盛岡市
もりおかし 盛岡市 | |||
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| |||
国 | 日本 | ||
地方 | 東北地方 | ||
都道府県 | 岩手県 | ||
市町村コード | 03201-8 | ||
法人番号 | 6000020032018 | ||
面積 |
886.47km2 | ||
総人口 |
281,410人 [編集] (推計人口、2024年4月1日) | ||
人口密度 | 317人/km2 | ||
隣接自治体 |
花巻市、八幡平市、宮古市 岩手郡:雫石町、滝沢村、岩手町、葛巻町 紫波郡:紫波町、矢巾町 下閉伊郡:岩泉町 | ||
市の木 | カツラ | ||
市の花 | カキツバタ | ||
鳥 | セキレイ | ||
盛岡市役所 | |||
市長 | 内舘茂 | ||
所在地 |
〒020-8530 岩手県盛岡市内丸12番2号 | ||
外部リンク | ウェブもりおか | ||
2011年9月までの基礎自治体位置図(藤沢町の編入前) | |||
ウィキプロジェクト |
盛岡市(もりおかし)は、岩手県の中部に位置する市で、同県の県庁所在地である。中核市に指定されている。
概要
平安時代、桓武天皇の命により志波城が置かれ、律令制下となる。都市としては安土桃山時代に勢力を広げた南部氏が盛岡城を築いて以後、城下町として発達。明治以後は岩手県の県庁所在地として、第三次産業を主とする商業都市となる。とりわけ東北新幹線の整備により急速な都市化が進み、北東北での拠点機能が高まった。
日本の県庁所在地級の都市の中では、奈良市や金沢市などとともに、比較的戦災被害の少ない都市に数えられ、明治・大正期の建造物や町並みが多く現存する。数年ほど前までは、市としては人口が減少傾向にあったが、2011年3月11日の東日本大震災により被災地からの避難や移住が相次いだことや、近年の都心回帰の傾向により、人口が再び徐々に回復基調にある。また、南北に隣接する矢巾町や滝沢村の宅地化が進みベッドタウンとなり、生活圏としても人口が増加している。
都市雇用圏基準では、盛岡市を核として八幡平市、紫波郡、岩手郡に広がる盛岡都市圏が形成され、東北地方では仙台都市圏、郡山都市圏に次ぐ都市圏を形成している。
名称とシンボル
- 「幾春も華の恵みの露やこれ 宝の珠の盛る岡山」
「盛岡」の名は、1691年に、時の藩主南部重信と、盛岡城鬼門鎮護の真言宗豊山派永福寺第42世・清珊法印との間で交わされた連歌に由来する瑞祥地名である。「盛り上がり栄える岡」の意味を持つとされ、のちに藩名も「南部」から「盛岡」へと改められた。版籍奉還直後は「盛岡県」が存在したが、旧郡にちなみ岩手県へ改められたと言われている(諸説あり)。現代では一般的呼称ではないが、中世には「盛府」とも記された。
盛岡市中心部は、かつての巖手郡仁王郷不来方に相当し、不来方と呼ばれており、今日ではこれが雅称として用いられる。盛岡を漢文調に読み雅号として杜陵(とりょう)とも称される。盛岡ゆかりの石川啄木は、その作品の中で「美しい追憶の都」、宮沢賢治はエスペラント風に「モリーオ市」と記した。「杜と水の都」「みちのくの小京都」とも呼ばれる。
「盛岡」を連想させるものとして、市内のあらゆる地域から望まれる岩手山が多くの学校の校歌に謳われるほか、市の中心部で合流する中津川・北上川・雫石川の三大河川、国の史跡に指定されている盛岡城石垣、国の天然記念物に指定されている石割桜、国の重要美術品の上ノ橋擬宝珠、旧盛岡藩主南部氏の家紋「向鶴(双鶴)」「武田菱」が、盛岡を表す端的なモチーフとして用いられることが多い。
人口
- 市勢
盛岡市(に相当する地域)の人口の推移 | |||
総務省統計局 国勢調査より |
地理・気候
岩手県の内陸中心部に位置し、市内を北上川、雫石川、中津川などが流れる。北上盆地の中に位置するため内陸性気候を呈しており、夏と冬、昼と夜とで寒暖差が大きい。特に冬季は冷え込み、厳冬期の最低気温は-10℃を下回ることもある。桜の開花は東京に1か月程度遅れ、満開時期がゴールデンウィークに重なる傾向がある。
夏季は、真夏日となる日もみられるものの[1]、やませの影響を強く受ける[2] 年があるほか、フェーン現象が発生することもあるため、年によって夏日は41 - 94日、真夏日も1 - 48日と変動する。熱帯夜となることは稀(1931年 - 2006年の76年間で1994年(平成6年)8月11日[3] と1999年(平成11年)8月6日[4] の2夜のみ[5])。冬は、30年平均(1976年 - 2005年)で冬日が124.6日(97 - 147日)、真冬日が16.6日(1 - 40日)。この数年は全体的に暖冬の傾向が見られる。ただし冬季の日照時間が長いために、よく晴れた深夜・早朝に放射冷却現象が起き路面が凍結し、雪害以上の都市課題となっている。
市内でも標高差など地理条件により気温差が顕著であり、都市化の進んだ盛岡市中心部はヒートアイランド現象により年々冷え込みが弱くなっている一方、玉山区など郊外は冷え込む傾向にある。殊に標高約700mの盆地内に位置する玉山区藪川地区は特例的で、厳冬期には放射冷却によって零下20℃を下回ることも珍しくない。現在のアメダス地点とは違う場所で、非公式(アメダス以前の気象観測所のため非公式扱いとされる)ながら1945年1月26日には零下35℃[6][7] という北海道内陸部並みの冷え込みを記録しており、岩手県宮古市区界、岐阜県高山市六厩、長野県上田市菅平、長野県南牧村野辺山 と並んで、本州で最も寒冷な土地の一つとされる。
市内からは岩手山(北西)、駒ケ岳(西)、早池峰山(東)、南昌山・東根山(南)など、市外に所在する山々も仰ぐことができる。そのほか、市内には低い山々が入り組み、良好な緑地帯を形成するほか、総じて街のランドマークとなっている。
- 山 : 姫神山 - 岩山 - 愛宕山 - 鑪山 - 蝶ヶ森 - 飯岡山 - 黒石山 - 神庭山など
- 河川
- 湖沼 : 四十四田ダム - 御所ダム - 綱取ダム - 高松の池 - 岩洞ダムほか
- 主な都市の降雪量・積雪量(平年値)
都市 | 降雪量累計 | 最深積雪 | 1月気温 | 都市 | 降雪量累計 | 最深積雪 | 1月気温 |
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札幌 | 630 cm | 101 cm | -4.1°C | 軽井沢 | 136 cm | 32 cm | -3.6°C |
青森 | 774 cm | 114 cm | -1.4°C | 富山 | 433 cm | 69 cm | 2.5°C |
秋田 | 409 cm | 41 cm | -0.1°C | 金沢 | 360 cm | 52 cm | 3.7°C |
山形 | 491 cm | 50 cm | -0.5°C | 東京 | 13 cm | 7 cm | 5.8°C |
盛岡 | 351 cm | 36 cm | -2.1°C | 名古屋 | 13 cm | 7 cm | 4.3°C |
仙台 | 90 cm | 17 cm | 1.5°C | 彦根 | 131 cm | 29 cm | 3.6°C |
石巻 | 56 cm | 17 cm | 0.5°C | 岐阜 | 52 cm | 16 cm | 4.3°C |
福島 | 235 cm | 26 cm | 1.4°C | 鳥取 | 263 cm | 49 cm | 3.9°C |
いわき | 14 cm | 6 cm | 3.6°C | 松江 | 111 cm | 24 cm | 4.2°C |
新潟 | 255 cm | 39 cm | 2.6°C | 福岡 | 5 cm | - cm | 5.8°C |
NYC | 57 cm | - cm | -0.6°C | シカゴ | 97 cm | - cm | -5.6°C |
- ※降雪量累計:気象庁の統計データ でいう「降雪の深さ合計」のこと。日ごとの降雪量を積算(平年値)
- ※最深積雪:一度に降る最も多い積雪量(平年値)
- ※1月気温:1月の平均気温(平年値)
- (参考):アメリカ合衆国のニューヨーク市 (NYC) とシカゴ市を併記(数値は National Weather Service による)。
- 盛岡圏の気候表(平年値)
盛岡(1981-2010)の気候 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
平均最高気温 °C (°F) | 1.8 (35.2) |
2.9 (37.2) |
7.0 (44.6) |
14.4 (57.9) |
19.7 (67.5) |
23.5 (74.3) |
26.4 (79.5) |
28.3 (82.9) |
23.6 (74.5) |
17.6 (63.7) |
10.6 (51.1) |
4.6 (40.3) |
15.0 (59) |
平均最低気温 °C (°F) | −5.6 (21.9) |
−5.2 (22.6) |
−2.2 (28) |
3.0 (37.4) |
8.5 (47.3) |
13.8 (56.8) |
18.1 (64.6) |
19.6 (67.3) |
14.6 (58.3) |
7.3 (45.1) |
1.5 (34.7) |
−2.4 (27.7) |
5.9 (42.6) |
降水量 mm (inch) | 53.1 (2.091) |
48.7 (1.917) |
80.5 (3.169) |
87.5 (3.445) |
102.7 (4.043) |
110.1 (4.335) |
185.5 (7.303) |
183.8 | 160.3 | 93.0 (3.661) |
90.2 | 25.4 (1) |
1,266 (49.843) |
出典:気象庁[8] |
藪川 (1981-2010)の気候 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
平均最高気温 °C (°F) | −2.4 (27.7) |
−1.7 (28.9) |
2.0 (35.6) |
10.0 (50) |
16.0 (60.8) |
19.8 (67.6) |
22.8 (73) |
24.4 (75.9) |
19.8 (67.6) |
13.8 (56.8) |
6.9 (44.4) |
0.6 (33.1) |
11.0 (51.8) |
平均最低気温 °C (°F) | −13.7 (7.3) |
−13.8 (7.2) |
−9.1 (15.6) |
−2.2 (28) |
3.0 (37.4) |
8.8 (47.8) |
14.1 (57.4) |
15.1 (59.2) |
9.6 (49.3) |
1.8 (35.2) |
−3.8 (25.2) |
−8.8 (16.2) |
0.1 (32.2) |
降水量 mm (inch) | 62.3 (2.453) |
48.9 (1.925) |
83.9 (3.303) |
95.2 (3.748) |
113.0 (4.449) |
109.1 (4.295) |
199.7 (7.862) |
184.6 | 165.7 | 110.7 (4.358) |
114.3 | 87.8 (3.457) |
1,366.6 (53.803) |
出典:気象庁[9] |
好摩 (1981-2010)の気候 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
平均最高気温 °C (°F) | 1.2 (34.2) |
2.1 (35.8) |
6.1 (43) |
13.9 (57) |
19.2 (66.6) |
23.0 (73.4) |
25.8 (78.4) |
27.6 (81.7) |
23.1 (73.6) |
17.2 (63) |
10.2 (50.4) |
4.0 (39.2) |
14.4 (57.9) |
平均最低気温 °C (°F) | −8.1 (17.4) |
−7.8 (18) |
−3.6 (25.5) |
1.8 (35.2) |
7.7 (45.9) |
13.0 (55.4) |
17.4 (63.3) |
18.7 (65.7) |
13.3 (55.9) |
5.6 (42.1) |
0.1 (32.2) |
−4.1 (24.6) |
4.5 (40.1) |
降水量 mm (inch) | 37.0 (1.457) |
35.6 (1.402) |
67.4 (2.654) |
77.4 (3.047) |
91.5 (3.602) |
101.6 (4) |
176.3 (6.941) |
165.4 | 157.0 | 88.2 (3.472) |
86.4 | 62.3 (2.453) |
1,145.9 (45.114) |
出典:気象庁[10] |
歴史
平安時代の延暦年間、征夷大将軍・坂上田村麻呂により志波城が築かれ、大和朝廷による陸奥国最大にして最北の治府となる。続いて豪族安倍氏により「厨川柵・嫗戸柵」が置かれて事実上の自治を果たすが、安倍氏が源氏からの侵攻を受けると、代わって出羽国から清原氏が進出した(前九年の役)。清原氏が内紛で滅亡すると(後三年の役)、現在の盛岡市(当時の岩手郡・斯波郡)は平泉を拠点とする藤原清衡ら(奥州藤原氏)の勢力圏となる。平泉が源頼朝に攻略され再び源氏が統治すると(鎌倉幕府の成立)、「厨川城」を拠点に御家人「奥州工藤氏」が治め、のちに岩手郡は北条氏・斯波郡は足利氏の影響下に置かれる。南北朝時代には両統が割拠する中、甲斐源氏を祖とする南部氏が三戸からの南進を果たす。工藤氏らを配下として岩手郡を領有、南部氏家臣福士氏が「不来方城(慶善館・淡路館)」を置く。南部氏は斯波氏を滅ぼし「斯波郡(紫波郡)」を領有すると不来方城を礎に盛岡城を築き、城下町を整備。これが盛岡の「現代に至る都市としての始まり」である。盛岡藩(旧南部藩)は盛岡県を経て岩手県となり、盛岡市はその県庁所在地となる。紫波・岩手両郡の中核となり、古代以来の統治拠点「志波城」「厨川城」「盛岡城」を包含する地域として、現在の盛岡市が形成される。
- 旧石器時代 - 縄文時代
- 「小石川遺跡」における旧石器時代の遺構からは、既に13000年前から当地域に人の営みがあったことが認められる。
- 岩手県指定遺跡「大館町遺跡」からは、約500に及ぶ縄文時代の竪穴式住居跡と、多量の土器が発見され、近隣の「大新町遺跡」における「爪形文土器」他の出土品と共に、東北地方における土器の変遷が垣間見られる。また、「翡翠」など地場では採掘されない鉱石の出土例があり、古くから広い地域での交易が実現されていたと推測される。冷温帯落葉樹林に覆われたこの地域は現代より温暖で、もっぱら山野の収穫と狩猟・漁労を生活の基礎とする豊かな自然環境に恵まれた。そのため縄文文化の影響を色濃く残し、弥生文化を基軸とする西日本からは独立した文化的背景を持つ。盛岡市では、国内最大級の縄文式土器が発掘されている一方、弥生式土器の発掘例はほとんどない。また古墳文化と続縄文文化の境界上にあって、両文化の交わる点にあった。
- 弥生時代 - 奈良時代
- 南の「大木式土器圏」と北の「円筒式土器圏」の緩衝地域にもあたり、以後も当地は長らく南北文化の境界であった。独自の信仰・呪術形態を物語る手代森遺跡出土物遮光器式土偶のほか、アイヌ語の影響と見られる地名が今なお残されているのが特徴である。気候と植生の違いにより、元来熱帯起源の稲作には不適地であったが、ヤマト王権の拡大政策による稲作の推進に伴い、米を基幹作物とする中央集権型の経済体制下に組み込まれてゆく。このことは、耐寒性品種の開発をみる近代まで、結果として当地に経済的立ち遅れを招く要因ともなった。ヤマト王権の東北地方における勢力拠点となった仙台平野に比して、北上盆地にはその影響が弱く、盛岡周辺では地元豪族が半ば独立した自治を行いながらも、経済的交流は保たれていたと見られる。市内では開墾等によって「古墳」が失われているが、石室・土師器・須恵器や鉄製馬具が出土しており、有力な支配者層は、陵墓をもってその権威を示したと見られる。「高櫓A遺跡」から「土製紡錘車」が発見されるなど、当時の人々の暮らしを物語る奈良時代の遺構も発掘されているが、未だ解明されていないところが多い。
- 平安時代
- 平安時代の盛岡には、当時の律令支配から独立した土豪勢力がおり、蝦夷と呼ばれ、ヤマト政権から異民族視されていた。「上田蝦夷森古墳群」などがその遺跡で、出土品である「衝角付冑」や、全国でも岩手県での出土が最も多い「蕨手刀」からは、古くから一帯に高い製鉄文化を持った人々が暮らしていたことが推測される。また錫製品・琥珀の出土により、当時から交易ルートが存在したと見られている。また「太田蝦夷森古墳群」からは「勾玉」「ガラス玉」ほか、ヤマト政権との関わりを示す「和同開珎」等が出土しており、志波城造営との関わりを示唆している。
- 平安京造営と並ぶ桓武天皇の東北進攻政策により、延暦21年(802年)、アテルイが都へ連行されると、翌年の延暦22年(803年)、征夷大将軍で「造志波城使」の坂上田村麻呂が「志波城」(現在の「志波城古代公園」、盛岡市中太田方八丁附近)を造営した。これは陸奥国最北で、八丁四方の大規模な城柵である。その区画は外郭で鎮守府「胆沢城(岩手県奥州市)」、政庁規模で陸奥国府「多賀城(宮城県多賀城市)」をも超えるが、河川の氾濫により10年で徳丹城へ移転した。一帯は律令体制下に置かれ、朝廷による東北経営のための移住政策が進められており、上総(千葉県)などの文字のある出土物から、他国からの移民兵士などによる集落が形成されていたと見られる。のちに朝廷の財政難による拡大政策の停止により、10世紀には、蝦夷の俘囚長を名乗った安倍氏が地場支配を続けていた。居館を嫗戸柵(現在の盛岡市安倍館町に擬定)に構え、厨川柵(現在の盛岡市天昌寺町附近に擬定)などの拠点も造営した。これは支配地最北の砦であったと考えられる。
- 安倍頼時・安倍貞任父子らは、北上川流域の奥六郡を統治していたが、後に奥州進出を図る陸奥守源頼義の謀略により、戦闘状態に陥る。(前九年の役)当初安倍氏が有利な戦闘状況であったが、頼義の説得で出羽の俘囚長清原氏が頼義に味方すると戦況は一転し、厨川次郎とも呼ばれた貞任と子の千代童子は、厨川で戦死した。また、貞任の弟である安倍宗任は、伊予国、九州大宰府などに配流、後に松浦党を構成する一族の始祖となったと伝える。さらにこの時、安倍氏に加勢した在庁官人藤原経清も処刑され、その妻は経清との間に生まれた清衡を連れ清原武貞に嫁せられる。以後、陸奥・出羽の両国は清原武則とその子武貞の支配下に置かれた。「陸奥話記」は、この頃不来方(逆志方)は清原武則の甥「橘頼為」が領主になったと伝える。源頼義の子で前九年の役にも従軍した源義家が陸奥守として赴任して来て、清原武貞の死後の清原氏跡目相続の内紛に介入し、後三年の役が起きる。義家は合戦に勝利したものの、私戦と認定される。これにより現在の盛岡市域は、清原氏を名乗るも実父藤原氏の血統にあり、安倍氏出身の実母を持つ清原清衡(のちの藤原清衡)が統べることとなり実父の姓藤原に復す。これが平泉の奥州藤原氏である。この統治は以後、平氏政権の下で約100年間続く。
- 鎌倉時代
- 奥州藤原氏は産金と北方貿易による巨万の富を背景に、人口規模で国内第二の都市平泉を中心とした独自の政権を打ち立て、浄土思想を基調とする仏教文化が花開いた。平氏政権を倒し、独自の武家政権の確立を目指す源頼朝および鎌倉幕府は、源義経を庇護したことを口実に藤原泰衡を追捕の対象とした。頼朝は全国の武士を動員し、阿津賀志山の戦いで藤原氏を破り斯波郡に陣を敷く(現在の「陣ケ岡」)。この時、頼朝は「高水寺」に詣で伊豆国走湯権現を勧請したと吾妻鏡は伝える。この寺院は、768年に称徳天皇の勅願により建立され、後に真言宗走湯山を号し、盛岡城下へ移転した。
- 源頼義から数えて5代目の後裔となる源頼朝は、文治5(1189)年9月11日、厨川に到着し「厨川館」を定める。前九年の役における父祖の故事にならい、頼義が厨川で安倍氏に行なったのと同様、藤原泰衡の首級を晒す事で奥州の統治権を宣言する。この戦いを奥州合戦と呼ぶ。その勲功として、現在の盛岡は頼朝に従った御家人で伊豆国(神奈川県)地頭の工藤氏が岩手郡を与えられ統治を始めた。工藤小次郎行光は前九年合戦の古戦場跡に「厨川城」を定め、厨川柵跡には安倍氏の祈祷所を基に「天台宗天照寺」(現・曹洞宗巌鷲山天昌寺)を創建、聖俗ともに岩手郡を統治する立場として巌鷲山大権現大宮司となり代々世襲、「岩手殿」とも呼ばれた。のち、岩手郡一帯は「北条得宗家」の、斯波郡は「足利宗家」の大きな影響の下に置かれた。
- この頃の「台太郎遺跡」から大陸産の北宋銭や青磁器や常滑焼が出土していることから、現在の盛岡南新都市にあたる地域周辺に、奥州藤原氏の流れを汲む有力な支配者層が居館を構えていたことが推測される。大荘厳寺も高水寺同様、後に南部氏の宗教政策によって盛岡へ移転した。後の盛岡藩主となる南部氏の伝承によると、始祖南部光行公は、1180年、石橋山の戦いの功によって頼朝から奥州糠部郷を拝領していたと伝えられる。甲斐源氏の流れを汲む南部氏は、甲斐国巨摩郡南部郷から奥州への進出を果たして以後、一度の領地替えもなく、明治維新前まで奥州北部を掌握した。こうした例は他に島津藩があるのみである
- 室町時代
- 南北朝動乱期、現在の盛岡周辺では有力氏族が割拠し、北朝の斯波氏・稗貫氏に対し南朝の北畠氏(浪岡氏)・葛西氏・南部氏が対立する。建武元年(1334年)、後醍醐天皇の命により北畠顕家が国府多賀城に赴任。これに従って甲州から奥州へ進出したのが南部師行(根城南部氏、のちの遠野南部氏の祖)であった。建武2年(1335年)、中先代の乱の後、足利尊氏は陸奥国府と南部氏を制するため、独自に奥州総大将として斯波家長を下向させた。これが「奥州斯波氏」である。将軍家と同格のため、奥州では「奥州惣奉行」葛西氏と並ぶ一族であった。三戸南部氏(のちの盛岡南部氏)はこの頃、対立していた工藤氏が領有してきた岩手郡三十三郷を取り込んでいた。「岩手郡における南部氏」、「紫波郡における斯波氏」の台頭はここに始まり、そのまま南朝対北朝の構図となって、以後16世紀までその対立は続く。この斯波氏とは、北条氏の血を引く足利宗家の足利家氏が斯波郡(紫波郡)を領有したことに発する一族で、当地で前九年の役を戦った源義家の末裔に当たる。
- 岩手郡では、正平元年(1346年)、南朝の陸奥介鎮守府将軍の北畠顕信が滴石庄に進出、北畠少弐が居館「滴石御所」を営んだと伝えられ、現在の「御所湖」に名を残す。北朝の斯波氏は後に戸澤氏を退け、滴石においても優勢に傾き、分家を同様に「滴石(雫石)御所」と称した。斯波郡(紫波郡)では、高水寺斯波氏が、高水寺城(現在の城山公園)を拠点に中央からは「奥の斯波殿」、奥州でも「斯波御所」の尊称で呼ばれ、奥州では最上級の家格として扱われていた。また、その分家も「猪去御所」など「御所」の尊称で呼ばれた。斯波氏は、京都斯波氏が筆頭管領のため幕府に直結する家柄として、天正年間に室町幕府が衰退するまで優位であったが、最後には南部氏の家臣となった。
- 安土桃山時代
- 浅野長政と蒲生氏郷の推挙により、領地のほぼ中央部に位置する岩手郡仁王郷不来方を新たな本拠に決定する。
- 南部氏は「福士氏」を目代とし、不来方(現在の盛岡)を支配する。福士伊勢入道慶善淡路と糠部彦次郎は不来方城(慶善館・淡路館)を築き、これは後の盛岡城の土台となった。南部氏は、奥州斯波氏の本拠地であった日詰高水寺城を「郡山城」へ改めて居を構え、信直、利直、重直の三代にわたり「不来方城」の旧地に盛岡城を築く。
- 1588年、南部氏は斯波氏を滅ぼし、現在の盛岡市の元となる岩手郡と斯波郡(紫波郡)を完全に支配下に置く。翌々年、南部氏が相続問題で混乱している最中に家臣大浦為信(津軽氏の祖)が謀反、小田原征伐に際して羽柴秀吉に謁見し、津軽3郡3万石の安堵状を得る。これにより南部氏は、元来の領地である津軽地方(青森県西部)を失う。これ以後、南部藩と津軽藩の精神的対立は領民の間ですら深刻なものとなり、現代に到るまで重大な禍根を残すこととなる。天正20年(1592年)、鎌倉時代以来400年間の統治拠点「厨川城」が廃され、不来方城(後の盛岡城)を中心とした城下町建設が始動した。これが「都市としての盛岡」の発祥である。以後、工藤氏は「栗谷川氏」を名乗り、福士氏をはじめ周囲の有力武門斯波氏・葛西氏とも縁戚関係を組みながら南部家家臣となった。「盛岡開府」以後の三戸南部氏は「盛岡南部氏」と呼ばれ、後世には八戸の「根城南部氏」(「波木井南部氏」とも称する)を配下に収めて遠野へ移封(後の「遠野南部氏」)、中世的同族連合であった南部氏を脱却し、南部家一党の宗家として近世大名となった。慶長4年(1599年)、「盛岡城」が一応の体裁を整え藩主入部を見たこの年、南部藩の命により、鉱山師「鎌津田甚六」が鹿妻に堰の掘削を行い大規模水路が完成。藩御用の用水として新田開発を進められる。この結果、盛岡南部・紫波郡での良質な米穀生産が可能となり、生産された米は悉く御蔵米となった。盛岡の繁栄は、この城下近郊での安定生産と農業技術向上によるものが大きい。この水路管理は明治に至り「鹿妻穴堰普通水利組合」(現在の「鹿妻穴堰土地改良区」)に受け継がれ、平成元年に国営盛岡南部水利事業の指定を受けて今日に至る。この頃既に南部領には、盛岡領内の豊富な砂金を目当てに現在の滋賀県高島市をはじめとする地域から近江商人が進出し、日詰郡山駅を拠点として城下町盛岡進出への足がかりとしていた。
- 江戸時代
- 明治維新以降
- 戊辰戦争で藩政が幕府側に与したことから、現在の盛岡市域は政府直轄地となり、岩手郡は松代藩、紫波郡は松本藩の取締を受けるなど、薩長側に与した旧藩に支配された。こうした動乱の中、秩禄を失った武家の間では、新天地を求める必然から、北海道開拓へ旅立つものも少なくなかった。現在の札幌市北区をはじめとする地域の開拓に努めたのは、旧盛岡藩士であった。
- 1870年 ‐ 「盛岡藩」が廃され「盛岡県」が成立。1872年には岩手県に。
- 1874年 ‐ 盛岡城取り壊し
- 1875年 ‐ 旧盛岡藩主南部氏が、旧藩士授産のための開墾事業を開始
- 1876年 ‐ 明治天皇行幸。盛岡師範学校開校
- 1889年 ‐ 市制施行。初代盛岡市長に旧盛岡藩士の目時敬之就任
- 1890年 ‐ 東北本線盛岡駅開通
- 1922年 ‐ 原敬の寄付により、岩手県立図書館開館(原は前年に死去)
- 1923年 ‐ 石割桜、国の天然記念物に指定
- 1927年 ‐ 菜園街区、大通都市開発開始。岩手県公会堂竣工。
- 1939年 ‐ 盛岡陸軍予備士官学校設立。
- 1945年 ‐ 盛岡駅前空襲
- 戦後
- 1949年 ‐ 岩手大学開学
- 1970年 ‐ 岩手国体開催、社会資本の整備(→#西部)。大会をきっかけに市民運動が高まり、今日「あすを築く盛岡市民運動」に継承。
- 1978年 - チャグチャグ馬コ、選択無形民俗文化財に選択
- 1979年 - 東北自動車道開通
- 1982年 - 東北新幹線暫定開通
- 1985年 - カナダ・ビクトリア市と姉妹都市締結
- 1992年 - 紫波郡都南村を編入合併
- 2006年 - 岩手郡玉山村を編入合併
- 2007年 - さんさ踊り太鼓パレード、太鼓数でギネス認定
- 2008年 - 中核市に移行
大手コンビニチェーンのセブンイレブンが大通三丁目と永井に、市内初出店。
6月14日に発生した、岩手宮城内陸地震で震度4を観測。また、7月24日に発生した岩手県沿岸北部地震で震度5弱を観測。
- 2011年 - 3月11日に発生した、東北地方太平洋沖地震で震度5強を観測。市内全域が停電した。
ギャラリー
行政
管轄警察署および消防署
警察署
消防署
おもな行政課題
- 財政再建
- 都市基盤の整備
耐震性に問題のある市庁舎の問題に加えて、火葬場や下水道改修問題(合流式下水道問題)など、高度経済成長期に整備した社会資本を更新する必要に迫られている。
- 渋滞問題
城下町である盛岡は、戦災を受けなかったこともあって、市中心部にまで細路地が残り、交通渋滞が慢性化している。市は、マイカー利用を抑える対策としてバス利用の促進を図る。国からオムニバスタウンに指定されている。
都市外交
- 国際姉妹都市
-
- ビクトリア市(カナダ ブリティッシュコロンビア州)1985年姉妹都市提携
予算規模
行政区域の変遷
- 1889年(明治22年)4月1日 - 市制・町村制が施行される。
- 仁王村、志家村、東中野村の一部、新庄村の一部、加賀野村の一部、山岸村の一部、三ツ割村の一部、上田村の一部、仙北町村の一部が合併して市制施行し、盛岡市となる。
- 上米内村、下米内村、上田村の一部、山岸村の一部、三ツ割村の一部が合併し、南岩手郡米内村が成立。
- 下厨川村、上厨川村、土淵村、平賀新田が合併し、南岩手郡厨川村が成立。
- 旧・浅岸村、加賀野村の一部、新庄村の一部が合併し、南岩手郡浅岸村が成立。
- 門村、東安庭村、東中野村の一部が合併し、南岩手郡中野村が成立。
- 旧・本宮村、向中野村、下鹿妻村、仙北町村の一部が合併し、南岩手郡本宮村が成立。
- 旧・梁川村、川目村、砂子沢村、根田茂村が合併し、南岩手郡梁川村が成立。
- 上太田村、中太田村、下太田村、上鹿妻村、猪去村が合併し、南岩手郡太田村が成立。
- 上飯岡村、下飯岡村、飯岡新田、永井村、湯沢村、羽場村が合併し、紫波郡飯岡村が成立。
- 東見前村、西見前村、三本柳村、津志田村が合併し、紫波郡見前村が成立。
- 旧・乙部村、黒川村、手代森村、大ヶ生村が合併し、紫波郡乙部村が成立。
- 1896年(明治29年)3月29日 - 南岩手郡と北岩手郡が合併し、岩手郡となる。
- 1913年(大正2年)6月10日 - 厨川村の一部を編入する。
- 1928年(昭和3年)4月1日 - 米内村を編入する。
- 1940年(昭和15年)1月1日 - 厨川村を編入する。
- 1941年(昭和16年)4月10日 - 浅岸村、中野村、本宮村を編入する。
- 1955年(昭和30年)
- 1961年(昭和36年)2月1日 - 盛岡市の一部が玉山村へ編入される。
- 1992年(平成4年)4月1日 - 都南村を編入する。
- 2006年(平成18年)1月10日 - 玉山村を編入する。
旧玉山村の沿革は「玉山区」の項を参照のこと。
議会
選挙は統一地方選挙として実施。
会派名 | 議員数 | 備考 |
---|---|---|
盛友会 | 17 | |
改革・みらい | 7 | |
市民連合 | 6 | |
新盛同志会 | 5 | |
日本共産党盛岡市議会議員団 | 5 | 日本共産党 |
公明党 | 2 | 公明党 |
欠員 | 0 | |
定数 | 42 | 地方自治法上の定数上限は46 |
国政・県政
国会議員
- 衆議院
- 参議院議員通常選挙では、岩手県全体で一つの選挙区。
岩手県議会議員
- 盛岡市選挙区の議員定数は10名。
経済
伝統産業
業務・流通
第3次産業就業人口が81.4%の商業都市である。地域別の平均所得ランキングでは、当市は1人当たりの所得が332万円で、東北地方では仙台市に次ぐ[11]。また、年間商品販売額は約1兆3559億円(2004年)で、東北地方では仙台市、郡山市に次ぐ第3位であり、北東北3県では最大の規模である。
高度経済成長期には、仙台市が広域中心都市として、盛岡市は県域中心都市としての地位を確立した。高度経済成長後は、他の地方で地方内のセカンドシティが確立していくが、東北新幹線開業(1982年)、東北自動車道全通(1987年)、八戸自動車道接続(1989年)など、1980年代に高速交通インフラが一気に整備された盛岡市は、業務・流通において北東北を管轄する東北地方のセカンドシティとなった。秋田新幹線開通や秋田新幹線による県間移動(2000年)に見られるように、秋田市と盛岡市との関わりは依然厚くないが、[12] 東北新幹線新青森駅延伸など高速交通インフラが更に拡充され、今後の動向が注目される。
商業地
近年中心市街地における商店街が歓楽街に変貌し、小売の多くが郊外型大規模小売店舗に代わる傾向が見られ[13]、中心市街地の路線価は、ピーク時1992年の3分の1以下まで下落した。中心商店街はシャッター街と迄はなっていないが、物販の郊外化と中心部の賃料の低廉化から、中心部の物販店は飲食店や娯楽店へと次々入れ替わっており、中心部における物販の衰退が進む。近年、盛岡市南西部に広がるかつての田園地帯に土地区画整理事業による新たな市街地を形成する盛岡南新都市の開発が進んでいる。物販機能はロードサイド店舗が集積する地区に分散し、同様に郊外である青山、みたけ、上堂、前潟、仙北、本宮、津志田等の地域が市内の物販を牽引している。人口の都心回帰が顕著であるが、物販の郊外化が進みつつある。
また、2004年(平成16年)3月の時点で、高さ30m以上の高層ビルは177棟以上が建設されている。建設中のビルを含めると200棟近い[14]。
消費動向
総務省家計費調査によると、1人当たりの年間書籍購入額は、東北地方の県庁所在地では第一位。なお、世帯あたりの豆腐の消費量が全国の県庁所在都市で第一位。[15]。物販の郊外化および流通の寡占化によって商品の多様性は以前と比べて低下したため、ファッション関連品目などの高級品を中心に多様性の維持・拡充が続く仙台や東京への流出傾向がある。
小売店
- 玉山区は除く。
- ホーマック
- 盛岡黒石野店
- 盛岡都南店
- スーパーデポ盛南店
- 盛岡上堂店
- サンデー
- 盛岡前潟店
- 盛岡月が丘店
盛岡市に拠点を置く主要企業
- 本社を置く企業
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- 出先を盛岡市に置き北東北を統括する企業
業務・流通の欄にもある通り、高速交通網の整備以降、北東北を統括する支店が増加する傾向にある。
- 盛岡に主要工場・事業所のある企業
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- 盛岡市の金融機関
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支店を置くもの
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郵便
- 盛岡中央郵便局(〒020-8799 郵便事業盛岡支店併設、岩手県統括支店。盛岡市内は〒020-00xx・020-02xx・020-03xx・020-08xx地域を管轄)
- 集配特定局
- 乙部郵便局(〒020-0499 郵便事業乙部集配センター併設。〒020-04xx地域を管轄)
- 好摩郵便局(〒028-4199 郵便事業好摩集配センター併設。玉山区の一部→〒028-41xx地域を管轄)
- 藪川郵便局(〒028-2799 郵便事業藪川集配センター併設。玉山区藪川地区→〒028-27xx地域を管轄)
- 集配特定局
- 盛岡北郵便局(〒020-0199 郵便事業盛岡北支店併設。〒020-01xx地域を管轄→岩手郡滝沢村全域を含む)。ただし020-01xx地域のうち盛岡市緑が丘・高松地区には盛岡中央郵便局が回収担当となっている郵便ポストが一部存在する(ただしそちらへの郵便物配達はすべて盛岡北局の担当)。
国の行政機関
地域
市内の各地域の特徴・町並み
昭文社発行の「都市地図シリーズ(1枚シートタイプ)」では盛岡市+紫波町・矢巾町・滝沢村を収録したタイプが「岩手県1」として発行されており、バリアフリー設備付き主要施設が書かれた「バリアフリー情報付き盛岡市中心部詳細マップ」付属(盛岡都心循環バス「でんでんむし」情報も掲載)。なおこのシリーズに雫石町と玉山区中心部(渋民・好摩地区)拡大図は非掲載である(「県別マップル3 岩手県道路地図」にも玉山区中心部と雫石町中心部の拡大図は非掲載。なお雫石町中心部&紫波町中心部拡大図は「スーパーマップル東北道路地図」に掲載されているが、玉山区中心部拡大図は非掲載)。
またゼンリン発行の盛岡市住宅地図は「盛岡市北部&滝沢村版」・「同・南部版」・「同・玉山区版」の3種類が発行されている。
中心部
中津川の北にあるため「河北」とも呼ばれるこの地域は、かつて「仁王郷」(南岩手郡仁王村)と称した。現在も当地では中津川、北上川、雫石川の三大河川が交差するが、安土桃山時代までは湿地帯で河川の氾濫が見られた。後にそれを自然の要塞とし盛岡築城が進められ、現在の盛岡市要部となった。江戸時代に藩の重臣屋敷の立ち並んだ盛岡城内丸跡には、明治になって官庁街が形成され、岩手県庁をはじめ、多くの官公庁施設や金融機関の本支店、マスコミ、医療機関などが集中する。慶長年間の盛岡開府に際しては、南部氏の旧城下町三戸から住人の移転が図られ「三戸町」が開かれたほか、京都からの移住した豪商らによる「京町(本町)」、「花屋町」、「材木町」など職人街がある。大通・菜園地区は、城内の食膳に野菜を供するための「盛岡城御菜園」跡を、昭和に入って都市計画により市街化したものである。 近年、マンションを始めとした中高層ビルの建設が進み、2012年現在東北地方において市街中心部における中高層マンションは、宮城県仙台市に次ぐ規模で建設が進んでいる[要出典]。
東部
「河南」と呼ばれるこの地域は、かつては「中野郷」とも呼ばれた。「中ノ橋」たもとに藩の「高札場」が置かれ、近世に到っても「小野組」「盛岡銀行」「盛岡貯蓄銀行」「第九十国立銀行」「岩手銀行」が置かれ、長らく経済交流の中心(金融街・商業街)として発達した。八幡町(盛岡八幡宮の門前町)、江戸時代には舟運による物流拠点「新山河岸(現・明治橋際)」と最寄の「新穀町惣門」などを中心に賑わう。鍛冶町一里塚や牛越場等の旧跡、「南昌荘」、「大清水多賀」などの近代の邸宅・料亭建築が残され、建築史を知る上で貴重なエリアである。盛岡天満宮門前の通り沿いには文教地区が形成され、良好な住宅地である。丘陵地帯には盛岡市動物公園、盛岡競馬場、岩山パークランドなどのある行楽地となり、東郊へは北上高地に至る丘陵地帯が広がる。
北部
藩政時代に「上田通」に属したこの地域には、岩手県立博物館、盛岡市立図書館、岩手大学ほか教育施設が連なり、広範囲な文教地域を形成する。昭和に入り、松園ニュータウン等の大規模住宅開発が行なわれた。
かつては盛岡藩の宗教政策により、領内の重要寺院が集められ、北山寺院群が形発生。盛岡ドミニカン修道院、日本ハリストス正教会盛岡教会などの歴史あるキリスト教会も点在(上田・高松・山岸)する。奥州街道の面影を残す「一里塚」跡や、三陸海岸から城下へ塩を運ぶ「塩の道」と呼ばれる野田街道がある。
かつては競馬場があり、閑院宮載仁親王は、近隣の黄金清水に因んで「黄金競馬場」と命名。移転した現在の「盛岡競馬場」は、これに因んで「ORO PARK(黄金の公園)」を愛称とする。
西部
藩政時代に「厨川通」に属したこの地域は、平安時代に安倍氏や鎌倉時代に奥州工藤氏が拠点とした地域で、安倍館遺跡、里館遺跡などが幅広く存在する。厨川柵、嫗戸柵の擬定地となっているほか、大館町遺跡、大新町遺跡など、古代の埋蔵遺跡も多く見られる。
昭和初期まで「観武ヶ原練兵場」が知られ、陸軍予備士官学校が置かれたほか、近代化遺産として注目を集める煉瓦造の「覆馬場」など、往時の建造物が多く残されていたが、平成に入って急速に失われている。
戦後は「観武ヶ原開拓農協」が置かれ農地開拓が進んだが、1970年にみちのく国体が開催された際、「岩手県営総合運動公園」が整備されたのを皮切りに碁盤状街区が整備され、県営体育館、県営スケート場、県営武道館などの各種スポーツ関連施設が集中的に整備され、後に飛躍的な宅地化へとつながった。 中心部と北上川を挟んで結ばれ、盛岡駅を核とする市街地が展開している。新幹線開通に伴う再開発と、ビジネスホテル等の進出により発展している。平成に入って、旧国鉄盛岡工場跡地の再開発をはじめとする「盛岡駅西口開発」が進み(マリオス、アイーナなどの建設)、従前の市街地と盛岡南新都市とを結ぶ中継点の地区である。
南部
藩政時代に「飯岡通」「向中野通」に属したこの地域は、盛岡開府に先立って開削された「鹿妻穴堰」の水利によって穀倉地帯として知られ、近年まで「太田米」というブランドが知られた。
平安時代には、坂上田村麻呂によって志波城、大宮神社などが開かれ、中央政権によって早くから開拓が進められた地域で、台太郎遺跡に代表される竪穴式住居などの埋蔵文化財が多い。
「仙北町」は、江戸時代に秋田仙北地方から移住した人々によって生まれた町で、肥沃な土地を背景に「青物・種苗」を扱い、豪商が軒を連ねた。本宮地区には「平民宰相」で知られる「原敬」の生家がある。
都市再生機構などによって、都心を補完する盛岡南新都市(ゆいとぴあ盛南)の整備が進められ、雫石川以南に急速な開発が進行しており、岩手県立美術館や「盛岡市先人記念館」「盛岡市アイスアリーナ」など文化施設が集積する。昭和後期になって盛岡流通センター、盛岡貨物ターミナル駅が置かれた。
玉山区
旧玉山村との合併に伴う地域自治区として、盛岡市の北部一帯に「玉山区」が設定されている(市町村の合併の特例等に関する法律第五条の五第1項を適用した「合併関係市町村の区域による地域自治区」、同法第五条の八の定める合併特例区ではない。設置期間は、2006年1月10日から2016年3月31日までの10年間[17])。石川啄木の生地「旧渋民村」を含む。1972年(昭和47年)には、岩洞湖畔が「北上京遷都」(早稲田大学21世紀の日本研究会)の候補地となり注目を集めた。なお、本州屈指の寒冷地であり、人口の減少が進む地区である。
土地利用
戦災を受けたのが盛岡駅周辺に限られたため、城下町開府以来の区画が残されているのが特徴である。中心部の道路は狭い所が多く、現在の市域の可住地に比して居住不可地域の比率が非常に高い。また、市街地東端の繁華街に位置する河川である中津川の上流地域などは水源保護の観点から都市開発がほとんど行われていない。
盛岡市は、盛岡城跡を中心に市街地が南北に展開する。北上盆地の平地が南北方向に開けているため、北部に隣接する滝沢村や南部に接する矢巾町に公共施設や高校、大学等を設置することが多い。なお、新興住宅地、郊外商業地といったベッドタウンとしての機能も、南北に隣接する町村へ展開する傾向にある。
盛岡市の事実上の中心部は、盛岡駅を中心とし、「現中心部」への道筋を一連の流れとする中津川・北上川・雫石川を跨ぐ「盛岡バスセンター - 内丸・大通・菜園 - 盛岡駅」の一帯であるが、中心市街地と規定されている範囲はこの実態よりも狭い。多くの都市が駅を中心に開発が進むのと対照的に、盛岡市は盛岡城を中心としているのが特徴である。
盛岡駅周辺の開発は東北新幹線開通当初は活発であったが、一時期停滞が続いた。しかし、旧国鉄盛岡工場用地他の再開発「盛岡駅西口開発」が進展するのに伴い、平成に入って盛岡駅周辺の利用価値が向上。大手ビジネスホテルや立体駐車場、タワーマンションの進出が相次ぐ。さらに雫石川への架橋が進んで、かつて田園地帯であった盛岡駅南西部を、新たな市街地とする区画整理事業開発に着手し、現在も進行中である。
インフラの整備率
- 下水道普及率 83.4%(2007年度)[18]
市外局番
盛岡市の電話番号(市外局番)は市内全域「019」である。かつては「0196」だったが、固定電話加入世帯の増加により番号不足が生じる恐れが出たため、桁ずらし(市外局番の末尾「6」を市内局番の最初に移す形)により旧「0196」地域(盛岡市・岩手郡雫石町&滝沢村・紫波郡紫波町と矢巾町)は1996年10月1日より現在の「019」に変更され(市内局番の頭に「6」が冠される形となってい)た。その後、桁ずれで使用可能となった60X~61X番台が枯渇したため、90X~92Xの市内局番が割り当てられ、現在に至る。
なお盛岡都市圏のうち八幡平市と岩手郡岩手町の市外局番は「0195」である(二戸地区と同じ市外局番だが交換局は別系統となっているため、八幡平市・岩手郡岩手町と葛巻町から二戸市・二戸郡一戸町・九戸郡軽米町と九戸村の固定電話番号へは市内通話扱いとはならず「0195」を押さなければならない)。
電話帳は「岩手県中央版」としてタウンページとハローページが別々に発行されており、県央版は盛岡都市圏の市町村(盛岡市・雫石町・滝沢村・紫波町・矢巾町・八幡平市・岩手町・葛巻町)を収録(以前は「岩手県北版」として二戸地域の自治体も収録されていたが、現在は二戸地区と分離発行)。「テレパル50」は盛岡市内全域版ではなく各地域毎(松園・玉山区・市内中心部等)に分けて発行されている。
教育
教育史
- 寛永13年(1636)、南部藩第3代藩主重直が盛岡城への「御新丸(現・岩手県警察本部)」建設に着手。
- 寛永18年(1641)、盛岡城御新丸完成。
- 寛文8年(1668)、南部藩第5代藩主行信が御新丸に「御稽古場」開設。武道の礎とする。
- 明和8年(1771)、南部藩第9代藩主智之、御稽古場を「武芸稽古場」として日影門外小路(現・日影門緑地)に移設。
- 天保11(1840)、南部藩第13代藩主利済が武芸稽古場を基に藩校「明義堂」開校。儒学者・下田三蔵を招聘。
- 安政元年(1854)、南部家御薬園(現・盛岡市中央公民館)を明義堂の医学・経学教場とする。
- 慶応2(1866)、南部藩第15代藩主利剛が明義堂を「作人館」と改称。修文所、昭武場、医学所に再編。
- 明治元(1868)、作人館が戊辰戦争により休校。
- 明治3年(1870)、作人館に洋学所「日新堂」を加えて再開。「盛岡県学校」に再編。
- 明治5年(1872)、学制発布により一時閉鎖を余儀なくされる。
- 明治6年(1873)、修文所跡地に「第七大学区第十八番中学区第一番小学校」(現・仁王小学校)開校。「第七大学区第十八番中学区第十九番小学校」(現・厨川小学校)。「盛岡小学校」(現・城南小学校のルーツ)開校。
- 明治7年(1874)、「鍛冶町小学校」(現・城南小学校のルーツ)開校。
- 明治8年(1875)、「仁王小学」、「公立仁王学校」と相次いで改称。
- 明治9年(1876)、「盛岡師範学校」(現・岩手大学教育学部)設立。仁王学校にて「天覧授業」が行われ、明治天皇以下、岩倉具視・木戸孝允・大隈重信をはじめ文武百官が来盛。
- 明治10年(1877)、「盛岡師範学校附属小学校」設立。
- 明治12年(1879)、外山牧場獣医学舎(現・岩手県立盛岡農業高等学校)設立。
- 明治13年(1880)、内丸に「公立岩手中学校」(現岩手県立盛岡第一高等学校)設立
- 明治20年(1887)、「公立仁王学校」が「仁王尋常小学校」と改称。
- 明治26年(1893)、「盛岡第二尋常小学校(旧盛岡小)」と「盛岡第三尋常小学校(旧鍛冶町小)」を統合して、「城南尋常小学校」が現在の「盛岡市立杜陵小学校」の地に開校。
- 明治30年(1897)、内丸に「岩手県実業学校」(現・岩手県立盛岡工業高等学校)開校。「岩手県尋常中学校」が「岩手県立盛岡尋常中学校」へ改称。「旧鍛冶町小学校」校舎にて「私立盛岡商業学校」(現・岩手県立盛岡商業高等学校)開校。盛岡高等小学校(現・盛岡市立下橋中学校)内に「盛岡市立高等女学校」(現・岩手県立盛岡第二高等学校)開校。
- 明治32年(1899)、「岩手県立盛岡尋常中学校」が「岩手県盛岡中学校」へ改称。
- 明治34年(1901)、「岩手県盛岡中学校」が「岩手県立盛岡中学校」と改称。「外山牧場獣医学舎」が「岩手県立農学校」へ改組。
- 明治35年(1902)、「盛岡市立高等女学校」が「岩手県立高等女学校」へ再編。
- 明治36年(1903)、上田三小路に「盛岡高等農林学校」(現・岩手大学農学部)開校。
- 明治39年(1906)、仁王尋常小学校に高等科を併置し,仁王尋常高等小学校と改称。
- 明治41年(1908)、工兵大隊・騎兵旅団の盛岡移転、盛岡停車場設立による人口増に対応するため「桜城尋常小学校」設立。「仁王尋常小学校」他から分離。内丸に「武徳殿」建設。
- 明治44年(1911)、「岩手県立高等女学校」が「岩手県立盛岡高等女学校」と改称。
- 大正2年(1913)、「仁王尋常小学校」跡地が「盛岡市立商業学校」校舎となる。
- 大正9年(1920)、「盛岡実践女学校」(現・盛岡市立高等学校のルーツ)、盛岡尋常高等小学校分教場(現・杜陵小)にて開校。
- 大正12年(1923)、「岩手県女子師範学校」が「岩手県立盛岡高等女学校」に併設開校。
- 大正13年(1924)、「私立盛岡夜間中学」(現・岩手県立杜陵高等学校)、岩手県立図書館で授業開始、同年設置認可。
- 大正14年(1925)、「盛岡実践女学校」が「盛岡女子商業学校」と改称。
- 大正15年(1926)、盛岡城御新丸跡に「岩手県女子師範学校附属小学校」(現岩手大学教育学部附属小学校)が開校。師範学校の上田移転により「仁王尋常高等小学校」が「盛岡師範学校附属小学校」の看板を併立する状態が昭和前期まで続く。
- 昭和15年(1940)、「盛岡市立第一高等女学校」、「盛岡国民学校」内に創設。「盛岡女子商業学校」が「盛岡市立女子商業学校」と改称。
- 昭和21年(1946)、「岩手県立盛岡高等女学校」」(現・岩手県立盛岡第二高等学校)に「岩手県立女子専門学校」(現・岩手県立大学盛岡短期大学部のルーツ)が併設開校。
- 昭和22年(1947)、仁王小学校に「仁王中学校」併設。
- 昭和23年(1948)、学制改革。「盛岡市立第一高等女学校」が「盛岡市立女子高等学校」と改称。「盛岡女子商業学校」が「盛岡市立女子商業高等学校」と改称。「岩手県立盛岡高等女学校」が「岩手県立盛岡第二高等学校」へ改称。「盛岡第一高等学校夜間定時制雫石分校」(現・岩手県立雫石高等学校)が開校。「岩手県立美術工芸学校」(現・岩手県立大学盛岡短期大学部のルーツ)開校。
- 昭和24年(1949)、「盛岡市立女子高等学校」と「盛岡市立女子商業高等学校」が統合し、「盛岡市立高等学校」が成立。「盛岡第一・盛岡第二・盛岡商業」の高等学校が統合し、「岩手県立盛岡高等学校」となる。新制大学制度により「岩手県女子師範附属小学校」が「岩手大学学芸学部附属小学校」として成立。
- 昭和26年(1951)、「岩手県立盛岡高等学校」の再分離。「岩手県立女子専門学校」が「岩手県立盛岡短期大学」となる。
- 昭和28年(1953)、御新丸跡の岩手県女子師範学校校舎に「岩手県消防学校」設立。(後の盛岡消防本部・岩手県警察本部)
- 昭和29年(1954)、「盛岡市立河北小学校」設立に伴い仁王小学校より分離。
- 昭和31年(1956)、「盛岡市立上田小学校」設立に伴い仁王小学校より分離。
- 昭和33年(1958)、「盛岡市立山王小学校」設立に伴い城南小学校より分離。
- 昭和37年(1962)、「岩手県立盛岡第三高等学校」、岩手大学学芸学部校舎にて開校。
- 昭和39年(1964)、「岩手県立盛岡第四高等学校」、盛岡商業高等学校校舎にて開校。
- 昭和41年(1966)、「岩手大学学芸学部附属小学校」が「岩手大学教育学部附属小学校」に改称。
- 昭和44年(1969)、岩手県立盛岡短期大学に「附属こまくさ幼稚園」設置。
- 昭和48年(1973)、仁王小学校に「盛岡市立中津川小学校」を統合。
- 昭和49年(1974)、「岩手県立盛岡北高等学校」、杜陵高等学校校舎にて開校。
- 昭和55年(1980)、「盛岡市立高松小学校」設立に伴い仁王小学校より分離。
- 昭和56年(1981)、「盛岡市立武道館」建造。
- 昭和57年(1982)、内丸の「武徳殿」解体。体育科を伴う「岩手県立盛岡南高等学校」開校。
- 昭和63年(1988)、岩手県初の学系制高校「岩手県立不来方高等学校」開校。
- 平成2年(1990)、「岩手県営武道館」創立。
- 平成7年(1995)、「盛岡市弓道場」建造。
- 平成9年(1997)、岩手県立大学設置に先立ち、盛岡短期大学の発展的解消に伴う募集停止。
- 平成10年(1998)、「岩手県立大学」開学。岩手県立盛岡短期大学を「岩手県立大学盛岡短期大学部」とし、滝沢キャンパスへ移転。附属こまくさ幼稚園は、「岩手県立大学附属こまくさ幼稚園」となる。
- 平成11年(1999)、「岩手県立盛岡短期大学」跡(住吉町)を、盛岡東警察署が建替間の仮庁舎として使用(2002年(平成14年)11月まで)。「こまくさ幼稚園」が盛岡教育事務所へ移管され、「岩手県立こまくさ幼稚園」となる。
- 平成16年(2004)、「岩手県立紫波高等学校」が、「岩手県立紫波総合高等学校」へ移行。
- 明治25年(1892)、育英学舎(現・江南義塾盛岡高等学校)設立。盛岡女学校(現・盛岡白百合学園中学校・高等学校)設立。
- 明治34年(1901)、「私立岩手医学校」(現・「岩手医科大学」)設立。
- 明治42年(1909)、岩手県初の幼稚園「盛岡幼稚園」設立。
- 大正10年(1921)、盛岡市内丸の作人館中学校校舎跡に「盛岡実科高等学校」(現・岩手女子高等学校)設立。
- 大正15年(1926)、盛岡市大沢川原に旧制「岩手中学校」(現・岩手中学校・高等学校)設立。
- 昭和2年(1927)、盛岡市紙町に「盛岡裁縫普及会」(現・盛岡女子高等学校)設立。
- 昭和8年(1933)、盛岡市菜園に「盛岡友の会生活学校」(現・盛岡スコーレ高等学校)設立。
- 昭和25年(1950)、盛岡市菜園に「生活研究所」(現・学校法人「盛岡大学」)設立。
- 昭和38年(1963)、盛岡市みたけに「龍澤高等学校」(現・盛岡中央高等学校)設立。
- 平成2年(1990)、岩手女子看護短期大学(現・岩手看護短期大学)設立。
大学
- 県立高校
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- 市立高校
- 私立高校
初等教育
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交通
市街地の渋滞緩和を図るため、路線バスの利用促進を図る。国からオムニバスタウンに指定されており、ゾーンバスシステムを軸に、路線バスの高度利用を進めている。
また盛岡市を中心とする盛岡都市圏が北東北の広域交通網を束ねる役目を果たしており、盛岡駅や盛岡バスセンターからは北東北各地を結ぶ高速路線バスが多数発着している。
市中心部まで
市内を通る鉄道は、JR線とIGRいわて銀河鉄道線。中心部にはターミナル駅の盛岡駅があり、東北新幹線はじめ各鉄道路線と接続されている。盛岡 - 東京間は、最寄のいわて花巻空港(花巻市)に東京便がないこと、空港から盛岡市までのアクセスの問題から、東北新幹線が圧倒的に優位である。
市内路線バス
市内の公共輸送は、路線バスが主力。運行地域は市内のほぼ全域。ゾーンバスシステムと称して、郊外の住宅地では綿密に「支線バス」を設定(前述#行政参照のこと)。一方で、郊外と市街地との間は「支線バス」と「基幹バス」をバスセンターなどを通じて連絡している。
- バス運行事業者
高速バス・特急バス
盛岡市以北の都市との間の高速バスは、東北新幹線に接続する路線として発達したが、東北新幹線が新青森駅まで延伸(2010年(平成22年)12月4日)したことで利用客が減少傾向にある。ただし「大館線」は大きな影響を受けていない。「仙台線」も東北新幹線と競合するが、新幹線の半額に運賃が設定されているため利用客は多い。
※2007年度の利用客数も付記 [1]。
- 昼行便
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- 盛岡市 - 仙台市:25.7万人(アーバン号)
- 盛岡市 - 大館市:20.9万人(みちのく号)
- 盛岡市 - 弘前市:16.5万人(ヨーデル号)
- 盛岡市 - 青森市:5.1万人(あすなろ号)
- 盛岡市 - 一関市:2.4万人(室根 - 盛岡線)
- 盛岡市 - 二戸市:2.2万人(すーぱー湯〜遊)
- 盛岡市 - 久慈市:1.2万人(久慈こはく号)+1.0万人(スーパー久慈)
- 盛岡市 - 八戸市:1.8万人(八盛号)
- 盛岡市 - 軽米町:1.9万人(ウィンディ)
- 盛岡市 - 十和田湖:0.2万人(とわだこ号)-季節運行
- 盛岡市 - 宮古市:(106急行バス)-高速道路区間なし
- 盛岡市 - 大船渡市:(急行盛岡大船渡線)
- 夜行便
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- 盛岡市 - 東京駅:5.5万人(ドリーム盛岡 (らくちん) 号)
- 盛岡市 - 厚木市:1.2万人(盛岡 - 横浜線)
鉄道
- ■ 東北新幹線 (盛岡駅)
- ■ 東北本線(岩手飯岡駅 - 仙北町駅 - 盛岡駅)
- ■ 田沢湖線(■秋田新幹線)(盛岡駅)
- ■ 山田線(盛岡駅 - 上盛岡駅 - 山岸駅 - 上米内駅 - 大志田駅 - 浅岸駅)
- ■ 花輪線(盛岡駅 - 好摩駅)
- ■ いわて銀河鉄道線(盛岡駅 - 青山駅 - 厨川駅 - (滝沢駅、巣子駅は滝沢村域) - 渋民駅 - 好摩駅)
道路
高速道路
- 東北自動車道:盛岡南IC - 盛岡IC
- 盛岡インター及び盛岡南インターから高速に乗ると、次の給油所付きSA/PAは仙台・東京方面が紫波SA、青森・八戸方面が岩手山SAとなる。
- 花巻JCTで釜石道へ乗り継ぐ場合は紫波SAが高速道路上にある唯一の給油所となる。
- 北上JCTで秋田道へ乗り継ぐ場合、紫波SAの次の錦秋湖SA内給油所(横手・秋田方面最終給油所)は日中のみの営業で夜間は閉鎖されるので、深夜帯走行の場合は一般道路上にある給油所で事前に給油を済ませるか、紫波SAで必ず給油しておく必要がある(錦秋湖SAより先の横手・秋田方面は湯沢横手道路・日東道含め終点まで給油所付きSA/PA無し)。なお当市から秋田市までの距離は一般道(国道46号・国道13号)経由のほうが短い(横手市までの距離も一般道の岩手県道・秋田県道1号盛岡横手線&国道107号経由のほうが短い)。
- 青森・八戸方面へ向かう(下り線に入場する)場合は岩手山SAが高速道路上にある唯一の給油所となり、その先は終点まで(青森自動車道・津軽自動車道・百石道路・第二みちのく有料道路を含め)約150kmにわたり給油所付きSA/PAが一切無い。このため下り線(青森・八戸方面)へ入場の際は事前に一般道路上にある給油所で給油を済ませるか、岩手山SAで必ず給油しておく必要がある(岩手山SA下り線の給油所は常時混雑するので、一般道路上で予め給油を済ませたほうが無難)。
地域高規格道路
一般国道
主要地方道
一般県道
- 岩手県道119号仙北町停車場線
- 岩手県道120号不動盛岡線
- 岩手県道128号厨川停車場線
- 岩手県道129号好摩停車場線
- 岩手県道132号上盛岡停車場線
- 岩手県道158号藪川川口線
- 岩手県道169号渋民川又線
- 岩手県道172号盛岡鶯宿温泉線
- 岩手県道199号西根好摩線
- 岩手県道204号大志田停車場線
- 岩手県道208号大ヶ生徳田線
- 岩手県道220号氏子橋夕顔瀬線
- 岩手県道223号盛岡滝沢線
- 岩手県道258号繋温泉線
- 岩手県道293号本宮長田町線
- 岩手県道502号盛岡矢巾自転車道線
マスコミ
岩手県は、情報格差の解消が比較的遅れた地域で、在盛TV局のうち、フジテレビ系列の岩手めんこいテレビ、テレビ朝日系列の岩手朝日テレビは平成期の開局である[19]。
新聞社
全国紙・広域紙 | 地方紙 |
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放送局
県域放送
- NHK盛岡放送局(ラジオは第1放送531kHz・第2放送1386kHz・FM放送83.1MHz)
- IBC岩手放送(IBC。テレビはTBS(JNN)系列、ラジオはJRN/NRN系列・周波数684kHz)
- テレビ岩手(TVI。日本テレビ系列)
- 岩手めんこいテレビ(MIT。フジテレビ系列)
- 岩手朝日テレビ(IAT。テレビ朝日系列)
- エフエム岩手(TFM/JFN系列、76.1MHz。TVI本社ビル7階に本社演奏所を構え、基幹送信所もTVIと共用)
盛岡市内テレビ中継局
- 大半の世帯は紫波新山にアンテナを向けているが、そちらからの電波が届きにくい山間部向けに以下の中継局が置かれている。
- 盛岡川目テレビ中継局
- 盛岡浅岸テレビ中継局
- 以上2局からはデジタル放送電波が送出されている。但しこの両局は出力がアナログ放送時代より減力され、さらに浅岸局のデジタル送信塔は従前のアナログ放送とは別の場所に設置された。
- なお松園北・松園南・繋の3中継局は他地域局からの電波による地デジ受信が可能なため、2012年3月31日を以て廃局となる。このためこれら中継局エリアでは地デジ受信時にアンテナの方向変更が必要。
- 滝沢谷地山局や雫石テレビ中継局を受信している世帯もある。
コミュニティ放送
- ラヂオもりおか(76.9MHz)
ケーブルテレビ
- 岩手ケーブルテレビジョン
- テレビ都南(2011年7月24日廃局)
このほか、情報誌として アキュート(タウン情報誌)、Vivitto(女性ファッション誌&生活情報誌)、てくり(ミニコミ誌)、月刊 ファウル(ナイトマガジン)。フリーペーパーとしてマ・シェリ、情報紙 游悠などが発行されている。
文化財
国の指定・登録等に係るものは、重要文化財が14件、重要美術品が5件、重要無形民俗文化財が1件、選択無形民俗文化財が1件、史跡が2件、天然記念物が3件(地域を定めず指定されたものを除く)、登録有形文化財が2箇所(9件)である。盛岡市教育委員会歴史文化課ウェブページ を参照(指定等の件数については数え方の違いがあり、必ずしも上述の件数と一致しない)。
観光
平安時代以後の城柵・城館跡や、盛岡開府以来の城下町成立に伴う神社・仏閣がある。また、奥羽山脈(那須火山帯)に近接することから、周辺に様々な泉質を持つ温泉が多い。また文学者である金田一京助や石川啄木、宮沢賢治や、政治家の原敬、米内光政などが青春時代を過ごした町であり、先人に関する石碑や施設も多い。
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祭事・催事
味覚
麺類が有名で、「麺都」と称されることがある。南部杜氏の本場であり、酒どころである。三陸海岸(陸中海岸)を後背地とするため、寿司の名店が多いことでも知られる。「べんじぇもの(弁財物)」と呼ばれるこの地域独特な餅菓子類が多く見られる。
以下、盛岡でよく食される特徴的な料理方法、食材、呼び方など。
- 郷土料理
- 菓子
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- 醤油だんご:みたらし団子とは異なり、古い団子の製法によって作られ、醤油のみを仕様する串団子。全国的に見て、盛岡市近辺にのみ作られている。
- ゆべし:北陸・九州で知られる「柚子釜ゆべし」と異なる。
- きりせんしょ:ゆべしと同一視されることがある。関東以南で知られる「きりせんしょ」同様、山椒を加えることが稀にある。
- お茶餅:「うちわもち」とも。胡桃味噌を塗して焼いた餅。
- 鎌焼:「鎌」の歯に見立てた呼び名。胡桃餡や味噌餡などを包む。「味噌っぱさみ」とも。生地が白の場合、シソの葉で巻くことがある。
- 花饅頭:うるち米と餅米をまぜ、ふかして作った菓子。桃の節句に食する。
- 黄精飴:江戸時代に方長老が漢方薬として伝えたという「黄精(アマドコロ)」を使った菓子。
- 葡萄飴:山葡萄の甘味を生かした餅菓子。
- 豆銀糖:江戸時代の豆銀に見立てた青豆菓子。
- からめ餅:盛岡藩の「金山からめ節」に因んだとも、携行食ともいわれる。
- 南部煎餅:小麦をベースに胡麻・胡桃・落花生などをあしらった焼菓子。
- ぶぢょほ団子:黒蜜を包んだ一口餅。噛むと黒蜜が飛び出すため一口で食べねばならず、「不調法(行儀が悪いこと)」に見えることからその名が着いた。
- 豆しとぎ:枝豆で製する蒸し菓子。
- 雁月(がんづき):小麦粉と胡桃・胡麻を混ぜ蒸した菓子。まぶした胡桃が月を渡る雁に見えることから。
- へっちょこ団子:一口大の白玉団子をへこませて茹で、汁粉に入れて食す。「へっちょこ」とは、臍のこと。
- 小麦餅:小麦粉を練って焼いた自家製菓子。
- 蕎麦餅:蕎麦粉を練って焼いた自家製菓子。
- 干し餅:餅を薄く切って乾燥させたもの。揚げたり湯に浸し崩して食べる。
- 薄焼き:主に祭礼の出店で売られる、小麦粉を伸ばして焼いたクレープ状の菓子。
- 盛岡駄菓子:元来、保存食として生まれ、祭事に用いられ子どもの菓子として定着した。石衣(兎玉)、青柳、丹切、茶玉、肉桂玉、薄荷糖、生姜糖、焼酎糖、黄粉ねじり、ラッキョウ飴など。正月に限り、相撲力士を象った小麦菓子を売る習慣がある。
- ロシアビスケット:ロシアから伝わった非常に硬い胡桃のビスケット。現在は盛岡市内正食普及会より販売。
- 食材の呼び方・食習慣
- 地ビール
スポーツチーム
盛岡を舞台とした作品
- 児童書
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- はしれ!とうほくしんかんせん - 小峰書店 (盛岡に向かう新幹線)
- しゅっぱつしんこう! - 福音館 山本忠敬著(盛岡に向かう特急と気動車)
盛岡市出身者
政財界・法曹界・学界
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作家・芸術家・漫画家
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俳優・芸能界・アナウンサー・スポーツ選手
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盛岡市にゆかりのある有名人
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文献
- 佐藤優 『脈脈 盛岡の街づくり』(在研究所 1984)
- 佐藤優 『「五感」性のある景観創造〜盛岡市の都市景観行政と地区計画〜』(北土社 1991)
出典
- ^ 30年平均(1976年 - 2005年)で夏日が68.6日、真夏日が17.7日ある。
- ^ http://www.reigai.affrc.go.jp/zusetu/inasaku/jittai/nogyo.html
- ^ 気象庁・過去の気象データ検索・盛岡 1994年(平成6年)8月11日・1時間ごとの値
- ^ 気象庁・過去の気象データ検索・盛岡 1999年(平成11年)8月6日・1時間ごとの値
- ^ 気象庁・過去の気象データ検索・盛岡 年ごとの値 各階級の日数(最低)・≧25℃の項目を参照
- ^ 基礎2: 気温・地温と局地循環「近藤純正ホームページ」
- ^ M29.放射冷却「近藤純正ホームページ」
- ^ “盛岡 19801-2010年”. 気象庁. 2011年10月18日閲覧。
- ^ “藪川 19801-2010年”. 気象庁. 2011年10月18日閲覧。
- ^ “好摩 19801-2010年”. 気象庁. 2011年10月18日閲覧。
- ^ 毎日新聞集計、2005年(平成17年)7月1日時点、全国2375市区町村
- ^ 東北地方における不均衡発展 (PDF) (経済地理学会)
- ^ 中心市街地の活性化について 岩手県商工労働観光部
- ^ 『岩手日報』(2004年(平成16年)10月8日)
- ^ 平成18年度盛岡地区広域消費購買動向調査の結果【概要】 岩手県産業振興課 平成18年12月
- ^ 岩手県庁が登記上の本店で、実質的な本社は宮古駅(宮古市)。
- ^ ウェブもりおか:市のしくみと施策:玉山区地域協議会
- ^ 盛岡市の下水道 盛岡市下水道部
- ^ 1996年10月1日のIAT開局を以て東北6県で(宮城・福島に次いで)3番目に民放TVが4局出揃った。
関連項目
外部リンク
- 行政
- 観光
- 地図