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蓼科高原

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
八ヶ岳山麓に広がる蓼科高原
地図
地図
ピラタス蓼科ロープウェイより蓼科高原。左は南八ヶ岳、右は南アルプス
ビーナスライン沿いの女の神展望台から望む紅葉

蓼科高原(たてしなこうげん)は、長野県茅野市にある高原。北に蓼科山、東に八ヶ岳を望む。八ヶ岳中信高原国定公園に属する。

概要

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蓼科山南西麓の標高1100メートルから1800メートル台の高原地帯で、古来より地元の諏訪郡北山村(現・茅野市大字北山)の村内をはじめとする山麓各村各区の「やま」と呼ばれる入会地であった。一部を除き複数区による共有山であり、地権者である地元財産区の区域ごとにおおむね以下のエリアに分けられている。

  • 蓼科高原 - 湯川山ゆがわやまアルピコリゾート&ライフ所有地)および御鹿山おしかやま(鹿山財産区[注釈 1]区有地)※アルピコ所有地は湯川財産区が1960年に東洋観光事業(当時)に一括売却した旧財産区有地。
  • 蓼科中央高原 - 芹ヶ沢山せりがさわやま(外山財産区[注釈 2]・内山財産区[注釈 3]区有地)および南大塩山みなみおおしおやま(豊平地区。七ヶ耕地財産区[注釈 4]および豊平の南大塩・塩之目・上場沢、湖東の須栗平・堀の各財産区区有地[注釈 5]
  • 奥蓼科温泉郷(奥蓼科) - 芹ヶ沢山(外山財産区区有地)および南大塩山(七ヶ耕地財産区区有地)の渋川上流域両岸
  • 白樺湖 - 池の平(柏原財産区区有地および北佐久郡立科町町有地)※旧・芦田村外三ヶ村共有財産組合[注釈 6]所有地。池の平琵琶石地籍の柏原財産区有地(柏原農業協同組合所有地を含む)は1905年に同共有財産組合から購入した区域で1956年茅野町編入。立科町町有地は同共有財産組合の町への移管分。
  • 柏原山かしわばらやま(柏原財産区区有地)の一部である西部の車山も蓼科高原に含めることがある。

少なくとも数百年間にわたって採草地などとして管理利用されていたため、かつてはほぼ全域が草原であったが、明治時代に「営林」概念が移入し、さらに昭和時代に入会慣習の衰退と観光地化が進んだことで、特に1960年代以降、著しく森林化が進行している。レジャー施設が多いほか、国道152号国道299号ビーナスライン(旧蓼科有料道路)が高原を縦横に貫き、ドライブコースとしても好眺望を楽しめる。

由来

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蓼科山山麓にちなんだ「蓼科高原」の名称は、北麓や東麓の佐久側も含めた蓼科山麓一帯の地域名称として大正時代には既に用いられていたが[1]、観光地の名称としては都市部の結核患者などの虚弱児童の健康保養に適しているとして、1928年文部省が湯川財産区直営の「滝の湯」、「親湯しんゆ」、「小斉こさい温泉」、「高原ホテル」、「美遊喜館みゆきかん」が集中して立地する湯川山の栂ノ木平つがのきだいら(のちプール平)周辺を高山保養地に指定したのが始まりである。

以後、「(結核治療に効果がある)紫外線が強い海抜四千四百尺の蓼科高原」として広く伝えられ、1930年の湯川財産区による別荘地開発開始と同時に、同義の「蓼科温泉郷」とともに栂ノ木平周辺を示す新興観光地の名として有名になった。

戦後、蓼科湖造営(1952年)をきっかけとする観光開発地域の拡大で、「蓼科高原」の範囲が湯川山全域や湯川区など10区入会の御鹿山に広がる一方、終戦直後から八ヶ岳登山の玄関口として登山客でにぎわった「渋の湯」や「明治温泉」、「渋辰野館」などがある渋川上流域が1950年代半ばに「奥蓼科」と名乗るなど[2]、北山地区内の他財産区有地だけでなく豊平地区の南大塩山南部[注釈 7]までもが観光開発に合わせ、「蓼科」にちなんだ名称を用いるようになった。

こうしたことから「蓼科高原」は北山地区を中心に観光地化した各財産区有地を包括した地域名称としても定着した。

見どころ

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隣接した北佐久郡立科町の施設

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脚注

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注釈

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  1. ^ 茅野市北山の湯川・芹ヶ沢・糸萱区、湖東の金山・新井・山口・中村・上菅沢区、豊平の下菅沢・福沢区の10区共有財産区。
  2. ^ 茅野市北山の芹ヶ沢・糸萱区、湖東の金山・新井・山口・中村・上菅沢区の7区共有財産区。
  3. ^ 茅野市北山の芹ヶ沢・糸萱区、湖東の金山・新井区の4区共有財産区。
  4. ^ 茅野市豊平の南大塩・塩之目・上場沢区、湖東の堀・須栗平・笹原・白井出区の7区共有財産区。
  5. ^ 南大塩山の各単独財産区有地は財産区制度発足前年の1888年に共有入会地を各耕地単位に分割した区域。
  6. ^ 現在の立科町にあたる北佐久郡芦田村・横鳥村三都和村および本牧村茂田井区の共有財産区。
  7. ^ 三井不動産が1972年から「蓼科中央高原三井の森」の名称で開発した。
  8. ^ 無藝荘から行ける小津安二郎が散歩していたコースには、笠智衆佐田啓二新藤兼人井上和男、等の山荘や新・雲呼荘が残されてあり、当時の小津の山荘生活がうかがえる。

出典

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  1. ^ 『北佐久郡志』, p.78, 北佐久郡, 1915.
  2. ^ 『山と高原』263号, p.24, 朋文堂,1958-09.
  3. ^ まちなかミュージアムホームページ

関連項目

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  • 諏訪鉄山 - 芹ヶ沢山外山財産区および湯川財産区有地などで1937年から1962年まで稼行した露天掘りの褐鉄鉱山。鉱床のあった場所は閉山後、ゴルフ場の「蓼科高原カントリークラブ」や別荘地の「蓼科ビレッジ」などの観光用地となった。

外部リンク

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座標: 北緯36度3分31.73秒 東経138度16分21.19秒 / 北緯36.0588139度 東経138.2725528度 / 36.0588139; 138.2725528