カール・テオドア・ドライヤー

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カール・テオドア・ドライヤー
Carl Theodor Dreyer
カール・テオドア・ドライヤーCarl Theodor Dreyer
生年月日 1889年2月3日
没年月日 1968年3月20日(満79歳没)
出生地 コペンハーゲン
死没地 コペンハーゲン
国籍 デンマークの旗 デンマーク
職業 映画監督
主な作品
裁かるるジャンヌ』『奇跡』

カール・テオドア・ドライヤーCarl Theodor Dreyer , 1889年2月3日 - 1968年3月20日)は、デンマーク映画監督。代表作『裁かるるジャンヌ』の制作国がフランスだったために、作品が日本に輸入された際にフランス語読みのカール・テオドール・ドレイエル(またはドライエル)という表記で紹介され広まった。その後、よりデンマーク語の発音に近いカール・テオドア(または略して「Th テホ」)・ドライヤーと直され表記されるようになった[1]

神秘性とリアリズムを併せ持つその映像描写は、先鋭性、独創性に溢れ独特のスタイルを形作っている。女性が主役の作品が多く、その中で彼女たちは女性の意志や表現を抑圧しようとする社会秩序に対し果敢に闘いを挑もうとする。代表作は、『ミカエル』『あるじ』『裁かるるジャンヌ』『吸血鬼(ヴァンパイア)』『奇跡』などがある。その生涯で14本の長編映画を監督した。

出生の秘密と映画への傾倒[編集]

1889年2月3日にデンマークのコペンハーゲンで生まれる。父はスウェーデン在住のデンマーク人、母はスウェーデン人。父は富裕な地主で、母はその家の女中であった。カールは私生児として生まれ、すぐに乳児院にあずけられた。いくつかの施設を転々とした後、翌1890年にコペンハーゲンの植字工ドライヤー家の養子となる。 養家は彼に厳しかった。後に彼は次のように述懐している。「彼らはわたしが飢えないでいることを感謝するよう絶えず強要した。厳密にいって、わたしには何も要求する権利がないこと、わたしの生母はその死によって養育費の支払を免れ、結果的に彼らを騙したのだから、と」[2]。 17歳になると事務員の仕事を見つけ、ドライヤー家を出た。それ以降、ふたたび養家に足を踏み入れることは無かったという。

その後、ジャーナリストに転身。新聞に演劇評などを書き、さらに当時世間の大きな話題となっていた航空機に興味を持ち、報道記事だけではなく自らも気球飛行に積極的に参加した。この時期に『怒りの日』や『奇跡』の原作となった戯曲の舞台を演劇批評家として見る。また、裁判記事も執筆し、毎日のように裁判所に通った。この仕事により、中産階級の人々を知るようになる。

彼の興味は次第に映画へと傾き、映画批評ばかりでなく、ジャーナリストの傍ら映画会社で仕事をするようになる。デンマークの映画会社ノーディスク・フィルムで、編集とサイレント映画字幕の挿入をおこなった。「その仕事はまさに、素晴らしい学校のようなものでした。(中略)私はその学校で五年間学んだのです。私は今では自分の映画を、撮影がなされるつど、頭のなかで編集してゆきます。編集は演出の一部分をなしているのです。」[3]と、ドライヤー自身が後年に述べているようにこの時期に映画の技術を学んだ。さらに脚本の執筆をするようになり、1918年に監督第一作『裁判長』の製作がはじまる。

18歳のとき、ドライヤーは生みの母であるヨセフィーナ・ニルソンの運命と自身の出生の秘密を探り当てた。 妊娠発覚後、父とその一族は彼女にスウェーデンを離れ、秘密裡にデンマークで出産することを強いた[2]。ヨセフィーナはカール出産後スウェーデンに戻ったが、再び別の男性の子を身ごもり、相手の男性に結婚を拒否されると民間療法の硫黄を使った中絶を試み、貧困と孤独の中、硫黄の過量摂取による中毒で死亡した。不幸にまみれた母の死を知ったドライヤーは、男たち(権力者)の欺瞞によってうまれる社会の抑圧と不寛容が、母を死に追いつめたと悟った。母と彼自身の運命を決定づけた「社会の抑圧と不寛容」というテーマは彼の作品に色濃く反映され繰り返しあらわれることになる。ドライヤーは彼自身の出生について多くを語ろうとはしなかった。

脚本・演出・スタイル[編集]

長編作品は脚色ものが多く、なかでも戯曲の脚色が多数を占めている。台詞を圧縮し、純化することにより必要不可欠な言葉だけで構成し直すのがドライヤーの脚色法だった。「台詞はいわばクロースアップで提示されるべき」[3]だと考え、装飾を帯びた演劇的な台詞を本質的なもの以外削り取った。そしてそれはカットの連続性をそこなわないためでもあった。

ドライヤーは、決まったスタイルというものを持たなかった。常にその作品一本にしか有効ではないスタイルを探し求めた。例えば『吸血鬼』では、「どのカットを撮影するときも、レンズに不自然な光を入りこませるために、スポットライトを幕に当て、その反射光がカメラに向かうように細工し」[3]て灰色の画面を作り出し、さらにラストには白い光も加えて、それをもとにこの作品のスタイルを形作っていった。撮影前に行なわれる入念なリハーサル、カメラマンとの綿密な打ち合わせ、映画装置(セット)の作成への積極的な関与など、画面を構成する要素すべてをコントロールすることを望んだ。ドライヤーはたびたび誤解されるが1シーン1カットのみの監督ではないし、モンタージュ派でもない。その作品、その主題、そのアクションにおいて、何をどのように表現するのか、あらゆる可能性を追求し続けた。このことについて彼は、「自分をある一定のフォルムに、ある一定のスタイルに限定してしまうというのは、きわめて危険なことなのです」[3]と発言している。

ドライヤーは第二作目の『サタンの書の数頁』の後、不況と映画界の凋落を招いていたデンマークを離れることを余儀なくされる。スウェーデン、ドイツノルウェーフランスと渡り歩き、毎作ごとに制作会社がかわるという事態にさらされた。当時の世界の映画界は、ハリウッドスタジオ・システムに見られるように、ある特定のスタジオと独占契約を結び、同じようにそのスタジオと契約しているスタッフや俳優と一つのグループを形成しながらそのスタジオの希望に添うような作品を作り続けることが常識であった。ドライヤーはその常識から明らかに逸脱しており、それは彼の特異性を生み出す一因ともなった。

彼はついにどんなグループにも属することは無かったばかりか、その作品はどんなジャンルにも分類することは不可能である。ドライヤーのスタイルを持たないスタイル、独創的な視覚的構成を持った作品群は、他の追従をいっさい拒否する。映画史において孤高の存在足り得ている理由がそこにもある。

フランソワ・トリュフォーは、ドライヤーへの追悼文のなかで次のように書いている。「カール・テホ・ドライヤーはこの世を去って、映画の最初の世代の王様たち、まず最初に沈黙を、ついで言葉を制御した偉大な映画作家たちの世代のあとを追ってその列に加わったのである。」(フランソワ・トリュフォー「カール・テホ・ドライヤーの白のイメージ - 崇高なまでの美しさに達した映像」山田宏一蓮実重彦訳『キネマ旬報754号』1979)

実現しなかった企画[編集]

「キリストについての映画によって、それにまた『メディア』によって、悲劇に到達したいと考えています」[3]

『ゲアトルーズ』制作後、ドライヤーは2つの企画を進めていた。キリストの生涯を映画化することと、エウリピデスの戯曲『メディア』[4]の映画化である。さらに、アメリカでの製作(ユージン・オニールウィリアム・フォークナーの作品をそれぞれあげている[3])も望んでいた。そしてそれらはすべてカラー作品となる予定であった。『ゲアトルーズ』もカラーで撮りたいと願ったがそれは実現できなかった。

ドライヤーの映画製作は常に困難を強いられた。『裁かるるジャンヌ』『吸血鬼』の興行的失敗の後は、ほぼ10年に1作品のペースでしか製作できなかった。『ゲアトルーズ』の頃からカラー映画の研究をはじめており、『メディア』においてそれが試みられるはずであったが、それは永遠に封じられた。『ナザレのイエス』クランクインの二ヶ月前、1968年3月20日の明け方、コペンハーゲンの病院で亡くなった。

「最終的にドライヤーがカラー作品を撮ることができなかったこと(彼は二十年以上もカラー作品を撮ろうと考えていたのだ)やキリストについての作品を撮れなかったという事実(国家や反ユダヤ主義の起源に対する崇高なる反抗)は、我々がカエルの屁ほども価値がない社会に生きているのだということを思い知らせる。」(ジャン=マリー・ストローブ 「カール・ドライヤーについて」坂本安美訳 『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン No.22』1977)

監督作品[編集]

長編監督作品[編集]

  • 裁判長 Præsidenten (1919年)
  • 牧師の未亡人 Prästänkan (1920年)
  • サタンの書の数頁 Blade af Satans bog (1920年)
  • 不運な人々 Die Gezeichneten (1922年)
  • むかしむかし Der var engang (1922年)
  • ミカエル Michael (1924年)
  • あるじ Du skal ære din hustru (1925年)
  • グロムダールの花嫁 Glomdalsbruden (1926年)
  • 裁かるるジャンヌ La Passion de Jeanne d'Arc (1928年)
  • 吸血鬼 Vampyr (1932年)
  • 怒りの日 Vredens dag (1943年)
  • 二人の人間 Två människor (1945年)
  • 奇跡 Ordet (1955年)
  • ゲアトルーズ Gertrud (1964年)

短編作品[編集]

  • 母親支援 Mødrehjælpen (1942年)
  • 田舎の水 Vandet på landet (1946年)
  • 村の教会 Landsbykirken (1947年)
  • 癌との戦い Kampen mod kræften (1947年)
  • 彼らはフェリーに間に合った De nåede færgen (1948年)
  • トーヴァルセン Thorvaldsen (1949年)
  • ストーストレーム橋 Storstrømsbroen (1950年)
  • 城の中の城 Et Slot i et slot (1954年)

脚注[編集]

  1. ^ 『フィルムセンター』51「デンマーク映画の史的展望」(東京国立近代美術館フィルムセンター/1979)には次のようにある。「この資料中のデンマーク人の人名や地名は、在日デンマーク大使館のベント・リンドブラード書記官の協力を得て、なるべく原音に近く表記した。そのうち、旧来の慣例といちじるしく違うものはつぎのとおりである。旧)カール・テオドル・ドレイエル、新)カール・テオドア・ドライヤー」
  2. ^ a b 「異端者 魔女 聖者 罪人 Heretics, Witches, Saints, and Sinners 」ユッテ・イェンセン Jytte Jensen、NFC Newsletter 2003 No.51
  3. ^ a b c d e f 「カール・Th・ドライヤーに聞く」ミシェル・ドラエ(『作家主義』奥村昭夫訳、リブロポート、1985)
  4. ^ この脚本は完成しており、1988年、ラース・フォン・トリアー(デンマークの映画監督)によって映像化された。

参考文献[編集]

  • 「カール・ドライヤーの展開」ジョルジュ・サドゥール(『世界映画史 12』図書刊行会、2000)

外部リンク[編集]