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立木洋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
立木 洋
たちき ひろし
生年月日 (1931-03-11) 1931年3月11日
出生地 朝鮮平安北道新義州市
(現・朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮
没年月日 (2017-06-20) 2017年6月20日(86歳没)
死没地 日本の旗 日本 千葉県
出身校 東北人民大学
所属政党 日本共産党
称号50年党員
党名誉役員

選挙区全国区→)
比例区
当選回数 5回
在任期間 1974年7月8日 - 2000年12月25日
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立木 洋(たちき ひろし、1931年3月11日 - 2017年6月20日)は、日本の政治家。元・参議院議員日本共産党公認、5期)。日本共産党中央委員会副議長、党副委員長などを務めた。

来歴

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1931年、日本統治下の旧朝鮮新義州に生まれる。3歳の時に満洲国安東省に移り、中国東北人民大学を卒業する[1]1952年に入党[2]1959年に内地に引き揚げ、高知県内の家電販売店でセールスマン、経理部長、常務を務めた[1]

党内では、1959年から高知地区南部細胞長、同地区委員、同委員長代理、高知県委員を歴任。1964年からは党本部にて勤務し、中央委員会国際部員、国際部長代理を務める。第12回党大会1973年)から中央委員、第14回党大会1977年)から幹部会委員、1984年7月から常任幹部会委員を務める。1987年12月に書記局員。第19回党大会1990年)から中央委員会副議長、第21回党大会1997年)から幹部会副委員長を務めた[2]

1974年参院選に初当選以来、参議院議員を5期連続で務める。議員時代は党国際部長、国際委員会責任者、外交政策委員長、統一戦線部長[注 1]、平和問題対策会議責任者、国会議員団総会長などを歴任[2]。党内ではおもに国際関係の役職を務めた[1]。議員としては、細川村山両政権下で農産物の輸入自由化問題が浮上した際には、国内農業を保護する立場から反対の論陣を張った[3]2000年12月に体調不良のため引退を表明[2][注 2]

第22回党大会(2000年)で党の役職を引退し、名誉役員に推された[2]。2017年6月20日、老衰のため千葉県の病院で死去。86歳没[2]

国政選挙歴

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著書

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単著

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共著

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脚注

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注釈

  1. ^ 急死した津金佑近衆議院議員の後任(『朝日新聞』1978年9月9日付)。
  2. ^ これにより大門実紀史繰り上げ当選となった。

出典

  1. ^ a b c 「ホープ群像 立木洋 「国際」で欠かせぬ存在」『毎日新聞』1985年1月21日付
  2. ^ a b c d e f 『しんぶん赤旗』訃報欄、2017年6月22日付
  3. ^ WTO協定 農産物輸入自由化[リンク切れ]
  4. ^ 『国政選挙総覧:1947-2016』553頁。
  5. ^ 『国政選挙総覧:1947-2016』555頁。
  6. ^ 『国政選挙総覧:1947-2016』558頁。
  7. ^ 『国政選挙総覧:1947-2016』566頁。
  8. ^ 『国政選挙総覧:1947-2016』572頁。

参考文献

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  • 「ホープ群像 立木洋 「国際」で欠かせぬ存在」『毎日新聞』1985年1月21日付
  • 「日本共産党元副委員長 立木洋さん死去」『しんぶん赤旗』訃報欄、2017年6月22日付
  • 『新訂 現代政治家人名事典:中央・地方の政治家4000人』日外アソシエーツ、2005年。
  • 『国政選挙総覧:1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。

関連項目

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議会
先代
中尾則幸
日本の旗 参議院沖縄及び北方問題に関する特別委員長 次代
笠井亮