、「太陽は地球の周りを公転し、その太陽の周りを惑星が公転している」という「修正天動説」を提唱した。
ティコ・ブラーエの最期については、晩餐会でトイレに立つのを我慢しすぎて膀胱破裂で死んだという話がよく知られている。だが、1990年代、遺髭を調べたところ水銀が大量に検出されたことから、水銀中毒が死因であるとの説が新たに唱えられている[1]。彼の最後の願いは、「歴史に名を残したい」であった。
本人は自身の観測記録をまとめる前に病死したが、弟子であり共同研究者でもあったヨハネス・ケプラーがその記録を解析し、ケプラーの法則を発見した。ブラーエは願い通り天文学史に名を残すことができた。
[編集] 参考文献
- ^ Jacobsen, A; Petersen, L (2001), How Tycho Brahe Really Died, International Planetarium Society
[編集] 関連項目
- ティコ - 月にあるクレーター。名称はティコ・ブラーエに由来したものである。
- ティコ・ブラーエ - 小惑星帯にある小惑星。これもティコ・ブラーエに由来したものである。
- ティコ・ブラーエ - デンマークで開発中の弾道飛行用有人宇宙船。