天寿国繍帳

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本来の表記は「天寿国繡(糸偏に肅)帳」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。

天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)は、奈良県斑鳩町中宮寺が所蔵する、飛鳥時代7世紀)の染織工芸品。天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)とも呼ばれる。銘文によれば、聖徳太子の死去を悼んでその妃が作らせたという。飛鳥時代の染織工芸、絵画、服装、仏教信仰などを知るうえで貴重な遺品であり、国宝に指定されている。

画像[編集]

天寿国繍帳
二残片

概要[編集]

「天寿国」とは、阿弥陀如来の住する西方極楽浄土を指すものと考証されている。「天寿国繍帳」とは、「聖徳太子が往生した天寿国のありさまを刺繍で表した帳(とばり)」の意である。古記録に基づく考証によれば、制作当初は縦2メートル、横4メートルほどの帳2枚を横につなげたものであったと推定されるが、現存するのは全体のごく一部にすぎず、さまざまな断片をつなぎ合わせて額装仕立てとしたものである。

現存の天寿国繍帳の大きさは縦88.8センチメートル、横82.7センチメートル。このほかに断片2点が別途保存されている。

明治30年(1897年12月28日古社寺保存法に基づき「天寿国曼荼羅図刺繍掛幅」の名称で当時の国宝(旧国宝)に指定された。断片2点については大正10年(1921年4月30日、別途旧国宝に指定された。その後、昭和27年(1952年3月29日、「天寿国繍帳残闕 一帳 附同残片二」(てんじゅこくしゅうちょうざんけつ 1ちょう つけたり どうざんぺん2)という名称で、文化財保護法に基づく国宝に指定された。

製作の事情[編集]

繍帳自体に、製作の事情を記した銘文が刺繍で表されていた。現存する天寿国繍帳には、4か所に亀が描かれ、それぞれの亀の甲羅には4字ずつの漢字が刺繍で表されているが、これらの文字は繍帳に表されていた銘文の一部である。たとえば、現存の繍帳の左上にある亀形には「部間人公」の4字が見えるが、これは「孔部間人公主」という人名の一部である。額装の繍帳とは別に保管されている残片2点のうちの1点も亀形であり、これを含めても現存する亀形は5個、文字数は20字にすぎないが、制作当初の繍帳には全部で100個の亀形が表され、その甲羅に計400文字が刺繍されていたと推定される。この銘文の全文は『上宮聖徳法王帝説』に引用されている。『法王帝説』所収の銘文には、一部に誤脱があるが、飯田瑞穂の考証によって400字の文章に復元されている[1]。飯田の復元案によると、銘文の前半は聖徳太子の一族の系譜を述べ、後半は天寿国繍帳制作の由来を説明している。その後半部分の大意は次のとおりである。

辛巳の年(推古天皇29年・西暦621年)12月21日、聖徳太子の母・穴穂部間人皇女(間人皇后)が亡くなり、翌年2月22日には太子自身も亡くなってしまった。これを悲しみ嘆いた太子の妃・橘大郎女は、推古天皇(祖母にあたる)にこう申し上げた。「太子と母の穴穂部間人皇后とは、申し合わせたかのように相次いで逝ってしまった。太子は天寿国に往生したのだが、その国の様子は目に見えない。せめて、図像(かた)によって太子の往生の様子を見たい」と。これを聞いた推古天皇はもっともなことと感じ、采女らに命じて繍帷二帳(ぬいもののかたびらふたはり)を作らせた。画者(ゑがけるもの、図柄を描いた者)は東漢末賢(やまとのあやのまけん)、高麗加西溢(こまのかせい)、漢奴加己利(あやのぬかこり)であり、令者(つかさどれるもの、制作を指揮した者)は椋部秦久麻(くらべのはたくま)である。

銘文にある「天寿国」とは何を指すかについては古来さまざまな説があった[2]が、2009年現在では、阿弥陀仏の住する西方極楽浄土だという説が有力である[3][4]

伝来[編集]

信如と天寿国繍帳[編集]

この繍帳はいつの頃からか所在不明になっていたが、古記録によれば、鎌倉時代の文永11年(1274年)、中宮寺の中興の祖とも称される尼僧・信如により、法隆寺の蔵から再発見された。信如は、日本仏教における戒律の復興者として知られる貞慶の弟子・璋円の娘とされ、中世に荒廃していた中宮寺の再興に尽力した。信如による天寿国繍帳再発見については、建治元年(1275年)定円が著した『太子曼荼羅講式』、室町時代の『聖誉鈔』(しょうよしょう)などに次のように記されている。信如は、中宮寺の復興を志していたが、寺の開基である間人皇后の命日がわからず、それを何とかして知りたいと思っていた。そうしたところ、文永10年(1273年)のある日、信如は夢告により、間人皇后の命日は、法隆寺の蔵にある曼荼羅に書かれていることを知った。法隆寺の蔵の中を捜す機会はすぐには訪れなかったが、翌文永11年(1274年)、法隆寺綱封蔵(ごうふうぞう)に盗人が入り、蔵の中を改めた際に、件の曼荼羅を発見。そこに刺繍された銘文を解読した結果、信如は間人皇后の命日は12月21日であると知ることができた。そして、この太子ゆかりの曼荼羅と同じ図柄の模本を新たに作らせ、建治元年(1275年)に開眼供養を実施。原本、模本ともに中宮寺の寺宝となったという。

上述の天寿国繍帳再発見に関して、「寺の開基である間人皇后の命日がわからない」というのは不自然だという指摘は、すでに江戸時代の学者である穂井田忠友が述べている。この点について、美術史家の大橋一章は、「間人皇后の命日については複数の説があったので、信如は直接原典に当たって正確な命日を知ろうとしたのではないか」「天寿国繍帳を再興中宮寺の目玉にしようとしたのではないか」と述べている。[5]

文保本『聖徳太子伝記』によれば、文保2年(1318年)頃には、建治元年作の新曼荼羅は中宮寺金堂の柱間三間にわたって幕のように張り渡されていたという。中宮寺旧境内の発掘調査の結果から、金堂の柱間は約2.6メートルであり、「柱間三間」は約7.8メートルとなる。大橋一章は、この柱間寸法から考えて、横幅約4メートルの繍帳2帳を横方向につなげていたのではないかと想定し、当時は新繍帳が堂内に飾られ、太子ゆかりの旧繍帳は蔵に保管されていたのではないかと推定している。

近世以降[編集]

これら新旧2つの繍帳ともに、数百年後の近世には破損が進み、断片化していた。『法隆寺記補忘集』(ほうりゅうじき ぶもうしゅう)によると、享保16年(1731年)の時点で、新旧繍帳ともにもはや原形をとどめておらず、50 - 60片の断片が保存されているのみであった。天保12年(1841年)の『観古雑帖』によれば、安永年間(1772 - 1781年)に残った断片群を寄せ集めて掛軸装としたという。この掛軸装の状態で近代に至った。明治30年(1897年)、古社寺保存法に基づき、繍帳が当時の国宝に指定された際の指定名称は「天寿国曼荼羅図刺繍掛幅」であった。この掛軸は大正8年(1919年)、額装に改められた。ガラス張りの厨子に納められた繍帳は、長らく中宮寺本堂内に安置されていたが、保存の万全を期すため、昭和57年(1982年)から奈良国立博物館に寄託され、寺にはレプリカが置かれている。

なお、国宝の附(つけたり)指定となっている断片2点のうち、1点は亀形、もう1点は座る人物3人を横並びに表したもので、いずれも鎌倉新繍帳の断片であり、大正8年(1919年)、正倉院から発見されて、中宮寺に下賜されたものである。これが正倉院に保管されていた理由は次のように推定されている。明治11年(1878年)、法隆寺から当時の皇室に献納された、いわゆる法隆寺献納宝物は、一時正倉院に保管されていたが、これを東京へ移送する際、手違いがあって、正倉院の唐櫃1合を東京に運んでしまい、逆に法隆寺の唐櫃1合は正倉院に残されたままとなった。天寿国繍帳の断片は、その唐櫃に含まれていたのではないかという。[6]

技法[編集]

現状の額装繍帳は、上下3段、左右2列、計6枚の絹布を貼り合わせたもので、各絹布には飛鳥時代の原繍帳と鎌倉時代の新繍帳の断片が脈絡なく貼り付けられている。ここでは説明の都合上、刺繍断片のある位置を「上段右」「下段左」のように表すこととする。

刺繍が行われている台裂(だいぎれ)には、、平絹(へいけん)の3種がある。このことを最初に指摘したのは明治・大正期の美術史家・中川忠順(ただより)であり、昭和期に入って、染織史家の太田英蔵が下地裂と制作年代の関係、用いられている刺繍技法の種類などについて詳細な研究を発表している。太田によれば、台裂に羅が用いられている部分では刺繍技法はもっぱら返し繍が用いられている。一方、台裂に綾または平絹を用いている部分には、平繍、繧繝刺(うんげんざし)、朱子刺、駒繍、文駒刺(あやこまさし)、束ね繍、長返し繍、纏い繍、表平繍いの9つの技法が用いられている。前者、すなわち台裂が羅の部分は飛鳥時代の原繍帳の断片であり、後者、すなわち台裂に綾または平絹を用いている部分は鎌倉時代の新繍帳の断片である。

  • 羅 - 絹糸を用いた捩り織(もじりおり)の一種。平織や綾織の場合は経糸(たていと)がまっすぐに続くのに対し、羅の場合は4本(または3本)一組の経糸を左右の経糸とからませながら織っていくもので、織り上がると籠状の網目ができ、向こうが透けて見えるような薄い布地になる。
  • 綾 - 織物の3原組織の一つで、経糸(たていと)、緯糸(ぬきいと)とも3本以上を一組として織り、経糸・緯糸の交点が斜めに現れる。
  • 平絹 - 経糸と緯糸とが単純に1本ずつ組み合う平織の絹地をいう。
  • 返し繍 - 一針繍い進めると、少し後退した位置から針を布の表面に出し、また一針繍い進めでは後退する、という作業を繰り返す繍い方。

現状の繍帳を見ると、たとえば中段右や中段左の区画の人物群像の一部、上段左の亀形や月(中に兎がみえる)などは形の崩れがなく、刺繍糸の色も鮮やかに残っている。これに対して、たとえば下段左の建物とその内部の人物を表した部分などは色糸がほつれ、褪色し、図柄が定かでない。太田英蔵らの調査によれば、前者の色彩鮮やかな部分が飛鳥時代の原繍帳の断片であり、後者、すなわち糸がほつれ褪色している部分が鎌倉時代の新繍帳の断片である。飛鳥時代の断片はすべて紫色の羅地に刺繍されており、糸は撚りが強く、中心部まで深く染められ、返し繍という単純な技法で固く繍い付けられている。一方、鎌倉時代の断片は、さまざまな刺繍技法を駆使しているが、その分、糸が台裂から浮き上がる部分が多く、染料が糸の中心部までしみ込んでいないものが多い[7]。原繍帳の方が保存がよく、新繍帳の方に褪色やほつれが目立つのはこうした事情による。現存の繍帳には、文字の入った亀形が4つ残されている(別に保管される断片を含めれば5つ)。このうち「部間人公」の4文字の入った亀形のみは色が鮮やかで、字画も細部まで鮮明であるのに対し、他の3つの亀形は形が崩れ、色もあせている。これも、前者が飛鳥時代、後者が鎌倉時代の制作である。

制作年代[編集]

飛鳥時代制作の断片を見ると、人物の服装、蓮弁、銘文の漢字など、全てのモチーフは輪郭線を刺繍で表し、その内側を別色の糸で密に繍い詰めている。撚りの強い糸を使い、単一の技法(この場合は返し繍)で密に繍い詰めるのは飛鳥時代刺繍の特色で、法隆寺献納宝物等の繍仏や、藤ノ木古墳出土の刺繍にも同様の技法がみられる。これに対し、正倉院宝物などにみられる奈良時代の刺繍は、撚りのない平糸を用い、刺繍も多種の技法を使い分けるのが特色である。[8]

人物の服装をみると、男女とも盤領(あげくび)と呼ばれる丸い襟に筒袖の上着を着け、下半身には男子は袴、女子は裳を着けている。服装的には男女とも褶(ひらみ、袴や裳の上に着けた、短い襞状のもの)を着けるのが特色で、これは高松塚古墳壁画の男女像よりも古い服制であることが指摘されている。繍帳にみられるパルメット文と同様の文様は法隆寺金堂釈迦三尊像光背にもみられ[9]、技法、意匠の両面から、原繍帳は飛鳥時代・7世紀の作であることが首肯される。

図柄と復元案[編集]

鎌倉時代の『聖徳太子伝記』や、新繍帳の開眼供養を行った僧定円の『太子曼荼羅講式』に、繍帳が完全に残っていた当時の図柄が説明されている。それによると、繍帳の中心には「四重の宮殿」があり、上方には日と月、左右には鐘と磬(けい)があったという。このうちの「月」は現存繍帳の上段左の区画に残っており、鐘と磬のうちの鐘は、下段右にある鐘撞き堂がそれにあたると推定される。

その他にも、元の図様を復元する手がかりになる断片がいくつか残されている。下段左の区画には建物の上下にそれぞれ連珠文を表した水平の帯状区画がある。この部分は繍帳全体を囲む外枠部分を構成していたものと推定される。その上、中段左の区画の下部には4本の水平線と三角形からなる楽譜のような図柄が見えるが、これは天寿国(西方極楽浄土)の宝池を表すものと思われる。その右方と右上方には大きな蓮弁の一部が見えるが、これはその大きさからみて、天寿国の主尊である阿弥陀仏の台座の一部であったものと推定されている。

繍帳の当初のデザインを復元する上で、鍵になるのは上段左の区画である。ここには、パルメット文、鳳凰、亀形、飛雲などが刺繍されているが、これらが刺繍されている台裂は切れ目なく一続きになっており、飛鳥時代の紫色羅である。つまり、前述のパルメット文、鳳凰、亀形、飛雲などは、制作当初の原繍帳においても現状と同じ配置になっていたことが確実である。大橋一章は、以上のような手がかりを踏まえ、NHKの協力を得て、コンピュータ・グラフィックスによる再現繍帳を2001年に制作している。その再現案によると、繍帳は縦約2メートル、横約4メートルのもの2帳で、うち1帳には天寿国に生まれ変わった聖徳太子像、他の1帳には阿弥陀如来像をそれぞれ中央に表し、周囲は羅地の上に蓮華化生(れんげけしょう、往生者が天寿国に生まれ変わる様を表したもの)、人物、鳳凰、飛雲、亀形などを配したものである。

脚注[編集]

  1. ^ 飯田 1965
  2. ^ 飯田 1965
  3. ^ 大橋、谷口 2002
  4. ^ 谷口(大橋、谷口 2002)及び 松浦(東京国立博物館 2006) は三井記念美術館蔵の『華厳経』巻第四十六の開皇3年(583年)の奥書の中の「西方天寿国」を根拠の一つとしている。これを最初に指摘したのは常盤大定である。しかし、この文字は、「无(無の略体)寿國」と読むべきではないかという異論も昭和13年から提起されており、またこの写経自体が20世紀初期の偽作であるという見解もあるので、根拠とはし難い(三井文庫 2004 p67 参照)。
  5. ^ 大橋、谷口、pp47 - 50
  6. ^ 『週刊朝日百科』「日本の国宝4」p4-110、解説執筆は松本包夫
  7. ^ 東京国立博物館、澤田、p10, 17
  8. ^ 東京国立博物館、澤田、p18
  9. ^ 東京国立博物館、松浦、p14

参考文献[編集]

  • 大橋一章、谷口雅一『隠された聖徳太子の世界 復元・幻の天寿国』、日本放送出版協会、2002
  • 大橋一章『斑鳩の寺』(日本の古寺美術15)、保育社、1989
  • 東京国立博物館編集・発行『国宝天寿国繍帳』、2006(解説執筆は松浦正昭、澤田むつ代)
  • 『週刊朝日百科』「日本の国宝4 法起寺 中宮寺 当麻寺 当麻寺奥院」、朝日新聞社、1997
  • 小山満『仏教図像の研究 : 図像と経典の関係を中心に』、早稲田大学リポジトリ、http://hdl.handle.net/2065/28800
  • 飯田瑞穂, 天寿国繍帳銘をめぐって, 古美術 11号, 1965年 11月,pp 39-49, 三彩社, 東京
  • 三井文庫, 三井文庫別館蔵品目録 敦煌写経ー北三井家ー, 2004年1月, 三井文庫, 東京

関連項目[編集]