チャールズ・サンダース・パース

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チャールズ・サンダース・パース

チャールズ・サンダース・パース[1]: Charles Sanders Peirce, 1839年9月10日 - 1914年4月19日)は、アメリカ論理学者数学者科学者哲学者マサチューセッツ州ケンブリッジ生まれ。パースは化学者としての教育を受け、米国沿岸測量局に約三十年間、科学者として雇われた。現在では主に論理学、数学、哲学、記号論、およびプラグマティズムを創始したこと、で高い評価をうけている。「アメリカの哲学者たちの中で最も独創的かつ多才であり、そしてアメリカのもっとも偉大な論理学者」ともいわれる[2]。存命中はおおむね無視されつづけ、第二次世界大戦後まで二次文献はわずかしかなかった。莫大な遺稿の全ては今も公表されていない。パースは自分をまず論理学者とみなし、さらに論理学を記号論(semiotics)の一分野とみなした。1886年、彼は論理演算は電子的スイッチング回路によって実行されうると考えたが、この考えは数十年後、デジタルコンピュータを製造するために使われた。

生涯[編集]

清教徒の移民であったジョン・パースの子孫であり、当時アメリカ最大の数学者と見なされたハーバード大学数学教授ベンジャミン・パースの次男として生まれる。早くから父に才能を見いだされ、特別の教育を受ける。なぞなぞ・トランプの手品・チェス・暗号を好み、8歳で化学者、10歳で数学者となり、12歳のときにはホエイトリーの『論理学の要項』を教えられ、これを完全に理解したという。1862年にバチェラー・オブ・アーツ、1863年にはマスター・オブ・アーツの学位をハーバード大学からそれぞれ抜群の成績で授与され、1869年~70年度には、エマスン、キャボット、フィスクなどの年長者とならんでハーバード大学の哲学講演に参加した。

1859年に米国沿岸測量局に就職したのを皮切りに、1891年まで断続的に測量の仕事を続けた。1869年から1875年まで、ハーバード大学天文台の助手として測光に従事した。光の波長を測量の規準単位として用いるやり方は、パースが始めたものである。1875年にアメリカの最初の代表として国際測地学協会に出席し、振り子による実験が精密ではないことを指摘し、各国の学者に注目されている。

1867年アメリカ芸術科学アカデミーでパースは、すでに1847年ブールが発表していた『論理の数学的分析』の重要性を指摘し、その体系に改良を加えた。学会が注目しなかったので中断されてしまったが、パースの記号論理学における仕事はシュレーダー『論理の代数についての講義』に引き継がれ、さらにラッセルホワイトヘッドの『数学原理』に結実することになる。

1887年以後、ペンシルベニア州のミルフォードに隠棲し、さまざまな事典や雑誌への寄稿と新刊書評によって生計を立てた。『ネイション(The Nation)』誌のための新刊書評を担当していたときは、莫大な数の書物を読みこなしては毎日2000語ずつ書いたと言われている。これらの仕事は、エジプト学犯罪学言語学心理学数学力学天文学化学測量社会学歴史文芸評論神学伝記に及ぶ。

パースの興味は常に哲学に向いていたのだが、それを本職にすることはかなわなかった。その狷介不羈な性格によるともいわれるが、今ひとつの理由は、1883年にかれが引き起こした離婚問題が清教徒道徳の根強かったマサチューセッツ州で嫌われたということである。当時のハーバード大学学長のチャールズ・ウィリアム・エリオット[3]は、パースを校内のいかなる場所にも立ち入らせなかった。このように冷遇されたことはパースの発表機会や性格を損ね、いっそう難解にしたとも考えられる。パースは中年以後まったく窮乏状態で過ごした。長い年月を持病に苦しめられつつ、死後20年たたないと学者たちから理解されないような学説を書き続けたのである。

パースは全生涯にわたって当時「顔面神経痛」(facial neuralgia)として知られていた病気で苦しみつづけた[4]。その痛みで苦しんでいるとき「パースは、まずほとんど呆然となり、ついで冷淡、冷酷になり、落ち込み、極端に疑い深くなり、ちょっと反対されることが我慢できなくなり、そして暴力的に激昂しがちになった。」という[5]

米国沿岸測量局[編集]

1859年から1891年のあいだ、パースは米国沿岸測量局に、さまざまな科学上の立場で断続的に雇われた。1880年の父の死までのあいだ、影響力のある父から保護を受けた。この雇用のおかげで南北戦争兵役をまぬがれたが、このことは彼にとって非常にばつの悪いことだった。というのもボストンエリートであるパース家はアメリカ連合国に同情していたからである。この測量局で彼は主に測地学重力測定に取り組み、地球の重力の大きさの地域による小さな変動を確定するために、振り子の利用法を改良した。この測量局は彼をヨーロッパに五回派遣した。一回目は1871年で、日食観測するために派遣されたグループの一員としてであった。ヨーロッパにいるあいだ、彼はオーガスタス・ド・モルガンウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ、そしてWilliam Kingdon Cliffordについて研究した。彼らはイギリスの数学者や論理学者で、彼らの考え方はパースと似ていた。1869年から1872年まで、彼はハーバード大学天文台に助手として雇われ、の明るさと銀河の形の確定についての重要な研究を行った[6]1876年全米科学アカデミーの会員に選出。1878年、彼はメートルを特定の振動数の非常に多くの波長として定義した最初の人となった[7]

大学と追放[編集]

1879年、パースは新しいジョンズ・ホプキンス大学の論理学の講師に任命された。同大学は彼が興味のある多くの分野で有力だった。たとえば哲学(Josiah Royceとジョン・デューイは同大学で博士号を取得した)、心理学(スタンレー・ホールが教鞭をとり、Joseph Jastrowが研究を行った。Jastrowは重要な経験的研究の成果をパースと共同で執筆した)、そして数学(ジェームス・ジョセフ・シルベスターが教鞭をとった。彼は数学と論理学についてのパースの著作を称賛するようになった)といったぐあいである。この身分が、パースの手にした唯一の大学での役職ということになった。なお大学での職、助成金、そして科学界での地位を得ようとするパースの努力は、当時の有力な科学者サイモン・ニューカムが秘密に表明した反対によって、ことごとく台無しにされていたといわれる[8]

パースの私生活もまた彼を不利にした。彼の一人目の妻ハリエット・メルシナ・フェイ(Harriet Melusina Fay)は1875年に彼と別れた。彼は間もなくある女性と親しくなったが、彼女の旧姓と国籍は現在も不明確なままである(彼女の名前はジュリエット・フロイシー[Juliette Froissy]で、彼女はフランス人だったというのが最も信頼できる推測である)。だが、彼がハリエットと離婚したのは1883年になってからのことで、彼はそのあとでジュリエットと結婚した。その年、ニューカムはジョンズ・ホプキンス大学の理事に、「パースが、ホプキンス大学で働いているあいだ、ある女性と暮らしたり旅行したりしていたが、パースは彼女と結婚していない」ということを指摘した。スキャンダルの結果、彼は解任された。以後、Clark University、ウィスコンシン大学マディソン校ミシガン大学コーネル大学スタンフォード大学シカゴ大学で就職を試みるがすべて失敗した。パースはどちらの結婚でも子供を持たなかった。

離職[編集]

  • 1880年代、パースの沿岸測量局の仕事への無関心は増し、測量作業の質も速度も低下した。数ヶ月で完成させるべきレポートを書くのに何年もかかったともいわれる。その間、『センチュリー事典』の論理学、哲学、そして科学に関連する何百もの項目を執筆した[9]
  • 1885年、アリソン委員会の検査はパースの潔白を証明したが、局長のJulius Hilgardおよび沿岸測量局の何人かのほかの従業員は、公金の不正支出のとがで解雇されることになった。1891年、パースは局長のトマス・メンデンホールからの要請で沿岸測量部を辞任。以後、定職に就くことはなかった。

貧困[編集]

1887年ペンシルベニア州ミルフォード近くの2000エーカー(8平方km)の田舎の土地を買うために両親からの相続財産の一部を支払ったが、この土地が経済的収益をもたらすことはけっしてなかった。彼はそこに大きな家を建て、家に「アリスベ」(Arisbe)という名前をつけ、人生の残りの期間を過ごし、大量に執筆をしたが、遺稿の多くは公表されていない。

生活は、まもなく深刻な金銭的、法的困難を引き起こし、最後の20年間の多くを冬は暖房なしですごし、地元のパン屋が親切に寄贈してくれた古いパンをいつも食べていた。新しい文房具を買うことができないので、彼は古い原稿の左側に執筆した。暴行についての未解決の令状と未払いの借金のおかげで、彼はしばらくのあいだニューヨーク市で逃亡者になることになった。彼の兄弟James Mills Peirceと彼の近所の人たち、Gifford Pinchotの親類の人たちを含む何人かの人たちが彼の借金を処理し、彼の固定資産税と貸付金を支払った。

パースは科学技術関連のコンサルタントをやり、原稿料を得るために大量に執筆した。執筆したのは主に辞書と百科事典の項目、「ネイション」誌[10]での書評だった。ほかスミソニアン博物館サミュエル・ラングレー館長からの強い勧めで、同館向けに翻訳をした。パースは動力飛行についてのラングレーの研究のために、大量の数値計算を行ないもした。カネを稼ぐことを望んで、パースは発明をしようと試みた。彼は多くの著書を作ろうとしたが、完成させることはできなかった。

  • 1888年グロバー・クリーブランド大統領は彼を分析委員会(Assay Commission)のメンバーに任命した。
  • 1890年以降、シカゴのFrancis C. Russell判事がパースの友人かつ崇拝者となり、RussellはパースをPaul CarusとEdward Hegelerに紹介した。彼らはそれぞれ、アメリカの草分け的な哲学雑誌「モニスト」(The Monist)の編集長とオーナーであり、この雑誌は最終的にパースが執筆した14本の論文を公表した。
  • 自分の一生の仕事を要約した著書を執筆するために、助成金を求めて、新たに創設されたカーネギー研究所へ申請を行ったが申請は却下された。彼の宿敵ニューカムが同研究所の執行委員会に参加しており、さらに同研究所の理事長はパースが解任されたときのジョンズ・ホプキンス大学の学長だった。

これらのやけくその時期にパースを助けたのは、古い友人ウィリアム・ジェームズだった。ジェームズはハーバード大学周辺でパースの連続講演を企画した。また1898年からジェームズが亡くなる1910年までのあいだ毎年、ジェームズはボストンの友人たちに、パース支援の寄付を要請した。パースはジェームズの長男を、ジュリエットが自分より先に死んだ場合の自分の遺産相続人に指名することによって返礼した[11]

パースはペンシルベニア州ミルフォードで極貧状態で亡くなり、彼の未亡人はその20年後に亡くなった。

研究[編集]

考え方の方向[編集]

パースが最初に読んだ哲学書はドイツ哲学であり、特にカントの『純粋理性批判』を毎日2時間ずつ3年以上も読んだ結果、この本を暗記したほどだった。約2年の間、チョンシー・ライトと毎日会って議論したところから、ミルなどのイギリス哲学と触れた。論理学についてはギリシア語・ラテン語・ドイツ語・フランス語の諸文献を広くあさったが、特に中世のスコラ哲学者ドゥンス・スコトゥスなどから多くを学んだという。

6歳の頃から実験室に居住してきたパースは、哲学の古典を実験化学者の目をもって読み、何かの経験に還元できない主張を意味のないものとして斥けた。

  1. 自分ならびに他人の意見を、常に「間違えているかもしれないもの」として把握する
  2. 哲学的意見でも何でも、意見の意味を、ある実験条件と照らし合わせて考える

背景[編集]

パースは30年間、科学者だった[12]。プロの哲学者だった時期は、ジョンズ・ホプキンス大学で講義をした5年間だけだった。

彼がハーバード大学の学部生だったときに哲学を学んだのは、主に、カントの『純粋理性批判』を毎日数ページ原文のドイツ語で読むことによってだった。彼の著作は幅広い学問諸分野と関連があり、それらの分野には天文学、計測学、測地学数学論理学哲学、科学史・科学哲学、言語学経済学、そして心理学が含まれていた。この業績はこのところ新たな関心と賛同の対象になってきており、復活しつつある。これは彼が最近の科学の発展の先を越していたことによってだけではなく、どのように哲学は効果的に人間関連の諸問題に適用されるのかを彼が実証したことにもよって、元気づけられたことによる。

パースの著作は繰り返し三つのカテゴリーについての学説に言及していて、それらは第一性、第二性、そして第三性と名づけられている。この学説はアリストテレスカントヘーゲルを読んだことを受けて、彼の経歴の早い時期に考え出された。

  • パースはプラグマティズムとして知られる哲学的風潮をのちに創始し、友人ウィリアム・ジェームズがプラグマティズムを流行させた。パースは、どの真理も暫定的である、どの命題が真であることも確実ではありえず、蓋然的でしかありえないと考えた。彼はこう考える立場を「可謬主義」と名づけた。可謬主義とプラグマティズムは、それぞれほかの哲学者たちの著書における懐疑主義実証主義に似た役割を彼の著作の中で果たしていると考えることができる。

批判的常識主義(Critical common-sensism)[編集]

人びとにとって疑いを差しはさめない信念というものがあり、常識というのは粗雑な(vague)信念である。人間生活においてこの粗雑な信念の果たす役割を、哲学も尊重しなければならない。

可謬主義 (Fallibilism)[編集]

絶対の確実性、精密さ、普遍的真理などは、経験の達しえないところにあるので、我われの知識は間違いを繰りかえしながら、間違いの少ない方向へ向かって進む。間違いうる可能性こそ知識の向上のためには必要である。したがって、思索にさいして仮説を選ぶときには、「それが間違いであったなら易しく論破できる」ような仮説を選ぶべきである。 次の4種の習慣は可謬主義に反し、知識の進歩を妨げる。

  1. 何かの事柄を絶対的に断言すること
  2. ある種のことが、知り得ないことだと言い切ること
  3. ある意見や命題が、知識の基礎となるものであり、究極的であり、それより下にもぐりこんで吟味することができないものであると主張すること
  4. ある法則や真理が、最終的かつ完全に定式化されたと断言すること

論理学あるいは記号論[編集]

哲学研究としての論理学[編集]

パースにとって、論理学自体は哲学の一部門であり、倫理学とエステティックスに次ぐ規範学であり、そして「研究方法を考案する技術」[13]である。パースは「論理数学」(mathematics of logic)が、現在の研究と応用で単に「論理学」と呼ばれている種類のものの多くだと考えた。

論理学の前提[編集]

パースは「論理学の第一規則[14]でこう言っている。

「理性の第一の、そして「ある意味で唯一の」規則は、学ぶためには、人は学ぶことを、しかも自分が考えたいと思うことに満足して休むということなく学ぶことを、欲する必要があるということである。[15]したがって、理性の必要条件は疑問に思うこと(wonder)である、ということが論理学の第一規則である。」

このことから、彼は次の系を導き出した。

…次の系が導かれるのだが、この系は哲学という街のあらゆる壁に刻まれる価値がある。
探究の道をふさぐな。

美学と倫理学[編集]

パースは、美学(esthetics)と倫理学についてはまとまったものは書かなかったが、これらの分野の研究は広義の論理学とともに規範学を構成していると考えた。彼はエステティックスを良し悪し(good and bad)についての研究と定義し、良いことを「称賛すべきこと」(the admirable)とみなした。美学は、あらゆる振る舞いに影響を与える諸目的についての研究であり、他の規範的諸研究の基礎に位置すると彼は考えた。[16]

パースは「美学」(aesthetics)という用語を芸術についての研究を指すために用いた。

略語[編集]

  • CP m. n = Collected Papers of Charles Sanders Peirce。mは巻数、nは段落数。
  • EP m, n = The Essential Peirce: Selected Philosophical Writings。mは巻数、nはページ数。
  • NEM m, n = The New Elements of Mathematics by Charles S. Peirce。mは巻数、nはページ数。
  • W m, n = Writings of Charles S. Peirce: A Chronological Edition。mは巻数、nはページ数。

著作[編集]

主に英語で執筆したが、一般向けの論文の中にはフランス語でも公表されたものもある。以下の邦訳がある。

著作集[編集]

  • 『世界思想教養全集14:プラグマティズム』 久野収ほか訳、河出書房新社、1963年
  • 『世界の名著48:パース ジェイムズ デューイ』 上山春平山下正男訳、中央公論社、1968年
  • 『パース著作集』 1~3、勁草書房、1985年-1986年。
    • 「現象学」「記号学」「形而上学」の三巻三部門による著作集である。

単行邦訳[編集]

  • 『偶然・愛・論理』 浅輪幸夫訳、三一書房、1982年
  • 『連続性の哲学』 伊藤邦武訳、岩波書店、2001年

参考文献[編集]

  • 新茂之 『パース「プラグマティズム」の研究―関係と進化と立論のカテゴリー論的整序の試み』 晃洋書房、2011年
  • 有馬道子 『パースの思想―記号論と認知言語学』 岩波書店、2001年
  • 伊藤邦武 『パ-スのプラグマティズム ― 可謬主義的知識論の展開』 勁草書房、1985年
  • 伊藤邦武 『パ-スの宇宙論』 岩波書店、2006年
  • 岡田雅勝 『パース』 清水書院、1998年
  • ウイリアム H. デイヴィス 『パースの認識論』 赤木昭夫訳、産業図書、1990年
  • 『パースの世界』 R.J.バーンシュタイン編、岡田雅勝訳、木鐸社、1978年
  • ^ジョゼフ・ブレント 『パースの生涯』 有馬道子訳、新書館、2004年
Brent, Joseph (1998), Charles Sanders Peirce: A Life. Revised and enlarged edition, Indiana University Press, Bloomington, IN.
  • 米盛裕二 『パ-スの記号学』 勁草書房、1981年
  • 米盛裕二 『アブダクション ― 仮説と発見の論理』 勁草書房、2007年
  • 『大航海』 60号、特集 パース 21世紀の思想、新書館2006年
  • Moore, E., and Robin, R.S., eds., (1964), Studies in the Philosophy of C.S. Peirce, Second Series, University of Massachusetts Press, Amherst, MA, 1964. 1964年より前の二次文献の目録がpp. 486-514.に収録されている。
  • Taylor, Barry N., ed. (2001), The International System of Units, NIST Special Publication 330. Washington DC: Superintendent of Documents.

脚注[編集]

  1. ^ 「パース」"Peirce"は、チャールズ・サンダース・パースの場合、ちょうど英単語の「purse」のように発音される。(en-us-purse.ogg 「パース」の発音[ヘルプ/ファイル])。"Note on the Pronunciation of 'Peirce'", The Peirce [Edition] Project Newsletter, Vol. 1, Nos. 3/4, Dec. 1994, Eプリントを参照。
  2. ^ 哲学者ポール・ワイスの発言。Weiss, Paul (1934), "Peirce, Charles Sanders" in the Dictionary of American Biography. Arisbe Eプリント.
  3. ^ 在任、1869-1909
  4. ^ この病気は激しい痛みをともなう神経または顔面の疾患である。彼の疾患は、現在なら三叉神経痛(trigeminal neuralgia)と診断されるだろう。
  5. ^ ブレント「パース伝記」
  6. ^ 天文学者としてのパースについてはMoore and Robin, 1964の中のLenzenの章を参照
  7. ^ この定義は1983年まで採用され続けた(Taylor 2001: 5)。
  8. ^ ブレントの伝記による
  9. ^ パースの『センチュリー事典』への寄稿についてはUQÀM (Université du Québec à Montréal)内のthe Peirce Edition Project (PEP)参照。
    『センチュリー事典』自体はここでオンライン(無料)とCDの両方で利用できる。
  10. ^ パースは同誌の編集者Wendell Phillips Garrisonと友人になった
  11. ^ これが、パースが自分の氏名にサンティアゴ、つまりスペイン語の「聖ジェームズ」(Saint James)を加えた動機だったと言われてきた(Joseph Brent 1998: 315–16, 374)。だが、パースは1890年1891年、そして1892年に印刷物の中で「チャールズ・サンティアゴ・パース」と名指しされている。ブレントはパースが自分の動機をMS 318で説明しているのを見つけたと主張したが、他の研究者たちはそれを見つけていない。
  12. ^ パースの職業は科学職であって哲学職ではなかったということ、そして彼は存命中、主に科学者として、そして二次的にのみ論理学者として知られ評価されていたのであって、哲学者としてはほとんど知られたり評価されたりはしなかったということは、十分に認識されていない。この事実がパース研究におけるお決まりの前提になるまでは、哲学と論理学についての彼の著作さえ理解されることがなかった。(Max Fisch, in Moore and Robin 1964, 486)
  13. ^ Peirce, C.S., 1882, "Introductory Lecture on the Study of Logic" delivered September 1882, Johns Hopkins University Circulars, vol. 2, no. 19, pp. 11-12, November 1892, Google Book Search Beta Eプリント, からの引用文。アメリカ国外のユーザーはこれへのフルアクセス権がまだないかもしれない。(EP1, 214-214; W4, 378-382; CP 7.59-76)で再版されている。
  14. ^ 1899年、First Rule of Logic、略してF.R.L.
  15. ^ Peirce (1899), "F.R.L." [First Rule of Logic], CP 1.135-140, Eプリント
  16. ^ "Charles S. Peirce on Esthetics and Ethics: A Bibliography" by Kelly A. Parker, of the Department of Philosophy, Grand Valley State University, Allendale, Michigan, USA in 1999. Eプリント (PDF, 145 KiB) を参照。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

第2巻 - 本文の一部閲覧可能
第6巻 - 本文の一部閲覧可能

事典[編集]

データベース[編集]

学術団体[編集]

米パース学会誌