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[[ファイル:Emperor Naruhito 20190504b.jpg|thumb|[[徳仁|今上天皇]]の即位を祝う一般参賀、[[宮殿]][[長和殿]](2019年5月4日)]]
[[ファイル:Emperor Naruhito 20190504b.jpg|thumb|[[徳仁|今上天皇]]の即位を祝う一般参賀、[[宮殿]][[長和殿]](2019年5月4日)]]
[[ファイル:Emperor Naruhito 20190504a.jpg|thumb|一般参賀に出席する今上天皇、[[皇后雅子|皇后]]、[[秋篠宮文仁親王]](2019年5月4日)]]
[[ファイル:Emperor Naruhito 20190504a.jpg|thumb|一般参賀に出席する今上天皇、[[皇后雅子|皇后]]、[[秋篠宮文仁親王]](2019年5月4日)]]
「てんのう」は、「てんおう」の[[連声]](れんじょう)とされる{{sfn|松村|2014a|p=「天皇」}}{{sfn|松村|2014b|p=「天皇」}}。古代の日本では、[[ヤマト王権]]の首長を「[[大王 (ヤマト王権)|大王]]」(オオキミ)といったが、[[天武天皇|天武朝]]ごろから[[中央集権国家]]の[[君主]]として「天皇」が用いられるようになった{{sfn|松村|2014b|p=「天皇」}}。「天皇」は[[大和朝廷]]時代の大王が用いた[[称号]]であり、[[奈良時代]]から[[平安時代]]にかけて[[政治]]・[[祭祀]]の頂点だったが、[[摂関政治]]・[[院政]]・[[武家]]の台頭により政治的実権を失っていった{{sfn|松村|2014a|p=「天皇」}}。[[室町時代]]には多くの[[宮中祭祀]]の廃絶もあり劣位となったが、「[[江戸時代]]末に[[尊王論]]が盛んとなり、[[王政復古]]、[[大日本帝国憲法|明治憲法]]における[[天皇制]]へとつながった」といわれる{{sfn|松村|2014a|p=「天皇」}}。
「てんのう」は、「てんおう」の[[連声]](れんじょう)とされる{{sfn|松村|2014a|p=「天皇」}}{{sfn|松村|2014b|p=「天皇」}}。古代の日本では、[[ヤマト王権]]の首長を「[[大王 (ヤマト王権)|大王]]」(オオキミ)といったが、[[天武天皇|天武朝]]ごろから[[中央集権国家]]の君主として「天皇」が用いられるようになった{{sfn|松村|2014b|p=「天皇」}}。「天皇」は[[大和朝廷]]時代の大王が用いた[[称号]]であり、[[奈良時代]]から[[平安時代]]にかけて[[政治]]・[[祭祀]]の頂点だったが、[[摂関政治]]・[[院政]]・[[武家]]の台頭により政治的実権を失っていった{{sfn|松村|2014a|p=「天皇」}}。[[室町時代]]には多くの[[宮中祭祀]]の廃絶もあり劣位となったが、「[[江戸時代]]末に[[尊王論]]が盛んとなり、[[王政復古]]、[[大日本帝国憲法|明治憲法]]における[[天皇制]]へとつながった」といわれる{{sfn|松村|2014a|p=「天皇」}}。


[[大日本帝国憲法]]では、[[国家元首]]であって、神聖不可侵であり、かつ[[統治権]]を総攬{{efn|{{読み仮名|総攬|そうらん}}とは「統合して一手に掌握すること」、「(政治・人心などを)掌握して治めること」の意<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%B7%8F%E6%94%AC-553335 『デジタル大辞泉』・『大辞林 第三版』]</ref>。}}するものとして規定されていた<ref name="daijirin" />{{sfn|松村|2014a|p=「天皇」}}{{sfn|松村|2014b|p=「天皇」}}。[[大日本帝国]]時代に天皇は
[[大日本帝国憲法]]では、[[国家元首]]であって、神聖不可侵であり、かつ[[統治権]]を総攬{{efn|{{読み仮名|総攬|そうらん}}とは「統合して一手に掌握すること」、「(政治・人心などを)掌握して治めること」の意<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%B7%8F%E6%94%AC-553335 『デジタル大辞泉』・『大辞林 第三版』]</ref>。}}するものとして規定されていた<ref name="daijirin" />{{sfn|松村|2014a|p=「天皇」}}{{sfn|松村|2014b|p=「天皇」}}。[[大日本帝国]]時代に天皇は
{{Quotation|「[[現人神]]」「[[唯一神]]」「[[唯一]]天皇」「総[[帝]]」「[[wiktionary:ja:絶対|絶対]]至尊」}}
{{Quotation|「[[現人神]]」「[[唯一神]]」「[[唯一]]天皇」「総[[帝]]」「[[wiktionary:ja:絶対|絶対]]至尊」}}
といった類の呼称をされており、こうした天皇を[[]][[世界]]・全[[宇宙]]の[[頂点]]とする[[価値観]]は
といった類の呼称をされており、こうした天皇を全世界・全[[宇宙]]の[[頂点]]とする[[価値観]]は
{{Quotation|「[[八紘一宇]]」「天皇総帝論」「唯一の[[思想]]的原[[動力]]」「[[国家社会主義]]」「純なる[[日本]]的[[世界観]]」「[[大和民族]]の宿[[志]]」「[[惟神]](かんながら)的世界観」}}
{{Quotation|「[[八紘一宇]]」「天皇総帝論」「唯一の[[思想]]的原[[動力]]」「[[国家社会主義]]」「純なる日本的[[世界観]]」「[[大和民族]]の宿[[志]]」「[[惟神]](かんながら)的世界観」}}
とのように呼称されていた<ref>新田均『「現人神」「国家神道」という幻想』、58-59ページ、99-107ページ。{{Full citation needed |date=2019/05/13 |title=新田氏を著者とするこのタイトルの書籍には、刊行年と発行元を異にする2つのバージョンがありますが、どちらを指しているのか不明です。なお、この書籍は本記事内で出典として数十回使われており、その大半が刊行年・発行元が不明の状態です。}}</ref>。(詳細は[[天皇#一神教・国家神道]]を参照。)「[[皇帝]]」と「天皇」は併用されていたが、[[1936年]](昭和11年)には「天皇」に統一された<ref name="daijirin" />。
とのように呼称されていた<ref>新田均『「現人神」「国家神道」という幻想』、58-59ページ、99-107ページ。{{Full citation needed |date=2019/05/13 |title=新田氏を著者とするこのタイトルの書籍には、刊行年と発行元を異にする2つのバージョンがありますが、どちらを指しているのか不明です。なお、この書籍は本記事内で出典として数十回使われており、その大半が刊行年・発行元が不明の状態です。}}</ref>。(詳細は[[天皇#一神教・国家神道]]を参照。)「[[皇帝]]」と「天皇」は併用されていたが、[[1936年]](昭和11年)には「天皇」に統一された<ref name="daijirin" />。


君主とは[[伝統]]的に、国家で特定の一人が[[主権]]を持つ場合のその主権者であり<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%90%9B%E4%B8%BB-58352#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8フランク・B・ギブニー編 『ブリタニカ国際大百科事典:小項目事典』、ティビーエス・ブリタニカ、2016年。]</ref>、[[王]]・[[帝王]]・[[天子]]・[[皇帝]]・[[きみ]]などとも言われる<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%90%9B%E4%B8%BB-58352#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 松村明編 『デジタル大辞泉』 小学館、2016年、「君主」の項。 松村明編 『大辞林 第三版』 三省堂、2016年、「君主」の項。]</ref>。『日本大百科全書』は、天皇は通常の[[立憲君主]]の権限は無いとし、『法律用語辞典(第4版)』は、象徴天皇と元首天皇を別としている<ref name="ndhy">[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%88%B6-102684#%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6%E5%BE%8C%E3%81%AE%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%88%B6 安田浩 『日本大百科全書』 小学館、2016年、「天皇制」の項。]<br />{{Cite book|和書|author=法令用語研究会|year=2015|title=法律用語辞典|edition=第4版|page=「天皇」の項|publisher=JapanKnowledge}}</ref>。また『国史大辞典』は[[法制]]上、象徴天皇は君主ではないとしている<ref name=kokushi/>。
君主とは[[伝統]]的に、国家で特定の一人が[[主権]]を持つ場合のその主権者であり<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%90%9B%E4%B8%BB-58352#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8フランク・B・ギブニー編 『ブリタニカ国際大百科事典:小項目事典』、ティビーエス・ブリタニカ、2016年。]</ref>、[[王]]・[[帝王]]・[[天子]]・皇帝・[[きみ]]などとも言われる<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%90%9B%E4%B8%BB-58352#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 松村明編 『デジタル大辞泉』 小学館、2016年、「君主」の項。 松村明編 『大辞林 第三版』 三省堂、2016年、「君主」の項。]</ref>。『日本大百科全書』は、天皇は通常の[[立憲君主]]の権限は無いとし、『法律用語辞典(第4版)』は、象徴天皇と元首天皇を別としている<ref name="ndhy">[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%88%B6-102684#%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6%E5%BE%8C%E3%81%AE%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%88%B6 安田浩 『日本大百科全書』 小学館、2016年、「天皇制」の項。]<br />{{Cite book|和書|author=法令用語研究会|year=2015|title=法律用語辞典|edition=第4版|page=「天皇」の項|publisher=JapanKnowledge}}</ref>。また『国史大辞典』は[[法制]]上、象徴天皇は君主ではないとしている<ref name=kokushi/>。
{{See also|象徴天皇制#「君主」に関する議論|皇帝}}
{{See also|象徴天皇制#「君主」に関する議論|皇帝}}


大日本帝国憲法では[[大日本帝国憲法第4条|第4条]]で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ{{読み仮名|総攬|そうらん}}」するとの明記があったが、現行の日本国憲法には元首の規定はなく、そのため元首について様々な見解がある<ref name=nd>[https://kotobank.jp/word/%E5%85%83%E9%A6%96-60642#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 田中浩「元首」、『日本大百科全書』小学館、2016年。]</ref>。象徴天皇を元首とする説、実質的機能を重視し[[内閣]](または[[首相]])を元首とする説、元首は不在とする説等がある<ref>{{Cite book|和書|author=河合秀和|year=2015|title=情報・知識 imidas 2015|page=「元首[政治理論]」の項|publisher=JapanKnowledge}}</ref>。条約締結や外交使節任免および外交関係処理の権限をもつ内閣を元首とするか、内閣を代表する[[内閣総理大臣]]を元首とする学説が多い<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%85%83%E9%A6%96-60642#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 田中浩「元首」、『日本大百科全書』 小学館、2016年。]</ref>。内閣法制局は「日本国憲法においては天皇を元首であるといっても差し支えない」「天皇は限定された意味で、国家元首である」とする一方、最終的には定義によるとしている。
大日本帝国憲法では[[大日本帝国憲法第4条|第4条]]で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ{{読み仮名|総攬|そうらん}}」するとの明記があったが、現行の日本国憲法には元首の規定はなく、そのため元首について様々な見解がある<ref name=nd>[https://kotobank.jp/word/%E5%85%83%E9%A6%96-60642#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 田中浩「元首」、『日本大百科全書』小学館、2016年。]</ref>。象徴天皇を元首とする説、実質的機能を重視し[[内閣]](または[[首相]])を元首とする説、元首は不在とする説等がある<ref>{{Cite book|和書|author=河合秀和|year=2015|title=情報・知識 imidas 2015|page=「元首[政治理論]」の項|publisher=JapanKnowledge}}</ref>。条約締結や外交使節任免および外交関係処理の権限をもつ内閣を元首とするか、内閣を代表する[[内閣総理大臣]]を元首とする学説が多い<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%85%83%E9%A6%96-60642#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 田中浩「元首」、『日本大百科全書』 小学館、2016年。]</ref>。内閣法制局は「日本国憲法においては天皇を元首であるといっても差し支えない」「天皇は限定された意味で、国家元首である」とする一方、最終的には定義によるとしている。
{{See also|日本の元首}}
{{See also|日本の元首}}
『[[世界大百科事典]]』によると、日本国憲法によって[[主権者]]は[[国民]]となり、「天皇は主権者の一員でもない」とされている{{sfn|下中直人(編)|2009|p=385}}。「象徴規定にはとくに法的意味はなく、また国民を統合する機能は憲法上天皇には期待されていない」という{{sfn|下中直人(編)|2009|p=385}}。天皇へ認可された[[権能]]は極めて限定されており、「[[行政権]]ももたず[[国]]を対外的に[[代表]]することもない天皇を[[君主]]とか[[元首]]とみることは困難」とされる{{sfn|下中直人(編)|2009|p=385}}。天皇の地位は主権者である国民の[[総意]]に基づいており([[日本国憲法第1条|第1条]])、「国民の総意によって天皇制度を改廃することが可能」となっている{{sfn|下中直人(編)|2009|p=385}}。「[[神勅主義]]は明確に否定されているので、[[神秘]]的・[[宗教]]的[[要素]]がここに介入する余地は皆無」であり、天皇は[[公]]的な宗教的活動が禁止されている([[日本国憲法第20条|第20条]])こともあって、「天皇、国家の[[世俗]]化が要求されている」{{sfn|下中直人(編)|2009|p=385}}。「[[神道]]が特別な[[地位]]を与えられることはもはや許されない」のであり、[[皇位継承]]の際に行われた[[大嘗祭]]や[[三種の神器]]の継承は、「[[天皇家]]の私事としてのみありうる」とされる{{sfn|下中直人(編)|2009|p=385}}。
『[[世界大百科事典]]』によると、日本国憲法によって[[主権者]]は[[国民]]となり、「天皇は主権者の一員でもない」とされている{{sfn|下中直人(編)|2009|p=385}}。「象徴規定にはとくに法的意味はなく、また国民を統合する機能は憲法上天皇には期待されていない」という{{sfn|下中直人(編)|2009|p=385}}。天皇へ認可された[[権能]]は極めて限定されており、「[[行政権]]ももたず[[国]]を対外的に[[代表]]することもない天皇を君主とか元首とみることは困難」とされる{{sfn|下中直人(編)|2009|p=385}}。天皇の地位は主権者である国民の[[総意]]に基づいており([[日本国憲法第1条|第1条]])、「国民の総意によって天皇制度を改廃することが可能」となっている{{sfn|下中直人(編)|2009|p=385}}。「[[神勅主義]]は明確に否定されているので、[[神秘]]的・[[宗教]]的[[要素]]がここに介入する余地は皆無」であり、天皇は[[公]]的な宗教的活動が禁止されている([[日本国憲法第20条|第20条]])こともあって、「天皇、国家の[[世俗]]化が要求されている」{{sfn|下中直人(編)|2009|p=385}}。「[[神道]]が特別な[[地位]]を与えられることはもはや許されない」のであり、[[皇位継承]]の際に行われた[[大嘗祭]]や[[三種の神器]]の継承は、「[[天皇家]]の私事としてのみありうる」とされる{{sfn|下中直人(編)|2009|p=385}}。
天皇は憲法が限定的に列挙している[[国事行為]]だけを行い、[[国政]]に関する権能は一切持たない([[日本国憲法第4条|第4条]]、[[日本国憲法第6条|第6条]] - [[日本国憲法第7条|第7条]]){{sfn|下中直人(編)|2009|p=385}}。国事行為は国家[[意思]]形成に関わらない[[形式]]的・[[儀礼]]的[[行為]]であり、天皇が国事行為を行うには常に[[内閣]]の[[助言]]と[[承認]]が必要であって、内閣は自らの助言と承認に[[責任]]を負う([[日本国憲法第3条|第3条]]){{sfn|下中直人(編)|2009|p=385}}。天皇は国事行為の責任を負わないが、[[民事責任]]は負っている{{sfn|下中直人(編)|2009|p=385}}。天皇の[[刑事責任]]を[[免責]]する明文規定は無いが、[[摂政]]はその在任中は[[訴追]]されないと定める[[皇室典範]]21条から、天皇もその在位中は訴追されないとの類推がある{{sfn|下中直人(編)|2009|p=385}}。
天皇は憲法が限定的に列挙している[[国事行為]]だけを行い、[[国政]]に関する権能は一切持たない([[日本国憲法第4条|第4条]]、[[日本国憲法第6条|第6条]] - [[日本国憲法第7条|第7条]]){{sfn|下中直人(編)|2009|p=385}}。国事行為は国家[[意思]]形成に関わらない[[形式]]的・[[儀礼]]的[[行為]]であり、天皇が国事行為を行うには常に内閣の[[助言]]と[[承認]]が必要であって、内閣は自らの助言と承認に[[責任]]を負う([[日本国憲法第3条|第3条]]){{sfn|下中直人(編)|2009|p=385}}。天皇は国事行為の責任を負わないが、[[民事責任]]は負っている{{sfn|下中直人(編)|2009|p=385}}。天皇の[[刑事責任]]を[[免責]]する明文規定は無いが、[[摂政]]はその在任中は[[訴追]]されないと定める[[皇室典範]]21条から、天皇もその在位中は訴追されないとの類推がある{{sfn|下中直人(編)|2009|p=385}}。
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=== 神話と伝説 ===
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| page = 170
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| publisher = [[PHP研究所]]
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| isbn = 4569648444
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=== 天皇制 ===
=== 天皇制 ===
<!--=== 天皇制・皇室制度 ===--><!--この節の出典に「皇室制度」という語は掲載されていません。「天皇制」と「皇室制度」が、同義語・類義語であると述べている出典もありません-->
<!--=== 天皇制・皇室制度 ===--><!--この節の出典に「皇室制度」という語は掲載されていません。「天皇制」と「皇室制度」が、同義語・類義語であると述べている出典もありません-->
『岩波 日本史辞典』によると「天皇制」は、[[日本]]の[[君主制]]を指す{{sfn|永原|石上|1999|p=803}}。「広義には前近代天皇制と[[象徴天皇制]]を含め、狭義には[[明治維新]]から[[日本の降伏|第二次世界大戦敗戦]]までの[[近代]]天皇制を指す」語であり{{sfn|永原|石上|1999|p=803}}、「象徴天皇制は天皇が[[元首]]でないので君主制としない説もある」とされている{{sfn|永原|石上|1999|p=362}}。「君主制(王制)」について、『日本大百科全書(ニッポニカ)』は「一般には、[[世襲]]の君主が、ある政治[[共同体]]において最高[[権力]]([[主権]])をもつ政治形態」としている{{sfn|田中|2017|p=「君主制」}}。
『岩波 日本史辞典』によると「天皇制」は、[[日本]]の[[君主制]]を指す{{sfn|永原|石上|1999|p=803}}。「広義には前近代天皇制と[[象徴天皇制]]を含め、狭義には[[明治維新]]から[[日本の降伏|第二次世界大戦敗戦]]までの[[近代]]天皇制を指す」語であり{{sfn|永原|石上|1999|p=803}}、「象徴天皇制は天皇が元首でないので君主制としない説もある」とされている{{sfn|永原|石上|1999|p=362}}。「君主制(王制)」について、『日本大百科全書(ニッポニカ)』は「一般には、[[世襲]]の君主が、ある政治[[共同体]]において最高[[権力]](主権)をもつ政治形態」としている{{sfn|田中|2017|p=「君主制」}}。

「天皇制」という項目を掲載している学術資料は、[[Kotobank]]に登録されている辞事典としては『[[デジタル大辞泉]]』、『[[大辞林]]』(第三版)、『[[ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典』、『[[百科事典マイペディア]]』、『[[世界大百科事典]]』(第2版)、『[[日本大百科全書]](ニッポニカ)』がある<ref>{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%88%B6-102684|title=天皇制(てんのうせい)とは |website=コトバンク|accessdate=2017-10-22}}</ref>。2017時点で「天皇制」を使用している[[研究論文]]は、{{読み仮名|[[Google Scholar]]|グーグル・スカラー}}では約15,700件<ref>{{Cite web |url=https://scholar.google.co.jp/scholar?hl=ja&as_sdt=0%2C5&q=%22%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%88%B6%22&btnG=&lr=|title=Google Scholar|accessdate=2017-10-22}}</ref>、[[CiNii Articles]]では6156件がある<ref>{{Cite web |url=http://ci.nii.ac.jp/fulltext?q=%22%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%88%B6%22&count=20&sortorder=1|title=CiNii Articles|accessdate=2017-10-22}}</ref>。
「天皇制」という項目を掲載している学術資料は、[[Kotobank]]に登録されている辞事典としては『[[デジタル大辞泉]]』、『[[大辞林]]』(第三版)、『[[ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典』、『[[百科事典マイペディア]]』、『[[世界大百科事典]]』(第2版)、『[[日本大百科全書]](ニッポニカ)』がある<ref>{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%88%B6-102684|title=天皇制(てんのうせい)とは |website=コトバンク|accessdate=2017-10-22}}</ref>。2017時点で「天皇制」を使用している[[研究論文]]は、{{読み仮名|[[Google Scholar]]|グーグル・スカラー}}では約15,700件<ref>{{Cite web |url=https://scholar.google.co.jp/scholar?hl=ja&as_sdt=0%2C5&q=%22%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%88%B6%22&btnG=&lr=|title=Google Scholar|accessdate=2017-10-22}}</ref>、[[CiNii Articles]]では6156件がある<ref>{{Cite web |url=http://ci.nii.ac.jp/fulltext?q=%22%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%88%B6%22&count=20&sortorder=1|title=CiNii Articles|accessdate=2017-10-22}}</ref>。
{{See also|天皇制|皇室}}
{{See also|天皇制|皇室}}

=== 語源 ===
=== 語源 ===
古くは「スメラミコト」「スメロキ」「スベラギ」等と呼んだ{{Sfn|新村|2011|p=1952}}。元は[[皇帝]]・[[天子]]{{Sfn|新村|2011|p=1952}}・[[君主]]の[[敬称]]であり、[[古代中国]]で[[最高神]]、[[天皇大帝|神格化された北極星(天皇大帝)]]を指す語<ref name="kotobank2">[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E7%9A%87-102672#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 松村明前掲書。株式会社日立ソリューションズ・ビジネス 『百科事典マイペディア』 平凡社、2014年、「天皇」の項。加藤周一編 『世界大百科事典 第2版』 平凡社、2014年、「天皇」の項。]</ref>である。[[語源]]としては[[7世紀]]中頃以降で、[[中国語]]の[[天皇 (三皇)|天皇・地皇・人皇]]の一つに由来しており、スメラミコトの[[漢語]]表現である<ref name="gogen">{{Cite book|和書|author=[[増井金典]]|title=日本語源広辞典|year=2010|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|page=753|isbn=978-4-623-05494-7}}</ref>(この世紀に「天皇」の文字が初めて[[文献]]に現れた<ref>{{Cite book|和書|author=フランク・B・ギブニー編|title=ブリタニカ国際大百科事典 第2版改訂|year=1993|publisher=[[TBSブリタニカ]]|page=9|volume=14}}</ref>)。天皇という二字は、「是全ク[[漢土]]ノ制ニ傚ヘル故ニ、今目シテ[[漢風諡]]ト云フ(これは全く漢の国の制度に倣っているため、今日に見れば漢風諡と言う)」とされる<ref>{{Cite book |和書 |author= [[明治政府]]編纂|year= 1915|title= 古事類苑|publisher= [[神宮司庁]]|page=915|url=http://shinku.nichibun.ac.jp/kojiruien/pdf/teio_1/teio_1_0915.pdf}}</ref>。また、ある[[分野]]で強大な[[権力]]を持つ人を指す{{sfn|松村|2014a|p=「天皇」}}{{sfn|松村|2014b|p=「天皇」}}。なお、{{読み仮名|天皇|てんこう}}は[[三皇]]の一種である他に、[[天帝]]・[[天子]]も意味し{{読み仮名|天皇|てんのう}}に通じる他{{sfn|松村|2014a|p=「天皇」}}{{sfn|松村|2014b|p=「天皇」}}、{{読み仮名|皇天|こうてん}}は天皇・[[皇室]]・[[天の神]]・[[上帝]]・天帝などを意味する<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%9A%87%E5%A4%A9 松村明編 『大辞林 第三版』 三省堂、2014年、「皇天」の項。松村明編 『デジタル大辞泉』 小学館、2014年、「皇天」の項。]</ref>。
古くは「スメラミコト」「スメロキ」「スベラギ」等と呼んだ{{Sfn|新村|2011|p=1952}}。元は[[皇帝]]・[[天子]]{{Sfn|新村|2011|p=1952}}・君主の[[敬称]]であり、[[古代中国]]で[[最高神]]、[[天皇大帝|神格化された北極星(天皇大帝)]]を指す語<ref name="kotobank2">[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E7%9A%87-102672#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 松村明前掲書。株式会社日立ソリューションズ・ビジネス 『百科事典マイペディア』 平凡社、2014年、「天皇」の項。加藤周一編 『世界大百科事典 第2版』 平凡社、2014年、「天皇」の項。]</ref>である。[[語源]]としては[[7世紀]]中頃以降で、[[中国語]]の[[天皇 (三皇)|天皇・地皇・人皇]]の一つに由来しており、スメラミコトの[[漢語]]表現である<ref name="gogen">{{Cite book|和書|author=[[増井金典]]|title=日本語源広辞典|year=2010|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|page=753|isbn=978-4-623-05494-7}}</ref>(この世紀に「天皇」の文字が初めて[[文献]]に現れた<ref>{{Cite book|和書|author=フランク・B・ギブニー編|title=ブリタニカ国際大百科事典 第2版改訂|year=1993|publisher=[[TBSブリタニカ]]|page=9|volume=14}}</ref>)。天皇という二字は、「是全ク[[漢土]]ノ制ニ傚ヘル故ニ、今目シテ[[漢風諡]]ト云フ(これは全く漢の国の制度に倣っているため、今日に見れば漢風諡と言う)」とされる<ref>{{Cite book |和書 |author= [[明治政府]]編纂|year= 1915|title= 古事類苑|publisher= [[神宮司庁]]|page=915|url=http://shinku.nichibun.ac.jp/kojiruien/pdf/teio_1/teio_1_0915.pdf}}</ref>。また、ある[[分野]]で強大な[[権力]]を持つ人を指す{{sfn|松村|2014a|p=「天皇」}}{{sfn|松村|2014b|p=「天皇」}}。なお、{{読み仮名|天皇|てんこう}}は[[三皇]]の一種である他に、[[天帝]]・[[天子]]も意味し{{読み仮名|天皇|てんのう}}に通じる他{{sfn|松村|2014a|p=「天皇」}}{{sfn|松村|2014b|p=「天皇」}}、{{読み仮名|皇天|こうてん}}は天皇・[[皇室]]・[[天の神]]・[[上帝]]・天帝などを意味する<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%9A%87%E5%A4%A9 松村明編 『大辞林 第三版』 三省堂、2014年、「皇天」の項。松村明編 『デジタル大辞泉』 小学館、2014年、「皇天」の項。]</ref>。
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また天皇は、文武両方でもって世界や反乱を治める偉業を累ね、死後に贈られる[[諡号]](おくり名)でもあった<ref>[http://shinku.nichibun.ac.jp/kojiruien/pdf/teio_1/teio_1_0915.pdf][[明治政府]]編纂の百科事典『[[古事類苑]]』-帝王部十六-諡号 テキスト画像 明治29-大正3年(1896-1914)刊行</ref><ref>[http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/index.php?%E5%B8%9D%E7%8E%8B%E9%83%A8/%E8%AB%A1%E8%99%9F][[明治政府]]編纂の百科事典『[[古事類苑]]』-帝王部十六-諡号 明治29-大正3年(1896-1914)刊行</ref>。
また天皇は、文武両方でもって世界や反乱を治める偉業を累ね、死後に贈られる[[諡号]](おくり名)でもあった<ref>[http://shinku.nichibun.ac.jp/kojiruien/pdf/teio_1/teio_1_0915.pdf][[明治政府]]編纂の百科事典『[[古事類苑]]』-帝王部十六-諡号 テキスト画像 明治29-大正3年(1896-1914)刊行</ref><ref>[http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/index.php?%E5%B8%9D%E7%8E%8B%E9%83%A8/%E8%AB%A1%E8%99%9F][[明治政府]]編纂の百科事典『[[古事類苑]]』-帝王部十六-諡号 明治29-大正3年(1896-1914)刊行</ref>。


歴代天皇は初代[[神武天皇]]から現在の[[徳仁|今上天皇]]まで126代が挙げられる{{要出典|date=2019年5月}}。この126代のうちの2名は[[重祚]](一度[[譲位]]した天皇が再び即位すること)しているため、総数は124名となる{{要出典|date=2019年5月}}。さらに[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に[[北朝 (日本)|北朝]]で即位した天皇が5名いるため総数は129名である。<ref>『歴代天皇図鑑』肥後和男編 秋田出版 昭和50年{{要ページ番号|date=2017年10月}}
歴代天皇は初代[[神武天皇]]から現在の[[徳仁|今上天皇]]まで126代が挙げられる{{要出典|date=2019年5月}}。この126代のうちの2名は[[重祚]](一度[[譲位]]した天皇が再び即位すること)しているため、総数は124名となる{{要出典|date=2019年5月}}。さらに[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に[[北朝 (日本)|北朝]]で即位した天皇が5名いるため総数は129名である。<ref>『歴代天皇図鑑』肥後和男編 秋田出版 昭和50年{{要ページ番号|date=2017年10月}}
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[[女性天皇|女性の天皇]]も8人10代存在した(2人[[重祚]]){{要出典|date=2017年10月}}。現在の[[皇室典範]]では女性は天皇になることはできない(第1条){{要高次出典|date=2017年10月}}。歴代天皇は全員[[皇統]]の男系天皇(父方の祖先が天皇)であり、[[女系天皇]](母のみが[[皇室の系図一覧|皇統]])は未だ存在しない。<ref>『女帝と譲位の古代史』水谷千秋 文藝春秋 平成15年{{要ページ番号|date=2017年10月}}</ref>{{要ページ番号|date=2017年10月}}
[[女性天皇|女性の天皇]]も8人10代存在した(2人[[重祚]]){{要出典|date=2017年10月}}。現在の[[皇室典範]]では女性は天皇になることはできない(第1条){{要高次出典|date=2017年10月}}。歴代天皇は全員[[皇統]]の男系天皇(父方の祖先が天皇)であり、[[女系天皇]](母のみが[[皇室の系図一覧|皇統]])は未だ存在しない。<ref>『女帝と譲位の古代史』水谷千秋 文藝春秋 平成15年{{要ページ番号|date=2017年10月}}</ref>{{要ページ番号|date=2017年10月}}


皇室典範の下では、天皇の[[親族]]のうち、[[皇后]]、[[皇太后]]、[[太皇太后]]ならびに嫡男系の[[嫡出]]の[[血族]](既婚の女子を除く{{要出典|date=2017年10月}}。すなわち、[[親王]]、[[内親王]]、[[王 (皇族)|王]]および[[女王 (皇族)|女王]])およびその[[配偶者]]([[親王妃]]および[[王妃 (皇族)|王妃]])を「'''[[皇族]]'''」という(皇室典範第5条、第6条){{要高次出典|date=2017年10月}}。'''天皇と皇族の全体'''を総称して「'''[[皇室]]'''」という<ref>[http://www.kunaicho.go.jp/about/ 宮内庁 皇室]{{要高次出典|date=2017年10月}}</ref>{{要高次出典|date=2017年10月}}。-->
皇室典範の下では、天皇の[[親族]]のうち、[[皇后]]、[[皇太后]]、[[太皇太后]]ならびに嫡男系の[[嫡出]]の[[血族]](既婚の女子を除く{{要出典|date=2017年10月}}。すなわち、[[親王]]、[[内親王]]、[[王 (皇族)|王]]および[[女王 (皇族)|女王]])およびその[[配偶者]]([[親王妃]]および[[王妃 (皇族)|王妃]])を「'''[[皇族]]'''」という(皇室典範第5条、第6条){{要高次出典|date=2017年10月}}。'''天皇と皇族の全体'''を総称して「'''皇室'''」という<ref>[http://www.kunaicho.go.jp/about/ 宮内庁 皇室]{{要高次出典|date=2017年10月}}</ref>{{要高次出典|date=2017年10月}}。-->


== 皇位継承 ==
== 皇位継承 ==
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{{Main|象徴天皇制}}
{{Main|象徴天皇制}}
[[ファイル:Emperor Akihito and Bunmei Ibuki 201301.jpg|thumb|250px|[[国会開会式]]に出席する天皇]]
[[ファイル:Emperor Akihito and Bunmei Ibuki 201301.jpg|thumb|250px|[[国会開会式]]に出席する天皇]]
[[日本国憲法]]では、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」([[日本国憲法第1条|第1条]])、「天皇は、この憲法の定める[[国事行為|国事に関する行為]]のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」([[日本国憲法第4条|第4条]])と規定されている([[象徴天皇制]])。なお天皇を[[元首]][[君主]]とする規定は存在しない。
[[日本国憲法]]では、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」([[日本国憲法第1条|第1条]])、「天皇は、この憲法の定める[[国事行為|国事に関する行為]]のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」([[日本国憲法第4条|第4条]])と規定されている([[象徴天皇制]])。なお天皇を元首や君主とする規定は存在しない。


=== 大日本帝国憲法における天皇 ===
=== 大日本帝国憲法における天皇 ===
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== 日本国外での天皇の呼称 ==
== 日本国外での天皇の呼称 ==
=== 英語圏における呼称 ===
=== 英語圏における呼称 ===
天皇は、[[英語]]で「emperor」、「{{lang|en|the Emperor of Japan}}」と称され、現在の天皇を「{{lang|en|The Current Emperor}}」と称される。ただし、英語で公式に初めて「{{lang|en|the Emperor of Japan}}」と称された人物は、[[江戸時代]]末期・[[幕末]]期当時で、[[孝明天皇]]ではなく、時の執権者の第十二代将軍[[徳川家慶]]であった{{efn|『大日本古文書 幕末外國関係文書 1 嘉永六年癸丑六月~七月』(東京大学史料編纂所編 東京大学出版会 1972)p238 - 251<ref>{{Cite web |url=http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000088344 |title=幕末ペリー来航の外交文書に関するもので「合衆国斐謨美辣書簡和解」というものがあるらしい。この内容が活... |website=レファレンス協同データベース |publisher=国立国会図書館 |accessdate=2019-05-14}}</ref><!--「114 耶蘇紀元1852年11月13日嘉永5年10月2日亜米利加合衆国大統領フイルモーア書翰嘉永6年6月9日使節より浦賀奉行へ差出我[[将軍]]へ 使節派遣の趣意に就て」の項に、大統領からの親書の内容が「漢文本書」「同和解」「蘭文和解」の3種で収録されている{{要検証|date=2017-08}}。-->}}。1852年の[[ミラード・フィルモア]][[アメリカ合衆国大統領]]の親書の宛て名には、「{{lang|en|His Imperial Majesty}}, {{lang|en|the Emperor of Japan}}」と記されている<ref>{{Cite web |url=http://afe.easia.columbia.edu/ps/japan/fillmore_perry_letters.pdf |format=PDF|title=LETTERS FROM U.S. PRESIDENT MILLARD FILLMORE AND U.S. NAVY COMMODORE MATTHEW C. PERRY TO THE EMPEROR OF JAPAN (1852-1853) |publisher=Columbia University |website=Asia For Educators |accessdate=2019-05-14}}</ref>。かつて、「{{lang|en|Mikado}}」([[みかど|帝、御門]])と一般的に称されていた時期もあった<ref name="Asakawa1903">{{cite book |author=Kanʼichi Asakawa |url=https://books.google.com/books?id=K1MuAAAAYAAJ&pg=PA25 |title=The early institutional life of Japan: a study in the reform of 645 A.D. |publisher= Tokyo: Shueisha |date=1903 |page=25|quote=We purposely avoid, in spite of its wide usage in foreign literature, the misleading term ''Mikado''. If it be not for the natural curiosity of the races, which always seeks something novel and loves to call foreign things by foreign names, it is hard to understand why this obsolete and ambiguous word should so sedulously be retained. It originally meant not only the Sovereign, but also his house, the court, and even the State, and its use in historical writings causes many difficulties which it is unnecessary to discuss here in detail. The native Japanese employ the term neither in speech nor in writing. It might as well be dismissed with great advantage from sober literature as it has been for the official documents.}}</ref>。
天皇は、[[英語]]で「emperor」、「{{lang|en|the Emperor of Japan}}」と称され、現在の天皇を「{{lang|en|The Current Emperor}}」と称される。ただし、英語で公式に初めて「{{lang|en|the Emperor of Japan}}」と称された人物は、[[江戸時代]]末期・[[幕末]]期当時で、[[孝明天皇]]ではなく、時の執権者の第十二代将軍[[徳川家慶]]であった{{efn|『大日本古文書 幕末外國関係文書 1 嘉永六年癸丑六月~七月』(東京大学史料編纂所編 東京大学出版会 1972)p238 - 251<ref>{{Cite web |url=http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000088344 |title=幕末ペリー来航の外交文書に関するもので「合衆国斐謨美辣書簡和解」というものがあるらしい。この内容が活... |website=レファレンス協同データベース |publisher=国立国会図書館 |accessdate=2019-05-14}}</ref><!--「114 耶蘇紀元1852年11月13日嘉永5年10月2日亜米利加合衆国大統領フイルモーア書翰嘉永6年6月9日使節より浦賀奉行へ差出我[[将軍]]へ 使節派遣の趣意に就て」の項に、大統領からの親書の内容が「漢文本書」「同和解」「蘭文和解」の3種で収録されている{{要検証|date=2017-08}}。-->}}。1852年の[[ミラード・フィルモア]][[アメリカ合衆国大統領]]の親書の宛て名には、「{{lang|en|His Imperial Majesty}}, {{lang|en|the Emperor of Japan}}」と記されている<ref>{{Cite web |url=http://afe.easia.columbia.edu/ps/japan/fillmore_perry_letters.pdf |format=PDF|title=LETTERS FROM U.S. PRESIDENT MILLARD FILLMORE AND U.S. NAVY COMMODORE MATTHEW C. PERRY TO THE EMPEROR OF JAPAN (1852-1853) |publisher=Columbia University |website=Asia For Educators |accessdate=2019-05-14}}</ref>。かつて、「{{lang|en|Mikado}}」([[みかど|帝、御門]])と一般的に称されていた時期もあった<ref name="Asakawa1903">{{cite book |author=Kanʼichi Asakawa |url=https://books.google.com/books?id=K1MuAAAAYAAJ&pg=PA25 |title=The early institutional life of Japan: a study in the reform of 645 A.D. |publisher= Tokyo: Shueisha |date=1903 |page=25|quote=We purposely avoid, in spite of its wide usage in foreign literature, the misleading term ''Mikado''. If it be not for the natural curiosity of the races, which always seeks something novel and loves to call foreign things by foreign names, it is hard to understand why this obsolete and ambiguous word should so sedulously be retained. It originally meant not only the Sovereign, but also his house, the court, and even the State, and its use in historical writings causes many difficulties which it is unnecessary to discuss here in detail. The native Japanese employ the term neither in speech nor in writing. It might as well be dismissed with great advantage from sober literature as it has been for the official documents.}}</ref>。


=== ドイツ語圏における呼称 ===
=== ドイツ語圏における呼称 ===
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=== 朝鮮半島と天皇の呼称 ===
=== 朝鮮半島と天皇の呼称 ===
{{See also|日朝関係史|皇帝|日本国王}}
{{See also|日朝関係史|皇帝|日本国王}}
[[朝鮮半島]]の歴代王朝は長期間にわたり中国歴代王朝の[[冊封国]]として存在しており、[[華夷思想]]では「天子」・「[[皇帝]]」とは世界を治める唯一の者、すなわち中国歴代王朝の皇帝の称号であった。そのため、「[[倭国王]]」「[[日本国王]]」等の称号で呼んでいた。[[清]]の[[冊封体制]]から離脱し[[大韓帝国]]となると初めて日本の天皇を「皇帝」と称した。その後の[[韓国併合]]による[[日本統治時代の朝鮮|大日本帝国統治下]]では「天皇」の称号が用いられた。[[第二次世界大戦]]後、南北朝鮮独立後は[[英語]]で天皇を意味する「Emperor」の訳語を踏襲せず「日本国王」(日王)「Japanese King」という称号を用いてこれに倣い「[[皇室]]」を「王室」、「[[皇太子]]」を「王世子」と呼んでいた。現在では「天皇」と言う称号が以前より一般的になりつつあるが、「皇室/王室」、「皇太子/王世子」に関しては同等に用いている。但し[[産経新聞]][[ソウル特別市|ソウル]]支局長[[黒田勝弘]]に拠れば、[[2006年]]9月の[[悠仁親王]]誕生時、[[韓国日報]]を例外に殆どの韓国マスコミは「天皇」等の「皇」の字を嫌い、代わりに「王」の字を格下げの意味で用いたという<ref>{{Cite web |url=http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/korea/18461/ |title=【外信コラム】ソウルからヨボセヨ 皇室と王室 |website=イザ! |archiveurl=https://archive.is/bDoxv |archivedate=2013-09-15 |publisher=産経デジタル |accessdate=2019-05-13}}</ref>。
[[朝鮮半島]]の歴代王朝は長期間にわたり中国歴代王朝の[[冊封国]]として存在しており、[[華夷思想]]では「天子」・「皇帝」とは世界を治める唯一の者、すなわち中国歴代王朝の皇帝の称号であった。そのため、「[[倭国王]]」「[[日本国王]]」等の称号で呼んでいた。[[清]]の[[冊封体制]]から離脱し[[大韓帝国]]となると初めて日本の天皇を「皇帝」と称した。その後の[[韓国併合]]による[[日本統治時代の朝鮮|大日本帝国統治下]]では「天皇」の称号が用いられた。[[第二次世界大戦]]後、南北朝鮮独立後は[[英語]]で天皇を意味する「Emperor」の訳語を踏襲せず「日本国王」(日王)「Japanese King」という称号を用いてこれに倣い「皇室」を「王室」、「[[皇太子]]」を「王世子」と呼んでいた。現在では「天皇」と言う称号が以前より一般的になりつつあるが、「皇室/王室」、「皇太子/王世子」に関しては同等に用いている。但し[[産経新聞]][[ソウル特別市|ソウル]]支局長[[黒田勝弘]]に拠れば、[[2006年]]9月の[[悠仁親王]]誕生時、[[韓国日報]]を例外に殆どの韓国マスコミは「天皇」等の「皇」の字を嫌い、代わりに「王」の字を格下げの意味で用いたという<ref>{{Cite web |url=http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/korea/18461/ |title=【外信コラム】ソウルからヨボセヨ 皇室と王室 |website=イザ! |archiveurl=https://archive.is/bDoxv |archivedate=2013-09-15 |publisher=産経デジタル |accessdate=2019-05-13}}</ref>。


[[金大中]]は[[大統領 (大韓民国)|大統領]]在任当時、諸国の慣例に従って「天皇」という称号を用いる様にマスコミ等に働きかけたが、マスコミはそれに従う者と従わない者に二分した。大韓民国政府としては[[1998年]]から「天皇」の称号を使用するようになったが<ref name="chuounippo20090918">{{Cite news|url=http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=120694&servcode=100&sectcode=140|title=【コラム】「日王」と「天皇」の間|author=盧在賢|newspaper=[[中央日報]]|date=2009-09-18|accessdate=2009-12-13}}</ref>、次の大統領[[盧武鉉]]は天皇という称号が世界的かどうか確認していないため「天皇」と「日王」どちらを用いるべきか準備ができていないと従来の方針を転換する姿勢を示した。大統領[[李明博]]は「天皇」の称号を用いている<ref name="chuounippo20090918" />。しかし、マスメディアを始めとする民間では「日王」を使用している<ref name="chuounippo20090918" /><ref>{{cite news|url=http://japan.donga.com/srv/service.php3?bicode=050000&biid=2009091767948|title=「歴史清算の保障手形」の認識は困る…「日王訪韓」に慎重論強まる|newspaper=東亜日報|date=2009-09-17|accessdate=2009-12-13}}</ref>。民間における「日王」の呼称の使用については21世紀初頭頃に「天皇」や「日皇」に改めるべきであるとの議論もなされたが、「日王」に統一することとなり現在に至っている<ref name="chuounippo20090918" />。[[李明博]]は[[2009年]][[9月15日]]に[[インタビュー]]を受けた際、「日本天皇」という表現を繰り返し用いた<ref>{{cite news|url=http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=100&oid=023&aid=0002083022|newspaper=[[朝鮮日報]]|language=[[朝鮮語]]|title={{lang|ko|이 대통령, 일본 천황 표현 논란}}(李大統領、日本天皇表現論議)|2009-09-16|accessdate=2009-12-13}}{{リンク切れ|date=2019-05-13}} [http://www.excite-webtl.jp/world/korean/web/?wb_url=http%3A%2F%2Fnews.naver.com%2Fmain%2Fread.nhn%3Fmode%3DLSD%26mid%3Dsec%26sid1%3D100%26oid%3D023%26aid%3D0002083022&wb_lp=KOJA&wb_dis=2&wb_submit=+%E7%BF%BB+%E8%A8%B3+自動翻訳]{{リンク切れ|date=2019-05-13}}</ref>。
[[金大中]]は[[大統領 (大韓民国)|大統領]]在任当時、諸国の慣例に従って「天皇」という称号を用いる様にマスコミ等に働きかけたが、マスコミはそれに従う者と従わない者に二分した。大韓民国政府としては[[1998年]]から「天皇」の称号を使用するようになったが<ref name="chuounippo20090918">{{Cite news|url=http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=120694&servcode=100&sectcode=140|title=【コラム】「日王」と「天皇」の間|author=盧在賢|newspaper=[[中央日報]]|date=2009-09-18|accessdate=2009-12-13}}</ref>、次の大統領[[盧武鉉]]は天皇という称号が世界的かどうか確認していないため「天皇」と「日王」どちらを用いるべきか準備ができていないと従来の方針を転換する姿勢を示した。大統領[[李明博]]は「天皇」の称号を用いている<ref name="chuounippo20090918" />。しかし、マスメディアを始めとする民間では「日王」を使用している<ref name="chuounippo20090918" /><ref>{{cite news|url=http://japan.donga.com/srv/service.php3?bicode=050000&biid=2009091767948|title=「歴史清算の保障手形」の認識は困る…「日王訪韓」に慎重論強まる|newspaper=東亜日報|date=2009-09-17|accessdate=2009-12-13}}</ref>。民間における「日王」の呼称の使用については21世紀初頭頃に「天皇」や「日皇」に改めるべきであるとの議論もなされたが、「日王」に統一することとなり現在に至っている<ref name="chuounippo20090918" />。[[李明博]]は[[2009年]][[9月15日]]に[[インタビュー]]を受けた際、「日本天皇」という表現を繰り返し用いた<ref>{{cite news|url=http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=100&oid=023&aid=0002083022|newspaper=[[朝鮮日報]]|language=[[朝鮮語]]|title={{lang|ko|이 대통령, 일본 천황 표현 논란}}(李大統領、日本天皇表現論議)|2009-09-16|accessdate=2009-12-13}}{{リンク切れ|date=2019-05-13}} [http://www.excite-webtl.jp/world/korean/web/?wb_url=http%3A%2F%2Fnews.naver.com%2Fmain%2Fread.nhn%3Fmode%3DLSD%26mid%3Dsec%26sid1%3D100%26oid%3D023%26aid%3D0002083022&wb_lp=KOJA&wb_dis=2&wb_submit=+%E7%BF%BB+%E8%A8%B3+自動翻訳]{{リンク切れ|date=2019-05-13}}</ref>。
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!文書・銘 !! 年代 !! 抜粋 !! 出典 !! 現存
!文書・銘 !! 年代 !! 抜粋 !! 出典 !! 現存
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|style="white-space:nowrap"|[[遣隋使]]国書|| nowrap="nowrap" | [[607年]]|| 日出處'''天子'''致書日沒處天子無恙 || [[隋書]](636年成立) ||
|style="white-space:nowrap"|[[遣隋使]]国書|| nowrap="nowrap" | [[607年]]|| 日出處'''天子'''致書日沒處天子無恙 || [[隋書]](636年成立) ||
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|style="white-space:nowrap"|[[法隆寺金堂薬師如来像光背銘|法隆寺金堂<br />薬師如来像光背銘]]
|style="white-space:nowrap"|[[法隆寺金堂薬師如来像光背銘|法隆寺金堂<br />薬師如来像光背銘]]
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|style="white-space:nowrap"|[[木簡]]
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| [[677年]] || '''天皇'''聚露忽謹 || [[飛鳥池工房遺跡]]出土 ||
| [[677年]] || '''天皇'''聚露忽謹 || [[飛鳥池工房遺跡]]出土 ||
|}
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=== 天皇の称号を存命中に自ら付した歴史上の人物 ===
=== 天皇の称号を存命中に自ら付した歴史上の人物 ===
* [[太平天国]]の[[洪秀全]](在位1851-1864)は、在位中に「太平天皇」を自称した<ref>{{Cite book |和書 |url=https://books.google.com.hk/books?id=GZ_uBQAAQBAJ&pg=PT320&lpg=PT320&dq=%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%A4%A9%E5%9B%BD%E3%80%80%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87&source=bl&ots=Y8Ujo2uH8_&sig=ra5ngJwdj0Sj_gfEIjdkLkOq4uo&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwiKgL-uz4LOAhUDkZQKHbdJCvoQ6AEIGjAA#v=onepage&q=%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%A4%A9%E5%9B%BD%E3%80%80%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87&f=false |author=許嘯天|title=清宮十三朝演義 |publisher= |date=2019-05-13}}</ref>。
* [[太平天国]]の[[洪秀全]](在位1851-1864)は、在位中に「太平天皇」を自称した<ref>{{Cite book |和書 |url=https://books.google.com.hk/books?id=GZ_uBQAAQBAJ&pg=PT320&lpg=PT320&dq=%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%A4%A9%E5%9B%BD%E3%80%80%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87&source=bl&ots=Y8Ujo2uH8_&sig=ra5ngJwdj0Sj_gfEIjdkLkOq4uo&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwiKgL-uz4LOAhUDkZQKHbdJCvoQ6AEIGjAA#v=onepage&q=%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%A4%A9%E5%9B%BD%E3%80%80%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87&f=false |author=許嘯天|title=清宮十三朝演義 |publisher= |date=2019-05-13}}</ref>。
* [[日本]]の[[明治天皇]](在位1867-1912)、[[大正天皇]](在位1912-1926)、[[昭和天皇]](在位1926-1989)、[[上皇明仁|上皇]](在位1989-)は、[[大日本帝国憲法]]及び[[日本国憲法]]にしたがって自らに天皇の称号を付した。
* [[日本]]の[[明治天皇]](在位1867-1912)、[[大正天皇]](在位1912-1926)、[[昭和天皇]](在位1926-1989)、[[上皇明仁|上皇]](在位1989-)は、[[大日本帝国憲法]]及び[[日本国憲法]]にしたがって自らに天皇の称号を付した。


=== 古代 ===
=== 古代 ===
[[倭国]]では首長のことを、国内では[[治天下大王|大王]]「おおきみ」(治天下大王)あるいは[[天王]]と呼び、対外的には「倭王」「[[倭国王]]」「大倭王」等と称された{{efn|[[秦]]の[[始皇帝]]以来使用された「[[皇帝]]」に対して日本を含めた周辺諸国には皇帝から「[[王]]」の称号が与えられた。しかし日本はみずから「天皇」の称号を用いるようになる<ref>『日本人の歴史教科書』、[[2009年]]、[[自由社]]、37頁、ISBN 978-4915237508</ref>。}}。
[[倭国]]では首長のことを、国内では[[治天下大王|大王]]「おおきみ」(治天下大王)あるいは[[天王]]と呼び、対外的には「倭王」「[[倭国王]]」「大倭王」等と称された{{efn|[[秦]]の[[始皇帝]]以来使用された「皇帝」に対して日本を含めた周辺諸国には皇帝から「[[王]]」の称号が与えられた。しかし日本はみずから「天皇」の称号を用いるようになる<ref>『日本人の歴史教科書』、2009年、[[自由社]]、37頁、ISBN 978-4915237508</ref>。}}。


==== 訓読みの語源 ====
==== 訓読みの語源 ====
256行目: 256行目:
{{出典の明記|section=1|date=2018年4月14日 (土) 01:54 (UTC)}}
{{出典の明記|section=1|date=2018年4月14日 (土) 01:54 (UTC)}}
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| caption1 = 大日本帝国憲法3頁目。[[明治天皇]]の諱、睦仁の署名(御名)と共に、「天皇御璽」という[[御璽]]が捺印されている([[御名御璽]])。
| caption1 = 大日本帝国憲法3頁目。[[明治天皇]]の諱、睦仁の署名(御名)と共に、「天皇御璽」という[[御璽]]が捺印されている([[御名御璽]])。
| image1 = Meiji Kenpo03.jpg
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| caption2 = 「[[韓国併合ニ関スル条約]]」に関する[[李完用]]への全権委任状。文中に「大日本國皇帝陛下」と書かれている。
| caption2 = 「[[韓国併合ニ関スル条約]]」に関する[[李完用]]への全権委任状。文中に「大日本國皇帝陛下」と書かれている。
| image2 = General power of attorney to Lee Wan-Yong signed and sealed by Sunjong.jpg
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[[大日本帝国憲法]](明治憲法)において天皇の呼称は初めて「天皇」に統一された。ただし、[[外交]]文書などではその後も「日本国皇帝」が多く用いられ、日本国内向けの公文書類でも同様の表記が何点か確認されている。そのため、完全に「天皇」で統一されていたわけではない。
[[大日本帝国憲法]](明治憲法)において天皇の呼称は初めて「天皇」に統一された。ただし、[[外交]]文書などではその後も「日本国皇帝」が多く用いられ、日本国内向けの公文書類でも同様の表記が何点か確認されている。そのため、完全に「天皇」で統一されていたわけではない。
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天皇には正室以外にも複数の側室がいたほか、正室すら二名をもつことができた([[皇后]]と[[中宮]]:[[一条天皇]]が二后を並立した)。天皇の配偶者は、当初は[[出自]]に応じてそれぞれの称号が決まっていたが、後代になると寵愛の度合いによってこれが曖昧になった。
天皇には正室以外にも複数の側室がいたほか、正室すら二名をもつことができた([[皇后]]と[[中宮]]:[[一条天皇]]が二后を並立した)。天皇の配偶者は、当初は[[出自]]に応じてそれぞれの称号が決まっていたが、後代になると寵愛の度合いによってこれが曖昧になった。


明治20年代半ば(1890年代後半)、[[皇太子]][[大正天皇|嘉仁親王]](後の大正天皇)の妃を決めるにあたり、キリスト教概念による[[一夫一妻制]]の西欧列強に一等国として認められるため、宮中も一夫一妻制を推進する必要に迫られていた<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.137</ref>。そこで、健康な[[貞明皇后|九条節子]]が皇太子妃となり、夫妻には裕仁親王(後の[[昭和天皇]])ら、4人の男児が誕生した。[[大正天皇]]は自身が側室[[柳原愛子]]の子であることを知って衝撃を受け、またその后[[貞明皇后]]も側室である生母[[野間幾子]]の不遇を見て育ったことから、一夫一妻制を推進した<ref>[[#小田部 2001|小田部 2001]] p.146-147</ref>。
明治20年代半ば(1890年代後半)、[[皇太子]][[大正天皇|嘉仁親王]](後の大正天皇)の妃を決めるにあたり、キリスト教概念による[[一夫一妻制]]の西欧列強に一等国として認められるため、宮中も一夫一妻制を推進する必要に迫られていた<ref>[[#原 2017|原 2017]] p.137</ref>。そこで、健康な[[貞明皇后|九条節子]]が皇太子妃となり、夫妻には裕仁親王(後の昭和天皇)ら、4人の男児が誕生した。[[大正天皇]]は自身が側室[[柳原愛子]]の子であることを知って衝撃を受け、またその后[[貞明皇后]]も側室である生母[[野間幾子]]の不遇を見て育ったことから、一夫一妻制を推進した<ref>[[#小田部 2001|小田部 2001]] p.146-147</ref>。


続く、[[昭和天皇]]は、20~21歳にかけて[[皇太子裕仁親王の欧州訪問|欧州訪問]]を行った際に見たイギリスの王侯貴族の簡素な生活に影響を受け<ref>[[#小田部 2001|小田部 2001]] p.148</ref>、主体的な意思を持って側室制度を拒否した<ref>[[#小田部 2001|小田部 2001]] p.147</ref>。
続く、昭和天皇は、20~21歳にかけて[[皇太子裕仁親王の欧州訪問|欧州訪問]]を行った際に見たイギリスの王侯貴族の簡素な生活に影響を受け<ref>[[#小田部 2001|小田部 2001]] p.148</ref>、主体的な意思を持って側室制度を拒否した<ref>[[#小田部 2001|小田部 2001]] p.147</ref>。


{|class="wikitable"
{|class="wikitable"
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[[ファイル:Takachiho-gawara Kirishima City Kagoshima Pref04n4050.jpg|thumb|250px|[[高千穂河原]]の天孫降臨神籬斎場]]
[[ファイル:Takachiho-gawara Kirishima City Kagoshima Pref04n4050.jpg|thumb|250px|[[高千穂河原]]の天孫降臨神籬斎場]]
[[ファイル:Oka Misanzai Kofun, haisho.jpg|thumb|250px|[[仲哀天皇]]陵([[岡ミサンザイ古墳]])]]
[[ファイル:Oka Misanzai Kofun, haisho.jpg|thumb|250px|[[仲哀天皇]]陵([[岡ミサンザイ古墳]])]]
[[ファイル:Naiku 05.jpg|thumb|250px|[[皇室]]の祖先神を祀る[[伊勢神宮]] [[内宮]]]]
[[ファイル:Naiku 05.jpg|thumb|250px|皇室の祖先神を祀る[[伊勢神宮]] [[内宮]]]]
神道は日本古来の宗教である。[[古代]]の日本は[[祭政一致]]であり、天皇は上古からその祭祀を行ってきたと考えられている。[[仏教]]が伝来した後の[[用明天皇]]は「信仏法尊神道」であり、それは以後の天皇にも受け継がれた。天皇と神道の関係は[[天武天皇]]の[[大宝律令]]などで定められてゆき、[[奈良時代]]から[[平安時代]]にかけて、天皇は[[新嘗祭]]などの祭祀を自ら執り行い、天照大神を祀る[[伊勢神宮]]に[[斎宮]]を遣わし、[[延喜式神名帳|延喜式]]に定められた神社などに[[奉幣]]を供えた。
神道は日本古来の宗教である。[[古代]]の日本は[[祭政一致]]であり、天皇は上古からその祭祀を行ってきたと考えられている。[[仏教]]が伝来した後の[[用明天皇]]は「信仏法尊神道」であり、それは以後の天皇にも受け継がれた。天皇と神道の関係は[[天武天皇]]の[[大宝律令]]などで定められてゆき、[[奈良時代]]から[[平安時代]]にかけて、天皇は[[新嘗祭]]などの祭祀を自ら執り行い、天照大神を祀る[[伊勢神宮]]に[[斎宮]]を遣わし、[[延喜式神名帳|延喜式]]に定められた神社などに[[奉幣]]を供えた。


武家政権に移行して、[[鎌倉時代]]の[[順徳天皇]]は「先神事」とその重要性を述べている。中世になり朝廷が衰微すると、大規模な祭礼は実施できなくなり、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[後柏原天皇]]などは[[大嘗祭]]を執り行えなかった。[[江戸時代]]には[[江戸幕府]]の要求と金銭補助の下、[[徳川家]]の神格化を目的とする[[日光東照宮]]への奉幣なども行われた。
武家政権に移行して、[[鎌倉時代]]の[[順徳天皇]]は「先神事」とその重要性を述べている。中世になり朝廷が衰微すると、大規模な祭礼は実施できなくなり、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[後柏原天皇]]などは[[大嘗祭]]を執り行えなかった。江戸時代には[[江戸幕府]]の要求と金銭補助の下、[[徳川家]]の神格化を目的とする[[日光東照宮]]への奉幣なども行われた。


[[明治時代]]になると、神道は[[国家神道]]となり、[[神武天皇]]を祭る[[橿原神宮]]、[[桓武天皇]]を祭る[[平安神宮]]、[[明治天皇]]を祭る[[明治神宮]]などが創建され、戦前戦中の[[昭和天皇]]は[[現人神]]として崇拝された。戦後は[[政教分離]]となり国家神道は廃止され、昭和天皇は[[人間宣言]]により自らの神格化を否定した。現在は[[宮中祭祀]]として[[新嘗祭]]や[[四方拝]]などが執り行われ、一般人男性と結婚し民間家庭に嫁いだ[[皇女]][[伊勢神宮]]の[[祭主]]となり、[[皇室]]の私費により各地の神社へ奉幣が行われている<ref>{{Cite web |url=http://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/saishi/saishi01.html |title=主要祭儀一覧 |publisher=宮内庁 |accessdate=2019-05-14}}</ref>。
[[明治時代]]になると、神道は[[国家神道]]となり、[[神武天皇]]を祭る[[橿原神宮]]、[[桓武天皇]]を祭る[[平安神宮]]、[[明治天皇]]を祭る[[明治神宮]]などが創建され、戦前戦中の昭和天皇は[[現人神]]として崇拝された。戦後は[[政教分離]]となり国家神道は廃止され、昭和天皇は[[人間宣言]]により自らの神格化を否定した。現在は[[宮中祭祀]]として[[新嘗祭]]や[[四方拝]]などが執り行われ、一般人男性と結婚し民間家庭に嫁いだ皇女が伊勢神宮の[[祭主]]となり、皇室の私費により各地の神社へ奉幣が行われている<ref>{{Cite web |url=http://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/saishi/saishi01.html |title=主要祭儀一覧 |publisher=宮内庁 |accessdate=2019-05-14}}</ref>。


=== 仏教との関係 ===
=== 仏教との関係 ===
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[[ファイル:Mt Hiei Enryakuji temple , 比叡山 延暦寺 - panoramio (12).jpg|thumb|250px|[[比叡山延暦寺]]]]
[[ファイル:Mt Hiei Enryakuji temple , 比叡山 延暦寺 - panoramio (12).jpg|thumb|250px|[[比叡山延暦寺]]]]


『[[日本書紀]]』によると[[552年]]に[[百済]]の[[聖王 (百済)|聖王]](聖明王)により釈迦仏の金銅像と経論他が[[欽明天皇]]に献上され[[仏教]]が初めて伝来したとされている。仏教が伝来した際に仏教を信仰の可否については家臣達により議論されることになり、仏教容認側の[[蘇我氏]]と反対側の[[物部氏]]との間で可否を巡って対立し始め、[[用明天皇]]の後継者争いに繋がり、物部氏が滅ぼされると仏教信仰に傾き、物部氏討伐軍にも加わっていた用明天皇の第二皇子である[[聖徳太子]]により[[法興寺]]や[[法隆寺]]が建立され[[儒教]]や[[仏教]]の思想が反映された[[十七条憲法]]が作られるなどし、皇室は[[仏教]]と深い繋がりを持っていく。
『[[日本書紀]]』によると[[552年]]に[[百済]]の[[聖王 (百済)|聖王]](聖明王)により釈迦仏の金銅像と経論他が[[欽明天皇]]に献上され仏教が初めて伝来したとされている。仏教が伝来した際に仏教を信仰の可否については家臣達により議論されることになり、仏教容認側の[[蘇我氏]]と反対側の[[物部氏]]との間で可否を巡って対立し始め、[[用明天皇]]の後継者争いに繋がり、物部氏が滅ぼされると仏教信仰に傾き、物部氏討伐軍にも加わっていた用明天皇の第二皇子である[[聖徳太子]]により[[法興寺]]や[[法隆寺]]が建立され[[儒教]]や仏教の思想が反映された[[十七条憲法]]が作られるなどし、皇室は仏教と深い繋がりを持っていく。


また、伝統的に天皇自ら寺を建てるようになり、[[天武天皇]]は[[大官大寺]]、[[持統天皇]]は[[薬師寺]]を建立するなどし、[[聖武天皇]]の代に入ると[[鎮護国家]]という政策が盛んになり、国情不安を鎮撫するために[[国分寺]]を各地に作り、[[東大寺]]が建立される。
また、伝統的に天皇自ら寺を建てるようになり、[[天武天皇]]は[[大官大寺]]、[[持統天皇]]は[[薬師寺]]を建立するなどし、[[聖武天皇]]の代に入ると[[鎮護国家]]という政策が盛んになり、国情不安を鎮撫するために[[国分寺]]を各地に作り、[[東大寺]]が建立される。
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[[平安時代]]に入るとこれらの寺院群が政治的な権力を持つことになり、それが[[桓武天皇]]により[[平安京]]への遷都へと繋がり、日本古来の仏教と対抗させるために[[空海]]と[[最澄]]を遣唐使とともに[[唐]]に送り[[密教]]を学ばせ、空海は[[真言宗]]、最澄は[[天台宗]]を開き、それぞれ空海は高野山を、最澄は比叡山を下賜承わった。また[[白河天皇]]を始めとする天皇が[[譲位]]後に[[出家]]し、[[法皇]]と名乗る事も多くなる。
[[平安時代]]に入るとこれらの寺院群が政治的な権力を持つことになり、それが[[桓武天皇]]により[[平安京]]への遷都へと繋がり、日本古来の仏教と対抗させるために[[空海]]と[[最澄]]を遣唐使とともに[[唐]]に送り[[密教]]を学ばせ、空海は[[真言宗]]、最澄は[[天台宗]]を開き、それぞれ空海は高野山を、最澄は比叡山を下賜承わった。また[[白河天皇]]を始めとする天皇が[[譲位]]後に[[出家]]し、[[法皇]]と名乗る事も多くなる。


その後、[[江戸時代]]までは[[仏教]]とも深く繋がっており、法事は仏式で行われていた。[[1871年]]([[明治4年]])までは宮中の黒戸の間に仏壇があり、歴代天皇の[[位牌]]があった。天皇や皇族の位牌は「尊牌」と称された。しかし、[[明治]]時代に入ると明治政府の神道重視の政策により[[神仏分離]]が行われ、1000年以上続いた仏式の行事はすべて停止され、尊牌は京都の[[泉涌寺]]にまとめられ、皇室は仏教とは疎遠となる。
その後、江戸時代までは仏教とも深く繋がっており、法事は仏式で行われていた。[[1871年]]([[明治4年]])までは宮中の黒戸の間に仏壇があり、歴代天皇の[[位牌]]があった。天皇や皇族の位牌は「尊牌」と称された。しかし、[[明治]]時代に入ると明治政府の神道重視の政策により[[神仏分離]]が行われ、1000年以上続いた仏式の行事はすべて停止され、尊牌は京都の[[泉涌寺]]にまとめられ、皇室は仏教とは疎遠となる。


=== 職能神・芸能神との関係 ===
=== 職能神・芸能神との関係 ===
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=== 一神教・国家神道 ===
=== 一神教・国家神道 ===
[[ファイル:Kashihara-jingū, Ge-haiden 01.jpg|thumb|250px|明治23年創建の[[橿原神宮]]<br/>[[奈良県]][[橿原市]]]]
[[ファイル:Kashihara-jingū, Ge-haiden 01.jpg|thumb|250px|明治23年創建の[[橿原神宮]]<br/>[[奈良県]][[橿原市]]]]
『日本大百科全書』によると、[[明治維新]]・[[王政復古]]によって[[祭政一致]]が政治理念の基本とされ、天皇は国の「[[元首]]」かつ神聖不可侵な「[[現人神]]」とされた{{sfn|村上|2018|p=「天皇」}}。ここには、人と神の間に断絶の無い日本古来の[[神 (神道)|神]]観念とは全く異なる、「[[一神教]]の神観念」が取り入れられていた{{sfn|村上|2018|p=「天皇」}}。天皇は「絶対的[[真理]]」と「普遍的[[道徳]]」を体現する至高存在とされ、あらゆる価値は天皇に一元化された{{sfn|村上|2018|p=「天皇」}}。「天皇は[[国家神道]]のいわば最高[[祭司]]であり、[[神社]]の[[祭式]]は[[皇室祭祀]]を基準に整えられた」とされる{{sfn|村上|2018|p=「天皇」}}。[[東アジア]]学者の石川サトミによれば、日本人にとっての天皇は「彼らの[[唯一神]]、すなわち天皇(their God, i.e. the Tenno)」とも表現される{{sfn|Ishikawa|2007|p=214}}。
『日本大百科全書』によると、[[明治維新]]・[[王政復古]]によって[[祭政一致]]が政治理念の基本とされ、天皇は国の「元首」かつ神聖不可侵な「[[現人神]]」とされた{{sfn|村上|2018|p=「天皇」}}。ここには、人と神の間に断絶の無い日本古来の[[神 (神道)|神]]観念とは全く異なる、「[[一神教]]の神観念」が取り入れられていた{{sfn|村上|2018|p=「天皇」}}。天皇は「絶対的[[真理]]」と「普遍的[[道徳]]」を体現する至高存在とされ、あらゆる価値は天皇に一元化された{{sfn|村上|2018|p=「天皇」}}。「天皇は[[国家神道]]のいわば最高[[祭司]]であり、[[神社]]の[[祭式]]は[[皇室祭祀]]を基準に整えられた」とされる{{sfn|村上|2018|p=「天皇」}}。[[東アジア]]学者の石川サトミによれば、日本人にとっての天皇は「彼らの[[唯一神]]、すなわち天皇(their God, i.e. the Tenno)」とも表現される{{sfn|Ishikawa|2007|p=214}}。


また、[[大日本帝国]]が存在した時代では、日本の「皇帝(the emperor)」が「唯一神として(as God)」見なされたり{{sfn|James|2004|p=28}}、「人間形態として啓示された唯一神(God revealed in human form)」と主張されたりすることもあった{{sfn|James|2004|pp=29-30}}(一神教では、唯一神は「皇帝(Empepror)」・「唯一の皇帝(sole emperor)」とも説かれる{{sfn|Fiddes|2000|p=64}})。例えば、帝国大学の比較宗教学者だった[[加藤玄智]]は、天皇は「日本人にとって、[[ユダヤ人]]が唯一神と呼んだ一つの地位を専有している(occupying for the Japanese the place of the one whom the Jews called God)」と論じていた{{sfn|James|2004|pp=29-30}}。
また、[[大日本帝国]]が存在した時代では、日本の「皇帝(the emperor)」が「唯一神として(as God)」見なされたり{{sfn|James|2004|p=28}}、「人間形態として啓示された唯一神(God revealed in human form)」と主張されたりすることもあった{{sfn|James|2004|pp=29-30}}(一神教では、唯一神は「皇帝(Empepror)」・「唯一の皇帝(sole emperor)」とも説かれる{{sfn|Fiddes|2000|p=64}})。例えば、帝国大学の比較宗教学者だった[[加藤玄智]]は、天皇は「日本人にとって、[[ユダヤ人]]が唯一神と呼んだ一つの地位を専有している(occupying for the Japanese the place of the one whom the Jews called God)」と論じていた{{sfn|James|2004|pp=29-30}}。
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;「八紘一宇」へ
;「八紘一宇」へ
「[[世界統一]]」思想である「[[八紘一宇]]」は、「現人神」論とセットに語られてきたもので、[[田中智学]]の[[日本神話]][[解釈]]から由来している<ref name="arahitogami59"/>。天皇は天照大神の延長であり、よって[[日蓮主義]]者は天皇の[[徳]]と[[政治]]が一致するように努力しなければならないという日蓮主義の説が起源である<ref name="arahitogami59"/>。
「[[世界統一]]」思想である「[[八紘一宇]]」は、「現人神」論とセットに語られてきたもので、[[田中智学]]の[[日本神話]][[解釈]]から由来している<ref name="arahitogami59"/>。天皇は天照大神の延長であり、よって[[日蓮主義]]者は天皇の[[徳]]と政治が一致するように努力しなければならないという日蓮主義の説が起源である<ref name="arahitogami59"/>。


;「伝統精神」(国家社会主義)へ
;「伝統精神」(国家社会主義)へ
[[国家社会主義]]は社会主義的な「[[国家主義]]の一種」であり、日本では「純正[[日本主義]](皇道主義)」と連れ立って活動していた{{sfn|西田|2019|p=「国家社会主義」}}。特に「[[国家社会主義(ナチズム)]]」は、[[民族主義]]・[[全体主義]]・反[[個人主義]]・反[[自由主義]]・反[[民主主義]]・[[反議会主義]]・反[[社会主義]]・[[反マルクス主義]]等を掲げる{{sfn|松村|2019|p=「ナチズム」}}{{sfn|田中|2019|p=「ナチズム」}}。なお、「[[右翼]]」は「一般にはドイツの[[ナチス]],イタリアの[[ファシスト]],日本の[[超国家主義]]者などがその代表」とされている{{sfn|株式会社日立ソリューションズ・ビジネス|2019|p=「右翼」}}。
[[国家社会主義]]は社会主義的な「[[国家主義]]の一種」であり、日本では「純正[[日本主義]](皇道主義)」と連れ立って活動していた{{sfn|西田|2019|p=「国家社会主義」}}。特に「[[国家社会主義(ナチズム)]]」は、[[民族主義]]・[[全体主義]]・反[[個人主義]]・反[[自由主義]]・反[[民主主義]]・[[反議会主義]]・反[[社会主義]]・[[反マルクス主義]]等を掲げる{{sfn|松村|2019|p=「ナチズム」}}{{sfn|田中|2019|p=「ナチズム」}}。なお、「[[右翼]]」は「一般にはドイツの[[ナチス]],イタリアの[[ファシスト]],日本の[[超国家主義]]者などがその代表」とされている{{sfn|株式会社日立ソリューションズ・ビジネス|2019|p=「右翼」}}。
{{see also|右翼|国家主義|[[ナチズム|国家社会主義]]}}
{{see also|右翼|国家主義|[[ナチズム|国家社会主義]]}}
昭和時代初期には、天皇にまつわる「[[伝統の発明]]」として代表的に[[佐藤信淵]]および[[大国隆正]]の思想が利用された<ref name="arahitogami99">新田均『「現人神」「国家神道」という幻想』、99ページ</ref>。[[江戸時代]]末期の著述家である信淵の、帝国的で[[統制経済]]的な思想を象徴したのは、『混同秘策』(1823年)と『垂統秘録』(1833年)だった<ref name="arahitogami99"/>。前者では、日本は世界を支配する使命があり、その手段として[[満州]]・[[朝鮮]]・[[中国]]を併合すべきであると説かれている<ref name="arahitogami99"/>。後者は、国家による統制経済の必要を説いている<ref name="arahitogami99"/>。こうした著述が援用され、戦時中には信淵は「[[大東亜戦争]]の[[予言者]]」と称賛された<ref name="arahitogami99"/>。
昭和時代初期には、天皇にまつわる「[[伝統の発明]]」として代表的に[[佐藤信淵]]および[[大国隆正]]の思想が利用された<ref name="arahitogami99">新田均『「現人神」「国家神道」という幻想』、99ページ</ref>。江戸時代末期の著述家である信淵の、帝国的で[[統制経済]]的な思想を象徴したのは、『混同秘策』(1823年)と『垂統秘録』(1833年)だった<ref name="arahitogami99"/>。前者では、日本は世界を支配する使命があり、その手段として[[満州]]・[[朝鮮]]・[[中国]]を併合すべきであると説かれている<ref name="arahitogami99"/>。後者は、国家による統制経済の必要を説いている<ref name="arahitogami99"/>。こうした著述が援用され、戦時中には信淵は「[[大東亜戦争]]の[[予言者]]」と称賛された<ref name="arahitogami99"/>。

だが大東亜戦争時に至るまでは、信淵の思想は存命中および死後も、実質的に[[政治]]へ影響した例が無かった<ref name="arahitogami100">新田均『「現人神」「国家神道」という幻想』、100ページ</ref>。『混同秘策』と『垂統秘録』も「秘本」であり、一部の弟子以外には閲覧さえ許されず、公刊されたのは[[1887年]](明治20年)以降だった<ref name="arahitogami100"/>。
だが大東亜戦争時に至るまでは、信淵の思想は存命中および死後も、実質的に政治へ影響した例が無かった<ref name="arahitogami100">新田均『「現人神」「国家神道」という幻想』、100ページ</ref>。『混同秘策』と『垂統秘録』も「秘本」であり、一部の弟子以外には閲覧さえ許されず、公刊されたのは[[1887年]](明治20年)以降だった<ref name="arahitogami100"/>。

世界支配および統制経済を掲げた信淵への関心が高まっていったのは、[[日露戦争]]の勝利後である<ref name="arahitogami100"/>。また、[[社会主義]]の観点から信淵に興味を示す日本[[知識人]]も現れ始めた<ref name="arahitogami100"/>。信淵への評価を決定的に変化させたのは、[[1927年]](昭和2年)に[[大川周明]]が著した『佐藤信淵の理想国家』だった<ref name="arahitogami101">新田均『「現人神」「国家神道」という幻想』、101ページ</ref>。信淵の思想は
世界支配および統制経済を掲げた信淵への関心が高まっていったのは、[[日露戦争]]の勝利後である<ref name="arahitogami100"/>。また、[[社会主義]]の観点から信淵に興味を示す日本[[知識人]]も現れ始めた<ref name="arahitogami100"/>。信淵への評価を決定的に変化させたのは、[[1927年]](昭和2年)に[[大川周明]]が著した『佐藤信淵の理想国家』だった<ref name="arahitogami101">新田均『「現人神」「国家神道」という幻想』、101ページ</ref>。信淵の思想は
{{Quotation|鮮明に[[国家社会主義]]的である}}
{{Quotation|鮮明に[[国家社会主義]]的である}}
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;「天皇総帝論」へ
;「天皇総帝論」へ
戦時中には「天皇総帝論」がもてはやされていた<ref name="arahitogami103">新田均『「現人神」「国家神道」という幻想』、103ページ</ref>。「天皇総帝論」とは、同じく戦時中に「天皇信仰の主唱者」「世紀の[[予言者]]」と呼ばれていた[[幕末]]の[[国学者]]、[[大国隆正]]が唱えた議論である<ref name="arahitogami103"/>。これは要するに、天皇は[[世界]][[皇帝]]たちよりも上の地位にあり、[[歴史]]の「[[必然]]」として世界の「総帝」であるという主張だった<ref name="arahitogami103"/>。
戦時中には「天皇総帝論」がもてはやされていた<ref name="arahitogami103">新田均『「現人神」「国家神道」という幻想』、103ページ</ref>。「天皇総帝論」とは、同じく戦時中に「天皇信仰の主唱者」「世紀の[[予言者]]」と呼ばれていた[[幕末]]の[[国学者]]、[[大国隆正]]が唱えた議論である<ref name="arahitogami103"/>。これは要するに、天皇は世界の皇帝たちよりも上の地位にあり、[[歴史]]の「[[必然]]」として世界の「総帝」であるという主張だった<ref name="arahitogami103"/>。


「天皇総帝論」は、もとより[[外交]]や[[政治]]に影響を与えたことが無かった<ref name="arahitogami104">新田均『「現人神」「国家神道」という幻想』、104ページ</ref>。しかも、隆正の一部の[[弟子]]以外には忘れ去られていた<ref name="arahitogami104"/>。だが、帝国の[[昭和時代]]になると[[世間]]から注目され始めた<ref name="arahitogami104"/>。その発端は[[昭和]]2年5月、[[宮中]][[顧問]]管([[山口鋭之介]])が「大国隆正と日本[[精神]]」という文章を[[新聞]]に掲載した頃である<ref name="arahitogami104"/>。隆正は「日本の最も偉大な[[思想家]]であり、最も偉大な国学者であつた」、「[[明治維新]]の基礎をなした第一の功績者である」と断定された<ref name="arahitogami104"/>。
「天皇総帝論」は、もとより[[外交]]や政治に影響を与えたことが無かった<ref name="arahitogami104">新田均『「現人神」「国家神道」という幻想』、104ページ</ref>。しかも、隆正の一部の[[弟子]]以外には忘れ去られていた<ref name="arahitogami104"/>。だが、帝国の[[昭和時代]]になると[[世間]]から注目され始めた<ref name="arahitogami104"/>。その発端は[[昭和]]2年5月、[[宮中]][[顧問]]管([[山口鋭之介]])が「大国隆正と日本[[精神]]」という文章を[[新聞]]に掲載した頃である<ref name="arahitogami104"/>。隆正は「日本の最も偉大な[[思想家]]であり、最も偉大な国学者であつた」、「[[明治維新]]の基礎をなした第一の功績者である」と断定された<ref name="arahitogami104"/>。


新聞掲載の後に、「天皇総帝論」や隆正を扱う[[論文]]が急増し、『大国隆正[[全集]]』も公刊された<ref name="arahitogami105">新田均『「現人神」「国家神道」という幻想』、105ページ</ref>。実は『全集』から省かれているが、もともと隆正は日本神話、『[[古事記]]』、『[[日本書紀]]』を「わがくにの[[小説]][[演義]]の鼻祖([[作り話]]の[[元祖]])」と扱っていた<ref name="arahitogami105"/>。だがこれは、長いあいだ世に知られることがなかった<ref name="arahitogami105"/>。
新聞掲載の後に、「天皇総帝論」や隆正を扱う[[論文]]が急増し、『大国隆正[[全集]]』も公刊された<ref name="arahitogami105">新田均『「現人神」「国家神道」という幻想』、105ページ</ref>。実は『全集』から省かれているが、もともと隆正は日本神話、『古事記』、『日本書紀』を「わがくにの[[小説]][[演義]]の鼻祖([[作り話]]の[[元祖]])」と扱っていた<ref name="arahitogami105"/>。だがこれは、長いあいだ世に知られることがなかった<ref name="arahitogami105"/>。


[[第二次世界大戦]]に至る中で、「天皇総帝論」は
[[第二次世界大戦]]に至る中で、「天皇総帝論」は
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*「真日本の発見」
*「真日本の発見」
*「純なる日本的世界観」
*「純なる日本的世界観」
*「[[古事記]]の発見」
*「古事記の発見」
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*「天皇政治の世界性」
*「天皇政治の世界性」
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[[日本の降伏]]後の[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の神道指令には、“State Shinto”(国家神道)といった語をはじめ、加藤の影響が及んでいた{{sfn|前川|2012|p=98}}。神道指令を起草する際に[[W. K. バンス]]が用いたものは、アメリカ人の神道学者D. C. ホルトムの神道論ではあったが、ホルトムも加藤の神道論から学んでいた{{sfn|前川|2012|p=98}}。
[[日本の降伏]]後の[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の神道指令には、“State Shinto”(国家神道)といった語をはじめ、加藤の影響が及んでいた{{sfn|前川|2012|p=98}}。神道指令を起草する際に[[W. K. バンス]]が用いたものは、アメリカ人の神道学者D. C. ホルトムの神道論ではあったが、ホルトムも加藤の神道論から学んでいた{{sfn|前川|2012|p=98}}。


敗戦後の加藤は[[公職追放]]された他、[[恩給]]を一時停止された{{sfn|前川|2012|p=92}}。加藤たちの時代の宗教学的[[理想]]は、諸宗教の[[シンクレティズム|融合調和]]だった{{sfn|前川|2012|p=94}}。加藤によれば、神道と[[仏教]]との合一は「国家的神道」の中で成立していたが、神道とキリスト教との合一は「全うしかねて居」た{{sfn|前川|2012|p=94}}。しかし[[1959年]]、当時の[[皇太子]]だった[[上皇明仁]]の[[結婚]]によって、「此破天荒の精神的大[[事業]]」が定結されたと加藤は述べた{{sfn|前川|2012|p=94}}。キリスト教([[カトリック]])系教育の中で成長した[[正田美智子]]を[[皇室]]に迎えることによって、従来は一大難事だった「宗教的融合調和」が成立したという{{sfn|前川|2012|p=94}}。前川はこれを、加藤の「二〇歳代の[[夢]]の続き」と評している{{sfn|前川|2012|p=94}}。
敗戦後の加藤は[[公職追放]]された他、[[恩給]]を一時停止された{{sfn|前川|2012|p=92}}。加藤たちの時代の宗教学的[[理想]]は、諸宗教の[[シンクレティズム|融合調和]]だった{{sfn|前川|2012|p=94}}。加藤によれば、神道と仏教との合一は「国家的神道」の中で成立していたが、神道とキリスト教との合一は「全うしかねて居」た{{sfn|前川|2012|p=94}}。しかし[[1959年]]、当時の[[皇太子]]だった[[上皇明仁]]の[[結婚]]によって、「此破天荒の精神的大[[事業]]」が定結されたと加藤は述べた{{sfn|前川|2012|p=94}}。キリスト教([[カトリック]])系教育の中で成長した[[正田美智子]]を皇室に迎えることによって、従来は一大難事だった「宗教的融合調和」が成立したという{{sfn|前川|2012|p=94}}。前川はこれを、加藤の「二〇歳代の[[夢]]の続き」と評している{{sfn|前川|2012|p=94}}。


;批判
;批判
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== 天皇の歴史 ==
== 天皇の歴史 ==
{{出典の明記|section=1|date=2017年1月}}
{{出典の明記|section=1|date=2017年1月}}
『国史大辞典』は「天皇」の称号に相当する人数が、[[学問]]上確定できないとしている。『[[古事記]]』『[[日本書紀]]』が天皇号を用いて記載している人名中、最初から数人ないし十数人は、実在を認められないか強く疑われる名が多いためである。現在、[[皇統譜]]で[[神武天皇]]を第一代とし[[弘文天皇]]を加えているのは、「学問とは無関係の公的決定にすぎない」とされている。そもそも天皇の代数を一定とすることは、最古の天皇の実在性の問題がある他、同時に複数の天皇が併立した時期があり、天皇の順序を単線で連ねることのできない点からも不可能とされる。[[継体天皇]]と[[安閑天皇]]・[[宣化天皇]]との両朝併立を推定する学説を除いても、[[後鳥羽天皇]]と[[安徳天皇]]は一時期相並んで天皇とされており、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]には、[[北朝 (日本)|北朝]]の[[光明天皇|光明]]・[[崇光天皇|崇光]]・[[後光厳天皇|後光厳]]・[[後円融天皇|後円融]]・[[後小松天皇|後小松]](南北合体以前)各天皇と、[[南朝 (日本)|南朝]]の[[後醍醐天皇|後醍醐]]・[[後村上天皇|後村上]]・[[長慶天皇|長慶]]・[[後亀山天皇|後亀山]]各天皇とが対立し、双方が天皇であると主張していた<ref name=kokushi>{{Cite book|和書|author=家永三郎|title=国史大辞典|year=2015|publisher=JapanKnowledge|page=「天皇」の項}}</ref>。
『国史大辞典』は「天皇」の称号に相当する人数が、[[学問]]上確定できないとしている。『古事記』『日本書紀』が天皇号を用いて記載している人名中、最初から数人ないし十数人は、実在を認められないか強く疑われる名が多いためである。現在、[[皇統譜]]で[[神武天皇]]を第一代とし[[弘文天皇]]を加えているのは、「学問とは無関係の公的決定にすぎない」とされている。そもそも天皇の代数を一定とすることは、最古の天皇の実在性の問題がある他、同時に複数の天皇が併立した時期があり、天皇の順序を単線で連ねることのできない点からも不可能とされる。[[継体天皇]]と[[安閑天皇]]・[[宣化天皇]]との両朝併立を推定する学説を除いても、[[後鳥羽天皇]]と[[安徳天皇]]は一時期相並んで天皇とされており、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]には、[[北朝 (日本)|北朝]]の[[光明天皇|光明]]・[[崇光天皇|崇光]]・[[後光厳天皇|後光厳]]・[[後円融天皇|後円融]]・[[後小松天皇|後小松]](南北合体以前)各天皇と、[[南朝 (日本)|南朝]]の[[後醍醐天皇|後醍醐]]・[[後村上天皇|後村上]]・[[長慶天皇|長慶]]・[[後亀山天皇|後亀山]]各天皇とが対立し、双方が天皇であると主張していた<ref name=kokushi>{{Cite book|和書|author=家永三郎|title=国史大辞典|year=2015|publisher=JapanKnowledge|page=「天皇」の項}}</ref>。


大日本帝国憲法第一条に「万世一系ノ天皇」とあるが、学問上は、皇位継承がもとより「一系」であったか疑問視される。[[王朝交替説#崇神王朝(三輪王朝)(イリ王朝)|三輪王朝]]・[[河内王朝]]など別系の王朝の存在を推定する学説や、継体天皇を[[応神|応神天皇]]の子孫とする系譜の信用性を疑う学説もある。[[6世紀]]初頭の[[武烈天皇]]の崩御後に皇位継承者が絶え、継体天皇は新しい皇統の創始者ではないかと推定する学説は、河内王朝などについての学説とともに、「万世一系」を疑う理由の一つとなっている。ともかく、皇統が定まって以降、皇位継承の資格は[[父系]]血族であれば足り、[[傍系]]や[[女性]]で天皇となった例も少なくない。前近代の皇位継承に、固定した[[制度]]や確立した慣行があったとは見られていない。古代初期には天皇の崩御後に新帝が位につくのが常例だったと判じられるが、[[8世紀]]以後は天皇の譲位が原則となっている。そしてその以前やその期間にも、様々な力関係による天皇の交替があった。[[天武天皇]]が内乱([[壬申の乱]])の勝者として、先帝[[天智天皇]]の子[[弘文天皇|大友皇子]]を倒して天皇に即位した例や、[[淳仁天皇]]・[[陽成天皇]]・[[仲恭天皇]]のように、それぞれ[[太上天皇]]・[[摂政]]・[[幕府]]の力で廃帝とされた例もあり、後醍醐天皇・[[光厳天皇]]の交替、南北両朝への分裂のように、武力[[抗争]]に基づく非常事態の発生もある<ref name=kokushi/>。
大日本帝国憲法第一条に「万世一系ノ天皇」とあるが、学問上は、皇位継承がもとより「一系」であったか疑問視される。[[王朝交替説#崇神王朝(三輪王朝)(イリ王朝)|三輪王朝]]・[[河内王朝]]など別系の王朝の存在を推定する学説や、継体天皇を[[応神|応神天皇]]の子孫とする系譜の信用性を疑う学説もある。[[6世紀]]初頭の[[武烈天皇]]の崩御後に皇位継承者が絶え、継体天皇は新しい皇統の創始者ではないかと推定する学説は、河内王朝などについての学説とともに、「万世一系」を疑う理由の一つとなっている。ともかく、皇統が定まって以降、皇位継承の資格は[[父系]]血族であれば足り、[[傍系]]や[[女性]]で天皇となった例も少なくない。前近代の皇位継承に、固定した[[制度]]や確立した慣行があったとは見られていない。古代初期には天皇の崩御後に新帝が位につくのが常例だったと判じられるが、[[8世紀]]以後は天皇の譲位が原則となっている。そしてその以前やその期間にも、様々な力関係による天皇の交替があった。[[天武天皇]]が内乱([[壬申の乱]])の勝者として、先帝[[天智天皇]]の子[[弘文天皇|大友皇子]]を倒して天皇に即位した例や、[[淳仁天皇]]・[[陽成天皇]]・[[仲恭天皇]]のように、それぞれ[[太上天皇]]・[[摂政]]・[[幕府]]の力で廃帝とされた例もあり、後醍醐天皇・[[光厳天皇]]の交替、南北両朝への分裂のように、武力[[抗争]]に基づく非常事態の発生もある<ref name=kokushi/>。
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=== 神代と天皇の発祥 ===
=== 神代と天皇の発祥 ===
[[皇室]]の系図は『[[古事記]]』『[[日本書紀]]』を始めとする史書に基づいて作られ、その起源は神武天皇元年([[紀元前660年]])に即位した[[神武天皇]]、更にはその始祖である[[天照大御神]]に始まるとされている。明治政府から戦時中までの日本では史書の記述を真実の歴史とする考えが支配的であり、国定教科書では神武天皇元年を紀元元年とする[[神武天皇紀元]](皇紀)が採られていた。しかし『日本書紀』は[[天武天皇]]の勅命により編纂されたものであり、[[歴史学]]的に証明の難しい[[神話]]・[[伝説]]などを多く含んでいる事から、皇室の祖先にまつわる伝承や事績や初期の天皇の存在については疑問視されている。特に[[欠史八代]]の天皇については、古代[[中国]]の[[革命]]思想([[讖緯説]])に則って皇室の歴史を水増ししたのではないかと指摘する学説が主流となっているが、一方八代の父子関係を兄弟継承順に並べ替えた場合、他の豪族達の系図と世代数が符合するなど実在説もあり、未だ決着を見ていない。歴史学的に証明できる皇室の起源は、[[ヤマト王権]]の支配者・治天下大王(大王「おおきみ」)が統治していた[[古墳時代]]辺り迄である。
皇室の系図は『[[古事記]]』『[[日本書紀]]』を始めとする史書に基づいて作られ、その起源は神武天皇元年([[紀元前660年]])に即位した[[神武天皇]]、更にはその始祖である[[天照大御神]]に始まるとされている。明治政府から戦時中までの日本では史書の記述を真実の歴史とする考えが支配的であり、国定教科書では神武天皇元年を紀元元年とする[[神武天皇紀元]](皇紀)が採られていた。しかし『日本書紀』は[[天武天皇]]の勅命により編纂されたものであり、[[歴史学]]的に証明の難しい[[神話]]・[[伝説]]などを多く含んでいる事から、皇室の祖先にまつわる伝承や事績や初期の天皇の存在については疑問視されている。特に[[欠史八代]]の天皇については、古代[[中国]]の[[革命]]思想([[讖緯説]])に則って皇室の歴史を水増ししたのではないかと指摘する学説が主流となっているが、一方八代の父子関係を兄弟継承順に並べ替えた場合、他の豪族達の系図と世代数が符合するなど実在説もあり、未だ決着を見ていない。歴史学的に証明できる皇室の起源は、[[ヤマト王権]]の支配者・治天下大王(大王「おおきみ」)が統治していた[[古墳時代]]辺り迄である。


[[3世紀]]中葉以降に見られる[[前方後円墳]]の登場は[[日本列島]]における統一的な政権の成立を示唆しており、この時に成立した王朝が皇室の祖先だとする説や、神話に描かれる[[素戔鳴尊]]が[[弥生時代]]に[[朝鮮半島]]から北九州に渡来した皇室の始祖で、この6世孫の神武天皇が東征して大和を開いたとする説、弥生時代の北九州または[[近畿地方]]にあった[[邪馬台国]]の[[卑弥呼]]の系統を皇室の祖先とする説、皇室祖先の王朝は[[4世紀]]に成立したとする説、など多くの説が提出されており定まっていない。{{要出典|date=2017年1月}}
[[3世紀]]中葉以降に見られる[[前方後円墳]]の登場は[[日本列島]]における統一的な政権の成立を示唆しており、この時に成立した王朝が皇室の祖先だとする説や、神話に描かれる[[素戔鳴尊]]が[[弥生時代]]に[[朝鮮半島]]から北九州に渡来した皇室の始祖で、この6世孫の神武天皇が東征して大和を開いたとする説、弥生時代の北九州または[[近畿地方]]にあった[[邪馬台国]]の[[卑弥呼]]の系統を皇室の祖先とする説、皇室祖先の王朝は[[4世紀]]に成立したとする説、など多くの説が提出されており定まっていない。{{要出典|date=2017年1月}}
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=== 大化の改新から摂関政治まで ===
=== 大化の改新から摂関政治まで ===
{{出典の明記|section=1|date=2018年4月14日 (土) 01:54 (UTC)}}
{{出典の明記|section=1|date=2018年4月14日 (土) 01:54 (UTC)}}
天皇を中心とした[[国家]]の枠組みが整い始めたのは、[[大化の改新]]からさらに4半世紀経った[[天武天皇|天武朝]]以後である。[[大化の改新]]によって後の[[天智天皇]]である中大兄皇子が実権を握って以降、中国([[唐]])の法令体系である[[律令]]を導入した結果、天皇を中心とした政府・国家体制を構築しようとする動きが活発となっていった。それらの試みは様々な曲折により一気に進展はしなかったが、最終的には、[[天武天皇]]及びその後継者によって完結することとなった。特に天武天皇は、軍事力により皇位を奪取したことを背景として、絶対的な権力を行使した。この時代に詠まれた[[柿本人麻呂]]らの和歌には、「大君は神にしませば」と天皇を神とする表現が見られている。
天皇を中心とした国家の枠組みが整い始めたのは、[[大化の改新]]からさらに4半世紀経った[[天武天皇|天武朝]]以後である。[[大化の改新]]によって後の[[天智天皇]]である中大兄皇子が実権を握って以降、中国([[唐]])の法令体系である[[律令]]を導入した結果、天皇を中心とした政府・国家体制を構築しようとする動きが活発となっていった。それらの試みは様々な曲折により一気に進展はしなかったが、最終的には、[[天武天皇]]及びその後継者によって完結することとなった。特に天武天皇は、軍事力により皇位を奪取したことを背景として、絶対的な権力を行使した。この時代に詠まれた[[柿本人麻呂]]らの和歌には、「大君は神にしませば」と天皇を神とする表現が見られている。


[[律令制]]下で天皇は[[太政官]]組織に依拠し、実体的な権力を振るったが、この政治形態は法令に則っていたため、比較的安定したものだった。主要な政策事項の実施には、天皇の裁可が必要とされており、天皇の重要性が確保されていた。
[[律令制]]下で天皇は[[太政官]]組織に依拠し、実体的な権力を振るったが、この政治形態は法令に則っていたため、比較的安定したものだった。主要な政策事項の実施には、天皇の裁可が必要とされており、天皇の重要性が確保されていた。
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この[[院政]]の展開により、[[摂家|摂関家]]の勢力は著しく後退した。院政を布いた上皇(院)は、多くの[[貴族]]たちと私的に主従関係を結び、[[治天の君]](事実上の君主)として君臨したが、それは父としての親権と貴族たちの主人としての立場に基づくもので、天皇の外祖父ゆえに後見人として振る舞った[[摂関政治]]よりもいっそう強固なものであった。
この[[院政]]の展開により、[[摂家|摂関家]]の勢力は著しく後退した。院政を布いた上皇(院)は、多くの[[貴族]]たちと私的に主従関係を結び、[[治天の君]](事実上の君主)として君臨したが、それは父としての親権と貴族たちの主人としての立場に基づくもので、天皇の外祖父ゆえに後見人として振る舞った[[摂関政治]]よりもいっそう強固なものであった。


治天の君は、自己の軍事力として[[北面武士]]を保持し、[[平氏]]や[[源氏]]などの[[武士]]とも主従関係を結んで重用したが、このことは結果的に、武力による政治紛争の解決への道を開くことになり、[[平氏政権]]の誕生や源氏による[[鎌倉幕府]]の登場につながった。政治的には、院政期に[[権門勢家]]が国家からの自立の度合いを深めるに従い、[[皇室]]という一権門の代表に滑り落ちた。理念面では、歴代の天皇が神や仏といった[[超越]]者の力によって失脚に追い込まれるという説話や主張が度々見られるようになる。[[仏法]]に敵対した罪によって地獄に堕ちたという逸話も広く知られている。殊に、[[後白河天皇]]のように、聖代の帝王と対比して仮借ない批判も投げつけられた者もいる。[[即位灌頂]]により地位の正当化を弁証せざるを得ない程に、[[仏教]]の流布を背景にした相対化と脱神秘化が生じていた。また上皇の地位は天皇ほど律令に左右されず、恣意的な行動が可能なため、治天の私生活は乱れ、公的にも暴政に陥った。
治天の君は、自己の軍事力として[[北面武士]]を保持し、[[平氏]]や[[源氏]]などの[[武士]]とも主従関係を結んで重用したが、このことは結果的に、武力による政治紛争の解決への道を開くことになり、[[平氏政権]]の誕生や源氏による[[鎌倉幕府]]の登場につながった。政治的には、院政期に[[権門勢家]]が国家からの自立の度合いを深めるに従い、皇室という一権門の代表に滑り落ちた。理念面では、歴代の天皇が神や仏といった[[超越]]者の力によって失脚に追い込まれるという説話や主張が度々見られるようになる。[[仏法]]に敵対した罪によって地獄に堕ちたという逸話も広く知られている。殊に、[[後白河天皇]]のように、聖代の帝王と対比して仮借ない批判も投げつけられた者もいる。[[即位灌頂]]により地位の正当化を弁証せざるを得ない程に、仏教の流布を背景にした相対化と脱神秘化が生じていた。また上皇の地位は天皇ほど律令に左右されず、恣意的な行動が可能なため、治天の私生活は乱れ、公的にも暴政に陥った。


[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]はさらに[[西面武士]]を設置したが、[[承久の乱]]の敗北により廃止された。承久の乱以後は、朝廷は独自の軍事力を失って、幕府に対して従属的な立場に立たされることになり、時には幕府の命令で天皇が任免される事態にまで至った。
[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]はさらに[[西面武士]]を設置したが、[[承久の乱]]の敗北により廃止された。承久の乱以後は、朝廷は独自の軍事力を失って、幕府に対して従属的な立場に立たされることになり、時には幕府の命令で天皇が任免される事態にまで至った。
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時に、[[両統迭立]]の時代になると、[[神孫為君]]の論理に安住出来なくなり、[[徳治]]と善政を標榜するようになる。[[花園天皇]]は「'''皇胤一統'''」の論理に寄りかかる事を戒め、君主としての徳の[[涵養]]を力説している。また同じく[[儒教]]精神から、[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]のように『[[承久記]]』や『[[六代勝事記]]』によって激しく批判、失脚の正当化がされる事はあっても、天皇という制度が否定される事は個々の天皇に対して激しい攻撃がなされた中世期にあってもなかった。それは、儒教的徳治論の核心をなしていた[[易姓革命]]思想は、皇位継承者の中でも徳の高い人物が就くべき、徳のある人物が政治を行うべきという論理に姿を変えて日本に定着する事になった。
時に、[[両統迭立]]の時代になると、[[神孫為君]]の論理に安住出来なくなり、[[徳治]]と善政を標榜するようになる。[[花園天皇]]は「'''皇胤一統'''」の論理に寄りかかる事を戒め、君主としての徳の[[涵養]]を力説している。また同じく[[儒教]]精神から、[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]のように『[[承久記]]』や『[[六代勝事記]]』によって激しく批判、失脚の正当化がされる事はあっても、天皇という制度が否定される事は個々の天皇に対して激しい攻撃がなされた中世期にあってもなかった。それは、儒教的徳治論の核心をなしていた[[易姓革命]]思想は、皇位継承者の中でも徳の高い人物が就くべき、徳のある人物が政治を行うべきという論理に姿を変えて日本に定着する事になった。


院政はこの後[[江戸時代]]まで続くが、実体的な政権を構成したのは、白河院政から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[後円融天皇|後円融院政]]までの約250年間とされている。後円融上皇の[[崩御]]後、わずかに残っていた朝廷の政治的権力も[[足利義満]]の手で、ほとんどすべて幕府に接収され、[[貴族]]たちも多くは[[室町殿]]と主従関係を結んで幕府に従属し、院政は支配する対象自体を失い朝廷も政府としての機能を失った。
院政はこの後江戸時代まで続くが、実体的な政権を構成したのは、白河院政から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[後円融天皇|後円融院政]]までの約250年間とされている。後円融上皇の[[崩御]]後、わずかに残っていた朝廷の政治的権力も[[足利義満]]の手で、ほとんどすべて幕府に接収され、貴族たちも多くは[[室町殿]]と主従関係を結んで幕府に従属し、院政は支配する対象自体を失い朝廷も政府としての機能を失った。


=== 鎌倉・室町時代 ===
=== 鎌倉・室町時代 ===
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{{Cquote|
{{Cquote|
此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀(にせ)[[綸旨]]<br/>
此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀(にせ)[[綸旨]]<br/>
(中略)<br/>
(中略)<br/>
天下一統メズラシヤ 御代ニ生テサマザマノ 事ヲミキクゾ不思議ナル<br/>
天下一統メズラシヤ 御代ニ生テサマザマノ 事ヲミキクゾ不思議ナル<br/>
京童ノ口ズサミ 十分ノ一ヲモラスナリ
京童ノ口ズサミ 十分ノ一ヲモラスナリ
|||『二条河原落書』
|||『二条河原落書』
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{{出典の明記|section=1|date=2018年4月14日 (土) 01:54 (UTC)}}
{{出典の明記|section=1|date=2018年4月14日 (土) 01:54 (UTC)}}
[[ファイル:Emperor Go-Yōzei2.jpg|thumb|250px|[[徳川家康]]に[[将軍宣下]]をした[[後陽成天皇]]]]
[[ファイル:Emperor Go-Yōzei2.jpg|thumb|250px|[[徳川家康]]に[[将軍宣下]]をした[[後陽成天皇]]]]
[[江戸時代]]においては、天皇は政治的実権を取得することなく、実際の[[石高]]は1万石(のち3万石)程度の経済基盤しか持たなかった。また[[禁中並公家諸法度]]により、その言動も幕府から厳しく制限された。
江戸時代においては、天皇は政治的実権を取得することなく、実際の[[石高]]は1万石(のち3万石)程度の経済基盤しか持たなかった。また[[禁中並公家諸法度]]により、その言動も幕府から厳しく制限された。


しかしながら公家は実権は失っていたものの[[茶道]]・[[俳諧]]等の文化活動においてその[[嫡流]]たる天皇の権威高揚に努め、天皇は[[改元]]にあたって元号を決定する最終的権限を持っていたこと(元号勅定の原則)を始め、将軍や[[大名]]の[[官位]]も、これまでと同様に全て天皇から任命されるものであった(これに対しても幕府が元号決定や人事への介入を行い、その権威の縮小・儀礼化を図っている)。
しかしながら公家は実権は失っていたものの[[茶道]]・[[俳諧]]等の文化活動においてその[[嫡流]]たる天皇の権威高揚に努め、天皇は[[改元]]にあたって元号を決定する最終的権限を持っていたこと(元号勅定の原則)を始め、将軍や[[大名]]の[[官位]]も、これまでと同様に全て天皇から任命されるものであった(これに対しても幕府が元号決定や人事への介入を行い、その権威の縮小・儀礼化を図っている)。
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このことによって天皇の権威は復活したが、幕府は当初、[[公武合体]]により、反幕勢力の批判を封じ込めようとした。しかしこの画策は失敗し、[[薩摩]]・[[長州]]を主体とする反幕勢力による武力倒幕が行われようとした。幕府はその機先を制して[[大政奉還]]を行ったが、将軍は「辞官納地」(全ての官職と領地の返上)を強要され、それに不満の旧幕府軍は[[鳥羽・伏見の戦い|鳥羽・伏見]]で[[官軍]]と衝突し、内戦となった。
このことによって天皇の権威は復活したが、幕府は当初、[[公武合体]]により、反幕勢力の批判を封じ込めようとした。しかしこの画策は失敗し、[[薩摩]]・[[長州]]を主体とする反幕勢力による武力倒幕が行われようとした。幕府はその機先を制して[[大政奉還]]を行ったが、将軍は「辞官納地」(全ての官職と領地の返上)を強要され、それに不満の旧幕府軍は[[鳥羽・伏見の戦い|鳥羽・伏見]]で[[官軍]]と衝突し、内戦となった。


その過程で[[北海道]][[函館]]では、[[榎本武揚]]らによって一時[[共和制]]が宣言される(「[[蝦夷共和国]]」)。「蝦夷共和国」は[[選挙]]によって大統領(総裁)を選出したが、官軍に程なく平定された。
その過程で北海道[[函館]]では、[[榎本武揚]]らによって一時[[共和制]]が宣言される(「[[蝦夷共和国]]」)。「蝦夷共和国」は[[選挙]]によって大統領(総裁)を選出したが、官軍に程なく平定された。


[[戊辰戦争]]を通じて倒幕に成功した[[大久保利通]]らは、天皇を中心とする新政権を当初、京都の[[太政官]]制度によって運営した。しかし[[征韓論]]政変によって[[参議]]から下野した[[板垣退助]]らが[[自由民権運動]]を開始し、それが次第に議会開設の国民運動として発展すると、政府は[[大日本帝国憲法]]を発布し、議会と内閣制度を発足させた。
[[戊辰戦争]]を通じて倒幕に成功した[[大久保利通]]らは、天皇を中心とする新政権を当初、京都の[[太政官]]制度によって運営した。しかし[[征韓論]]政変によって[[参議]]から下野した[[板垣退助]]らが[[自由民権運動]]を開始し、それが次第に議会開設の国民運動として発展すると、政府は[[大日本帝国憲法]]を発布し、議会と内閣制度を発足させた。
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=== 昭和 ===
=== 昭和 ===
{{出典の明記|section=1|date=2018年4月14日 (土) 01:54 (UTC)}}
{{出典の明記|section=1|date=2018年4月14日 (土) 01:54 (UTC)}}
[[1933年]]([[昭和]]8年)[[12月23日]]、[[昭和天皇]]第五子で初の皇男子である[[上皇明仁|明仁親王]](のちの第125代天皇)が誕生。
[[1933年]]([[昭和]]8年)[[12月23日]]、昭和天皇第五子で初の皇男子である[[上皇明仁|明仁親王]](のちの第125代天皇)が誕生。


[[1935年]](昭和10年)、[[美濃部達吉]]はそれまで学会で主流だった[[天皇機関説]]を主張したことで[[貴族院 (日本)|貴族院]]で攻撃され、著書は発禁処分となり不敬罪で告訴され、貴族院議員の職を辞した。政府や軍の活動に対する世論の批判を抑える目的として天皇の存在が利用されることとなった。
[[1935年]](昭和10年)、[[美濃部達吉]]はそれまで学会で主流だった[[天皇機関説]]を主張したことで[[貴族院 (日本)|貴族院]]で攻撃され、著書は発禁処分となり不敬罪で告訴され、貴族院議員の職を辞した。政府や軍の活動に対する世論の批判を抑える目的として天皇の存在が利用されることとなった。
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[[ファイル:Emperor Showa 1956-11-face.jpg|thumb|昭和天皇]]
[[ファイル:Emperor Showa 1956-11-face.jpg|thumb|昭和天皇]]


[[昭和天皇の戦争責任論|昭和天皇の戦争責任]]についても追及すべきとの意見が強くあったが、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の外交方針により、占領当局は追及しないこととした。そして、その外交方針を受けて、アメリカは「天皇を捕虜として管理し、さらにその捕虜を通して内閣総理大臣及び最高裁判所長官の任命に関与し、日本の民主化を管理する計画書」を策定した。
[[昭和天皇の戦争責任論|昭和天皇の戦争責任]]についても追及すべきとの意見が強くあったが、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の外交方針により、占領当局は追及しないこととした。そして、その外交方針を受けて、アメリカは「天皇を捕虜として管理し、さらにその捕虜を通して内閣総理大臣及び最高裁判所長官の任命に関与し、日本の民主化を管理する計画書」を策定した。また、国内の民間には天皇をめぐる各種の意見が生じたが、[[津田左右吉]]なども「天皇自体の存在は否定しない」と言明した。天皇の廃位を唱える見解や「昭和天皇の退位と[[高松宮宣仁親王]]を[[摂政]]として[[上皇明仁|皇太子明仁親王]]の即位により改元する(元号を改正する)のが妥当」とする意見を昭和天皇の弟の[[三笠宮崇仁親王]]、要人では[[近衛文麿]]・[[木戸幸一]]・[[南原繁]]・[[佐々木惣一]]・[[中曽根康弘]]が唱えたが、一部にすぎなかった。
また、国内の民間には天皇をめぐる各種の意見が生じたが、[[津田左右吉]]なども「天皇自体の存在は否定しない」と言明した。天皇の廃位を唱える見解や「[[昭和天皇]]の退位と[[高松宮宣仁親王]]を[[摂政]]として[[上皇明仁|皇太子明仁親王]]の即位により改元する(元号を改正する)のが妥当」とする意見を昭和天皇の弟の[[三笠宮崇仁親王]]、要人では[[近衛文麿]]・[[木戸幸一]]・[[南原繁]]・[[佐々木惣一]]・[[中曽根康弘]]が唱えたが、一部にすぎなかった。


近衛文麿は、昭和天皇を[[京都]]の[[仁和寺]]に出家させようと考えていたとされる<ref>{{Cite web|title=『昭和天皇実録』を読み解く|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」|url=https://web.archive.org/web/20191214042513/https://dokushojin.com/article.html?i=480|website=web.archive.org|date=2019-12-14|accessdate=2019-12-14}}</ref>。
近衛文麿は、昭和天皇を[[京都]]の[[仁和寺]]に出家させようと考えていたとされる<ref>{{Cite web|title=『昭和天皇実録』を読み解く|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」|url=https://web.archive.org/web/20191214042513/https://dokushojin.com/article.html?i=480|website=web.archive.org|date=2019-12-14|accessdate=2019-12-14}}</ref>。


昭和天皇自身は「退位の意向」を示したが、「かえって戦争責任を認めることになる」として周囲から強い反対があり、また昭和天皇擁護派である[[吉田茂]]<!--{{efn|『自省録・歴史法廷の被告として』によると中曽根康弘が天皇退位を述べると吉田は「陛下(昭和天皇)にはこのままぜひ仕事を続け、日本再建に努力していただきたい。天皇の退位を言うものは非国民であります」と反発した{{要ページ番号|date=2017年8月}}。}}-->と[[ダグラス・マッカーサー]]の強い反対で撤回した。マッカーサーは[[駐日英国大使|駐日イギリス大使]]アルバリー・ガスコインとの会談にて「私は天皇の退位を認めるつもりはない。天皇には義務として現在の地位に留まってもらうよう求めるつもりだ」と述べた<ref>工藤美代子「マッカーサーが阻止した天皇『退位』工作」「[[産経新聞]]」[[1988年]][[6月4日]]付。</ref>。
昭和天皇自身は「退位の意向」を示したが、「かえって戦争責任を認めることになる」として周囲から強い反対があり、また昭和天皇擁護派である[[吉田茂]]<!--{{efn|『自省録・歴史法廷の被告として』によると中曽根康弘が天皇退位を述べると吉田は「陛下(昭和天皇)にはこのままぜひ仕事を続け、日本再建に努力していただきたい。天皇の退位を言うものは非国民であります」と反発した{{要ページ番号|date=2017年8月}}。}}-->と[[ダグラス・マッカーサー]]の強い反対で撤回した。マッカーサーは[[駐日英国大使|駐日イギリス大使]]アルバリー・ガスコインとの会談にて「私は天皇の退位を認めるつもりはない。天皇には義務として現在の地位に留まってもらうよう求めるつもりだ」と述べた<ref>工藤美代子「マッカーサーが阻止した天皇『退位』工作」「[[産経新聞]]」1988年6月4日付。</ref>。


天皇退位論への反応は、天皇存続支持:90.3%、天皇留位支持:68.5%、皇太子への譲位:18.4%、退位で天皇廃止:4.0%であった<ref>世論調査:([[1948]][[8月15日]][[読売新聞]])</ref>。
天皇退位論への反応は、天皇存続支持:90.3%、天皇留位支持:68.5%、皇太子への譲位:18.4%、退位で天皇廃止:4.0%であった<ref>世論調査:(1948年8月15日[[読売新聞]])</ref>。


この後、連合国総司令官のマッカーサー元帥と昭和天皇が並んで写っている写真(右)が新聞に掲載された。今まで現人神とされ、写真も「[[御真影]]」等と呼ばれていた天皇が、しかも腰に手を当てた姿の元帥の隣に直立不動の姿勢で、普通に新聞に写っていることは国民の衝撃を呼んだ。[[1946年]](昭和21年)[[1月1日]]、新日本建設に関する詔書(いわゆる'''[[人間宣言]]''')が官報により発布された。詔書の冒頭において[[五箇条の御誓文]]を掲げており<ref name="hahanaru">[[ベン=アミー・シロニー]]、312-314頁(第8章『謎多き武人天皇』、21『天照の末裔と神の子イエス』、「神道指令」と「人間宣言」)</ref><ref>{{cite journal|author=Amino, Y.; Yamaguchi, M.|title=The Japanese Monarchy and Women|pages=p.57|journal=JAPAN ECHO - JAPAN'S CRISIS|year=1999|volume=26|issue=1|url=http://www.japanecho.co.jp/sum/1999/b2601.html |archiveurl=http://web.archive.org/web/20080416140508/http://www.japanecho.co.jp:80/sum/1999/b2601.html |archivedate=2008-04-16}}</ref>、[[1977年]](昭和52年)[[8月23日]]の昭和天皇の会見によると、日本の民主主義は日本に元々あった五箇条の御誓文に基づいていることを示すのが、この詔書の主な目的であった<ref name="hahanaru"/><ref>{{cite book|author=[[甘露寺受長]]|title=Hirohito: An Intimate Portrait of the Japanese Emperor|pages=108|isbn=978-0914594048|publisher=Harpercollins|edition=1st}}</ref><ref>[[甘露寺受長]]、207頁{{Full citation needed |date=2019-05-13 |title=「甘露寺受長」を著者とする文献の書誌情報は本記事に2件載っていますが、そのうちのどちらを指しているのか不明です。}}</ref>。この詔書は人間宣言と呼ばれるが、「人間宣言」は詔書の6分の1程度であり、戦時中に絶対神化されたことを否定しただけであり天皇の神話そのものは否定していない<ref name="hahanaru"/>。この詔書は、日本国外では天皇が神から人間に歴史的な変容を遂げたとして歓迎され、退位と追訴を要求されていた昭和天皇の印象が改善された<ref name="hahanaru"/>。[[1946年]](昭和21年)1月1日、この詔書について新聞各紙の第一面で報道されたが、日本の平和や天皇は国民とともにあるといったことを報道するのみで、いわゆる人間宣言にはほとんど触れていなかった<ref name="hahanaru"/>。
この後、連合国総司令官のマッカーサー元帥と昭和天皇が並んで写っている写真(右)が新聞に掲載された。今まで現人神とされ、写真も「[[御真影]]」等と呼ばれていた天皇が、しかも腰に手を当てた姿の元帥の隣に直立不動の姿勢で、普通に新聞に写っていることは国民の衝撃を呼んだ。
[[1946年]](昭和21年)[[1月1日]]、新日本建設に関する詔書(いわゆる'''[[人間宣言]]''')が官報により発布された。詔書の冒頭において[[五箇条の御誓文]]を掲げており<ref name="hahanaru">[[ベン=アミー・シロニー]]、312-314頁(第8章『謎多き武人天皇』、21『天照の末裔と神の子イエス』、「神道指令」と「人間宣言」)</ref><ref>{{cite journal|author=Amino, Y.; Yamaguchi, M.|title=The Japanese Monarchy and Women|pages=p.57|journal=JAPAN ECHO - JAPAN'S CRISIS|year=1999|volume=26|issue=1|url=http://www.japanecho.co.jp/sum/1999/b2601.html |archiveurl=http://web.archive.org/web/20080416140508/http://www.japanecho.co.jp:80/sum/1999/b2601.html |archivedate=2008-04-16}}</ref>、[[1977年]](昭和52年)[[8月23日]]の[[昭和天皇]]の会見によると、日本の民主主義は日本に元々あった五箇条の御誓文に基づいていることを示すのが、この詔書の主な目的であった<ref name="hahanaru"/><ref>{{cite book|author=[[甘露寺受長]]|title=Hirohito: An Intimate Portrait of the Japanese Emperor|pages=108|isbn=978-0914594048|publisher=Harpercollins|edition=1st}}</ref><ref>[[甘露寺受長]]、207頁{{Full citation needed |date=2019-05-13 |title=「甘露寺受長」を著者とする文献の書誌情報は本記事に2件載っていますが、そのうちのどちらを指しているのか不明です。}}</ref>。この詔書は人間宣言と呼ばれるが、「人間宣言」は詔書の6分の1程度であり、戦時中に絶対神化されたことを否定しただけであり天皇の神話そのものは否定していない<ref name="hahanaru"/>。この詔書は、日本国外では天皇が神から人間に歴史的な変容を遂げたとして歓迎され、退位と追訴を要求されていた昭和天皇の印象が改善された<ref name="hahanaru"/>。[[1946年]](昭和21年)1月1日、この詔書について新聞各紙の第一面で報道されたが、日本の平和や天皇は国民とともにあるといったことを報道するのみで、いわゆる人間宣言にはほとんど触れていなかった<ref name="hahanaru"/>。


昭和天皇はその後、日本全国各地への[[行幸|'''巡幸''']]を始める。この「巡幸」は各地で歓迎をもって迎えられたが、[[1947年]](昭和22年)にはその歓迎の盛り上がりぶりに、天皇の政治権力復活を危惧したGHQによって巡幸の1年間中止が決定されるなどの動きもあった([[日本の国旗|国旗]]の掲揚はGHQにより禁じられていたが、多数の民衆が掲揚していたため)。([[昭和天皇#行幸]])。
昭和天皇はその後、日本全国各地への[[行幸|'''巡幸''']]を始める。この「巡幸」は各地で歓迎をもって迎えられたが、[[1947年]](昭和22年)にはその歓迎の盛り上がりぶりに、天皇の政治権力復活を危惧したGHQによって巡幸の1年間中止が決定されるなどの動きもあった([[日本の国旗|国旗]]の掲揚はGHQにより禁じられていたが、多数の民衆が掲揚していたため)。([[昭和天皇#行幸]])。
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天皇の外国行幸は[[国事行為の臨時代行に関する法律]]が整備されておらず長年実現されていなかった。
天皇の外国行幸は[[国事行為の臨時代行に関する法律]]が整備されておらず長年実現されていなかった。


[[1971年]](昭和46年)、[[昭和天皇]]が天皇として初めて[[外遊]]し、イギリスや[[オランダ]]、[[スイス]]など[[ヨーロッパ]]諸国7カ国を巡幸した。[[1975年]](昭和50年)には、当時の大統領[[ジェラルド・R・フォード]]の招待により、天皇として初めて[[アメリカ合衆国]]に公式に行幸した。
[[1971年]](昭和46年)、昭和天皇が天皇として初めて[[外遊]]し、イギリスや[[オランダ]]、[[スイス]]など[[ヨーロッパ]]諸国7カ国を巡幸した。[[1975年]](昭和50年)には、当時の大統領[[ジェラルド・R・フォード]]の招待により、天皇として初めて[[アメリカ合衆国]]に公式に行幸した。


第125代天皇だった[[上皇明仁]]も1991年(平成3年)に[[タイ王国]]などに行幸したのを始め、年に1、2回のペースで海外行幸をしている。
第125代天皇だった[[上皇明仁]]も1991年(平成3年)に[[タイ王国]]などに行幸したのを始め、年に1、2回のペースで海外行幸をしている。


[[第二次世界大戦]]後、占領統治の終わりとともに、日本国外の国家元首や賓客(王族など)が日本を訪れるようになった。[[1956年]](昭和31年)に[[エチオピア帝国|エチオピア皇帝]]の[[ハイレ・セラシエ1世]]、[[1957年]](昭和32年)に[[インド]]の[[ジャワハルラール・ネルー]]首相、[[1958年]](昭和33年)に[[インドネシア]]の[[スカルノ]]大統領、[[1960年]](昭和35年)に[[コンラート・アデナウアー|アデナウアー]]西独[[首相]]、[[1968年]](昭和38年)[[タイ王国]]の[[ラーマ9世]](プミポン国王)の来日があった。以後、他の国々からも賓客が次々に来日するようになった<ref>ベン・アミー・シロニー『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』378頁(第9章「母性的君主への回帰」、22「性と死―天皇への愛憎」、「日本は君主制の国か」)。</ref>。
[[第二次世界大戦]]後、占領統治の終わりとともに、日本国外の国家元首や賓客(王族など)が日本を訪れるようになった。[[1956年]](昭和31年)に[[エチオピア帝国|エチオピア皇帝]]の[[ハイレ・セラシエ1世]]、[[1957年]](昭和32年)に[[インド]]の[[ジャワハルラール・ネルー]]首相、[[1958年]](昭和33年)に[[インドネシア]]の[[スカルノ]]大統領、[[1960年]](昭和35年)に[[コンラート・アデナウアー|アデナウアー]]西独首相、[[1968年]](昭和38年)[[タイ王国]]の[[ラーマ9世]](プミポン国王)の来日があった。以後、他の国々からも賓客が次々に来日するようになった<ref>ベン・アミー・シロニー『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』378頁(第9章「母性的君主への回帰」、22「性と死―天皇への愛憎」、「日本は君主制の国か」)。</ref>。


[[昭和天皇]]の[[大喪の礼]]の際には、世界の163か国の国家[[元首]]や[[首脳]]と17の[[国際機関]]の関係者が参列に訪れた。[[ベルギー]]・[[ブータン]]・[[ブルネイ]]・[[ヨルダン]]・[[レソト]]・[[ニジェール]]・[[トンガ]]の[[国王]]、[[バングラデシュ]]・[[ブラジル]]・[[ブルンジ]]・[[ジブチ]]・[[エジプト]]・[[フィジー]]・[[フィンランド]]・[[フランス]]・[[ガンビア]]・[[ドイツ|ドイツ連邦共和国]]・[[ギリシャ]]・[[ホンジュラス]]・[[アイスランド]]・[[インド]]・[[インドネシア]]・[[アイルランド]]・[[イスラエル]]・[[イタリア]]・[[ケニア]]・[[モルディブ]]・[[ミクロネシア連邦]]・[[ナイジェリア]]・[[パキスタン]]・[[フィリピン]]・[[ポルトガル]]・[[スペイン]]・[[スワジランド]]・[[トーゴ]]・[[チュニジア]]・[[トルコ]]・[[ウガンダ]]・[[タンザニア]]・[[アメリカ合衆国]]・[[バヌアツ]]・[[ザイール]]・[[ザンビア]]の[[大統領]]・[[首相]]、[[国際連合]]の[[ハビエル・ペレス・デ・クエヤル|事務総長]]が参列した<ref>{{Cite web |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1989/h01-shiryou-5.htm |title= I 資料5.「昭和天皇大喪の礼」に参列した国及び国際機関の代表 |accessdate=2019-05-02 |date=1989-09 |website=外務省ホームページ |work=外交青書 わが外交の近況 1989年版(第33号) |publisher=[[外務省]]}}</ref>。
昭和天皇の[[大喪の礼]]の際には、世界の163か国の国家元首や[[首脳]]と17の[[国際機関]]の関係者が参列に訪れた。[[ベルギー]]・[[ブータン]]・[[ブルネイ]]・[[ヨルダン]]・[[レソト]]・[[ニジェール]]・[[トンガ]]の[[国王]]、[[バングラデシュ]]・[[ブラジル]]・[[ブルンジ]]・[[ジブチ]]・[[エジプト]]・[[フィジー]]・[[フィンランド]]・[[フランス]]・[[ガンビア]]・[[ドイツ|ドイツ連邦共和国]]・[[ギリシャ]]・[[ホンジュラス]]・[[アイスランド]]・インド・[[インドネシア]]・[[アイルランド]]・[[イスラエル]]・[[イタリア]]・[[ケニア]]・[[モルディブ]]・[[ミクロネシア連邦]]・[[ナイジェリア]]・[[パキスタン]]・[[フィリピン]]・[[ポルトガル]]・[[スペイン]]・[[スワジランド]]・[[トーゴ]]・[[チュニジア]]・[[トルコ]]・[[ウガンダ]]・[[タンザニア]]・[[アメリカ合衆国]]・[[バヌアツ]]・[[ザイール]]・[[ザンビア]]の[[大統領]]・首相、[[国際連合]]の[[ハビエル・ペレス・デ・クエヤル|事務総長]]が参列した<ref>{{Cite web |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1989/h01-shiryou-5.htm |title= I 資料5.「昭和天皇大喪の礼」に参列した国及び国際機関の代表 |accessdate=2019-05-02 |date=1989-09 |website=外務省ホームページ |work=外交青書 わが外交の近況 1989年版(第33号) |publisher=[[外務省]]}}</ref>。


== 天皇と組織 ==
== 天皇と組織 ==
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=== 宮内庁 ===
=== 宮内庁 ===
{{main|宮内庁}}
{{main|宮内庁}}
'''[[宮内庁]]'''<ref>{{Cite web |url=http://www.kunaicho.go.jp/ |title=宮内庁 |publisher=宮内庁 |accessdate=2019-05-13}}</ref>(くないちょう、{{lang-en|Imperial Household Agency}})は、[[日本の行政機関]]の一つである。[[皇室]]関係の国家事務、'''天皇'''の[[国事行為]]にあたる[[外国]]の[[大使]]・[[公使]]の接受に関する事務、[[皇室の儀式]]に係る事務をつかさどり、[[御璽]]・[[国璽]]を保管する[[内閣府]]の機関である。所在地は[[東京都]][[千代田区]][[千代田 (千代田区)|千代田]]1番1([[皇居]]内・坂下門の北側)。
'''[[宮内庁]]'''<ref>{{Cite web |url=http://www.kunaicho.go.jp/ |title=宮内庁 |publisher=宮内庁 |accessdate=2019-05-13}}</ref>(くないちょう、{{lang-en|Imperial Household Agency}})は、[[日本の行政機関]]の一つである。[[皇室]]関係の国家事務、'''天皇'''の[[国事行為]]にあたる[[外国]]の[[大使]]・[[公使]]の接受に関する事務、[[皇室の儀式]]に係る事務をつかさどり、[[御璽]]・[[国璽]]を保管する[[内閣府]]の機関である。所在地は東京都[[千代田区]][[千代田 (千代田区)|千代田]]1番1([[皇居]]内・坂下門の北側)。


なお、宮内庁はかつて[[総理府]]の[[外局]]であったが、現在は内閣府の外局([[内閣府設置法]]第49条・第64条)ではなく内閣府に置かれる独自の位置づけの機関とされている(内閣府設置法48条){{Sfn|山本淳|小幡純子|橋本博之|2003|p=23-24}}{{Full citation needed |date=2019-05-13 |title=山本・小幡・橋本氏を著者とする文献は本記事に載っていませんので、書誌情報がすべて不明です。}}。官報の掲載では内閣府については「外局」ではなく「外局等」として宮内庁を含めている。
なお、宮内庁はかつて[[総理府]]の[[外局]]であったが、現在は内閣府の外局([[内閣府設置法]]第49条・第64条)ではなく内閣府に置かれる独自の位置づけの機関とされている(内閣府設置法48条){{Sfn|山本淳|小幡純子|橋本博之|2003|p=23-24}}{{Full citation needed |date=2019-05-13 |title=山本・小幡・橋本氏を著者とする文献は本記事に載っていませんので、書誌情報がすべて不明です。}}。官報の掲載では内閣府については「外局」ではなく「外局等」として宮内庁を含めている。


[[明治]]2年([[1869年]])7月8日、古代の[[太政官制]]にならって、いわゆる「二官八省」からなる政府が組織されたが、この際、かつての[[大宝令]]に規定された宮内省(くないしょう/みやのうちのつかさ)の名称のみを受け継ぐ'''[[宮内省]]'''が設置された。[[1947年]]には'''宮内府'''となり、さらに[[1949年]]に宮内府は'''宮内庁'''となって[[総理府]]の外局となり、宮内庁長官の下に宮内庁次長が置かれ、1官房3職2部と京都事務所が設置された。[[2001年]](平成13年)1月6日には、[[中央省庁改革]]の一環として内閣府設置法が施行され、宮内庁は[[内閣府]]に置かれる機関となった。
[[明治]]2年([[1869年]])7月8日、古代の[[太政官制]]にならって、いわゆる「二官八省」からなる政府が組織されたが、この際、かつての[[大宝令]]に規定された宮内省(くないしょう/みやのうちのつかさ)の名称のみを受け継ぐ'''[[宮内省]]'''が設置された。[[1947年]]には'''宮内府'''となり、さらに[[1949年]]に宮内府は'''宮内庁'''となって[[総理府]]の外局となり、宮内庁長官の下に宮内庁次長が置かれ、1官房3職2部と京都事務所が設置された。[[2001年]](平成13年)1月6日には、[[中央省庁改革]]の一環として内閣府設置法が施行され、宮内庁は内閣府に置かれる機関となった。
==== 幹部 ====
==== 幹部 ====
* [[宮内庁長官]]
* [[宮内庁長官]]
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=== 皇宮警察本部 ===
=== 皇宮警察本部 ===
{{main|皇宮警察本部}}
{{main|皇宮警察本部}}
'''[[皇宮警察本部]]'''<ref>{{Cite web |url=http://www.npa.go.jp/kougu/ |title=サイトマップ |website=皇宮警察本部-IMPERIAL GUARD HEADQUARTERS- |publisher=警察庁 |accessdate=2019-05-13}}</ref>(こうぐうけいさつほんぶ、英:Imperial Guard Headquarters)は、[[警察庁]]に置かれている[[附属機関]]のひとつ<ref name="law29">警察法 第29条</ref>。'''天皇'''及び[[皇后]]、[[皇太子]]その他の[[皇族]]の[[ボディーガード|護衛]]、[[皇居]]及び[[御所]]の[[警備|警衛]]、その他皇宮警察に関する[[事務]]をつかさどる<ref name="law29"/>。本部所在地は[[東京都]][[千代田区]][[千代田 (千代田区)|千代田]]1番3号。
'''[[皇宮警察本部]]'''<ref>{{Cite web |url=http://www.npa.go.jp/kougu/ |title=サイトマップ |website=皇宮警察本部-IMPERIAL GUARD HEADQUARTERS- |publisher=警察庁 |accessdate=2019-05-13}}</ref>(こうぐうけいさつほんぶ、英:Imperial Guard Headquarters)は、[[警察庁]]に置かれている[[附属機関]]のひとつ<ref name="law29">警察法 第29条</ref>。'''天皇'''及び[[皇后]]、[[皇太子]]その他の[[皇族]]の[[ボディーガード|護衛]]、[[皇居]]及び[[御所]]の[[警備|警衛]]、その他皇宮警察に関する[[事務]]をつかさどる<ref name="law29"/>。本部所在地は[[東京都]][[千代田区]][[千代田 (千代田区)|千代田]]1番3号。


[[本部長]]は、[[皇宮護衛官#皇宮護衛官の階級|皇宮警視監]]の[[階級 (公務員)|階級]]の[[皇宮護衛官]]であるが、慣例により[[内閣府]][[事務官]]である[[宮内庁]]職員にも併任される。
[[本部長]]は、[[皇宮護衛官#皇宮護衛官の階級|皇宮警視監]]の[[階級 (公務員)|階級]]の[[皇宮護衛官]]であるが、慣例により内閣府[[事務官]]である[[宮内庁]]職員にも併任される。


本部の紋章は[[桐紋|五三桐]]である。[[桐紋]]は[[菊花紋章]]と並んで古来から皇室の象徴とされてきた。
本部の紋章は[[桐紋|五三桐]]である。[[桐紋]]は[[菊花紋章]]と並んで古来から皇室の象徴とされてきた。
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=== 役職 ===
=== 役職 ===
*昭和天皇は[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]、[[1972年札幌オリンピック|札幌オリンピック]]で[[名誉総裁]]を務めた。
*昭和天皇は[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]、[[1972年札幌オリンピック|札幌オリンピック]]で[[名誉総裁]]を務めた。
*上皇明仁は天皇時代に[[1998年長野オリンピック|長野オリンピック]]で名誉総裁を務めた<ref>{{Cite news |url=https://www.shinmai.co.jp/feature/olympic/199611/96112202.htm |title=長野五輪 天皇陛下の名誉総裁就任を発表 宮内庁 |newspaper=信濃毎日新聞 |date=1996-11-22}}</ref>。
*上皇明仁は天皇時代に[[1998年長野オリンピック|長野オリンピック]]で名誉総裁を務めた<ref>{{Cite news |url=https://www.shinmai.co.jp/feature/olympic/199611/96112202.htm |title=長野五輪 天皇陛下の名誉総裁就任を発表 宮内庁 |newspaper=信濃毎日新聞 |date=1996-11-22}}</ref>。


== 天皇についての学術的言説 ==
== 天皇についての学術的言説 ==
{{節スタブ|date=2017年1月28日 (土) 11:56 (UTC)}}
{{節スタブ|date=2017年1月28日 (土) 11:56 (UTC)}}
* [[横田耕一]]([[憲法学]]者)『平凡社大百科事典』「天皇」:{{quotation|近年天皇の[[権威]][[強化]]の[[動き]]が[[進行]]している。具体的には、ⓐ[[象徴]]規定の[[権威主義]]的[[拡大解釈]]、ⓑ[[公]]的[[行為]]の拡大、ⓒ[[栄典]]授与の濫発、ⓓ[[元首]]としての実態的取扱い、ⓔ〈[[日の丸]]〉〈[[君が代]]〉など天皇にまつわる[[シンボル]]の強調、ⓕ天皇に関する記述の[[教科書検定]]強化、ⓖ在位五十年[[式典]]の挙行、ⓗ天皇や[[閣僚]]による[[靖国神社参拝]]などの[[宗教]]活動の公然化([[国家神道]]とのつながり)、ⓘ天皇[[批判]][[言論]]に対する圧迫などによって天皇の権威は強化されている。同時に、[[改憲]]による天皇元首化の実現も[[一部]]で[[意図]]されている。ともあれ、[[象徴天皇制]]の[[存在]]とその[[運用]]は、[[国民主権]][[原理]]および[[平等原則]]を希薄化する[[機能]]を果たしているといえよう<ref>{{cite book|和書|editor=下中 邦彦|title=平凡社大百科事典|edition=初版|year=1985|publisher=[[平凡社]]|page=388|volume=10|asin=B000J6VWO8}}</ref>。}}
* [[横田耕一]]([[憲法学]]者)『平凡社大百科事典』「天皇」:{{quotation|近年天皇の[[権威]][[強化]]の[[動き]]が[[進行]]している。具体的には、ⓐ[[象徴]]規定の[[権威主義]]的[[拡大解釈]]、ⓑ[[公]]的[[行為]]の拡大、ⓒ[[栄典]]授与の濫発、ⓓ元首としての実態的取扱い、ⓔ〈[[日の丸]]〉〈[[君が代]]〉など天皇にまつわる[[シンボル]]の強調、ⓕ天皇に関する記述の[[教科書検定]]強化、ⓖ在位五十年[[式典]]の挙行、ⓗ天皇や[[閣僚]]による[[靖国神社参拝]]などの[[宗教]]活動の公然化([[国家神道]]とのつながり)、ⓘ天皇[[批判]][[言論]]に対する圧迫などによって天皇の権威は強化されている。同時に、[[改憲]]による天皇元首化の実現も[[一部]]で[[意図]]されている。ともあれ、[[象徴天皇制]]の[[存在]]とその[[運用]]は、[[国民主権]][[原理]]および[[平等原則]]を希薄化する[[機能]]を果たしているといえよう<ref>{{cite book|和書|editor=下中 邦彦|title=平凡社大百科事典|edition=初版|year=1985|publisher=[[平凡社]]|page=388|volume=10|asin=B000J6VWO8}}</ref>。}}


* [[ベン=アミー・シロニー]]([[歴史学]]者):{{quotation|[[今日]]の日本[[皇帝]][[]][[地位]]は、同様に「君臨すれども統治せず」である[[イギリス君主]]の公的地位よりも低い。[[イギリス女王]]は公式に[[主権者]]、[[元首]]、[[国軍]]の[[最高指揮官]]、[[国教]]の[[首長]]、[[貴族]]の首長、[[イギリス連邦|連邦]]の首長である。これらは[[儀礼]]的[[権能]]ではあるものの、誰もそのような権能を日本の皇帝に授けようとはしまい。イギリス女王はまた、[[世界一]]の[[富裕層]]の一人であり、[[財政]]上の[[自治権]]を享受している。[[皇室財産|日本皇帝の所有物]]は、林野や[[株式]]もあったが、[[没収]]された。今日では皇帝の[[収入]]は全て、[[国家予算]]から引き出されている。日本の皇帝は、[[内閣]]の[[承認]]の下に元首のような儀礼的権能を行うが、元首でさえない{{sfn|Ben-Ami Shillony|2014|p=77}}。}}
* [[ベン=アミー・シロニー]]([[歴史学]]者):{{quotation|[[今日]]の日本皇帝の公的地位は、同様に「君臨すれども統治せず」である[[イギリス君主]]の公的地位よりも低い。[[イギリス女王]]は公式に[[主権者]]、元首、[[国軍]]の[[最高指揮官]]、[[国教]]の[[首長]]、[[貴族]]の首長、[[イギリス連邦|連邦]]の首長である。これらは[[儀礼]]的[[権能]]ではあるものの、誰もそのような権能を日本の皇帝に授けようとはしまい。イギリス女王はまた、[[世界一]]の[[富裕層]]の一人であり、[[財政]]上の[[自治権]]を享受している。[[皇室財産|日本皇帝の所有物]]は、林野や[[株式]]もあったが、[[没収]]された。今日では皇帝の[[収入]]は全て、[[国家予算]]から引き出されている。日本の皇帝は、内閣の[[承認]]の下に元首のような儀礼的権能を行うが、元首でさえない{{sfn|Ben-Ami Shillony|2014|p=77}}。}}


== 天皇と課題 ==<!--
== 天皇と課題 ==<!--
=== 君主に関する論 ===
=== 君主に関する論 ===
[[君主]]とは[[伝統]]的に、[[国家]]で特定の一人が[[主権]]を持つ場合のその主権者であり<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%90%9B%E4%B8%BB-58352#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8フランク・B・ギブニー編 『ブリタニカ国際大百科事典:小項目事典』、ティビーエス・ブリタニカ、2016年。]</ref>、[[王]]・[[帝王]]・[[天子]]・[[皇帝]]・[[きみ]]などとも言う<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%90%9B%E4%B8%BB-58352#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 松村明編 『デジタル大辞泉』 小学館、2016年、「君主」の項。 松村明編 『大辞林 第三版』 三省堂、2016年、「君主」の項。]</ref>。『日本大百科全書』は、天皇は通常の[[立憲君主]]の権限は無いとし、『法律用語辞典(第4版)』は、象徴天皇と元首天皇を別としている<ref name="ndhy">[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%88%B6-102684#%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6%E5%BE%8C%E3%81%AE%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%88%B6 安田浩 『日本大百科全書』 小学館、2016年、「天皇制」の項。]<br />{{Cite book|和書|author=法令用語研究会|year=2015|title=法律用語辞典|edition=第4版|page=「天皇」の項|publisher=JapanKnowledge}}</ref>。また『国史大辞典』は[[法制]]上、象徴天皇は君主ではないとしている<ref name=kokushi/>。一方で政治解説者の[[辻雅之]]{{信頼性要検証|date=2017-03}}は、天皇を今日の[[世界]]で唯一の「皇帝」であるとしている<ref>{{Cite news |title=ヤマトの王が天皇を名乗った理由 |newspaper=[[All About]]|date=2005-04-16 |author=[[辻雅之]] |url=http://allabout.co.jp/gm/gc/293436/ |accessdate=2016-08-11}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>。
[[君主]]とは伝統的に、国家で特定の一人が主権を持つ場合のその主権者であり<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%90%9B%E4%B8%BB-58352#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8フランク・B・ギブニー編 『ブリタニカ国際大百科事典:小項目事典』、ティビーエス・ブリタニカ、2016年。]</ref>、[[王]]・[[帝王]]・[[天子]]・皇帝・[[きみ]]などとも言う<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%90%9B%E4%B8%BB-58352#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 松村明編 『デジタル大辞泉』 小学館、2016年、「君主」の項。 松村明編 『大辞林 第三版』 三省堂、2016年、「君主」の項。]</ref>。『日本大百科全書』は、天皇は通常の[[立憲君主]]の権限は無いとし、『法律用語辞典(第4版)』は、象徴天皇と元首天皇を別としている<ref name="ndhy">[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%88%B6-102684#%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6%E5%BE%8C%E3%81%AE%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%88%B6 安田浩 『日本大百科全書』 小学館、2016年、「天皇制」の項。]<br />{{Cite book|和書|author=法令用語研究会|year=2015|title=法律用語辞典|edition=第4版|page=「天皇」の項|publisher=JapanKnowledge}}</ref>。また『国史大辞典』は[[法制]]上、象徴天皇は君主ではないとしている<ref name=kokushi/>。一方で政治解説者の[[辻雅之]]{{信頼性要検証|date=2017-03}}は、天皇を今日の[[世界]]で唯一の「皇帝」であるとしている<ref>{{Cite news |title=ヤマトの王が天皇を名乗った理由 |newspaper=[[All About]]|date=2005-04-16 |author=[[辻雅之]] |url=http://allabout.co.jp/gm/gc/293436/ |accessdate=2016-08-11}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>。
{{See also|象徴天皇制#「君主」に関する議論|皇帝}}
{{See also|象徴天皇制#「君主」に関する議論|皇帝}}


=== 国家元首に関する論 ===
=== 国家元首に関する論 ===
[[大日本帝国憲法]]は天皇を[[国家元首]]としていたが、現行憲法には元首の規定はなく、これについては実質的[[機能]]を重視し[[内閣]](または[[首相]])を元首とする説、象徴天皇を元首とする説、元首は不在とする説等がある<ref>{{Cite book|和書|author=河合秀和|year=2015|title=情報・知識 imidas 2015|page=「元首[政治理論]」の項|publisher=JapanKnowledge}}</ref>。[[学説]]の大多数は、内閣または[[内閣総理大臣]]を元首としている<ref name=nd/>。
[[大日本帝国憲法]]は天皇を[[国家元首]]としていたが、現行憲法には元首の規定はなく、これについては実質的[[機能]]を重視し内閣(または首相)を元首とする説、象徴天皇を元首とする説、元首は不在とする説等がある<ref>{{Cite book|和書|author=河合秀和|year=2015|title=情報・知識 imidas 2015|page=「元首[政治理論]」の項|publisher=JapanKnowledge}}</ref>。[[学説]]の大多数は、内閣または[[内閣総理大臣]]を元首としている<ref name=nd/>。


これに対して、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]][[憲法改正論議|憲法改正試案]]{{信頼性要検証|date=2017-03}}<ref>{{cite web|format=PDF|url=http://www.jimin.jp/jimin/shin_kenpou/shiryou/pdf/051122_a.pdf|title=新憲法草案|author=自由民主党|date=2005-10-28|accessdate=2009-12-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060207081544/http://www.jimin.jp/jimin/shin_kenpou/shiryou/pdf/051122_a.pdf|archivedate=2006年2月7日|deadlinkdate=2017年10月}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>、民主党小沢氏憲法改正試案{{信頼性要検証|date=2017-03}}<ref>{{cite journal|和書|author=[[小沢一郎]]|title=日本国憲法改正試案|journal=[[文藝春秋]]|date=1999-09|url=http://www.ozawa-ichiro.jp/policy/04.htm|accessdate=2009-12-13}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>、民主党鳩山氏憲法改正試案{{信頼性要検証|date=2017-03}}<ref>{{cite book|和書|author=[[鳩山由紀夫]]|title=新憲法試案 尊厳ある日本を創る|publisher=PHP研究所|year=2005|isbn=978-4569641409}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>、6省庁を主務官庁とする中曽根元総理属する[[財団法人]][[憲法改正試案 (世界平和研究所)|世界平和研究所憲法改正試案]]{{信頼性要検証|date=2017-03}}が、国家元首を天皇と規定するよう主張している。[[読売新聞]]([[渡辺恒雄]])憲法改正試案{{信頼性要検証|date=2017-03}}<ref>{{cite book|和書|author=[[読売新聞社]]|year=2004|title=憲法改正 読売試案[[2004年]]|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=978-4120035500|url=http://www.yomiuri.co.jp/feature/sian2004/fe_si_20060405_03.htm}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>では天皇に関する規定は現状維持としている{{信頼性要検証|date=2017-03}}<ref>{{Cite journal|author=政治議会課憲法室(諸橋邦彦)|format=PDF|url=http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/issue/0474.pdf|title=主な日本国憲法改正試案及び提言|journal=調査と情報|volume=264|publisher=[[国立国会図書館]]|year=2005}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>。
これに対して、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]][[憲法改正論議|憲法改正試案]]{{信頼性要検証|date=2017-03}}<ref>{{cite web|format=PDF|url=http://www.jimin.jp/jimin/shin_kenpou/shiryou/pdf/051122_a.pdf|title=新憲法草案|author=自由民主党|date=2005-10-28|accessdate=2009-12-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060207081544/http://www.jimin.jp/jimin/shin_kenpou/shiryou/pdf/051122_a.pdf|archivedate=2006年2月7日|deadlinkdate=2017年10月}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>、民主党小沢氏憲法改正試案{{信頼性要検証|date=2017-03}}<ref>{{cite journal|和書|author=[[小沢一郎]]|title=日本国憲法改正試案|journal=[[文藝春秋]]|date=1999-09|url=http://www.ozawa-ichiro.jp/policy/04.htm|accessdate=2009-12-13}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>、民主党鳩山氏憲法改正試案{{信頼性要検証|date=2017-03}}<ref>{{cite book|和書|author=[[鳩山由紀夫]]|title=新憲法試案 尊厳ある日本を創る|publisher=PHP研究所|year=2005|isbn=978-4569641409}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>、6省庁を主務官庁とする中曽根元総理属する[[財団法人]][[憲法改正試案 (世界平和研究所)|世界平和研究所憲法改正試案]]{{信頼性要検証|date=2017-03}}が、国家元首を天皇と規定するよう主張している。[[読売新聞]]([[渡辺恒雄]])憲法改正試案{{信頼性要検証|date=2017-03}}<ref>{{cite book|和書|author=[[読売新聞社]]|year=2004|title=憲法改正 読売試案2004年|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=978-4120035500|url=http://www.yomiuri.co.jp/feature/sian2004/fe_si_20060405_03.htm}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>では天皇に関する規定は現状維持としている{{信頼性要検証|date=2017-03}}<ref>{{Cite journal|author=政治議会課憲法室(諸橋邦彦)|format=PDF|url=http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/issue/0474.pdf|title=主な日本国憲法改正試案及び提言|journal=調査と情報|volume=264|publisher=[[国立国会図書館]]|year=2005}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>。
{{See also|日本の元首}}
{{See also|日本の元首}}
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[[上皇明仁]]{{信頼性要検証|date=2017-03}}は[[2016年]](平成28年)8月8日午後3時にビデオメッセージで、「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」を発表した{{信頼性要検証|date=2017-03}}<ref>{{Cite web|author=宮内庁|url=http://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12|title=象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば|publisher=宮内庁|accessdate=2016-08-10}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>。
[[上皇明仁]]{{信頼性要検証|date=2017-03}}は[[2016年]](平成28年)8月8日午後3時にビデオメッセージで、「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」を発表した{{信頼性要検証|date=2017-03}}<ref>{{Cite web|author=宮内庁|url=http://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12|title=象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば|publisher=宮内庁|accessdate=2016-08-10}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>。


[[2016年]][[7月13日]]、今上天皇が譲位の意向を示していると報じられた{{信頼性要検証|date=2017-03}}<ref>{{Cite news|url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160713/k10010594271000.html|title=天皇陛下 「生前退位」の意向示される|newspaper=NHK|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160713100512/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160713/k10010594271000.html|archivedate=2016年7月13日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.asahi.com/articles/ASJ7F6DX3J7FUTIL03D.html |title=天皇陛下、生前退位の意向 皇后さま皇太子さまに伝える |newspaper=[[朝日新聞]] |date=2016-07-13}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>。宮内庁次長{{信頼性要検証|date=2017-03}}は「報道されたような事実は一切ない」「その大前提となる(天皇陛下の)お気持ちがないわけだから、検討していない」「(天皇陛下は)制度的なことについては憲法上のお立場からお話をこれまで差し控えてこられた」と否定するコメントを発表した{{信頼性要検証|date=2017-03}}<ref>{{Cite news|url=http://www.asahi.com/articles/ASJ7F6W4MJ7FUTIL04G.html |title=宮内庁次長は全面否定「報道の事実一切ない」 生前退位 |newspaper=[[朝日新聞]] |date=2016-07-13}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>。
2016年[[7月13日]]、今上天皇が譲位の意向を示していると報じられた{{信頼性要検証|date=2017-03}}<ref>{{Cite news|url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160713/k10010594271000.html|title=天皇陛下 「生前退位」の意向示される|newspaper=NHK|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160713100512/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160713/k10010594271000.html|archivedate=2016年7月13日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.asahi.com/articles/ASJ7F6DX3J7FUTIL03D.html |title=天皇陛下、生前退位の意向 皇后さま皇太子さまに伝える |newspaper=[[朝日新聞]] |date=2016-07-13}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>。宮内庁次長{{信頼性要検証|date=2017-03}}は「報道されたような事実は一切ない」「その大前提となる(天皇陛下の)お気持ちがないわけだから、検討していない」「(天皇陛下は)制度的なことについては憲法上のお立場からお話をこれまで差し控えてこられた」と否定するコメントを発表した{{信頼性要検証|date=2017-03}}<ref>{{Cite news|url=http://www.asahi.com/articles/ASJ7F6W4MJ7FUTIL04G.html |title=宮内庁次長は全面否定「報道の事実一切ない」 生前退位 |newspaper=[[朝日新聞]] |date=2016-07-13}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>。


[[小堀桂一郎]]{{信頼性要検証|date=2017-03}}は、「天皇の生前御退位を可とする如き前例を今敢えて作る事は、事実上の国体の破壊に繋がるのではないかとの危惧は深刻である。」と述べ、摂政の冊立が最善だとの見方を示した{{信頼性要検証|date=2017-03}}<ref>{{Cite news|url=http://www.sankei.com/life/news/160716/lif1607160022-n2.html |title=【生前退位 私はこう思う(2)】 東大名誉教授(日本思想史)・小堀桂一郎氏 「摂政の冊立が最善」 |newspaper=[[産経新聞]] |date=2016-07-16}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>。
[[小堀桂一郎]]{{信頼性要検証|date=2017-03}}は、「天皇の生前御退位を可とする如き前例を今敢えて作る事は、事実上の国体の破壊に繋がるのではないかとの危惧は深刻である。」と述べ、摂政の冊立が最善だとの見方を示した{{信頼性要検証|date=2017-03}}<ref>{{Cite news|url=http://www.sankei.com/life/news/160716/lif1607160022-n2.html |title=【生前退位 私はこう思う(2)】 東大名誉教授(日本思想史)・小堀桂一郎氏 「摂政の冊立が最善」 |newspaper=[[産経新聞]] |date=2016-07-16}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>。


[[内閣法制局]]{{信頼性要検証|date=2017-03}}は天皇の意思で退位することは「天皇の地位は国民の総意に基づく」とした[[日本国憲法第1条]]に抵触するとの理由で、将来とも生前退位を可能にするためには憲法改正が必要だが、今上天皇だけに認めるのであれば、特例法の制定で対応可能だと説明した{{信頼性要検証|date=2017-03}}<ref name="NNN20160822">{{Cite news|url=http://www.news24.jp/articles/2016/08/22/04338752.html |title=“生前退位”内閣法制局「憲法改正が必要」|newspaper=日テレNEWS24 |date=2016-08-22}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>。
[[内閣法制局]]{{信頼性要検証|date=2017-03}}は天皇の意思で退位することは「天皇の地位は国民の総意に基づく」とした[[日本国憲法第1条]]に抵触するとの理由で、将来とも生前退位を可能にするためには憲法改正が必要だが、今上天皇だけに認めるのであれば、特例法の制定で対応可能だと説明した{{信頼性要検証|date=2017-03}}<ref name="NNN20160822">{{Cite news|url=http://www.news24.jp/articles/2016/08/22/04338752.html |title=“生前退位”内閣法制局「憲法改正が必要」|newspaper=日テレNEWS24 |date=2016-08-22}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>。


各社世論調査{{信頼性要検証|date=2017-03}}によると、「おことば」以前に実施したもの([[朝日新聞]]、[[毎日新聞]]、[[産経新聞]]など)で7~8割、「おことば」後に実施したもの([[日本経済新聞]]、[[読売新聞]]、[[共同通信]]など)で8~9割の回答者が譲位に賛成しており、賛成派の76%以上が「今後の天皇すべてに認める制度」を求め、「今の天皇陛下に限って認める制度」は2割を下回った{{信頼性要検証|date=2017-03}}<ref>{{Cite news|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS21H04_R20C16A8PE8000/|title=生前退位「賛成」大勢 報道各社の世論調査 |newspaper=[[日本経済新聞]] |date=2016-08-22}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>。
各社世論調査{{信頼性要検証|date=2017-03}}によると、「おことば」以前に実施したもの([[朝日新聞]]、[[毎日新聞]]、[[産経新聞]]など)で7~8割、「おことば」後に実施したもの([[日本経済新聞]]、[[読売新聞]]、[[共同通信]]など)で8~9割の回答者が譲位に賛成しており、賛成派の76%以上が「今後の天皇すべてに認める制度」を求め、「今の天皇陛下に限って認める制度」は2割を下回った{{信頼性要検証|date=2017-03}}<ref>{{Cite news|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS21H04_R20C16A8PE8000/|title=生前退位「賛成」大勢 報道各社の世論調査 |newspaper=日本経済新聞 |date=2016-08-22}}{{信頼性要検証|date=2017-03}}</ref>。
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[[File:Ujiyamada-ryoubo-sankouchi.jpg|thumb|[[倭姫命#尾上御陵|宇治山田陵墓参考地]]<br/>全国各地に散在する皇族墓を、[[宮内庁書陵部]]が陵墓参考地として今も管理を続けている]]
[[File:Ujiyamada-ryoubo-sankouchi.jpg|thumb|[[倭姫命#尾上御陵|宇治山田陵墓参考地]]<br/>全国各地に散在する皇族墓を、[[宮内庁書陵部]]が陵墓参考地として今も管理を続けている]]
[https://www.kunaicho.go.jp/ryobo/ (外部リンク)歴代天皇陵一覧、宮内庁]<br/>
[https://www.kunaicho.go.jp/ryobo/ (外部リンク)歴代天皇陵一覧、宮内庁]<br/>
皇室典範(昭和22年1月16日法律第3号)第27条により、天皇・[[皇后]]・[[皇太后]]・[[太皇太后]]を葬る所を陵(みささぎ/りょう)、その他の[[皇太子]]や[[親王]]などの[[皇族]]を葬る所を墓(はか/ぼ)と定められている。このほかに[[ニニギノミコト]]など三神の陵として[[神代三陵]]が宮内庁によって治定されている<ref>{{Cite web |url=https://gendai.ismedia.jp/articles/-/53331 |title=行ってみて驚いた!「天皇のお墓」をご存知か |author=大角修 |publisher=講談社 |accessdate=2019-05-13}}</ref>。<br />天皇陵は時代によって変遷しており、天皇がまだ「大王」(オオキミ)と呼ばれていた時代には巨大な[[前方後円墳]]が造営され、その後[[方墳]]、[[円墳]]、[[八角墳]]と変遷した。[[院政期]]の[[白河天皇]]、[[鳥羽天皇]]、[[近衛天皇]]にいたって仏式の堂に納骨する方式が現れ、[[江戸時代]]の[[後水尾天皇]]以降は代々[[京都]][[泉涌寺]]に石造塔形式の陵墓が建立された。[[幕末]]にいたって[[尊皇思想]]が高揚すると天皇陵にも復古調が取り入れられ、[[孝明天皇]]陵は大規模な墳丘を持つ形式で築造された。
皇室典範(昭和22年1月16日法律第3号)第27条により、天皇・[[皇后]]・[[皇太后]]・[[太皇太后]]を葬る所を陵(みささぎ/りょう)、その他の[[皇太子]]や[[親王]]などの[[皇族]]を葬る所を墓(はか/ぼ)と定められている。このほかに[[ニニギノミコト]]など三神の陵として[[神代三陵]]が宮内庁によって治定されている<ref>{{Cite web |url=https://gendai.ismedia.jp/articles/-/53331 |title=行ってみて驚いた!「天皇のお墓」をご存知か |author=大角修 |publisher=講談社 |accessdate=2019-05-13}}</ref>。<br />天皇陵は時代によって変遷しており、天皇がまだ「大王」(オオキミ)と呼ばれていた時代には巨大な[[前方後円墳]]が造営され、その後[[方墳]]、[[円墳]]、[[八角墳]]と変遷した。[[院政期]]の[[白河天皇]]、[[鳥羽天皇]]、[[近衛天皇]]にいたって仏式の堂に納骨する方式が現れ、江戸時代の[[後水尾天皇]]以降は代々京都[[泉涌寺]]に石造塔形式の陵墓が建立された。[[幕末]]にいたって[[尊皇思想]]が高揚すると天皇陵にも復古調が取り入れられ、孝明天皇陵は大規模な墳丘を持つ形式で築造された。


== 日本皇室系図 ==
== 日本皇室系図 ==
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*代数は皇統譜による。
*代数は皇統譜による。
*[[北朝 (日本)|北朝]]は歴代に算入していない。
*[[北朝 (日本)|北朝]]は歴代に算入していない。
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|{{Supra|11}} [[垂仁天皇]]||{{Supra|12}} [[景行天皇]]||style="vertical-align:bottom" | [[ヤマトタケル|日本武尊]]||{{Supra|14}} [[仲哀天皇]]||{{Supra|15}} [[応神天皇]]||style="vertical-align:bottom" | [[稚野毛二派皇子]]||style="vertical-align:bottom" | [[意富富杼王]]||style="vertical-align:bottom" | [[乎非王]]||style="vertical-align:bottom" | [[彦主人王]]||{{Supra|26}} [[継体天皇]]
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|{{Supra|北3}} [[崇光天皇]] ||style="vertical-align:bottom" | [[伏見宮栄仁親王|栄仁親王]]||style="vertical-align:bottom" | [[伏見宮貞成親王|貞成親王]] ||{{Supra|102}} [[後花園天皇]] ||{{Supra|103}} [[後土御門天皇]] ||{{Supra|104}} [[後柏原天皇]] ||{{Supra|105}} [[後奈良天皇]] ||{{Supra|106}} [[正親町天皇]] ||style="vertical-align:bottom" | [[誠仁親王]] ||{{Supra|107}} [[後陽成天皇]]
|{{Supra|北3}} [[崇光天皇]] ||style="vertical-align:bottom" | [[伏見宮栄仁親王|栄仁親王]]||style="vertical-align:bottom" | [[伏見宮貞成親王|貞成親王]] ||{{Supra|102}} [[後花園天皇]] ||{{Supra|103}} [[後土御門天皇]] ||{{Supra|104}} [[後柏原天皇]] ||{{Supra|105}} [[後奈良天皇]] ||{{Supra|106}} [[正親町天皇]] ||style="vertical-align:bottom" | [[誠仁親王]] ||{{Supra|107}} [[後陽成天皇]]
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|{{Supra|108}} [[後水尾天皇]] ||{{Supra|112}} [[霊元天皇]]||{{Supra|113}} [[東山天皇]] ||style="vertical-align:bottom" | [[閑院宮直仁親王|直仁親王]](閑院宮) || style="vertical-align:bottom" | [[閑院宮典仁親王|典仁親王]](慶光院)||{{Supra|119}} [[光格天皇]] || {{Supra|120}} [[仁孝天皇]] || {{Supra|121}} [[孝明天皇]]||{{Supra|122}} [[明治天皇]] || {{Supra|123}} [[大正天皇]]
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[小田部雄次]]|title=ミカドと女官 <small>菊のカーテンの向こう側</small>|publisher=[[恒文社]]|date=2001-06|isbn=978-4770410467|ref=小田部 2001}}
* {{Cite book|和書|author=[[小田部雄次]]|title=ミカドと女官 <small>菊のカーテンの向こう側</small>|publisher=[[恒文社]]|date=2001-06|isbn=978-4770410467|ref=小田部 2001}}
*{{Cite book|和書|author=[[原武史]]|title=皇后考|publisher=[[講談社]]|date=2015-2|isbn=978-4062193948|ref=原 2015}}
*{{Cite book|和書|author=[[原武史]]|title=皇后考|publisher=[[講談社]]|date=2015-2|isbn=978-4062193948|ref=原 2015}}
**{{Cite book|和書|author=[[原武史]]|title=皇后考|series=講談社学術文庫|publisher=[[講談社]]|date=2017-12|isbn=978-4062924733|ref=原 2017}}
**{{Cite book|和書|author=[[原武史]]|title=皇后考|series=講談社学術文庫|publisher=[[講談社]]|date=2017-12|isbn=978-4062924733|ref=原 2017}}
*{{Cite journal|和書|format=PDF|journal=法政治研究|title=皇位継承の憲法政治学的考察:「皇室の自律の再構成」という試論|volume=|issue=4|pages=113-133|author=[[渡邊亙]]|publisher=[[関西法政治研究会]]|date=2018-03|id=|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/kanhouseiken/4/0/4_113/_pdf|ref={{sfnRef|渡邊(2018)}} }}
*{{Cite journal|和書|format=PDF|journal=法政治研究|title=皇位継承の憲法政治学的考察:「皇室の自律の再構成」という試論|volume=|issue=4|pages=113-133|author=[[渡邊亙]]|publisher=[[関西法政治研究会]]|date=2018-03|id=|url=https://doi.org/10.20691/kanhouseiken.4.0_113|ref={{sfnRef|渡邊(2018)}} }}
*{{Cite journal|和書|format=PDF|journal=専修法学論集|title=憲法と天皇制度代替わりに際して|volume=|issue=136|pages=1-22|author=[[榎透]]|publisher=[[専修大学]]法学会|date=2019-07-15|id=|url=http://ir.acc.senshu-u.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=13529&file_id=15&file_no=1|ref={{sfnRef|榎(2019)}} }}
*{{Cite journal|和書|format=PDF|journal=専修法学論集|title=憲法と天皇制度 : 代替わりに際して|volume=|issue=136|pages=1-22|author=[[榎透]]|publisher=[[専修大学]]法学会|date=2019-07-15|id=|url=http://id.nii.ac.jp/1015/00013499/|ref={{sfnRef|榎(2019)}} }}


{{複数の問題|参照方法=2013年10月|一次資料=2017年2月|section=1}}
{{複数の問題|参照方法=2013年10月|一次資料=2017年2月|section=1}}
* {{Cite book |和書 |last= 家永|first= 三郎|chapter= 天皇|title= 国史大辞典|volume= 第九巻|date= 1988|publisher= 吉川弘文館|pages= 991-995|isbn= 978-4642005098|ref= harv}}
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* [https://www.kantei.go.jp/jp/singi/koumu_keigen/dai2/sankou4.pdf 退位した天皇の退位理由一覧] - 首相官邸
* [https://www.kantei.go.jp/jp/singi/koumu_keigen/dai2/sankou4.pdf 退位した天皇の退位理由一覧] - 首相官邸



2020年2月3日 (月) 06:24時点における版

日本の旗 日本国

天皇
在位中の天皇
第126代天皇
徳仁

2019年令和元年)5月1日より
詳細
敬称 陛下
法定推定相続人 秋篠宮文仁親王皇嗣
初代 神武天皇[1][注釈 1]
成立 神武天皇即位元年1月1日
西暦紀元前660年2月11日[1][注釈 2]
宮殿 〈公務〉
皇居 宮殿
東京都千代田区
〈住居〉
赤坂御用地 赤坂御所
(東京都港区
ウェブサイト 宮内庁
テンプレートを表示
称号:天皇
敬称 陛下
His Majesty the Emperor
または
His Imperial Majesty (H.I.M.)
皇室






天皇(てんのう、: emperor[4])は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人[5][6][7]7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている[7]

在位中の天皇は、上皇明仁第1皇子である徳仁

皇位の象徴である高御座

概説

公務を行う天皇明仁(在位当時)
今上天皇の即位を祝う一般参賀、宮殿長和殿(2019年5月4日)
一般参賀に出席する今上天皇、皇后秋篠宮文仁親王(2019年5月4日)

「てんのう」は、「てんおう」の連声(れんじょう)とされる[8][9]。古代の日本では、ヤマト王権の首長を「大王」(オオキミ)といったが、天武朝ごろから中央集権国家の君主として「天皇」が用いられるようになった[9]。「天皇」は大和朝廷時代の大王が用いた称号であり、奈良時代から平安時代にかけて政治祭祀の頂点だったが、摂関政治院政武家の台頭により政治的実権を失っていった[8]室町時代には多くの宮中祭祀の廃絶もあり劣位となったが、「江戸時代末に尊王論が盛んとなり、王政復古明治憲法における天皇制へとつながった」といわれる[8]

大日本帝国憲法では、国家元首であって、神聖不可侵であり、かつ統治権を総攬[注釈 3]するものとして規定されていた[5][8][9]大日本帝国時代に天皇は

現人神」「唯一神」「唯一天皇」「総」「絶対至尊」

といった類の呼称をされており、こうした天皇を全世界・全宇宙頂点とする価値観

八紘一宇」「天皇総帝論」「唯一の思想的原動力」「国家社会主義」「純なる日本的世界観」「大和民族の宿」「惟神(かんながら)的世界観」

とのように呼称されていた[11]。(詳細は天皇#一神教・国家神道を参照。)「皇帝」と「天皇」は併用されていたが、1936年(昭和11年)には「天皇」に統一された[5]

君主とは伝統的に、国家で特定の一人が主権を持つ場合のその主権者であり[12]帝王天子・皇帝・きみなどとも言われる[13]。『日本大百科全書』は、天皇は通常の立憲君主の権限は無いとし、『法律用語辞典(第4版)』は、象徴天皇と元首天皇を別としている[14]。また『国史大辞典』は法制上、象徴天皇は君主ではないとしている[15]

大日本帝国憲法では第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬そうらん」するとの明記があったが、現行の日本国憲法には元首の規定はなく、そのため元首について様々な見解がある[16]。象徴天皇を元首とする説、実質的機能を重視し内閣(または首相)を元首とする説、元首は不在とする説等がある[17]。条約締結や外交使節任免および外交関係処理の権限をもつ内閣を元首とするか、内閣を代表する内閣総理大臣を元首とする学説が多い[18]。内閣法制局は「日本国憲法においては天皇を元首であるといっても差し支えない」「天皇は限定された意味で、国家元首である」とする一方、最終的には定義によるとしている。

世界大百科事典』によると、日本国憲法によって主権者国民となり、「天皇は主権者の一員でもない」とされている[19]。「象徴規定にはとくに法的意味はなく、また国民を統合する機能は憲法上天皇には期待されていない」という[19]。天皇へ認可された権能は極めて限定されており、「行政権ももたずを対外的に代表することもない天皇を君主とか元首とみることは困難」とされる[19]。天皇の地位は主権者である国民の総意に基づいており(第1条)、「国民の総意によって天皇制度を改廃することが可能」となっている[19]。「神勅主義は明確に否定されているので、神秘的・宗教要素がここに介入する余地は皆無」であり、天皇は的な宗教的活動が禁止されている(第20条)こともあって、「天皇、国家の世俗化が要求されている」[19]。「神道が特別な地位を与えられることはもはや許されない」のであり、皇位継承の際に行われた大嘗祭三種の神器の継承は、「天皇家の私事としてのみありうる」とされる[19]。 天皇は憲法が限定的に列挙している国事行為だけを行い、国政に関する権能は一切持たない(第4条第6条 - 第7条[19]。国事行為は国家意思形成に関わらない形式的・儀礼行為であり、天皇が国事行為を行うには常に内閣の助言承認が必要であって、内閣は自らの助言と承認に責任を負う(第3条[19]。天皇は国事行為の責任を負わないが、民事責任は負っている[19]。天皇の刑事責任免責する明文規定は無いが、摂政はその在任中は訴追されないと定める皇室典範21条から、天皇もその在位中は訴追されないとの類推がある[19]

天皇制

『岩波 日本史辞典』によると「天皇制」は、日本君主制を指す[20]。「広義には前近代天皇制と象徴天皇制を含め、狭義には明治維新から第二次世界大戦敗戦までの近代天皇制を指す」語であり[20]、「象徴天皇制は天皇が元首でないので君主制としない説もある」とされている[21]。「君主制(王制)」について、『日本大百科全書(ニッポニカ)』は「一般には、世襲の君主が、ある政治共同体において最高権力(主権)をもつ政治形態」としている[22]

「天皇制」という項目を掲載している学術資料は、Kotobankに登録されている辞事典としては『デジタル大辞泉』、『大辞林』(第三版)、『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』、『百科事典マイペディア』、『世界大百科事典』(第2版)、『日本大百科全書(ニッポニカ)』がある[23]。2017時点で「天皇制」を使用している研究論文は、Google Scholarグーグル・スカラーでは約15,700件[24]CiNii Articlesでは6156件がある[25]

語源

古くは「スメラミコト」「スメロキ」「スベラギ」等と呼んだ[26]。元は皇帝天子[26]・君主の敬称であり、古代中国最高神神格化された北極星(天皇大帝)を指す語[27]である。語源としては7世紀中頃以降で、中国語天皇・地皇・人皇の一つに由来しており、スメラミコトの漢語表現である[28](この世紀に「天皇」の文字が初めて文献に現れた[29])。天皇という二字は、「是全ク漢土ノ制ニ傚ヘル故ニ、今目シテ漢風諡ト云フ(これは全く漢の国の制度に倣っているため、今日に見れば漢風諡と言う)」とされる[30]。また、ある分野で強大な権力を持つ人を指す[8][9]。なお、天皇てんこう三皇の一種である他に、天帝天子も意味し天皇てんのうに通じる他[8][9]皇天こうてんは天皇・皇室天の神上帝・天帝などを意味する[31]

皇位継承

京都御所にて即位の礼に臨む昭和天皇
1928年昭和3年)11月
即位礼正殿の儀
2019年(令和元年)10月22日
1990年(平成2年)、大嘗祭
令和の大嘗宮

皇位継承とは、皇太子などの皇嗣皇位(天皇の位)を継承することである。皇位継承が世襲により行われることは、大日本帝国憲法においても日本国憲法においても明文で規定されており、詳細なルールは皇室典範において規定される。

憲法の規定

日本国憲法における天皇

国会開会式に出席する天皇

日本国憲法では、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(第1条)、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」(第4条)と規定されている(象徴天皇制)。なお天皇を元首や君主とする規定は存在しない。

大日本帝国憲法における天皇

大日本帝国憲法では、天皇は「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(第1条)、「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リテ之ヲ行フ」(第4条)と規定され(元首かつ君主)、憲法解釈として憲法を絶対主義的に解釈する天皇主権説立憲主義的に解釈する天皇機関説の争いがあった。

三種の神器

三種の神器(イメージ)
※現物は非公開
剣璽等承継の儀
1989年(昭和64年)1月7日
ファイル:Kyuchu-Sanden.jpg
宮中三殿皇居内)の空中写真

日本神話において、天孫降臨の時に、瓊瓊杵尊天照大神から授けられた神器。また、神話に登場した神器と同一とされる、あるいはそれになぞらえられる、日本の歴代天皇が継承してきた三種の宝物

天皇の践祚に際し、この神器のうち、八尺瓊勾玉ならびに鏡と剣の形代を所持することが皇室の正統たる帝の証しであるとして、皇位継承と同時に継承される(剣璽等承継の儀[32]

三種の神器の所在地
実物 形代
八咫鏡 伊勢神宮内宮 宮中三殿賢所
八尺瓊勾玉 皇居の「剣璽の間」
草薙剣 熱田神宮 皇居の「剣璽の間」

日本国外での天皇の呼称

英語圏における呼称

天皇は、英語で「emperor」、「the Emperor of Japan」と称され、現在の天皇を「The Current Emperor」と称される。ただし、英語で公式に初めて「the Emperor of Japan」と称された人物は、江戸時代末期・幕末期当時で、孝明天皇ではなく、時の執権者の第十二代将軍徳川家慶であった[注釈 4]。1852年のミラード・フィルモアアメリカ合衆国大統領の親書の宛て名には、「His Imperial Majesty, the Emperor of Japan」と記されている[34]。かつて、「Mikado」(帝、御門)と一般的に称されていた時期もあった[35]

ドイツ語圏における呼称

ドイツオーストリア等の地域においては、皇帝を意味する「kaiser」(カイザー)と称されている。また一部地域においては、「keyser」(ケイゼル)と読まれることもある。

中国における呼称

現在の中華人民共和国政府などの公的機関では、「天皇陛下」、「日本天皇陛下」などの「陛下」の敬称付で呼ばれるのが通常である[36]

朝鮮半島と天皇の呼称

朝鮮半島の歴代王朝は長期間にわたり中国歴代王朝の冊封国として存在しており、華夷思想では「天子」・「皇帝」とは世界を治める唯一の者、すなわち中国歴代王朝の皇帝の称号であった。そのため、「倭国王」「日本国王」等の称号で呼んでいた。冊封体制から離脱し大韓帝国となると初めて日本の天皇を「皇帝」と称した。その後の韓国併合による大日本帝国統治下では「天皇」の称号が用いられた。第二次世界大戦後、南北朝鮮独立後は英語で天皇を意味する「Emperor」の訳語を踏襲せず「日本国王」(日王)「Japanese King」という称号を用いてこれに倣い「皇室」を「王室」、「皇太子」を「王世子」と呼んでいた。現在では「天皇」と言う称号が以前より一般的になりつつあるが、「皇室/王室」、「皇太子/王世子」に関しては同等に用いている。但し産経新聞ソウル支局長黒田勝弘に拠れば、2006年9月の悠仁親王誕生時、韓国日報を例外に殆どの韓国マスコミは「天皇」等の「皇」の字を嫌い、代わりに「王」の字を格下げの意味で用いたという[37]

金大中大統領在任当時、諸国の慣例に従って「天皇」という称号を用いる様にマスコミ等に働きかけたが、マスコミはそれに従う者と従わない者に二分した。大韓民国政府としては1998年から「天皇」の称号を使用するようになったが[38]、次の大統領盧武鉉は天皇という称号が世界的かどうか確認していないため「天皇」と「日王」どちらを用いるべきか準備ができていないと従来の方針を転換する姿勢を示した。大統領李明博は「天皇」の称号を用いている[38]。しかし、マスメディアを始めとする民間では「日王」を使用している[38][39]。民間における「日王」の呼称の使用については21世紀初頭頃に「天皇」や「日皇」に改めるべきであるとの議論もなされたが、「日王」に統一することとなり現在に至っている[38]李明博2009年9月15日インタビューを受けた際、「日本天皇」という表現を繰り返し用いた[40]

称号の由来と歴史

十六弁八重表菊紋。天皇および皇族の御紋である。後鳥羽天皇の日本刀の御所焼に付した菊紋に始まる。

「天皇」号が成立したのは7世紀後半、大宝律令で「天皇」号が法制化される直前の天武天皇または持統天皇の時代とするのが通説である。7世紀後半は、唐の高宗皇帝の用例の直後にあたる。戦前に津田左右吉が唱えた推古天皇期という説が、過去には有力だった。13世紀以降、「天皇」号の使用は一時廃れたが、19世紀初頭に再び使用されるようになり、現在に至っている。

字音仮名遣では「てんわう」と表記する。「てんわう」が中世までに連声により「てんのう」に変化したとされる。 中国の唐の高宗は 「天皇」と称した。(上元元年(674年)八月)、『旧唐書』には、「皇帝を天皇と為し、皇后を天后と為す」(巻八)とある。死後は皇后の則天武后によって 「天皇大帝」 のおくりなが付けられた。(681年)中国ではこの時のみ天皇号が使われ、以後使われていない。

日本では「天皇」という文字は大和の法隆寺の薬師仏光背銘に「池辺大宮治天下天皇」及び「小治田大宮治天下大王天皇」とある。池辺大宮は用明天皇(在位585~587)で、小治田大宮は推古天皇(在位592~628)の御代である。 又、推古天皇十六年(607年)隋の煬帝に遣わされた国書の中に「東天皇敬白西皇帝」云々と日本書紀に伝えてあり、我が国の天皇と隋の皇帝との使い分けが見られる。いずれも日本の方が中国より早い時に用いており、これらから天皇の文字は我が国がつくり、用いた可能性が高い。

「天皇」という称号の由来には、紀元前に書かれた中国の淮南子に出てくる東海の海の島(日本)の義和(天照大神)の夫である天帝(天皇)である帝俊スサノオから来ているという説がある。実際に日本書紀は冒頭部分をこの淮南子から引用している[41]

「天皇」の語と関連した語がある古い記録
文書・銘 年代 抜粋 出典 現存
遣隋使国書 607年 日出處天子致書日沒處天子無恙 隋書(636年成立)
法隆寺金堂
薬師如来像光背銘
607年 池辺大宮治天下天皇 法隆寺金堂薬師如来像 実物が存在。[注釈 5]
への国書 608年 天皇敬白西皇帝 日本書紀(720年成立) 日本書紀以外に記録がない。
法興寺丈六
釈迦光背
609年 多知波奈土與比天皇 元興寺伽藍縁起
並流記資財帳
(746年成立)
実物が失われている。
天皇記 620年 (書物の題名自体に「天皇」を含む) 日本書紀 実物がない。
日本書紀以外に記録がない。
天寿国繍帳 7世紀 斯帰斯麻宮治天下天皇
悲哀嘆息白畏天皇前日啓
上宮聖徳法王帝説
(成立年不明)
かろうじて現存。[注釈 6]
野中寺弥勒菩薩像銘文 666年 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時 野中寺弥勒菩薩 実物が存在。[注釈 7]
木簡 677年 天皇聚露忽謹 飛鳥池工房遺跡出土

日本国内での天皇の称号の変遷について、以下に説明する。

天皇の称号を諡号として各国で最初に付せられた人物

  • の第三代皇帝高宗は、在位の途中の上元元年(674年)8月に皇帝の称号を「天皇」に、皇后の称号を「天后」に、同時にセットで変更した。崩御後も、天后である則天武后によって天皇の称号を贈られ、諡号を「天皇大聖大弘孝皇帝」と記録された。
  • 日本の第四十代天武天皇は、日本で初めて天皇と称された人物。ただし在位中のいつから天皇と称したのかは明らかでなく諸説がある(遅くとも天武6年(677年)12月には天皇号が使用されていた)。その孫の文武天皇の時、大宝律令で天皇の号が法制化され、天武天皇以降、およびその系譜を遡って天皇の諡号が贈られた。
  • 南漢の初代皇帝劉龑は、崩御後、諡号を「天皇大帝」と記録された。

天皇の称号を存命中に自ら付した歴史上の人物

古代

倭国では首長のことを、国内では大王「おおきみ」(治天下大王)あるいは天王と呼び、対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等と称された[注釈 8]

訓読みの語源

古い訓読みでは、すべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(須明樂美御德)、すめみまのみこと(皇御孫命)などと称した[26]

「スメル」については、『岩波 古語辞典』では、「すめら」(皇)の項で、サンスクリットsume:ru」(須弥山)と音韻・意味が一致し、モンゴル語sümer」(須弥山)と同源であろうとしている[要文献特定詳細情報]。また、「統べる」の転訛と見る説があったが、上代特殊仮名遣からこれは否定されている。他には、清浄さから神聖さを想起させる「澄める」の転訛と見て、光り輝いて煌めくさまを表す「皇」の訓としたとする説があり注目されているが、現在も判然としていない[44]

万葉集には「天皇」の表記が12例知られ、このうち7例が「オオキミ」、5例が「スメロキ」と訓ませている。それぞれの文意の比較から、「オオキミ」は今上天皇、「スメロキ」は「天皇」の他に「皇祖神」、「皇神祖」、「皇祖」に対しても「スメロキ」と訓ませているため、過去の歴代天皇や皇祖神に対して用いられていることがわかっている[45]

律令制での称号

律令制において、「天皇」という称号は「儀制令」に定められている。養老令の儀制令天子条において、祭祀においては「天子」、詔書においては「天皇」、華夷(「華」を中国とし「国外」と解する説と「華」を日本とし「国内外」と解する説がある。)においては「皇帝」、上表(臣下が天皇に文書を奉ること)においては「陛下」、譲位した後は「太上天皇(だいじょうてんのう)」、外出(大内裏の中での移動)時には「乗輿」、行幸(大内裏の外に出ること)時には「車駕」という7つの呼び方が定められているが、これらはあくまで書記(表記)に用いられるもので、どう書いてあっても読みは風俗(当時の習慣)に従って「すめみまのみこと」や「すめらみこと」等と称するとある(特に祭祀における「天子」は「すめみまのみこと」と読んだ)。

死没は崩御といい、在位中の天皇は今上天皇きんじょうてんのうと呼ばれ、崩御の後、追号が定められるまでの間は大行天皇たいこうてんのうと呼ばれる。配偶者は「皇后」。一人称は「」。臣下からは「至尊」とも称された。

奈良時代天平宝字6年に神武天皇から持統天皇までの41代、及び元明天皇元正天皇の漢風諡号が淡海三船によって一括撰進された事が『続日本紀』に記述されている。この「諡号」とは、一人一人の名前であって、たとえば神武天皇といった時の前半の「神武」の部分が諡号である。後半の「天皇」という称号とは関係ない。

中世

順徳天皇(在位1210年 - 1221年)以来、光格天皇(在位1779年 - 1817年)で諡号が復活するまで、「天皇」の号は生前も死後も正式には用いられなかった。例えば後水尾天皇は没後は「後水尾院」と呼ばれ、これらを「後水尾天皇」とすべて置き換えたのは明治維新後のことである[46]

在位中の天皇は、帝、御門みかど禁裏きんり内裏だいり禁中きんちゅう御所ごしょなどと呼ばれた。「みかど」とは本来、御所の御門のことであり、禁裏・禁中・内裏・御所は御所そのものを指す言葉である。これらは天皇を直接名指すのをはばかった婉曲表現である。陛下(階段の下にいる取り次ぎの方まで申し上げます)も同様である。

また、主上おかみしゅじょう)という言い方も使われた。天朝(てんちょう)は天皇王朝を指す言葉だが、転じて朝廷、または日本国そのもの、もしくはまれに天皇をいう場合にも使う。すめらみこと、すめろぎ、すべらき、などとも訓まれ、これらは雅語として残っていた。また「皇后」は「中宮」ともいうようになった。

当代の天皇は「当今の帝とうぎんのみかど」などとも呼ばれ、譲位した太上天皇は「上皇」と略称され、「仙洞」や「院」などともいった。出家すると太上法皇(略称:法皇)とも呼ばれた。光格天皇仁孝天皇に譲位して以後は事実上、明治以降は制度上存在していない。これは現旧の皇室典範が退位に関する規定を設けず、天皇の崩御後に皇嗣が即位すると定めたためである。

明治以降

大日本帝国憲法3頁目。明治天皇の諱、睦仁の署名(御名)と共に、「天皇御璽」という御璽が捺印されている(御名御璽)。
韓国併合ニ関スル条約」に関する李完用への全権委任状。文中に「大日本國皇帝陛下」と書かれている。

大日本帝国憲法(明治憲法)において天皇の呼称は初めて「天皇」に統一された。ただし、外交文書などではその後も「日本国皇帝」が多く用いられ、日本国内向けの公文書類でも同様の表記が何点か確認されている。そのため、完全に「天皇」で統一されていたわけではない。

口語ではお上、主上おかみしゅじょう)、聖上おかみせいじょう)、当今とうぎん畏き辺りかしこきあたり上御一人かみごいちにん、などの婉曲表現も用いられた。

また、天皇は陸海軍大日本帝国陸軍大日本帝国海軍)の統帥権を有することから「大元帥(大元帥陛下)」とも称され、主に軍内部および大元帥としての天皇を報道するマスメディア等において用いられた。

現在

日本国憲法上の正式称号は単に「天皇」であるが、詔書勲記褒状などの文書においては「日本国天皇」と表記されることもある[47]

憲法学界においては、象徴天皇と歴史上の天皇との連続性について、二つの学説が対立している。歴史的存在としての天皇を存続させたものと捉える「宣言的規定説(=連続説)」と、無から新たに「天皇」と称する存在を創造したものと捉える「創設的規定説(=断絶説)」である[48][49]。後者の見解によると、神話由来の第124代天皇だった昭和天皇が、国民由来の「天皇」の初代になったということになる[49]

余談ながら、今後も「○○(=時の元号)天皇」という形式の追号になると確定しているわけではない。すなわち、明治天皇大正天皇昭和天皇の過去3代がそうだからといって、平成令和の天皇が同様に「平成天皇」「令和天皇」になるとは限らないのである。元号法の制定議論時の大平正芳首相(当時)の国会答弁によれば、追号とはあくまで皇室の儀式として贈られるものであり[50]、法定された元号に縛られることなく天皇が自由に決めることが可能である[50]

追号元号との関係につきましては、制度上は元号が天皇の追号となるというようなルールはないわけでございます。追号は天皇が先帝に対して贈るものと承知しております。(中略)元号法案による元号と追号とは全然関係がないと承知しております[50] — 第87回国会 参議院内閣委員会会議録第14号

天皇の配偶者の称号と通称

天皇には正室以外にも複数の側室がいたほか、正室すら二名をもつことができた(皇后中宮一条天皇が二后を並立した)。天皇の配偶者は、当初は出自に応じてそれぞれの称号が決まっていたが、後代になると寵愛の度合いによってこれが曖昧になった。

明治20年代半ば(1890年代後半)、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の妃を決めるにあたり、キリスト教概念による一夫一妻制の西欧列強に一等国として認められるため、宮中も一夫一妻制を推進する必要に迫られていた[51]。そこで、健康な九条節子が皇太子妃となり、夫妻には裕仁親王(後の昭和天皇)ら、4人の男児が誕生した。大正天皇は自身が側室柳原愛子の子であることを知って衝撃を受け、またその后貞明皇后も側室である生母野間幾子の不遇を見て育ったことから、一夫一妻制を推進した[52]

続く、昭和天皇は、20~21歳にかけて欧州訪問を行った際に見たイギリスの王侯貴族の簡素な生活に影響を受け[53]、主体的な意思を持って側室制度を拒否した[54]

時期 天皇の配偶者
大宝律令制定前 大后
大宝律令の制定 - 平安時代初期 皇后 夫人
平安時代初期 - 南北朝時代 中宮 女御 更衣
南北朝時代 - 江戸時代初期 上臈 典侍
江戸時代初期 - 明治維新 中宮
明治天皇 皇后
大正天皇から現在

姓氏

天皇は氏姓および名字を持たないとされる。

天皇と宗教

神道との関係

天孫降臨の舞台・高千穂河原
天岩戸神社東本宮
宮崎県高千穂町
高千穂河原の天孫降臨神籬斎場
仲哀天皇陵(岡ミサンザイ古墳
皇室の祖先神を祀る伊勢神宮 内宮

神道は日本古来の宗教である。古代の日本は祭政一致であり、天皇は上古からその祭祀を行ってきたと考えられている。仏教が伝来した後の用明天皇は「信仏法尊神道」であり、それは以後の天皇にも受け継がれた。天皇と神道の関係は天武天皇大宝律令などで定められてゆき、奈良時代から平安時代にかけて、天皇は新嘗祭などの祭祀を自ら執り行い、天照大神を祀る伊勢神宮斎宮を遣わし、延喜式に定められた神社などに奉幣を供えた。

武家政権に移行して、鎌倉時代順徳天皇は「先神事」とその重要性を述べている。中世になり朝廷が衰微すると、大規模な祭礼は実施できなくなり、戦国時代後柏原天皇などは大嘗祭を執り行えなかった。江戸時代には江戸幕府の要求と金銭補助の下、徳川家の神格化を目的とする日光東照宮への奉幣なども行われた。

明治時代になると、神道は国家神道となり、神武天皇を祭る橿原神宮桓武天皇を祭る平安神宮明治天皇を祭る明治神宮などが創建され、戦前戦中の昭和天皇は現人神として崇拝された。戦後は政教分離となり国家神道は廃止され、昭和天皇は人間宣言により自らの神格化を否定した。現在は宮中祭祀として新嘗祭四方拝などが執り行われ、一般人男性と結婚し民間家庭に嫁いだ皇女が伊勢神宮の祭主となり、皇室の私費により各地の神社へ奉幣が行われている[55]

仏教との関係

法隆寺
比叡山延暦寺

日本書紀』によると552年百済聖王(聖明王)により釈迦仏の金銅像と経論他が欽明天皇に献上され仏教が初めて伝来したとされている。仏教が伝来した際に仏教を信仰の可否については家臣達により議論されることになり、仏教容認側の蘇我氏と反対側の物部氏との間で可否を巡って対立し始め、用明天皇の後継者争いに繋がり、物部氏が滅ぼされると仏教信仰に傾き、物部氏討伐軍にも加わっていた用明天皇の第二皇子である聖徳太子により法興寺法隆寺が建立され儒教や仏教の思想が反映された十七条憲法が作られるなどし、皇室は仏教と深い繋がりを持っていく。

また、伝統的に天皇自ら寺を建てるようになり、天武天皇大官大寺持統天皇薬師寺を建立するなどし、聖武天皇の代に入ると鎮護国家という政策が盛んになり、国情不安を鎮撫するために国分寺を各地に作り、東大寺が建立される。

平安時代に入るとこれらの寺院群が政治的な権力を持つことになり、それが桓武天皇により平安京への遷都へと繋がり、日本古来の仏教と対抗させるために空海最澄を遣唐使とともにに送り密教を学ばせ、空海は真言宗、最澄は天台宗を開き、それぞれ空海は高野山を、最澄は比叡山を下賜承わった。また白河天皇を始めとする天皇が譲位後に出家し、法皇と名乗る事も多くなる。

その後、江戸時代までは仏教とも深く繋がっており、法事は仏式で行われていた。1871年明治4年)までは宮中の黒戸の間に仏壇があり、歴代天皇の位牌があった。天皇や皇族の位牌は「尊牌」と称された。しかし、明治時代に入ると明治政府の神道重視の政策により神仏分離が行われ、1000年以上続いた仏式の行事はすべて停止され、尊牌は京都の泉涌寺にまとめられ、皇室は仏教とは疎遠となる。

職能神・芸能神との関係

天皇という王は、本来自然の領域に属する超越性を人間社会内へ奪取する媒介者の働きをしており、その多義性は宗教や儀礼、技芸の神にまつわっている[56]。天皇と職人とには、内密な関係が見られる。金春禅竹が『明宿集』で語るところによると、芸能や職人の守護神である宿神)は、宇宙の中心、王の中の王であると諸職の民によって考えられていた。これは、大蛇自然)の力からレガリア)を取り出すスサノオのように、宿神が荒々しい自然からを人間の社会に持ち込む離れ業を演じるであったことによるという。すなわち天皇の権力は、芸能者や職人の日々行うと似通った性格となっている[57]

『明宿集』は、星宿神を北極星とし、「翁」を宿神と呼ぶことは太陽星宿の意味が込められているとしている。「宿」という文字には、星の光が降下してあらゆる家に降り注ぎ、人間に対してあらゆる業を行うという意味がある。「翁」の文字は、公の羽と書くことから王をに喩える文字であり、あらゆる領域を飛翔するという意が込められている[58]。また、本地垂迹はすべて本体は一つであり、不増不減、常住不滅の一つの神に集約されるともいう[59]。『明宿集』の末尾では、翁とは日月星宿がすべての人のに宿ったものであり、俗体は翁の化身であり、それを知っていると知らないとの違いがあると説かれている[60]

天皇は、律令制という合理的制度が導入された以後も、自然の内奥との深い結び付きを主張する王の宿神的身体(翁的身体)を、あるいは「王のの身体」を、様々な宗教儀礼や神話的観念を通して維持しようとしてきた[61](神やカムイという言葉は、のような強力なの住人を指していた[62])。特に古代的天皇の復活を目指した後醍醐天皇による建武の中興では、密教の道具立てを使って、自然の内奥から超越的主権を取り出してくる異形の王としての天皇、という大規模な演出まで試みられた。網野善彦の『異形の王権』はこの問題を主題としている[61]

一神教・国家神道

明治23年創建の橿原神宮
奈良県橿原市

『日本大百科全書』によると、明治維新王政復古によって祭政一致が政治理念の基本とされ、天皇は国の「元首」かつ神聖不可侵な「現人神」とされた[63]。ここには、人と神の間に断絶の無い日本古来の観念とは全く異なる、「一神教の神観念」が取り入れられていた[63]。天皇は「絶対的真理」と「普遍的道徳」を体現する至高存在とされ、あらゆる価値は天皇に一元化された[63]。「天皇は国家神道のいわば最高祭司であり、神社祭式皇室祭祀を基準に整えられた」とされる[63]東アジア学者の石川サトミによれば、日本人にとっての天皇は「彼らの唯一神、すなわち天皇(their God, i.e. the Tenno)」とも表現される[64]

また、大日本帝国が存在した時代では、日本の「皇帝(the emperor)」が「唯一神として(as God)」見なされたり[65]、「人間形態として啓示された唯一神(God revealed in human form)」と主張されたりすることもあった[66](一神教では、唯一神は「皇帝(Empepror)」・「唯一の皇帝(sole emperor)」とも説かれる[67])。例えば、帝国大学の比較宗教学者だった加藤玄智は、天皇は「日本人にとって、ユダヤ人が唯一神と呼んだ一つの地位を専有している(occupying for the Japanese the place of the one whom the Jews called God)」と論じていた[66]

ユダヤ教・キリスト教

宗教学者・思想史学者の前川理子の研究論文によれば、天皇を唯一なる存在(唯一神)と見なす例として、比較宗教学者の加藤玄智の論がある[68]。加藤は東京帝国大学神道研究室の公的研究者であり、「国家的神道(State Shinto)」の主な提唱者だった[69]。加藤によれば、数多くの殉教者を出した日本精神――つまり武士道大和魂等の伝統――は、一神教の絶対服従の精神と「同一」である[68]。その精神とは、旧約聖書ユダヤ教)のアブラハムヨブが見せたような態度である[68]

このような考えによって日本精神は、宗教進化論ティーレの論)でいう「倫理的宗教」のレベルに到達済みであることが明白だとされるようになった[68]。加藤は唯一神(キリスト)と天皇を結びつけ、

西洋にあっては即ち,日本にあっては天皇陛下,西洋にあっては宗教上の信仰,日本にあっては忠孝一本,西洋にあっては基督教,日本にあっては天皇教と斯う申して来たのであります。

と述べている[68]。同時に加藤は、日本人はみな「神の子」であるとしている[70]

一方で言語学者のB. H. チェンバレンは、日本人の天皇崇敬は明治時代以後の人為的な「新宗教の発明」であると述べたり、今の「武士道」という語は昔は使われていなかったと論じていた[71]。こうした研究に強い不満を持った加藤は、日本の固有思想日本人が一番理解できるという理由をもって、日本に対する外国人の「誤解」を退け、「科学的」に「忠君愛国説をも立てゝ来なければならない」と述べている[71]

イスラム

ピーター・リャン・テック・ソンの歴史学論文によると、唯一神と天皇を同じ唯一者として信じるように、イスラムへ命令が下されることもあった[72]。例えば大日本帝国は、ジャワ島ムスリムたちへ「メッカよりも東京に礼拝し、日本皇帝を唯一神として礼賛せよ、という日本軍の命令(the Japanese military orders to bow towards Tokyo rather than Mecca and to glorify the Japanese Emperor as God)」を伝えていた[72]

ジャワ奉公会や日本軍は、ジャワ島のキャイ(イスラム教師)やイスラム指導者等といったムスリムたちから支持を得ようとした[72]。しかしその前に、日本軍が唯一神(アッラーフ・天皇)についての命令を伝えていたため、ムスリムたちは既に混乱させられた状態にあり、結果として失敗した[72]

世界的に帝国主義(皇帝主義)・君主制君主主義)・国家社会主義(ナチズム)は悲惨な失敗を招き、それに対する反動も同程度の流血沙汰となった[73]。現代のイスラム過激主義はそうした反動の例であり、カブールからジャワにいたる世界各地で活発化している[73]

天皇総帝論・八紘一宇

「現人神」論の一般化

現代推論されるところでは加藤玄智は、西洋絶対神合理主義批判されないことを見て、天皇を絶対神と同様に説明した言論を広め、批判を封じようとした[74]。しかし、西洋人からすればモンゴル人種または「黄色い猿」である天皇が、日本人によって絶対神と同一視されていることが、西洋で驚かれ嫌悪された[74]

現人神」論は「天皇絶対」論を兼ねており、東京帝国大学憲法学上杉慎吉も主張していた[74]天照大神や天皇の絶対的唯一性を否定する論について、上杉は批判している[75]。以下に引用する[75]

家族宗長として、祖先崇拝の考より服従すると云ふも足らぬ。 現人神である、天皇なるが故に服従する。服従すべきものと信仰するが故に、崇拝服従する。信仰に理由はない。
神々のうちに、各神が絶対的に憑依するの中心たるが在まさねばならぬ。皆神ならば、皇道又は古神道は成立する筈がない。(中略)

カミと云ふ者種々雑多なれど、所謂る古神道を宗教なりとして、概念上神とすべきは唯一天皇、祖宗以来、一代には唯だ一人在ます、カミ御一人絶対至尊の御方の外にはなしと申さねばならぬ。

予は皇道の本義は絶対に天皇に憑依するに在りと云ふた。之を宗教とするは、神は唯だ此の御一方であるのである。

神代の人は皆神、功績徳望ありし人は皆神では、皇道は成り立たぬ。

上杉はこうも言った[76]

天皇に絶対的に帰依してその精神と合一するならば、有限超越して、個人の圧迫や不安解脱することができるというのが古来の日本人の信仰であった。
「八紘一宇」へ

世界統一」思想である「八紘一宇」は、「現人神」論とセットに語られてきたもので、田中智学日本神話解釈から由来している[76]。天皇は天照大神の延長であり、よって日蓮主義者は天皇のと政治が一致するように努力しなければならないという日蓮主義の説が起源である[76]

「伝統精神」(国家社会主義)へ

国家社会主義は社会主義的な「国家主義の一種」であり、日本では「純正日本主義(皇道主義)」と連れ立って活動していた[77]。特に「国家社会主義(ナチズム)」は、民族主義全体主義・反個人主義・反自由主義・反民主主義反議会主義・反社会主義反マルクス主義等を掲げる[78][79]。なお、「右翼」は「一般にはドイツのナチス,イタリアのファシスト,日本の超国家主義者などがその代表」とされている[80]

昭和時代初期には、天皇にまつわる「伝統の発明」として代表的に佐藤信淵および大国隆正の思想が利用された[81]。江戸時代末期の著述家である信淵の、帝国的で統制経済的な思想を象徴したのは、『混同秘策』(1823年)と『垂統秘録』(1833年)だった[81]。前者では、日本は世界を支配する使命があり、その手段として満州朝鮮中国を併合すべきであると説かれている[81]。後者は、国家による統制経済の必要を説いている[81]。こうした著述が援用され、戦時中には信淵は「大東亜戦争予言者」と称賛された[81]

だが大東亜戦争時に至るまでは、信淵の思想は存命中および死後も、実質的に政治へ影響した例が無かった[82]。『混同秘策』と『垂統秘録』も「秘本」であり、一部の弟子以外には閲覧さえ許されず、公刊されたのは1887年(明治20年)以降だった[82]

世界支配および統制経済を掲げた信淵への関心が高まっていったのは、日露戦争の勝利後である[82]。また、社会主義の観点から信淵に興味を示す日本知識人も現れ始めた[82]。信淵への評価を決定的に変化させたのは、1927年(昭和2年)に大川周明が著した『佐藤信淵の理想国家』だった[83]。信淵の思想は

鮮明に国家社会主義的である

と位置づけられ、「伝統精神」と見なされた[83]。また、次のようにも評価された[83]

信淵の信念は、実に聖徳太子に動き天智天皇に動きたる日本精神其ものゝ信念である。この精神は、唯だ偉大なのみ、能く之を把握し得る。

こうして信淵の思想は「国家社会主義」であり、「伝統精神」「日本精神」の中核であると見なされた[84]1934年(昭和9年)には、三上参次河野省三といった歴史家神道研究者までもが、日本の「伝統」的な「国家社会主義」を讃えるようになった[84]。この「伝統精神」は小学校の歴史教科書でさえ扱われるようになり、「進んで海外植民地開拓し、国力を伸ばさなければならない」「日本が海外に進出する提唱がすでに江戸時代からあった」というように論じられた[84]

「天皇総帝論」へ

戦時中には「天皇総帝論」がもてはやされていた[85]。「天皇総帝論」とは、同じく戦時中に「天皇信仰の主唱者」「世紀の予言者」と呼ばれていた幕末国学者大国隆正が唱えた議論である[85]。これは要するに、天皇は世界の皇帝たちよりも上の地位にあり、歴史の「必然」として世界の「総帝」であるという主張だった[85]

「天皇総帝論」は、もとより外交や政治に影響を与えたことが無かった[86]。しかも、隆正の一部の弟子以外には忘れ去られていた[86]。だが、帝国の昭和時代になると世間から注目され始めた[86]。その発端は昭和2年5月、宮中顧問管(山口鋭之介)が「大国隆正と日本精神」という文章を新聞に掲載した頃である[86]。隆正は「日本の最も偉大な思想家であり、最も偉大な国学者であつた」、「明治維新の基礎をなした第一の功績者である」と断定された[86]

新聞掲載の後に、「天皇総帝論」や隆正を扱う論文が急増し、『大国隆正全集』も公刊された[87]。実は『全集』から省かれているが、もともと隆正は日本神話、『古事記』、『日本書紀』を「わがくにの小説演義の鼻祖(作り話元祖)」と扱っていた[87]。だがこれは、長いあいだ世に知られることがなかった[87]

第二次世界大戦に至る中で、「天皇総帝論」は

明治維新から今日の皇道世界維新に直通一貫して生きてゐるのである。

と、大崎勝澄によって理屈付けられた[88]。そして「八紘一宇」は「天皇総帝論」であり、それはまた

  • 唯一の思想的原動力
  • 「天皇中心の世界一体観」
  • 「大宇宙をも包含するが如き深遠宏大なる日本肇国理念」
  • 「時を超えて永遠に新鮮な世界観」
  • 「真日本の発見」
  • 「純なる日本的世界観」
  • 「古事記の発見」
  • 「天皇政治の世界性」
  • 「国民的自覚」
  • 大和民族の宿志」
  • 「大和民族本来の世界史的使命」
  • 「日本の肇国理念そのもの」
  • 天津神がことよさし給へる天業的使命」
  • 神武天皇が抱懐せられたる世界史的御雄図」
  • 惟神(かんながら)的世界観」

等であると認識されていった[89]。このようにして、大国隆正のような国学者たちが足がかりにされ、「八紘一宇」が明治維新や日本建国の理念へと結合されて、「伝統の発明」が完成した[90]

当時アメリカ合衆国では、「天皇とは何か」というアンケート調査が行なわれた[91]1944年4月に雑誌『フォーチュン』で日本特集号が組まれ、調査の回答結果は

という内容だった[91]

敗戦後

日本の降伏後のGHQの神道指令には、“State Shinto”(国家神道)といった語をはじめ、加藤の影響が及んでいた[92]。神道指令を起草する際にW. K. バンスが用いたものは、アメリカ人の神道学者D. C. ホルトムの神道論ではあったが、ホルトムも加藤の神道論から学んでいた[92]

敗戦後の加藤は公職追放された他、恩給を一時停止された[93]。加藤たちの時代の宗教学的理想は、諸宗教の融合調和だった[94]。加藤によれば、神道と仏教との合一は「国家的神道」の中で成立していたが、神道とキリスト教との合一は「全うしかねて居」た[94]。しかし1959年、当時の皇太子だった上皇明仁結婚によって、「此破天荒の精神的大事業」が定結されたと加藤は述べた[94]。キリスト教(カトリック)系教育の中で成長した正田美智子を皇室に迎えることによって、従来は一大難事だった「宗教的融合調和」が成立したという[94]。前川はこれを、加藤の「二〇歳代のの続き」と評している[94]

批判

前川によると、加藤の研究は「多分に規範的」であり、「神道研究」というよりは「神道」だった[69]。また、加藤と同世代の民俗学者・柳田國男は、最近の世の神道論は現実を踏まえてない、「人為的」な「新説」だと批判した[69]。当時、神社は国家の「宗旨」であり、宗教でないとされていた[69]。それは学問から見て「無内容」だったが、多様な神道論や神社論が主張されることとなり、加藤は有力な論者の一人となっていた[69]

天皇の歴史

『国史大辞典』は「天皇」の称号に相当する人数が、学問上確定できないとしている。『古事記』『日本書紀』が天皇号を用いて記載している人名中、最初から数人ないし十数人は、実在を認められないか強く疑われる名が多いためである。現在、皇統譜神武天皇を第一代とし弘文天皇を加えているのは、「学問とは無関係の公的決定にすぎない」とされている。そもそも天皇の代数を一定とすることは、最古の天皇の実在性の問題がある他、同時に複数の天皇が併立した時期があり、天皇の順序を単線で連ねることのできない点からも不可能とされる。継体天皇安閑天皇宣化天皇との両朝併立を推定する学説を除いても、後鳥羽天皇安徳天皇は一時期相並んで天皇とされており、南北朝時代には、北朝光明崇光後光厳後円融後小松(南北合体以前)各天皇と、南朝後醍醐後村上長慶後亀山各天皇とが対立し、双方が天皇であると主張していた[15]

大日本帝国憲法第一条に「万世一系ノ天皇」とあるが、学問上は、皇位継承がもとより「一系」であったか疑問視される。三輪王朝河内王朝など別系の王朝の存在を推定する学説や、継体天皇を応神天皇の子孫とする系譜の信用性を疑う学説もある。6世紀初頭の武烈天皇の崩御後に皇位継承者が絶え、継体天皇は新しい皇統の創始者ではないかと推定する学説は、河内王朝などについての学説とともに、「万世一系」を疑う理由の一つとなっている。ともかく、皇統が定まって以降、皇位継承の資格は父系血族であれば足り、傍系女性で天皇となった例も少なくない。前近代の皇位継承に、固定した制度や確立した慣行があったとは見られていない。古代初期には天皇の崩御後に新帝が位につくのが常例だったと判じられるが、8世紀以後は天皇の譲位が原則となっている。そしてその以前やその期間にも、様々な力関係による天皇の交替があった。天武天皇が内乱(壬申の乱)の勝者として、先帝天智天皇の子大友皇子を倒して天皇に即位した例や、淳仁天皇陽成天皇仲恭天皇のように、それぞれ太上天皇摂政幕府の力で廃帝とされた例もあり、後醍醐天皇・光厳天皇の交替、南北両朝への分裂のように、武力抗争に基づく非常事態の発生もある[15]

天皇がいつどのように成立したかは、現在の学界では学説が多様に分かれている。ただし、天皇の前身をなす大王が遅くとも5世紀にはのちの畿内の地の政権の首長として存在したこと、その後、7世紀にかけて勢力圏を拡大し、はじめは毛野吉備出雲筑紫その他の各地政権と並立する一地方政権であったのが、やがて7世紀末から8世紀初頭にかけ律令体制を整えるまでのある時期に、他の諸政権との連合体から広い範囲にわたる統一政権に成長した、といったことは推認されている。

『古事記』『日本書紀』が伝える物語は、歴史的事実や慣行習俗をいくらか反映しているにせよ、その基本構想は大王政権が君主の地位を得た後に、その支配権を正当化するため造作され、成立まで潤色が重ねられたとされる。ここに記される、神武天皇が日向から大和に入り、その地の支配者を破って帝位についたという説話もまた「神代」の延長線上に造られた物語であること、綏靖天皇から開化天皇までの書物に記述の少ない欠史八代は「名号相続方式」であり、実在の人物と認めがたいことは、現在学界においてほぼ共通の認識となっている[15]

神武天皇版画月岡芳年

神代と天皇の発祥

皇室の系図は『古事記』『日本書紀』を始めとする史書に基づいて作られ、その起源は神武天皇元年(紀元前660年)に即位した神武天皇、更にはその始祖である天照大御神に始まるとされている。明治政府から戦時中までの日本では史書の記述を真実の歴史とする考えが支配的であり、国定教科書では神武天皇元年を紀元元年とする神武天皇紀元(皇紀)が採られていた。しかし『日本書紀』は天武天皇の勅命により編纂されたものであり、歴史学的に証明の難しい神話伝説などを多く含んでいる事から、皇室の祖先にまつわる伝承や事績や初期の天皇の存在については疑問視されている。特に欠史八代の天皇については、古代中国革命思想(讖緯説)に則って皇室の歴史を水増ししたのではないかと指摘する学説が主流となっているが、一方八代の父子関係を兄弟継承順に並べ替えた場合、他の豪族達の系図と世代数が符合するなど実在説もあり、未だ決着を見ていない。歴史学的に証明できる皇室の起源は、ヤマト王権の支配者・治天下大王(大王「おおきみ」)が統治していた古墳時代辺り迄である。

3世紀中葉以降に見られる前方後円墳の登場は日本列島における統一的な政権の成立を示唆しており、この時に成立した王朝が皇室の祖先だとする説や、神話に描かれる素戔鳴尊弥生時代朝鮮半島から北九州に渡来した皇室の始祖で、この6世孫の神武天皇が東征して大和を開いたとする説、弥生時代の北九州または近畿地方にあった邪馬台国卑弥呼の系統を皇室の祖先とする説、皇室祖先の王朝は4世紀に成立したとする説、など多くの説が提出されており定まっていない。[要出典]

古代の天皇

倭の五王

より印綬されたとされる倭奴国王印
稲荷山古墳出土鉄剣(国宝) 埼玉県立さきたま史跡の博物館展示。左は表面、右は裏面。「獲加多支鹵大王」は雄略天皇を指していると考えられる。 稲荷山古墳出土鉄剣(国宝) 埼玉県立さきたま史跡の博物館展示。左は表面、右は裏面。「獲加多支鹵大王」は雄略天皇を指していると考えられる。
稲荷山古墳出土鉄剣(国宝)
埼玉県立さきたま史跡の博物館展示。左は表面、右は裏面。「獲加多支鹵大王」は雄略天皇を指していると考えられる。

中国の史書における倭王の最古の記述は、南北朝時代劉宋王朝に朝貢した「」の王たちである。中国の史書『宋書』夷蛮伝・倭国条(倭国伝)には、5世紀に冊封された倭の五王(讃・珍・済・興・武)についての記述が残っている。これら五王を『日本書紀』などの天皇系譜から「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇等に比定する説や仁徳天皇履中天皇から雄略天皇までの天皇に比定する諸説がある。

これら五王は、朝貢の見返りに、中国王朝から「倭国王」に封じられ、またしばしば安東将軍または安東大将軍に任じられて(百済以外の)朝鮮半島における軍事的権威も付与されて、対外的にはこれらの称号を名乗っていたと推定される。国内向けの王号としては、熊本県埼玉県古墳から出土した鉄剣・鉄刀銘文に「治天下獲加多支鹵大王」「獲加多支鹵大王」とあり(通説では獲加多支鹵大王はワカタケルで雄略天皇の和風号とする)、「治天下大王」または「大王おおきみ」が用いられていたと考えられている。

『宋書』には、次のような倭王・武の上表文が引用されている。

皇帝の冊封をうけたわが国は、中国からは遠く偏って、外臣としてその藩屏となっている国であります。昔からわが祖先は、みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、安んじる日もなく、東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、北のかた海を渡って、平らげること九十五国に及び、強大な一国家を作りあげました。王道はのびのびとゆきわたり、領土は広くひろがり、中国の威ははるか遠くにも及ぶようになりました。

わが国は代々中国に使えて、朝貢の歳をあやまることがなかったのであります。自分は愚かな者でありますが、かたじけなくも先代の志をつぎ、統率する国民を駈りひきい、天下の中心である中国に帰一し、道を百済にとって朝貢すべく船をととのえました。

ところが、高句麗は無道にも百済の征服をはかり、辺境をかすめおかし、殺戮をやめません。そのために朝貢はとどこおって良風に船を進めることができず、使者は道を進めても、かならずしも目的を達しないのであります。

わが亡父の済王は、かたきの高句麗が倭の中国に通じる道を閉じふさぐのを憤り、百万の兵士はこの正義に感激して、まさに大挙して海を渡ろうとしたのであります。しかるにちょうどその時、にわかに父兄を失い、せっかくの好機をむだにしてしまいました。そして喪のために軍を動かすことができず、けっきょく、しばらくのあいだ休息して、高句麗の勢いをくじかないままであります。いまとなっては、武備をととのえ父兄の遺志を果たそうと思います。正義の勇士としていさおをたてるべく、眼前に白刃をうけるとも、ひるむところではありません。

もし皇帝のめぐみをもって、この強敵高句麗の勢いをくじき、よく困難をのりきることができましたならば、父祖の功労への報いをお替えになることはないでしょう。みずから開府儀同三司の官をなのり、わが諸将にもそれぞれ称号をたまわって、忠誠をはげみたいと思います[95][要ページ番号]

この頃までの代々の天皇の出自や系統については、記紀の記述通りの「万世一系」ではなく、倭国内各地の有力豪族の間での、複雑な権力移動が裏にあったのではないかという説もある。例えば、雄略天皇の子の清寧天皇には後嗣がなく、履中天皇の孫である仁賢天皇顕宗天皇が皇位を継いだとされているが、実際は皇位簒奪ではなかったかとの説もあり、またこれらの君主の実在を疑う説も否定されない。

また、仁賢天皇の子の武烈天皇も跡継ぎがなく、応神天皇の5世孫とされる継体天皇が皇位に就いているが、これにより仁徳天皇の血統が途絶えていることから、皇統交代があったとする説もある。

しかし、実際にどのような経緯があったかについては、依拠しうる史料が中国史書を除けばはるか後代に編纂された『日本書紀』などに限られているため、前述の各説には異論もある。当時は、一つの血統が大王位を継いだのではなく、複数の有力な豪族たちの間で大王位が継承されたとする考え(連合王権説)も見られる。

以降

不安定な基盤に乗っていた皇統が確立したのが継体天皇の皇子である欽明天皇の頃(6世紀中期)だと言われている。欽明天皇以後、中国の制度・文化の摂取が積極的に行われるようになっていき、7世紀初頭には冠位制度の導入など、天皇を中心とした政府が形成され始めることとなった。[要出典]

この時期、煬帝に対して「天子」と自称した[96]と『隋書』に見える。

大化の改新から摂関政治まで

天皇を中心とした国家の枠組みが整い始めたのは、大化の改新からさらに4半世紀経った天武朝以後である。大化の改新によって後の天智天皇である中大兄皇子が実権を握って以降、中国()の法令体系である律令を導入した結果、天皇を中心とした政府・国家体制を構築しようとする動きが活発となっていった。それらの試みは様々な曲折により一気に進展はしなかったが、最終的には、天武天皇及びその後継者によって完結することとなった。特に天武天皇は、軍事力により皇位を奪取したことを背景として、絶対的な権力を行使した。この時代に詠まれた柿本人麻呂らの和歌には、「大君は神にしませば」と天皇を神とする表現が見られている。

律令制下で天皇は太政官組織に依拠し、実体的な権力を振るったが、この政治形態は法令に則っていたため、比較的安定したものだった。主要な政策事項の実施には、天皇の裁可が必要とされており、天皇の重要性が確保されていた。

しかし、平安時代初期の9世紀中後期頃から、藤原北家が天皇の行為を代理・代行する摂政関白に就任するようになった。特に天安2年(858年)に即位した清和天皇はわずか9歳で、これほど低年齢の天皇はそれまでに例がない。このような幼帝の即位は、天皇が次第に実権を失っていたことを示すもので、こうした政治体制を摂関政治という。

摂関政治の成立の背景には、国内外の脅威がなくなったことにともなって政治運営が安定化し、政治の中心が儀式運営や人事などへ移行していったことにある。そのため、藤原北家(摂関家)が天皇の統治権を代行することが可能となったと考えられる。また、摂関家の権力の源泉としては、摂関家が天皇の外祖父(母方の祖父)としての地位を確保し続けたことにあるとされている。

もっとも、このような一連の現象は、逆に言えば、天皇という地位が制度的に安定し、他の勢力からその存立を脅かされる可能性が薄らいだことの反映でもある。この頃、関東では桓武天皇5代の皇胤平将門が親族間の内紛を抑え、近隣諸国の紛争に介入したところ、在地の国司と対立、やがて叛乱を起こして自ら「新皇」(新天皇)と名乗ったといわれ、朝廷の任命した国司を追放し、関東7か国と伊豆に自分の国司を任命した(平将門の乱)。

これは、平将門による新国家の樹立とも言えるが、将門は京都の天皇(当時は朱雀天皇)を「本皇」と呼ぶなど、天皇の権威を完全に否定したわけではなかった。また、将門の叛乱自体も、関東の武士たちの支持を得られず、わずか3か月で将門が戦死して新政権は崩壊した。

院政期

後鳥羽天皇

平安後期に即位した後三条天皇は、摂関家外戚に持たない立場だったことから、摂関の権力から比較的自由に行動することができた。そのため、記録荘園券契所の設置など、さまざまな独自の新政策を展開していった。後三条天皇は、譲位後も上皇として政治の運営にあたることを企図していたという説がある。

後三条天皇の子息の白河天皇は自らは退位して子息堀河天皇・孫鳥羽天皇をいずれも幼少で即位させた。これは、父後三条天皇の遺志に反し、異母弟の実仁親王輔仁親王を帝位から遠ざけるため、当時の天皇の父・祖父として後見役となる必要があったためである。さらにその結果として、次第に朝廷における権力を掌握したため、最終的には専制君主として朝廷に君臨するに至った。

この院政の展開により、摂関家の勢力は著しく後退した。院政を布いた上皇(院)は、多くの貴族たちと私的に主従関係を結び、治天の君(事実上の君主)として君臨したが、それは父としての親権と貴族たちの主人としての立場に基づくもので、天皇の外祖父ゆえに後見人として振る舞った摂関政治よりもいっそう強固なものであった。

治天の君は、自己の軍事力として北面武士を保持し、平氏源氏などの武士とも主従関係を結んで重用したが、このことは結果的に、武力による政治紛争の解決への道を開くことになり、平氏政権の誕生や源氏による鎌倉幕府の登場につながった。政治的には、院政期に権門勢家が国家からの自立の度合いを深めるに従い、皇室という一権門の代表に滑り落ちた。理念面では、歴代の天皇が神や仏といった超越者の力によって失脚に追い込まれるという説話や主張が度々見られるようになる。仏法に敵対した罪によって地獄に堕ちたという逸話も広く知られている。殊に、後白河天皇のように、聖代の帝王と対比して仮借ない批判も投げつけられた者もいる。即位灌頂により地位の正当化を弁証せざるを得ない程に、仏教の流布を背景にした相対化と脱神秘化が生じていた。また上皇の地位は天皇ほど律令に左右されず、恣意的な行動が可能なため、治天の私生活は乱れ、公的にも暴政に陥った。

後鳥羽上皇はさらに西面武士を設置したが、承久の乱の敗北により廃止された。承久の乱以後は、朝廷は独自の軍事力を失って、幕府に対して従属的な立場に立たされることになり、時には幕府の命令で天皇が任免される事態にまで至った。

時に、両統迭立の時代になると、神孫為君の論理に安住出来なくなり、徳治と善政を標榜するようになる。花園天皇は「皇胤一統」の論理に寄りかかる事を戒め、君主としての徳の涵養を力説している。また同じく儒教精神から、後鳥羽上皇のように『承久記』や『六代勝事記』によって激しく批判、失脚の正当化がされる事はあっても、天皇という制度が否定される事は個々の天皇に対して激しい攻撃がなされた中世期にあってもなかった。それは、儒教的徳治論の核心をなしていた易姓革命思想は、皇位継承者の中でも徳の高い人物が就くべき、徳のある人物が政治を行うべきという論理に姿を変えて日本に定着する事になった。

院政はこの後江戸時代まで続くが、実体的な政権を構成したのは、白河院政から南北朝時代後円融院政までの約250年間とされている。後円融上皇の崩御後、わずかに残っていた朝廷の政治的権力も足利義満の手で、ほとんどすべて幕府に接収され、貴族たちも多くは室町殿と主従関係を結んで幕府に従属し、院政は支配する対象自体を失い朝廷も政府としての機能を失った。

鎌倉・室町時代

後醍醐天皇

中世の国家体制については、一般的には天皇・公家の後退と武家の伸張によって特徴付けられるが、公家武家が両々相俟って国家を維持したとする権門体制論も提出されているなど学説も多様である。荘園制の普及にもかかわらず律令体制下の公領(国衙領)がなお根強く残されていたことから、鎌倉幕府の成立前後までは上皇がかなりの権力を振るう余地はあった。

しかし承久の乱(承久3年(1221年))以降の天皇の権力的な側面の失墜は著しく、蒙古襲来に当たっての外交的処理や唐船派遣などの外国貿易など、いずれも鎌倉幕府の主導の下に行われており、武家一元化の動向を示していた。武家の進出のため公家の家門の分裂が起こることも多くなった。皇室もまず大覚寺統持明院統に分裂し、さらにおのおのが再分裂した(南北朝時代)。

此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀(にせ)綸旨
(中略)
天下一統メズラシヤ 御代ニ生テサマザマノ 事ヲミキクゾ不思議ナル
京童ノ口ズサミ 十分ノ一ヲモラスナリ

—『二条河原落書』

鎌倉幕府の崩壊後、一時大覚寺統傍流の後醍醐天皇による天皇親政(建武の新政)が試みられたが、二条河原の落書が風刺した世相の混乱もあり、足利尊氏の離反によって終止符を打たれた。しかしその後の内乱を通じて南北両朝が並立し、足利方の北朝南朝を吸収することで収拾された。なお、はるか後の明治時代になって、この時代の北朝と南朝のいずれが正統であるかという議論(南北朝正閏論)が起こっており、現在の皇室は北朝の系譜であるものの、神器を保有した南朝を正統とすることで決着している。

また、室町幕府3代将軍足利義満は、自分の子義嗣を皇位継承者とする皇位簒奪計画を持ったと言われるが、義満の死後、朝廷が義満に太上(だいじょう)天皇の尊号を贈ろうとした際には、室町幕府4代将軍義持が固辞しており、真相は定かではない。

戦国時代末期には京都での天皇や公家の窮乏は著しかったとされているが、有力戦国大名織田政権豊臣政権が天皇・公家を政治的・経済的に意識的に保護したことによってその後も制度として継続する。

江戸時代

徳川家康将軍宣下をした後陽成天皇

江戸時代においては、天皇は政治的実権を取得することなく、実際の石高は1万石(のち3万石)程度の経済基盤しか持たなかった。また禁中並公家諸法度により、その言動も幕府から厳しく制限された。

しかしながら公家は実権は失っていたものの茶道俳諧等の文化活動においてその嫡流たる天皇の権威高揚に努め、天皇は改元にあたって元号を決定する最終的権限を持っていたこと(元号勅定の原則)を始め、将軍や大名官位も、これまでと同様に全て天皇から任命されるものであった(これに対しても幕府が元号決定や人事への介入を行い、その権威の縮小・儀礼化を図っている)。

朝幕間の対立による緊張もたびたび発生し、紫衣事件では幕府の態度に憤慨した後水尾天皇が幕府に無断で譲位し、対立は頂点に達した。

江戸時代後期には光格天皇が父親の閑院宮典仁親王に太上天皇の追号を送ろうとしたが、天皇に即位しなかった者への贈位は前例がないとして反対した幕府の松平定信と衝突する尊号一件と呼ばれる事件が発生した。

しかし18世紀後半から、征夷大将軍の権力は天皇から委任されたものであるから、将軍に従わなければならないとする大政委任論が学界で提唱されるようになり、将軍の権威付けとともに天皇の権威性も見直されていくようになっていった。そうした運動が幕末尊皇攘夷運動へと繋がった。

明治維新

孝明天皇
大政奉還の様子(二条城)
奥に座っているのは徳川慶喜
明治元年(1868年)、東京奠都

幕藩体制が揺らぎ始めると、江戸幕府も反幕勢力もその権威を利用しようと画策し、結果的に天皇の権威が高められていく。ペリー来航に伴う対応について、幕府は独断では処理できず、朝廷に報告を行った。このことは前例にないことであった。この時の天皇は孝明天皇である。

このことによって天皇の権威は復活したが、幕府は当初、公武合体により、反幕勢力の批判を封じ込めようとした。しかしこの画策は失敗し、薩摩長州を主体とする反幕勢力による武力倒幕が行われようとした。幕府はその機先を制して大政奉還を行ったが、将軍は「辞官納地」(全ての官職と領地の返上)を強要され、それに不満の旧幕府軍は鳥羽・伏見官軍と衝突し、内戦となった。

その過程で北海道函館では、榎本武揚らによって一時共和制が宣言される(「蝦夷共和国」)。「蝦夷共和国」は選挙によって大統領(総裁)を選出したが、官軍に程なく平定された。

戊辰戦争を通じて倒幕に成功した大久保利通らは、天皇を中心とする新政権を当初、京都の太政官制度によって運営した。しかし征韓論政変によって参議から下野した板垣退助らが自由民権運動を開始し、それが次第に議会開設の国民運動として発展すると、政府は大日本帝国憲法を発布し、議会と内閣制度を発足させた。

これにより日本は、西ヨーロッパ諸国に倣った立憲君主制に移行したが、大日本帝国憲法と同時に制定された皇室典範は、内閣や国会も改廃できない「皇室の家法」とされ、天皇は国民統治の神権的機関として利用されるようになる。

なお天皇を国家元首あるいは象徴に戴く日本の政治体制および皇室というしくみ自体を指して、現在は一般にも学術的にも「天皇制」が広く用いられており、通常「王制」あるいは「君主制」などと同様の性質を持つ用語として扱われる。そのいっぽう、この言葉を最初に使いはじめたのがコミンテルンであるという説から、反共的な政治思想を持つ立場からは使用を忌避されることがある。戦前は国体と称された。

一方、海外から見た別の視点もある。権力が将軍制度に移ってから1868年までの間、世に知れずに続いてきた貧困な皇族は、薩長土肥が武装反乱を正当化するために、「日本の天皇は神」という8世紀の神話の再興によってその革命政権の表看板になった。そして、現人神としての天皇が強調され、新しい公立学校教育システムの核として思想教化されていった[97]

明治天皇

1898年明治31年)には、第一次大隈重信内閣の文部大臣尾崎行雄が、ある教育会の席上で藩閥勢力の拝金主義を攻撃した演説で「日本で共和制が実施されれば、三井三菱は大統領となるだろう」と述べたため問題となり、君主制の下にあって共和制を想定することは不敬にあたるとして辞任に追い込まれた(共和演説事件)。その背景には反大隈勢力の桂太郎派の画策があったと言われるが、後任の文相には犬養毅が任命された。

1901年(明治34年)4月29日裕仁親王(のちの昭和天皇)が誕生。

1911年(明治44年)には大逆事件が生じ、時の政権から社会主義者弾圧の口実に使用され、明治天皇を暗殺しようとしたとして幸徳秋水ら12人が死刑に処された。この事件は当時の多くの文化人にも衝撃的な影響を与えた。徳冨蘆花は、「謀反論」を書き、謀反を恐れてはならないとし、石川啄木は「時代閉塞の現状」への宣戦布告を行ったが、永井荷風はこれを機に社会的関心から意識的に遠ざかるようになった。

大正

大正天皇
儀装馬車1号

その後、2度にわたる護憲運動を経て、大正デモクラシーと言われるように言論界も活況を呈するようになる。大正デモクラシーの時期には、君主制自由主義的に解釈する吉野作造民本主義なども現れた。

しかし、1925年(大正14年)には普通選挙法と同時に治安維持法が公布され、国体の変革を包含する言論や運動が禁止された。

昭和

1933年昭和8年)12月23日、昭和天皇第五子で初の皇男子である明仁親王(のちの第125代天皇)が誕生。

1935年(昭和10年)、美濃部達吉はそれまで学会で主流だった天皇機関説を主張したことで貴族院で攻撃され、著書は発禁処分となり不敬罪で告訴され、貴族院議員の職を辞した。政府や軍の活動に対する世論の批判を抑える目的として天皇の存在が利用されることとなった。

世界恐慌の後、五・一五事件二・二六事件を踏まえ、軍部が擡頭し天皇の存在を利用する。明治憲法において軍の統帥権は、政府ではなく天皇にあると定められていることを理由に、関東軍は政府や軍の方針を無視し満洲事変等を引き起こした。また天皇の神聖不可侵を強調して、政府に圧力を加え軍部大臣現役武官制や統帥権干犯問題、国体明徴声明を通じて勢力を強めていく。

この頃には、津田左右吉らの日本古代史学者が、神話は歴史的事実とは異なるとしただけで職を追われるようになった。それが頂点に達したのは太平洋戦争大東亜戦争)時であり、1938年(昭和13年)の国家総動員法が発令された頃より、現人神と神格化され、天皇を中心とした戦時体制が作られた。

1943年11月カイロ会談の間、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトは天皇制度を廃止するべきかどうか中華民国国民政府主席蒋介石に意見を求めたことがある。蒋介石は戦争の元凶は日本の軍閥であり、国体の問題は戦争が終わってから日本人自体が決定すべきだと答えた。[98]:693

第二次世界大戦終結後

昭和天皇(右)とマッカーサーの会見で(1945年(昭和20年)9月27日)。この写真を掲載した各新聞は内務省より発禁処分を受けたが、GHQの命令で解除された。

第二次世界大戦の終戦後、連合国 (UN) の間では天皇を、枢軸国国家元首として処罰し、君主制を廃止すべきだという意見(天皇制廃止論)が強かった。事実、世界史上でもかつての帝政ドイツやオーストリア、ロシアなど敗戦や革命などを経て君主制が消滅する国々は存在した。しかし、日本政府がその維持を強く唱え、ダグラス・マッカーサー元帥連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) は、日本の占領行政を円滑に進めるため、また共産主義に対する防波堤としても君主制を存続させたが、国家元首としての地位は日本国憲法に明記させていない。

これと似たような例があり、戦勝国ベルギーの場合レオポルド3世は対独戦での敗戦の責任を追及されて「国王支持派」と「反国王派」に分裂したため、国家の分裂を避けて君主制を維持するためボードゥアン1世に王位を継承した。しかし敗戦国日本の皇室との最大の相違点は在命中に退位した事である。

昭和天皇

昭和天皇の戦争責任についても追及すべきとの意見が強くあったが、アメリカの外交方針により、占領当局は追及しないこととした。そして、その外交方針を受けて、アメリカは「天皇を捕虜として管理し、さらにその捕虜を通して内閣総理大臣及び最高裁判所長官の任命に関与し、日本の民主化を管理する計画書」を策定した。また、国内の民間には天皇をめぐる各種の意見が生じたが、津田左右吉なども「天皇自体の存在は否定しない」と言明した。天皇の廃位を唱える見解や「昭和天皇の退位と高松宮宣仁親王摂政として皇太子明仁親王の即位により改元する(元号を改正する)のが妥当」とする意見を昭和天皇の弟の三笠宮崇仁親王、要人では近衛文麿木戸幸一南原繁佐々木惣一中曽根康弘が唱えたが、一部にすぎなかった。

近衛文麿は、昭和天皇を京都仁和寺に出家させようと考えていたとされる[99]

昭和天皇自身は「退位の意向」を示したが、「かえって戦争責任を認めることになる」として周囲から強い反対があり、また昭和天皇擁護派である吉田茂ダグラス・マッカーサーの強い反対で撤回した。マッカーサーは駐日イギリス大使アルバリー・ガスコインとの会談にて「私は天皇の退位を認めるつもりはない。天皇には義務として現在の地位に留まってもらうよう求めるつもりだ」と述べた[100]

天皇退位論への反応は、天皇存続支持:90.3%、天皇留位支持:68.5%、皇太子への譲位:18.4%、退位で天皇廃止:4.0%であった[101]

この後、連合国総司令官のマッカーサー元帥と昭和天皇が並んで写っている写真(右)が新聞に掲載された。今まで現人神とされ、写真も「御真影」等と呼ばれていた天皇が、しかも腰に手を当てた姿の元帥の隣に直立不動の姿勢で、普通に新聞に写っていることは国民の衝撃を呼んだ。1946年(昭和21年)1月1日、新日本建設に関する詔書(いわゆる人間宣言)が官報により発布された。詔書の冒頭において五箇条の御誓文を掲げており[102][103]1977年(昭和52年)8月23日の昭和天皇の会見によると、日本の民主主義は日本に元々あった五箇条の御誓文に基づいていることを示すのが、この詔書の主な目的であった[102][104][105]。この詔書は人間宣言と呼ばれるが、「人間宣言」は詔書の6分の1程度であり、戦時中に絶対神化されたことを否定しただけであり天皇の神話そのものは否定していない[102]。この詔書は、日本国外では天皇が神から人間に歴史的な変容を遂げたとして歓迎され、退位と追訴を要求されていた昭和天皇の印象が改善された[102]1946年(昭和21年)1月1日、この詔書について新聞各紙の第一面で報道されたが、日本の平和や天皇は国民とともにあるといったことを報道するのみで、いわゆる人間宣言にはほとんど触れていなかった[102]

昭和天皇はその後、日本全国各地への巡幸を始める。この「巡幸」は各地で歓迎をもって迎えられたが、1947年(昭和22年)にはその歓迎の盛り上がりぶりに、天皇の政治権力復活を危惧したGHQによって巡幸の1年間中止が決定されるなどの動きもあった(国旗の掲揚はGHQにより禁じられていたが、多数の民衆が掲揚していたため)。(昭和天皇#行幸)。

日本国憲法下の天皇の法的地位

国籍

研究者による憲法論においては、天皇が日本国籍を有する前提で、天皇が「主権者としての国民」「人権享有主体としての国民」に該当するか否かが論じられており、憲法論の皇統譜についての箇に「日本国籍を有するものでも戸籍に記載されない唯一の例外に天皇および皇族がある」という記載がある[106]記帳所事件における1989年(平成元年)7月19日の東京高裁判決では「天皇といえども日本国籍を有する自然人の一人であって」と判断されている。

天皇に対する裁判権

刑事裁判権については、皇室典範第21条が「摂政は、その在任中、訴追されない」と規定することから、いわゆる勿論解釈として、天皇については当然に刑事裁判権が及ばないものと解されている。

民事裁判権については、1989年(平成元年)11月20日の記帳所事件における最高裁判決で

天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であることにかんがみ、天皇には民事裁判権が及ばないものと解するのが相当である。したがって、訴状において天皇を被告とする訴えについては、その訴状を却下すべきものである

としている。

天皇と世界各国

当時の天皇皇后と米国のブッシュ大統領夫妻(2002年)
1983年(昭和58年)、アメリカのロナルド・レーガン大統領と昭和天皇
2019年(令和元年)、各国首脳らと歓談する今上天皇
2019年(令和元年)、饗宴の儀でブルネイボルキア国王と会食する今上天皇

天皇の外国行幸は国事行為の臨時代行に関する法律が整備されておらず長年実現されていなかった。

1971年(昭和46年)、昭和天皇が天皇として初めて外遊し、イギリスやオランダスイスなどヨーロッパ諸国7カ国を巡幸した。1975年(昭和50年)には、当時の大統領ジェラルド・R・フォードの招待により、天皇として初めてアメリカ合衆国に公式に行幸した。

第125代天皇だった上皇明仁も1991年(平成3年)にタイ王国などに行幸したのを始め、年に1、2回のペースで海外行幸をしている。

第二次世界大戦後、占領統治の終わりとともに、日本国外の国家元首や賓客(王族など)が日本を訪れるようになった。1956年(昭和31年)にエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世1957年(昭和32年)にインドジャワハルラール・ネルー首相、1958年(昭和33年)にインドネシアスカルノ大統領、1960年(昭和35年)にアデナウアー西独首相、1968年(昭和38年)タイ王国ラーマ9世(プミポン国王)の来日があった。以後、他の国々からも賓客が次々に来日するようになった[107]

昭和天皇の大喪の礼の際には、世界の163か国の国家元首や首脳と17の国際機関の関係者が参列に訪れた。ベルギーブータンブルネイヨルダンレソトニジェールトンガ国王バングラデシュブラジルブルンジジブチエジプトフィジーフィンランドフランスガンビアドイツ連邦共和国ギリシャホンジュラスアイスランド・インド・インドネシアアイルランドイスラエルイタリアケニアモルディブミクロネシア連邦ナイジェリアパキスタンフィリピンポルトガルスペインスワジランドトーゴチュニジアトルコウガンダタンザニアアメリカ合衆国バヌアツザイールザンビア大統領・首相、国際連合事務総長が参列した[108]

天皇と組織

宮内庁

宮内庁[109](くないちょう、英語: Imperial Household Agency)は、日本の行政機関の一つである。皇室関係の国家事務、天皇国事行為にあたる外国大使公使の接受に関する事務、皇室の儀式に係る事務をつかさどり、御璽国璽を保管する内閣府の機関である。所在地は東京都千代田区千代田1番1(皇居内・坂下門の北側)。

なお、宮内庁はかつて総理府外局であったが、現在は内閣府の外局(内閣府設置法第49条・第64条)ではなく内閣府に置かれる独自の位置づけの機関とされている(内閣府設置法48条)[110][要文献特定詳細情報]。官報の掲載では内閣府については「外局」ではなく「外局等」として宮内庁を含めている。

明治2年(1869年)7月8日、古代の太政官制にならって、いわゆる「二官八省」からなる政府が組織されたが、この際、かつての大宝令に規定された宮内省(くないしょう/みやのうちのつかさ)の名称のみを受け継ぐ宮内省が設置された。1947年には宮内府となり、さらに1949年に宮内府は宮内庁となって総理府の外局となり、宮内庁長官の下に宮内庁次長が置かれ、1官房3職2部と京都事務所が設置された。2001年(平成13年)1月6日には、中央省庁改革の一環として内閣府設置法が施行され、宮内庁は内閣府に置かれる機関となった。

幹部

内部部局

皇宮警察本部

皇宮警察本部[111](こうぐうけいさつほんぶ、英:Imperial Guard Headquarters)は、警察庁に置かれている附属機関のひとつ[112]天皇及び皇后皇太子その他の皇族護衛皇居及び御所警衛、その他皇宮警察に関する事務をつかさどる[112]。本部所在地は東京都千代田区千代田1番3号。

本部長は、皇宮警視監階級皇宮護衛官であるが、慣例により内閣府事務官である宮内庁職員にも併任される。

本部の紋章は五三桐である。桐紋菊花紋章と並んで古来から皇室の象徴とされてきた。

皇居のうち、宮殿及び皇居東御苑等の区域を担当する坂下護衛署、御所宮中三殿等の区域を担当する吹上護衛署が設置されている[113][114]

役職

天皇についての学術的言説

天皇と課題

皇位継承権論争

国体論争

譲位問題(2016年・平成28年)

天皇の陵墓と葬儀

雄略天皇丹比高鷲原陵
大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)
昭和天皇の大喪の礼・葬場殿の儀
1989年(平成元年)2月24日
宇治山田陵墓参考地
全国各地に散在する皇族墓を、宮内庁書陵部が陵墓参考地として今も管理を続けている

(外部リンク)歴代天皇陵一覧、宮内庁
皇室典範(昭和22年1月16日法律第3号)第27条により、天皇・皇后皇太后太皇太后を葬る所を陵(みささぎ/りょう)、その他の皇太子親王などの皇族を葬る所を墓(はか/ぼ)と定められている。このほかにニニギノミコトなど三神の陵として神代三陵が宮内庁によって治定されている[118]
天皇陵は時代によって変遷しており、天皇がまだ「大王」(オオキミ)と呼ばれていた時代には巨大な前方後円墳が造営され、その後方墳円墳八角墳と変遷した。院政期白河天皇鳥羽天皇近衛天皇にいたって仏式の堂に納骨する方式が現れ、江戸時代の後水尾天皇以降は代々京都泉涌寺に石造塔形式の陵墓が建立された。幕末にいたって尊皇思想が高揚すると天皇陵にも復古調が取り入れられ、孝明天皇陵は大規模な墳丘を持つ形式で築造された。

日本皇室系図

第126代天皇の男系直系祖先

  • 代数は皇統譜による。
  • 北朝は歴代に算入していない。
1 神武天皇 2 綏靖天皇 3 安寧天皇 4 懿徳天皇 5 孝昭天皇 6 孝安天皇 7 孝靈天皇 8 孝元天皇 9 開化天皇 10 崇神天皇
11 垂仁天皇 12 景行天皇 日本武尊 14 仲哀天皇 15 応神天皇 稚野毛二派皇子 意富富杼王 乎非王 彦主人王 26 継体天皇
29 欽明天皇 30 敏達天皇 押坂彦人
大兄皇子
34 舒明天皇 38 天智天皇 志貴皇子 49 光仁天皇 50 桓武天皇 52 嵯峨天皇 54 仁明天皇
58 光孝天皇 59 宇多天皇 60 醍醐天皇 62 村上天皇 64 円融天皇 66 一条天皇 69 後朱雀天皇 71 後三条天皇 72 白河天皇 73 堀河天皇
74 鳥羽天皇 77 後白河天皇 80 高倉天皇 82 後鳥羽天皇 83 土御門天皇 88 後嵯峨天皇 89 後深草天皇 92 伏見天皇 93 後伏見天皇 北1 光厳天皇
北3 崇光天皇 栄仁親王 貞成親王 102 後花園天皇 103 後土御門天皇 104 後柏原天皇 105 後奈良天皇 106 正親町天皇 誠仁親王 107 後陽成天皇
108 後水尾天皇 112 霊元天皇 113 東山天皇 直仁親王(閑院宮) 典仁親王(慶光院) 119 光格天皇 120 仁孝天皇 121 孝明天皇 122 明治天皇 123 大正天皇
124 昭和天皇 125 明仁 126 徳仁

家系図形式

  • 各囲みの一段目は、いみな/生年-没年/性別 の形式で表記。
  • 各囲みの二段目と三段目の下部の数字は即位年と退位年である。
  • 年は西暦で記し、「前」は紀元前、「?」は不詳を表す。
  • (諡)」記号は名称が漢風諡号かんふうしごう(生前の行跡に基づいて死後に贈られた名)であることを意味する。
  • (第~代)」は天皇の代数[要出典]
  • 記紀による初代天皇(神武天皇)以前の系図については、皇室皇室の系図一覧を参照。
天照大御神/神話上の存在/♀
 
 
 
天忍穂耳/神話上の存在/♂
 
 
 
瓊瓊杵/神話上の存在/♂
 
 
 
彦火火出見/神話上の存在/♂
 
 
 
彦波瀲武盧茲草葺不合/神話上の存在/♂
 
 
 
彦火火出見/前711-前585/♂
神武天皇(諡)
前660-前585(第1代)
 
 
 
(諱不明)/前632-前549/♂
綏靖天皇(諡)
前581-前549(第2代)
 
 
 
(諱不明)/前577-前510/♂
安寧天皇(諡)
前549-前510(第3代)
 
 
 
(諱不明)/前553-前476/♂
懿徳天皇(諡)
前510-前476(第4代)
 
 
 
(諱不明)/前506-前393/♂
孝昭天皇(諡)
前475-前393(第5代)
 
 
 
(諱不明)/前427-前291/♂
孝安天皇(諡)
前392-前291(第6代)
 
 
 
(諱不明)/前342-前215/♂
孝靈天皇(諡)
前290-前215(第7代)
 
 
 
(諱不明)/前273-前158/♂
孝元天皇(諡)
前214-前158(第8代)
 
 
 
(諱不明)/前208-前98/♂
開化天皇(諡)
前157-前98(第9代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
御間城/前148-前29/♂
崇神天皇(諡)
前97-前29(第10代)
 
 
 
 
 
彦坐/?-?/♂
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
活目/前68-70/♂
垂仁天皇(諡)
前29-70(第11代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大足彦/前13-130/♂
景行天皇(諡)
71-130(第12代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日本武/82?-113?/♂
 
稚足彦/84-191/♂
成務天皇(諡)
131-191(第13代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
足仲彦/148?-200/♂
仲哀天皇(諡)
192-200(第14代)
 
 
 
 
 
気長足姫/170-269/♀
神功皇后(諡)
201-269(摂政)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
譽田/200-310/♂
應神天皇(諡)
270-310(第15代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大鷦鷯/257-399/♂
仁徳天皇(諡)
313-399(第16代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
稚野毛二派/?-?/♂
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
去来穂/336?-405/♂
履中天皇(諡)
400-405(第17代)
 
瑞歯/336?-410/♂
反正天皇(諡)
406-410(第18代)
 
雄朝津間稚子/376?-453/♂
允恭天皇(諡)
413-453(第19代)
 
忍坂大中姫/?-?/♀
 
意富富杼/?-?/♂
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
市辺押磐/?-?/♂
 
 
 
 
 
穴穂/401-456/♂
安康天皇(諡)
454-456(第20代)
 
大泊瀬幼武/418-479/♂
雄略天皇(諡)
456-479(第21代)
 
乎非/?-?/♂
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
億計/449-498/♂
仁賢天皇(諡)
488-498(第24代)
 
弘計/450-487/♂
顯宗天皇(諡)
484-487(第23代)
 
飯豊青/440-484/♀
484-484(臨朝秉政)
 
白髪/444-484/♂
清寧天皇(諡)
480-484(第22代)
 
彦主人/?-?/♂
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小泊瀬稚鷦鷯/489-507/♂
武烈天皇(諡)
498-507(第25代)
 
手白香/?-?/♀
 
 
 
 
 
 
 
 
 
男大迹/450-531/♂
繼體天皇(諡)
507-531(第26代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
志帰嶋/509-571/♂
欽明天皇(諡)
540-571(第29代)
 
勾/465-536/♂
安閑天皇(諡)
531-536(第27代)
 
高田/467-539/♂
宣化天皇(諡)
536-539(第28代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
他田/538-585/♂
敏達天皇(諡)
572-585(第30代)
 
額田部/554-628/♀
推古天皇(諡)
593-628(第33代)
 
池辺/540?-587/♂
用明天皇(諡)
585-587(第31代)
 
泊瀬部/553?-592/♂
崇峻天皇(諡)
587-592(第32代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
押坂彦人/?-?/♂
 
 
 
 
 
厩戸/574-622/♂
聖徳太子(諡)
593-622(摂政)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
茅渟/?-?/♂
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
軽/596-654/♂
孝徳天皇(諡)
645-654(第36代)
 
宝/594-661/♀
皇極天皇(諡)
642-645(第35代)
齊明天皇(諡)
654-661(第37代)
 
 
 
田村/593-641/♂
舒明天皇(諡)
629-641(第34代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
葛城/626-672/♂
天智天皇(諡)
661-672(第38代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大友/648-672/♂
弘文天皇(諡)
672(第39代)
 
 
 
 
鸕野讚良/645-701/♀
持統天皇(諡)
690-697(第41代)
 
 
 
大海人/631?-686/♂
天武天皇(諡)
672-686(第40代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
志貴/668?-716/♂
春日宮天皇(諡)
(追尊)
 
 
 
阿閇/661-721/♀
元明天皇(諡)
707-715(第43代)
 
草壁/662-689/♂
岡宮天皇(諡)
(追尊)
 
 
舎人/676-735/♂
崇道尽敬天皇(諡)
(追尊)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
氷高/680-748/♀
元正天皇(諡)
715-724(第44代)
 
珂瑠/683-707/♂
文武天皇(諡)
697-707(第42代)
 
 
大炊/733-765/♂
淳仁天皇(諡)
758-764(第47代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
首/701-756/♂
聖武天皇(諡)
724-749(第45代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高野新笠/?-790/♀
 
白壁/709-782/♂
光仁天皇(諡)
770-781(第49代)
 
井上/717-775/♀
 
阿倍/718-770/♀
孝謙天皇(諡)
749-758(第46代)
称徳天皇(諡)
764-770(第48代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
山部/737-806/♂
桓武天皇(諡)
(別名: 柏原帝)
781-806(第50代)
 
早良/750?-785/♂
崇道天皇(諡)
(追尊)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
安殿/774-824/♂
平城天皇(諡)
(別名: 奈良帝)
806-809(第51代)
 
神野/786-842/♂
嵯峨天皇(諡)
809-823(第52代)
 
大伴/786-840/♂
淳和天皇(諡)
(別名: 西院帝)
823-833(第53代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
正良/810-850/♂
仁明天皇(諡)
(別名: 深草帝)
833-850(第54代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
道康/827-858/♂
文徳天皇(諡)
(別名: 田邑帝)
850-858(第55代)
 
時康/830-887/♂
光孝天皇(諡)
(別名: 小松帝)
884-887(第58代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
惟仁/850-880/♂
清和天皇(諡)
(別名: 水尾帝)
858-876(第56代)
 
定省/867-931/♂
宇多天皇(諡)
887-897(第59代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
貞明/869-949/♂
陽成天皇(諡)
876-884(第57代)
 
敦仁/885-930/♂
醍醐天皇(諡)
897-930(第60代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寛明/923-952/♂
朱雀天皇(諡)
930-946(第61代)
 
成明/926-967/♂
村上天皇(諡)
946-967(第62代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
憲平/950-1011/♂
冷泉天皇(諡)
967-969(第63代)
 
 
 
 
 
守平/959-991/♂
圓融天皇(諡)
969-984(第64代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
師貞/968-1008/♂
花山天皇(諡)
984-986(第65代)
 
居貞/976-1017/♂
三條天皇(諡)
1011-1016(第67代)
 
 
 
懐仁/980-1011/♂
一條天皇(諡)
986-1011(第66代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
禎子/1013-1094/♀
 
敦良/1009-1045/♂
後朱雀天皇(諡)
1036-1045(第69代)
 
敦成/1008-1036/♂
後一條天皇(諡)
1016-1036(第68代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尊仁/1034-1073/♂
後三條天皇(諡)
1068-1073(第71代)
 
親仁/1025-1068/♂
後冷泉天皇(諡)
1045-1068(第70代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
貞仁/1053-1129/♂
白河天皇(諡)
1073-1087(第72代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
善仁/1079-1107/♂
堀河天皇(諡)
1087-1107(第73代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宗仁/1103-1156/♂
鳥羽天皇(諡)
1107-1123(第74代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
顕仁/1119-1164/♂
崇徳天皇(諡)
1123-1142(第75代)
 
雅仁/1127-1192/♂
後白河天皇(諡)
1155-1158(第77代)
 
体仁/1139-1155/♂
近衞天皇(諡)
1142-1155(第76代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
守仁/1143-1165/♂
二條天皇(諡)
1158-1165(第78代)
 
 
 
憲仁/1161-1181/♂
高倉天皇(諡)
1168-1180(第80代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
順仁/1164-1176/♂
六條天皇(諡)
1165-1168(第79代)
 
言仁/1178-1185/♂
安徳天皇(諡)
1180-1185(第81代)
 
守貞/1179-1223/♂
後高倉天皇(諡)
(追尊)
 
尊成/1180-1239/♂
後鳥羽天皇(諡)
1185-1198(第82代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
茂仁/1212-1234/♂
後堀河天皇(諡)
1221-1232(第86代)
 
為仁/1196-1231/♂
土御門天皇(諡)
1198-1210(第83代)
 
守成/1197-1242/♂
順徳天皇(諡)
1210-1221(第84代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
秀仁/1231-1242/♂
四條天皇(諡)
1232-1242(第87代)
 
邦仁/1220-1272/♂
後嵯峨天皇(諡)
1242-1246(第88代)
 
懐成/1218-1234/♂
仲恭天皇(諡)
1221(第85代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宗尊/1242-1274/♂
1252-1266(鎌倉将軍6)
 
 
 
 
久仁/1243-1304/♂
後深草天皇(諡)
1246-1260(第89代)
 
 
 
 
 
 
恒仁/1249-1305/♂
龜山天皇(諡)
1260-1274(第90代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
惟康/1264-1326/♂
1266-1289(鎌倉将軍7)
 
熈仁/1265-1317/♂
伏見天皇(諡)
1287-1298(第92代)
 
 
 
久明/1279-1308/♂
1289-1308(鎌倉将軍8)
 
 
 
世仁/1267-1324/♂
後宇多天皇(諡)
1274-1287(第91代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
胤仁/1288-1336/♂
後伏見天皇(諡)
1298-1301(第93代)
 
富仁/1297-1348/♂
花園天皇(諡)
1308-1318(第95代)
 
守邦/1301-1333/♂
1308-1333(鎌倉将軍9)
 
邦治/1285-1308/♂
後二條天皇(諡)
1301-1308(第94代)
 
尊治/1288-1339/♂
後醍醐天皇(諡)
1318-1339(第96代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
量仁/1313-1348/♂
光厳天皇(諡)
1332-1334(北朝1)
 
豊仁/1322-1380/♂
光明天皇(諡)
1336-1348(北朝2)
 
 
 
義良/1328-1368/♂
後村上天皇(諡)
1339-1368(第97代)
 
護良/1308-1335/♂
1333-1334(征夷大将軍)
 
成良/1326-1338(または1344)/♂
1334-1338(征夷大将軍)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
興仁/1334-1398/♂
崇光天皇(諡)
1348-1351(北朝3)
 
弥仁/1336-1374/♂
後光嚴天皇(諡)
1352-1371(北朝4)
 
寛成/1343-1394/♂
長慶天皇(諡)
1368-1383(第98代)
 
熙成/1350?-1424/♂
後龜山天皇(諡)
1383-1392(第99代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
栄仁/1351-1416/♂
 
緒仁/1339-1393/♂
後圓融天皇(諡)
1371-1382(北朝5)
 
参照:
南朝北朝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
貞成/1372-1456/♂
後崇光天皇(諡)
(追尊)
 
幹仁/1377-1433/♂
後小松天皇(諡)
1382-1392(北朝6)
後小松天皇(諡)
1392-1412(第100代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
彦仁/1419-1471/♂
後花園天皇(諡)
1428-1464(第102代)
 
躬仁/1401-1428/♂
称光天皇(諡)
1412-1428(第101代)
 
 
 
 
 
 
 
成仁/1442-1500/♂
後土御門天皇(諡)
1464-1500(第103代)
 
 
 
 
 
 
 
勝仁/1464-1526/♂
後柏原天皇(諡)
1500-1526(第104代)
 
 
 
 
 
 
 
知仁/1497-1557/♂
後奈良天皇(諡)
1526-1557(第105代)
 
 
 
 
 
 
 
方仁/1517-1593/♂
正親町天皇(諡)
1557-1586(第106代)
 
 
 
 
 
 
 
誠仁/1552-1586/♂
陽光天皇(諡)
(追尊)
 
 
 
 
 
 
 
和仁/1572-1617/♂
後陽成天皇(諡)
1586-1611(第107代)
 
 
 
 
 
 
 
政仁/1596-1680/♂
後水尾天皇(諡)
1611-1629(第108代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
興子/1624-1696/♀
明正天皇(諡)
1629-1643(第109代)
 
紹仁/1633-1654/♂
後光明天皇(諡)
1643-1654(第110代)
 
良仁/1638-1685/♂
後西天皇(諡)
1655-1663(第111代)
 
識仁/1654-1732/♂
靈元天皇(諡)
1663-1687(第112代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
朝仁/1675-1710/♂
東山天皇(諡)
1687-1709(第113代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
直仁/1704-1753/♂
 
慶仁/1702-1737/♂
中御門天皇(諡)
1709-1735(第114代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昭仁/1720-1750/♂
櫻町天皇(諡)
1735-1747(第115代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
典仁/1733-1794/♂
慶光天皇(諡)
(追尊)
 
遐仁/1741-1762/♂
桃園天皇(諡)
1747-1762(第116代)
 
智子/1740-1813/♀
後櫻町天皇(諡)
1762-1771(第117代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
英仁/1758-1779/♂
後桃園天皇(諡)
1771-1779(第118代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
勧修寺婧子/1780-1843/♀
 
師仁/1771-1840/♂
光格天皇(諡)
1780-1817(第119代)
 
欣子/1779-1846/♀
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
恵仁/1800-1846/♂
仁孝天皇(諡)
1817-1846(第120代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
統仁/1831-1867/♂
孝明天皇(諡)
1846-1867(第121代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
睦仁/1852-1912/♂
明治天皇(諡)
1867-1912(第122代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
嘉仁/1879-1926/♂
大正天皇(諡)
1912-1926(第123代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
裕仁/1901-1989/♂
1921-1926(摂政)
昭和天皇(諡)
1926-1989(第124代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
明仁/1933-/♂
(上皇)
1989-2019 (第125代)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
徳仁/1960-/♂
(今上天皇)
2019-(第126代)

脚注

注釈

  1. ^ 実在に強い疑いのある人名が多い」等の問題があり、確定不能[2]。「学問とは無関係の公的決定」では、神武天皇とされる[2]
  2. ^ 学界では諸説ある中で、「7世紀末から8世紀初頭」と推認されている[3]。公的決定では、神武天皇の即位年(紀元前660年)とされる[2]
  3. ^ 総攬そうらんとは「統合して一手に掌握すること」、「(政治・人心などを)掌握して治めること」の意[10]
  4. ^ 『大日本古文書 幕末外國関係文書 1 嘉永六年癸丑六月~七月』(東京大学史料編纂所編 東京大学出版会 1972)p238 - 251[33]
  5. ^ 実際には607年成立ではなく少し後の白鳳時代645年から710年)の作と考えられている。
  6. ^ 天寿国繍帳は破損がひどく抜粋部分の「皇前日啓」などがかろうじて現存。全文は法王帝説に転記されている。7世紀より細かい成立年代に論争がある。問題の部分は後世に補修した部分であることがわかっているので、原形通りに復元されたのか文字の変更がなされていないのか確定できない。
  7. ^ 京都市立芸術大学の礪波恵昭氏は技法・様式から白鳳期の末期、7世紀末から8世紀初頭を遡り得ないという。また666年は中大兄皇子称制期間のため天皇は空位であり、銘文の内容が事実に当てはまらない。そのため銘文の解釈に諸説ある。
  8. ^ 始皇帝以来使用された「皇帝」に対して日本を含めた周辺諸国には皇帝から「」の称号が与えられた。しかし日本はみずから「天皇」の称号を用いるようになる[43]

出典

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  • 松村, 明「ナチズム」『デジタル大辞泉』小学館・コトバンク、2019年https://kotobank.jp/word/%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%BA%E3%83%A0-108178#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 
  • 松村, 明「天皇」『大辞林』(第三版)小学館・コトバンク、2014bhttps://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E7%9A%87-102672#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88 
  • 永原, 慶二(監修)、石上, 英一ほか(編集)『岩波 日本史辞典』岩波書店、1999年。ISBN 4-00-080093-0 
  • 田中, 浩「君主制」『日本大百科全書(ニッポニカ)』Kotobank、2017年https://kotobank.jp/word/%E5%90%9B%E4%B8%BB%E5%88%B6-58367#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 
  • 田中, 浩「ナチズム」『日本大百科全書(ニッポニカ)』Kotobank、2019年https://kotobank.jp/word/%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%BA%E3%83%A0-108178#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 
  • 西田, 毅「国家社会主義」『日本大百科全書(ニッポニカ)』Kotobank、2019年https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9-65210#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 
  • 井上光貞『日本の歴史〈1〉神話から歴史へ』中央公論新社中公文庫〉、2005年。ISBN 4122045479 
  • 笹川, 紀勝「自民党「憲法改正草案」の分析:主に天皇制に即して」『法律論叢』第87巻第6号、明治大学法律研究所、2015年、51-97頁。 
  • 笠原英彦『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか』中央公論新社〈中公新書〉、2001年。ISBN 4121016173 
  • 甘露寺受長『天皇さま』日輪閣、1965年。 再刊 講談社1975年
  • シロニー, ベン=アミー『母なる天皇-女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎 訳、講談社、2003年。ISBN 4062116758 
  • 中沢新一『精霊の王』講談社、2003年。 
  • 「日本人の歴史教科書」編集委員会 編 編『日本人の歴史教科書』自由社、2009年。ISBN 4915237508 
  • 前川, 理子「加藤玄智の神道論:宗教学の理想と天皇教のあいだで(1)」『人文学研究所報』第46巻、神奈川大学人文学研究所、2011年、85-100頁。 
  • 前川, 理子「加藤玄智の神道論:宗教学の理想と天皇教のあいだで(2)」『人文学研究所報』第47巻、神奈川大学人文学研究所、2012年、85-97頁。 
  • 村上, 重良天皇」『日本大百科全書』小学館・朝日新聞社・VOYAGE GROUP、2018年https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E7%9A%87-102672#%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E4%B8%8A%E3%81%AE%E5%A4%A9%E7%9A%87 
  • 吉田孝『日本の誕生』岩波書店岩波新書〉、1997年。ISBN 4004305101 
  • 吉村武彦の五王の時代」『古代史の基礎知識』角川書店〈角川選書〉、2005年。ISBN 4047033731 
  • 渡辺浩『東アジアの王権と思想』東京大学出版会、1997年。ISBN 978-4-13-030113-8 
  • 竹林, 滋『新英和大辞典』(第六版)研究社、2002年。ISBN 978-4767410265 
  • 渡邉, 敏郎、Skrzypczak, Edmund、Snowden, Paul『新和英大辞典』(第五版)研究社、2003年。ISBN 978-4-7674-2026-4 
  • EDP「emperor」『英辞郎』英辞郎 on the WEB、2019年https://eow.alc.co.jp/search?q=emperor 
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  • Ben-Ami Shillony (2014). “The Postwar Emperor in Democratized Japan”. Japan's Multilayered Democracy. Lexington Books. ISBN 9781498502221 
  • Sun, Peter Liang Tek (2008). A Life Under Three Flags (PhD Thesis). University of Western Sydney 
  • 第87回国会 参議院内閣委員会会議録第14号」(PDF)1979年(昭和54年)6月5日。 
  • 関連項目

    外部リンク

    天皇
    第126代
    徳仁

    1960年2月23日 - 存命中

    日本の皇室
    先代
    明仁
    皇位
    2019年令和元年)5月1日 – 現在
    次代
    (秋篠宮文仁親王)
    (推定相続人)
    皇嗣皇位継承順位第1位)