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| 芸名 = 小津 安二郎
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| ふりがな = おづ やすじろう
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| 画像コメント = 1951年頃
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| 本名 = 同じ
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| 別名義 = ジェームス・槇{{Refnest|group="注"|name="ジェームス・槇"|ヂェームス・槇、ゼェームス・槇、ゼームス・槇などの表記もある{{Sfn|貴田|1999|pp=51-54}}。}}<!-- 別芸名がある場合に記載。愛称の欄ではありません -->
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| 身長 = 170 cm<ref>『毎日グラフ』1951年8月10日号 毎日新聞社。</ref>
| 身長 = 170 cm{{Sfn|田中|2003|p=8}}<ref name="健康診断">「麦秋のころの健康診断 小津安二郎氏」(『毎日グラフ』1951年8月10日号{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=98-101}}に所収</ref>
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| 生年 = 1903
| 生年 = 1903
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| 活動内容 = [[1923年]]:[[松竹蒲田撮影所]]に入社<br />[[1927年]]:監督デビュー<br />[[1943年]]:軍報道部映画班として南方へ従軍<br />[[1953年]]:『[[東京物語]]』発表<br />[[1961年]]:[[芸術院]]会員
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| 主な作品 = 『[[東京の合唱]]』(1931年)<br />『[[大人の見る繪本 生れてはみたけれど]]』(1932年)<br />『[[晩春 (映画)|晩春]]』(1949年)<br />『[[麦秋 (1951年の映画)|麦秋]]』(1951年)<br />『[[東京物語]]』(1953年)<br/>『[[秋刀魚の味]]』(1962年)
| 主な作品 = 『[[東京の合唱]]』(1931年)<br/>『[[大人の見る繪本 生れてはみたけれど]]』(1932年)<br/>『[[戸田家の兄妹]]』(1941年)<br/>『[[晩春 (映画)|晩春]]』(1949年)<br/>『[[麦秋 (1951年の映画)|麦秋]]』(1951年)<br/>『[[東京物語]]』(1953年)<br/>『[[秋刀魚の味]]』(1962年)
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| 備考 = [[日本映画監督協会]]理事長(1955年 - 1963年)
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'''小津 安二郎'''(おづ やすじろう、[[1903年]]〈[[明治]]36年〉[[12月12日]] - [[1963年]]〈[[昭和]]38年〉[[12月12日]])は、[[日本]]の[[映画監督]][[脚本家]]。「小津調」と称され独特の映像世界優れた作品を次々に生み出、世界的も高い評価を得てい「小津」と呼ばれる固定されたスタッフやキャストでを作り続けたが、代表作にあげられる『[[東京物語]]』をはじめ、女優の[[原節子]]とだ作品群が特に高く評価されている。[[伊勢国|伊勢]][[松阪市|松阪]]の豪商・小津家の子孫にあたり、一族には[[国学者]][[本居宣長]]がいる。[[日本映画監督協会]]物故会員。
'''小津 安二郎'''(おづ やすじろう、[[1903年]][[12月12日]] - [[1963年]][[12月12日]])は、[[日本]]の[[映画監督]][[脚本家]]である[[日本映画]]を代表す監督ひとりであり、[[サイレント画]]時代から戦後まの約35年にわるキャリアの中で、[[原節子]]主演の『[[晩春 (映画)|晩春]]』(1949年)、『[[麦秋 (1951年の映画)|麦秋]]』(1951年)、『[[東京物語]]』(1953年)など54本の作品を監督た。ロー・ポジション撮影や厳密な構図などが特徴的な[[#作風|小津調]]」と呼ばれる独特の像世界で、親子関係や家族の解体テーマとする品を撮り続けたことで知られ[[黒澤明]][[溝口健二]]とで国際的に高く評価されている。[[1962年]]には映画人初の[[日本芸術院]]会員に選出された


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
=== 生い立ち ===
[[1903年]][[12月12日]]、[[東京市]][[深川区]]亀住町4番地(現在の[[東京都]][[江東区]][[深川 (江東区)|深川]]一丁目)に、父・寅之助と母・あさゑの5人兄妹の次男として生まれた<ref name="全集年譜">「小津安二郎年譜」({{Harvnb|全集(下)|2003|pp=633-644}})</ref>{{Sfn|千葉|2003|p=16}}<ref name="古石場文化センター">{{Cite web |url=https://www.kcf.or.jp/furuishiba/josetsu/ozu/ |title=小津安二郎紹介展示コーナー |website=古石場文化センター |publisher=公益財団法人 江東区文化コミュニティ財団 |accessdate=2021年2月21日}}</ref>。兄は2歳上の新一、妹は4歳下の登貴と8歳下の登久、弟は15歳下の信三である{{Sfn|千葉|2003|p=16}}。生家の小津新七家は、[[伊勢]][[松阪市|松阪]]出身の[[伊勢商人]]である小津与右衛門家の分家にあたる<ref name="家系">[[松浦莞二]]「家庭を描いた男の家庭」({{Harvnb|大全|2019|pp=154-158}})</ref>。伊勢商人は江戸に店を出して成功を収めたが、小津与右衛門家も[[日本橋]]で海産物肥料問屋の「湯浅屋」を営んでいた<ref name="家系"/>{{Sfn|佐藤|2000|pp=127-128}}{{Refnest|group="注"|小津与右衛門家の初代新兵衛(1673年 - 1733年)は、同じ松阪出身の小津清左衛門家が江戸で営む紙問屋「小津屋」(現在の[[小津商店]])の支配人をしていたが、[[1716年]]に退役すると清左衛門家から小津姓を与えられ、別家として松阪中町に住んだ{{Sfn|千葉|2003|p=15}}<ref name="仕分金">{{Cite web |url=https://www.ozuwashi.net/330/015a.html |title=支配人と仕分金 |website=小津330年のあゆみ |accessdate=2021年2月12日}}</ref><ref name="小津ハマ年譜">{{Cite web |url=http://ozu-net.com/work/ |title=小津ハマさん作成年譜(小津監督の人と仕事) |website=全国小津安二郎ネットワーク |accessdate=2021年2月21日}}</ref>。新兵衛は[[紀伊国|紀州]][[湯浅町|湯浅村]]出身の岩崎家と共同で[[干鰯問屋]]「湯浅屋」を経営したが、やがて岩崎家が経営から撤退すると、新兵衛が店を譲り受けた{{Sfn|千葉|2003|p=15}}<ref name="小津ハマ年譜"/>。新兵衛家は三代目当主から与右衛門を名乗り、松阪の[[阪内川]]近くに地元民から「土手新」と呼ばれた立派な本宅を構えた{{Sfn|千葉|2003|p=15}}<ref name="小津ハマ年譜"/>{{Sfn|中村|2000|pp=12-13}}。小津の大叔父にあたる六代目与右衛門は紀行家の[[小津久足]]で、そのほか与右衛門家からは英文学者の[[小津次郎]]、[[阪神タイガース]]球団社長の[[小津正次郎]]などの著名人が出ている<ref name="家系"/>{{Sfn|中村|2000|pp=12-13}}。}}。小津新七家はその支配人を代々務めており、五代目小津新七の子である寅之助も18歳で支配人に就いた<ref name="家系"/><ref name="仕分金"/>。あさゑは[[津市|津]]の名家の生まれで、のちに伊勢商人の中條家の養女となった{{Sfn|千葉|2003|p=16}}<ref name="家系"/>。両親は典型的な厳父慈母で、小津は優しくて思いやりのある母を終生まで敬愛した{{Sfn|佐藤|2000|pp=127-128}}。小津は3歳頃に[[脳膜炎]]にかかり、数日間高熱で意識不明の状態となったが、母が「私の命にかえても癒してみせます」と必死に看病したことで一命をとりとめた{{Sfn|千葉|2003|p=20}}。
[[東京市]][[深川区]]万年町(現在の[[東京都]][[江東区]][[深川 (江東区)|深川]])に、父寅之助と母あさゑの次男として生まれた。兄新一、妹登貴、妹登久、弟信三の5人兄弟。父寅之助は、伊勢商人「小津三家」の一つ小津与右衛門分家である新七家の6代目。与右衛門は深川の[[肥料]]問屋「湯浅屋」を営んでいた<ref>{{Cite web |url=http://www.okumurashoji.co.jp/news/koutouku_2011.html |title=江東区の農業と肥料の軌跡 | イネファイターや肥料販売を礎に農業の多角的経営を支援する奥村商事株式会社 |publisher=奥村商事株式会社 |accessdate=2018-10-28}}</ref>。本家から日本橋の海産物問屋「湯浅屋」と深川の海産物肥料問屋「小津商店」の両方を番頭として任されていた<ref>{{Harvnb|古賀重樹|2010|p=81}}</ref>。小津は明治小学校附属明治幼稚園から1910年に東京市立深川区明治[[尋常小学校]](現在の[[江東区立明治小学校]])に進んだ。


[[1909年]]、小津は深川区立明治小学校附属幼稚園に入園した。当時は子供を幼稚園に入れる家庭は珍しく、小津はとても裕福で教育熱心な家庭で育ったことがうかがえる{{Sfn|伝記|2019|p=175}}。翌[[1910年]]には深川区立明治尋常小学校(現在の[[江東区立明治小学校]])に入学した<ref name="全集年譜"/>。[[1913年]]3月、子供を田舎で教育した方がよいという父の教育方針と、当時住民に被害を及ぼしていた深川のセメント粉塵公害による環境悪化のため、一家は小津家の郷里である[[三重県]][[飯南郡]][[神戸村 (三重県飯南郡)|神戸村]](現在の[[松阪市]])[[垣鼻町|垣鼻]]785番地に移住した<ref name="全集年譜"/>{{Sfn|中村|2000|pp=15-17}}。父は湯浅屋支配人の仕事があるため、東京と松阪を往復する生活をした{{Sfn|中村|2000|pp=15-17}}。同年4月、小津は松阪町立第二尋常小学校(現在の[[松阪市立第二小学校]])4年生に転入した{{Sfn|伝記|2019|p=178}}。5・6年時の担任によると、当時の小津は円満実直で成績が良く、暇があるとチャンバラごっこをしていたという{{Sfn|伝記|2019|p=180}}。やがて小津は自宅近くの映画館「神楽座」で[[尾上松之助]]主演の作品を見たのがきっかけで、映画に病みつきとなった<ref name="全集年譜"/>。
[[1913年]]([[大正]]2年)、一家が父寅之助の郷里である[[松阪市|松阪]]に移ったため、小津は松阪町立第二尋常小学校(現在の[[松阪市立第二小学校]])に編入した。1916年(大正5年)、小学校を卒業して三重県立第四[[旧制中学校|中学校]](現在の[[三重県立宇治山田高等学校]])へ進学し、寄宿舎に入った。このころ初めて映画と出会ったが、その中でも特に小津の心を動かした作品は[[1917年]]に公開されたアメリカ映画『[[シヴィリゼーション_(映画)|シヴィリゼーション]]』(監督[[トーマス・H・インス]])であった。このころの小津は絵が上手で、[[ヴェスト・ポケット・コダック|ベス単]]や[[ブローニー]]といった当時の最新カメラを操る芸術家肌の少年だった<ref>{{Harvnb|千葉伸夫|2003|p=30}}</ref>。[[旧制高等学校|高校]]進学を控えた中学5年の夏、小津は問題行動を起こしたとされて退寮処分となり、自宅から通学することになった。


[[1916年]]、尋常小学校を卒業した小津は、三重県立第四中学校(現在の[[三重県立宇治山田高等学校]])に入学し、寄宿舎に入った<ref name="全集年譜"/>。小津はますます映画に熱を上げ、家族にピクニックに行くと偽って[[名古屋市|名古屋]]まで映画を見に行ったこともあった{{Sfn|伝記|2019|p=184}}。当時は[[連続活劇]]の女優[[パール・ホワイト]]のファンで、[[レックス・イングラム (映画監督)|レックス・イングラム]]や{{仮リンク|ペンリン・スタンロウズ|en|Penrhyn Stanlaws}}の監督作品を好むなど、アメリカ映画一辺倒だった{{Sfn|伝記|2019|p=184}}<ref name="筈見対談">「小津安二郎・筈見恒夫対談」(『映画の友』1955年9月号)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=238-244}}に所収</ref>。とくに小津に感銘を与えたのが[[トーマス・H・インス]]監督の『[[シヴィリゼーション (映画)|シヴィリゼーション]]』(1917年)で、この作品で映画監督の存在を初めて認識し、監督を志すきっかけを作った<ref name="筈見対談"/><ref name="豆監督">小津安二郎「僕は映画の豆監督」(『私の少年時代』1953年3月)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=166-167}}に所収</ref>。[[1920年]]、学校では男子生徒が下級生の美少年に手紙を送ったという「稚児事件{{Refnest|group="注"|映画批評家の[[佐藤忠男]]によると、男女の交際が厳しく禁じられていた戦前の中学生の社会では、異性に手紙を書く代わりに、年下の同性に友情の手紙を書くという習慣が一部で伝統的に存在し、それは今日の[[同性愛|ホモ・セクシュアル]]ほど深刻なものではないという{{Sfn|佐藤|2000|pp=130-131}}。}}」が発生し、小津もこれに関与したとして停学処分を受けた{{Sfn|伝記|2019|p=185}}。さらに小津は舎監に睨まれていたため、停学と同時に寄宿舎を追放され、自宅から汽車通学することになった{{Sfn|伝記|2019|p=185}}。小津は追放処分を決めた舎監を終生まで嫌悪し、戦後の同窓会でも彼と同席することを拒否した{{Sfn|中村|2000|p=88}}{{Sfn|佐藤|2000|pp=132-133}}。しかし、自宅通学に変わったおかげで外出が自由になり、映画見物には好都合となった{{Sfn|伝記|2019|p=185}}。この頃には校則を破ることが何度もあり、操行の成績は最低の評価しかもらえなくなったため、学友たちから卒業できないだろうと思われていた{{Sfn|伝記|2019|p=186}}{{Sfn|千葉|2003|p=36}}。
[[1921年]](大正10年)、商業の道に進んでほしい両親の期待にこたえるべく[[神戸商業大学 (旧制)|神戸高等商業学校]](現在の[[神戸大学]])を受験したが落第した。神戸([[神戸キネマ倶楽部]]ほか)や名古屋の映画館や地元の神楽座に通って、多くの映画を観たのもこの時期である。翌年の[[1922年]](大正11年)には[[三重師範学校]](現在の[[三重大学]][[教育学部]])を受験したが、これも落第。両親は「二浪するよりはまっとうな仕事についてほしい」<ref>{{Harvnb|千葉伸夫|2003|p=44}}</ref>と考え、小津は三重県飯南郡(現在の[[松阪市]][[飯高町]])にある宮前尋常高等小学校(現存せず)に[[代用教員]]として赴任した。小津の教員生活はわずか1年で終わったが、山村の児童たちに強烈な印象を残した<ref>小津の代用教員時代については、柳瀬才治『オーヅ先生の思い出』(1995年){{Full citation needed|date=2018-10-28 |title=柳瀬著なら書名は『人それぞれに オーヅ先生の思い出』が正しいのでは?}}{{要追加記述範囲|などを参照。|date=2018-10-28|title=「など」の部分が不明確。}}</ref>。教え子だった柳瀬才治は、「当時としては新しかったローマ字を教えてくれたり、[[マンドリン]]を弾いていたりして忘れられない先生だった」<ref>{{Harvnb|千葉伸夫|2003|p=45}}</ref>と当時を振り返っている。


[[1921年]]3月、小津は何とか中学校を卒業することができ、両親の命令で兄の通う[[神戸高等商業学校]]を受験したが、合格する気はあまりなく、[[神戸市|神戸]]や[[大阪府|大阪]]で映画見物を楽しんだ{{Sfn|千葉|2003|p=37}}{{Sfn|佐藤|2000|p=134}}。[[名古屋高等商業学校]]も受験したが、どちらとも不合格となり、浪人生活に突入した<ref name="全集年譜"/>。それでも映画に没頭し、7月には知人らと映画研究会「エジプトクラブ」を設立し、憧れのパール・ホワイトなどのハリウッド俳優の住所を調べて手紙を送ったり、映画のプログラムを蒐集したりした{{Sfn|伝記|2019|p=187}}。翌[[1922年]]に再び受験の時期が来ると、[[三重師範学校|三重県師範学校]]を受験したが不合格となり、飯南郡[[宮前村 (三重県)|宮前村]](現在の松阪市[[飯高町]])の宮前尋常高等小学校に[[代用教員]]として赴任した{{Sfn|中村|2000|p=170}}。宮前村は松阪から約30キロの山奥にあり、小津は学校のすぐ近くに下宿したが、休みの日は映画を見に松阪へ帰っていたという{{Sfn|中村|2000|pp=176-178}}<ref name="蓮實年譜">「年譜」({{Harvnb|蓮實|2003|pp=319-338}})</ref>。小津は5年生男子48人の組を受け持ち、児童に当時では珍しい[[ローマ字]]を教えたり、教室で活劇の話をして喜ばせたりしていた{{Sfn|中村|2000|pp=176-178}}。また、下宿で児童たちに[[マンドリン]]を弾き聞かせたり、下駄のまま児童を連れて標高1000メートル以上の[[局ヶ岳]]を登頂したりしたこともあった{{Sfn|中村|2000|pp=180-182}}。
=== 映画の世界へ ===
子供たちに慕われた小津だったが、映画への愛着を捨てられず、1年で教員をやめて(東京に戻っていた)家族の元へ帰った。父親は初め、映画の仕事をしたいという小津の希望を聞かなかったが、最終的にこれを認めた。[[1923年]](大正12年)の夏、叔父が地所を貸していて縁のあった[[松竹蒲田撮影所]]に入社して撮影助手の仕事に就き、月給30円を得た。直後の9月1日、[[関東大震災]]が発生。この非常事態に対処すべく、松竹社長[[大谷竹次郎]]の女婿・[[城戸四郎]]が臨時所長として蒲田撮影所にやってきた。城戸は当時の中心だった映画監督・[[島津保次郎]]らと今後の蒲田撮影所の方向性について話し合い、蒲田では現代劇映画をメインにしていくことを決めた。[[1924年]]に城戸は正式に所長に就任、新所長の元、松竹蒲田は現代劇の製作スタジオとして次々と優れた作品を生み出していく。城戸は俳優研究所も併設、ここから[[笠智衆]]ら新時代の映画俳優たちが生み出されていった。このころ、後の小津組の中核となるシナリオライター[[野田高梧]]も蒲田へやってきている。撮影助手時代の小津はまず碧川道夫や酒井健三らの下につき、監督では島津や[[牛原虚彦]]について映画製作を学んだ。


=== 映画界入り ===
1924年12月、小津は当時の徴兵制度に従って一年志願兵として入隊し、翌[[1925年]]12月に除隊した。職場に復帰した小津は助監督として[[大久保忠素]]のもとにつき、現場で映画製作のノウハウを体得しながら、監督として必須の作業とされたシナリオ執筆に励んだ。そのうちの一本『瓦版カチカチ山』(映画化はされず)が城戸の目にとまった。[[1927年]]([[昭和]]2年)8月、「監督ヲ命ズ、但シ時代劇部」という辞令によって小津は念願の監督昇進を果たした。こうして小津は初監督作『[[懺悔の刃]]』(同年10月公開)を撮るが、これは小津の長い監督歴の中で唯一の時代劇作品である。小津は撮影スケジュールの調整から始まり、セットづくり、俳優への演技指導と充実した毎日を過ごしたが、完成直前で思いかけず予備役召集がかかり、完成を[[斎藤寅次郎]]に託して入隊した。小津は後に「自分の作品のような気がしない」<ref name="kinema19601210">「小津安二郎自作を語る」『キネマ旬報』1960年12月10日増刊号、キネマ旬報社。</ref>と語っている。
[[1923年]]1月、一家は小津と女学校に通う妹の登貴を残して上京し、東京市深川区和倉町に引っ越した<ref name="全集年譜"/>。3月に小津は登貴が女学校を卒業したのを機に、代用教員を辞めて2人で上京し、和倉町の家に合流して家族全員が顔を揃えた{{Sfn|伝記|2019|p=189}}。小津は映画会社への就職を希望したが、映画批評家の[[佐藤忠男]]曰く「当時の映画は若者を堕落させる娯楽と考えられ、職業としては軽蔑されていた」ため父は反対した{{Sfn|伝記|2019|p=189}}{{Sfn|佐藤|2000|p=135}}。しかし、母の異母弟の中條幸吉が[[松竹]]に土地を貸していたことから、その伝手で8月に[[松竹キネマ]][[松竹蒲田撮影所|蒲田撮影所]]に入社した{{Sfn|伝記|2019|p=189}}。小津は監督志望だったが、演出部に空きがなかったため、撮影部助手となった<ref name="芸談">「小津安二郎芸談」([[東京新聞]]1947年12月5日・12日・19日・26日)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=158-164}}に所収</ref>。入社直後の9月1日、小津は撮影所で[[関東大震災]]に遭遇した。和倉町の家は焼失したが、家族は全員無事だった{{Sfn|伝記|2019|p=190}}。震災後に本家が湯浅屋を廃業したことで、父は亀住町の店跡を店舗兼住宅に新築し、新たに「小津地所部」の看板を出して、本家が所有する土地や貸家の管理を引き受けた{{Sfn|伝記|2019|p=193}}{{Sfn|千葉|2003|p=51}}。松竹本社と蒲田撮影所も震災で被害を受け、スタッフの多くは京都の[[松竹京都撮影所|下加茂撮影所]]に移転した{{Sfn|千葉|2003|p=51}}。蒲田には[[島津保次郎]]監督組が居残り、小津も居残り組として[[碧川道夫]]の撮影助手を務めた{{Sfn|千葉|2003|pp=52-53}}。


[[1924年]]3月に蒲田撮影所が再開すると、小津は酒井宏の撮影助手として[[牛原虚彦]]監督組についた{{Sfn|伝記|2019|pp=193-194}}{{Sfn|佐藤|2000|pp=142-143}}。小津は重いカメラを担ぐ仕事にはげみ、ロケーション中に暇があると牛原に矢継ぎ早に質問をした{{Sfn|佐藤|2000|pp=142-143}}。12月、小津は東京[[青山 (東京都港区)|青山]]の[[近衛歩兵第4連隊]]に[[幹部候補生 (日本軍)#一年志願兵制度による予備役幹部補充|一年志願兵]]として入営し、翌[[1925年]]11月に[[伍長]]で除隊した{{Sfn|伝記|2019|pp=193-194}}。再び撮影助手として働いた小津は、演出部に入れてもらえるよう兄弟子の[[斎藤寅次郎]]に頼み込み、[[1926年]]に時代劇班の[[大久保忠素]]監督のサード助監督となった{{Sfn|伝記|2019|pp=195-196}}。この頃に小津はチーフ助監督の斎藤、セカンド助監督の[[佐々木啓祐]]、生涯の親友となる[[清水宏 (映画監督)|清水宏]]、後に小津作品の編集担当となる撮影部の[[浜村義康]]の5人で、撮影所近くの家を借りて共同生活をした{{Sfn|伝記|2019|pp=195-196}}{{Sfn|千葉|2003|p=63}}。小津は大久保のもとで脚本直しと絵コンテ書きを担当したが、大久保は助監督の意見に耳を傾けてくれたため、彼にたくさんのアイデアを提供することができた<ref name="芸談"/>{{Sfn|千葉|2003|p=63}}<ref name="一問一答">[[岸松雄|和田山滋]]「小津安二郎との一問一答」(『キネマ旬報』1933年1月11日号)。{{Harvnb|全発言|1987|pp=11-18}}に所収</ref>。また、大久保はよく撮影現場に来ないことがあり、その時は助監督が代わりに務めたため、小津にとっては大変な勉強になった<ref name="芸談"/>。小津は後に、大久保のもとについたことが幸運だったと回想している<ref name="一問一答"/>。
同年11月、城戸の号令によって時代劇部が京都に移転。蒲田撮影所は現代劇に特化することになった。小津もこの方針に沿って次々に作品をつくりあげていく。[[1928年]]には笠智衆が初めて小津作品に参加した『[[若人の夢]]』以下、『[[女房紛失]]』『[[カボチヤ]]』『[[引越し夫婦]]』『[[肉体美_(映画)|肉体美]]』の5本、[[1929年]](昭和4年)には『[[宝の山]]』、現存する最古の作品である『[[学生ロマンス 若き日]]』、『[[和製喧嘩友達]]』(現存)、『[[大学は出たけれど]]』(一部が現存)、『[[会社員生活]]』(現存せず)、『[[突貫小僧]]』(一部が現存)の6本を完成・公開している。「一年一作」となった戦後の小津からは考えられないハイペースな製作であった。


[[1927年]]のある日、撮影を終えて腹をすかした小津は、満員の社員食堂で[[カレーライス]]を注文したが、給仕が順番を飛ばして後から来た牛原虚彦のところにカレーを運んだため、これに激昂して給仕に殴りかかろうとした<ref>小津安二郎「ライス・カレー〈処女作前後〉」(『キネマ旬報』1950年3月上旬号)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|p=78}}に所収</ref>。この騒動は撮影所内に知れ渡り、小津は撮影所長の[[城戸四郎]]に呼び出されたが、それが契機で脚本を提出するよう命じられた{{Sfn|佐藤|2000|pp=163-164}}。城戸は「監督になるには脚本が書けなければならない」と主張していたため、これは事実上の監督昇進の試験だった<ref name="芸談"/>。小津は早速自作の時代劇『瓦版かちかち山』の脚本を提出し、作品は城戸に気に入られたが、内容が渋いため保留となった<ref name="芸談"/>{{Sfn|佐藤|2000|pp=163-164}}。8月、小津は「監督ヲ命ズ 但シ時代劇部」の辞令により監督昇進を果たし、初監督作品の時代劇『[[懺悔の刃]]』の撮影を始めた{{Sfn|千葉|2003|pp=68-69}}。ところが撮影途中に[[予備役]]の演習召集を受けたため、撮り残したファーストシーンの撮影を斎藤に託し、9月25日に三重県津市の[[歩兵第33連隊]]第7中隊に入隊した{{Sfn|伝記|2019|pp=196-197}}。10月に『懺悔の刃』が公開され、除隊した小津も映画館で鑑賞したが、後に「自分の作品のような気がしなかった」と述べている{{Sfn|伝記|2019|pp=196-197}}<ref name="自作を語る">「小津安二郎自作を語る」({{Harvnb|人と芸術|1964|pp=92-99}})</ref>。
=== 監督としての名声 ===
[[ファイル:Yasujiro Ozu cropped.jpg|thumb|『[[非常線の女]]』セットにて(1933年)]]
[[1930年]](昭和5年)には『[[結婚学入門]]』(現存せず)、『[[朗かに歩め]]』(現存)、『[[落第はしたけれど]]』(現存)、『[[その夜の妻]]』(現存)、『[[エロ神の怨霊]]』(現存せず)、『[[足に触った幸運|足に触つた幸運]]』(現存せず)、『[[お嬢さん_(1930年の映画)|お嬢さん]]』(現存せず)の7本を作りあげ、これが1年間製作の最高本数になる。


=== 監督初期 ===
翌[[1931年]](昭和6年)になると世界恐慌の影響もあって製作本数が減少、同年は3本、翌年の[[1932年]](昭和7年)は4本の製作にとどまっている。この時代の小津は「[[小市民映画]]」と呼ばれるジャンルにおける第一人者とみなされており、批評家からの評価もすでに高かった。城戸も小津作品の特徴を『人生の真実を小市民の生活に発見するもの』と高く評価している<ref>{{Harvnb|千葉伸夫|2003|p=73}}</ref>。
[[ファイル:Yasujiro Ozu cropped.jpg|thumb|180px|『[[非常線の女]]』(1933年)撮影時の小津。]]
1927年11月、蒲田時代劇部は下加茂撮影所に合併されたが、小津は蒲田に残り、以後は現代劇の監督として活動することができた{{Sfn|千葉|2003|pp=68-69}}。しかし、小津は早く監督になる気がなく、会社からの企画を6、7本断ったあと、ようやく自作のオリジナル脚本で監督2作目の『[[若人の夢]]』(1928年)を撮影した<ref name="自作を語る"/>。当時の松竹蒲田は城戸の方針で、若手監督に習作の意味を兼ねて添え物用の中・短編喜劇を作らせており、新人監督の小津もそうした作品を立て続けに撮影したが、その多くは学生や会社員が主人公のナンセンス喜劇だった{{Sfn|貴田|1999|p=38}}<ref name="松竹解説">佐藤忠男解説「小津映画全作品」({{Harvnb|松竹|1993|pp=216-287}})</ref>{{Sfn|フィルムアート社|1982|p=59}}。[[1928年]]は5本、[[1929年]]は6本、[[1930年]]は生涯最高となる7本もの作品を撮り、めまぐるしいほどのスピード製作となった<ref name="全集年譜"/>{{Sfn|伝記|2019|p=203}}。徐々に会社からの信用も高まり、トップスターの[[栗島すみ子]]主演の正月映画『[[結婚学入門]]』(1930年)の監督を任されるほどになった<ref name="全集上解題">「作品解題」({{Harvnb|全集(上)|2003|pp=695-731}})</ref>。『[[お嬢さん (1930年の映画)|お嬢さん]]』(1930年)は当時の小津作品にしては豪華スターを配した大作映画となり、初めて[[キネマ旬報ベスト・テン]]に選出された(日本・現代映画部門2位){{Sfn|伝記|2019|p=203}}<ref name="全集上解題"/>。


[[1931年]]、松竹は土橋式[[トーキー]]を採用して、日本初の国産トーキー『[[マダムと女房]]』を公開し、それ以来日本映画は次第にトーキーへと移行していったが、小津は[[1936年]]までトーキー作品を作ろうとはしなかった<ref name="NO監督">「小津安二郎が監督しなかった作品」({{Harvnb|全集(下)|2003|pp=626-630}})</ref>。その理由はコンビを組んでいたカメラマンの[[茂原英雄]]が独自のトーキー方式を研究していたことから、それを自身初のトーキー作品で使うと約束していたためで、後に小津は日記に「茂原氏とは年来の口約あり、口約果たさんとせば、監督廃業にしかず、それもよし」と書いている<ref name="全集上解題"/><ref>「"沈黙を棄てる監督" 小津氏との一問一答」(都新聞1936年4月20日夕刊)。{{Harvnb|全発言|1987|pp=82-84}}に所収</ref>。小津は茂原式が完成するまでサイレント映画を撮り続け、松竹が採用した土橋式はノイズが大きくて不備があるとして使用しなかった<ref name="全集上解題"/>。しかし、サイレント作品のうち5本は、台詞はないが音楽が付いている[[サウンド版]]で公開されている{{Sfn|伝記|2019|pp=205-206}}。
[[1933年]](昭和8年)、『[[東京の女 (映画)|東京の女]]』、『[[非常線の女]]』、『[[出来ごころ]]』の3本を製作。この年、小津は気鋭の新進監督[[山中貞雄]]と京都で知り合い、意気投合。しかし[[1934年]](昭和9年)4月2日、父寅次郎が狭心症で急逝した。このころ、国内では[[トーキー]]映画が増えており、小津は拙速なトーキー化には慎重な姿勢を見せていたが、トーキーの研究と準備は続けていた。こうして[[1936年]](昭和11年)、小津初のトーキー作品として、外国向けに歌舞伎の演目を映像化したドキュメンタリー映画『[[鏡獅子 (映画)|鏡獅子]]』が製作された。トーキーの『[[一人息子_(映画)|一人息子]]』もこれと並行して製作された。これらに先立って公開された『[[大学よいとこ]]』は小津の最後の[[サイレント映画|サイレント]]作品であり、現存しない最後の作品になっている。


1930年代前半になると、小津は批評家から高い評価を受けることが多くなった。『[[東京の合唱]]』(1931年)はキネマ旬報ベスト・テンの3位に選ばれ、佐藤は「これで小津は名実ともに日本映画界の第一級の監督として認められるようになったと言える」と述べている{{Sfn|佐藤|2000|p=254}}。『[[大人の見る繪本 生れてはみたけれど]]』(1932年)はより高い評価を受け、初めてキネマ旬報ベスト・テンの1位に選ばれた{{Sfn|伝記|2019|pp=205-206}}。さらに『[[出来ごころ]]』(1933年)と『[[浮草物語]]』(1934年)でもベスト・テンの1位に選ばれた<ref name="全集上解題"/>。[[1933年]]9月には[[後備役]]として津市の歩兵第33連隊に入営し、毒ガス兵器を扱う特殊教育を受けた<ref name="蓮實年譜"/>。10月に除隊すると京都で師匠の大久保や[[井上金太郎]]らと交歓し、井上の紹介で気鋭の新進監督だった[[山中貞雄]]と知り合い、やがて二人は深く心を許し合う友となった<ref name="蓮實年譜"/><ref name="全発言解説">田中眞澄「解説」({{Harvnb|全発言|1987|pp=283-288}})</ref>。新しい出会いの一方、[[1934年]]4月には父寅之助を亡くした<ref name="全集年譜"/>。父が経営した小津地所部の後を継ぐ者はおらず、2年後に家族は深川の家を明け渡すことになり、小津と母と弟の3人で[[芝区]][[高輪]]に引っ越した。小津は一家の大黒柱として、家計や弟の学費を背負ったが、この頃が金銭的に最も苦しい時期となった{{Sfn|伝記|2019|p=217}}。
=== 小津の戦争 ===
1937年(昭和12年)に『[[淑女は何を忘れたか]]』を完成後の8月、京都から東京に移って東宝で監督業をしていた親友の山中貞雄に召集がかかったことで、小津は身近に迫る戦争の暗い影を感じ取った。9月にはいると小津も応召し、9月24日に大阪から出航して中国戦線に向かった。小津は指宿三郎少佐率いる第二中隊に属する第三小隊で班長を務めた。小津の部隊は南京総攻撃(12月10日-13日)には間に合わず、陥落後の南京を越えて奥地へと進軍した。1938年(昭和13年)1月12日、南京郊外の包容で山中と再会、久闊を叙した。山中は同年9月に急性腸炎を発症して[[開封市|開封]]の野戦病院で世を去ったため、これが2人の別れになった。6月には伍長から軍曹に昇進して[[漢口]]作戦に従事、以後も各地を転戦した。1939年(昭和14年)6月26日、[[九江]]で帰還命令を受けて7月13日に神戸へ上陸、原隊に復帰して除隊した。1年10か月におよぶ戦場暮らしであった。


[[1935年]]7月、小津は演習召集のため、再び青山の近衛歩兵第4連隊に3週間ほど入隊した<ref name="全集年譜"/>。この年に日本文化を海外に紹介するための記録映画『[[鏡獅子 (映画)|鏡獅子]]』(1936年)を撮影し、初めて土橋式によるトーキーを採用した<ref name="全集上解題"/>{{Sfn|戦後語録集成|1989|p=441}}。[[1936年]]3月、小津は[[日本映画監督協会]]の結成に加わり、協会を通じて[[溝口健二]]、[[内田吐夢]]、[[田坂具隆]]などの監督と親しくなった<ref name="全発言解説"/>。この年に茂原式トーキーが完成し、小津は約束通り『[[一人息子 (映画)|一人息子]]』(1936年)で採用することを決め、同年に蒲田から移転した[[松竹大船撮影所|大船撮影所]]で撮影することを考えたが、松竹が土橋式トーキーと契約していた関係で大船撮影所を使うことができず、誰もいなくなった旧蒲田撮影所で撮影した{{Sfn|伝記|2019|pp=219-220}}{{Sfn|全発言|1987|pp=263-264}}{{Refnest|group="注"|茂原のトーキー方式は「SMS(スーパー・モハラ・サウンド)」と呼ばれ、『一人息子』での成果が認められてからは、松竹傘下の[[新興キネマ]][[東映京都撮影所|京都撮影所]]で使用された{{Sfn|全発言|1987|pp=263-264}}。}}。[[1937年]]に土橋式で『[[淑女は何を忘れたか]]』を撮影したあと、自身が考えていた原作『愉しき哉保吉君』を内田吐夢に譲り、同年に『[[限りなき前進]]』として映画化された{{Sfn|伝記|2019|pp=219-220}}。9月には『[[父ありき]]』の脚本を書き上げたが、執筆に利用した[[茅ヶ崎市]]の旅館「[[茅ヶ崎館]]」は、これ以降の作品でもしばしば執筆に利用した{{Sfn|戦後語録集成|1989|p=451}}。
1939年、[[内務省 (日本)|内務省]]の指示で[[映画法]]が成立し、映画を製作前に事前検閲するシステムなどが導入され、映画が国家に完全に統制されることになった。小津は復帰第1作として『彼氏南京に行く』というシナリオを執筆したが、これが映画法の事前検閲を通らず、映画化を断念した。小津の作品ですら検閲ではねられたこの事件は、映画界に衝撃を与えた。小津はめげずに[[1941年]](昭和16年)に『[[戸田家の兄妹]]』を製作し、小津作品として初めての大ヒットとなった。小津は1932年から1934年まで作品が3年連続[[キネマ旬報ベストテン]]第1位となるなど批評家からの評価は高かったが、興行的な成功にはなかなか恵まれていなかった。次の作品『[[父ありき]]』(1942年4月公開)製作中に日米が開戦。小津の次回作の公開は1947年(昭和22年)まで待つことになるが、『父ありき』ではそれまでも小津作品にたびたび出演してきた笠智衆が初めて主演しており、この時点ですでに戦後の小津作品の骨格が完成していたことがうかがえる。


=== 小津と戦争 ===
日米開戦後、小津は松竹が託された[[ビルマ作戦]]の映画化『[[ビルマ作戦 遥かなり父母の国]]』にあたったが、完成しなかった。[[1943年]]6月、[[軍報道部映画班]]に徴集されて福岡の[[福岡第一飛行場|雁ノ巣飛行場]]から監督の[[秋山耕作]]、シナリオ作家の[[斎藤良輔 (脚本家)|斎藤良輔]]と共に軍用機で[[シンガポール]]へ向かった。「小津組」のカメラマン[[厚田雄春]]も後を追って到着した。シンガポールでは『[[オン・トゥー・デリー]]』という仮題のつけられた[[チャンドラ・ボース]]の活躍を映画化したものの製作に取り掛かったが、これもやはり完成しなかった。小津はシンガポールで終戦を迎えるが、同地では「映写機の検査」の名目で大量のアメリカ映画を見ることができたという。その中には『[[嵐が丘_(1939年の映画)|嵐が丘]]』『[[北西への道]]』『[[レベッカ (1940年の映画)|レベッカ]]』『[[わが谷は緑なりき]]』『[[ファンタジア (映画)|ファンタジア]]』『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』『[[市民ケーン]]』などが含まれていた<ref>{{Harvnb|千葉伸夫|2003|p=217}}</ref>。
1937年7月に[[日中戦争]]が開始し、8月に親友の山中が応召されたが、小津も『父ありき』脱稿直後の9月10日に召集され、[[近衛歩兵第2連隊]]に歩兵伍長として入隊した{{Sfn|伝記|2019|pp=219-220}}{{Sfn|佐藤|2000|pp=370-372, 614}}。小津は毒ガス兵器を扱う[[上海派遣軍]]司令部直轄・野戦瓦斯第2中隊に配属され、9月27日に[[上海]]に上陸した{{Sfn|佐藤|2000|pp=370-372, 614}}。小津は第三小隊の班長となって各地を転戦し、[[南京戦#南京陥落|南京陥落]]後の12月20日に[[安徽省 (中華民国)|安徽省]]滁県に入城した{{Sfn|千葉|2003|pp=163-164}}。[[1938年]]1月12日、上海へ戦友の遺骨を届けるための出張の帰路、[[南京]]郊外の[[句容市|句容]]にいた山中を訪ね、30分程の短い再会の時を過ごした{{Sfn|千葉|2003|pp=165-166}}。4月に[[徐州会戦]]に参加し、6月には[[軍曹]]に昇進し、9月まで[[南京]]に駐留した{{Sfn|佐藤|2000|pp=370-372, 614}}。同月に山中は戦病死し、訃報を知った小津は数日間無言になったという<ref name="全集年譜"/>。その後は[[武漢作戦|漢口作戦]]に参加し、[[1939年]]3月には[[南昌作戦]]に加わり、[[修水]]の渡河作戦で毒ガスを使用した{{Sfn|佐藤|2000|pp=370-372, 614}}。続いて[[南昌市|南昌]]進撃のため厳しい行軍をするが、小津は「山中の供養だ」と思って歩いた{{Sfn|伝記|2019|p=224}}。やがて南昌陥落で作戦は中止し、6月26日には[[九江市|九江]]で帰還命令が下り、7月13日に日本に帰国、7月16日に召集解除となった{{Sfn|千葉|2003|pp=178-179}}。


1939年12月、小津は帰還第1作として『彼氏南京へ行く』(後に『[[お茶漬の味]]』と改題)の脚本を執筆し、翌[[1940年]]に撮影準備を始めたが、[[内務省 (日本)|内務省]]の事前検閲で全面改訂を申し渡され、出征前夜に夫婦でお茶漬けを食べるシーンが「赤飯を食べるべきところなのに不真面目」と非難された<ref name="全集下解題">「作品解題」({{Harvnb|全集(下)|2003|pp=611-625}})</ref>。結局製作は中止となり、次に『[[戸田家の兄妹]]』(1941年)を製作した。これまで小津作品はヒットしないと言われてきたが、この作品は興行的に大成功を収めた<ref name="全集上解題"/>。次に応召直前に脚本を完成させていた『父ありき』(1942年)を撮影し、小津作品の常連俳優である[[笠智衆]]が初めて主演を務めた<ref name="全集年譜"/>。この撮影中に[[太平洋戦争]]が開戦し、[[1942年]]に陸軍報道部は「大東亜映画」を企画して、大手3社に戦記映画を作らせた。松竹は[[ビルマの戦い|ビルマ作戦]]を描くことになり、小津が監督に抜擢された<ref name="NO監督"/>。タイトルは『ビルマ作戦 遥かなり父母の国』で脚本もほぼ完成していたが、軍官の求める勇ましい映画ではないため難色を示され、製作中止となった{{Sfn|伝記|2019|p=230}}。
終戦後はしばらくの抑留生活を経て、[[1946年]](昭和21年)2月11日に[[広島港]]へ上陸して帰国した。


[[1943年]]6月、小津は軍報道部映画班員として南方へ派遣され、主に[[シンガポール]]に滞在した<ref name="NO監督"/>。同行者には監督の[[秋山耕作]]と脚本家の[[斎藤良輔 (脚本家)|斎藤良輔]]がおり、遅れてカメラマンの[[厚田雄春]]が合流した<ref name="NO監督"/>。小津たちはインド独立をテーマとした国策映画『デリーへ、デリーへ』を撮ることになり、[[ペナン]]で[[スバス・チャンドラ・ボース]]と会見したり、[[ジャワ]]でロケを行ったりしたが、戦況が悪化したため撮影中止となった{{Sfn|千葉|2003|pp=214-216}}。小津は厚田に後発スタッフが来ないよう電報を打たせたが、電報の配達が遅れたため、後発スタッフは行き違いで日本を出発してしまい、小津は「戦況のよくない洋上で船がやられたらどうするんだ」と激怒した。後発スタッフは何とか無事にシンガポールに到着し、撮影も続行されたが、やがて小津とスタッフ全員に非常召集がかかり、現地の軍に入営することになった{{Sfn|厚田|蓮實|1989|pp=130-132}}。仕事のなくなった小津はテニスや読書をして穏やかに過ごし、夜は報道部の検閲試写室で「映写機の検査」と称して、接収した大量のアメリカ映画を鑑賞した<ref name="蓮實年譜"/>{{Sfn|厚田|蓮實|1989|p=133}}。その中には『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』『[[嵐が丘 (1939年の映画)|嵐が丘]]』(1939年)、『[[怒りの葡萄 (映画)|怒りの葡萄]]』『[[ファンタジア (映画)|ファンタジア]]』『[[レベッカ (1940年の映画)|レベッカ]]』(1940年)、『[[市民ケーン]]』(1941年)などが含まれており、『ファンタジア』を見た時は「こいつはいけない。相手がわるい。大変な相手とけんかした」と思ったという<ref name="小津は語る">飯田心美「小津安二郎は語る」(『キネマ旬報』1947年4月号)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=22-24}}に所収</ref>。
=== 「小津調」の完成 ===
[[ファイル:Setsuko Hara and Yasujiro Ozu in Tokyo Story.jpg|thumb|『東京物語』のロケ。最右が小津、左前方は原節子(1953年)]]
復員した小津は高輪の実家に戻ったが母はいなかった。母あさゑは周囲の人が疎開を進めても「安二郎はこの家に戻ってきますから」といって頑として聞かなかったが、昭和20年3月10日の空襲のすさまじさに、さすがに疎開を決意、千葉県の野田市に住む妹登久の嫁ぎ先山下家に世話になっていた<ref>{{Harvnb|千葉伸夫|2003|p=228}}</ref>。小津は野田におもむき、借家を借りて母と暮らした。しばらくは仕事を離れたかった小津だったが、会社の度重なる催促に重い腰を上げて戦後第1作『[[長屋紳士録]]』([[1947年]](昭和22年))をつくりあげた。次に[[高峰秀子]]を迎えて『[[月は上りぬ]]』の製作に取り掛かったが、高峰らの予定が合わずに延期になった。


[[1945年]]8月15日にシンガポールで敗戦を迎えると、『デリーと、デリーへ』のフィルムと脚本を焼却処分し、映画班員とともにイギリス軍の監視下にある[[ジュロン]]の民間人収容所に入り、しばらく抑留生活を送った<ref name="全集年譜"/>{{Sfn|伝記|2019|pp=235-236}}。小津は南方へ派遣されてからも松竹から給与を受け取っていたため、軍属ではなく民間人として扱われ、軍の収容所入りを免れていた{{Sfn|千葉|2003|p=221}}。抑留中は[[ゴムノキ|ゴム]]林での労働に従事し、収容所内での日本人向け新聞「自由通信」の編集もしていた{{Sfn|伝記|2019|pp=235-236}}。暇をみてはスタッフと[[連句]]を詠んでいたが、小津は後に「連句の構成は映画の[[モンタージュ]]と共通するものがあり、とても勉強になった」と回想している<ref name="小津は語る"/>。同年12月、第一次引き揚げ船で帰国できることになり、スタッフの人数が定員を上回っていたため、クジ引きで帰還者を決めることにした。小津はクジに当たったが、「俺は後でいいよ」と妻子のあるスタッフに譲り、映画班の責任者として他のスタッフの帰還が終わるまで残留した{{Sfn|伝記|2019|pp=235-236}}。翌[[1946年]]2月に小津も帰還し、12日に[[広島県]][[大竹市|大竹]]に上陸した<ref name="全集年譜"/>。
そこで[[1948年]](昭和23年)、戦後に知己を得ていた[[志賀直哉]]の『[[暗夜行路]]』をモチーフにしたと目される<ref>{{Harvnb|千葉伸夫|2003|p=237}}</ref>作品『[[風の中の牝雞]]』の製作に取り組んだ。しかし、『風の中の牝{{JIS2004フォント|&#38622;}}』はあまり評判が良くなく、自身でも「あまりいい失敗作ではなかった」<ref name="kinema19601210"/>と振り返っている。この作品の失敗は、小津の持ち味である現実を超えた端正な美しさの表現が、敗戦後の生活の現実をリアルに描く方向では生きないことを示すものであった。これは脚本家の野田高梧も指摘したところであった。そのため、小津は以後の全作品で野田と共同で執筆することになる。


=== 戦後の活躍 ===
[[1949年]](昭和24年)、原節子を初めて迎えた作品『[[晩春 (映画)|晩春]]』を発表。この作品はさまざまな点(独自の撮影スタイルの徹底、伝統的な日本の美への追求、野田高梧との共同執筆、原節子と笠智衆の起用)で『小津調』の完成形を示すと共に、戦後の小津作品のマイルストーンとなった。映画評論家の[[佐藤忠男]]は「世界に類のない小津の厳格で独創的な技法は「晩春」で完璧の域に達し、以後、一作ごとにさらに磨きが加えられていくことになる」<ref>佐藤忠男『日本映画史』第2巻、岩波書店、1995年、p.281</ref>と評している。以降、小津は「一年一作」と呼ばれる寡作監督になるが、逆に一本一本が徹底的に作りこまれ、完成度が高い作品となっていった。[[1950年]](昭和25年)、[[新東宝]]で『[[宗方姉妹]]』を撮り、ついで[[1951年]](昭和26年)の『[[麦秋 (1951年の映画)|麦秋]]』が[[芸術祭 (文化庁)|芸術祭]]文部大臣賞を受賞、名監督としての評価を決定的なものとした。
[[File:Late Spring Japanese Poster.jpg|thumb|190px|『[[晩春 (映画)|晩春]]』(1949年)のポスター。]]
日本に帰還した小津は、焼け残った高輪の自宅に行くが誰もおらず、妹の登久の嫁ぎ先である[[千葉県]][[野田町 (千葉県)|野田町]](現在の[[野田市]])に疎開していた母のもとへ行き、やがて小津も野田町内の借家に移住した{{Sfn|伝記|2019|pp=237-238}}。[[1947年]]に戦後第1作となる『[[長屋紳士録]]』を撮影したが、撮影中は千葉から通うわけにはいかず、撮影所内の監督室で寝泊まりするようになった<ref name="全集下解題"/>。この頃に撮影所前の食堂「月ヶ瀬」の主人の姪である杉戸益子(後に中井麻素子)と親しくなり、以後彼女は小津の私設秘書のような存在となった<ref name="中井">中井麻素子「文字通りの先生」({{Harvnb|松竹|1993|pp=170-172}})</ref>{{Sfn|千葉|2003|pp=248-249}}。益子は[[1957年]]に小津と[[木下惠介]]の独身監督の媒酌で[[佐田啓二]]と結婚し、後に[[中井貴恵]]と[[中井貴一|貴一]]をもうけた{{Sfn|伝記|2019|pp=237-238}}。小津は佐田夫妻と親子同然の間柄となり、亡くなるまで親密な関係が続いた<ref name="中井"/>{{Sfn|千葉|2003|pp=248-249}}。


[[1948年]]には新作『月は上りぬ』の脚本を書き上げ、[[東宝]]専属の[[高峰秀子]]を主演に予定したが、交渉が難航したため製作延期となり、代わりに『[[風の中の牝雞]]』を撮影した{{Sfn|伝記|2019|p=239}}。この作品は小津が畏敬した[[志賀直哉]]の『[[暗夜行路]]』をモチーフにしていると目されているが、あまり評判は良くなく、小津自身も失敗作だと認めている<ref name="自作を語る"/><ref name="全集下解題"/>。デビュー作からコンビを組んできた脚本家の[[野田高梧]]も作品を批判し、それを素直に認めた小津は、次作の『[[晩春 (映画)|晩春]]』(1949年)からの全作品の脚本を野田と共同執筆した<ref name="高梧">[[野田高梧]]「小津安二郎という男 交遊四十年とりとめもなく」({{Harvnb|人と芸術|1964|pp=76-84}})</ref>。『晩春』は[[広津和郎]]の短編小説『父と娘』が原作で、娘の結婚というテーマを[[能]]や[[茶の湯]]など日本の伝統的な情景の中で描いた。また、[[原節子]]を主演に迎え、[[#作風|小津調]]と呼ばれる独自の作風の基調を示すなど、戦後の小津作品のマイルストーンとなった<ref name="松竹解説"/>{{Sfn|伝記|2019|pp=240-241}}。作品はキネマ旬報ベスト・テンで1位に選ばれ、[[毎日映画コンクール]]の日本映画大賞を受賞した<ref name="全集年譜"/>。
小津は戦後、普段は母と野田で暮らし、仕事が忙しくなると大船撮影所本館の個室で寝起きするという生活を送っていたが、[[1952年]](昭和27年)に大船撮影所で火災があったため、5月に母を連れて鎌倉山之内に転居。そこを終の棲家とした。この年、野田と練ったシナリオが完成せず、仕方なく戦前に検閲ではねられた『彼氏南京に行く』を改稿し『[[お茶漬の味]]』として公開にこぎつけた。小津は同作について自身で『なんとか一年一作を守るために糊塗したもので後味が悪い』と率直に述べている<ref>{{Harvnb|千葉伸夫|2003|p=276}}</ref>。このとき完成しなかったシナリオをもう一度練り直して作られたのが[[1953年]](昭和28年)の『[[東京物語]]』である。原節子と笠智衆をメインに据え、家族のあり方を問うたこの作品は小津の映画人生の集大成であり、代表作となった。


次作の『[[宗方姉妹]]』(1950年)は[[新東宝]]製作で、初の他社作品となった<ref name="全集下解題"/>。当時の日本映画の最高記録となる約5000万円もの製作費が投じられたが、この年の洋画を含む興行配収1位になる大ヒット作となった<ref name="小事典">「小津安二郎 全作品ディテール小事典」({{Harvnb|大全|2019|pp=413-497}})</ref>。[[1951年]]には『[[麦秋 (1951年の映画)|麦秋]]』を監督し、再びキネマ旬報ベスト・テン1位と毎日映画コンクール日本映画大賞に選ばれた<ref name="全集年譜"/>。[[1952年]]1月、松竹大船撮影所の事務所本館が全焼し、小津が撮影中に寝泊まりしていた監督室も焼けたため、5月に母を連れて北[[鎌倉]]の山ノ内に転居し、そこを終の棲家とした{{Sfn|伝記|2019|pp=245-246}}。この年に戦前に検閲で撥ねられた『お茶漬の味』を撮影し、[[1953年]]には小津の最高傑作のひとつに位置付けられている『[[東京物語]]』を撮影した{{Sfn|伝記|2019|pp=246-249}}。同年9月、松竹を含む5つの映画会社は、同年に製作再開した[[日活]]による監督や俳優の引き抜きを防ぐために[[五社協定]]を締結し、それにより小津は松竹の専属契約者となった<ref name="全集年譜"/>{{Sfn|伝記|2019|pp=246-249}}。
1953年(昭和28年)、日本で本格的なテレビ放送が開始され、ハリウッドなどの映画界もカラー化してシネマスコープ、ワイドスクリーンなどさまざまな新機軸を打ち出していたが、小津はひたすら静観の構えだった。[[1954年]](昭和29年)から[[1955年]](昭和30年)にかけて、小津はひとつの事件に巻き込まれる。それはかつて自分がシナリオを書いて映画化を企画した作品『[[月は上りぬ]]』に関することであった。小津はこれを、映画監督を志していた女優[[田中絹代]]の監督作に譲ったが、いざ製作が始まると[[日活]]と[[五社協定]]の各社がもめるなど製作が難航した。小津は徹底して田中を応援し、筋を通す形で松竹を退社したが、かえって人間的信頼を高めた<ref>{{Harvnb|田中真澄|1989|p=111}}</ref>。


[[1954年]]、戦後長らく映画化が実現できずにいた『月は上りぬ』が、日本映画監督協会の企画作品として日活が製作し、小津の推薦で[[田中絹代]]が監督することに決まった{{Sfn|千葉|2003|p=291}}。小津は他社作品ながら脚本を提供し、スポンサーと交渉するなど精力的に協力したが、日活は俳優の引き抜きをめぐり[[大映]]など五社と激しく対立していたため製作は難航した{{Sfn|伝記|2019|pp=252-253}}{{Sfn|田中|2003|pp=414-422}}{{Refnest|group="注"|とくに大映は日活の製作再開を脅威に感じていたため、『月は上りぬ』の映画化に最も強く反発した。田中は当時借金を抱えており、その返済のために大映と本数契約を結んでいたが、大映はこれをタテにして、彼女の日活映画での監督・出演を阻止しようとした{{Sfn|田中|2003|pp=414-422}}。さらに監督協会理事長の溝口健二も田中の監督に反対したが、小津はこの問題処理に奔走し、最終的に溝口をのぞく監督協会の各社代表は田中を擁護し、9月8日に田中監督を応援する旨の声明を出した{{Sfn|千葉|2003|p=291}}{{Sfn|田中|2003|pp=414-422}}。}}。小津は監督協会代表者として日活との交渉に奔走し、田中を監督に推薦した責任上、彼女と同じ立場に身を置くため、9月8日に松竹と契約更新をせずにフリーとなった<ref name="蓮實年譜"/>{{Sfn|田中|2003|pp=414-422}}。やがて作品は監督協会が製作も行い、配給のみ日活に委託することになり、キャスティングに難航しながらも何とか完成に漕ぎつけ、[[1955年]]1月に公開された{{Sfn|千葉|2003|p=291}}。小津はこの作品をめぐる問題処理にあたったこともあり、同年10月に監督協会の理事長に就任した{{Sfn|田中|2003|pp=414-422}}。
1955年(昭和30年)[[日本映画監督協会]]の理事長に就任。[[里見弴]]、[[大佛次郎]]、[[菅原通済]]ら鎌倉在住の文化人との交遊が深まった。『月は上りぬ』の一件もあって、次の作品である『[[早春 (1956年の映画)|早春]]』は公開が[[1956年]](昭和31年)となった。


小津はフリーの立場で松竹製作の『[[早春 (1956年の映画)|早春]]』(1956年)を撮影したあと、[[1956年]]2月に松竹と年1本の再契約を結び、以後は1年ごとに契約を更新した{{Sfn|伝記|2019|pp=256-258}}。小津は次回作として、戦前に映画化された『愉しき哉保吉君』を自らの手でリメイクすることにしたが、内容が暗いため中止した<ref name="蓮實年譜"/>。6月からは[[長野県]][[蓼科高原|蓼科]]にある野田の別荘「雲呼荘」に滞在し、その土地を気に入った小津は雲呼荘近くにある[[片倉工業|片倉製糸]]の別荘を借り、「無藝荘」と名付けた{{Sfn|伝記|2019|pp=256-258}}。次作の『[[東京暮色]]』(1957年)からは蓼科の別荘で脚本を執筆するようになり、無藝荘は東京から来た客人をもてなす[[迎賓館]]のような役割を果たした<ref name="高梧"/>{{Sfn|伝記|2019|pp=256-258}}。[[1957年]]には『浮草物語』をリメイクした『大根役者』の脚本を書き上げ、[[新潟県]]で[[ロケーション・ハンティング]]も敢行したが、ロケ先が雪不足のため撮影延期となった<ref name="全集下解題"/>。
=== 晩年の小津 ===
[[ファイル:odzuhaka.jpg|thumb|小津安二郎の墓・北鎌倉円覚寺]]
[[1958年]](昭和33年)、中学時代から愛読していた里見に小津が相談を持ちかけた結果として、同時並行で原作小説とシナリオを書き進める形で『[[彼岸花_(映画)|彼岸花]]』が作られた。同作品は小津初のカラー作品である。この年、[[ロンドン国立映画劇場]]で日本映画特集が行われ、10月には『東京物語』が英国サザーランド賞を受賞。『彼岸花』で3度目の芸術祭文部大臣賞、さらにこれらの功績により[[紫綬褒章]]を受章。[[1959年]](昭和34年)3月、映画人として初めて[[日本芸術院賞]]を受賞。同年、戦前の『浮草物語』のセルフリメイクである『[[浮草 (映画)|浮草]]』を[[大映]]で製作した。


=== カラー映画時代 ===
[[1960年]](昭和35年)には『彼岸花』と同じ方式で里見とコンビを組んで『[[秋日和]]』を完成。同年、[[芸術選奨]]文部大臣賞を野田とともに受賞。[[1961年]](昭和36年)には東宝で『[[小早川家の秋]]』を撮るも、[[1962年]](昭和37年)2月、最愛の母あさゑが世を去った。11月、[[芸術院]]会員に映画監督としてただ一人選出。同じ月に公開された『[[秋刀魚の味]]』が最後の作品となった。(小津と野田が次回作として準備していた『[[大根と人参]]』は[[渋谷実]]監督の手によって映画化され、『小津安二郎記念作品』と銘打って[[1965年]](昭和40年)に公開されている。)
1950年代に日本映画界ではカラー化、[[ワイドスクリーン]]化が進んでいたが、小津はトーキーへの移行の時と同じように、新しい技術には慎重な姿勢を見せた<ref name="俯瞰">松浦莞二、折田英五「小津の技法を俯瞰する」({{Harvnb|大全|2019|pp=500-505}})</ref>。ワイドスクリーンについては「何だかあのサイズは郵便箱の中から外をのぞいているような感じでゾッとしない<ref>「小津監督の次回作『秋日和』」([[毎日新聞]]1960年6月11日夕刊)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=356-357}}に所収</ref>」「四畳半に住む日本人の生活を描くには適さない<ref>「悪いやつの出る映画は作りたくない」(東京新聞1960年9月6日夕刊)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=363-364}}に所収</ref>」などと言って導入せず、亡くなるまで従来通りの[[画面アスペクト比#スタンダードサイズ|スタンダードサイズ]]を貫いた<ref name="俯瞰"/>。一方、カラーについては自分が望む色彩の再現がうまくいくどうか不安に感じていたが、戦後の小津作品のカメラマンの厚田雄春によると、『東京物語』頃からカラーで撮る可能性が出ていて、いろいろ研究を始めていたという{{Sfn|貴田|1999|p=117}}{{Sfn|厚田|蓮實|1989|pp=259-260}}。[[1958年]]、小津は『[[彼岸花 (映画)|彼岸花]]』を撮るにあたり、会社からカラーで撮るよう命じられたため、厚田の助言を受け入れて、色調が渋くて小津が好む[[赤]]の発色が良い{{仮リンク|アグファカラー|en|Agfacolor}}を採用した<ref name="自作を語る"/>{{Sfn|厚田|蓮實|1989|pp=259-260}}。この作品以降は全作品をアグファカラーで撮影した{{Sfn|貴田|1999|p=117}}。


小津作品初のカラー映画となった『彼岸花』は、大映から[[山本富士子]]を借りるなどスターを並べたのが功を奏して、この年の松竹作品の興行配収1位となり、小津作品としても過去最高の興行成績を記録した<ref name="全集下解題"/>{{Sfn|伝記|2019|p=262}}。[[1959年]]2月には映画関係者で初めて[[日本芸術院賞]]を受賞した<ref name="全集年譜"/>。この年は『[[お早よう]]』を撮影したあと、大映から『大根役者』を映画化する話が持ち上がり、これを『[[浮草 (映画)|浮草]]』と改題して撮影した<ref name="全集下解題"/>。[[1960年]]には松竹で『[[秋日和]]』を撮影したが、主演に[[東宝]]から原節子と[[司葉子]]を借りてきたため、その代わりに東宝で1本作品を撮ることになり、翌[[1961年]]に東宝系列の[[宝塚映像#宝塚映画製作所|宝塚映画]]で『[[小早川家の秋]]』を撮影した<ref name="小事典"/>。
[[1963年]](昭和38年)里見と共にNHKのドラマシナリオ『[[青春放課後]]』を初めてテレビ用に書き下ろしたが、その後体調に異変を感じ、同年4月にがんセンターで手術を受けた。その後、コバルトとラジウムの針を首筋の患部に刺した。退院前に背広を2着作ることにし、洋服屋に採寸させたが、翌日「秋になったら、またどんなスタイルが流行るかわからんしな」といって取り消した。いったん退院するが10月に[[東京医科歯科大学医学部附属病院]]に再入院。11月4日に[[佐田啓二]]が娘の[[中井貴恵|貴恵子]]を連れて見舞うと、貴恵子と二人で「[[スーダラ節]]」を歌った。11月9日に[[吉田喜重]]が婚約したばかりの[[岡田茉莉子]]を連れて挨拶に来た際、岡田に「お嬢さんには、親子二代、世話になった」といい、吉田に対しては「映画はドラマだ、アクシデントではない」と二度繰り返した。


[[1962年]]2月4日、最愛の母あさゑが86歳で亡くなった<ref name="全集年譜"/>。この年に最後の監督作品となった『[[秋刀魚の味]]』を撮影し、11月に映画人で初めて[[日本芸術院]]会員に選出された{{Sfn|伝記|2019|pp=270-271}}。[[1963年]]には次回作として『[[大根と人参]]』の構想を進めたが、この脚本は小津の病気により執筆されることはなく、ついに亡くなるまで製作は実現しなかった<ref name="NO監督"/><ref name="小事典"/>{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}。『大根と人参』は小津没後に[[渋谷実]]が構想ノートをもとに映画化し、[[1965年]]に同じタイトルで公開した<ref name="小事典"/>。小津の最後の仕事となったのは、日本映画監督協会プロダクションが製作する[[いすゞ自動車]]の宣伝映画『[[私のベレット]]』(1964年)の脚本監修だった{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}。
自身の還暦の日である12月12日、午後12時40分に死去した。{{没年齢|1903|12|12|1963|12|12}}、生涯独身だった。その夜、北鎌倉の自宅に遺体が帰り、喪服姿の原節子と[[杉村春子]]は玄関の三和土に立ち尽くしたまま号泣した。12月16日、葬儀が[[築地本願寺]]で開かれ、里見は「君は綺麗なもの、間違のないことしか相手にしなかった。ねつい仕事ぶりで、自身納得がゆくまで押しまくった。/ばばあ【前年亡くした母親】は俺が飼育してゐるのだ、などと、始終ばばあ呼ばはりをしながら、こよなく母上を愛した」から始まる弔辞<ref>文藝春秋編『弔辞 劇的な人生を送る言葉』、[[文春新書]]、2011年。{{要ページ番号|date=2018-10-28}}</ref>を朗読した。その中、「小津にはいろいろ貸しがある。香典は本社におさめるように」という城戸の言葉を伝えにきた松竹の経理部長に対し、葬儀を仕切った若手監督[[井上和男]]は怒鳴りつけ、年明けに松竹を解雇された。


=== 闘病と死去 ===
墓は北鎌倉の[[円覚寺]]にあり、墓碑にはただ一字「無」と彫られている。戦後の小津作品の中心を担った原節子は、小津の死以後、[[2015年]]に亡くなるまで一切の公の場から姿を消した。佐田啓二は翌年、自動車事故で亡くなった<ref>[[関川夏央]] 「小津安二郎の臨終」『やむを得ず早起き』 [[小学館]]、[[2012年]]11月、pp.230-234。</ref>。死後[[勲四等]][[旭日小綬章]]を追贈された。
[[File:Odzuhaka.jpg|thumb|[[鎌倉市]]の[[円覚寺]]にある小津安二郎の墓。]]
1963年4月、小津は数日前にできた右頸部[[悪性腫瘍]]のため[[国立がん研究センター|国立がんセンター]]に入院し、手術を受けた{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}。手術後は患部に[[コバルト]]や[[ラジウム]]の針を刺す治療を受け、「そのへんに、オノか何かあったら、自殺したかったよ」と口を漏らすほど痛みに苦しんだ<ref name="看護日誌">[[佐田啓二]]「おやじ小津安二郎はもういない 佐田啓二の看護日誌」(『サンデー毎日』1963年12月29日号)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=415-423}}に所収</ref>。7月に退院すると[[湯河原町|湯河原]]で療養したが、右手のしびれが痛みとなり、月末に帰宅してからは寝たきりの生活を送った{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}<ref name="看護日誌"/>。9月にがんセンターは佐田啓二など親しい人たちに、小津が癌であることを通告した{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}。小津の痛みは増すばかりで、好物の食べ物も食べられないほどになっていた<ref name="看護日誌"/>。10月には[[東京医科歯科大学医学部附属病院]]に再入院したが、11月に[[白血球]]不足による呼吸困難のため、気管支の切開手術をしてゴム管をはめた。そのせいで発声もほとんどできなくなり、壁に[[いろは順|イロハ]]を書いた紙を貼り、文字を指して意思疎通をした<ref name="全集年譜"/>{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}。


12月11日、小津の容態が悪化し、佐田が駆けつけると[[死相]]があらわれていた<ref name="看護日誌"/>。そして12月12日午後12時40分、小津は還暦を迎えた当日に死去した{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}。翌日の通夜には、すでに女優を引退していた原節子が駆けつけた{{Sfn|厚田|蓮實|1989|p=268}}。12月16日、松竹と日本映画監督協会による合同葬が[[築地本願寺]]で行われ、城戸が葬儀委員長を務めた<ref name="全集年譜"/>。生前に小津は松竹から金を借りており、会社は香典で借金を回収しようとしたが、葬儀委員を務めた[[井上和男]]により止められた<ref name="全集年譜"/>{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}。墓は北鎌倉の[[円覚寺]]につくられ、墓石には[[朝比奈宗源]]の筆による「無」の一文字が記された{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}。
== 「小津調」 ==
[[File:Ozu Yasujiro.jpg|thumb|200px|小津安二郎]]
=== 概説 ===
「小津調」とは、小津安二郎がつくりあげた独自の映像世界・映像美をさす。その主な特徴として、[[ロー・ポジション]]でとること、カメラを固定してショット内の構図を変えないこと、人物を相似形に画面内に配置すること、人物がカメラに向かってしゃべること、[[クローズ・アップ]]を用いず、きまったサイズのみでとること、常に標準レンズを用いること、[[ワイプ]]などの映画の技法的なものを排することなどがある。また、日本の伝統的な生活様式へのこだわりや、反復の多い独特のセリフまわし、同じ俳優・女優が繰り返しキャスティングされることも小津調を作り上げる要素の一つになっている。


== 作風 ==
===アメリカ映画の影響===
{{Quote box|width=40%|align=right|quote=性に合わないんだ。ぼくの生活条件として、なんでもないことは流行に従う。重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従うから、どうにもきらいなものはどうにもならないんだ。だから、これは不自然だということは百も承知で、しかもぼくは嫌いなんだ。そういうことはあるでしょう。嫌いなんだが、理屈にあわない。理屈にあわないんだが、嫌いだからやらない。こういう所からぼくの個性が出てくるので、ゆるがせにはできない。理屈にあわなくともぼくはそれをやる。|source=映画の文法的技法を使わないことに対する小津の発言<ref name="味がよい">小津安二郎、[[岩崎昶]]、飯田心美の対談「酒は古いほど味がよい」(『キネマ旬報』1958年8月下旬号)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=296-305}}に所収</ref>}}
戦後の小津作品は伝統的な日本文化の世界を描くことが多かったが、初期の小津はハリウッド映画(特に[[エルンスト・ルビッチ]]や[[ウィリアム・A・ウェルマン]])の影響を強く受けた作品を撮っている。たとえば『[[非常線の女]]』([[1933年]])には、英語のポスターや磨き上げられた高級車、洋館ばかりの風景など当時のハリウッドのギャング映画さながらの世界が再現されている{{sfn|佐藤|1995|p=236}}。佐藤忠男は、小津がアメリカ映画から学び取った最大のものはソフィスティケーション、言い換えれば現実に存在する汚いものや不純なものを全て取り去り、美しいものだけを画面に残すというやり方だったと指摘している{{sfn|佐藤|1995|p=51}}。佐藤の指摘するとおり、小津は画面から一切の不純物を排除した。小津自身、「私は画面を清潔な感じにしようと努める。なるほど汚いものを取り上げる必要のあることもあった。しかし、それと画面の清潔・不潔とは違うことである。映画ではそれが美しくとりあげられなくてはならない」と述べている<ref>{{Harvnb|松竹株式会社|1993|p=6}}</ref>。
小津は他の監督と明確に異なる独自の作風を持つことで知られ、それは「小津調」と呼ばれた。映画批評家の[[佐藤忠男]]は「小津の映画を何本か見て、その演出の特徴を覚えた観客は、予備知識抜きでいきなり途中からフィルムを見せられても、それが小津安二郎の作品であるかをほぼ確実に当てることができるだろう」と述べている{{Sfn|佐藤|2000|pp=34-35}}。小津調の特徴的なスタイルとして、ロー・ポジションで撮影したこと、極力カメラを固定したこと、人物や小道具を相似形に配置したこと、小道具や人物の配置に特別な注意を払ったこと、{{仮リンク|オーバーラップ (映像技法)|label=ディゾルブ|en|Dissolve (filmmaking)}}や[[フェード#映像編集|フェード]]などの文法的技法を排したことなどが挙げられる。そのほかにも[[アメリカ映画]]の影響を受けたことや、同じテーマ・同じスタッフとキャストを扱ったことなども、小津作品の特徴的な作風に挙げられる。


=== 美しさへこだわり ===
=== アメリカ映画影響 ===
[[File:Dragnet Girl 1933.jpeg|thumb|『[[非常線の女]]』(1933年)はアメリカのギャング映画を彷彿とさせる作品である{{Sfn|フィルムアート社|1982|p=129}}。]]
小津は撮影に臨んでかならず自分自身でカメラを覗き込んで厳密に構図を決定していた。その構図は計算しつくされたものであった。食事の場面で一見無造作に置かれているようにみえる食器類も形を含めてすべてバランスを考えていた。カラー映画の時代になると、小津は色調にもこだわり、形の面でも色の面でも計算しつくされた画面をつくりあげた。日本画家の[[東山魁夷]]は、『秋日和』を評して「構図の端正、厳格な点と美しい色の世界にひかれる」と語っている<ref>{{Harvnb|古賀重樹|2010|p=71}}</ref>。
戦後の小津は伝統的な日本の家庭生活を描くことが多かったが、若き日の小津は舶来品の服装や持物を愛好する[[モボ・モガ|モダンボーイ]]で、1930年代半ばまでは自身が傾倒する[[アメリカ映画]](とくに小津が好んだ[[エルンスト・ルビッチ]]、[[キング・ヴィダー]]、[[ウィリアム・A・ウェルマン]]の作品)の影響を強く受けた、ハイカラ趣味のあるモダンでスマートな作品を撮っている{{Sfn|フィルムアート社|1982|p=129}}{{Sfn|佐藤|1995|p=236}}{{Sfn|映畫読本|2003|p=44}}{{Sfn|古賀|2010|pp=91-92}}。例えば、『[[非常線の女]]』(1933年)は[[ギャング映画]]の影響が色濃く見られ、画面に写るものはダンスホールやボクシング、ビリヤード、洋式のアパートなどの西洋的なものばかりというバタ臭い作品だった{{Sfn|フィルムアート社|1982|p=129}}{{Sfn|古賀|2010|pp=91-92}}。また、『[[大学は出たけれど]]』(1929年)と『[[落第はしたけれど]]』(1930年)は[[ハロルド・ロイド]]主演の喜劇映画、『結婚学入門』『淑女は何を忘れたか』はルビッチの都会的な[[ソフィスティケイテッド・コメディ]]からそれぞれ影響を受けている<ref name="松竹解説"/><ref name="小事典"/>。小津のアメリカ映画への傾倒ぶりは、初期作品に必ずと言っていいほどアメリカ映画の英語ポスターが登場することからもうかがえる<ref name="小事典"/>{{Sfn|映畫読本|2003|p=44}}。


戦前期の小津作品には、アメリカ映画を下敷きにしたものが多い。デビュー作である『懺悔の刃』のストーリーの大筋は{{仮リンク|ジョージ・フィッツモーリス|en|George Fitzmaurice}}監督の『{{仮リンク|キック・イン (映画)|label=キック・イン|en|Kick In (1922 film)}}』(1922年)を下敷きにしており、ほかにもフランス映画の『{{仮リンク|レ・ミゼラブル (1925年の映画)|label=レ・ミゼラブル|fr|Les Misérables (film, 1925)}}』(1925年)と、[[ジョン・フォード]]監督の『{{仮リンク|豪雨の一夜|en|Goodman Blind}}』(1923年)からも一部を借用している。また、『出来ごころ』はヴィダーの『{{仮リンク|チャンプ (1931年の映画)|label=チャンプ|en|The Champ (1931 film)}}』(1931年)、『浮草物語』はフィッツモーリスの『{{仮リンク|煩悩 (映画)|label=煩悩|en|The Barker}}』(1928年)、『戸田家の兄妹』は[[ヘンリー・キング]]監督の『{{仮リンク|オーバー・ザ・ヒル|en|Over the Hill (1931 film)}}』(1931年)をそれぞれ下敷きにしている<ref name="小事典"/>。
晩年のカラー作品では、従来の構図の完璧さに加えて、小津は二つの点にこだわっている。一つは画面のアクセントとしてなんらかの形で「赤」を入れるということ、そして書画骨董の類にできる限り本物の美術品を使うということである。たとえば『秋日和』では、[[梅原龍三郎]]の薔薇の絵、[[山口蓬春]]の椿の絵、[[高山辰雄]]の風景画、[[橋本明治]]の武神像図、東山魁夷の風景画など全て実物が用いられている<ref>{{Harvnb|古賀重樹|2010|p=66}}</ref>。この点に関して小津は「たとえば床の間の軸や置物が筋の通った品物といわゆる小道具のマガイ物を持ち出したのでは、私の気持ちが変わってくる。出演する俳優もそうだろう。また、人間の眼はごまかせても、キャメラの眼はごまかせない。ホンモノはよく写るのである」と断言している<ref>{{Harvnb|松竹株式会社|1993|p=11}}</ref>。また、美しさのこだわりから、小津は戦後の作品でも焼け跡や汚い風景、服装は画面にいっさい入れなかった。吉田喜重は小津作品には軍服を着た人物が一切登場しないことを指摘している<ref>{{Harvnb|古賀重樹|2010|p=117}}</ref>。


佐藤忠男は、小津がアメリカ映画から学び取った最大のものはソフィスティケーション、言い換えれば現実に存在する汚いものや野暮ったいものを注意深く取り去り、きれいでスマートなものだけを画面に残すというやり方だったと指摘している{{Sfn|佐藤|1995|pp=52-53}}。実際に小津は自分が気に入らないものや美しいと思われないものを、画面から徹底的に排除した{{Sfn|古賀|2010|p=116}}。例えば、終戦直後の作品でも焼け跡の風景や[[軍服]]を着た人物は登場せず、若者はいつも身ぎれいな恰好をしている{{Sfn|古賀|2010|p=116}}。小津自身も「私は画面を清潔な感じにしようと努める。なるほど汚いものを取り上げる必要のあることもあった。しかし、それと画面の清潔・不潔とは違うことである。現実を、その通りに取上げて、それで汚い物が汚らしく感じられることは好ましくない。映画では、それが美しく取上げられていなくてはならない」と述べている<ref>「場面の構成と演技指導」(『百万人の映画知識』[[解放社]]、1950年1月)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=77-78}}に所収</ref>。
=== 完璧な演技指導 ===
小津が求めた画面の完璧さは小道具や大道具の配置、色調にとどまらず、演じる俳優たちにも求められた。俳優の位置、動きから視線まですべて小津監督の計算したとおり実行することが求められた。これによって画面に完璧な美が生まれた。松竹の後輩として小津監督を見ていた吉田喜重は美しさへのこだわりから生み出される画面の美について「それはこの世界が無秩序であるがゆえに実現した、かりそめの幻惑であったのだろう。おそらく小津さん自身のこの世界を無秩序と見るその眼差しが、このなにげない反復の運動、その美しい規則性を見逃すことなく捉え、無上の至福にも似た、かりそめの調和といったものをわれわれに夢みさせるのである」<ref>{{Harvnb|吉田喜重|1998|p=}}</ref>と述べている。


=== テーマ ===
1920年代、ハリウッドで映画製作に携わっていた[[ヘンリー小谷]](小谷倉市)が松竹蒲田撮影所に招かれ、ハリウッド流の映画製作技術を伝えた。その一つに、構図の中に俳優たちを配置し、その構図が崩れないように、カメラの動きと俳優の動きを制限するやり方があった。この手法が小津に大きな影響を与えた。小津は俳優の配置やカメラの動きだけでなく、俳優が微妙で正確な動作を完璧に行うことを求めた{{sfn|佐藤|1995|pp=235-236}}。また、セリフの口調やイントネーションなどは小津が実際に演じてみせて、俳優に厳密にそのとおり演じさせた。少しでも俳優の動きと小津のイメージにずれがあると、際限なくリハーサルが繰り返された{{sfn|佐藤|1995|p=370}}。たとえば『麦秋』での[[淡島千景]]は、原節子と話す場面で小津からNGを出され続け、20数回までは数えたがその後は回数を忘れたほどだった<ref>{{Harvnb|古賀重樹|2010|p=108}}</ref>。同様に『秋刀魚の味』で[[岩下志麻]]は巻尺を手で回す場面で何度やってもOKが出なかった。小津が「もう一回」「もう一回」といい続け、岩下はNGを80回まで数えて後はわからなくなったという<ref>{{Harvnb|松竹株式会社|1993|p=72}}</ref>。
初期の小津作品には、昭和初期の不況を反映した社会的なテーマを持つ作品が存在する<ref name="松竹解説"/>{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=46, 63, 101}}。『大学は出たけれど』では不況による学生の就職難を描き、タイトルは当時の世相を表す言葉として定着した{{Sfn|映畫読本|2003|p=40}}。『落第はしたけれど』では大学を卒業して就職難になるよりも、落第した方が学生生活を楽しめて幸福だという風刺を利かしている<ref name="小事典"/><ref name="松竹解説"/>。『[[会社員生活]]』(1929年)と『東京の合唱』では失業したサラリーマンを主人公にして、その暗くて不安定な生活と悲哀をユーモラスの中に描いている{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=46, 63, 101}}<ref name="滋野">滋野辰彦「評伝・小津安二郎」(『キネマ旬報』1952年6月上旬号)。{{Harvnb|集成2|1993|pp=73-79}}に所収</ref>。こうした作品は不況下の小市民社会の生活感情をテーマにした「[[小市民映画]]」のひとつに位置付けられている{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=46, 63, 101}}{{Sfn|現代映画用語事典|2012|p=68}}。小津のもうひとつの小市民映画『生れてはみたけれど』では、子供の視点から不景気時代のサラリーマンの卑屈さを辛辣に描き、そのジャンルの頂点に達する傑作と目されている<ref name="滋野"/>{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=112-113}}。『[[東京の宿]]』(1935年)や『[[大学よいとこ]]』『一人息子』(1936年)でも不景気による失業や就職難を扱い、内容はより暗くて深刻なものになった<ref name="松竹解説"/>{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=156, 163}}。


小津は生涯を通して家族を題材にとり、親と子の関係や家族の解体などのテーマを描いた{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=199, 220, 267}}{{Sfn|リチー|1978|pp=18-27}}<ref name="小倉">小倉真美「『小早川家の秋』に見る小津映画の特質」(『キネマ旬報』1961年11月下旬号)。{{Harvnb|集成2|1993|pp=94-98}}に所収</ref>。映画批評家の小倉真美は、小津を「一貫して親子の関係を追究してきた作家」と呼び<ref name="小倉"/>、[[ドナルド・リチー]]は「主要なテーマとしては家庭の崩壊しか扱わなかった」と述べている{{Sfn|リチー|1978|pp=18-27}}。家族の解体に関しては、娘の結婚による親子の別れや、母や父などの死がモチーフとなることが多い<ref name="俯瞰"/>{{Sfn|リチー|1978|pp=18-27}}。また、小津作品に登場する家族は構成員が欠けている場合が多く、誰かが欠けている家族が娘の結婚や肉親の死でさらに欠けていくさまが描かれている<ref name="小事典"/>。『晩春』以降はブルジョワ家庭を舞台に、父娘または母娘の関係や娘の結婚を繰り返し描き、遺作まで同じようなテーマとプロットを採用した<ref name="俯瞰"/>{{Sfn|佐藤|2000|pp=34-35}}{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=199, 220, 267}}{{Sfn|映畫読本|2003|pp=84, 90, 98, 104, 108}}。同じテーマだけでなく同じスタイルにも固執したため、批評家からはしばしば「進歩がない」「いつも同じ」と批判されたが、これに対して小津は自身を「豆腐屋」に例え{{Sfn|佐藤|2000|pp=34-35}}<ref name="クセ">「わたしのクセ」(『読売グラフ』1955年6月7日号)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|p=237}}に所収</ref>、「豆腐屋に[[カレー]]だの[[豚カツ|とんかつ]]作れったって、うまいものが出来るはずがない<ref name="クセ"/>」「僕は豆腐屋だ。せいぜい[[がんもどき|ガンモドキ]]しか作れぬ。トンカツやビフテキはその専門の人々に任せる<ref>『スポーツニッポン』1951年9月14日。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=437}}に発言を引用。</ref>」などと発言した。
また小津は自分の中でイメージが完成されていただけに、俳優が自由に「演技」をすることを好まなかった。笠智衆は『父ありき』の撮影前に小津から「ぼくの作品に表情はいらないよ。表情はなしだ。能面で行ってくれ」といわれたと述べている<ref>笠智衆『俳優になろうか 私の履歴書』日本経済新聞社、1987年、p.113</ref>。


=== 製作方法 ===
小津のもとで働いていたカメラマンの[[川又昴]]は俳優たちを自らの構図どおりに厳格に動かす小津のやり方に疑問を感じ、小津のもとを離れていった。彼は「[[日本ヌーヴェルヴァーグ|松竹ヌーヴェルヴァーグ]]」の一翼を担うことになるが、後に小津から「おれだって蒲田のヌーヴェルヴァーグだったんだぞ」といわれたことを忘れることができなかった。
==== 脚本 ====
小津は自ら脚本作りに参加し、ほとんどの作品には共作者がいた。サイレント映画時代は原作者や潤色者として脚本作りに参加し、その際に「ジェームス・槇<ref name="ジェームス・槇" group="注"/>」というペンネームを多用した{{Sfn|貴田|1999|pp=51-54}}。この名前は小津とその共作者の[[池田忠雄]]、[[伏見晁]]、[[北村小松]]との共同ペンネームとして考案されたが、誰も使わなかったため小津専用の名前になり、11本の作品でクレジットされている<ref name="自作を語る"/><ref name="全集上解題"/>。他にも『[[突貫小僧]]』(1929年)で「野津忠二{{Refnest|group="注"|野津忠二は、小津と野田高梧、池田忠雄、大久保忠素の名前を合成したペンネームで、[[ドイツ]]の輸入ビールを飲みたさに、原作料をせしめるために名乗ったという<ref name="全集上解題"/>。}}」、『生れてはみたけれど』で「燻屋鯨兵衛」というペンネームを使い、さらに『[[東京の女 (映画)|東京の女]]』(1933年)の「エルンスト・シュワルツ」、『東京の宿』の「ウィンザァト・モネ」のように、原作者として冗談めかした外国人名を名乗ったこともあった<ref name="全集上解題"/>{{Sfn|貴田|1999|pp=51-54}}{{Refnest|group="注"|エルンスト・シュワルツは、エルンスト・ルビッチとドイツの監督{{仮リンク|ハンス・シュワルツ|de|Hanns Schwarz}}の名前を合成したペンネームである{{Sfn|映畫読本|2003|p=58}}。ウィンザァト・モネは、池田と荒田正男との合作名で、無一文を意味する英語「''Without Money''」のもじりである<ref name="小事典"/>。}}。当時の共同執筆について、池田忠雄は自分が下書きをし、小津がそれを手直しすることが多かったと述べている<ref>{{Cite news |和書 |title=実録日本映画史129 |date=1964-5-21 |newspaper=読売新聞 |edition=夕刊}}</ref>。伏見晁によると、小津はシーンの構成から会話の細部に至るまで全面的に手を入れたため、伏見が書いた脚本でも完成時には小津のものに換骨奪胎されたという<ref name="全集上解題"/>。


『晩春』からの全作品は[[野田高梧]]とともに脚本を書き、野田は小津の女房役ともいえる存在となった{{Sfn|映畫読本|2003|pp=26-31}}。2人は旅館や別荘に籠もり、じっくりと時間をかけて脚本を書いた<ref name="芸談"/><ref name="俯瞰"/>{{Sfn|貴田|1999|pp=55-56}}。小津と野田はうまが合い、酒の量や寝起きの時間も同じで、セリフの言葉尻を「わ」にするか「よ」にするかまで意見が一致したため、コンビを組んで仕事をするにはとても都合が良かったという<ref name="芸談"/><ref name="自作を語る"/>。脚本作りではストーリーよりも登場人物を優先し、俳優の個性に基づいて配役を選び、それを念頭において登場人物の性格とセリフを作った{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=356, 358, 360}}。映画評論家の[[貴田庄]]が「小津の脚本書きは、頭の中で映画を撮りながら書くことと等しかった」と述べたように、小津は頭の中でコンティニュイティを考えながら脚本を書いたため、やむを得ない状況を除いて脚本が変更されることはなかった{{Sfn|貴田|1999|pp=55-56}}。
[[篠田正浩]]は、[[原研吉]]がかつて「(小津は)初めから自分の世界がある。演繹的にはめ込んでいく。だから小津安二郎の映画は人間を生かさない。昆虫採集のようだ」と言ったことを覚えており、小津はそのやり方ゆえに弟子が育たない結果になったと見ている<ref>山田太一編『人は大切なことも忘れてしまうから』マガジンハウス、p.25</ref>。


==== 撮影 ====
=== 同じテーマ、同じキャスト ===
[[ファイル:Setsuko Hara and Yasujiro Ozu in Tokyo Story.jpg|thumb|200px|『[[東京物語]]』(1953年)を撮影中の小津(最右の白いピケ帽を被った人物)と[[原節子]]。]]
小津作品では「娘の結婚」や「親子の関係」など同じテーマが繰り返し描かれる。それだけでなく、登場する俳優たちの顔ぶれもほぼ決まっており、同じ役名も繰り返し登場した。たとえば笠智衆は「周吉」役を5回(『晩春』『東京物語』『東京暮色』『彼岸花』『秋日和』)演じ、「周平」役も3回(『父ありき』『秋刀魚の味』)演じている。原節子は「紀子」という名の役を3回(『晩春』『麦秋』『東京物語』)演じたが、それらは「紀子三部作」と呼ばれることもある。
小津は[[ロケーション・ハンティング]]を入念に行い、撮影する場所を厳密に定めた{{Sfn|佐藤|1995|pp=370-372}}。屋外シーンのほとんどはロケーションだが、オープンセットを使うことは滅多になく、室内シーンをはじめ飲み屋街や宿屋のシーンなどもスタジオ内のステージセットで撮影した{{Sfn|厚田|蓮實|1989|pp=248-250}}。撮影にあたっては、1ショットごとにイメージ通りの映像になるよう、自分でカメラの[[ファインダー]]を覗きながら、画面上の人物や小道具の位置をミリ単位で決めた{{Sfn|佐藤|1995|pp=370-372}}{{Sfn|貴田|1999|pp=56-58}}。スタッフに位置を指示する時は、「大船へ10センチ」「もう少し鎌倉寄り」というように、大船撮影所近くの地名や駅名を用いて方角を伝えた<ref name="司葉子">[[司葉子]]「「葉ちゃんね、女の一生やるときにはね、次がああだからって演技を組み立てると、わかっちゃってつまらない」って。」({{Harvnb|大全|2019|pp=29-34}})</ref>。


佐藤が小津のことを「構図至上主義者」と呼んだように、小津は何よりも1つ1つのショットの構図の美しさを重視し、小道具の位置だけでなく形や色に至るまで細心の注意を払った{{Sfn|佐藤|2000|pp=57, 183}}{{Sfn|古賀|2010|pp=70-71}}。助監督を務めた[[篠田正浩]]によると、畳のへりの黒い線が、画面の中を広く交錯しているように見えて目障りだとして、線を消すためだけに誰も使わない座布団を置いたという{{Sfn|佐藤|2000|p=97}}。それぞれのショットの構図を優先するため、同じシーンでもショットが変わるたびに俳優や小道具の位置を変えてしまうこともあった{{Sfn|佐藤|2000|pp=57, 183}}{{Sfn|貴田|1999|pp=160-161}}。これではショット間のつながりがなくなってしまうが、篠田がそれを小津に指摘すると「みんな、そんなことに気付くもんか」と言い、篠田も試写を見ると違和感がなかったという{{Sfn|リチー|1978|p=179}}。
小津が多く起用した俳優たちには、戦前では19本に出演した[[斎藤達雄]]、ほかに[[坂本武]]、[[岡田時彦]]、[[飯田蝶子]]、[[吉川満子]]などがいる。戦後では笠と原が特筆される。笠についていえば、彼は主役こそ『父ありき』(1942年)が初めてだが、すでに『若人の夢』(1928年)で端役として出演し、以後ほとんどすべての小津作品に出演している。原は小津の理想のヒロインとして『東京物語』を頂点とする小津の絶頂期を飾った。


画面上の小道具や衣装は小津自身が選び、自宅にある私物を持ち込むこともあった<ref name="小事典"/>{{Sfn|佐藤|1995|pp=370-372}}<ref name="岩下志麻">[[岩下志麻]]「「人間は悲しい時に悲しい顔をするものではない。人間の喜怒哀楽はそんなに単純なものではないのだよ」という小津先生の言葉」({{Harvnb|大全|2019|pp=35-38}})</ref>。茶碗や花器などの美術品は、美術商から取り寄せた本物を使用し、カラー作品では有名画家の実物の絵画を使用した{{Sfn|厚田|蓮實|1989|pp=259-260}}<ref name="川又">川又昴「映画に文法はない、自由に作ればいい」({{Harvnb|松竹|1993|pp=180-185}})</ref>{{Sfn|古賀|2010|pp=66-67}}。例えば、『秋日和』では[[梅原龍三郎]]の薔薇の絵、[[山口蓬春]]の椿の絵、[[高山辰雄]]の風景画、[[橋本明治]]の武神像図、[[東山魁夷]]の風景画を背景に飾っている{{Sfn|古賀|2010|pp=66-67}}。本物を使うことに関して小津は「床の間の軸や置きものが、筋の通った品物だと、いわゆる小道具のマガイ物を持ち出したのと第一私の気持が変って来る…人間の眼はごまかせてもキャメラの眼はごまかせない。ホンモノはよく写るものである」と述べている<ref name="芸談"/>。また、赤を好む小津は、画面の中に赤色の小道具を入れることが多く、カラー作品では赤色の[[やかん]]がよく写っていることが指摘されている{{Sfn|貴田|1999|pp=126-127, 157}}。
松竹の看板女優であり、戦前から戦後まで長きにわたって小津作品に参加した田中絹代は、戦前は可憐な娘役で、戦後は健気な妻や強い母の役で小津を支えた。[[佐野周二]]も戦前から戦後まで4本の作品に出演。佐野、[[上原謙]]と3人で「松竹三羽烏」として売り出された[[佐分利信]]は『戸田家の兄妹』と『父ありき』ではさわやかな青年役であったが、戦後の『お茶漬の味』『彼岸花』『秋日和』では安定感のある中年の役を演じている。特に『秋日和』と『彼岸花』での[[中村伸郎]]、[[北竜二]]との3人でのかけあいは作品のスパイスとなっている。


==== 演技指導 ====
脇役でも強い印象を残す俳優たちは多い。[[三宅邦子]]は戦前から戦後まで9本の作品に参加している。[[文学座]]の杉村春子は『晩春』から『秋刀魚の味』まで戦後の小津作品には欠かせない女優であった。[[劇団俳優座|俳優座]]の[[東野英治郎]]も『東京物語』を含めて戦後の5本に出演している。ほかにもプライベートでも小津から息子のように愛された佐田啓二は4本に出演、親子二代で小津作品に出演し、早世した父[[岡田時彦]]の思い出を小津から聞いた岡田茉莉子、同じく母娘二代で小津作品に出演している[[桑野通子]]と[[桑野みゆき]]、杉村と同じ文学座出身の[[中村伸郎]](『東京物語』ほか5本)、中村伸郎とセットで登場する北竜二、出演時間こそ短いものの強い印象を残す[[高橋とよ]]や、つねに飲み屋の女性を演じた[[桜むつ子]]などもあげられる。
小津は俳優の動きや視線、テンポに至るまで、演技のすべてが自分のイメージした通りになることを求めた{{Sfn|古賀|2010|pp=107-108}}。小津は自ら身振り手振りをしたり、セリフの口調やイントネーション、間のとり方までを実際に演じてみせたりして、俳優に厳密に演技を指導したが、笠智衆は小津が「[[アルフレッド・ヒッチコック|ヒッチコック]]のように自分の作品に出演したら、大変な名演技だったろう」と述べている<ref name="小津先生">[[笠智衆]]「小津先生とわたし」(『キネマ旬報』1958年6月下旬号)。{{Harvnb|集成|1989|pp=144-145}}に所収</ref>。演技の指示は「そこで三歩歩いて止まる{{Sfn|佐藤|1995|pp=370-372}}」「紅茶をスプーンで2回半かき回して顔を左の方へ動かす{{Sfn|佐藤|1996|p=317}}」「手に持ったお盆の位置を右に2センチ、上に5センチ高くして<ref name="岩下志麻"/>」という具合に細かく、俳優はその指示通りに動いたため{{Sfn|佐藤|1995|pp=370-372}}、飯田蝶子は「役者は操り人形みたいなもの」だったと述べている<ref>[[飯田蝶子]]「小津さんの兵隊」(キネマ旬報別冊『日本映画シナリオ古典全集 第2巻』1966年2月)。{{Harvnb|集成2|1993|pp=137-139}}に所収</ref>。


構図を重要視した小津は、演技も構図にはまるようなものを求めた<ref name="小津先生"/>。『長屋紳士録』で易者を演じた[[笠智衆]]によると、机の上の手相図に筆で書き込むというシーンで、普通に筆を使うと頭が下がってしまうが、小津は頭が動くことで構図が崩れてしまうのを避けるため、頭の位置を動かさずに演じるよう指示し、笠が「そりゃちょっと不自然じゃないですか」と抗議したところ、小津は「君の演技より映画の構図のほうが大事なんだよ」と言い放ったという<ref name="小津先生"/>{{Sfn|笠|1991|p=83}}。
小津の作品はいつも同じだという批判に対して小津は「どうかすると、「たまにゃ変わったもの作ったらどうだい」という人もいるが、ボクは「豆腐屋」だといってやるんです。「豆腐屋」に「カレー」だの「とんかつ」つくれったって、うまいものが出来るはずがない」<ref>小津安二郎 『小津安二郎僕はトウフ屋だからトウフしかつくらない』 日本図書センター〈人生のエッセイ〉、2010年5月、p.13</ref><ref>『報知新聞』昭和30年3月27日付</ref><ref>田中眞澄編『小津安二郎戦後語録集成 昭和21 (1946) 年 - 昭和38 (1963) 年』フィルムアート社、1993年、p.225</ref>と述べている。


小津は自分がイメージした通りになるまで、俳優に何度も演技をやり直させ、1つのアクションでOKが出るまでに何十回もテストを重ねることもあった<ref name="岩下志麻"/>{{Sfn|古賀|2010|pp=107-108}}。[[淡島千景]]は『麦秋』で原節子と会話するシーンにおいて、原と同じタイミングでコップを置いてからセリフを発し、原の方を向くという演技が上手くいかず、小津に「目が早いよ」「手が遅いよ」「首が行き過ぎだよ」と言われてNGを出し続け、20数回までは数えたが、その後は数え切れなくてやめたほどだったという{{Sfn|シンポジウム|2004|pp=211-213}}。[[岩下志麻]]は『秋刀魚の味』で巻尺を手で回すシーンにおいて、巻尺を右に何回か回してから瞬きをして、次に左に何回か回してため息をつくという細かい注文が出されたが、何度やってもOKが出ず、小津に「もう一回」「もう一回」と言われ続け、80回ぐらいまでNGを数えたという{{Sfn|松竹|1993|pp=71-72}}。
=== ロー・ポジションからのアングル ===
小津映像の特徴の一つに「ロー・ポジション」があげられる。低い位置から取られた映像は日本家屋での座り芝居を見せることに好都合で、同じ構図のショットを繰り返すことが、見るものに心地よい安定感を与えることになった。


==== 小津組 ====
「ロー・ポジション(ロー・ポジ)」は「ロー・アングル」と同義ではなく、前者はカメラの位置を下げることで、後者はカメラの仰角を上げる(あおる)ことをさしている。小津はカメラをほとんどあおらなかった。カメラを低い位置にすえて、ごくわずかにレンズを上にあげていた。基本的にはカメラを大人の膝位置より低く固定し、50ミリの標準レンズで撮った。小津はすべての場面において、カメラの位置を必ず自身で設定した。スタッフは「ロー・ポジ」用に特別に極低の三脚を作り、小津の好きな赤に塗って「蟹」と呼んだ。「蟹」は金属製、それ以前に用いられた木製のものは「お釜の蓋」と呼ばれていた。
[[File:Tokyo Monogatari 1953.jpg|thumb|『東京物語』に主演した[[原節子]]と[[笠智衆]]は、小津作品の常連俳優として知られる。]]
小津は同じスタッフやキャストと仕事をすることが多く、彼らは「小津組」と呼ばれた{{Sfn|映畫読本|2003|pp=26-31}}。小津組の主な人物と参加本数は以下の通りである(スタッフは3本以上、キャストは5本以上の参加者のみ記述)<ref>参加本数は{{Harvnb|全集(上)|2003}}と{{Harvnb|全集(下)|2003}}に掲載されたクレジットをもとに算出。</ref>。
* 脚本(原案や構成も含む):[[野田高梧]](26本)、[[池田忠雄]](16本)、[[伏見晁]](8本)、[[北村小松]](4本)
* 撮影:[[茂原英雄]](32本)、[[厚田雄春]](14本)
* 音楽:[[伊藤宣二]](7本)、[[斎藤高順]](7本)
* 美術:[[浜田辰雄]](19本)、[[下河原友雄]](3本)
* その他スタッフ:妹尾芳三郎(録音・調音、15本)、[[浜村義康]](編集、13本)、[[山内静夫]](製作、6本)、山本武(製作、4本)
* 俳優(クレジット有):[[笠智衆]](25本{{Refnest|group="注"|クレジット上では25本だが、[[大部屋俳優|大部屋]]時代のノンクレジット出演も含めると、『懺悔の刃』と『淑女は何を忘れたか』以外のほぼ全作品に出演しているという{{Sfn|映畫読本|2003|pp=26-31}}{{Sfn|伝記|2019|p=202}}。}})、[[坂本武]](24本)、[[斎藤達雄]](23本)、[[飯田蝶子]](18本)、[[吉川満子]](14本)、[[青木富夫|突貫小僧]](12本)、[[田中絹代]](10本)、[[大山健二]]、[[三宅邦子]]、[[杉村春子]](9本)、[[高橋とよ]](8本)、[[三井弘次]]、[[菅原通済]](7本)、[[原節子]]、[[桜むつ子]]、[[中村伸郎]]、[[須賀不二夫]](6本)、[[伊達里子]]、[[岡田時彦]]、[[坪内美子]]、[[佐分利信]]、[[長岡輝子]](5本)


=== 映像スタイル ===
小津が愛したこの「ロー・ポジ」の意味と起源については「子供の視点」であるとか、「客席から舞台を見上げる視点」とか「畳の縁の黒さを目立たせないため」など諸説ある<ref>『小津安二郎 名作映画集DVD+BOOK 01 東京物語』解説本、小学館、2010年、p.18</ref>が、小津自身は「『肉体美』(1928年)で、バーのセット内での撮影時、少ないライトをあちこち動かしながら撮影をしていたら、カットごとに床の上のあちこちにコードが動く。いちいち片付けたり、映らないようにするのも手間なので、床が映らないよう低い位置からカメラを上向けにした。「出来上がった構図も悪くないし、時間も省けるので、これから癖になり、キャメラの位置もだんだん低くなった。しまいには「お釜の蓋」という名をつけた特殊な三脚をたびたび使うようになった」<ref>{{Harvnb|田中真澄|1989|p=161}}</ref>と述べている。
==== ロー・ポジション ====
小津のよく知られた映像手法として、カメラを低い位置に据えて撮影する「ロー・ポジション」が挙げられる<ref name="厚田">厚田雄春「小津ロー・ポジションの秘密」({{Harvnb|人と芸術|1964|pp=82-83}})</ref>{{Sfn|現代映画用語事典|2012|p=175}}{{Sfn|厚田|蓮實|1989|pp=222-224, 234}}。ロー・ポジションの意味については、「畳に座ったときの目の高さ」「子供から見た視線」「客席から舞台を見上げる視点」など諸説ある{{Sfn|貴田|1999|pp=232-239}}。小津自身は日本間の構図に安定感を求めた結果、ロー・ポジションを採用したと述べている<ref name="カメラ対談">小津安二郎、石川欣一「カラーは天どん 白黒はお茶漬の味 カメラ対談」(『カメラ毎日』創刊号、1954年5月)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=212-217}}に所収</ref>{{Sfn|貴田|1999|pp=232-239}}。厚田雄春は、標準のカメラ位置で日本間を撮影すると、畳のへりが目について映像が締まりにくくなるため、それが目立たないようロー・ポジションを用いたと述べている<ref name="厚田"/>{{Sfn|貴田|1999|pp=232-239}}。小津が初めてカメラ位置を低くしたのは『[[肉体美]]』(1928年)で、その理由はセット撮影で床の上が電気コードだらけになり、いちいち片付けたり、映らないようにしたりする手間を省こうとしたためで、床が映らないようカメラ位置を低くするとその構図に手応えを感じ、それからはカメラの位置が段々低くなったという<ref name="芸談"/>。ロー・ポジションで撮影するときは、「お釜の蓋」と名付けた特製の低い三脚を使用し、柱や障子などの縦の直線が歪むのを避けるために50ミリレンズを使用した<ref name="芸談"/><ref>松浦莞二「四〇ミリの謎」({{Harvnb|伝記|2019|pp=356-364}})</ref>。


小津が「[[ローアングル|ロー・アングル]]を使用した」と言われることもあるが、ロー・アングルはカメラの位置ではなくアングルについて定義する言葉であり、その言葉の曖昧な使用がそのまま普及したものである{{Sfn|現代映画用語事典|2012|p=175}}。映画批評家の{{仮リンク|デヴィッド・ボードウェル|en|David Bordwell}}は、「小津のカメラが低く見えるのはそのアングルのためではなく、その位置のためである」と指摘している{{Sfn|ボードウェル|2003|pp=137-138}}。ロー・アングルはカメラアングルを仰角にして、低い視点から見上げるようにして撮影することを意味するが、小津作品ではカメラアングルを数度だけ上に傾けることはあっても、ほとんど水平を保っている{{Sfn|現代映画用語事典|2012|p=175}}{{Sfn|厚田|蓮實|1989|pp=222-224, 234}}{{Sfn|ボードウェル|2003|pp=137-138}}。また、カメラ位置は特定の高さに固定したわけではなく、撮影対象に合わせて高さを変え、その高さに関わらず水平のアングルに構えた{{Sfn|現代映画用語事典|2012|p=175}}{{Sfn|厚田|蓮實|1989|pp=222-224, 234}}{{Sfn|ボードウェル|2003|pp=137-138}}。例えば、日本間では[[ちゃぶ台]]の少し上の高さにカメラを置いたが、テーブルや事務机のシーンではカメラをその高さに上げている{{Sfn|現代映画用語事典|2012|p=175}}。ボードウェルは「小津のカメラ位置は絶対的なものではなく相対的なものであり、常に撮影する対象よりも低いが、対象の高さとの関係で変化する」と指摘している{{Sfn|ボードウェル|2003|pp=137-138}}。
=== 「映画の文法」破り ===
小津調の特徴である人物を向き合う人物を正面からとらえる「切り返しショット」は通常の映画の「文法」に沿っていない。通常、映画の「文法」にそった映像では切り返しのショットでカメラが二人の人物を結ぶ[[イマジナリーライン]]を超えることはない。しかし、小津は意図的にこの「文法」を無視した。少なくとも中期以降の作品においては、切り返しショットがイマジナリーラインを超えて真正面から捉える手法の大原則が破られることはなかった。こうした映画文法の意図的な違反が、独特の時間感覚とともに作品に固有の違和感を生じさせており、特に日本国外の映画評論家から評価を得ている。


==== 移動撮影 ====
もともと、この「文法破り」は日本間での撮影による制約から生まれたという。すなわち、日本間では座る位置がほとんど決まっている上に、狭い和室ではカメラの動く範囲が窮屈になる。その上でこのルールに従うと背景は床の間、ふすま、縁側などに限定され、自分の狙うその場の雰囲気が表現できない。「そうしたことから試みたのっぴきならない違法」<ref>{{Harvnb|小津安二郎|2010|p=56}}</ref>だという。
[[File:Late Spring (Banshun) 1949.jpg|thumb|『晩春』で原節子たちがサイクリングをするシーンでは、移動撮影とパンが用いられている{{Sfn|佐藤|2000|pp=40-41}}。]]
小津は移動撮影をほとんど使わず、できるだけカメラを固定して撮影した{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=362-363}}{{Sfn|佐藤|1995|p=355}}。晩年に小津は移動撮影を「一種のごまかしの術で、映画の公式的な技術ではない」と否定したが<ref name="味がよい"/>、初期作品では積極的に使用しており、『生れてはみたけれど』では43回も使われている{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=362-363}}。やがて表現上の必然性がある場合を除くと使うのをやめ、とくに表面的な効果を出したり、映画的話法として使用したりすることはほとんどなくなり、トーキー作品以後は1本あたりの使用回数が大きく減った{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=362-363}}。現存作品の中では『父ありき』と『東京暮色』とカラー時代の全作品において、全てのシーンが固定カメラで撮影されている{{Sfn|貴田|1999|pp=253-254}}。また、[[パン (撮影技法)|パン]]の使用もごく数本に限定されている{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=365-367}}。


後年の小津作品における移動撮影は、カメラを動かしてもショット内の構図が変化しないように撮られている{{Sfn|佐藤|2000|pp=40-41}}{{Sfn|貴田|1999|pp=255-256}}。例えば、屋外で2人の人物が会話をしながら歩くシーンでは、移動しても背景が変化しない場所(長い塀や並木道など)を選んで、他の通行人を画面に登場させないようにし、人物が歩くのと同じスピードでカメラを移動させた{{Sfn|佐藤|2000|pp=40-41}}{{Sfn|貴田|1999|pp=255-256}}。貴田はこうした移動撮影が「静止したショットのように見える」と述べている{{Sfn|貴田|1999|pp=255-256}}。『麦秋』で原節子と三宅邦子が並んで話しながら砂丘を歩くシーンでは、小津作品で唯一のクレーン撮影が行われているが、これも砂丘の高い方から低い方へ歩いて行くときに、構図が変化しないようにするために用いられている{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=365-367}}{{Sfn|佐藤|2000|pp=42-43}}。
小津自身はさらに次のように述べている。「たとえば、こういう文法がある。AとBが対話をしているところを、交互に、クローズ・アップでとるときに、カメラはAとBとを結ぶ線をまたいではならないというのだ。つまりABを結ぶ線から、少し離れたところからAをクローズ・アップする。すると画面に写ったAの顔は左向きになっている。こんどは、ABを結ぶ線の同じ側で、前とは対照的な位置にカメラを移してBをクローズ・アップする。すると、Bは画面では右向きとなるわけだ。両者の視線が客席の上で交差するから、対話の感じが出るというわけだ。もし、ABを結ぶ線をまたいだりすると、絶対に対話でなくなるというのである。しかし、この“文法”も、私に言わせると何か説明的な、こじつけのように思えてならない。それで私は一向に構わずABを結ぶ線をまたいでクローズ・アップを撮る。すると、Aも左を向くし、Bも左を向く、だから、客席の上で視線が交るようなことにはならない。しかしそれでも対話の感じは出るのである。おそらく、こんな撮り方をしているのは、日本では私だけであろうが、世界でも、おそらく私一人であろう。私は、こんなことをやり出して、もう三十年になる。それで私の友人たちー故山中貞雄とか稲垣浩、内田吐夢などーは、どうも私の映画は見にくいと言う。撮り方が違っているからである。では終りまで見にくいかと聞くと、いや初めのうちだけで、すぐに慣れるという。だから、ロング・ショットで、ABの位置関係だけ、はっきりさせておけば、あとはどういう角度から撮ってもかまわない。客席の上での視線の交差など、そんなに重要なことではないようだ。どうも、そういう“文法”論はこじつけ臭い気がするし、それにとらわれていては窮屈すぎる。もっと、のびのびと映画は演出すべきものではないだろうか」<ref>『芸術新潮』昭和34年4月号(田中眞澄編『小津安二郎戦後語録集成 昭和21 (1946) 年 - 昭和38 (1963) 年』フィルムアート社、1993年、pp.332-337)。{{疑問点|date=2018-10-28|title=芸術新潮の後ろに丸括弧で別の資料が書いてありますが、前者と後者には何らかの関係があるのでしょうか? 直接に関係がないのであれば、別々の脚注に入れたほうがよいのでは?}}</ref>。


==== 180度ルール破り ====
[[パン (撮影技法)|パン]]についても、『彼岸花』の撮影中に小津、[[岩崎昶]]、飯田心美の鼎談が『[[キネマ旬報]]』(No.212 1958年8月下旬号“酒は古いほど味がよい 「彼岸花」のセットを訪ねて小津芸術を訊く”)で行われ、独特のカメラワークについて論じた中で、小津は「絶対にパンしない」と言い、次のような発言をしている。
[[Image:imaginary-line.png|thumb|340px|図1:会話シーンにおける[[想定線|イマジナリー・ライン]]とカメラ位置。180度ルールでは「A→B」の位置で撮影するが、小津は「A→C」の位置で撮影した。]]
<blockquote>性に合わないんだ。ぼくの生活条件として、なんでもないことは流行に従う。重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従うから、どうにもきらいなものはどうにもならないんだ。だから、これは不自然だということは百も承知で、しかもぼくは嫌いなんだ。そういうことはあるでしょう。嫌いなんだが、理屈にあわない。理屈にあわないんだが、嫌いだからやらない。こういう所からぼくの個性が出てくるので、ゆるがせにはできない。理屈にあわなくともぼくはそれをやる。</blockquote>
2人の人物が向かい合って会話するシーンを撮影するときには、「{{仮リンク|180度ルール|en|180-degree rule}}」という文法的規則が存在する{{Sfn|現代映画用語事典|2012|pp=18-19}}。180度ルールでは図1に示すように、人物甲と乙の目を結ぶ[[想定線|イマジナリー・ライン]](想定線やアクション軸とも)を引き、それを跨がないようにして線の片側、すなわち180度の範囲内にだけカメラを置き(カメラ位置AとB)、カメラ位置Aで甲を右斜め前から撮り、次にカメラを切り返して、カメラ位置Bで乙を左斜め前から撮影する。そうすることで「A→B」のように甲は右、乙は左を向くことになるため、甲と乙の視線の方向が一致し、2人が向かい合って会話しているように見えた{{Sfn|現代映画用語事典|2012|pp=18-19}}{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=356-358}}{{Sfn|古賀|2010|p=99}}。


しかし、小津はこの文法的規則に従わず、イマジナリー・ラインを跨ぐようにしてカメラを置いた(カメラ位置AとC)。すなわち甲をカメラ位置Aで右斜め前から撮影したあと、線を越えたカメラ位置Cで乙を右斜め前から撮影した。そうすると「A→C」のように甲も乙も同じ右を向くことになるため、視線の方向が一致しなかった<ref name="映画の文法">小津安二郎「映画の文法」(『月刊スクリーン・ステーィ』1947年6月号)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=37-40}}に所収</ref><ref name="文法はない">小津安二郎「映画に"文法"はない」(『芸術新潮』1959年4月号)。{{Harvnb|戦後語録集成|1989|pp=332-337}}に所収</ref>。この文法破りは日本間での撮影による制約から生まれたもので、日本間では人物の座る位置とカメラの動く範囲が限られてしまうが、その上で180度ルールに従えば、自分の狙う感情や雰囲気を自由に表現できなくなってしまうからだった<ref name="映画の文法"/>。小津はこれを「明らかに違法」と認識しているが、[[ロングショット]]で人物の位置関係を示してさえおけば、あとはどんな角度から撮っても問題はないと主張し、「そういう文法論はこじつけ臭い気がするし、それにとらわれていては窮屈すぎる。もっと、のびのびと映画は演出すべきもの」だと述べている<ref name="文法はない"/>。小津によると、『一人息子』の試写後にこの違法について他の監督たちに意見を聞いたところ、[[稲垣浩]]は「おかしいが初めの内だけであとは気にならない」と述べたという<ref name="映画の文法"/>。また、小津はカメラを人物の真正面の位置に据え、会話する2人の人物を真正面の構図から撮影することも多かった{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=356-358}}{{Sfn|古賀|2010|p=99}}。
小津は「映画の文法」というものに対して批判的で、「機械の機能が画面に現れただけのフェイド・イン、フェイド・アウト、オーバーラップをまるで文法のごとく考えるのはじつに無定見な話だ。文法でもなんでもない、機械の属性だ」と言い切っている<ref>{{Harvnb|松竹株式会社|1993|p=14}}</ref>。


== 評価 ==
==== 相似形の構図 ====
[[File:03-yasujiro-ozu-films.jpg|thumb|『東京物語』では、笠智衆と[[東山千栄子]]演じる老夫婦が、同じ方向を向いて、同じ姿勢で並んで座る相似形の構図が登場する{{Sfn|古賀|2010|pp=109-111}}。]]
小津安二郎はすでに1930年代に芸術的な作品を撮る監督として評論家からの定評を得ていた。しかし、なかなか興業的にヒットする作品が出ないことが自身の悩みだったが、『戸田家の兄妹』(1941年)が初めて商業的に成功し、以降ヒット作を連発した。特に戦後になると年一作の寡作となって「巨匠」の名をほしいままにし、『東京物語』など原節子と組んだ一連の作品によって日本映画界の重鎮とみなされるようになった。
小津作品のショットには、人物や物が相似形に並んでいる構図が多用されている{{Sfn|古賀|2010|pp=109-111}}{{Sfn|貴田|1999|p=140}}。相似形の構図とは、大きさは異なっていても、形の同じものが繰り返されている構図のことをいい、貴田によると、その画面は「きわめて整然とした、幾何学的な印象を与える」という{{Sfn|貴田|1999|p=142}}。相似形の構図の例は『浮草』のファースト・ショットで、画面奥にある白い灯台と、画面手前にあるビンが相似形に並べられている{{Sfn|貴田|1999|p=154}}。佐藤は同じ画面内に2人の人物がいるシーンにおいて、人物同士が同じ方向を向いて並行して座っていることが多いことを指摘している{{Sfn|佐藤|2000|p=37}}。小津の相似形への好みは、登場人物の行為にまで及び、しばしば同じ動作を反復するシーンが見られる{{Sfn|貴田|1999|p=144}}{{Sfn|古賀|2010|pp=105-107}}。『父ありき』で父子が渓流で釣りをするシーンでは、父と息子が同じ姿勢で相似形に並んでいるが、2人は同じタイミングで釣竿を上げ、投げ入れるという動作をしている{{Sfn|古賀|2010|pp=109-111}}{{Sfn|貴田|1999|p=144}}。


映画評論家の[[千葉伸夫]]は、小津が相似形の人物配置を好んだ理由について、「二人の人物の間には一見、対立がないように見えるが、実は微妙なズレがあり、そんな二人の内面を引き出すため」であると指摘している{{Sfn|古賀|2010|pp=109-111}}。一方、佐藤によると、相似形の人物配置は「対立や葛藤を排して、二人以上の人物が一体感で結ばれている調和の世界への願望の表明」であるという{{Sfn|佐藤|1996|p=310}}。また、相似形の構図は、登場人物が別の動作をすることなどにより崩れるときがあるが{{Sfn|古賀|2010|pp=109-111}}、貴田は人物の演技において相似形が崩れると、「おかしさが強調され、ギャグなどに変わる」と指摘している{{Sfn|貴田|1999|p=142}}。
しかし映画研究者の佐藤忠男が「(1950年代後半)俳優たちにそのもっとも美しい姿を表出させる演出力において、この頃、小津安二郎は比類のない高さに達していた。年配の批評家たちや観客はそれを無条件に享受した。しかし若い批評家たちや観客は必ずしもそうではなかった。彼らには小津が苛烈な現実社会とは殆んど無縁なブルジョア的な趣味的な世界に遊んでいると見えた」<ref>佐藤忠男『日本映画史』第3巻、岩波書店、1995年、p.21</ref>と述べているように、昭和30年代を過ぎると、特に若い世代から小津の作品の「古臭さ」に批判が行われるようになった。


==== ショット繋ぎ ====
「松竹ヌーヴェルヴァーグ」と呼ばれた一群の新進監督たち([[大島渚]]や篠田正浩や吉田喜重など)も小津を旧世代の監督の代表と見て批判的であった。吉田は、ある映画雑誌の対談で『小早川家の秋』を「若い世代におもねろうとしている」と批判したことがあった。すると1963年の松竹監督会新年会の宴席で、上座にいた小津が末席にいた吉田の前にやってきて黙って酒を注いだ。二人がほとんど言葉を交わすことなくひたすら酒を注ぎあったので、宴席は通夜のようになってしまった。そのうち酔いのまわった小津は吉田に、「しょせん映画監督は橋の下で菰をかぶり、客を引く女郎だよ」といったという。後に吉田は小津の可愛がった女優岡田茉莉子と結婚し、死の床についていた小津のもとを訪ねた。吉田は小津の変わり果てた姿に言葉を失ったが、小津は帰り際の吉田に「映画はドラマだ、アクシデントではない」と口ずさむように言った<ref>{{Harvnb|吉田喜重|1998|pp=1-5}}</ref>。
[[File:Pillow2.png|thumb|『晩春』におけるカーテン・ショット。]]
小津はショットを繋ぐ技法である「{{仮リンク|オーバーラップ (映像技法)|label=ディゾルブ|en|Dissolve (filmmaking)}}(オーバーラップとも)」と「[[フェード#映像編集|フェード]]」をほとんど使わなかった<ref name="俯瞰"/>{{Sfn|貴田|1999|pp=189-190}}{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=372-373}}。ディゾルブはある画面が消えかかると同時に次の画面が重なって出てくる技法で、フェードは画面がだんだん暗くなったり(フェード・アウト)、反対に明るくなったり(フェード・イン)する技法である{{Sfn|現代映画用語事典|2012|pp=29, 135}}。どちらも場面転換をしたり、時間経過を表現したりするための古典的な映画技法として用いられた{{Sfn|貴田|1999|pp=189-190}}。しかし、小津はこうした技法を「ひとつのゴカマシ」とみなし<ref name="厚田"/>、「カメラの属性に過ぎない」として否定した<ref name="自作を語る"/>。


ディゾルブはごく初期に例外的にしか使っておらず、小津自身は『会社員生活』で使用してみて「便利ではあるがつまらんものだ<ref name="自作を語る"/>」と思い、それ以降はごく僅かな使用を除くと、まったくといっていいほど使用しなかった{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=372-373}}。佐藤によると、小津は画面の秩序感を整えることに固執していたが、ディゾルブを使えばそれを処理している僅かな時間により、厳密な構図の秩序感が失われてしまうため、それを避ける目的でディゾルブを使用しなかったという{{Sfn|佐藤|2000|p=44}}。一方、フェードはディゾルブほど厳密に排除せず、比較的後年まで用いられた{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=372-373}}{{Sfn|佐藤|2000|p=44}}。小津は『生れてはみたけれど』から意識的に使わなくなったと述べているが<ref name="自作を語る"/>、その後もファースト・ショットとラスト・ショットを前後のタイトル部分と区切るためだけに使用した。しかし、カラー作品以後はそれさえも使わなくなり、すべて普通のカットだけで繋いだ{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=372-373}}。
日本国外での評価については、小津の存命中に『東京物語』への英国サザーランド賞の授与(1959年)があったとはいえ、それほど知られているとはいえなかった。しかし、没後ヨーロッパを中心に小津作品への評価が高まり、その独特の映画スタイルが斬新なものとしてもてはやされるようになった。著名な映画監督、評論家たちも小津映画への賞賛を口にするようになった。現在では小津は[[溝口健二]]、[[黒澤明]]らと並んでもっとも国際的に支持される日本の映画監督の一人となっており、『東京物語』はヨーロッパで特に人気が高い。


小津はディゾルブやフェードの代わりに、場面転換や時間経過を表現する方法として「カーテン・ショット」と呼ばれるものを挿入した{{Sfn|貴田|1999|pp=189-190}}。カーテン・ショットは風景や静物などの無人のショットから成り、作品のオープニングやエンディング、またはあるシーンから次のシーンに移行するときに挿入されている{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=365-367}}{{Sfn|貴田|1999|pp=189-190}}。カーテン・ショットの命名者は[[南部圭之助]]で、舞台のドロップ・カーテンに似ていることからそう呼んだ<ref>[[南部圭之助]]「小津安二郎の怒り」({{Harvnb|人と芸術|1964|pp=48-49}})</ref>。他にも「空ショット(エンプティ・ショット)」と呼ばれたり、[[枕詞]]の機能を持つことから「ピロー・ショット」と呼ばれたりもしている{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=365-367}}{{Sfn|リチー|1978|p=383}}。
小津を敬愛し、あるいは小津からの影響を明言している作家は世界的にひろがる。[[ジャン=リュック・ゴダール]]は自身の作品である『[[映画史]]』において古今東西の膨大な監督に言及しているが、日本人監督としては溝口・大島・[[勅使河原宏]]と小津の4名だけを取り上げている。[[アッバス・キアロスタミ]]は『5 five 小津安二郎に捧げる』を、[[ヴィム・ヴェンダース]]は『[[東京画]]』を、[[侯孝賢]]は『[[珈琲時光]]』をそれぞれ小津に捧げる形で監督しており、さらにヴェンダースは代表作『[[ベルリン・天使の詩]]』のエンディングに「全てのかつての天使、特に安二郎、[[フランソワ・トリュフォー|フランソワ]]、[[アンドレイ・タルコフスキー|アンドレイ]]に捧ぐ」との一文を挿入している。また、[[ジム・ジャームッシュ]]の『[[ストレンジャー・ザン・パラダイス]]』では台詞の中に「トーキョー・ストーリー」などの小津作品の名称の競走馬が何気なく登場している。[[アキ・カウリスマキ]]は「彼岸花」に登場している赤いやかんを小津作品に対する憧憬の象徴としており、自作品においてもしばしば赤い色のオブジェを意識的に登場させている。[[ジュゼッペ・トルナトーレ]]の『[[みんな元気]]』は、老いた父親がイタリア各都市の子どもたちを訪ねる話で『東京物語』へのオマージュとなっている。


=== 同じ役名・役柄 ===
日本でもかつては「古い」といわれた小津安二郎の作品群が、日本映画の一つの完成形として確固とした評価を得るようになった。特に70~80年代に革新的な映画批評を展開していた[[蓮實重彦]]の小津に対する高い評価が広く影響を与えた。[[立教大学]]で蓮實の教えを受けた[[周防正行]]は小津へのオマージュ作品『[[変態家族 兄貴の嫁さん]]』を監督している。また漫画家の[[吉田戦車]]も1989年に小津へのオマージュ短篇「小春日和」(単行本『タイヤ』収録)を発表している。小津の生誕100周年にあたる2003年には各地で上映会などの記念イベントが催され、12月11日と12日に東京の[[有楽町朝日ホール]]で小津安二郎生誕100年記念シンポジウム「OZU2003」が行われた。このシンポジウムは蓮實、[[山根貞男]]、吉田喜重をコーディネーターとし、パネリストに[[ペドロ・コスタ]]、侯孝賢、アッバス・キアロスタミ、[[青山真治]]、[[黒沢清]]、[[是枝裕和]]、淡島千景、[[井上雪子 (女優)|井上雪子]]、岡田茉莉子、[[香川京子]]らを招いて行われた。
小津作品は前述のように同じテーマやスタイルを採用したが、同じ役名も繰り返し登場している{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=289-290}}。例えば、[[坂本武]]は『出来ごころ』『浮草物語』『箱入娘』『東京の宿』『長屋紳士録』で「喜八」を演じており、『長屋紳士録』以外の4本は喜八を主人公にした人情ものであることから「喜八もの」と呼ばれている{{Sfn|佐藤|2000|p=296}}。この喜八ものでは、[[飯田蝶子]]が『出来ごころ』以外の3本で「おつね」役を演じた。笠智衆は『晩春』『東京物語』『東京暮色』『彼岸花』『秋日和』の5本で「周吉」役、『父ありき』『秋刀魚の味』の2本で「周平」役を演じた{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=289-290}}。原節子も『晩春』『麦秋』『東京物語』で「紀子」役を演じており、この3本は「紀子三部作」とも呼ばれている<ref name="小事典"/>。他にも年配女性に「志げ」、長男に「康一」「幸一」、小さな子供に「実」「勇」、若い女性に「アヤ」という役名が頻出し、苗字では「平山」がよく登場した{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=289-290}}。また、同じ俳優が同じ役柄を演じることも多い。例えば、笠智衆は父親役、[[三宅邦子]]は妻役、[[桜むつ子]]は[[水商売]]の女性役を何度も演じた。『彼岸花』『秋日和』『秋刀魚の味』の3本では、[[中村伸郎]]と[[北竜二]]が主人公の友人役、[[高橋とよ]]が料亭若松の女将役を演じた{{Sfn|映畫読本|2003|pp=26-31}}。

=== 音楽 ===
小津作品の音楽は、普通の作品とは異なる特色を持ち、小津調の音楽と呼ばれている{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=320-321}}<ref name="斎藤高順">[[斎藤高順]]「画面と音楽が相殺しない曲を」({{Harvnb|松竹|1993|pp=186-191}})</ref>。その特色は音楽を登場人物の感情移入の道具として使用したり、劇的な効果を出したりするために使ったりするのを避けたことと、深刻なシーンに明るい音楽を流したことである{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=320-321}}<ref name="俯瞰"/>。小津は「場面が悲劇だからと悲しいメロディ、喜劇だからとて滑稽な曲、という選曲はイヤだ。音楽で二重にどぎつくなる」と述べている<ref name="芸談"/>。こうした特色は作曲家の[[斎藤高順]]とコンビを組んだ『早春』以降の作品に見られる{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=320-321}}。『早春』の主人公が病床の友人を見舞うシーンでは、内容が深刻で暗いことから、小津が好きな「サ・セ・パリ」「バレンシア」のような明るい曲を流そうと提案し、斎藤が明るい旋律の曲「サセレシア」を作曲した。小津はこの曲を気に入り、『東京暮色』『彼岸花』でも使用した{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=320-321}}<ref name="斎藤高順"/>。小津はその後いつも同じような曲を注文し、斎藤は「サセレシア」を少しアレンジした曲や、[[ポルカ]]調の曲を作曲した{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=320-321}}。その他の音楽の特徴として、一定不変のテンポとリズム、旋律の繰り返し、弦楽器を中心としたさわやかなメロディが指摘されている{{Sfn|フィルムアート社|1982|pp=320-321}}<ref name="斎藤高順"/>。

== 人物 ==
[[File:Ozu Yasujiro.jpg|thumb|200px|[[1948年]]頃の小津安二郎。]]
=== 人柄 ===
小津はユーモラスな人物で、冗談や皮肉を交えてしゃべることが多く、厚田雄春はそんな小津を「道化の精神」と呼んだ<ref name="高野行">[[佐田啓二]]「老童謡『高野行』 小津さんのこと」({{Harvnb|人と芸術|1964|pp=46-47}})</ref>{{Sfn|吉田|1998|p=25}}{{Sfn|厚田|蓮實|1989|p=280}}。[[人見知り]]をする性格で{{Sfn|厚田|蓮實|1989|p=160}}、とくに女性に対してはシャイであり、そのために生涯独身を貫いたとも言われている<ref>{{Cite book|和書 |author=[[冨士田元彦]] |date=2006-2 |title=日本映画史の展開 小津作品を中心に |publisher=[[本阿弥書店]] |page=66}}</ref>。そんな小津は母を愛していたが、恥ずかしがり屋だったため、人前ではわざと母をそんざいに扱っているような態度をとり、「ばばぁは僕が飼育してるんですよ」などと冗談を言ったという<ref name="高梧"/><ref name="高野行"/>。

=== 趣味・嗜好 ===
小津は大の[[酒]]好きとして知られた<ref name="高野行"/>。野田と脚本を書くため別荘に滞在したときは、毎日のように朝から何合もの酒を飲みながら仕事をした{{Sfn|伝記|2019|pp=256-258}}{{Sfn|リチー|1978|pp=54-55}}。野田によると、1つの脚本を書き終わるまでに100本近くの一升瓶を空けたこともあり、小津はその空き瓶に1、2、3…と番号を書き込んでいたという<ref name="高梧"/>。撮影現場でも、夕方になると「これからはミルク(酒)の時間だよ」と言って仕事を切り上げ、当時は当たり前だった残業をほとんどすることなく、酒盛りを始めたという<ref name="川又"/><ref>{{Cite web |date=2017-7-21 |url=https://www.daily.co.jp/gossip/2017/07/21/0010391627.shtml |title=山本富士子 巨匠・小津安二郎の秘話を明かす 「ミルクの時間」とは… |website=デイリースポーツ |accessdate=2021年2月25日}}</ref>。

趣味としてはスポーツを好み、中学時代は[[柔道]]部に所属し{{Sfn|中村|2000|pp=14, 56}}、若い頃は[[ボクシング]]や[[スキー]]に打ち込んだが{{Sfn|伝記|2019|pp=195-196}}{{Sfn|全発言|1987|p=254}}、生涯を通して最も熱を入れていたのは[[野球]]と[[相撲]]だった{{Sfn|中村|2000|pp=14, 56}}<ref name="考える人">『考える人』2007年冬号特集「小津安二郎を育てたもの」、新潮社、p. 54。</ref>。野球は[[阪神タイガース]]のファンで、観戦するのも自分でやるのも好きだった<ref name="考える人"/>。小津の野球好きは、小津組のスタッフに野球の強い人を好んで入れるほどで、自身も松竹大船の野球チームに所属した<ref name="川又"/><ref name="考える人"/>。相撲は[[鳳谷五郎 (横綱)|鳳]]と[[吉葉山潤之輔|吉葉山]]のファンで、撮影が大相撲の場所と重なると、ラジオ中継が始まる時間に合わせて切り上げたという<ref name="川又"/><ref name="考える人"/>。

写真を撮るのも好きで、その趣味は生涯続いた{{Sfn|伝記|2019|p=183}}{{Sfn|貴田|1999|pp=94-95}}。小津のカメラ歴は中学時代に始まり、その頃に流行したコダック社の小型カメラの[[ヴェスト・ポケット・コダック|ベス単]]で撮影を楽しんだ<ref name="写真">松浦莞二「復刻中国戦線寫眞集 作品の背景」({{Harvnb|大全|2019|p=148}})</ref>。1930年代初頭には高級品だった[[ライカ]]を手に入れ、自ら現像を行ったり、写真引き伸ばし機を購入したりするなど、ますます写真撮影に凝った<ref name="カメラ対談"/><ref name="写真"/>。1934年には写真誌『月刊ライカ』に2度も写真が掲載された{{Sfn|貴田|1999|pp=98-99}}。日中戦争に応召されたときは、報道要員ではないにもかかわらず、著名な監督だということで特別にライカの携行を認められ、戦地で4000枚近くの写真を撮影した<ref name="写真"/>。そのうち8枚は1941年に雑誌『寫眞文化』で「小津安二郎・戦線寫眞集」として特集掲載されたが、それ以外は1952年の松竹大船撮影所の火事で焼失した{{Sfn|伝記|2019|pp=245-246}}<ref name="写真"/>{{Sfn|貴田|1999|pp=98-99}}。

子供の頃から絵を描くことも好きで、とてもうまかったという{{Sfn|全発言|1987|p=254}}<ref name="デザイン">岡田秀則「小津安二郎における絵画とデザイン」({{Harvnb|大全|2019|pp=135-143}})</ref>。小学校高学年の頃には当時の担任曰く「大人が舌を巻くほどの才能」があり、中学時代には[[アートディレクター]]を志したこともあった{{Sfn|伝記|2019|p=180}}<ref name="筈見対談"/>。小津の絵の趣味は亡くなるまで続いたが、映画監督としてのキャリアの傍らで[[グラフィックデザイナー]]としての一面を見せている{{Sfn|全発言|1987|p=254}}<ref name="デザイン"/>。例えば、日本映画監督協会のロゴマークをデザインしたり、交友のある映画批評家の[[筈見恒夫]]と[[岸松雄]]の著作や『山中貞雄シナリオ集』(1940年)などの装丁を手がけたりした<ref name="デザイン"/>。また、達筆だった小津は『溝口健二作品シナリオ集』(1937年)の題字や、京都の大雄寺にある山中貞雄碑の揮毫を手がけている<ref name="少年期の絵画">松浦莞二「少年期の絵画」({{Harvnb|大全|2019|pp=130-134}})</ref>。戦後の監督作品では、映画の中の小道具や看板のデザインを自ら手がけている<ref name="デザイン"/>。自作の題字やクレジット文字も自分で書き、カラー映画になると白抜き文字に赤や黒の文字を無作為に散りばめるなど、独自のデザイン感覚を発揮している<ref name="デザイン"/><ref name="少年期の絵画"/>。

=== 里見弴との関係 ===
小津は中学時代から[[里見弴]]の小説を愛読していて、『戸田家の兄妹』では里見の小説から細部を拝借している{{Sfn|映畫読本|2003|pp=76, 84}}。小津と里見は『戸田家の兄妹』の試写会後の座談会で初対面し、小津は里見の演出技術に関する的確な批評に敬服した{{Sfn|映畫読本|2003|pp=76, 84}}<ref name="里見">[[里見弴]]「小津君と鎌倉と私」({{Harvnb|人と芸術|1964|p=5}})</ref>。『晩春』でも試写を見た里見からラストシーンについてアドバイスをもらい、この作品以降は里見に脚本を送って意見を求めるようになった<ref name="小事典"/>{{Sfn|映畫読本|2003|pp=76, 84}}。1952年に小津が北鎌倉に移住すると、近所に住んでいた里見との親交が深まり、お互いの家を訪ねたり、野田と3人でグルメ旅行をしたりするほどの仲となった<ref name="全集年譜"/><ref name="里見"/>。里見は小津を「私の生涯における数少ない心友のうちのひとり」と呼んでいる<ref name="里見"/>。晩年は里見とともに仕事をすることも多くなった。『彼岸花』『秋日和』では里見とストーリーを練り、里見が原作を書きながら、それと並行して小津と野田が脚本を書くという共同作業をとった<ref name="小事典"/>。1963年には[[日本放送協会|NHK]]のテレビドラマ『[[青春放課後]]』の脚本を里見と共同執筆した{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}。また、里見の四男である[[山内静夫]]は、『早春』以降の松竹の小津作品でプロデューサーを務め、小津は山内とも私生活での付き合いを深めた{{Sfn|伝記|2019|pp=256-258}}。

== 評価・影響 ==
[[File:MJK30764 Wim Wenders (Berlinale 2017).jpg|thumb|160px|[[ヴィム・ヴェンダース]]は、小津の影響を受けた監督として知られる。]]
小津は1930年代から日本映画を代表する監督のひとりとして認められ、多くの作品が高評価を受けた{{Sfn|佐藤|2000|p=254}}{{Sfn|伝記|2019|pp=210, 227, 250-251}}{{Sfn|中村|2000|p=10}}。[[キネマ旬報ベスト・テン]]では20本の作品が10位以内に選出され、そのうち6本が1位になった<ref>{{Cite book |和書 |date=2012-05|title=キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011|series=キネマ旬報ムック|publisher=キネマ旬報社 |pages=18-41, 77頁}}</ref>。小津と同年代の批評家は、小津調による様式美と保守的なモラルのために高い評価を下したが、戦後世代の若い批評家や監督からは「テンポが遅くて退屈」「現実社会から目を背けている」「ブルジョワ趣味に迎合している」「映画の特質である動的な魅力に乏しい」などと批判されることもあった{{Sfn|中村|2000|p=10}}{{Sfn|佐藤|2000|p=463}}。[[松竹ヌーヴェルヴァーグ]]の旗手である[[吉田喜重]]もそのひとりで、ある映画雑誌の対談で『小早川家の秋』を「若い世代におもねろうとしている」と批判した。すると小津は1963年の松竹監督新年会の席上で、末席にいた吉田に無言で酒を注ぐことでこれに反論し、しまいに「しょせん映画監督は橋の下で菰をかぶり、客を引く女郎だよ」「君なんかに俺の映画が分かってたまるか」と声を荒げた{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}{{Sfn|吉田|1998|pp=1-2}}。これは小津が若い世代に感情を露にした珍しい出来事だった{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}。

1950年代前半から海外で日本映画が注目され、とくに[[黒澤明]]や[[溝口健二]]の作品が海外の[[映画祭]]で高評価を受けるようになったが、小津作品は日本的で外国人には理解されないだろうと思われていたため、なかなか海外で紹介されることがなかった{{Sfn|伝記|2019|pp=246-249}}。小津作品が最初に海外で評価されたのは、1958年に[[イギリス]]の[[ロンドン映画祭]]で『東京物語』が上映されたときで、映画批評家の[[リンゼイ・アンダーソン]]らの称賛を受け、最も独創的で創造性に富んだ作品に贈られる[[サザーランド杯]]を受賞した{{Sfn|伝記|2019|p=263}}。その後アメリカやヨーロッパでも作品が上映されるようになり、海外での小津作品の評価も高まった<ref name="全集下解題"/>{{Sfn|中村|2000|p=10}}。なかでも『東京物語』は、[[2012年]]に[[英国映画協会]]の映画雑誌{{仮リンク|サイト・アンド・サウンド|en|Sight & Sound}}が発表した「{{仮リンク|史上最高の映画トップ100|en|The Sight & Sound Greatest Films of All Time 2012}}」で、監督投票部門の1位に選ばれた<ref>{{Cite web |url=https://www2.bfi.org.uk/films-tv-people/sightandsoundpoll2012/directors |title=Directors’ top 100 |website=Sight & Sound |publisher=BFI |accessdate=2021年4月1日}}</ref>。

国内外の多くの映画監督が小津に敬意を表し、その影響を受けている。[[ヴィム・ヴェンダース]]は小津を「私の師匠」と呼び、『[[ベルリン・天使の詩]]』(1987年)のエンディングに「全てのかつての天使、特に安二郎、[[フランソワ・トリュフォー|フランソワ]]、[[アンドレイ・タルコフスキー|アンドレイ]]に捧ぐ」という一文を挿入した<ref>{{Cite web |date=2018-2-20 |url=https://www.cinemaclassics.jp/news/1140/ |title=第68回ベルリン国際映画祭クラシック部門 小津安二郎監督作品『東京暮色』4Kデジタル修復版ワールドプレミア上映レポート |website=松竹シネマクラシックス |work=松竹 |accessdate=2021年4月1日}}</ref><ref>{{Cite book |last=Scheibel |first=Will |date=2017 |title=American Stranger: Modernisms, Hollywood, and the Cinema of Nicholas Ray |publisher=SUNY Press |page=167}}</ref>。さらにヴェンダースは日本で撮影したドキュメンタリー『[[東京画]]』(1985年)で小津作品をオマージュした<ref>{{Cite web |date=2012-2-23 |url=https://eiga.com/news/20120223/9/ |title=W・ベンダース監督「東京画」から四半世紀「小津さんでさえ今の日本、東京はわからない」 |website=映画.com |accessdate=2021年4月1日}}</ref>。小津の生誕100周年にあたる[[2003年]]には、[[ホウ・シャオシェン]]が『[[珈琲時光]]』、[[アッバス・キアロスタミ]]が『{{仮リンク|5 five 小津安二郎に捧げる|en|Five (2003 film)}}』をそれぞれ小津に捧げる形で発表した{{Sfn|シンポジウム|2004|pp=129-132, 140-143}}。[[周防正行]]は監督デビュー作である[[ピンク映画]]『[[変態家族 兄貴の嫁さん]]』(1984年)で小津作品を模倣した<ref>[[周防正行]]「なぜ小津だったのか」({{Harvnb|大全|2019|pp=96-99}})</ref>。[[ジム・ジャームッシュ]]は『[[ストレンジャー・ザン・パラダイス]]』(1984年)で小津作品の題名から取った名前の競走馬を登場させている<ref>{{Cite web |author=相馬学 |date=2018-10-15 |url=https://cinemore.jp/jp/erudition/450/article_451_p2.html#a451_p2_1 |title=才能を知る、才能を見る、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を支えた才人たち |website=CINEMORE |accessdate=2021年4月1日}}</ref>。ほかにも[[アキ・カウリスマキ]]<ref>{{Cite web |url=https://tankmagazine.com/tank/2017/11/aki-kaurismaeki/ |title=Anywhere but here: the films of Aki Kaurismäki |website=Tank |accessdate=2021年4月1日}}</ref>、[[クレール・ドニ|クレール・ドゥニ]]<ref>{{Cite web |last=Lim |first=Dennis |date=2009-9-4 |url=https://www.nytimes.com/2009/09/06/movies/06lim.html |title=Finding Rhythms Within Rhythms in Parisians’ Lives |website=The New York Times |accessdate=2021年4月1日}}</ref>、[[エリア・スレイマン]]<ref>{{Cite web |last=Mitchell |first=Wendy |date=2015-3-9 |url=https://www.screendaily.com/news/elia-suleiman-feature-to-cross-countries/5084021.article |title=Elia Suleiman’s next feature to ‘cross countries’ |website=Screen Daily |accessdate=2021年4月1日}}</ref>、[[黒沢清]]{{Sfn|シンポジウム|2004|pp=186-188}}、[[青山真治]]{{Sfn|シンポジウム|2004|pp=190-194}}などが小津の影響を受けている。


== 作品 ==
== 作品 ==
監督作品は全54作(うち現存が確認できないものは17作品※)。
=== 作品のパブリックドメイン化 ===
2004年1月1日施行された、映画の著作権保護期間を新しい著作権法は、その後の各種裁判を経て、1953年までに公開された映画には適用されず、2003年に満了となったと認定された。小津映画をこの基準で判断すると『東京物語』(1953年)までが2021年現在、パブリックドメイン化されており、実際に廉価版DVDなどが販売されている。

=== 監督作品 ===
=== 監督作品 ===
小津の監督作品は54本存在するが、そのうち17本の[[サイレント映画]]のフィルムは現存していない<ref>作品一覧は『小津安二郎全集』上下巻と『小津安二郎 大全』の「小津安二郎 全作品ディテール小事典」を出典とする。</ref>
{|class="wikitable"
; 凡例
|-
×印はフィルムが現存していない作品([[失われた映画]])<br/>△印はフィルムの一部だけが現存する作品<br/>□印は[[サウンド版]]作品<br/>◎印はカラー作品
!公開年
; サイレント映画
!作品名
{{Columns-list|2|
!製作
* [[懺悔の刃]](1927年)×
!脚本・脚色
* [[若人の夢]](1928年)×
!主な出演者
* [[女房紛失]](1928年)×
!備考
* [[カボチヤ]](1928年)×
|-
* [[引越し夫婦]](1928年)×
|style="white-space:nowrap;"|1927年
* [[肉体美]](1928年)×
|style="white-space:nowrap;"|※[[懺悔の刃]]
* [[宝の山]](1929年)×
|style="white-space:nowrap;"|[[松竹蒲田撮影所|松竹蒲田]]
* [[学生ロマンス 若き日]](1929年)
|style="white-space:nowrap;"|[[野田高梧]]
* [[和製喧嘩友達]](1929年)△
|[[吾妻三郎]]、[[小川国松]]
* [[大学は出たけれど]](1929年)△
|style="white-space:nowrap;font-size:smaller;"|白黒<br />[[サイレント映画|サイレント]] 69分 
* [[会社員生活]](1929年)×
|-
* [[突貫小僧]](1929年)△
|1928年
* [[結婚学入門]](1930年)×
|※[[若人の夢]]
* [[朗かに歩め]](1930年)
|松竹蒲田
* [[落第はしたけれど]](1930年)
|小津安二郎
* [[その夜の妻]](1930年)
|[[斎藤達雄]]、[[吉谷久雄]]、[[松井潤子]]、[[若葉信子]]
* [[エロ神の怨霊]](1930年)×
|style="font-size:smaller;"|白黒<br />サイレント 55分 
* [[足に触った幸運|足に触つた幸運]](1930年)×
|-
* [[お嬢さん (1930年の映画)|お嬢さん]](1930年)×
|1928年
* [[淑女と髯]](1931年)
|※[[女房紛失]]
* [[美人哀愁]](1931年)×
|松竹蒲田
* [[東京の合唱]](1931年)
|吉田百助
* [[春は御婦人から]](1932年)×
|斎藤達雄、[[岡村文子]]、[[国島荘一]]
* [[大人の見る繪本 生れてはみたけれど]](1932年)
|style="font-size:smaller;"|白黒<br />サイレント 54分 
* [[青春の夢いまいづこ]](1932年)
|-
* [[また逢ふ日まで]](1932年)×□
|1928年
* [[東京の女 (映画)|東京の女]](1933年)
|※[[カボチヤ]]
* [[非常線の女]](1933年)
|松竹蒲田
* [[出来ごころ]](1933年)
|[[北村小松]]
* [[母を恋はずや]](1934年)
|斎藤達雄、[[日夏百合繪|日夏百合絵]]
* [[浮草物語]](1934年)□
|style="font-size:smaller;"|白黒<br />サイレント 42分 
* [[箱入娘]](1935年)×□
|-
* [[東京の宿]](1935年)□
|1928年
* [[大学よいとこ]](1936年)×□
|※[[引越し夫婦]]
}}
|松竹蒲田
; トーキー映画
|[[伏見晁]]
{{Columns-list|2|
|[[渡辺篤 (俳優)|渡辺篤]]、[[吉川満子]]
* [[鏡獅子 (映画)|鏡獅子]](1936年) - 記録映画
|style="font-size:smaller;"|白黒<br />サイレント 40分 
* [[一人息子 (映画)|一人息子]](1936年)
|-
* [[淑女は何を忘れたか]](1937年)
|1928年
* [[戸田家の兄妹]](1941年)
|※[[肉体美]]
* [[父ありき]](1942年)
|松竹蒲田
* [[長屋紳士録]](1947年)
|伏見晁<br />小津安二郎
* [[風の中の牝雞]](1948年)
|斎藤達雄、[[飯田蝶子]]
* [[晩春 (映画)|晩春]](1949年)
|style="font-size:smaller;"|白黒<br />サイレント 54分
* [[宗方姉妹]](1950年)
|-
* [[麦秋 (1951年の映画)|麦秋]](1951年)
|1929年
* [[お茶漬の味]](1952年)
|※[[宝の山]]
* [[東京物語]](1953年)
|松竹蒲田
* [[早春 (1956年の映画)|早春]](1956年)
|伏見晁
* [[東京暮色]](1957年)
|[[小林十九二]]、日夏百合絵
* [[彼岸花 (映画)|彼岸花]](1958年)◎
|style="font-size:smaller;"|白黒<br />サイレント 66分 
* [[お早よう]](1959年)◎
|-
* [[浮草 (映画)|浮草]](1959年)◎
|1929年
* [[秋日和]](1960年)◎
|[[学生ロマンス 若き日]]
* [[小早川家の秋]](1961年)◎
|松竹蒲田
* [[秋刀魚の味]](1962年)◎
|伏見晁<br />小津安二郎
}}
|[[結城一郎]]、斎藤達雄、松井潤子、飯田蝶子
|style="font-size:smaller;"|白黒<br />サイレント 103分
|-
|1929年
|[[和製喧嘩友達]]
|松竹蒲田
|野田高梧
|渡辺篤、吉谷久雄、浪花友子、[[結城一朗]]
|style="font-size:smaller;"|白黒<br />サイレント 77分
|-
|1929年
|[[大学は出たけれど]]
|松竹蒲田
|荒牧芳郎
|[[高田稔]]、[[田中絹代]]、[[鈴木歌子]]、[[大山健二]]
|style="font-size:smaller;"|白黒<br />サイレント 70分
|-
|1929年
|※[[会社員生活]]
|松竹蒲田
|野田高梧
|斎藤達雄、吉川満子、[[小藤田正一]]、[[加藤精一 (俳優)|加藤精一]]
|style="font-size:smaller;"|白黒<br />サイレント 57分 
|-
|1929年
|[[突貫小僧]]
|松竹蒲田
|[[池田忠雄 (脚本家)|池田忠雄]]
|斎藤達雄、[[青木富夫]]、[[坂本武]]
|style="font-size:smaller;"|白黒<br />サイレント 38分
|-
|1930年
|※[[結婚学入門]]
|松竹蒲田
|野田高梧
|[[栗島すみ子]]、斎藤達雄、高田稔
|style="font-size:smaller;"|白黒<br />サイレント 71分 
|-
|1930年
|[[朗かに歩め]]
|松竹蒲田
|池田忠雄
|高田稔、[[川崎弘子]]、吉谷久雄、[[伊達里子]]
|style="font-size:smaller;"|白黒<br />サイレント 98分
|-
|1930年
|[[落第はしたけれど]]
|松竹蒲田
|伏見晁
|斎藤達雄、田中絹代、[[月田一郎]]
|style="font-size:smaller;"|白黒<br />サイレント 64分
|-
|1930年
|[[その夜の妻]]
|松竹蒲田
|野田高梧
|[[岡田時彦]]、[[八雲恵美子]]、[[市村美津子]]、[[山本冬郷]]
|style="font-size:smaller;"|白黒<br />サイレント 65分
|-
|1930年
|※[[エロ神の怨霊]]
|松竹蒲田
|野田高梧
|斎藤達雄、[[星ひかる]]、伊達里子、月田一郎
|style="font-size:smaller;"|白黒<br />サイレント 27分
|-
|1930年
|※[[足に触った幸運|足に触つた幸運]]
|松竹蒲田
|野田高梧
|斎藤達雄、吉川満子
|style="font-size:smaller;"|白黒<br />サイレント 74分 
|-
|1930年
|※[[お嬢さん (1930年の映画)|お嬢さん]]
|松竹蒲田
|北村小松<br />伏見晁<br />小津安二郎<br />池田忠雄
|栗島すみ子、岡田時彦、斎藤達雄、田中絹代
|style="font-size:smaller;"|白黒<br />サイレント 135分 
|-
|1931年
|[[淑女と髯]]
|松竹蒲田
|北村小松<br />小津安二郎
|岡田時彦、川崎弘子、伊達里子、月田一郎
|style="font-size:smaller;"|白黒<br />サイレント 74分
|-
|1931年
|※[[美人哀愁]]
|松竹蒲田
|池田忠雄<br />小津安二郎
|岡田時彦、斎藤達雄、[[井上雪子 (女優)|井上雪子]]
|style="font-size:smaller;"|白黒<br />サイレント 158分 
|-
|1931年
|[[東京の合唱]]
|松竹蒲田
|野田高梧
|岡田時彦、八雲恵美子、斎藤達雄、坂本武、[[菅原秀雄 (俳優)|菅原秀雄]]、[[高峰秀子]]
|style="font-size:smaller;"|白黒<br />サイレント 90分
|-
|1932年
|※[[春は御婦人から]]
|松竹蒲田
|池田忠雄<br />[[柳井隆雄]]
|[[城多二郎]]、斎藤達雄、井上雪子
|style="font-size:smaller;"|白黒<br />サイレント 74分
|-
|1932年
|[[大人の見る繪本 生れてはみたけれど]]
|松竹蒲田
|伏見晁<br />小津安二郎
|斎藤達雄、吉川満子、菅原秀雄、[[突貫小僧]]、坂本武、小藤田正一
|style="font-size:smaller;"|白黒<br />サイレント 91分
|-
|1932年
|[[青春の夢いまいづこ]]
|松竹蒲田
|野田高梧
|[[江川宇礼雄]]、斎藤達雄、田中絹代
|style="font-size:smaller;"|白黒<br />サイレント 91分
|-
|1932年
|※[[また逢ふ日まで]]
|松竹蒲田
|野田高梧
|[[岡田嘉子]]、[[岡譲二]]、奈良真養、川崎弘子
|style="font-size:smaller;"|白黒<br />[[サウンド版|音響版]] 78分 
|-
|1933年
|[[東京の女 (映画)|東京の女]]
|松竹蒲田
|野田高梧<br />池田忠雄
|岡田嘉子、江川宇礼雄、田中絹代、奈良真養
|style="font-size:smaller;"|白黒<br />サイレント 47分
|-
|1933年
|[[非常線の女]]
|松竹蒲田
|池田忠雄
|田中絹代、岡譲二、[[水久保澄子]]、[[三井弘次|三井秀男]]、[[逢初夢子]]
|style="font-size:smaller;"|白黒<br />サイレント 100分
|-
|1933年
|[[出来ごころ]]
|松竹蒲田
|池田忠雄
|坂本武、[[大日方伝]]、[[伏見信子]]、突貫小僧、飯田蝶子
|style="font-size:smaller;"|白黒<br />サイレント 100分
|-
|1934年
|[[母を恋はずや]]
|松竹蒲田
|池田忠雄<br />野田高梧<br />荒田正雄
|吉川満子、大日方伝、三井秀男
|style="font-size:smaller;"|白黒<br />サイレント 93分
|-
|1934年
|[[浮草物語]]
|松竹蒲田
|池田忠雄
|坂本武、八雲理恵子、[[坪内美子]]、飯田蝶子、三井秀男
|style="font-size:smaller;"|白黒<br />音響版 89分
|-
|1935年
|※[[箱入娘]]
|松竹蒲田
|野田高梧<br />池田忠雄
|飯田蝶子、田中絹代、坂本武、突貫小僧
|style="font-size:smaller;"|白黒<br />音響版 67分 
|-
|1935年
|[[東京の宿]]
|松竹蒲田
|池田忠雄<br />荒田正男
|坂本武、岡田嘉子、突貫小僧
|style="font-size:smaller;"|白黒<br />音響版 80分
|-
|1936年
|※[[大学よいとこ]]
|松竹蒲田
|荒田正男
|[[近衛敏明]]、[[笠智衆]]、[[高杉早苗]]
|style="font-size:smaller;"|白黒<br />音響版 86分 
|-
|1936年
|[[鏡獅子 (映画)|鏡獅子]]
|国際文化振興会<br />[[松竹大船撮影所|松竹大船]]
|style="font-size:smaller;"|(記録映画)
|[[尾上菊五郎_(6代目)|六代目尾上菊五郎]]、[[松永和楓]]、柏伊三郎、[[望月太左衛門]]
|style="font-size:smaller;"|白黒<br />初のトーキー 24分
|-
|1936年
|[[一人息子 (映画)|一人息子]]
|松竹大船
|池田忠雄<br />荒田正男
|飯田蝶子、日守新一、坪内美子、[[葉山正雄]]
|style="font-size:smaller;"|白黒<br />[[茂原式トーキー]] 87分
|-
|1937年
|[[淑女は何を忘れたか]]
|松竹大船
|伏見晁<br />小津安二郎
|斎藤達雄、栗島すみ子、[[桑野通子]]、[[佐野周二]]
|style="font-size:smaller;"|白黒 75分
|-
|1941年
|[[戸田家の兄妹]]
|松竹大船
|池田忠雄<br />小津安二郎
|[[佐分利信]]、[[高峰三枝子]]、葛城文子、斎藤達雄
|style="font-size:smaller;"|白黒 105分
|-
|1942年
|[[父ありき]]
|松竹大船
|池田忠雄<br />[[柳井隆雄]]<br />小津安二郎
|笠智衆、佐野周二、坂本武、[[水戸光子]]、左分利信
|style="font-size:smaller;"|白黒 94分
|-
|1947年
|[[長屋紳士録]]
|松竹大船
|池田忠雄<br />小津安二郎
|飯田蝶子、青木放屁、河村黎吉、笠智衆、吉川満子、坂本武、[[小沢栄太郎]]
|style="font-size:smaller;"|白黒 71分
|-
|1948年
|[[風の中の牝雞]]
|松竹大船
|斎藤良輔<br />小津安二郎
|田中絹代、佐野周二、[[村田知英子]]、笠智衆
|style="font-size:smaller;"|白黒 84分
|-
|1949年
|[[晩春 (映画)|晩春]]
|松竹大船
|野田高梧<br />小津安二郎
|[[原節子]]、笠智衆、[[月丘夢路]]、[[宇佐美淳]]、[[杉村春子]]、[[三島雅夫]]
|style="font-size:smaller;"|白黒 108分
|-
|1950年
|[[宗方姉妹]]
|[[新東宝]]
|野田高梧<br />小津安二郎
|田中絹代、高峰秀子、上原謙、[[山村聰]]、[[堀雄二]]
|style="font-size:smaller;"|白黒 112分
|-
|1951年
|[[麦秋 (1951年の映画)|麦秋]]
|松竹大船
|野田高梧<br />小津安二郎
|原節子、笠智衆、[[淡島千景]]、[[菅井一郎]]、[[東山千栄子]]、[[三宅邦子]]、杉村春子、佐野周二
|style="font-size:smaller;"|白黒 125分
|-
|1952年
|[[お茶漬の味]]
|松竹大船
|野田高梧<br />小津安二郎
|佐分利信、[[木暮実千代]]、[[鶴田浩二]]、笠智衆、[[津島恵子]]、淡島千景、三宅邦子
|style="font-size:smaller;"|白黒 116分
|-
|1953年
|[[東京物語]]
|松竹大船
|野田高梧<br />小津安二郎
|笠智衆、東山千栄子、原節子、山村聰、杉村春子、三宅邦子、[[香川京子]]、[[東野英治郎]]
|style="font-size:smaller;"|白黒 136分
|-
|1956年
|[[早春 (1956年の映画)|早春]]
|松竹大船
|野田高梧<br />小津安二郎
|[[池部良]]、淡島千景、[[岸惠子]]、[[高橋貞二]]、[[中北千枝子]]
|style="font-size:smaller;"|白黒 144分
|-
|1957年
|[[東京暮色]]
|松竹大船
|野田高梧<br />小津安二郎
|原節子、[[有馬稲子]]、笠智衆、[[山田五十鈴]]、田浦正巳、高橋貞二
|style="font-size:smaller;"|白黒 140分
|-
|1958年
|[[彼岸花 (映画)|彼岸花]]
|松竹大船
|野田高梧<br />小津安二郎
|佐分利信、田中絹代、[[山本富士子]]、有馬稲子、[[久我美子]]、[[佐田啓二]]、高橋貞二
|style="font-size:smaller;"|カラー 118分
|-
|1959年
|[[お早よう]]
|松竹大船
|野田高梧<br />小津安二郎
|[[設楽幸嗣]]、[[島津雅彦]]、三宅邦子、笠智衆、佐田啓二、久我美子、杉村春子
|style="font-size:smaller;"|カラー 94分
|-
|1959年
|[[浮草 (映画)|浮草]]
|[[大映]]
|野田高梧<br />小津安二郎
|[[中村鴈治郎 (2代目)|中村鴈治郎]]、[[京マチ子]]、[[若尾文子]]、[[川口浩 (俳優)|川口浩]]、杉村春子、三井弘次、[[田中春男]]
|style="font-size:smaller;"|カラー 119分
|-
|1960年
|[[秋日和]]
|松竹大船
|野田高梧<br />小津安二郎
|原節子、[[司葉子]]、佐分利信、[[岡田茉莉子]]、佐田啓二、中村伸郎、笠智衆
|style="font-size:smaller;"|カラー 128分
|-
|1961年
|[[小早川家の秋]]
|[[宝塚映画]]
|野田高梧<br />小津安二郎
|中村鴈治郎、原節子、[[新珠三千代]]、[[小林桂樹]]、司葉子、[[森繁久彌]]、[[浪花千栄子]]
|style="font-size:smaller;"|カラー 103分
|-
|1962年
|[[秋刀魚の味]]
|松竹大船
|野田高梧<br />小津安二郎
|笠智衆、[[岩下志麻]]、岡田茉莉子、佐田啓二、東野英治郎、杉村春子、中村伸郎
|style="font-size:smaller;"|カラー 113分
|}


=== その他の作品 ===
=== その他の作品 ===
{{Columns-list|2|
* 映画作品
; 映画
** 『銀河』(1931年2月14日公開、清水宏監督、[[松竹キネマ]]) - スキー場面演出
* 銀河(1931年、[[清水宏 (映画監督)|清水宏]]監督) - スキー場面の応援監督<ref name="全集年譜"/>
** 『瓦版かちかち山』([[1934年]]10月3日公開、[[井上金太郎]]監督、松竹キネマ) - 原作
* 瓦版かちかち山(1934年、[[井上金太郎]]監督) - 原作(ジェームス・槇名義)<ref name="NO監督 "/>
** 『[[限りなき前進]]』([[1937年]]11月3日公開、[[内田吐夢]]監督、[[日活]]) - 原作
* [[限りなき前進]](1937年、[[内田吐夢]]監督) - 原作<ref name="NO監督 "/>
** 『美しい横顔』([[1942年]]10月8日公開、[[佐々木康]]監督、松竹) - 構成
* 美しい横顔(1942年、[[佐々木康]]監督) - 構成<ref>{{Cite book|和書 |author=[[佐々木康]] |date=2003-10 |title=楽天楽観 映画監督佐々木康 |publisher=ワイズ出版 |page=215}}</ref>
** 『恋文』(1953年12月13日公開、田中絹代監督、新東宝) - カメオ出演
** 『月は上りぬ』([[1955年]]1月8日公開、田中絹代監督、日活) - 脚本(斎藤良輔と共同)
* [[恋文 (1953の映画)|恋文]](1953年[[田中絹代]]監督) - 応援出演<ref name="全集年譜"/>
* 月は上りぬ(1955年、田中絹代監督) - 脚本([[斎藤良輔 (脚本家)|斎藤良輔]]と共同)<ref name="NO監督"/>
** 『[[血槍富士]]』(1955年2月27日公開、内田吐夢監督、[[東映]]) - 企画協力
* [[血槍富士]](1955年、内田吐夢監督) - 企画協力<ref name="蓮實年譜"/>
** 『[[大根と人参]]』([[1965年]]1月3日公開、[[渋谷実]]監督、松竹) - 原案
* [[私のベレット]](1964年、[[大島渚]]監督) - 脚本監修{{Sfn|伝記|2019|pp=273-275}}
** 『暖春』(1965年12月31日公開、[[中村登]]監督、松竹) - 原作(『青春放課後』の台本を脚色)
* [[大根と人参]](1965年、[[渋谷実]]監督) - 原案<ref name="NO監督"/>
* テレビドラマ
* 暖春(1965年、[[中村登]]監督) - 原作(『青春放課後』の脚色作品)<ref name="NO監督"/>
** 『[[青春放課後]]』(1963年3月21日放送、[[日本放送協会|NHK]]) - 脚本(里見{{JIS2004フォント|&#24372;}}と共同)<br />※2013年に映像が残っていることが分かり、同年10月14日に[[NHK BSプレミアム]]の「プレミアムアーカイブス」で約50年ぶりに放映<ref name="news">{{Cite web |url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131010/k10015170161000.html |title=小津安二郎監督「幻のドラマ」放送へ NHKニュース |publisher=NHK |accessdate=2018-10-28 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131014164800/http://www3.nhk.or.jp:80/news/html/20131010/k10015170161000.html |archivedate=2013-10-04}}</ref>。
* ラジオドラマ
; テレビドラマ
* [[青春放課後]](1963年、[[日本放送協会|NHK]]) - 脚本([[里見弴]]と共同)<ref name="NO監督"/>
** 『箱入娘』(1935年1月、[[NHKラジオ第1放送|NHKラジオ]]) - 演出
; ラジオドラマ
* 舞台
** 『春は朗かに』(19341月14日-19日、[[帝国劇場]]) - 演出
* 箱入娘(1935年、[[NHKラジオ第1放送]]) - 演出<ref name="蓮實年譜"/>
; 舞台
** 『健児生まる』(1942年1月1日-5日、[[大阪劇場]]) - 演出
* 春は朗かに(1934年、[[帝国劇場]]) - 演出<ref name="全集年譜"/>

* 健児生まる(1942年、[[大阪劇場]]) - 演出<ref name="全集年譜"/>
=== DVD・ブルーレイ作品 ===
}}
*小津安二郎 DVD-BOX 第一集 - 第四集(第一・二集=DVD 各6枚組、第三、四集=DVD 各11枚組/松竹・2003年)
*:小津安二郎生誕100年を記念した初のDVD-BOXシリーズ。各集に特典ディスク『まほろば』がつく。
**第一集 - 『東京物語』『彼岸花』『お早よう』『秋日和』『秋刀魚の味』
**第二集 - 『晩春』『麦秋』『お茶漬けの味』『早春』『東京暮色』
**第三集 - 『出来ごころ』『母を恋はずや』『浮草物語』『東京の宿』『一人息子』『淑女は何を忘れたか』『戸田家の兄妹』『父ありき』『長屋紳士録』『風の中の牝{{JIS2004フォント|&#38622;}}』
**第四集 - 『学生ロマンス 若き日』『大学は出たけれど』『朗らかに歩め』『落第はしたけれど』『その夜の妻』『淑女と髯』『東京の合唱』『大人の見る絵本 生れてはみたけれど』『青春の夢いまいづこ』『東京の女』『非常線の女』(特典ディスクに『和製喧嘩友達』『突貫小僧』『鏡獅子』を収録)
*小津安二郎 名作セレクションI〜V(I・II・III=DVD 各5枚組、IV・V=DVD 各8枚組/松竹・2010・2013年)
*:2003年の『小津安二郎 DVD-BOX』の廉価再発盤。特典ディスク・ブックレットはなし。
**I - 『晩春』『麦秋』『お茶漬けの味』『東京物語』『早春』
**II - 『東京暮色』『彼岸花』『お早よう』『秋日和』『秋刀魚の味』
**III - 『淑女は何を忘れたか』『戸田家の兄妹』『父ありき』『長屋紳士録』『風の中の牝{{JIS2004フォント|&#38622;}}』
**IV - 『出来ごころ』『浮草物語』『その夜の妻』『非常線の女』『東京の合唱』『淑女と髯』『大人の見る絵本 生れてはみたけれど』『一人息子』
**V - 『母を恋はずや』『青春の夢いまいづこ』『学生ロマンス 若き日』『朗らかに歩め』『大学は出たけれど』『東京の女』『落第はしたけれど』『東京の宿』『和製喧嘩友達』『突貫小僧』『鏡獅子』
*:※V巻以外の各巻の収録作品は単体DVDとしても発売。
*:※全5巻をまとめた『小津安二郎DVDコンプリートボックス』(31枚組)も発売。
*『東京物語』小津安二郎生誕110年・ニューデジタルリマスター(Blu-ray・DVD/松竹・2013年7月)
*『秋刀魚の味』小津安二郎生誕110年・ニューデジタルリマスター(Blu-ray/松竹・2013年11月)
*『彼岸花』小津安二郎生誕110年・ニューデジタルリマスター(Blu-ray/松竹・2013年11月)
*『秋日和』小津安二郎生誕110年・ニューデジタルリマスター(Blu-ray/松竹・2014年3月)
*『お早よう』小津安二郎生誕110年・ニューデジタルリマスター(Blu-ray/松竹・2014年3月)
*『Color 4 OZU〜永遠なる小津カラー』 (Blu-ray 4枚組/松竹・2014年3月)
*:※ニューデジタルリマスターのカラー4作品を収録したボックス・セット。
*『晩春 デジタル修復版』(Blu-ray・DVD/松竹・2015年12月)
*『麦秋 デジタル修復版』(Blu-ray・DVD/松竹・2016年9月)
*『早春 デジタル修復版』(Blu-ray・DVD/松竹・2018年7月)
*『お茶漬けの味 デジタル修復版』Blu-ray・DVD/松竹・2018年7月)
*『東京暮色 デジタル修復版』Blu-ray・DVD/松竹・2018年7月)
*『宗方姉妹』(DVD/東宝・2004年)
*『小早川家の秋』(DVD/東宝・2004年)
*『浮草』(DVD/ポニーキャニオン・2003年、4Kデジタル修復版・Blu-ray/KADOKAWA・2018年6月)

=== シナリオ・日記・発言など ===
*井上和男 編『小津安二郎作品集』立風書房(全4巻)、1983年9月 - 1984年3月
*田中真澄 編『小津安二郎全発言 1933〜1945』泰流社、1987年6月
* {{Citation|和書|author=田中真澄 編|translator=|year=1989|title=小津安二郎 戦後語録集成〜昭和21(1946)年〜昭和38(1963)年|publisher=フィルムアート社|isbn=978-4845989782}}
*田中真澄 編『全日記・小津安二郎』フィルムアート社、1993年12月 (※外箱入り200部限定版あり)
*田中真澄 編『小津安二郎「東京物語」ほか』みすず書房〈大人の本棚〉、2001年12月、新装版2020年11月
*井上和男 編『小津安二郎全集』新書館、2003年4月(※上・下巻+別冊小冊子)
* {{Citation|和書|author=小津安二郎|translator=|year=2010|title=小津安二郎 僕はトウフ屋だからトウフしか作らない(人生のエッセイ)|publisher=日本図書センター|isbn=978-4284700382}}
*『蓼科日記抄』「蓼科日記」刊行会 編、小学館スクウェア、2013年7月
*『小津安二郎 MUJI BOOKS文庫 人と物3』無印良品、2017年6月


==受賞==
== 受賞==
===映画賞===
=== 映画賞 ===
{| class="sortable wikitable" style="font-size:small"
{| class="sortable wikitable" style="font-size:small"
!賞!!年!!部門!!作品!!結果
!賞!!年!!部門!!作品!!結果!!出典
|-
|-
!rowspan="6" style="text-align:left"|[[キネマ旬報ベスト・テン]]
!rowspan="6" style="text-align:left"|[[キネマ旬報ベスト・テン]]
|1932年||日本映画ベスト・テン||『[[大人の見る繪本 生れてはみたけれど]]』||{{won|1位}}
|1932年||日本映画ベスト・テン||『[[大人の見る繪本 生れてはみたけれど]]』||{{won|1位}}||<ref>{{Cite web |url=http://www.kinenote.com/sp/award/kinejun/y1932.aspx |title=キネマ旬報ベスト・テン 1932年・第9回 |website=KINENOTE |accessdate=2021年2月14日}}</ref>
|-
|-
|1933年||日本映画ベスト・テン||『[[出来ごころ]]』||{{won|1位}}
|1933年||日本映画ベスト・テン||『[[出来ごころ]]』||{{won|1位}}||<ref>{{Cite web |url=http://www.kinenote.com/sp/award/kinejun/y1933.aspx |title=キネマ旬報ベスト・テン 1933年・第10回 |website=KINENOTE |accessdate=2021年2月14日}}</ref>
|-
|-
|1934年||日本映画ベスト・テン||『[[浮草物語]]』||{{won|1位}}
|1934年||日本映画ベスト・テン||『[[浮草物語]]』||{{won|1位}}||<ref>{{Cite web |url=http://www.kinenote.com/sp/award/kinejun/y1934.aspx |title=キネマ旬報ベスト・テン 1934年・第11回 |website=KINENOTE |accessdate=2021年2月14日}}</ref>
|-
|-
|1941年||日本映画ベスト・テン||『[[戸田家の兄妹]]』||{{won|1位}}
|1941年||日本映画ベスト・テン||『[[戸田家の兄妹]]』||{{won|1位}}||<ref>{{Cite web |url=http://www.kinenote.com/sp/award/kinejun/y1941.aspx |title=キネマ旬報ベスト・テン 1941年・第18回 |website=KINENOTE |accessdate=2021年2月14日}}</ref>
|-
|-
|1949年||日本映画ベスト・テン||『[[晩春 (映画)|晩春]]』||{{won|1位}}
|1949年||日本映画ベスト・テン||『[[晩春 (映画)|晩春]]』||{{won|1位}}||<ref>{{Cite web |url=http://www.kinenote.com/sp/award/kinejun/y1949.aspx |title=キネマ旬報ベスト・テン 1949年・第23回 |website=KINENOTE |accessdate=2021年2月14日}}</ref>
|-
|-
|1951年||日本映画ベスト・テン||『[[麦秋 (1951年の映画)|麦秋]]』||{{won|1位}}
|1951年||日本映画ベスト・テン||『[[麦秋 (1951年の映画)|麦秋]]』||{{won|1位}}||<ref>{{Cite web |url=http://www.kinenote.com/sp/award/kinejun/y1951.aspx |title=キネマ旬報ベスト・テン 1951年・第25回 |website=KINENOTE |accessdate=2021年2月14日}}</ref>
|-
|-
!rowspan="5" style="text-align:left"|[[毎日映画コンクール]]
!rowspan="5" style="text-align:left"|[[毎日映画コンクール]]
|rowspan="3"|1949年||日本映画大賞||rowspan="3"|『晩春』||{{won}}
|rowspan="3"|1949年||日本映画大賞||rowspan="3"|『晩春』||{{won}}||rowspan="3"|<ref>{{Cite web |url=https://mainichi.jp/mfa/history/004.html |title=毎日映画コンクール 第4回(1949年) |work=毎日新聞 |accessdate=2021年2月14日}}</ref>
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|監督賞||{{won}}
|監督賞||{{won}}
654行目: 332行目:
|脚本賞||{{won}}
|脚本賞||{{won}}
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|1951年||日本映画大賞||『麦秋』||{{won}}
|1951年||日本映画大賞||『麦秋』||{{won}}||<ref name="全集年譜"/>
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|1963年||特別賞||style="text-align:center"|-||{{won}}
|1963年||特別賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=https://mainichi.jp/mfa/history/018.html |title=毎日映画コンクール 第18回(1963年) |work=毎日新聞 |accessdate=2021年2月14日}}</ref>
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|-
!rowspan="3" style="text-align:left"|[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]
!rowspan="3" style="text-align:left"|[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]
|rowspan="2"|1951年||作品賞||rowspan="2"|『麦秋』||{{won}}||rowspan="2"|<ref>{{Cite web |url=http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1951/ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090207075458mp_/http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1951/ |archivedate=2009/2/7 |title=ブルーリボン賞ヒストリー 第2回 |website=シネマ報知 |accessdate=2021年2月14日}}</ref>
|rowspan="2"|1951年||作品賞||rowspan="2"|『麦秋』||{{won}}
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|監督賞||{{won}}
|監督賞||{{won}}
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|1963年||日本映画文化賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1963/ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090207075600mp_/http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1963/ |archivedate=2009/2/7 |title=ブルーリボン賞ヒストリー 第14回 |website=シネマ報知 |accessdate=2021年2月14日}}</ref>
|1963年||日本映画文化賞||style="text-align:center"|-||{{won}}
|-
|-
!style="text-align:left"|[[英国映画協会]]
!style="text-align:left"|[[サザーランド杯]]
|1958年||[[サザーランド杯]]||『[[東京物語]]』||{{won}}
|1958年||style="text-align:center"|-||『[[東京物語]]』||{{won}}||<ref name="全集年譜"/>
|-
|-
!style="text-align:left"|[[ベルリン国際映画]]
!style="text-align:left"|[[映画の日]]」特別功労章
|1959年||style="text-align:center"|-||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web |url= http://www.eidanren.com/activity01_02.html |title=映画の日 特別功労大章・特別功労章及び感謝状贈呈者一覧 |website=[[映画産業団体連合会]] |accessdate=2021年2月28日}}</ref>
|[[第12回ベルリン国際映画祭|1961年]]||[[金熊賞]]||『[[小早川家の秋]]』||{{nom}}
|-
|-
!style="text-align:left"|[[アジア太平洋映画祭]]
!style="text-align:left"|[[溝口健二|溝口]]
|1961年||最優秀作品賞||『[[秋日和]]』||{{won}}
|1960年|| style="text-align:center"|-||『[[彼岸花 (映画)|彼岸花]]』||{{won}}||{{Sfn|田中|2003|p=429}}
|-
!style="text-align:left"|[[アジア太平洋映画祭|アジア映画祭]]
|1961年||監督賞||『[[秋日和]]』||{{won}}||{{Sfn|戦後語録集成|1989|p=468}}
|-
!style="text-align:left"|NHK映画賞
|1963年||特別賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref name="全集年譜"/>
|}
|}


===その他賞・栄典===
=== その他賞・栄典 ===
*1958年:[[紫綬褒章]]
* 1958年:[[紫綬褒章]]<ref name="全集年譜"/>
*1959年:[[日本芸術院賞]]
* 1959年:[[日本芸術院賞]]<ref name="全集年譜"/>
* 1961年:[[芸術選奨|芸術選奨文部大臣賞]]<ref>{{Cite web |url=https://www.bunka.go.jp/seisaku/geijutsubunka/jutenshien/geijutsuka/sensho/pdf/rekidai_jushosha.pdf |format=PDF |title=芸術選奨歴代受賞者一覧(昭和25年度~) |website=文化庁 |accessdate=2021年2月14日}}</ref>
*1960年:[[芸術選奨|芸術選奨文部大臣賞]]
*1962年:[[芸術院]]会員選出
* 1962年:[[日本芸術院]]会員選出<ref name="全集年譜"/>
*1963年:[[勲四等]][[旭日小綬章]](没後追贈)
* 1963年:[[勲四等]][[旭日小綬章]](没後追贈)<ref>{{Cite book|和書 |author=柿田清二 |date=1992 |title=日本映画監督協会の五〇年 |publisher=日本映画監督協会 |page=122}}</ref>


== 記念施設・資料館 ==
== 評伝・作品研究(一部) ==
[[File:Mugei-so-02.jpg|thumb|小津の別荘だった無藝荘。]]
* [[佐藤忠男]]『小津安二郎の芸術』朝日新聞社、1971年1月/朝日選書(上下)、1978年12月/『完本 小津安二郎の芸術』朝日文庫、2000年10月
小津が晩年に使用した[[長野県]][[蓼科高原|蓼科]]の別荘「無藝荘」は、[[2003年]]に小津の生誕100年を記念して[[茅野市]]によりプール平に移築され、[[小津安二郎記念蓼科高原映画祭#小津安二郎記念館・無藝荘|小津安二郎記念館]]として一般に公開されている<ref>{{Cite web |url=https://tateshina.ne.jp/spot/guide_5.html |title=無藝荘 |website=蓼科観光協会 |accessdate=2021年3月21日}}</ref>。茅野市では、[[1998年]]から「[[小津安二郎記念蓼科高原映画祭]]」が開催され、小津作品の上映を中心にシンポジウムや短編映画コンクールなどが行われている<ref>{{Cite web |url=https://ozueigasai.jp/what.html |title=蓼科高原映画祭とは |website=小津安二郎記念・蓼科高原映画祭 |accessdate=2021年3月21日}}</ref>。
* 小津安二郎・人と仕事刊行会 編『小津安二郎 人と仕事』蛮友社、1972年8月 ※限定版
* [[ドナルド・リチー]]『小津安二郎の美学〜映画のなかの日本』山本喜久男訳、フィルムアート社、1978年4月/社会思想社(増補版・現代教養文庫)、1993年3月
* ポール・シュレイダー『聖なる映画―小津/ブレッソン/ドライヤー』フィルムアート社、1981年2月
* フィルムアート社 編『小津安二郎を読む~古きものの美しい復権』フィルムアート社(本の映画館/ブック・シネマテーク5)、1982年6月
* [[高橋治]]『絢爛たる影絵〜小津安二郎』文藝春秋、1982年11月/文春文庫、1985年5月/講談社、2003年3月/岩波現代文庫、2010年9月
* 蓮實重彦『監督小津安二郎』筑摩書房、1983年3月/ちくま学芸文庫、1992年6月/筑摩書房(増訂版)、2003年10月/ちくま学芸文庫(増訂版)、2016年12月
* 『小津安二郎 東京物語』リブロポート(リブロ・シネマテーク)、1984年3月
* 蓮実重彦『映画からの解放〜小津安二郎『麦秋』を見る』河合文化教育研究所(河合ブックレット14)、1988年9月
* 厚田雄春・蓮実重彦『小津安二郎物語』筑摩書房(リュミエール叢書1)、1989年6月
* キネマ旬報編集部 編『小津安二郎集成』キネマ旬報社、1989年12月
* 永井健児『小津安二郎に憑かれた男〜美術監督・下河原友雄の生と死』フィルムアート社、1990年4月
* 笠智衆『大船日記〜小津安二郎先生の思い出』扶桑社、1991年6月/朝日新聞社(朝日文庫)、2007年5月
* [[前田英樹]]『小津安二郎の家〜持続と浸透』書肆山田、1993年1月
* [[浜野保樹]]『小津安二郎』岩波書店(岩波新書)、1993年1月
* デヴィッド・ボードウェル『小津安二郎 映画の詩学』青土社、1993年2月、新装版2003年7月
* [[都築政昭]]『小津安二郎日記〜無常とたわむれた巨匠』講談社、1993年9月/『「小津安二郎日記」を読む』ちくま文庫、2015年10月
* 小津安二郎生誕90年フェア事務局 編『小津安二郎映畫讀本~「東京」そして「家族」』松竹映像版権室、1993年9月、新装改訂版、2003年11月
* 井上和男 編『陽のあたる家~小津安二郎とともに』フィルムアート社、1993年10月
* キネマ旬報編集部 編『小津安二郎集成2』キネマ旬報社、1993年10月
* 石坂昌三『小津安二郎と茅ケ崎館』新潮社、1995年6月
* [[貴田庄]]『小津安二郎のまなざし』晶文社、1999年5月
* 園村昌弘 原作・中村真理子 作画・小津家 監修『小津安二郎の謎』小学館(Big spirits comics special 日本映画監督列伝1)、1999年11月
* 獅騎一郎『黒澤明と小津安二郎』宝文館出版、2000年1月
* [[都築政昭]]『ココロニモナキウタヲヨミテ~小津安二郎が詠んだ名歌23』朝日ソノラマ、2000年5月
* 貴田庄『小津安二郎の食卓』芳賀書店、2000年8月/ちくま文庫、2003年1月
* 中村博男『若き日の小津安二郎』キネマ旬報社、2000年10月
* [[三上真一郎]]『巨匠とチンピラ〜小津安二郎との日々』文藝春秋、2001年4月
* 『小津安二郎〜永遠の映画 文藝別冊』河出書房新社(Kawade夢ムック)、2001年7月/増補新版、2020年1月
* 貴田庄『小津安二郎と映画術』平凡社、2001年8月
* 田中眞澄『小津安二郎のほうへ〜モダニズム映画史論』みすず書房、2002年6月
* 貴田庄『小津安二郎東京グルメ案内』朝日新聞社(朝日文庫)、2003年5月
* 『いま、小津安二郎』小学館 (Shotor library)、2003年5月
* 山内静夫『松竹大船撮影所覚え書~小津安二郎監督との日々』かまくら春秋社、2003年6月
* 田中眞澄『小津安二郎周游』文藝春秋、2003年7月/岩波現代文庫(上下)、2013年2月
* 清水信『小津安二郎雑考』伊藤伸司(清水信文学選)、2003年9月
* 貴田庄『監督小津安二郎入門40のQ&A』朝日新聞社(朝日文庫)、2003年9月
* 中澤千磨夫『小津安二郎・生きる哀しみ』PHP研究所(PHP新書)、2003年10月
* 貴田庄『小津安二郎をたどる東京・鎌倉散歩』青春出版社(プレイブックスインテリジェンス)、2003年12月
* 蓮實重彦・山根貞男・吉田喜重 編著『国際シンポジウム小津安二郎~生誕100年記念「Ozu 2003」の記録』朝日新聞社「朝日選書」、2004年6月
* 田中眞澄『小津安二郎と戦争』みすず書房、2005年7月
* 貴田庄『小津安二郎文壇交遊録』中央公論新社〈中公新書〉、2006年10月
* [[中村明]]『小津の魔法つかい〜ことばの粋とユーモア』明治書院、2007年4月/「小津映画 粋な日本語」ちくま文庫、2017年2月
* [[中野翠]]『小津ごのみ』筑摩書房、2008年2月/ちくま文庫、2011年4月
* 藤田明『平野の思想 小津安二郎私論』ワイズ出版、2010年12月
* 與那覇潤『帝国の残影〜兵士・小津安二郎の昭和史』NTT出版、2011年1月
* 貴田庄『小津安二郎美食三昧〜関東編』朝日新聞出版(朝日文庫)、2011年3月
* 貴田庄『小津安二郎美食三昧〜関西編』朝日新聞出版(朝日文庫)、2011年3月
* [[西村雄一郎]]『殉愛 原節子と小津安二郎』新潮社、2012年8月/講談社文庫、2017年2月
* 松岡ひでたか『小津安二郎の俳句 1903-1963』交友プランニングセンター・友月書房、2012年10月/河出書房新社、2020年3月
* 岩井成昭『路傍の光斑〜小津安二郎の時代と現代』P3 art and environment, 2013年5月
* 田中眞澄『小津ありき〜知られざる小津安二郎』清流出版、2013年7月
*『ユリイカ 詩と批評 第45巻第15号11月臨時増刊号 総特集小津安二郎』青土社、2013年10月
* 梶村啓二『「東京物語」と小津安二郎〜なぜ世界はベスト1に選んだのか』平凡社新書、2013年12月
* 貴田庄『小津安二郎と「東京物語」』ちくま文庫、2013年12月
* 伊良子序『小津安二郎への旅〜魂の「無」を探して』河出書房新社、2014年1月
* [[大場建治]]『銀幕の恋 田中絹代と小津安二郎』晶文社、2014年2月
* [[末延芳晴]]『原節子、号泣す』[[集英社新書]]、2014年6月
*米谷紳之介『いの流儀 小津安二郎の言葉』環境デザイン研究所、2014年12月
*指田文夫『小津安二郎の悔恨 帝都のモダニズムと戦争の傷跡』えにし書房、2015年8月
*黒田博『紀子 小津安二郎の戦後』文藝春秋企画出版部、2015年8月
*小野俊太郎『『東京物語』と日本人』松柏社、2015年11月
* 前田英樹『小津安二郎の喜び』講談社選書メチエ、2016年2月
*竹林出『映画監督小津安二郎の軌跡 芸術家として、認識者として』風濤社、2016年5月
*半田明久『映像文化を志す人へ 小津安二郎の映像を読み解く』文芸社、2017年4月
*中澤千磨夫『精読小津安二郎 死の影の下に』言視舎、2017年6月
*登重樹『望郷の小津安二郎』皓星社、2017年8月
* 田中康義『豆腐屋はオカラもつくる 映画監督小津安二郎のこと』龜鳴屋、2018年12月
*[[松浦莞二]]・宮本明子編『[[小津安二郎 大全]]』[[朝日新聞出版]]、2019年3月
*滝浪佑紀『小津安二郎サイレント映画の美学』慶應義塾大学出版会、2019年8月
*中澤千磨夫『小津の汽車が走る時 精読小津安二郎 続』言視舎、2019年9月
*高橋行徳『それとは違う小津安二郎 『東京の合唱』と『生れてはみたけれど─大人の見る絵本』のおもしろさを徹底解明』鳥影社、2020年5月


小津が青春時代を過ごした[[三重県]][[松阪市]]では、[[2002年]]に「小津安二郎青春館」が開館したが、[[2020年]]末に閉館した<ref>{{Cite web |url=https://www.chunichi.co.jp/article/117833?rct=mie |date=2020-9-9 |title=「小津安二郎青春館」閉館へ 松阪市、歴史民俗資料館に移転 |publisher=中日新聞 |accessdate=2021年3月21日}}</ref>。それに代わる顕彰拠点として、翌[[2021年]]に[[松阪市立歴史民俗資料館]]内に「小津安二郎松阪記念館」が開館し、青春時代の手紙や日記、監督作品の台本などが展示されている<ref>{{Cite web |date=2021-4-4 |url=https://www.isenp.co.jp/2021/04/04/58155/ |title=松阪に小津安二郎記念館オープン 日本映画界の巨匠顕彰 三重 |website=伊勢新聞 |accessdate=2021年4月5日}}</ref>。
== 資料館・関連施設 ==
[[File:Ozu yasujiro seisyunkan.jpg|thumb|小津安二郎青春館]]
*小津安二郎青春館 - 小津が青春時代を過ごした[[三重県]][[松阪市]]にある人物記念館。代表作品のパネルや資料展示のほか、小津の紹介映像の上映も行なっている<ref>[https://www.city.matsusaka.mie.jp/site/culture-info/ozuyasujiroseisyunkan.html 小津安二郎青春館]</ref>


小津の生地である[[東京都]][[江東区]]では、古石場文化センター内に「小津安二郎紹介展示コーナー」が設けられている<ref name="古石場文化センター"/>。
*[[おのみち映画資料館]] - 『東京物語』で舞台になった[[尾道市]]にある映画資料館。小津の映画作りに関する資料などが展示されている。
*[[茅ヶ崎館]] - [[茅ヶ崎市]]にある老舗の宿泊施設。現在も小津が仕事部屋として使用した「二番」に宿泊出来る。『晩春』『麦秋』『東京物語』など、8作品をここで執筆した。
*古石場文化センター - 小津が生まれた[[東京都]][[江東区]]の文化施設。小津の生誕100周年を記念してセンター内に「小津安二郎紹介展示コーナー」が開設され、写真やゆかりのある品々、地元で撮影された映画パネルなどが展示されている<ref>[https://koto-kanko.jp/theme/detail_spot.php?id=S00118 江東お出かけ情報局]</ref>。
*小津安二郎記念館・無藝荘 -[[1954年]]以来、小津と[[野田高梧]]の共同脚本作業の場となった[[蓼科高原]]の山荘。[[2003年]]、[[長野県]][[茅野市]]と地元で建物を引き取り、プール平に移築して保存・公開している<ref>無藝荘から行ける小津安二郎が散歩していたコースには、[[笠智衆]]や[[佐田啓二]]、[[新藤兼人]]、井上和男等の山荘や「新・雲呼荘」[[野田高梧]]記念蓼科シナリオ研究所があり、当時の小津の山荘生活がうかがえる。[https://tateshina.ne.jp/spot/guide_5.html 無藝荘]</ref>。
**開館時間10:00~16:00
**開館期間4月下旬~11月初旬
[[ファイル:Mugei-so-01.jpg|thumb|無藝荘]]


== ドキュメンタリー作品 ==
==小津安二郎記念蓼科高原映画祭==
*『[[生きてはみたけれど 小津安二郎伝]]』(1983年、[[井上和男]]監督)
小津安二郎記念館・無藝荘にちなんで、小津安二郎記念蓼科高原[[映画祭]]が茅野市で毎年9月中旬頃約1週間開催されている。
* 『[[東京画]]』(1985年、[[ヴィム・ヴェンダース]]監督)
小津安二郎監督作品の上映を中心に、[[シンポジウム]]や短編映画コンクールなどを行う。[[1998年]]に第1回開催<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E6%B4%A5%E5%AE%89%E4%BA%8C%E9%83%8E%E8%A8%98%E5%BF%B5%E8%93%BC%E7%A7%91%E9%AB%98%E5%8E%9F%E6%98%A0%E7%94%BB%E7%A5%AD-2096374 コトバンク・デジタル大辞泉プラスの解説・小津安二郎記念蓼科高原映画祭とは]参照</ref>。
*『吉田喜重が語る小津安二郎の映画世界』(1993年、[[吉田喜重]]監督) - [[NHK教育テレビ]]で放送
*映画会場

**[[茅野市民館]] - 映画上映以外に短編映画コンクール・シネマカフェ(市民ボランティアの地元食材でのおもてなし料理)・交流パーティー(会場「カフェ・アンダンテ」映画上映後の当日ゲストとの立食パーティ、会費制、パーティー券は当日、会場で購入)。[[File:茅野市民館 (16544953963).jpg|200px|thumb|茅野市民館]]
== シナリオ・日記・発言集 ==
**茅野新星劇場 - 主な映画上映会場。[[File:RZ Chino Shinsei Gekijo 2018 A.jpg|200px|thumb|茅野新星劇場]]
* [[井上和男]]編『小津安二郎作品集』全4巻、[[立風書房]]、1983年9月 - 1984年3月。
**無藝荘 - 「夏の小津会」小津安二郎の関係者や、愛好家達と思い出話をしながらのお茶会が開催される。(期間中駅から無料シャトルバスが出る)
* [[田中眞澄]]編『小津安二郎全発言 1933〜1945』[[泰流社]]、1987年6月。ISBN 978-4884705893。
*[[茅野駅]]西口商業施設「ベルビア」2F-小津安二郎・野田高梧展示コーナー(常設展示されている。新星劇場近く。)
* 田中眞澄編『小津安二郎戦後語録集成 昭和21(1946)年〜昭和38(1963)年』フィルムアート社、1989年5月。ISBN 978-4845989782。
*[https://www.city.chino.lg.jp/ 茅野市公式サイト]→茅野市魅力発信サイト
* 田中眞澄編『全日記・小津安二郎』フィルムアート社、1993年12月。ISBN 978-4845993215。
* 田中真澄編『小津安二郎「東京物語」ほか』[[みすず書房]]〈大人の本棚〉、2001年12月。ISBN 978-4622048220。
* 井上和男編『小津安二郎全集』上下巻+別巻、[[新書館]]、2003年4月。ISBN 978-4403150012。
* 『小津安二郎 僕はトウフ屋だからトウフしか作らない』[[日本図書センター]]〈人生のエッセイ〉、2010年5月。ISBN 978-4284700382。
* 「蓼科日記」刊行会編『蓼科日記 抄』小学館スクウェア、2013年7月。ISBN 978-4797981186。
*『人と物3 小津安二郎』[[無印良品]]〈MUJI BOOKS文庫〉、2017年6月。ISBN 978-4909098023。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
{{Reflist|2}}


== 参考文献・映像 ==
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書 |author1=[[厚田雄春]] |author2=[[蓮實重彦]] |date=1989-6 |title=小津安二郎物語 |series=リュミエール叢書 |publisher=[[筑摩書房]] |isbn=978-4480871633 |ref={{Harvid|厚田|蓮實|1989}}}}
=== 研究・資料 ===
* {{Cite book |和書 |author=佐藤忠男 |date=1995-03 |title=日本映画史 |volume=1 |publisher=岩波 |isbn=4000037854 |ref={{SfnRef|佐藤|1995}} }}
* {{Citation|和書 |editor=[[井上和]] |date=2003-4 |title=小津安二郎全集 |publisher=[[新館]] |isbn=978-4403150012 |ref={{Harvid|全集(上)|2003}}}}
* {{Citation|和書|author=[[千葉伸夫]]|translator=|year=2003|title=小津安二郎と20世紀|publisher=刊行会|isbn=978-4336046079}}
* {{Citation|和書 |editor=井上和男 |date=2003-4 |title=小津安二郎全集 下 |publisher=|isbn=978-4403150012 |ref={{Harvid|全集(下)|2003}}}}
* {{Citation|和書|author=古賀重樹|translator=|year=2010|title=1秒24コマの美〜黒澤明・小津安二郎・溝口健二|publisher=日本経済新聞出版社|isbn=978-4532167639}}
* {{Cite book|和書 |author=[[貴田庄]] |date=1999-5 |title=小津安二郎のまなざし |publisher=[[晶文]] |isbn=978-4794963949 |ref={{Harvid|貴田|1999}}}}
* {{Citation|和書|author=松竹株式会社|translator=|year=1993|title=小津安二郎新発見|publisher=講談社|isbn=978-4062566803}}講談社+α文庫、2002年
* {{Citation|和書 |editor=キネマ旬報編集部 |date=1989-12 |title=小津安二郎集成 |publisher=[[キネマ旬報]] |isbn=978-4873760391 |ref={{Harvid|集成|1989}}}}
* {{Citation|和書|author=吉田喜重|translator=|year=1998|title=小津安二郎の反映画|publisher=岩波書店|isbn=978-4006021870}}岩波現代文庫、2011年
* {{Citation|和書 |editor=キネマ旬報編集部 |date=1993-10 |title=小津安二郎集成Ⅱ |publisher=キネマ旬報社 |isbn=978-4873760629 |ref={{Harvid|集成2|1993}}}}
* {{Citation|和書|author=升本喜年|translator=|year=2013|title=小津も絹代も寅さんも 城戸四のキネマの天地|publisher=新潮社|isbn=978-4103333210}}
* {{Cite book|和書 |author=古賀重樹 |date=2010-11 |title=1秒24コマの美 黒澤明・小津安二・溝口健二 |publisher=日本経済聞出版 |isbn=978-4532167639 |ref={{Harvid|古賀|2010}}}}
* {{Cite book |和書 |author=[[佐藤忠男]] |date=1995-3 |title=日本映画史1 1896-1940 |edition=増補版 |publisher=[[岩波書店]] |isbn=978-4000037853 |ref={{Harvid|佐藤|1995}} }}
* {{Cite book|和書 |author=佐藤忠男 |date=1996-11 |title=日本映画の巨匠たちⅡ |publisher=[[学陽書房]] |isbn=978-4313874022 |ref={{Harvid|佐藤|1996}}}}
* {{Cite book|和書 |author=佐藤忠男 |date=2000-9 |title=完本 小津安二郎の芸術 |series=朝日文庫 |publisher=[[朝日新聞社]] |isbn=978-4022642509 |ref={{Harvid|佐藤|2000}}}}
* {{Citation|和書 |editor=松竹 |date=1993-9 |title=小津安二郎新発見 |publisher=[[講談社]] |isbn=978-4062066815 |ref={{Harvid|松竹|1993}}}}
* {{Citation|和書 |editor=松竹映像版権室 |date=2003-11 |title=小津安二郎映畫読本 「東京」そして「家族」 |publisher=フィルムアート社 |isbn=978-4845903559 |ref={{Harvid|映畫読本|2003}}}}
* {{Citation|和書 |editor=[[田中眞澄]] |date=1987-5 |title=小津安二郎全発言 1933~1945 |publisher=[[泰流社]] |isbn=978-4884705893 |ref={{Harvid|全発言|1987}}}}
* {{Citation|和書 |editor=田中眞澄 |date=1989-5 |title=小津安二郎戦後語録集成 昭和21(1946)年~昭和38(1963)年 |publisher=フィルムアート社 |isbn=978-4845989782 |ref={{Harvid|戦後語録集成|1989}}}}
* {{Cite book|和書 |author=田中眞澄 |date=2003-7 |title=小津安二郎周游|publisher=[[文藝春秋]] |isbn=978-4163651705 |ref={{Harvid|田中|2003}}}}
* {{Cite book|和書 |author=[[千葉伸夫]] |date=2003-12 |title=小津安二郎と20世紀 |publisher=[[国書刊行会]] |isbn=978-4336046079 |ref={{Harvid|千葉|2003}}}}
* {{Cite book|和書 |author=中村博男 |date=2000-10 |title=若き日の小津安二郎 |publisher=キネマ旬報社 |isbn=978-4873762357 |ref={{Harvid|中村|2000}}}}
* {{Cite book|和書 |author=蓮實重彦 |date=2003-10 |title=監督小津安二郎 |edition=増補決定版 |publisher=筑摩書房 |isbn=978-4480873415 |ref={{Harvid|蓮實|2003}}}}
* {{Cite book|和書 |author1=蓮實重彦 |author2=[[山根貞男]] |author3=[[吉田喜重]] |date=2004-6 |title=国際シンポジウム 小津安二郎 生誕100年記念「OZU 2003」の記録 |publisher=朝日新聞社 |isbn=978-4022598530 |ref={{Harvid|シンポジウム|2004}}}}
* {{Citation|和書 |editor=フィルムアート社 |date=1982-6 |title=小津安二郎を読む 古きものの美しい復権 |series=ブック・シネマテーク |publisher=フィルムアート社 |isbn=978-4845982431 |ref={{Harvid|フィルムアート社|1982}}}}
* {{Cite book|和書 |author=デヴィッド・ボードウェル |translator=杉山昭夫|date=2003-6 |title=小津安二郎 映画の詩学 |publisher=[[青土社]] |isbn=978-4791752089 |ref={{Harvid|ボードウェル|2003}}}}
* {{Citation|和書 |editor=[[松浦莞二]]、宮本明子 |date=2019-3 |title=[[小津安二郎 大全]] |publisher=朝日新聞出版 |isbn=978-4022515995 |ref={{Harvid|大全|2019}}}}
** {{Cite journal|和書 |author=松浦莞二 |title=第四章 伝記 小津安二郎 |journal=小津安二郎 大全 |pages=169-276 |ref={{Harvid|伝記|2019}}}}
* {{Cite book|和書 |author=吉田喜重 |date=1998-5 |title=小津安二郎の反映画 |publisher=岩波書店 |isbn=978-4000223614 |ref={{Harvid|吉田|1998}}}}
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* {{Cite book|和書 |author=[[笠智衆]] |date=1991-6 |title=大船日記 小津安二郎先生の思い出 |series= |publisher=[[扶桑社]] |isbn=978-4594007669 |ref={{Harvid|笠|1991}}}}
* {{Cite book|和書 |author=キネマ旬報1964年2月号増刊 |date=1964-2 |title=小津安二郎〈人と芸術〉 |publisher=キネマ旬報社 |isbn= |ref={{Harvid|人と芸術|1964}}}}
* {{Cite book|和書 |author= |date=2012-5 |title=現代映画用語事典 |publisher=キネマ旬報社 |isbn=978-4873763675 |ref={{Harvid|現代映画用語事典|2012}}}}


=== 小津安二郎にする映像作品 ===
=== 関連文献 ===
<!--著者五十音順、初出のみ-->
*『[[生きてはみたけれど 小津安二郎伝]]』(ドキュメンタリー映画)[[井上和男]]監督、出演:[[岸惠子]]・[[司葉子]]・[[淡島千景]]他、1983年・松竹映画(※未DVD化)
* 石坂昌三『小津安二郎と茅ヶ崎館』[[新潮社]]、1995年6月。ISBN 978-4103856023。
*『[[東京画]]』(ドキュメンタリー映画)[[ヴィム・ヴェンダース]]監督、出演:笠智衆・厚田雄春、1985年・西ドイツ・アメリカ合作(DVD・ハピネット ピクチャーズ/1998年10月)
* 井上和男『陽のあたる家 小津安二郎とともに』フィルムアート社、1993年10月。ISBN 978-4845993178。
*『吉田喜重が語る小津安二郎の映画世界』1993年12月・[[NHK教育テレビ]]でにて放送(DVD・ジェネオン エンタテインメント/2005年12月)
* 小津安二郎・人と仕事刊行会編『小津安二郎・人と仕事』蛮友社、1972年8月。
* [[貴田庄]]『小津安二郎の食卓』[[芳賀書店]]、2000年8月。ISBN 978-4826101523。
* 貴田庄『小津安二郎と映画術』[[平凡社]]、2001年8月。ISBN 978-4582282412。
* 貴田庄『監督小津安二郎入門 40のQ&A』朝日新聞社、2003年9月。ISBN 978-4022614285。
* 貴田庄『小津安二郎文壇交遊録』[[中央公論新社]]〈中公新書〉、2006年10月。ISBN 978-4121018687。
* 朱宇正『小津映画の日常 戦争をまたぐ歴史のなかで』名古屋大学出版会、2020年10月。ISBN 978-4815810023。
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* [[高橋治]]『絢爛たる影絵 小津安二郎』文藝春秋、1982年11月。ISBN 978-4163072104。
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* 田中康義『豆腐屋はオカラもつくる 映画監督小津安二郎のこと』龜鳴屋、2018年12月。
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* 田中眞澄『小津ありき 知られざる小津安二郎』[[清流出版]]、2013年7月。ISBN 978-4860294045。
* [[都築政昭]]『小津安二郎日記 無常とたわむれた巨匠』講談社、1993年9月。ISBN 978-4062062398。
* 永井健児『小津安二郎に憑かれた男 美術監督・下河原友雄の生と死』フィルムアート社、1990年4月。ISBN 978-4845990856。
* 中澤千磨夫『小津安二郎 生きる哀しみ』[[PHP研究所]]〈PHP新書〉、2003年10月。ISBN 978-4569630854。
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* [[中村明]]『小津の魔法つかい ことばの粋とユーモア』[[明治書院]]、2007年4月。ISBN 978-4625634000。
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* [[浜野保樹]]『小津安二郎』岩波書店〈岩波新書〉、1993年1月。ISBN 978-4004302650。
* [[前田英樹]]『小津安二郎の家 持続と浸透』[[書肆山田]]、1993年1月。ISBN 978-4879952943。
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* 松岡ひでたか『小津安二郎の俳句 1903-1963』[[河出書房新社]]、2020年3月。ISBN 978-4309028729。
* [[三上真一郎]]『巨匠とチンピラ 小津安二郎との日々』文藝春秋、2001年4月。ISBN 978-4163573809。
* [[山内静夫 (映画プロデューサー)|山内静夫]]『松竹大船撮影所覚え書 小津安二郎監督との日々』[[かまくら春秋社]]、2003年6月。ISBN 978-4774002330。


== 外部リンク ==
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2021年4月5日 (月) 15:30時点における版

おづ やすじろう
小津 安二郎
小津 安二郎
1951年頃
本名 同じ
別名義 ジェームス・槇[注 1]
生年月日 (1903-12-12) 1903年12月12日
没年月日 (1963-12-12) 1963年12月12日(60歳没)
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市深川区(現在の東京都江東区深川
死没地 日本の旗 日本 東京都文京区湯島
身長 約170 cm[2][3]
職業 映画監督脚本家
ジャンル 映画
活動期間 1927年 - 1963年
主な作品
東京の合唱』(1931年)
大人の見る繪本 生れてはみたけれど』(1932年)
戸田家の兄妹』(1941年)
晩春』(1949年)
麦秋』(1951年)
東京物語』(1953年)
秋刀魚の味』(1962年)
 
受賞
ブルーリボン賞
監督賞
1951年『麦秋』
その他の賞
毎日映画コンクール
監督賞
1949年『晩春』
脚本賞
1949年『晩春』
特別賞
1963年
備考
日本映画監督協会理事長(1955年 - 1963年)
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小津 安二郎(おづ やすじろう、1903年12月12日 - 1963年12月12日)は、日本映画監督脚本家である。日本映画を代表する監督のひとりであり、サイレント映画時代から戦後までの約35年にわたるキャリアの中で、原節子主演の『晩春』(1949年)、『麦秋』(1951年)、『東京物語』(1953年)など54本の作品を監督した。ロー・ポジションによる撮影や厳密な構図などが特徴的な「小津調」と呼ばれる独特の映像世界で、親子関係や家族の解体をテーマとする作品を撮り続けたことで知られ、黒澤明溝口健二と並んで国際的に高く評価されている。1962年には映画人初の日本芸術院会員に選出された。

生涯

生い立ち

1903年12月12日東京市深川区亀住町4番地(現在の東京都江東区深川一丁目)に、父・寅之助と母・あさゑの5人兄妹の次男として生まれた[4][5][6]。兄は2歳上の新一、妹は4歳下の登貴と8歳下の登久、弟は15歳下の信三である[5]。生家の小津新七家は、伊勢松阪出身の伊勢商人である小津与右衛門家の分家にあたる[7]。伊勢商人は江戸に店を出して成功を収めたが、小津与右衛門家も日本橋で海産物肥料問屋の「湯浅屋」を営んでいた[7][8][注 2]。小津新七家はその支配人を代々務めており、五代目小津新七の子である寅之助も18歳で支配人に就いた[7][10]。あさゑはの名家の生まれで、のちに伊勢商人の中條家の養女となった[5][7]。両親は典型的な厳父慈母で、小津は優しくて思いやりのある母を終生まで敬愛した[8]。小津は3歳頃に脳膜炎にかかり、数日間高熱で意識不明の状態となったが、母が「私の命にかえても癒してみせます」と必死に看病したことで一命をとりとめた[13]

1909年、小津は深川区立明治小学校附属幼稚園に入園した。当時は子供を幼稚園に入れる家庭は珍しく、小津はとても裕福で教育熱心な家庭で育ったことがうかがえる[14]。翌1910年には深川区立明治尋常小学校(現在の江東区立明治小学校)に入学した[4]1913年3月、子供を田舎で教育した方がよいという父の教育方針と、当時住民に被害を及ぼしていた深川のセメント粉塵公害による環境悪化のため、一家は小津家の郷里である三重県飯南郡神戸村(現在の松阪市垣鼻785番地に移住した[4][15]。父は湯浅屋支配人の仕事があるため、東京と松阪を往復する生活をした[15]。同年4月、小津は松阪町立第二尋常小学校(現在の松阪市立第二小学校)4年生に転入した[16]。5・6年時の担任によると、当時の小津は円満実直で成績が良く、暇があるとチャンバラごっこをしていたという[17]。やがて小津は自宅近くの映画館「神楽座」で尾上松之助主演の作品を見たのがきっかけで、映画に病みつきとなった[4]

1916年、尋常小学校を卒業した小津は、三重県立第四中学校(現在の三重県立宇治山田高等学校)に入学し、寄宿舎に入った[4]。小津はますます映画に熱を上げ、家族にピクニックに行くと偽って名古屋まで映画を見に行ったこともあった[18]。当時は連続活劇の女優パール・ホワイトのファンで、レックス・イングラムペンリン・スタンロウズ英語版の監督作品を好むなど、アメリカ映画一辺倒だった[18][19]。とくに小津に感銘を与えたのがトーマス・H・インス監督の『シヴィリゼーション』(1917年)で、この作品で映画監督の存在を初めて認識し、監督を志すきっかけを作った[19][20]1920年、学校では男子生徒が下級生の美少年に手紙を送ったという「稚児事件[注 3]」が発生し、小津もこれに関与したとして停学処分を受けた[22]。さらに小津は舎監に睨まれていたため、停学と同時に寄宿舎を追放され、自宅から汽車通学することになった[22]。小津は追放処分を決めた舎監を終生まで嫌悪し、戦後の同窓会でも彼と同席することを拒否した[23][24]。しかし、自宅通学に変わったおかげで外出が自由になり、映画見物には好都合となった[22]。この頃には校則を破ることが何度もあり、操行の成績は最低の評価しかもらえなくなったため、学友たちから卒業できないだろうと思われていた[25][26]

1921年3月、小津は何とか中学校を卒業することができ、両親の命令で兄の通う神戸高等商業学校を受験したが、合格する気はあまりなく、神戸大阪で映画見物を楽しんだ[27][28]名古屋高等商業学校も受験したが、どちらとも不合格となり、浪人生活に突入した[4]。それでも映画に没頭し、7月には知人らと映画研究会「エジプトクラブ」を設立し、憧れのパール・ホワイトなどのハリウッド俳優の住所を調べて手紙を送ったり、映画のプログラムを蒐集したりした[29]。翌1922年に再び受験の時期が来ると、三重県師範学校を受験したが不合格となり、飯南郡宮前村(現在の松阪市飯高町)の宮前尋常高等小学校に代用教員として赴任した[30]。宮前村は松阪から約30キロの山奥にあり、小津は学校のすぐ近くに下宿したが、休みの日は映画を見に松阪へ帰っていたという[31][32]。小津は5年生男子48人の組を受け持ち、児童に当時では珍しいローマ字を教えたり、教室で活劇の話をして喜ばせたりしていた[31]。また、下宿で児童たちにマンドリンを弾き聞かせたり、下駄のまま児童を連れて標高1000メートル以上の局ヶ岳を登頂したりしたこともあった[33]

映画界入り

1923年1月、一家は小津と女学校に通う妹の登貴を残して上京し、東京市深川区和倉町に引っ越した[4]。3月に小津は登貴が女学校を卒業したのを機に、代用教員を辞めて2人で上京し、和倉町の家に合流して家族全員が顔を揃えた[34]。小津は映画会社への就職を希望したが、映画批評家の佐藤忠男曰く「当時の映画は若者を堕落させる娯楽と考えられ、職業としては軽蔑されていた」ため父は反対した[34][35]。しかし、母の異母弟の中條幸吉が松竹に土地を貸していたことから、その伝手で8月に松竹キネマ蒲田撮影所に入社した[34]。小津は監督志望だったが、演出部に空きがなかったため、撮影部助手となった[36]。入社直後の9月1日、小津は撮影所で関東大震災に遭遇した。和倉町の家は焼失したが、家族は全員無事だった[37]。震災後に本家が湯浅屋を廃業したことで、父は亀住町の店跡を店舗兼住宅に新築し、新たに「小津地所部」の看板を出して、本家が所有する土地や貸家の管理を引き受けた[38][39]。松竹本社と蒲田撮影所も震災で被害を受け、スタッフの多くは京都の下加茂撮影所に移転した[39]。蒲田には島津保次郎監督組が居残り、小津も居残り組として碧川道夫の撮影助手を務めた[40]

1924年3月に蒲田撮影所が再開すると、小津は酒井宏の撮影助手として牛原虚彦監督組についた[41][42]。小津は重いカメラを担ぐ仕事にはげみ、ロケーション中に暇があると牛原に矢継ぎ早に質問をした[42]。12月、小津は東京青山近衛歩兵第4連隊一年志願兵として入営し、翌1925年11月に伍長で除隊した[41]。再び撮影助手として働いた小津は、演出部に入れてもらえるよう兄弟子の斎藤寅次郎に頼み込み、1926年に時代劇班の大久保忠素監督のサード助監督となった[43]。この頃に小津はチーフ助監督の斎藤、セカンド助監督の佐々木啓祐、生涯の親友となる清水宏、後に小津作品の編集担当となる撮影部の浜村義康の5人で、撮影所近くの家を借りて共同生活をした[43][44]。小津は大久保のもとで脚本直しと絵コンテ書きを担当したが、大久保は助監督の意見に耳を傾けてくれたため、彼にたくさんのアイデアを提供することができた[36][44][45]。また、大久保はよく撮影現場に来ないことがあり、その時は助監督が代わりに務めたため、小津にとっては大変な勉強になった[36]。小津は後に、大久保のもとについたことが幸運だったと回想している[45]

1927年のある日、撮影を終えて腹をすかした小津は、満員の社員食堂でカレーライスを注文したが、給仕が順番を飛ばして後から来た牛原虚彦のところにカレーを運んだため、これに激昂して給仕に殴りかかろうとした[46]。この騒動は撮影所内に知れ渡り、小津は撮影所長の城戸四郎に呼び出されたが、それが契機で脚本を提出するよう命じられた[47]。城戸は「監督になるには脚本が書けなければならない」と主張していたため、これは事実上の監督昇進の試験だった[36]。小津は早速自作の時代劇『瓦版かちかち山』の脚本を提出し、作品は城戸に気に入られたが、内容が渋いため保留となった[36][47]。8月、小津は「監督ヲ命ズ 但シ時代劇部」の辞令により監督昇進を果たし、初監督作品の時代劇『懺悔の刃』の撮影を始めた[48]。ところが撮影途中に予備役の演習召集を受けたため、撮り残したファーストシーンの撮影を斎藤に託し、9月25日に三重県津市の歩兵第33連隊第7中隊に入隊した[49]。10月に『懺悔の刃』が公開され、除隊した小津も映画館で鑑賞したが、後に「自分の作品のような気がしなかった」と述べている[49][50]

監督初期

非常線の女』(1933年)撮影時の小津。

1927年11月、蒲田時代劇部は下加茂撮影所に合併されたが、小津は蒲田に残り、以後は現代劇の監督として活動することができた[48]。しかし、小津は早く監督になる気がなく、会社からの企画を6、7本断ったあと、ようやく自作のオリジナル脚本で監督2作目の『若人の夢』(1928年)を撮影した[50]。当時の松竹蒲田は城戸の方針で、若手監督に習作の意味を兼ねて添え物用の中・短編喜劇を作らせており、新人監督の小津もそうした作品を立て続けに撮影したが、その多くは学生や会社員が主人公のナンセンス喜劇だった[51][52][53]1928年は5本、1929年は6本、1930年は生涯最高となる7本もの作品を撮り、めまぐるしいほどのスピード製作となった[4][54]。徐々に会社からの信用も高まり、トップスターの栗島すみ子主演の正月映画『結婚学入門』(1930年)の監督を任されるほどになった[55]。『お嬢さん』(1930年)は当時の小津作品にしては豪華スターを配した大作映画となり、初めてキネマ旬報ベスト・テンに選出された(日本・現代映画部門2位)[54][55]

1931年、松竹は土橋式トーキーを採用して、日本初の国産トーキー『マダムと女房』を公開し、それ以来日本映画は次第にトーキーへと移行していったが、小津は1936年までトーキー作品を作ろうとはしなかった[56]。その理由はコンビを組んでいたカメラマンの茂原英雄が独自のトーキー方式を研究していたことから、それを自身初のトーキー作品で使うと約束していたためで、後に小津は日記に「茂原氏とは年来の口約あり、口約果たさんとせば、監督廃業にしかず、それもよし」と書いている[55][57]。小津は茂原式が完成するまでサイレント映画を撮り続け、松竹が採用した土橋式はノイズが大きくて不備があるとして使用しなかった[55]。しかし、サイレント作品のうち5本は、台詞はないが音楽が付いているサウンド版で公開されている[58]

1930年代前半になると、小津は批評家から高い評価を受けることが多くなった。『東京の合唱』(1931年)はキネマ旬報ベスト・テンの3位に選ばれ、佐藤は「これで小津は名実ともに日本映画界の第一級の監督として認められるようになったと言える」と述べている[59]。『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』(1932年)はより高い評価を受け、初めてキネマ旬報ベスト・テンの1位に選ばれた[58]。さらに『出来ごころ』(1933年)と『浮草物語』(1934年)でもベスト・テンの1位に選ばれた[55]1933年9月には後備役として津市の歩兵第33連隊に入営し、毒ガス兵器を扱う特殊教育を受けた[32]。10月に除隊すると京都で師匠の大久保や井上金太郎らと交歓し、井上の紹介で気鋭の新進監督だった山中貞雄と知り合い、やがて二人は深く心を許し合う友となった[32][60]。新しい出会いの一方、1934年4月には父寅之助を亡くした[4]。父が経営した小津地所部の後を継ぐ者はおらず、2年後に家族は深川の家を明け渡すことになり、小津と母と弟の3人で芝区高輪に引っ越した。小津は一家の大黒柱として、家計や弟の学費を背負ったが、この頃が金銭的に最も苦しい時期となった[61]

1935年7月、小津は演習召集のため、再び青山の近衛歩兵第4連隊に3週間ほど入隊した[4]。この年に日本文化を海外に紹介するための記録映画『鏡獅子』(1936年)を撮影し、初めて土橋式によるトーキーを採用した[55][62]1936年3月、小津は日本映画監督協会の結成に加わり、協会を通じて溝口健二内田吐夢田坂具隆などの監督と親しくなった[60]。この年に茂原式トーキーが完成し、小津は約束通り『一人息子』(1936年)で採用することを決め、同年に蒲田から移転した大船撮影所で撮影することを考えたが、松竹が土橋式トーキーと契約していた関係で大船撮影所を使うことができず、誰もいなくなった旧蒲田撮影所で撮影した[63][64][注 4]1937年に土橋式で『淑女は何を忘れたか』を撮影したあと、自身が考えていた原作『愉しき哉保吉君』を内田吐夢に譲り、同年に『限りなき前進』として映画化された[63]。9月には『父ありき』の脚本を書き上げたが、執筆に利用した茅ヶ崎市の旅館「茅ヶ崎館」は、これ以降の作品でもしばしば執筆に利用した[65]

小津と戦争

1937年7月に日中戦争が開始し、8月に親友の山中が応召されたが、小津も『父ありき』脱稿直後の9月10日に召集され、近衛歩兵第2連隊に歩兵伍長として入隊した[63][66]。小津は毒ガス兵器を扱う上海派遣軍司令部直轄・野戦瓦斯第2中隊に配属され、9月27日に上海に上陸した[66]。小津は第三小隊の班長となって各地を転戦し、南京陥落後の12月20日に安徽省滁県に入城した[67]1938年1月12日、上海へ戦友の遺骨を届けるための出張の帰路、南京郊外の句容にいた山中を訪ね、30分程の短い再会の時を過ごした[68]。4月に徐州会戦に参加し、6月には軍曹に昇進し、9月まで南京に駐留した[66]。同月に山中は戦病死し、訃報を知った小津は数日間無言になったという[4]。その後は漢口作戦に参加し、1939年3月には南昌作戦に加わり、修水の渡河作戦で毒ガスを使用した[66]。続いて南昌進撃のため厳しい行軍をするが、小津は「山中の供養だ」と思って歩いた[69]。やがて南昌陥落で作戦は中止し、6月26日には九江で帰還命令が下り、7月13日に日本に帰国、7月16日に召集解除となった[70]

1939年12月、小津は帰還第1作として『彼氏南京へ行く』(後に『お茶漬の味』と改題)の脚本を執筆し、翌1940年に撮影準備を始めたが、内務省の事前検閲で全面改訂を申し渡され、出征前夜に夫婦でお茶漬けを食べるシーンが「赤飯を食べるべきところなのに不真面目」と非難された[71]。結局製作は中止となり、次に『戸田家の兄妹』(1941年)を製作した。これまで小津作品はヒットしないと言われてきたが、この作品は興行的に大成功を収めた[55]。次に応召直前に脚本を完成させていた『父ありき』(1942年)を撮影し、小津作品の常連俳優である笠智衆が初めて主演を務めた[4]。この撮影中に太平洋戦争が開戦し、1942年に陸軍報道部は「大東亜映画」を企画して、大手3社に戦記映画を作らせた。松竹はビルマ作戦を描くことになり、小津が監督に抜擢された[56]。タイトルは『ビルマ作戦 遥かなり父母の国』で脚本もほぼ完成していたが、軍官の求める勇ましい映画ではないため難色を示され、製作中止となった[72]

1943年6月、小津は軍報道部映画班員として南方へ派遣され、主にシンガポールに滞在した[56]。同行者には監督の秋山耕作と脚本家の斎藤良輔がおり、遅れてカメラマンの厚田雄春が合流した[56]。小津たちはインド独立をテーマとした国策映画『デリーへ、デリーへ』を撮ることになり、ペナンスバス・チャンドラ・ボースと会見したり、ジャワでロケを行ったりしたが、戦況が悪化したため撮影中止となった[73]。小津は厚田に後発スタッフが来ないよう電報を打たせたが、電報の配達が遅れたため、後発スタッフは行き違いで日本を出発してしまい、小津は「戦況のよくない洋上で船がやられたらどうするんだ」と激怒した。後発スタッフは何とか無事にシンガポールに到着し、撮影も続行されたが、やがて小津とスタッフ全員に非常召集がかかり、現地の軍に入営することになった[74]。仕事のなくなった小津はテニスや読書をして穏やかに過ごし、夜は報道部の検閲試写室で「映写機の検査」と称して、接収した大量のアメリカ映画を鑑賞した[32][75]。その中には『風と共に去りぬ』『嵐が丘』(1939年)、『怒りの葡萄』『ファンタジア』『レベッカ』(1940年)、『市民ケーン』(1941年)などが含まれており、『ファンタジア』を見た時は「こいつはいけない。相手がわるい。大変な相手とけんかした」と思ったという[76]

1945年8月15日にシンガポールで敗戦を迎えると、『デリーと、デリーへ』のフィルムと脚本を焼却処分し、映画班員とともにイギリス軍の監視下にあるジュロンの民間人収容所に入り、しばらく抑留生活を送った[4][77]。小津は南方へ派遣されてからも松竹から給与を受け取っていたため、軍属ではなく民間人として扱われ、軍の収容所入りを免れていた[78]。抑留中はゴム林での労働に従事し、収容所内での日本人向け新聞「自由通信」の編集もしていた[77]。暇をみてはスタッフと連句を詠んでいたが、小津は後に「連句の構成は映画のモンタージュと共通するものがあり、とても勉強になった」と回想している[76]。同年12月、第一次引き揚げ船で帰国できることになり、スタッフの人数が定員を上回っていたため、クジ引きで帰還者を決めることにした。小津はクジに当たったが、「俺は後でいいよ」と妻子のあるスタッフに譲り、映画班の責任者として他のスタッフの帰還が終わるまで残留した[77]。翌1946年2月に小津も帰還し、12日に広島県大竹に上陸した[4]

戦後の活躍

晩春』(1949年)のポスター。

日本に帰還した小津は、焼け残った高輪の自宅に行くが誰もおらず、妹の登久の嫁ぎ先である千葉県野田町(現在の野田市)に疎開していた母のもとへ行き、やがて小津も野田町内の借家に移住した[79]1947年に戦後第1作となる『長屋紳士録』を撮影したが、撮影中は千葉から通うわけにはいかず、撮影所内の監督室で寝泊まりするようになった[71]。この頃に撮影所前の食堂「月ヶ瀬」の主人の姪である杉戸益子(後に中井麻素子)と親しくなり、以後彼女は小津の私設秘書のような存在となった[80][81]。益子は1957年に小津と木下惠介の独身監督の媒酌で佐田啓二と結婚し、後に中井貴恵貴一をもうけた[79]。小津は佐田夫妻と親子同然の間柄となり、亡くなるまで親密な関係が続いた[80][81]

1948年には新作『月は上りぬ』の脚本を書き上げ、東宝専属の高峰秀子を主演に予定したが、交渉が難航したため製作延期となり、代わりに『風の中の牝雞』を撮影した[82]。この作品は小津が畏敬した志賀直哉の『暗夜行路』をモチーフにしていると目されているが、あまり評判は良くなく、小津自身も失敗作だと認めている[50][71]。デビュー作からコンビを組んできた脚本家の野田高梧も作品を批判し、それを素直に認めた小津は、次作の『晩春』(1949年)からの全作品の脚本を野田と共同執筆した[83]。『晩春』は広津和郎の短編小説『父と娘』が原作で、娘の結婚というテーマを茶の湯など日本の伝統的な情景の中で描いた。また、原節子を主演に迎え、小津調と呼ばれる独自の作風の基調を示すなど、戦後の小津作品のマイルストーンとなった[52][84]。作品はキネマ旬報ベスト・テンで1位に選ばれ、毎日映画コンクールの日本映画大賞を受賞した[4]

次作の『宗方姉妹』(1950年)は新東宝製作で、初の他社作品となった[71]。当時の日本映画の最高記録となる約5000万円もの製作費が投じられたが、この年の洋画を含む興行配収1位になる大ヒット作となった[85]1951年には『麦秋』を監督し、再びキネマ旬報ベスト・テン1位と毎日映画コンクール日本映画大賞に選ばれた[4]1952年1月、松竹大船撮影所の事務所本館が全焼し、小津が撮影中に寝泊まりしていた監督室も焼けたため、5月に母を連れて北鎌倉の山ノ内に転居し、そこを終の棲家とした[86]。この年に戦前に検閲で撥ねられた『お茶漬の味』を撮影し、1953年には小津の最高傑作のひとつに位置付けられている『東京物語』を撮影した[87]。同年9月、松竹を含む5つの映画会社は、同年に製作再開した日活による監督や俳優の引き抜きを防ぐために五社協定を締結し、それにより小津は松竹の専属契約者となった[4][87]

1954年、戦後長らく映画化が実現できずにいた『月は上りぬ』が、日本映画監督協会の企画作品として日活が製作し、小津の推薦で田中絹代が監督することに決まった[88]。小津は他社作品ながら脚本を提供し、スポンサーと交渉するなど精力的に協力したが、日活は俳優の引き抜きをめぐり大映など五社と激しく対立していたため製作は難航した[89][90][注 5]。小津は監督協会代表者として日活との交渉に奔走し、田中を監督に推薦した責任上、彼女と同じ立場に身を置くため、9月8日に松竹と契約更新をせずにフリーとなった[32][90]。やがて作品は監督協会が製作も行い、配給のみ日活に委託することになり、キャスティングに難航しながらも何とか完成に漕ぎつけ、1955年1月に公開された[88]。小津はこの作品をめぐる問題処理にあたったこともあり、同年10月に監督協会の理事長に就任した[90]

小津はフリーの立場で松竹製作の『早春』(1956年)を撮影したあと、1956年2月に松竹と年1本の再契約を結び、以後は1年ごとに契約を更新した[91]。小津は次回作として、戦前に映画化された『愉しき哉保吉君』を自らの手でリメイクすることにしたが、内容が暗いため中止した[32]。6月からは長野県蓼科にある野田の別荘「雲呼荘」に滞在し、その土地を気に入った小津は雲呼荘近くにある片倉製糸の別荘を借り、「無藝荘」と名付けた[91]。次作の『東京暮色』(1957年)からは蓼科の別荘で脚本を執筆するようになり、無藝荘は東京から来た客人をもてなす迎賓館のような役割を果たした[83][91]1957年には『浮草物語』をリメイクした『大根役者』の脚本を書き上げ、新潟県ロケーション・ハンティングも敢行したが、ロケ先が雪不足のため撮影延期となった[71]

カラー映画時代

1950年代に日本映画界ではカラー化、ワイドスクリーン化が進んでいたが、小津はトーキーへの移行の時と同じように、新しい技術には慎重な姿勢を見せた[92]。ワイドスクリーンについては「何だかあのサイズは郵便箱の中から外をのぞいているような感じでゾッとしない[93]」「四畳半に住む日本人の生活を描くには適さない[94]」などと言って導入せず、亡くなるまで従来通りのスタンダードサイズを貫いた[92]。一方、カラーについては自分が望む色彩の再現がうまくいくどうか不安に感じていたが、戦後の小津作品のカメラマンの厚田雄春によると、『東京物語』頃からカラーで撮る可能性が出ていて、いろいろ研究を始めていたという[95][96]1958年、小津は『彼岸花』を撮るにあたり、会社からカラーで撮るよう命じられたため、厚田の助言を受け入れて、色調が渋くて小津が好むの発色が良いアグファカラー英語版を採用した[50][96]。この作品以降は全作品をアグファカラーで撮影した[95]

小津作品初のカラー映画となった『彼岸花』は、大映から山本富士子を借りるなどスターを並べたのが功を奏して、この年の松竹作品の興行配収1位となり、小津作品としても過去最高の興行成績を記録した[71][97]1959年2月には映画関係者で初めて日本芸術院賞を受賞した[4]。この年は『お早よう』を撮影したあと、大映から『大根役者』を映画化する話が持ち上がり、これを『浮草』と改題して撮影した[71]1960年には松竹で『秋日和』を撮影したが、主演に東宝から原節子と司葉子を借りてきたため、その代わりに東宝で1本作品を撮ることになり、翌1961年に東宝系列の宝塚映画で『小早川家の秋』を撮影した[85]

1962年2月4日、最愛の母あさゑが86歳で亡くなった[4]。この年に最後の監督作品となった『秋刀魚の味』を撮影し、11月に映画人で初めて日本芸術院会員に選出された[98]1963年には次回作として『大根と人参』の構想を進めたが、この脚本は小津の病気により執筆されることはなく、ついに亡くなるまで製作は実現しなかった[56][85][99]。『大根と人参』は小津没後に渋谷実が構想ノートをもとに映画化し、1965年に同じタイトルで公開した[85]。小津の最後の仕事となったのは、日本映画監督協会プロダクションが製作するいすゞ自動車の宣伝映画『私のベレット』(1964年)の脚本監修だった[99]

闘病と死去

鎌倉市円覚寺にある小津安二郎の墓。

1963年4月、小津は数日前にできた右頸部悪性腫瘍のため国立がんセンターに入院し、手術を受けた[99]。手術後は患部にコバルトラジウムの針を刺す治療を受け、「そのへんに、オノか何かあったら、自殺したかったよ」と口を漏らすほど痛みに苦しんだ[100]。7月に退院すると湯河原で療養したが、右手のしびれが痛みとなり、月末に帰宅してからは寝たきりの生活を送った[99][100]。9月にがんセンターは佐田啓二など親しい人たちに、小津が癌であることを通告した[99]。小津の痛みは増すばかりで、好物の食べ物も食べられないほどになっていた[100]。10月には東京医科歯科大学医学部附属病院に再入院したが、11月に白血球不足による呼吸困難のため、気管支の切開手術をしてゴム管をはめた。そのせいで発声もほとんどできなくなり、壁にイロハを書いた紙を貼り、文字を指して意思疎通をした[4][99]

12月11日、小津の容態が悪化し、佐田が駆けつけると死相があらわれていた[100]。そして12月12日午後12時40分、小津は還暦を迎えた当日に死去した[99]。翌日の通夜には、すでに女優を引退していた原節子が駆けつけた[101]。12月16日、松竹と日本映画監督協会による合同葬が築地本願寺で行われ、城戸が葬儀委員長を務めた[4]。生前に小津は松竹から金を借りており、会社は香典で借金を回収しようとしたが、葬儀委員を務めた井上和男により止められた[4][99]。墓は北鎌倉の円覚寺につくられ、墓石には朝比奈宗源の筆による「無」の一文字が記された[99]

作風

性に合わないんだ。ぼくの生活条件として、なんでもないことは流行に従う。重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従うから、どうにもきらいなものはどうにもならないんだ。だから、これは不自然だということは百も承知で、しかもぼくは嫌いなんだ。そういうことはあるでしょう。嫌いなんだが、理屈にあわない。理屈にあわないんだが、嫌いだからやらない。こういう所からぼくの個性が出てくるので、ゆるがせにはできない。理屈にあわなくともぼくはそれをやる。
映画の文法的技法を使わないことに対する小津の発言[102]

小津は他の監督と明確に異なる独自の作風を持つことで知られ、それは「小津調」と呼ばれた。映画批評家の佐藤忠男は「小津の映画を何本か見て、その演出の特徴を覚えた観客は、予備知識抜きでいきなり途中からフィルムを見せられても、それが小津安二郎の作品であるかをほぼ確実に当てることができるだろう」と述べている[103]。小津調の特徴的なスタイルとして、ロー・ポジションで撮影したこと、極力カメラを固定したこと、人物や小道具を相似形に配置したこと、小道具や人物の配置に特別な注意を払ったこと、ディゾルブ英語版フェードなどの文法的技法を排したことなどが挙げられる。そのほかにもアメリカ映画の影響を受けたことや、同じテーマ・同じスタッフとキャストを扱ったことなども、小津作品の特徴的な作風に挙げられる。

アメリカ映画の影響

非常線の女』(1933年)はアメリカのギャング映画を彷彿とさせる作品である[104]

戦後の小津は伝統的な日本の家庭生活を描くことが多かったが、若き日の小津は舶来品の服装や持物を愛好するモダンボーイで、1930年代半ばまでは自身が傾倒するアメリカ映画(とくに小津が好んだエルンスト・ルビッチキング・ヴィダーウィリアム・A・ウェルマンの作品)の影響を強く受けた、ハイカラ趣味のあるモダンでスマートな作品を撮っている[104][105][106][107]。例えば、『非常線の女』(1933年)はギャング映画の影響が色濃く見られ、画面に写るものはダンスホールやボクシング、ビリヤード、洋式のアパートなどの西洋的なものばかりというバタ臭い作品だった[104][107]。また、『大学は出たけれど』(1929年)と『落第はしたけれど』(1930年)はハロルド・ロイド主演の喜劇映画、『結婚学入門』『淑女は何を忘れたか』はルビッチの都会的なソフィスティケイテッド・コメディからそれぞれ影響を受けている[52][85]。小津のアメリカ映画への傾倒ぶりは、初期作品に必ずと言っていいほどアメリカ映画の英語ポスターが登場することからもうかがえる[85][106]

戦前期の小津作品には、アメリカ映画を下敷きにしたものが多い。デビュー作である『懺悔の刃』のストーリーの大筋はジョージ・フィッツモーリス英語版監督の『キック・イン英語版』(1922年)を下敷きにしており、ほかにもフランス映画の『レ・ミゼラブルフランス語版』(1925年)と、ジョン・フォード監督の『豪雨の一夜英語版』(1923年)からも一部を借用している。また、『出来ごころ』はヴィダーの『チャンプ英語版』(1931年)、『浮草物語』はフィッツモーリスの『煩悩英語版』(1928年)、『戸田家の兄妹』はヘンリー・キング監督の『オーバー・ザ・ヒル英語版』(1931年)をそれぞれ下敷きにしている[85]

佐藤忠男は、小津がアメリカ映画から学び取った最大のものはソフィスティケーション、言い換えれば現実に存在する汚いものや野暮ったいものを注意深く取り去り、きれいでスマートなものだけを画面に残すというやり方だったと指摘している[108]。実際に小津は自分が気に入らないものや美しいと思われないものを、画面から徹底的に排除した[109]。例えば、終戦直後の作品でも焼け跡の風景や軍服を着た人物は登場せず、若者はいつも身ぎれいな恰好をしている[109]。小津自身も「私は画面を清潔な感じにしようと努める。なるほど汚いものを取り上げる必要のあることもあった。しかし、それと画面の清潔・不潔とは違うことである。現実を、その通りに取上げて、それで汚い物が汚らしく感じられることは好ましくない。映画では、それが美しく取上げられていなくてはならない」と述べている[110]

テーマ

初期の小津作品には、昭和初期の不況を反映した社会的なテーマを持つ作品が存在する[52][111]。『大学は出たけれど』では不況による学生の就職難を描き、タイトルは当時の世相を表す言葉として定着した[112]。『落第はしたけれど』では大学を卒業して就職難になるよりも、落第した方が学生生活を楽しめて幸福だという風刺を利かしている[85][52]。『会社員生活』(1929年)と『東京の合唱』では失業したサラリーマンを主人公にして、その暗くて不安定な生活と悲哀をユーモラスの中に描いている[111][113]。こうした作品は不況下の小市民社会の生活感情をテーマにした「小市民映画」のひとつに位置付けられている[111][114]。小津のもうひとつの小市民映画『生れてはみたけれど』では、子供の視点から不景気時代のサラリーマンの卑屈さを辛辣に描き、そのジャンルの頂点に達する傑作と目されている[113][115]。『東京の宿』(1935年)や『大学よいとこ』『一人息子』(1936年)でも不景気による失業や就職難を扱い、内容はより暗くて深刻なものになった[52][116]

小津は生涯を通して家族を題材にとり、親と子の関係や家族の解体などのテーマを描いた[117][118][119]。映画批評家の小倉真美は、小津を「一貫して親子の関係を追究してきた作家」と呼び[119]ドナルド・リチーは「主要なテーマとしては家庭の崩壊しか扱わなかった」と述べている[118]。家族の解体に関しては、娘の結婚による親子の別れや、母や父などの死がモチーフとなることが多い[92][118]。また、小津作品に登場する家族は構成員が欠けている場合が多く、誰かが欠けている家族が娘の結婚や肉親の死でさらに欠けていくさまが描かれている[85]。『晩春』以降はブルジョワ家庭を舞台に、父娘または母娘の関係や娘の結婚を繰り返し描き、遺作まで同じようなテーマとプロットを採用した[92][103][117][120]。同じテーマだけでなく同じスタイルにも固執したため、批評家からはしばしば「進歩がない」「いつも同じ」と批判されたが、これに対して小津は自身を「豆腐屋」に例え[103][121]、「豆腐屋にカレーだのとんかつ作れったって、うまいものが出来るはずがない[121]」「僕は豆腐屋だ。せいぜいガンモドキしか作れぬ。トンカツやビフテキはその専門の人々に任せる[122]」などと発言した。

製作方法

脚本

小津は自ら脚本作りに参加し、ほとんどの作品には共作者がいた。サイレント映画時代は原作者や潤色者として脚本作りに参加し、その際に「ジェームス・槇[注 1]」というペンネームを多用した[1]。この名前は小津とその共作者の池田忠雄伏見晁北村小松との共同ペンネームとして考案されたが、誰も使わなかったため小津専用の名前になり、11本の作品でクレジットされている[50][55]。他にも『突貫小僧』(1929年)で「野津忠二[注 6]」、『生れてはみたけれど』で「燻屋鯨兵衛」というペンネームを使い、さらに『東京の女』(1933年)の「エルンスト・シュワルツ」、『東京の宿』の「ウィンザァト・モネ」のように、原作者として冗談めかした外国人名を名乗ったこともあった[55][1][注 7]。当時の共同執筆について、池田忠雄は自分が下書きをし、小津がそれを手直しすることが多かったと述べている[124]。伏見晁によると、小津はシーンの構成から会話の細部に至るまで全面的に手を入れたため、伏見が書いた脚本でも完成時には小津のものに換骨奪胎されたという[55]

『晩春』からの全作品は野田高梧とともに脚本を書き、野田は小津の女房役ともいえる存在となった[125]。2人は旅館や別荘に籠もり、じっくりと時間をかけて脚本を書いた[36][92][126]。小津と野田はうまが合い、酒の量や寝起きの時間も同じで、セリフの言葉尻を「わ」にするか「よ」にするかまで意見が一致したため、コンビを組んで仕事をするにはとても都合が良かったという[36][50]。脚本作りではストーリーよりも登場人物を優先し、俳優の個性に基づいて配役を選び、それを念頭において登場人物の性格とセリフを作った[127]。映画評論家の貴田庄が「小津の脚本書きは、頭の中で映画を撮りながら書くことと等しかった」と述べたように、小津は頭の中でコンティニュイティを考えながら脚本を書いたため、やむを得ない状況を除いて脚本が変更されることはなかった[126]

撮影

東京物語』(1953年)を撮影中の小津(最右の白いピケ帽を被った人物)と原節子

小津はロケーション・ハンティングを入念に行い、撮影する場所を厳密に定めた[128]。屋外シーンのほとんどはロケーションだが、オープンセットを使うことは滅多になく、室内シーンをはじめ飲み屋街や宿屋のシーンなどもスタジオ内のステージセットで撮影した[129]。撮影にあたっては、1ショットごとにイメージ通りの映像になるよう、自分でカメラのファインダーを覗きながら、画面上の人物や小道具の位置をミリ単位で決めた[128][130]。スタッフに位置を指示する時は、「大船へ10センチ」「もう少し鎌倉寄り」というように、大船撮影所近くの地名や駅名を用いて方角を伝えた[131]

佐藤が小津のことを「構図至上主義者」と呼んだように、小津は何よりも1つ1つのショットの構図の美しさを重視し、小道具の位置だけでなく形や色に至るまで細心の注意を払った[132][133]。助監督を務めた篠田正浩によると、畳のへりの黒い線が、画面の中を広く交錯しているように見えて目障りだとして、線を消すためだけに誰も使わない座布団を置いたという[134]。それぞれのショットの構図を優先するため、同じシーンでもショットが変わるたびに俳優や小道具の位置を変えてしまうこともあった[132][135]。これではショット間のつながりがなくなってしまうが、篠田がそれを小津に指摘すると「みんな、そんなことに気付くもんか」と言い、篠田も試写を見ると違和感がなかったという[136]

画面上の小道具や衣装は小津自身が選び、自宅にある私物を持ち込むこともあった[85][128][137]。茶碗や花器などの美術品は、美術商から取り寄せた本物を使用し、カラー作品では有名画家の実物の絵画を使用した[96][138][139]。例えば、『秋日和』では梅原龍三郎の薔薇の絵、山口蓬春の椿の絵、高山辰雄の風景画、橋本明治の武神像図、東山魁夷の風景画を背景に飾っている[139]。本物を使うことに関して小津は「床の間の軸や置きものが、筋の通った品物だと、いわゆる小道具のマガイ物を持ち出したのと第一私の気持が変って来る…人間の眼はごまかせてもキャメラの眼はごまかせない。ホンモノはよく写るものである」と述べている[36]。また、赤を好む小津は、画面の中に赤色の小道具を入れることが多く、カラー作品では赤色のやかんがよく写っていることが指摘されている[140]

演技指導

小津は俳優の動きや視線、テンポに至るまで、演技のすべてが自分のイメージした通りになることを求めた[141]。小津は自ら身振り手振りをしたり、セリフの口調やイントネーション、間のとり方までを実際に演じてみせたりして、俳優に厳密に演技を指導したが、笠智衆は小津が「ヒッチコックのように自分の作品に出演したら、大変な名演技だったろう」と述べている[142]。演技の指示は「そこで三歩歩いて止まる[128]」「紅茶をスプーンで2回半かき回して顔を左の方へ動かす[143]」「手に持ったお盆の位置を右に2センチ、上に5センチ高くして[137]」という具合に細かく、俳優はその指示通りに動いたため[128]、飯田蝶子は「役者は操り人形みたいなもの」だったと述べている[144]

構図を重要視した小津は、演技も構図にはまるようなものを求めた[142]。『長屋紳士録』で易者を演じた笠智衆によると、机の上の手相図に筆で書き込むというシーンで、普通に筆を使うと頭が下がってしまうが、小津は頭が動くことで構図が崩れてしまうのを避けるため、頭の位置を動かさずに演じるよう指示し、笠が「そりゃちょっと不自然じゃないですか」と抗議したところ、小津は「君の演技より映画の構図のほうが大事なんだよ」と言い放ったという[142][145]

小津は自分がイメージした通りになるまで、俳優に何度も演技をやり直させ、1つのアクションでOKが出るまでに何十回もテストを重ねることもあった[137][141]淡島千景は『麦秋』で原節子と会話するシーンにおいて、原と同じタイミングでコップを置いてからセリフを発し、原の方を向くという演技が上手くいかず、小津に「目が早いよ」「手が遅いよ」「首が行き過ぎだよ」と言われてNGを出し続け、20数回までは数えたが、その後は数え切れなくてやめたほどだったという[146]岩下志麻は『秋刀魚の味』で巻尺を手で回すシーンにおいて、巻尺を右に何回か回してから瞬きをして、次に左に何回か回してため息をつくという細かい注文が出されたが、何度やってもOKが出ず、小津に「もう一回」「もう一回」と言われ続け、80回ぐらいまでNGを数えたという[147]

小津組

『東京物語』に主演した原節子笠智衆は、小津作品の常連俳優として知られる。

小津は同じスタッフやキャストと仕事をすることが多く、彼らは「小津組」と呼ばれた[125]。小津組の主な人物と参加本数は以下の通りである(スタッフは3本以上、キャストは5本以上の参加者のみ記述)[148]

映像スタイル

ロー・ポジション

小津のよく知られた映像手法として、カメラを低い位置に据えて撮影する「ロー・ポジション」が挙げられる[150][151][152]。ロー・ポジションの意味については、「畳に座ったときの目の高さ」「子供から見た視線」「客席から舞台を見上げる視点」など諸説ある[153]。小津自身は日本間の構図に安定感を求めた結果、ロー・ポジションを採用したと述べている[154][153]。厚田雄春は、標準のカメラ位置で日本間を撮影すると、畳のへりが目について映像が締まりにくくなるため、それが目立たないようロー・ポジションを用いたと述べている[150][153]。小津が初めてカメラ位置を低くしたのは『肉体美』(1928年)で、その理由はセット撮影で床の上が電気コードだらけになり、いちいち片付けたり、映らないようにしたりする手間を省こうとしたためで、床が映らないようカメラ位置を低くするとその構図に手応えを感じ、それからはカメラの位置が段々低くなったという[36]。ロー・ポジションで撮影するときは、「お釜の蓋」と名付けた特製の低い三脚を使用し、柱や障子などの縦の直線が歪むのを避けるために50ミリレンズを使用した[36][155]

小津が「ロー・アングルを使用した」と言われることもあるが、ロー・アングルはカメラの位置ではなくアングルについて定義する言葉であり、その言葉の曖昧な使用がそのまま普及したものである[151]。映画批評家のデヴィッド・ボードウェルは、「小津のカメラが低く見えるのはそのアングルのためではなく、その位置のためである」と指摘している[156]。ロー・アングルはカメラアングルを仰角にして、低い視点から見上げるようにして撮影することを意味するが、小津作品ではカメラアングルを数度だけ上に傾けることはあっても、ほとんど水平を保っている[151][152][156]。また、カメラ位置は特定の高さに固定したわけではなく、撮影対象に合わせて高さを変え、その高さに関わらず水平のアングルに構えた[151][152][156]。例えば、日本間ではちゃぶ台の少し上の高さにカメラを置いたが、テーブルや事務机のシーンではカメラをその高さに上げている[151]。ボードウェルは「小津のカメラ位置は絶対的なものではなく相対的なものであり、常に撮影する対象よりも低いが、対象の高さとの関係で変化する」と指摘している[156]

移動撮影

『晩春』で原節子たちがサイクリングをするシーンでは、移動撮影とパンが用いられている[157]

小津は移動撮影をほとんど使わず、できるだけカメラを固定して撮影した[158][159]。晩年に小津は移動撮影を「一種のごまかしの術で、映画の公式的な技術ではない」と否定したが[102]、初期作品では積極的に使用しており、『生れてはみたけれど』では43回も使われている[158]。やがて表現上の必然性がある場合を除くと使うのをやめ、とくに表面的な効果を出したり、映画的話法として使用したりすることはほとんどなくなり、トーキー作品以後は1本あたりの使用回数が大きく減った[158]。現存作品の中では『父ありき』と『東京暮色』とカラー時代の全作品において、全てのシーンが固定カメラで撮影されている[160]。また、パンの使用もごく数本に限定されている[161]

後年の小津作品における移動撮影は、カメラを動かしてもショット内の構図が変化しないように撮られている[157][162]。例えば、屋外で2人の人物が会話をしながら歩くシーンでは、移動しても背景が変化しない場所(長い塀や並木道など)を選んで、他の通行人を画面に登場させないようにし、人物が歩くのと同じスピードでカメラを移動させた[157][162]。貴田はこうした移動撮影が「静止したショットのように見える」と述べている[162]。『麦秋』で原節子と三宅邦子が並んで話しながら砂丘を歩くシーンでは、小津作品で唯一のクレーン撮影が行われているが、これも砂丘の高い方から低い方へ歩いて行くときに、構図が変化しないようにするために用いられている[161][163]

180度ルール破り

図1:会話シーンにおけるイマジナリー・ラインとカメラ位置。180度ルールでは「A→B」の位置で撮影するが、小津は「A→C」の位置で撮影した。

2人の人物が向かい合って会話するシーンを撮影するときには、「180度ルール英語版」という文法的規則が存在する[164]。180度ルールでは図1に示すように、人物甲と乙の目を結ぶイマジナリー・ライン(想定線やアクション軸とも)を引き、それを跨がないようにして線の片側、すなわち180度の範囲内にだけカメラを置き(カメラ位置AとB)、カメラ位置Aで甲を右斜め前から撮り、次にカメラを切り返して、カメラ位置Bで乙を左斜め前から撮影する。そうすることで「A→B」のように甲は右、乙は左を向くことになるため、甲と乙の視線の方向が一致し、2人が向かい合って会話しているように見えた[164][165][166]

しかし、小津はこの文法的規則に従わず、イマジナリー・ラインを跨ぐようにしてカメラを置いた(カメラ位置AとC)。すなわち甲をカメラ位置Aで右斜め前から撮影したあと、線を越えたカメラ位置Cで乙を右斜め前から撮影した。そうすると「A→C」のように甲も乙も同じ右を向くことになるため、視線の方向が一致しなかった[167][168]。この文法破りは日本間での撮影による制約から生まれたもので、日本間では人物の座る位置とカメラの動く範囲が限られてしまうが、その上で180度ルールに従えば、自分の狙う感情や雰囲気を自由に表現できなくなってしまうからだった[167]。小津はこれを「明らかに違法」と認識しているが、ロングショットで人物の位置関係を示してさえおけば、あとはどんな角度から撮っても問題はないと主張し、「そういう文法論はこじつけ臭い気がするし、それにとらわれていては窮屈すぎる。もっと、のびのびと映画は演出すべきもの」だと述べている[168]。小津によると、『一人息子』の試写後にこの違法について他の監督たちに意見を聞いたところ、稲垣浩は「おかしいが初めの内だけであとは気にならない」と述べたという[167]。また、小津はカメラを人物の真正面の位置に据え、会話する2人の人物を真正面の構図から撮影することも多かった[165][166]

相似形の構図

『東京物語』では、笠智衆と東山千栄子演じる老夫婦が、同じ方向を向いて、同じ姿勢で並んで座る相似形の構図が登場する[169]

小津作品のショットには、人物や物が相似形に並んでいる構図が多用されている[169][170]。相似形の構図とは、大きさは異なっていても、形の同じものが繰り返されている構図のことをいい、貴田によると、その画面は「きわめて整然とした、幾何学的な印象を与える」という[171]。相似形の構図の例は『浮草』のファースト・ショットで、画面奥にある白い灯台と、画面手前にあるビンが相似形に並べられている[172]。佐藤は同じ画面内に2人の人物がいるシーンにおいて、人物同士が同じ方向を向いて並行して座っていることが多いことを指摘している[173]。小津の相似形への好みは、登場人物の行為にまで及び、しばしば同じ動作を反復するシーンが見られる[174][175]。『父ありき』で父子が渓流で釣りをするシーンでは、父と息子が同じ姿勢で相似形に並んでいるが、2人は同じタイミングで釣竿を上げ、投げ入れるという動作をしている[169][174]

映画評論家の千葉伸夫は、小津が相似形の人物配置を好んだ理由について、「二人の人物の間には一見、対立がないように見えるが、実は微妙なズレがあり、そんな二人の内面を引き出すため」であると指摘している[169]。一方、佐藤によると、相似形の人物配置は「対立や葛藤を排して、二人以上の人物が一体感で結ばれている調和の世界への願望の表明」であるという[176]。また、相似形の構図は、登場人物が別の動作をすることなどにより崩れるときがあるが[169]、貴田は人物の演技において相似形が崩れると、「おかしさが強調され、ギャグなどに変わる」と指摘している[171]

ショット繋ぎ

『晩春』におけるカーテン・ショット。

小津はショットを繋ぐ技法である「ディゾルブ英語版(オーバーラップとも)」と「フェード」をほとんど使わなかった[92][177][178]。ディゾルブはある画面が消えかかると同時に次の画面が重なって出てくる技法で、フェードは画面がだんだん暗くなったり(フェード・アウト)、反対に明るくなったり(フェード・イン)する技法である[179]。どちらも場面転換をしたり、時間経過を表現したりするための古典的な映画技法として用いられた[177]。しかし、小津はこうした技法を「ひとつのゴカマシ」とみなし[150]、「カメラの属性に過ぎない」として否定した[50]

ディゾルブはごく初期に例外的にしか使っておらず、小津自身は『会社員生活』で使用してみて「便利ではあるがつまらんものだ[50]」と思い、それ以降はごく僅かな使用を除くと、まったくといっていいほど使用しなかった[178]。佐藤によると、小津は画面の秩序感を整えることに固執していたが、ディゾルブを使えばそれを処理している僅かな時間により、厳密な構図の秩序感が失われてしまうため、それを避ける目的でディゾルブを使用しなかったという[180]。一方、フェードはディゾルブほど厳密に排除せず、比較的後年まで用いられた[178][180]。小津は『生れてはみたけれど』から意識的に使わなくなったと述べているが[50]、その後もファースト・ショットとラスト・ショットを前後のタイトル部分と区切るためだけに使用した。しかし、カラー作品以後はそれさえも使わなくなり、すべて普通のカットだけで繋いだ[178]

小津はディゾルブやフェードの代わりに、場面転換や時間経過を表現する方法として「カーテン・ショット」と呼ばれるものを挿入した[177]。カーテン・ショットは風景や静物などの無人のショットから成り、作品のオープニングやエンディング、またはあるシーンから次のシーンに移行するときに挿入されている[161][177]。カーテン・ショットの命名者は南部圭之助で、舞台のドロップ・カーテンに似ていることからそう呼んだ[181]。他にも「空ショット(エンプティ・ショット)」と呼ばれたり、枕詞の機能を持つことから「ピロー・ショット」と呼ばれたりもしている[161][182]

同じ役名・役柄

小津作品は前述のように同じテーマやスタイルを採用したが、同じ役名も繰り返し登場している[183]。例えば、坂本武は『出来ごころ』『浮草物語』『箱入娘』『東京の宿』『長屋紳士録』で「喜八」を演じており、『長屋紳士録』以外の4本は喜八を主人公にした人情ものであることから「喜八もの」と呼ばれている[184]。この喜八ものでは、飯田蝶子が『出来ごころ』以外の3本で「おつね」役を演じた。笠智衆は『晩春』『東京物語』『東京暮色』『彼岸花』『秋日和』の5本で「周吉」役、『父ありき』『秋刀魚の味』の2本で「周平」役を演じた[183]。原節子も『晩春』『麦秋』『東京物語』で「紀子」役を演じており、この3本は「紀子三部作」とも呼ばれている[85]。他にも年配女性に「志げ」、長男に「康一」「幸一」、小さな子供に「実」「勇」、若い女性に「アヤ」という役名が頻出し、苗字では「平山」がよく登場した[183]。また、同じ俳優が同じ役柄を演じることも多い。例えば、笠智衆は父親役、三宅邦子は妻役、桜むつ子水商売の女性役を何度も演じた。『彼岸花』『秋日和』『秋刀魚の味』の3本では、中村伸郎北竜二が主人公の友人役、高橋とよが料亭若松の女将役を演じた[125]

音楽

小津作品の音楽は、普通の作品とは異なる特色を持ち、小津調の音楽と呼ばれている[185][186]。その特色は音楽を登場人物の感情移入の道具として使用したり、劇的な効果を出したりするために使ったりするのを避けたことと、深刻なシーンに明るい音楽を流したことである[185][92]。小津は「場面が悲劇だからと悲しいメロディ、喜劇だからとて滑稽な曲、という選曲はイヤだ。音楽で二重にどぎつくなる」と述べている[36]。こうした特色は作曲家の斎藤高順とコンビを組んだ『早春』以降の作品に見られる[185]。『早春』の主人公が病床の友人を見舞うシーンでは、内容が深刻で暗いことから、小津が好きな「サ・セ・パリ」「バレンシア」のような明るい曲を流そうと提案し、斎藤が明るい旋律の曲「サセレシア」を作曲した。小津はこの曲を気に入り、『東京暮色』『彼岸花』でも使用した[185][186]。小津はその後いつも同じような曲を注文し、斎藤は「サセレシア」を少しアレンジした曲や、ポルカ調の曲を作曲した[185]。その他の音楽の特徴として、一定不変のテンポとリズム、旋律の繰り返し、弦楽器を中心としたさわやかなメロディが指摘されている[185][186]

人物

1948年頃の小津安二郎。

人柄

小津はユーモラスな人物で、冗談や皮肉を交えてしゃべることが多く、厚田雄春はそんな小津を「道化の精神」と呼んだ[187][188][189]人見知りをする性格で[190]、とくに女性に対してはシャイであり、そのために生涯独身を貫いたとも言われている[191]。そんな小津は母を愛していたが、恥ずかしがり屋だったため、人前ではわざと母をそんざいに扱っているような態度をとり、「ばばぁは僕が飼育してるんですよ」などと冗談を言ったという[83][187]

趣味・嗜好

小津は大の好きとして知られた[187]。野田と脚本を書くため別荘に滞在したときは、毎日のように朝から何合もの酒を飲みながら仕事をした[91][192]。野田によると、1つの脚本を書き終わるまでに100本近くの一升瓶を空けたこともあり、小津はその空き瓶に1、2、3…と番号を書き込んでいたという[83]。撮影現場でも、夕方になると「これからはミルク(酒)の時間だよ」と言って仕事を切り上げ、当時は当たり前だった残業をほとんどすることなく、酒盛りを始めたという[138][193]

趣味としてはスポーツを好み、中学時代は柔道部に所属し[194]、若い頃はボクシングスキーに打ち込んだが[43][195]、生涯を通して最も熱を入れていたのは野球相撲だった[194][196]。野球は阪神タイガースのファンで、観戦するのも自分でやるのも好きだった[196]。小津の野球好きは、小津組のスタッフに野球の強い人を好んで入れるほどで、自身も松竹大船の野球チームに所属した[138][196]。相撲は吉葉山のファンで、撮影が大相撲の場所と重なると、ラジオ中継が始まる時間に合わせて切り上げたという[138][196]

写真を撮るのも好きで、その趣味は生涯続いた[197][198]。小津のカメラ歴は中学時代に始まり、その頃に流行したコダック社の小型カメラのベス単で撮影を楽しんだ[199]。1930年代初頭には高級品だったライカを手に入れ、自ら現像を行ったり、写真引き伸ばし機を購入したりするなど、ますます写真撮影に凝った[154][199]。1934年には写真誌『月刊ライカ』に2度も写真が掲載された[200]。日中戦争に応召されたときは、報道要員ではないにもかかわらず、著名な監督だということで特別にライカの携行を認められ、戦地で4000枚近くの写真を撮影した[199]。そのうち8枚は1941年に雑誌『寫眞文化』で「小津安二郎・戦線寫眞集」として特集掲載されたが、それ以外は1952年の松竹大船撮影所の火事で焼失した[86][199][200]

子供の頃から絵を描くことも好きで、とてもうまかったという[195][201]。小学校高学年の頃には当時の担任曰く「大人が舌を巻くほどの才能」があり、中学時代にはアートディレクターを志したこともあった[17][19]。小津の絵の趣味は亡くなるまで続いたが、映画監督としてのキャリアの傍らでグラフィックデザイナーとしての一面を見せている[195][201]。例えば、日本映画監督協会のロゴマークをデザインしたり、交友のある映画批評家の筈見恒夫岸松雄の著作や『山中貞雄シナリオ集』(1940年)などの装丁を手がけたりした[201]。また、達筆だった小津は『溝口健二作品シナリオ集』(1937年)の題字や、京都の大雄寺にある山中貞雄碑の揮毫を手がけている[202]。戦後の監督作品では、映画の中の小道具や看板のデザインを自ら手がけている[201]。自作の題字やクレジット文字も自分で書き、カラー映画になると白抜き文字に赤や黒の文字を無作為に散りばめるなど、独自のデザイン感覚を発揮している[201][202]

里見弴との関係

小津は中学時代から里見弴の小説を愛読していて、『戸田家の兄妹』では里見の小説から細部を拝借している[203]。小津と里見は『戸田家の兄妹』の試写会後の座談会で初対面し、小津は里見の演出技術に関する的確な批評に敬服した[203][204]。『晩春』でも試写を見た里見からラストシーンについてアドバイスをもらい、この作品以降は里見に脚本を送って意見を求めるようになった[85][203]。1952年に小津が北鎌倉に移住すると、近所に住んでいた里見との親交が深まり、お互いの家を訪ねたり、野田と3人でグルメ旅行をしたりするほどの仲となった[4][204]。里見は小津を「私の生涯における数少ない心友のうちのひとり」と呼んでいる[204]。晩年は里見とともに仕事をすることも多くなった。『彼岸花』『秋日和』では里見とストーリーを練り、里見が原作を書きながら、それと並行して小津と野田が脚本を書くという共同作業をとった[85]。1963年にはNHKのテレビドラマ『青春放課後』の脚本を里見と共同執筆した[99]。また、里見の四男である山内静夫は、『早春』以降の松竹の小津作品でプロデューサーを務め、小津は山内とも私生活での付き合いを深めた[91]

評価・影響

ヴィム・ヴェンダースは、小津の影響を受けた監督として知られる。

小津は1930年代から日本映画を代表する監督のひとりとして認められ、多くの作品が高評価を受けた[59][205][206]キネマ旬報ベスト・テンでは20本の作品が10位以内に選出され、そのうち6本が1位になった[207]。小津と同年代の批評家は、小津調による様式美と保守的なモラルのために高い評価を下したが、戦後世代の若い批評家や監督からは「テンポが遅くて退屈」「現実社会から目を背けている」「ブルジョワ趣味に迎合している」「映画の特質である動的な魅力に乏しい」などと批判されることもあった[206][208]松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手である吉田喜重もそのひとりで、ある映画雑誌の対談で『小早川家の秋』を「若い世代におもねろうとしている」と批判した。すると小津は1963年の松竹監督新年会の席上で、末席にいた吉田に無言で酒を注ぐことでこれに反論し、しまいに「しょせん映画監督は橋の下で菰をかぶり、客を引く女郎だよ」「君なんかに俺の映画が分かってたまるか」と声を荒げた[99][209]。これは小津が若い世代に感情を露にした珍しい出来事だった[99]

1950年代前半から海外で日本映画が注目され、とくに黒澤明溝口健二の作品が海外の映画祭で高評価を受けるようになったが、小津作品は日本的で外国人には理解されないだろうと思われていたため、なかなか海外で紹介されることがなかった[87]。小津作品が最初に海外で評価されたのは、1958年にイギリスロンドン映画祭で『東京物語』が上映されたときで、映画批評家のリンゼイ・アンダーソンらの称賛を受け、最も独創的で創造性に富んだ作品に贈られるサザーランド杯を受賞した[210]。その後アメリカやヨーロッパでも作品が上映されるようになり、海外での小津作品の評価も高まった[71][206]。なかでも『東京物語』は、2012年英国映画協会の映画雑誌サイト・アンド・サウンド英語版が発表した「史上最高の映画トップ100英語版」で、監督投票部門の1位に選ばれた[211]

国内外の多くの映画監督が小津に敬意を表し、その影響を受けている。ヴィム・ヴェンダースは小津を「私の師匠」と呼び、『ベルリン・天使の詩』(1987年)のエンディングに「全てのかつての天使、特に安二郎、フランソワアンドレイに捧ぐ」という一文を挿入した[212][213]。さらにヴェンダースは日本で撮影したドキュメンタリー『東京画』(1985年)で小津作品をオマージュした[214]。小津の生誕100周年にあたる2003年には、ホウ・シャオシェンが『珈琲時光』、アッバス・キアロスタミが『5 five 小津安二郎に捧げる英語版』をそれぞれ小津に捧げる形で発表した[215]周防正行は監督デビュー作であるピンク映画変態家族 兄貴の嫁さん』(1984年)で小津作品を模倣した[216]ジム・ジャームッシュは『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(1984年)で小津作品の題名から取った名前の競走馬を登場させている[217]。ほかにもアキ・カウリスマキ[218]クレール・ドゥニ[219]エリア・スレイマン[220]黒沢清[221]青山真治[222]などが小津の影響を受けている。

作品

監督作品

小津の監督作品は54本存在するが、そのうち17本のサイレント映画のフィルムは現存していない[223]

凡例

×印はフィルムが現存していない作品(失われた映画
△印はフィルムの一部だけが現存する作品
□印はサウンド版作品
◎印はカラー作品

サイレント映画
トーキー映画

その他の作品

映画
テレビドラマ
ラジオドラマ
舞台

受賞歴

映画賞

部門 作品 結果 出典
キネマ旬報ベスト・テン 1932年 日本映画ベスト・テン 大人の見る繪本 生れてはみたけれど 1位 [225]
1933年 日本映画ベスト・テン 出来ごころ 1位 [226]
1934年 日本映画ベスト・テン 浮草物語 1位 [227]
1941年 日本映画ベスト・テン 戸田家の兄妹 1位 [228]
1949年 日本映画ベスト・テン 晩春 1位 [229]
1951年 日本映画ベスト・テン 麦秋 1位 [230]
毎日映画コンクール 1949年 日本映画大賞 『晩春』 受賞 [231]
監督賞 受賞
脚本賞 受賞
1951年 日本映画大賞 『麦秋』 受賞 [4]
1963年 特別賞 - 受賞 [232]
ブルーリボン賞 1951年 作品賞 『麦秋』 受賞 [233]
監督賞 受賞
1963年 日本映画文化賞 - 受賞 [234]
サザーランド杯 1958年 - 東京物語 受賞 [4]
映画の日」特別功労章 1959年 - - 受賞 [235]
溝口 1960年 - 彼岸花 受賞 [236]
アジア映画祭 1961年 監督賞 秋日和 受賞 [237]
NHK映画賞 1963年 特別賞 - 受賞 [4]

その他の賞・栄典

記念施設・資料館

小津の別荘だった無藝荘。

小津が晩年に使用した長野県蓼科の別荘「無藝荘」は、2003年に小津の生誕100年を記念して茅野市によりプール平に移築され、小津安二郎記念館として一般に公開されている[240]。茅野市では、1998年から「小津安二郎記念蓼科高原映画祭」が開催され、小津作品の上映を中心にシンポジウムや短編映画コンクールなどが行われている[241]

小津が青春時代を過ごした三重県松阪市では、2002年に「小津安二郎青春館」が開館したが、2020年末に閉館した[242]。それに代わる顕彰拠点として、翌2021年松阪市立歴史民俗資料館内に「小津安二郎松阪記念館」が開館し、青春時代の手紙や日記、監督作品の台本などが展示されている[243]

小津の生地である東京都江東区では、古石場文化センター内に「小津安二郎紹介展示コーナー」が設けられている[6]

ドキュメンタリー作品

シナリオ・日記・発言集

脚注

注釈

  1. ^ a b ヂェームス・槇、ゼェームス・槇、ゼームス・槇などの表記もある[1]
  2. ^ 小津与右衛門家の初代新兵衛(1673年 - 1733年)は、同じ松阪出身の小津清左衛門家が江戸で営む紙問屋「小津屋」(現在の小津商店)の支配人をしていたが、1716年に退役すると清左衛門家から小津姓を与えられ、別家として松阪中町に住んだ[9][10][11]。新兵衛は紀州湯浅村出身の岩崎家と共同で干鰯問屋「湯浅屋」を経営したが、やがて岩崎家が経営から撤退すると、新兵衛が店を譲り受けた[9][11]。新兵衛家は三代目当主から与右衛門を名乗り、松阪の阪内川近くに地元民から「土手新」と呼ばれた立派な本宅を構えた[9][11][12]。小津の大叔父にあたる六代目与右衛門は紀行家の小津久足で、そのほか与右衛門家からは英文学者の小津次郎阪神タイガース球団社長の小津正次郎などの著名人が出ている[7][12]
  3. ^ 映画批評家の佐藤忠男によると、男女の交際が厳しく禁じられていた戦前の中学生の社会では、異性に手紙を書く代わりに、年下の同性に友情の手紙を書くという習慣が一部で伝統的に存在し、それは今日のホモ・セクシュアルほど深刻なものではないという[21]
  4. ^ 茂原のトーキー方式は「SMS(スーパー・モハラ・サウンド)」と呼ばれ、『一人息子』での成果が認められてからは、松竹傘下の新興キネマ京都撮影所で使用された[64]
  5. ^ とくに大映は日活の製作再開を脅威に感じていたため、『月は上りぬ』の映画化に最も強く反発した。田中は当時借金を抱えており、その返済のために大映と本数契約を結んでいたが、大映はこれをタテにして、彼女の日活映画での監督・出演を阻止しようとした[90]。さらに監督協会理事長の溝口健二も田中の監督に反対したが、小津はこの問題処理に奔走し、最終的に溝口をのぞく監督協会の各社代表は田中を擁護し、9月8日に田中監督を応援する旨の声明を出した[88][90]
  6. ^ 野津忠二は、小津と野田高梧、池田忠雄、大久保忠素の名前を合成したペンネームで、ドイツの輸入ビールを飲みたさに、原作料をせしめるために名乗ったという[55]
  7. ^ エルンスト・シュワルツは、エルンスト・ルビッチとドイツの監督ハンス・シュワルツドイツ語版の名前を合成したペンネームである[123]。ウィンザァト・モネは、池田と荒田正男との合作名で、無一文を意味する英語「Without Money」のもじりである[85]
  8. ^ クレジット上では25本だが、大部屋時代のノンクレジット出演も含めると、『懺悔の刃』と『淑女は何を忘れたか』以外のほぼ全作品に出演しているという[125][149]

出典

  1. ^ a b c 貴田 1999, pp. 51–54.
  2. ^ 田中 2003, p. 8.
  3. ^ 「麦秋のころの健康診断 小津安二郎氏」(『毎日グラフ』1951年8月10日号)。戦後語録集成 1989, pp. 98–101に所収
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag 「小津安二郎年譜」(全集(下) 2003, pp. 633–644)
  5. ^ a b c 千葉 2003, p. 16.
  6. ^ a b 小津安二郎紹介展示コーナー”. 古石場文化センター. 公益財団法人 江東区文化コミュニティ財団. 2021年2月21日閲覧。
  7. ^ a b c d e 松浦莞二「家庭を描いた男の家庭」(大全 2019, pp. 154–158)
  8. ^ a b 佐藤 2000, pp. 127–128.
  9. ^ a b c 千葉 2003, p. 15.
  10. ^ a b 支配人と仕分金”. 小津330年のあゆみ. 2021年2月12日閲覧。
  11. ^ a b c 小津ハマさん作成年譜(小津監督の人と仕事)”. 全国小津安二郎ネットワーク. 2021年2月21日閲覧。
  12. ^ a b 中村 2000, pp. 12–13.
  13. ^ 千葉 2003, p. 20.
  14. ^ 伝記 2019, p. 175.
  15. ^ a b 中村 2000, pp. 15–17.
  16. ^ 伝記 2019, p. 178.
  17. ^ a b 伝記 2019, p. 180.
  18. ^ a b 伝記 2019, p. 184.
  19. ^ a b c 「小津安二郎・筈見恒夫対談」(『映画の友』1955年9月号)。戦後語録集成 1989, pp. 238–244に所収
  20. ^ 小津安二郎「僕は映画の豆監督」(『私の少年時代』1953年3月)。戦後語録集成 1989, pp. 166–167に所収
  21. ^ 佐藤 2000, pp. 130–131.
  22. ^ a b c 伝記 2019, p. 185.
  23. ^ 中村 2000, p. 88.
  24. ^ 佐藤 2000, pp. 132–133.
  25. ^ 伝記 2019, p. 186.
  26. ^ 千葉 2003, p. 36.
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  28. ^ 佐藤 2000, p. 134.
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  30. ^ 中村 2000, p. 170.
  31. ^ a b 中村 2000, pp. 176–178.
  32. ^ a b c d e f g h 「年譜」(蓮實 2003, pp. 319–338)
  33. ^ 中村 2000, pp. 180–182.
  34. ^ a b c 伝記 2019, p. 189.
  35. ^ 佐藤 2000, p. 135.
  36. ^ a b c d e f g h i j k 「小津安二郎芸談」(東京新聞1947年12月5日・12日・19日・26日)。戦後語録集成 1989, pp. 158–164に所収
  37. ^ 伝記 2019, p. 190.
  38. ^ 伝記 2019, p. 193.
  39. ^ a b 千葉 2003, p. 51.
  40. ^ 千葉 2003, pp. 52–53.
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  42. ^ a b 佐藤 2000, pp. 142–143.
  43. ^ a b c 伝記 2019, pp. 195–196.
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  • 蓮實重彦、山根貞男吉田喜重『国際シンポジウム 小津安二郎 生誕100年記念「OZU 2003」の記録』朝日新聞社、2004年6月。ISBN 978-4022598530 
  • フィルムアート社 編『小津安二郎を読む 古きものの美しい復権』フィルムアート社〈ブック・シネマテーク〉、1982年6月。ISBN 978-4845982431 
  • デヴィッド・ボードウェル 著、杉山昭夫 訳『小津安二郎 映画の詩学』青土社、2003年6月。ISBN 978-4791752089 
  • 松浦莞二、宮本明子 編『小津安二郎 大全』朝日新聞出版、2019年3月。ISBN 978-4022515995 
    • 松浦莞二「第四章 伝記 小津安二郎」『小津安二郎 大全』、169-276頁。 
  • 吉田喜重『小津安二郎の反映画』岩波書店、1998年5月。ISBN 978-4000223614 
  • ドナルド・リチー 著、山本喜久男 訳『小津安二郎の美学 映画のなかの日本』フィルムアート社、1978年4月。ISBN 978-4845978229 
  • 笠智衆『大船日記 小津安二郎先生の思い出』扶桑社、1991年6月。ISBN 978-4594007669 
  • キネマ旬報1964年2月号増刊『小津安二郎〈人と芸術〉』キネマ旬報社、1964年2月。 
  • 『現代映画用語事典』キネマ旬報社、2012年5月。ISBN 978-4873763675 

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