吉田拓郎
| 吉田拓郎 | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 出生名 | 吉田拓郎 |
| 別名 | よしだたくろう 入江剣 |
| 出生 | 1946年4月5日(65歳) |
| 血液型 | A型 |
| 学歴 | 広島商科大学(現:広島修道大学)卒業 |
| 出身地 | |
| ジャンル | フォークソング |
| 職業 | シンガーソングライター |
| 担当楽器 | 歌 ギター ハーモニカ ベース |
| 活動期間 | 1970年 - |
| レーベル | エレックレコード (1970年 - 1971年) CBSソニー (1972年 - 1975年) フォーライフレコード (1975年 - 1999年) インペリアルレコード (2000年 - 2009年) エイベックス (2009年 - ) |
| 事務所 | 竹田企画 |
| 共同作業者 | 新六文銭 愛奴 かまやつひろし 加藤和彦 LOVE LOVE ALL STARS 瀬尾一三 |
| 影響 | ボブ・ディラン |
| 公式サイト | 吉田拓郎 avex official website |
| 著名使用楽器 | |
| ギブソンJ-45 | |
吉田 拓郎(よしだ たくろう、1946年4月5日 - )は、日本の男性シンガーソングライター。
本名同じ。旧芸名は平仮名の「よしだたくろう」。楽曲提供者としては「入江剣[1]」の名を用いることもある。
目次 |
[編集] 人物
鹿児島県大口市(現:伊佐市)生まれ、広島県広島市南区西霞町育ち。
学歴は鹿児島市立谷山小学校→広島市立皆実小学校→広島市立翠町中学校→広島県立広島皆実高等学校→広島商科大学(現:広島修道大学)。
夫人は四角佳子→浅田美代子→森下愛子。おひつじ座。血液型A型。身長176.5cm。
竹田企画所属。レコード会社はエレックレコード→CBSソニー→フォーライフ・レコード→インペリアルレコード→エイベックス。
日本のシンガーソングライターの草分け的存在であり[2]、マイナーな存在だったフォークとロックを一気に日本の音楽シーンのメインストリームに引き上げた。
また大規模ワンマン野外コンサート、ラジオの活性化、コンサートツアー、プロデューサー、レコード会社設立など、さまざまな新しい道を開拓したパイオニアとして日本ポピュラーミュージック史における最重要人物の一人である[2][3][4]。
「日経エンタテインメント!」は、2000年2月号の特集「J-POPの歴史をつくった100人」の中で、吉田拓郎こそが、自身の音楽がポピュラリティーを得るために戦った“J-POPの開祖”と論じている[5]。
[編集] 来歴
[編集] 生い立ち
- 4月5日、鹿児島県大口市で生まれる。
- 幼少期から喘息持ちで体が弱かったため家にいる事が多く、母に本を買い与えられていたが、音楽に興味を持ったためウクレレを買ってもらい音楽を始めた。立教大学でジャズ研に入りピアニストを目指していた兄が休みになると女性同伴で帰郷したのがきっかけで音楽に興味を持つようになった。
- 皆実高校に入学し、級友と「トーン・ダイヤモンズ[注釈 3][7][8]」というインストゥルメンタルバンドを結成、ウクレレのパートを担当した。
- バンドはビートルズの影響を強く受け、ビートルズのコピー専門となり、バンド名も「プレイボーイズ」に変更した。
[編集] アマチュア期
- 広島商科大学に入学しカントリー&ウエスタン部と応援団に入部した。
- 中学の同級生と新たに「ザ・バチュラーズ」を結成、ドラムスを担当した。
- ソロでコロムビア主催のフォークコンテストに出場。
- 中国大会で課題曲だった「花はどこへ行った」をブルースアレンジで演奏し、2位に終わったものの中村とうよう[10]から特別賞が与えられ決勝大会に進出した。
- ここで自作曲『土地に柵する馬鹿がいる』を、針金を曲げて作った手製のハーモニカホルダーと改造した12弦ギターで歌う。
- 同曲は4分の5拍子の変拍子として有名な「テイク・ファイヴ」のリズムパターンをストロークを切りながら歌ったもので、歌詞は三里塚闘争から着想を得ている[11]。
- このコンテストの優勝者にはコロンビアからプロデビューできる特典がついていたが、ヴェークラント・クヮルテット[12]、フーツ・エミール(後に赤い鳥、紙ふうせんを結成する後藤悦次郎が在籍)に次ぐ3位に終わった[13]。
- 審査委員長だった福田一郎が「あれはボブ・ディランの物真似ですよ」と評したのが順位に影響したともいわれる[14]。
- プロ志向の強かった拓郎は、コロムビアの大阪営業所や洋楽部を訪れデビューを懇願したが、誰一人手を挙げる者はおらず、さらにコロムビアの東京本社にまで呼ばれて社長の前で歌ったり、他のレコード会社にも売り込みを図るが全て不合格[15]。拓郎プロデビューまでの道は平坦ではなかった[16][17]。
- こうした居心地悪さと、ボブ・ディランが若い時、家出を繰り返したこと等に触発されてこの年の秋、家出しフォークの研究も兼ねて単身上京した[19]。
- 同年、広島見真講堂で開かれた『第1回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト[注釈 5][23]』中国地区大会に出場しロック部門で優勝。
- 前年に引き続き『第2回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』に出場し中国地区優勝、ヴォーカル・グループサウンズ部門で全国4位となった[31]。
- この時演奏した1曲『好きになったよ女の娘』は後の『たどり着いたらいつも雨降り』の原曲である。
- 優勝は後に拓郎のファースト・アルバム『青春の詩』のレコーディングに参加するマックス[32]。
- この頃から全国的にも知名度を上げていった。
- この年、全国で最後まで激しい学園闘争を続けた広島大学のバリケードで囲まれたステージで『イメージの詩』を歌う[35]。
- 演奏終了後、白いヘルメット姿の学生たちに取り囲まれ激しいアジを浴びせられた[36]。
- ギター教室を持っていたカワイ楽器広島店[37]に就職が決まっていたが、上智大学全共闘のメンバー[38]が自主制作(ユーゲントレーベル)で「広島フォーク村」名義のアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を制作することになり参加した[39]。
- 音楽界の常識を無視した長いタイトルは、アングラ・レコードであったことの象徴であるが、これは全共闘の闘争資金を得るため企画されたものだった[40]。
- 2月頃レコーディング後、3月頃ユーゲントレーベルから『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』が発売される。
[編集] 1970年代前半:よしだたくろう期(1970年 - 1974年)
[編集] エレック所属期
- 4月、インディーズレーベルのはしりとも言うべきエレックレコードに契約社員として就職する。
- エレックはもともと英会話レコードなどの通信販売をする会社で、当時の人気DJ・土居まさるのレコードを出すために音楽部門をつくったような会社だった[45][3][46]。
- 社員は6人ほどで、拓郎との契約はアーティストとしてではなく月給制の社員契約、初任給は3万5千円だった[47][46][48]。
- 通信教育による作詞・作曲講座も手掛けていた当時のエレックの広告には「君も作詞作曲を覚えれば、プロになれる」というようなものがあって、拓郎はその広告塔のような役割があった[49]。
- 弱小会社だったエレックはまともな仕事は取ってこれず[50]、愛川欽也が司会をしていた子供番組のオーディションに参加し「イメージの詩」を歌って審査員の子供に落とされたり、NHKのオーディションで藤山一郎に落とされたりした[51]。
- 当時の音楽状況はメッセージフォークやカレッジフォークも下火となった時期で、テレビ・ラジオ局、雑誌関係者から「今さらフォーク?」と揶揄された。残された唯一の手段は"ステージ"に全精力を注ぎ込むことだった[52]。
- 5月20日、1stシングル『イメージの詩 / マークII』が発売。
- 12月13日、『「はしだのりひことクライマックス」結成コンサート』にゲスト出演。
- 2月19日、『第2回マンスリー・コンサート』開催。
- 4月19日、『第4回マンスリー・コンサート』(東京厚生年金会館小ホール)開催。
- 『第5回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』の審査員を担当する。
- オーディションの審査員の仕事は、テレビ等に売り込みが出来ないための苦肉の策である。
- 5月20日、『ウッド・スモッグ』(東京・日比谷野外音楽堂)出演。
- 6月3日、『第2回日本語のふぉーくとろっく』(東京・日比谷野外音楽堂)出演。
- 6月7日、ライブアルバム『よしだたくろう オン・ステージ ともだち』発売。
- 6月27日、『第1回ラブラブ・フォーク・カーニバル』(東京・早稲田大学大隈記念講堂)に出演し、司会を務める。
- 7月21日、3rdシングル『今日までそして明日から / ともだち』発売。
- 8月7日〜9日、『第3回全日本フォークジャンボリー』に出演[65]。このコンサートに於ける拓郎のパフォーマンスは神話化した[6][66]。
- 当初、拓郎の出演予定は無かったが後から出演が決まった。メインステージとサブステージの分け方や、出演順を巡ってトラブルが繰り返され、拓郎も1日目は3曲しか歌わせてもらえなかった。このコンサートの模様は二つのレコード会社によってレコーディングされ会場内にテレビが持ち込まれていた。
- 2日目の夕方、数百人にも満たないサブステージで演奏をはじめた拓郎がこうした商業主義の乱入に対しさかんにアジり[67]、PAの故障によりノーマイク、ノースピーカーで2時間に亘り「人間なんて」の熱唱を続けるうち熱狂した観客が増え、小室等の「メインステージに行こう!」の言葉が引き金となり観客がメインステージになだれ込んだ。舞台を目がけて花火が打ち込まれ会場は騒然、主催者との討論会となり、そのままコンサートも自然流会してしまった。
- 観客の暴動を恐れた岡林信康が逃げ帰ってしまったため、主役交代を印象付けることとなった[68][69][44][70][71]。
- 8月26日、『早稲田大学「軽音楽の夕べ」』(早稲田大学体育館)出演。
- 10月、TBSラジオの深夜放送・パックインミュージックのパーソナリティを務めた(〜1972年9月)。
- フォークシンガーをパーソナリティに起用した先駆の番組で、前任はフォーク・クルセダーズの北山修、後任が南こうせつ[72]。毎週解説を加えて自分の曲をかけたり、フォーク仲間を呼んでバカ話をしたり、「今日はやる気がない」など、言いたい放題の自由奔放な放送が大人気を呼んだ[73]。
- 同年、ニッポン放送「バイタリス・フォークビレッジ」のパーソナリティも担当(拓郎が担当した期間は不明だが、この番組自体は1966年から1972年まで)。
- ラジオ関東「ニュー・ミュージック・ムーブメント」パーソナリティ(開始月、終了年月不明)。
詳細は「#ラジオ・パーソナリティとして」の節を参照
[編集] CBSソニー(オデッセイレーベル)所属期
- 1月、当時はまだ新興だったCBSソニーに完全移籍。
- 新興とはいえ超大手会社への移籍にフォーク仲間からの評判は悪かった[79]が、これは大手レコード会社もいよいよフォークが売れるという認識を持った表れともいえた[80]。
- 1968年に設立されたソニー・ミュージックレコーズが、アイドル売り出しの後、フォーク/ニューミュージック系歌手を最初に手掛けたのが吉田拓郎であった[81]。
- 1月21日、移籍と同時に4thシングル『結婚しようよ/ある雨の日の情景』を発売。
- 前シングルの「今日までそして明日から」に続きCBSソニーからリリースし、オリコンチャート3位を記録し、40万枚以上を売る大ヒットとなった。
- この曲はそれまでのプロテストの意味あいが強かったフォークのイメージを一変させた[82]。学園闘争の敗北や、アメリカのヒッピー文化、フラワームーブメントが、日本に飛び火した時代を反映したものであることも、インパクトを与える一因であったと言われる[83]。
- 拓郎はこの大ヒットで人気を得て“フォークのプリンス”などと騒がれ、若い女性らが会場を占拠した。その人気ぶりはGSブームの再来のようだったと言われた[84]。この軟派で風俗的なフォークソングのヒットは、その後のフォーク、ポップス歌謡曲に大きな影響を与えることになった[85]。反体制のシンボルだったフォークが“若者のポップ・ミュージック”として一般的になるのは「結婚しようよ」の大ヒットからである[86][78]。当時の音楽誌、週刊誌は拓郎らを称して"ニュー・フォーク"と呼んだ[87]。
- 2月、『よしだたくろう・山本コウタロー ジョイントコンサート』開催。
- 7月1日、5thシングル「旅の宿 / おやじの唄」発売。
- 60万枚を売り上げ、初のオリコンチャート1位を記録(5週連続)[89]。
- 7月5日、サイケデリック・ロックバンド[93]・ザ・モップスに提供した『たどりついたらいつも雨降り』がシングルとして発売される[94]。
- 当時はロックよりもフォークの方が、言葉を音楽に乗せるという点で先行していたため、フォークシンガーから楽曲提供を受けて、言葉を大事にする部分を残してロックを作ってみたらどうだろう、というホリプロのプロデューサー・奥田義行の発案を受けて製作されたのがアルバム『モップスと16人の仲間』(1972年7月5日発売)[95]。この中で拓郎が提供した「たどりついたらいつも雨ふり」が飛び抜けて出来が良かったため、アルバム発売と同時にシングルカットして出した。これは14.4万枚を売り上げ、モップス最大のヒットになった。星勝は「モップスが模索してきた日本のオリジナル・ロックがこの作品で、ある程度到達できた」と話している[95]。また楽曲の良さもあってモップスはコミックバンドというイメージを払拭することに成功した[96]。
- 「たどりついたらいつも雨ふり」は、1986年に子供ばんど、1988年氷室京介、1997年山崎ハコ[97]、2008年大友康平[98]などがカバーしている。
- なお、拓郎はこの「旅の宿」の大ヒット中に有名な「テレビ出演拒否」を行った[106]。
詳細は「テレビ出演拒否」を参照
- 拓郎はテレビの芸能番組やバラエティ番組には出演しない、芸能誌に露出しない、といった、それ以前の歌謡曲のノウハウを踏襲せずに、深夜のラジオ番組やライブ活動を中心にプロモーション活動を展開した。また、シングル盤が中心となっていた歌謡曲に対してアルバム志向を前面に打ち出していった[107]。
- 12月21日、6thシングル『おきざりにした悲しみは / 花酔曲』発売。
- 12月、古巣エレックレコードは2枚組ライブアルバム『たくろうオンステージ第二集』をリリースするが本人に無許可だったため発売中止になった。
- このアルバムは現在に至るまでCD化されていない。
- シングル曲、アルバムの大ヒットにマスメディアに大きな話題の提供、と大活躍の1年だったが日本歌謡大賞、日本レコード大賞、NHK紅白歌合戦の3大行事は、まともに扱ってもらえなかった。唯一レコード大賞の歌唱賞の対象で残ったが最終的に落選。大衆賞に回され最終投票で橋幸夫24票、井上順21票、天地真理17票に次ぎ16票で最下位となった[116][117]。
- その他小室等のレコーディングライブに高田渡と共にゲスト出演した。
- 5月23日、新六文銭のツアー中に拓郎が逮捕されるという事件が発生(通称:金沢事件)。
- 6月21日、7thシングル『伽草子/こんなに抱きしめても』発売。
- ラジオレギュラー『拓郎の気ままな世界』(TBSラジオ、放送開始、終了年月日不明)
- 12月5日、8thシングル『金曜日の朝/子供に』発売。
- 現在まで脈々と続く "日本のビートルズ(そっくりさん)・バンド" の草分け、ザ・バッド・ボーイズにデビューシングル曲「ビートルズが教えてくれた」他1曲を提供[131][27]。メンバーの一人・清水仁が後にオフコースに参加。
- その他、及川恒平「何もしてあげられないよ」、桜井久美「おはよう」、猫「戻ってきた恋人」、山本コータロー「君のために」などを提供。松山省二が「どうしてこんなに悲しいんだろう」、ラニアルズが「恋の唄」をカバー。CMソング、富士フイルム「HAVE A NICE DAY–2」(作詞・作曲拓郎、唄、沢田研二、ソノシート、非売品)を手がける。
- 9月、吉田拓郎のオールナイトニッポンパーソナリティを務める。(- 1975年12月)
- 12月10日、「シンシア」などを収録した5thアルバム『今はまだ人生を語らず』を発売。
- 12月31日、『襟裳岬』が第16回日本レコード大賞受賞。
[編集] 1970年代後半:フォーライフ設立・吉田拓郎に改名 (1975年 - 1979年)
- 6月1日、CBSソニーの拓郎が、ポリドールの井上陽水、エレックの泉谷しげる、ベルウッドの小室等と共にフォーライフ・レコードを発起した。[142]。
- ニューミュージックという言葉はこれを機に一気に広まっていった[143]。
詳細は「#つま恋オールナイトコンサート」の節を参照
- 9月25日、フォーライフ・レコードからの初のシングル『となりの町のお嬢さん/流れる』発売。
- 12月、オールナイトニッポン最終回で四角佳子との離婚を発表[145]。
- 一方的な形の離婚宣言だったため、女性誌などからは横暴な男として激しくたたかれた[146]。
- この年には他人への提供曲に多くのヒット曲を残した。先述のようにかまやつひろしのアルバム『我が良き友よ』のタイトル曲はオリコン1位を記録し、他に「歌ってよ夕陽の歌を」(森山良子)、「いつか街で会ったなら」(中村雅俊)、「あゝ青春」(トランザム)、「風の街」(山田パンダ)、「明日の前に」(堺正章)、「寺内貫太郎一家2」(1974年、TBS)の挿入歌「ひとりだち」(白鳥哲)、「両国橋」(松平純子)、「今夜はごきげんな夜」(ケイ・アンナ)、フジカラーのCMソング『私は小鳥』(山口百恵歌、ソノシート、非売品)などを手掛ける[147]。
- 3月25日、シングル『明日に向かって走れ/ひとり思えば』発売。
- 11月、拓郎の発案で小室・泉谷・陽水ら4人のオムニバスアルバム『クリスマス』発売。
- 初回プレス30万枚、オリコンで1週のみ1位となったものの、累計が10万枚にも満たず、フォーライフの屋台骨を揺さぶる事となった。
- 12月5日、シングル『たえこMY LOVE』発売。
- 3月、フォーライフは2年目の決算で8億円の赤字を出す。
- 6月、小室に代わり、フォーライフ2代目社長に就任。
- 7月25日、シングル『もうすぐ帰るよ/Voice』発売。
- 6月10日、シングル『舞姫/隠恋慕』発売。
- 「隠恋慕」は宇津井健主演のテレビドラマ『たんぽぽ(第5シリーズ)』(日本テレビ系列)の主題歌。
- 10月、東京キッドブラザースのミュージカル『かれが殺した驢馬』の作曲を担当する。
- その他楽曲提供は、萩原健一に書いたが萩原とケンカして清水健太郎にまわったといわれる「さらば[169][170]」やトロント大学に留学していたアグネス・チャンの芸能活動復帰作「アゲイン」、五十嵐夕紀「えとらんぜ」、 神田広美「ドンファン」などを提供[171]。
- 2月、『たくろうオンステージ第二集』収録の「ポーの歌」が浜口庫之助の曲の盗作と報じられる。
- 拓郎自身は初めからオリジナル曲とは言っていなかったが『たくろうオンステージ第二集』を無許可でリリースしたエレックが吉田拓郎作詞・作曲とクレジットしてしまったというのが真相[172]。
- 5月5日、シングル『流星/アイランド』発売。
詳細は「#篠島コンサート」の節を参照
- 10月10日、シングル『春を待つ手紙/外は白い雪の夜』発売。
- 『外は白い雪の夜』は、ダイアモンド☆ユカイが1997年のアルバム『Le Cinema』でカバー。有線でリクエスト1位になったという[174]ユカイなサムシング 2009.7.5 Have A Nice Day </ref>。
- この年は『あさひが丘の大統領』(日本テレビ、1979年-1980年)主題歌、小出正則「新しい空」、岩崎宏美のアルバム『ライブ&モア』に松任谷由実(呉田軽穂名義)作詞と初コンビ作「時の女神」、男性ボーカルデュオ・DUO[178]に「放課後」を提供。
[編集] 1980年代
- 5月5日、シングル『あの娘といい気分/SORA』発売。
- 5月10日、過去との決別を宣言し、自身初めての海外録音作品である『Shangri-La(シャングリ・ラ)』を発表。
- アルバムタイトルは、ザ・バンドのドキュメンタリー映画『ラスト・ワルツ』(マーティン・スコセッシ監督)の舞台となったロサンゼルス郊外マリブ、“シャングリ・ラ”スタジオでの録音による。
- 日本からミュージシャンは誰一人同行させず、単身渡米。プロデューサーに、少年期のあこがれの人物であるブッカー・T・ジョーンズを起用し、スタッフ全員を外国人で固めボーカリストに徹した。
- 8月21日、シングル『いつか夜の雨が/愛の絆』発売。
- 10月 、二回目のオールナイトニッポンパーソナリティ。(〜1982年3月まで)
- 4月5日、シングル『サマーピープル/二十才のワルツ』発売。
- 「サマーピープル」は資生堂のタイアップ曲。
- 8月5日、覆面バンド・ビートボーイズ(BEAT BOYS、1988年以降はBE∀T BOYS)が「スターズオン23 吉田拓郎」(後に「ショック!!TAKURO 23」に改題)発売。
- オールナイトニッポンの番組企画で拓郎のメドレー曲を製作し、これが思わぬ反響を呼んだためレコード発売されることになった。
- バンドの正体はアルフィーで、当時はまだ売れていなかったアルフィー最大のヒット曲となった。
- 9月5日、シングル『サマータイムブルースが聴こえる/Y』発売。
- この年の楽曲提供は、ザ・チェリーズ「私のサタン」など。
- ツアー最中の株主総会で、フォーライフ・レコード社長を退任。後任には後藤由多加が就いた。
- その他楽曲提供は真田広之「砂漠の都会に」(服部半蔵・影の軍団III、フジテレビ主題歌)、原辰徳「季節の風の中で」(アルバム『サムシング』に収録)など。
- 浅田美代子と協議離婚
- 5月21日、シングル『あいつの部屋には男がいる/あいつ』発売。
- 10月21日、シングル『旧友再会フォーエバーヤング/ペニーレインへは行かない』、アルバム『FOREVER YOUNG』発売。
- この年の楽曲提供は沢口靖子の歌手デビュー曲「潮騒の詩」など。
- 6月15日、国立競技場で5万人の観客を集めて開催された国際青年年(IYY)記念イベント"ALL TOGETHER NOW"の企画参加と司会を担当。
- はっぴいえんどとサディスティック・ミカ・バンド(ヴォーカルは松任谷由実)の再結成の他、オフコース、佐野元春、サザンオールスターズ、さだまさし、南こうせつ、チェッカーズ、アルフィー、山下久美子、坂本龍一、武田鉄矢、財津和夫、イルカ、白井貴子、アン・ルイス、ラッツ&スターらが出演。
- 再現は不可能な顔ぶれが揃ったが、拓郎から始まり、はっぴいえんど、松任谷由実を経由してトリが佐野元春、飛び入りゲストがサザンオールスターズという演奏順で世代交代を象徴する流れだったため、後に細野晴臣が「ニューミュージックの葬式」などと揶揄した[181]。
- しかしながら、このイベントは大規模ロック・フェスティバルの草分けとされる[182]。
- 9月21日、シングル『風をみたか/夏休み(85.8.27つま恋バージョン)』、ライブアルバム『ONE LAST NIGHT IN つま恋』発売。
- 同年、映画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』に高杉晋作役で出演(映画公開は翌1986年正月)。
- 9月5日、アルバム『サマルカンド・ブルー』発売。
- この年の楽曲提供は小林旭「ハーモニカの詩」など<
- 12月30日、「夜のヒットスタジオDELUXE」出演。THE ALFEEをバックコーラスに従え、「アジアの片隅で」を披露。
- 1月1日、宇田川オフィス設立。
- 3月21日、シングル『すなおになれば/いくつもの夜が』発売。
- 4月21日、アルバム「MUCH BETTER」を発売。
- 5月27日、ライブハウスツアー『吉田拓郎 LIVE! 1988』スタート。(〜6月16日)
- 名古屋・ハートランド、大阪・バナナホール、東京・日清パワーステーションにて行う。
- 2月28日、アルバム『ひまわり』発売。
- 7月21日、ライブビデオ『 '89 TAKURO YOSHIDA “IN BIG EGG”PART1』発売。
- 8月21日、ライブビデオ『 '89 TAKURO YOSHIDA“IN BIG EGG”PART2』発売。
- 9月13日、シングル『落陽/祭りのあと』発売。ドラマの主題歌。
[編集] 1990年代
- 1月10日、アルバム『176.5』発売。
- 2月21日、シングル『俺を許してくれ/憂鬱な夜の殺し方』発売。
- 7月4日、シングル『男達の詩』発売。
- デビュー20周年記念シングル。
- カップリングに「イメージの詩」を予定していたがボツにする。
- 8月19日、『軽井沢音楽祭 '90 武田鉄矢 サロンコンサート』にスペシャルゲストとして出演。
- 酒井法子に『幸福(しあわせ)なんてほしくないわ』入江剣名義で提供(作曲)。
- 3月21日、ライブアルバム『COMPLETE TAKURO TOUR 1979』発売。
- 『TAKURO TOUR 1979』と『TAKURO TOUR 1979 Vol.2 落陽』をセットにしたもの。
- 6月21日、21thアルバム『detente』発売。
- 8月7日、シングル『友あり/たえなる時に』発売。
- 12月12日、「ダウンタウンズ再結成ライブ」(広島KENTOS)出演。
- 4月15日、シングル『吉田町の唄/夏・二人で』発売。
- 10月13日、NHK101スタジオにてライブを行う。
- 12月17日、ミニアルバム『TRAVELLIN’MAN』発売。
- 12月22日、加藤和彦とのデュエット『純情』発売。
- 4月28日、シングル『恩師よ/まだ見ぬ朝』発売。(セルラー電話CMソング/オートレースCMソング)
- 10月21日、シングル『マスターの独り言』発売。(TaKaRa「純」レジェンドCMソング)
- 12月31日、『第45回NHK紅白歌合戦』に初出場。
- 7月26日、フジテレビ系『TK MUSIC CLAMP』出演。小室哲哉と対談。
- この年の楽曲提供は島倉千代子「紅葉」。
- 4月19日、二枚組ベストアルバム『LIFE』、Live Video『'93 TRAVELIN'MAN at NHK STUDIO101』発売。
- 8月21日、シングル『遥かなる』(日産ラルゴCMソング)、24thアルバム『感度良好波高し』発売。
- 9月14日〜15日、『阪神・淡路大震災救済支援コンサート“日本をすくえ'96”』(神戸ワールド記念ホール)出演。
- 10月19日、音楽バラエティー番組『LOVE LOVEあいしてる』(フジテレビ系列)スタート。レギュラー出演しKinKi Kidsと共に司会を担当した。
- テレビ嫌いで有名だった拓郎がテレビのレギュラー番組に出演することが注目を集めた。
- これは拓郎の大ファンだったフジテレビのきくち伸プロデューサーの、拓郎の「HEY!HEY!HEY!」への長年に亘る出演交渉が形を変えて実ったもの[187][188]。当初、KinKi Kidsと組む予定だったのは玉置浩二で、きくち伸がプレゼンで、とっさの思いつきで言った拓郎の起用になった[187]。番組の始まった当初は拓郎に相談してゲストを決めていたという[189]。
- この番組では坂崎幸之助と共にKinKi Kidsにギターを指導し、彼らの音楽活動に多大な影響を与えた。
- この番組で共演した武部聡志、吉田建らによるバンド『LOVE LOVE ALL STARS』(メンバーは流動的)とともに自らのツアーも行った。
- 7月29日、「LOVE LOVE あいしてる」のテーマ曲であり拓郎が楽曲提供した「全部だきしめて」が収録されたKinKi Kidsのシングル『全部だきしめて/青の時代』が発売。
- オリコン4週連続1位を記録。
- 拓郎にとって初の提供作品ミリオンセラーと1975年(昭和50年)のかまやつひろし「我が良き友よ」以来となる提供作品によるオリコンチャート1位を達成した。
- 10月31日、26thアルバム『ハワイアン・ラプソディ』発売。
- 11月6日、ツアー『吉田拓郎 Live'98 〜全部だきしめて〜』スタート。(全国10カ所13公演)
- 4月、サンヨー食品「カップスター」CMに出演。
- 9月、フォーライフレコードとの専属アーティスト契約を解消。
- 12月1日、シングル『気持ちだよ』発売。
- 東宝洋画系「こちら葛飾区亀有公園前派出所 THE MOVIE」のエンディング曲。
[編集] 2000年代
- 3月8日、拓郎がプロデュースしたKinKi Kidsのシングル「好きなってく 愛してく」発売。オリコンチャート1位を記録。
- 4月、インペリアルレコードに移籍。
- 6月21日、 移籍第1弾シングル 『トワイライト』発売。
- 7月、全国ツアー『吉田拓郎 LIVE 〜夏と君と冷したぬき〜』スタート。(〜10月10日まで)
- 3月28日、 シングル『いくつになっても happy birthday/朝陽がサン』、アルバム『こんにちわ』、写真&エッセイ集『吉田拓郎のワイハーへ行こう!!』発売。
- 3月31日、「LOVE LOVE あいしてる」終了。
- 7月 、ユニクロCM出演。
- 3月6日、シングル『家へ帰ろう/襟裳岬』発売。
- 3月27日、アルバム『Oldies』発売。
- 4月、エッセイ集『もういらない』発売。
- 3月26日、アルバム『月夜のカヌー』発売
- 4月、肺ガン手術。春ツアーをキャンセル。
- 5月21日、DVD『101st Live 02.10.30』発売。
- 10月19日、ツアー『TAKURO & his BIG GROUP with SEO 〜豊かなる一日〜 』スタート(全国8カ所10公演、〜12月5日まで)
- 東京からスタートし、一日二回公演で復帰する。
- 11月21日、シングル『純/流星2003/ホームラン・ブギ2003』発売。
- 『純』はアニメ『魁!!クロマティ高校』主題歌。
- 春、30年来の夢であったビッグバンド形式でのコンサートツアーを目前にして、健康診断で肺がんが見つかった。すぐに手術、コンサートツアーは延期となった。手術は無事成功し、秋には復帰コンサートで全国に元気な姿を見せた。これを機に禁煙。ビッグバンドでのコンサートツアーはこの年から2006年まで毎年行われた。
- 7月24日、ツアー『TAKURO & his BIG GROUP with SEO again “This precious story 〜この貴重なる物語〜”』、つま恋エキビションホールからスタート。(全国20公演)
- 11月4日、山梨振替公演でツアー終了。
- 3月24日、ライブアルバム『一瞬の夏』発売。2004年12月14日、横浜ランドマークホールにて収録。
- 8月28日、3年連続のビッグバンド型式でのツアーとなる『TAKURO & his BIG GROUP with SEO 2005 〜to be continued〜』開始。(全国10公演、〜10月28日まで)
- 日刊スポーツにコラムを「自分の事は棚にあげて」連載。
- 「吉田拓郎&かぐや姫 Concert in つま恋 2006」開催発表。
- 3月22日、DVD『TAKURO & his BIG GROUP with SEO 2005 Live & His RARE Films』発売。
- 4月5日、60歳の誕生日をツアー先で迎える。ソニー、フォーライフから過去のアルバムが紙ジャケ・リマスタで復刻。
詳細は「#吉田拓郎&かぐや姫 Concert in つま恋 2006」の節を参照
- 10月23日、ツアー『TAKURO 2006 秋 〜ミノルホド コウベヲタレル イナホカナ〜』 大宮からスタート。全国11箇所。
- 12月、「つま恋」で行われた、吉田拓郎&かぐや姫の野外コンサートを特別編集した3枚組DVD『Forever Young Concert in つま恋 2006』発売。
- 7月20日、フジテレビ系列「僕らの音楽」出演。KinKi Kidsと対談する。
- 番組の2007年度最高視聴率を記録する。
- 8月21日、越谷公演を皮切りにツアー『Life is a Voyage TOUR 2007“Country”』を開始。
- 8月24日、ツアー2カ所目となる多摩公演が行われる予定だったが、扁桃炎による延期が当日発表された。その後、喘息性気管支炎の診断を受け、当面の公演を延期。
- 9月30日、熊本公演からツアー再開。
- 2月24日、「俺たちのオールナイトニッポン40時間スペシャル」にパーソナリティの一人として出演し、4ヶ月ぶりに仕事復帰。
- 「オールナイトニッポン」のパーソナリティを務めるのは1997年の「オールナイトニッポンDX」以来、10年ぶりとなる。
- 8月、ニッポン放送特番「吉田拓郎 残暑お見舞い申し上げます」に出演。
- 4月15日、約6年ぶりオリジナルアルバム『午前中に…』を発売。オリコンアルバムランキングで初登場6位を記録。
- 63歳1ヶ月での初登場トップ10入りで、当時日本人最年長記録[190]を樹立。
- 拓郎自身のアルバムトップ10入りもベスト盤では約9年ぶり。オリジナルアルバムでは約12年ぶり(“吉田拓郎とLOVE2 ALL STARS”名義含む)となった。
- 6月21日、生涯ラストの全国ツアーと称して『Have A Nice Day LIVE 2009』(10ヶ所10公演)をスタート。4公演は滞りなく行われる。
- 11月11日、ライブアルバム『18時開演 〜TAKURO YOSHIDA LIVE at TOKYO INTERNATIONAL FORUM〜』発売。
- 11月30日、ニッポン放送にて『坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD』がスタートする。
[編集] 2010年代
- 4月、ニッポン放送「ショウアップナイター」テーマ曲『That's it やったね』を書き下ろす。
- 4月、NHK BS時代劇「新選組血風録」主題歌『慕情』を書き下ろす。
- 6月8日、『That's it やったね』と『慕情』が配信開始。
- 7月11日、1999年に大げんかを起こし交流が断絶状態にあった泉谷しげると「坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」の番組内で12年ぶりに対面し、和解した。
- この年の楽曲提供はKinKi KIds「危険な関係」。
[編集] ディスコグラフィ・楽曲提供・書籍
詳細は「吉田拓郎の作品一覧」を参照
[編集] シンガーソングライターとして
[編集] 音楽性
- 批判と支持
- 自身の生き方や恋愛体験などをテーマにした拓郎の歌は、従来のフォークファンからは“商業主義”“裏切り者”“堕落した”などと批判され、ジョイントコンサートなどの会場では激しい“帰れコール”[192]を浴びることも多かった[193]。
- 1972年4月22日に日本武道館で行われた「フォーク・オールスター夢の競演音搦大歌合戦[194]」なるイベントでは、岐阜の山から降りて久しぶりにステージに立った岡林信康の後に登場した拓郎に激しい“帰れコール”が浴びせられ歌が聞こえないほどであった[195]。またビール瓶などモノを投げつけられ本当に帰る事もあったという(慶應三田祭事件(後述))[196][69]。
- しかし全ての若者がプロテストの臭いがするフォークを支持しているわけではなく、すでにそういった言葉だけのプロテストソングには飽き飽きしていたこともあって、多くの“普通の“同世代の若者から熱狂的な支持を受けた[197]。寺島実郎は「拓郎の『結婚しようよ』と井上陽水の『傘がない』を聴いたとき、『政治の季節』が終わったことを確認した」と論じている[198]。
- スタイル
- ダンガリーのシャツにジーパン、ギブソンのギター、ハーモニカ・ホルダーを首にかけ、歌詞カードを譜面台に乗せ座って歌う[199]、うつむいてボソボソと喋り、時々客席をむいて何かを叫ぶという拓郎のスタイルを多くの若者がまねた。
- 拓郎が出てきてギターの売れ行きが爆発的に伸び、ダンガリーのシャツ、ジーパンもよく売れた[48][200][201]。拓郎以前は外国人ミュージシャンのコピーをする人が多かったが、拓郎が出てきてからは拓郎をコピーする若者が増えた[202]。
- 曲の印象
- 田家秀樹は、『それまでの関西フォークなどと違い、拓郎の曲は明るく、言葉にスピード感があって、それに誰でも歌えるという親しみやすさがあったと話している[203]。拓郎は「関西フォーク」を嫌っており、「関西フォーク」と自身の音楽の違いを"私たち"の歌と"私"の歌と話している[204]。富澤一誠は、1970年以前の岡林信康らのフォークが「今俺が歌わなければならない」的使命感があったのに対し、拓郎は「俺は歌いたいから歌うんだ」という、もっと自由な発想な、個人の自己主張が大きな特徴で、それは"私たちの歌"から"私の歌"へ、つまり、"三人称"から"一人称"への移行だった』と述べている[205]。
- 当時拓郎の歌は"私小説的""青春歌謡"などと揶揄もされたが[206]泉麻人は『自分の身のまわりの、ほんのちょっとしたことを唄にしてもいいんだ、と、拓郎の出現によって、レコードを聴くばかりでなく、オリジナルの曲を作って唄ってみたい、と思った人は僕らの世代に多いはず。そういう身近さが吉田拓郎の何よりの魅力だった』と述べている[207]。
- 拓郎は『昔から僕は、現実の出来事から詞を書いて、曲をつくってきたわけです。それが自分ではいちばん恥ずかしくなく、堂々と歌える内容だからね。誰かに何か意見されても、だって、歌のとおりなんだからしょうがないんだよ、と言ってきた』と話している。2009年のアルバム「午前中に…」では、フキが出てきたり、タケノコが出てくるが『それが今の僕の日常なので、今は女よりもフキが好きなので、フキを歌うしかない』と話している[208]。
- 桑田佳祐は著書の中で『拓郎を聴いて「これなら曲が作れる」と思った』と述べている[209]。桑田や長渕剛、氷室京介ら、多くの後進に音楽の道を志すきっかけを与えたのも大きな功績[210]。
- シンガー・ソングライター
- 現在は定着している"シンガー・ソングライター"という言葉は、拓郎の登場から言われはじめたいい方で[211][212]それまでは、あえていえば"自作自演"といういい方をしていた[126][213]。
- その"シンガー・ソングライター"という言葉が日本の音楽界に大きくクローズアップされた1972年、内田裕也が「いま、シンガー=ソングライターっていわれてる連中がやってることを見てると、昔、ロカビリーがだんだん歌謡曲になった、井上ひろしの『雨に咲く花』とかと同じような道を歩んでいる。だから、あんなの長続きしない」などと発言[214]。これを受けニューミュージック・マガジン誌が1972年6月号で、中村とうよう司会、内田と拓郎とはっぴいえんどのマネージャー・石浦信三の3人による論戦を企画。しかし内田が都合で欠席したため論戦にはならなかった事があった[215]。
- 永六輔は、作詞をやめたきっかけについて「井上陽水や吉田拓郎、小室等といったフォークソングが台頭し、自分の言葉を自分で演奏して歌う彼らの方が正しいあり方だと思ってやめた」と話している[216]。
- ニュー・フォーク
- 新譜ジャーナルは1972年3月号で、拓郎ら新たに台頭してきたフォーク・シンガーをまとめて"ニュー・フォーク-第三の流れ"と紹介した[217]。
- この"ニュー・フォーク"という言葉は、1970年頃から使われた"ニュー・ロック"から派生した言い方と思われるが、現在はどちらも死語のようになっている。しかし当時は一般の週刊誌などでも使われ流行した[218]。
- "第三の流れ"というのは、アングラフォーク、カレッジフォークに続く流れという意味で、1970年代のフォーク、ニューミュージックは拓郎を突破口にした、このニュー・フォークの流れをくむもの[219]。「ニューミュージック」という言葉が生まれたのは、もう少し後であるが、この「ニュー・フォーク」という言葉が「ニューミュージック」という言葉の派生に繋がった可能性も考えられる。「ニューミュージック」の発生は、1975年の荒井由実のデビューとする説など諸説あるが、拓郎の1972年の連続ヒットからという見方もある[220]。
- フォークの二分化と終焉
- なぎら健壱は、「フォークは拓郎の登場を境に硬派路線とアイドル路線に分かれ、拓郎が新境地を次々と開拓して絶頂期を迎えると同時に、フォークは終焉を迎えた」と述べている[221]。
- 1960年代後半の社会的な内容を含んでいるものが目立ったフォーク・ソングは、拓郎の登場で形態が大きく変わり拓郎以降、個人の心情や風景をうたう歌や、愛の歌が増え、次の時期のニューミュージックへの架け橋にもなっていく[222][223][224]。
- 通常フォーク歌手として言及されることが多いが、「『ザ・ヒットパレード』がなかったら今はない」と言い切り[225]、アマチュア時代は長くロックバンド(R&Bバンド)を組んで、ロックへ移行するディランをリアルタイムで体験している拓郎にとって、サウンドとしてのフォークは一部にしか過ぎない[226]。ファースト・アルバムの『青春の詩』からすでに収録曲もブルースロック調、オーケストラをフィーチャーしたサンバ、ボサノヴァ、ジャズ調とフォークではない楽曲が多数並んでいる[227]。アマチュア時代から幅広い音楽ジャンルを志向していた。
- 自由奔放
- デビュー年のソノシートに収録された沖縄の基地問題を替え歌で唄った「基地サ」の他、1971年6月に発売された2枚目のアルバム『よしだたくろう・オンステージ ともだち』には、MCで差別用語を3度も連発する「私は狂ってる」、『たくろう・オン・ステージ 第二集』には「日本人になりたい」という人種差別を扱った問題作も収録されている。拓郎の放送禁止歌というと後年の「ペニーレインでバーボン」が有名だが、デビュー時から先鋭的なシンガーでもあった[228]。
- こうした楽曲以外にも多くのレギュラーを持ったラジオや雑誌のインタビュー等での自由奔放な発言、言動は多くの共感を呼んだが、それは芸能界全体にも影響を及ぼした。
- 渡辺プロ
- 1970年代後半の渡辺プロの凋落については他プロダクションの台頭などが理由として挙げられるが、非常に鍛えられた渡辺プロの歌手たちが人気を失い渡辺プロが変わった理由について、渡辺プロの諸岡義明専務は『きっちり教育され、型にはめてつくられたタレントなり歌手なりが、視聴者に飽きられたからでしょう。拓郎もそうですが、型にはまらない自由で奔放なタレントや暗さがあるキャラクターが好まれるようになったのも一因だと思います』と話している[229]。
- なお拓郎は「渡辺プロが製作した『ザ・ヒットパレード』に大きな影響を受けた」と話しているが[230]、これについて荒俣宏は、「拓郎を音楽に走らせたきっかけの一つに渡辺プロの活動があったというのは、まさしくシンボリックな逸話といえる。なぜなら、その拓郎をはじめとする新しい波が、テレビとは無関係な音楽を創りだし、渡辺プロの創りだしたテレビ歌謡を変えていくことになったのだから」と論じている[231]。
[編集] 影響を受けたミュージシャン
- 洋楽の原点
洋楽の原点はニール・セダカ、コニー・フランシス、リック・ネルソンやヘンリー・マンシーニなどアメリカンポップスと映画音楽だった。アマチュア時代のダウンタウンズでのレパートリーはビートルズ、ローリング・ストーンズ、スペンサー・ディヴィス・グループ、サム&デイヴ、オーティス・レディング、サム・クック、ウィルソン・ピケットや後年、たくろうのレコーディングに参加したブッカー・T&ザ・MG'sなどだった[27][29]。
- ボブ・ディラン
FEN 岩国放送が聴けたので、ビートルズやボブ・ディランもリアルタイムで聴いていた。
ディランには詩よりもメロディに影響を受けたが、ビートルズは当初はうるさ過ぎるとあまり好きになれなかったという。アマチュア時代に曲作りで最も影響を受けた曲としてパーシー・フェイス楽団の『夏の日の恋』とボブ・ディランの『風に吹かれて』を挙げている。
楽曲や生き方を含めてボブ・ディランの影響を強く受けたことはよく知られる[232][233]。
拓郎が「ディラン、ディラン」と叫びまわったため、CBSソニーから出ていたボブ・ディランのレコードが、以前の5倍以上売れたという[234]。日本に於けるボブ・ディランの最大の普及者でもある[235]。
中学の時、「吉田拓郎になろう」と決めたという浦沢直樹やみうらじゅんは、拓郎を通してボブ・ディランを知ったという[236]。なおソニーは1973年に拓郎の選曲でボブ・ディランのベスト盤を発売している[237]。
高校時代のマドンナのことを歌った「準ちゃんが与えた今日の吉田拓郎への多大なる影響」は、ボブ・ディランの「ハッティ・キャロルの淋しい死」の替え歌である[238]。
山本コウタローが1975年、自著「誰も知らなかったよしだ拓郎」出版にあたり拓郎に「歌謡曲でも何でもいいから、好きな曲を3曲挙げてくれ」との質問には『デソレイション・ロウ(Desolation Row)』『ジャスト・ライク・ア・ウーマン』『アイ・ウォント・ユー』と全てボブ・ディランの曲を挙げたという[239]。
- パクリとアンチテーゼ
特に初期の楽曲はボブ・ディランの影響・パクリを取り沙汰される。拓郎自身「おいしいメロディがある」[240]等、昔からインタビュー等で「盗作した」とはっきり発言をしており[241]、小室哲哉との対談でも盗作(パクリ)談義が盛り上がった勢いからか、「いっぱい盗作しましたけどね」とはっきり言ってしまっている[242]。
「イメージの詩」については、ファンだった岡林信康の「私達の望むものは」に感動はしたが、「私達は、と言えない。俺は俺っていう歌を作りたい」という意図で作ったと語っている[36][243]。
[編集] 作詞法
- 字余りの作詞法
- 曲作りに多用した"字余り"という作詞法[注釈 20][244])は、後のシンガー・ソングライターに多大な影響を与えた。
- この他の作詞法として、平坦な話言葉を使い歌詞を組み立てる、起承転結の形式を解体し独特の言葉の反復でリズムをつけていく、といった方法論も斬新で画期的であった[248]。
- 小林亜星は、阿久悠の著書内の「歌謡曲のことば」というテーマ、作曲家から客観的に見た歌詞のルール、歌詞とメロディーの結びつき、という考察に於いて、「ニューミュージックの隆盛期以来、日本語の扱いが随分変わりました。これは日本歌謡史上の大革命だったんです。吉田拓郎や井上陽水がやった革命なんです。それまでの日本の歌は、一つのオタマジャクシに一つの日本語の発音がはめ込まれていた。日本語って随分不便な言葉だなあ、と吉田拓郎あたりが考えて、一つのオタマジャクシで「私は」と言ってしまった。こんな歌い方はそれまで日本にありませんでした。日本人の感覚にないんですね、これがニューミュージックです。ニューミュージック以後、こんなふうにして言葉の扱いが変わってきたんですね。日本語でロックやポップスを歌ってもかっこよくなりました。ですから拓郎さんなんかの努力で、歌謡曲が非常にカッコよくなりました。ニューミュージック革命以後、日本語の発音は英語風になっているんですよ」と論じている[249]。
- 拓郎の"字余り字足らずソング"については、同業者の中に批判する者もあり、赤い鳥は1974年のインタビューで「ただ言いたいことを言いたいんだったらシャベればいいんであって、音楽を使ってやっているんだったら、それは音楽に対する冒涜」などと批判している[250]。
- です・ます調の普及者
- 作詞やラジオパーソナリティとして多く用いた「〜なのです」「〜なのだ」「〜であります」「〜でありまして」「〜でありました」などの言い回しは、です・ます調(デス・マス調)と呼ばれ、松本隆とともにその普及者といわれる。
- 拓郎の場合は、曲作りだけでなく、多くのラジオレギュラーでもこのような言い回しを多用し、当時のフォーク少年にこの口調を真似られた。
- 拓郎自身は自著で「深夜放送でのシャベリ口調は言葉の遊びとしてやたら連発した」「その後、歌謡曲や小説、誌面の見出しなどに"です・ます調"が増えた」「僕は音楽シーンにおける"です・ます"はひとつの革命と信じる。確実に歌の世界が広くなった」 などと述べている。
- こうした言葉の使い方は歌謡界、職業作家にも影響を与えた。
[編集] 作曲法
- 日本語による曲作りの定着
欧米からの輸入であるフォークやロックは、1970年代初め頃まで、そのまま英語で歌うべきか、日本語で歌うべきか、といった議論がまだされていた。"日本語ロック論争"(はっぴいえんど論争)などが有名だが「新譜ジャーナル」の編集長を務めた鈴木勝生は、「日本語でうたう運動そのものが影を薄め、日本語でうたうのが当たり前という時代を迎えたのは1972年、吉田拓郎の「結婚しようよ」「旅の宿」の二曲の大ヒット以降で、そのためか、1970年9月から東京日比谷野外音楽堂で年に二回開かれ、多くのフォークとロックのアーティストを育てた"日本語のふぉーくとろっく"のコンサートも1972年5月で終了した」と論じている[252]。
- 拓郎節とも呼ばれる個性の強いメロディライン
- 拓郎のフォロワーが多く現れた理由としては、拓郎の曲がとっつきやすいといわれるテンションが少なくシンプルなコード進行であり、それにも関らず非常に個性の強いメロディラインで構成されていることが考えられる[253]。
- 近田春夫[257]は著書の中で、「無理のない曲で、シロウトにでも作れそうな、しかもプロを感じさせる作曲家こそ天才で森田公一と拓郎にそれを感じる」と述べている[258]。
- ピチカート・ファイヴの小西康陽は、好きな作曲家として"歌謡曲作家としての拓郎"を挙げている[259]。
- 喜多条忠は、拓郎を「当代一のメロディ・メーカー」と評価している[260]。
- 小林武史は、「あくまでこれは僕の見方ですけど、『吉田拓郎という作曲法』の人と言っていいんだと思う。何しろ、ものすごいオリジナリティがある。詞がウンヌンより曲作りがものすごい。それは『襟裳岬』一つ取っても分かる。拓郎さんもボブ・ディランから影響されているんだろうけど、Aメロ→Bメロ→サビじゃない構成も普通にあって、"何なんだろう、あれ?"って思う」と話している[261]。
- 福田和也は、「吉田拓郎はメロディメーカーとしても、すごい独特。『襟裳岬』は本当に"話し出す"みたいなどこにもないメロディラインで完璧にオリジナル、山田耕作のあとは吉田拓郎しかいないんじゃないか、と誰かが書いてた[262]」などと話している[263]。
- 佐藤良明は著書の中で、日本語によく馴染み、私的コミュニケーションの雰囲気を作りだす拍どりを「しゃべり拍」と名づけ、「これを1970年代の日本のうたに浸透させたのは、この拍どりを多様した拓郎らフォークシンガーの功績」と論じている[264]。
- なお、拓郎自身は日本の作曲家として、浜口庫之助、平尾昌晃[265]がいいと言ったことがある。
[編集] 歌唱法
山本コウタローは、拓郎以前のフォークシンガーは、岡林にしてもわりときれいな声で、拓郎のような怒鳴り調、太い声で歌うシンガーはあまりいなかったと述べている。さらにその声だけでなくビートの強さ、リズムの良さ、その上歌詞も素晴らしい、一方で「イメージの詩」を歌いながら「マークⅡ」のようなポップな曲も歌える幅の広さが衝撃的だったと話している。また自分の歌、メッセージ、スタイルを人にどう伝えられるか、どう守るかといった"自己プロデュース能力"が早くから秀でていたと、今になると思うと話している[266]。
小坂忠や久保田麻琴、荒井由実などのバックでドラマーを務めた平野肇は、拓郎の『今はまだ人生を語らず』(1974年)のレコーディングに参加したが、「ペニーレインでバーボン」に於ける拓郎のボーカルスタイルに驚き、「こんなボーカルははじめてだった。ロックのセッションもずいぶんやったし、いろいろなタイプのボーカリストともやってきたけど、段違いのパワーを感じた。しかも日本語がこれほど突き刺さってくるという驚き。完璧にロックであり、ロックスピリッツに満ちた歌だった」と感想を述べている[267]。
こうした作詞法[268]や作曲法、テーマ設定[269]、楽曲アレンジ、歌唱法などは、その後の日本のフォークとロックに有形無形の影響を与えることとなった[270]。渡辺プロダクションのお抱え編曲家だった東海林修は「旅の宿」が世に出たとき、ニューミュージックのパワーより、フォークやロックを回路して滲み出てきた日本の土着性を聴き分け「豆腐と障子紙以外に、はじめて日本のオリジナルが出た」と唸ったという。ナベプロにニューミュージックのセクションが創設されたのは「旅の宿」の大ヒットがきっかけ[271]。
[編集] アルバム製作
- ロックバンドと共同でのアルバム制作
- 1stアルバム『青春の詩』の製作にあたり、エレックレコードの専務兼プロデューサー・浅沼勇は自身が審査員を務めたヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト第2回のボーカルグループサウンド部門で優勝したマックス[注釈 22]を起用した[272]。
- 日本初の本格的ライブ・アルバム
1971年発売のアルバム『よしだたくろう・オンステージ ともだち』には曲の合間のMC(当時"シャベリ"などと呼ばれた)がたっぷり入っている。当時のフォーク・シンガーはこういうスタイルが多かったが、それをそのまま収めてライブ・アルバムで出すのは珍しかった。また拓郎の独持の口調「○○でアリマス」などの言い回しもよく流行った[275][276]。1973年に本格的なブラス、ストリングスを加えて行われたライブを収録したアルバム『LIVE'73』は日本のレコード史上最初の本格的なライヴアルバムともいわれる[137]。 このライブで歌われた楽曲は大半が新曲。まだステージで一度も歌ったことのない新曲をライブで披露するという試みも前例のないものであった[277]。
- カバーアルバムの先駆
フォーライフ2年目の赤字を解消するために制作された1977年のアルバム『ぷらいべえと』では、石原裕次郎の「夜霧よ今夜もありがとう」、渡哲也の「くちなしの花」と演歌、 セルフカバー「メランコリー」、フォーク・クルセダーズのスタンダード「悲しくてやりきれない」ほか、年々評価を上げた郷ひろみの代表曲「よろしく哀愁」などの歌謡曲が取り上げられている。これも近年増えるカバーアルバムの先駆的なもので、現在では考えられないが、当時は"創作力のダウン"とか"売らんかな主義"とか酷評されるなど賛否両論が出た[156][278][279]。しかしながらメロディ・メーカーとしての才気やボーカリスト・吉田拓郎としての魅力も発揮したといえる[270][278][280]。オリコンで2週連続で1位を記録、カバーアルバム最初のNo.1ヒットでもあった[157]。パート2を作ってくれという営業サイドからの注文には頑強に断った[281]。前述のように批判的な論調が多かったこともあってカバーアルバムは、当時は現在のように大流行することは無く、この次のカバーアルバムといえるものは、甲斐よしひろがソロ名義で出した1978年5月のアルバム『翼あるもの』となる[282]。
[編集] 多様な音楽ジャンルへのアプローチ
『青春の詩』でマックスと共にバックを務めたのがジャズ・ギタリストの沢田駿吾クィンテット。70年代の前半は"フォーク"も"ロック"も、明確な区別やジャンルがあったわけではなく(現在も明確にはないが)、"新しい日本の音楽"という沸々と滾るマグマのような流れの中で混在しつつ共存していた[275]。拓郎はその頂点、あるいは"クロスロード"的交流点に立っていた[275]。1stアルバム『青春の詩』や、拓郎自身がプロデュースを務めた3rdアルバム『人間なんて』では、ロックやR&B系のミュージシャンを多数起用し、すべてを包括しようという大胆な試みを行っている[275][283]。1970年前後に「日本語のフォーク、ロック」という論争があったが、拓郎はフォークやロックなど、多様な音楽ジャンルに「日本語」で、早くからアプローチをかけていたのである[275][284][285]。1972年7月に発売された猫の「雪」は、ボサノバ・ラテン調の洋楽ポップス的サウンドであるが[286]このレコーディングに拓郎から伴奏を頼まれたというエディ藩は、凝ったフレージングをやると、「やめてくれ、もっと大衆的な弾き方でやってくれ」などと、色々注文をつけてきて、すごい商売人、さすが売れるレコードを作る男だ、と感じたと述べている[287]。
[編集] 大規模コンサートの実施
[編集] 全国ツアーの手法に新機軸
- 1973年秋、タレント売り出しに何千万もかけてテレビ中心に売り込みをかける当時の業界への反発から、日本のミュージシャンで初めてPA、照明などのスタッフを帯同しての全国ツアーを敢行する[45][115] [126][288][289][290]。
- 当時、この手法は色々と困難であるという指摘を受けたという。実際、会場が取れないなどの軋轢も生んだが、やがてこのシステムが一般的となった。
- この事は、従来、地元の興行師が仕切って来た運営が縮小し、地方のイベンターや、ぴあに代表されるチケット事業、情報サービス事業など、新たな産業を生み出した[291]。
- 1970年代はじめから小坂忠や久保田麻琴、荒井由実などのバックでドラマーを務めた平野肇が、拓郎の『今はまだ人生を語らず』(1974年)のレコーディングに参加した後、拓郎にペニーレイン[292]で、「今度ツアーがあるんだけど、一緒にまわらないか」「俺たちのツアーは面白いぞ」と誘われ、この"ツアー"という響きに大きな魅力を感じたと述べている[293]。拓郎は全国ツアーを始めたと同時に"ツアー"というフレーズを常用していた。
- 同じ年の10月に神田共立講堂で2日、渋谷公会堂で同じく2日と4日連続で行われた公演も今では珍しくない大ホール連続公演の日本でのさきがけと言われる。
[編集] つま恋オールナイトコンサート
1975年8月2日〜3日に開催された「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」もまた画期的なものだった[294]。それまでもオムニバス形式(多数の出演者)やオールナイトで行われたコンサートもあったが、観客は数千人から多くて1万人程度であった。このコンサートのように単独に近いアーティストで、5万人以上(警察発表7万5千人、チケット印刷7万4千枚[295]、チケット発売枚数推定5万6千人[296])を動員した大規模なものは前例がなく、これも大規模野外コンサートという、現在では珍しくない一つの形式を作ることとなった。またフォーク系の野外コンサートは数年来、退潮が伝えられ途絶えかけていた時代の開催でもあった[294][297]。チケットはすぐに完売したが、静岡県の県条例が青少年の外出は夜11時と制限していたため、オールナイトイベントに強行参加する青少年を強制退去させれば中津川以上の暴動が起こるのでは、と不安視された。静岡県警と教育委員会に中止勧告が出されるなど、イベントが近づくにつれつま恋は開かれないのではという噂が立ち始め、ユイ音楽工房は何度もつま恋は開催されると広告を打った[298]。最終的に事態を打開したのは、そうした事情を聞き及んだヤマハの川上源一のバックアップだった。静岡県はヤマハが強く何とか開催に漕ぎ着けた[299]。
当日は、早朝から大群衆が長蛇の列を作り会場に一斉になだれ込んだ。コンサートは無事夕刻から始まり12時間、途中ゲストアクトをはさみながら、かぐや姫と交互にステージに立ち、拓郎59曲、合計108曲が「人間なんて」の大合唱で夜明けとともに終了した[300]。
コンサートの企画、及び運営は、後藤由多加が「ウッドストック」に触発されてユイ音楽工房主導で行ったもの。またこのコンサートの模様を収録したドキュメンタリー映画が作られ、日本全国でフィルム・コンサートという形で上映された。撮影したのは石田弘を中心としたフジテレビの撮影クルー[301]。このコンサートを坂本九が最前列で全編通して見続けていたことはあまり知られていない。
[編集] 篠島コンサート
- 1979年7月26日〜27日に行った篠島コンサートは、一つの離島を借切るというイベントで、日本のコンサートでは史上初の試みであった[注釈 24][302]。先のつま恋と合わせ、常識を覆して深夜に人を集めるという方法で成功を収めた[303]。
[編集] 吉田拓郎&かぐや姫 Concert in つま恋 2006
- 2006年9月23日、31年ぶりにつま恋でかぐや姫とのコンサート『吉田拓郎&かぐや姫 Concert in つま恋 2006』を開催した。
- コンサートは午後1時過ぎから、拓郎とかぐや姫が一緒に歌う『旧友再会・フォーエバーヤング』に始まり5部構成で午後9時30分過ぎまで続くという大イベントであった。
- 構成は1、3、5部が拓郎のステージで、3部ではかまやつひろし、5部では中島みゆきが共演した。主催者発表の入場者数は3万5千人だった。
- このコンサートはこの年を象徴する出来事として、一般新聞の一面でもとりあげられるほどの社会的関心を呼んだ。それは音楽という範囲にとどまらず、昨今の「団塊の世代」を中心としたシニア層の動きを代表する実例ともいわれた[307]。
- NHKがコンサートの生中継を行い、NHKBSハイビジョンにて放送されたが、途中2時間の大相撲中継が入ったために拓郎の第2部(全体の第3部)は放送されなかった。
[編集] 音楽ビジネスへの影響
[編集] フォークの地位の向上
- エレック在籍時には社員扱いだった拓郎の作品には作詞、作曲、歌唱の印税保証はなく、一緒にユイ音楽工房を設立した後藤由多加に聞かされ初めて歌にそういう権利がある事を知った[309]。
- 1972年「旅の宿」の大ヒット中に有名な「テレビ出演拒否」を行う[312][313]。
- 出演を拒否した拓郎の要求をテレビ側が受け入れ、これはテレビ業界とフォークシンガーの力関係が逆転するきっかけとなった。現在でもテレビがJ-POPを扱う場合、ある種の配慮をアーティストにするのはこの時を始まりとしている[314][89]。
- 歌番組への出演を拒否した拓郎のために、テレビサイドは異例のコンサート中継をオンエアした。こうした対応も拓郎から始まったもの[315]。
- 紅白歌合戦の場合も、NHKは拓郎に相当アプローチしたが最終的に拒否され以降、ニューミュージック系の歌は紅白では聴くことが出来ないという常識が定着したものだった[316]。
- 「テレビ出演拒否」「マスコミ取材拒否」「人気絶頂期の結婚」など、拓郎は多くのそれまでのタブーを破り、フォークにポリシーを持たせることで、歌謡曲とは違うという鮮烈なイメージを持たせ若者の心をとらえた[314][317][70]。また時と場合によってはそうしたタブー破りがニュース価値を生み、宣伝効果を持つことも明らかにし[318]、"芸能界"とは別のところで"流行歌"が存在できることを証明したのである[319]。
- 相澤秀禎は「1970年代は芸能界にとってテレビという巨大メディアが宣伝プロモーションには欠くことのできないものであることを決定付けた時代であったが、この大きなパワーを持つテレビをあえて拒否し独自の道を進んだ吉田拓郎らニューミュージック系歌手のやり方は、それを貫いたことで成功し定着した。これは多様化しはじめた宣伝作戦の方向性を指し示していたといえる」と論じている[320]。
- マスメディアでの拓郎の露出の増大は、日本の音楽シーンでフォークの存在感を高め、音楽誌でも従来の洋楽中心から次第に日本のアーティストのページを増やすこととなった[321]。
- 拓郎が登場する以前の三橋一夫ら、日本のフォークを評論していた人たちは、洋楽の片手間仕事に"日本のフォーク"を評論していたが、拓郎が急激に売れてさらにマスコミ拒否をやったため、まともな記事を書ける人がおらず、拓郎と岡林を聴いて東大を辞め、初の"日本のフォーク評論家"の看板を上げた富澤一誠の元に執筆依頼が殺到したという[322]。
- 「ヤング・ギター」初代編集長の山本隆士も「拓郎に出会わなかったら『ヤング・ギター』はなかったと思う」と述べている[323]。
- 小説家の盛田隆二は「いつか拓郎の本を作りたい」とぴあに入社し、拓郎が出演した映画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』(1986年公開)と連動した『THE BOOK OF Ronin』(ぴあムック・1986年刊)を企画し編集長を務めたという[324]。
- 『新譜ジャーナル』最後の編集長だった大越正実は、「高校時代に聴いた拓郎のアルバム『ともだち』から自身の拓郎大バカ人生が始まり、それが高じて編集長まで務めてしまった」と話している[325]。
- 1999年に刊行された福島直子著「吉田拓郎サマへの道」は、「オールナイトニッポン」で拓郎が懇意にしている「月刊明星」の編集者がいることを知った著者が、拓郎に会いたいがために「明星」編集部に就職する話で、歌謡曲アイドルの専門誌だった「明星」に拓郎がしばしば登場したのはこれらの理由から[326]。
- 「サウンドストリート」(NHK-FM)のディレクターで、佐野元春を発掘しDJに抜擢した湊剛は「吉田拓郎だけが個人的にファンで、ずーと好きだった」と述べている[327]。
- 拓郎を入口に音楽の世界に導かれた人物は、このような出版、音楽関係者[328]、ミュージシャンなど数多いが、テレビの音楽関係者でいえばその代表的な人物がきくち伸ということになる[329]。
- 『新譜ジャーナル』や『guts』などは巻頭グラビアをフォークシンガーの写真で飾ったり、彼らのエッセイや対談、そしてゴシップ記事を掲載するようになった[330]。この1972年には講談社から、拓郎らフォークシンガーが表紙やグラビアを飾る「月刊明星」のフォーク版ともいうべき「ヤングフォーク」なども創刊された(1982年廃刊)[331]。これも拓郎がそれまでのフォークシンガーになかったアイドル的な魅力を加えたため。女の子のファンが急増しファンレターは1日500通と、アイドル並みの人気があった。1973年のツアーで青森を訪れた際には、駅から会館までの沿道を若者が埋め尽くしたといわれる[332]。拓郎はフォーク界で初めてミーハー人気を得たスターだった[333]。こうしてファン層を広げて、フォークのパイを大きくしていった[334]。またこの頃から、立風書房などが、フォークシンガーやディスクジョッキーなどのエッセー集を積極的に出版するようになった[335]。北山修「戦争を知らない子供たち」、高田渡「個人的理由」、早川義夫「ラブジェネレーション」、及川恒平「歌謡詩集」など。拓郎が1972年、立風書房から刊行した「気ままな絵日記」はベストセラーとなる。若者が書いた文章はこの頃から「身近な活字」として触れやすいものとなった[335]。これらはフォークシンガーのタレント化をもたらし、"タレント本"の類が量産されるのはこの頃からである[336]。
- 日本のフォークやロックの流れは1972年に大きく変わった。この年1月に発売された拓郎の「結婚しようよ」が、爆発的なヒットとなり、それまでメジャーな歌謡界や大人のメディアからは見向きもされなかったフォークソングが一転して商業的な舞台で注目されるようになった。
- 長髪で反体制的と見られてきた、そうした音楽が若者風俗として認知されるようになった[337]。
- 拓郎が出てきて大ヒットを連発するに及んで、音楽業界でもフォークは売れるもの、十分商売になるものと考えられるようになった[338][339][69][337]。フォークは"アンダーグラウンド"から"オーバーグラウンド"な存在へ浮上していく[340]。
- 渡辺プロダクションにニューミュージックのセクションが創設されたのは「旅の宿」の大ヒットがきっかけ[341]。かつて岡林信康や高石友也がいくら人気を集めていても、レコードの売り上げはたかだか知れていた[342][343]。
- 吉田拓郎に続けとばかり、すぐれたオリジナル曲を有する日本各地のミュージシャンの多くが上京。マイナーレコード会社だけでなく、メジャー系レコード会社もフォークの新レーベルを設立し、レコード会社もプロダクションも競ってフォークの新人たちを市場に送り込み[344]、後に続いた井上陽水、かぐや姫らの大ヒットで大きな潮流となり、1960年代後半のカレッジ・フォークブームを凌ぐ一大フォークブームを迎えることになった[345][339][346][78][347]。
- また演歌か歌謡曲かのくくりで燻っていた既存の歌手にも新たな道を拓くこととなった[348]。
- 吉田拓郎最大の功績は、フォークをひいてはロックをビジネスとして確立し、日本で自作自演の音楽を普及させる大きな原動力となったこと[224]。これにより現在のJ-POPの基礎が築かれたといえる[349][350]。
[編集] コマーシャルソング
拓郎は早くからCMソングを自作自演し、反商業主義のプロテストソングと一線を画した[351]。1960年代の異議申し立ての運動と連動していたフォークにおいては、CMソングを作り歌うなどということは、商業的で否定されるべきことだった。吉田拓郎にはそんなこだわりはなく、フォークソング対CMソングといった対立は、まったくなかった[352]。
1971年、中外製薬の『新グロンサン』のCMソングを歌い、ACC(全日本シーエム放送連盟)全日本CM フェスティバル・シンギング部門で入賞[353]。
この年は他に、松下電器産業「テクニクス・ステレオ」試聴盤「僕の旅は小さな叫び」(唄のみ、非売品、ステレオ購入者へのおまけ)、SEIKOとタイアップシングル「サヨナラ僕は気まぐれ」(作詞・作曲・唄。B面「青春の終わり」は作詞・作曲が拓郎で、唄がピピ&コット、三越とのタイアップシングル、非売品)を手がけた[354]。
1972年には「旅の宿」の大ヒットに目をつけたフジ・フイルムが拓郎の作詞・作曲・歌によるCMソング「HAVE A NICE DAY」を連日放送した(背景には1970年から国鉄の“ディスカバー・ジャパン”キャンペーンが始まっていたことがある)[355]。内容は拓郎の歌に合わせて若者がポーズをとるというもの等があり、大きな話題を呼んで"HAVE A NICE DAY"は流行語にもなった[356]。『Have A Nice Day』の第二弾(天然色写真編)は、全編広島弁の歌詞で歌われており、方言で歌われたCMソングとしてはこちらも先駆的なものとなる。
同年、松下電器のステレオのCMソングも歌唱(自作曲ではない)、前年に続きACC全日本CMフェスティバルで入賞[357]。
さらに同年、りりぃに資生堂?フェミニンのCMソングを提供し、スバル・レックス(富士重工)のCMで「僕らの旅」を自作歌唱した[109]。このスバル・レックスのCMもテレビ・ラジオで大量露出し、当初はソノシートの非売品だったが反響が大きく、後にレコードが発売された[354][358]。 これらの大ヒットをきっかけに企業はフォーク・シンガーをこぞってCMに起用するようになった[359]。人間どうしの触れ合い、人間関係そのものをテーマにしたCMソングが増えてくるのは、1970年代前半の私小説主義的フォークと共通している[352]。 広告の世界とは交流なかったフォークやロックのアーティストがCMに関わるようになったのは、「HAVE A NICE DAY」が成功してからである[360]。しかし1970年代初頭ではまだ、テレビCMの世界で自らのサウンドスタイルを崩すことなく音楽制作を聞かせることができたのは、拓郎と大滝だけであったといわれる[361]。
これらは1970年代半ばからの資生堂とカネボウによる「化粧品キャンペーンソング戦争・タイアップ戦争」のニューミュージック系歌手の起用でピークを迎えた[362]。
小川博司は、「吉田拓郎がこの時期てがけたCMソングはフォークの日常感覚により活性化された。逆に、商業主義的なものとは無縁の存在で、そこに自らの存在理由を見出していたフォークは、CMの世界に一歩踏み込み、ここでも方向転換をとげた。この後フォーク対歌謡曲、広告音楽対レコード流行歌といった区分は、ますます曖昧なものとなり、CMソングがレコード化されることも頻繁になった」と論じている[363]。
桜井哲夫も、「吉田拓郎が『フォーク』と『歌謡曲』の区分をこわしたこと、CMソングに進出したこと、この二つの点こそが拓郎以後を特徴づけることになった。フォーク対歌謡曲、CM音楽対レコード流行歌といった区分は揺らぎ、融合してゆくことになった」と論じている[364]。
[編集] 新旧の音楽界の交流の活性化
森進一に提供した「襟裳岬」の大ヒットをきっかけに渡辺晋は、拓郎の楽曲の実力を買って、キャンディーズなど多くの自社所属歌手への楽曲提供を拓郎に依頼した[365]。渡辺プロダクションは、これを機に布施明へ小椋桂の「シクラメンのかほり」(1975年)、三木聖子へ荒井由実(1976年)の「まちぶせ」など、他社に先駆け積極的にニューミュージック系ミュージシャンの起用を行った[366]。これ以降、楽曲を媒介にして旧勢力と新勢力の両者は交流を始め、演歌界を含む歌謡界がニューミュージック系ミュージシャンの楽曲を取り上げることがブームになり定着していった[367][368]。これはニューミュージックという言葉をより曖昧なものとしてしまった原因のひとつでもあるがこの後、阿久悠や筒美京平のように歌謡曲側の作家が、それぞれ桑名正博、Charのようなニューミュージック側の人に曲作りをするという現象も多くなった[369][370]。またCMソング作家だった小林亜星が作曲した「北の宿から」が1976年、第18回日本レコード大賞等を受賞するというようなケースも出てきた[371]。「襟裳岬」の前までは演歌系歌手は演歌系作家が作る、のようなはっきりした図式があった[372]。これらはフォークが歌謡曲に取り込まれた、歌謡曲化したともいえるが、フォークがアンダーグラウンドから脱し市民権を得たともいえる[373][223]。「襟裳岬」が世に送り出されていなければ、今日のJ-POP自体がかなり異なったものになっていた[149]。拓郎は同年、浅田美代子に「じゃあまたね」を小柳ルミ子にも「赤い燈台」を書き下ろし、シンガーソングライターとアイドルの蜜月という架橋を同時に築く。歌謡曲の進化をもたらした異業種混合のコラボレートの歴史は拓郎の偉業から始まる[374][223][375]。この後、"日本初のアーティストによる"レコード会社フォーライフを立ち上げ、原田真二をプロデュースして、ロックのアイドル化、メジャー化にも貢献[161][162]。歌謡曲とフォーク/ロックの融合という難事業を、ほぼ一人でやってのけた[149]。
[編集] プロデューサーとして
拓郎はいわゆる歌謡曲のアイドルの作曲家としても重要な活動を行い、一つの時代を作ったが、拓郎は「東京へ出てきてからの音楽活動で何が楽しかったかって、アイドルの作曲ほど楽しいものはなかった。『歌って、こういうふうに歌うんだよ』なんて教えるときに気持ちよさといったら、もう」などと話している[6]。
- ミュージシャン系プロデューサーの先駆
小室哲哉やつんくのプロデュース活動が話題を呼んだ頃、ミュージシャン系プロデューサーの先駆者としても紹介された[376]。拓郎自身、プロデューサー業を手掛け始めた1972年頃からすでにプロデューサー業に対する強いこだわりを持ち、1976年の自著『明日に向かって走れ』でも、プロデューサーとは何かとの持論が長く語られている。
小室哲哉は拓郎について、「フォーク、フォークといわれながらメディアに対しての姿勢とかにロックを感じた」「歌謡曲への影響力の在り方は日本にもこういうことが有り得るんだ、と目標というか光が見えた気がした」「やっぱり憧れてたし少なからず影響は受けてると思う」等と話している[377]。
つんくは2003年、ソニンに「合コン後のファミレスにて」という拓郎のパロディのようなシングル曲を書いているが、つんく自身は長渕剛を尊敬していると話している[378]。
- かまやつひろし
かまやつひろしとのコラボレーション、1974年、デュエット「シンシア」、1975年のオリコン1位「我が良き友よ」は、拓郎ファンだったかまやつが「一緒にやろう」と長年、拓郎を口説いて実現させたもの。
今でこそ異色とも何とも感じないが、当時の感覚からすれば、フォークの拓郎と元グループサウンズのかまやつとの共演は事件であった。かまやつはロック仲間から嫌味や批判を受けたと話している。こうしたロック、先の演歌やアイドル歌手を含む歌謡曲、子供番組などとのコラボレーションを含めて異種組み合わせの突破口を開いた先駆者でもあった[379]。「シンシア」は、拓郎がファンだった南沙織へのオマージュ曲で、同時代に活躍したアイドルの名前・愛称をタイトルに付けて唄うという珍しい楽曲[380]。『ミュージックフェア』で共演もしている。
- キャンディーズ
1977年、渡辺晋から「キャンディーズを大人にしてやってくれ」という依頼を受け[381]、キャンディーズ の「やさしい悪魔」と「アン・ドゥ・トロワ」のシングル2曲を含む4曲の作曲を手がけた[170][382]。
もともと拓郎はキャンディーズファンで、キャンディーズのブレイク直前に自身の番組『吉田拓郎のオールナイトニッポン』にゲストで呼んだり(1975年3月4日、ミキちゃんは風邪で欠席)、特にスーちゃんファンで[383]、やはり『オールナイトニッポン』」にスーちゃんを単独でゲストに呼んだこともある[384]。ただし拓郎のアルバム『ぷらいべえと』のジャケットの女の子の絵は、拓郎が週刊誌で見たランちゃんを書いたと言われており[385]真偽は不明。女の子は「やさしい悪魔」のジャケットのランちゃんに似ている[386]。
「やさしい悪魔」は音域の広い難曲で、歌のうまいキャンディーズもレコーディングに苦戦した。これはキャンディーズファンだった拓郎が、レコーディングでキャンディーズに歌唱指導をしたいがために、わざと難しくしたと噂が出た[387]。「やさしい悪魔」は、それまでのキャンディーズの清楚なイメージを一新、アン・ルイスのデザインによる大胆な衣装と“デビルサイン”を含めた斬新な振り付け、“大人化計画”に応えた詞曲も話題を呼び、キャンディーズ最大のヒットになった(最終的には「微笑がえし」、「わな」に次ぐ3位)。キャンディーズファン・石破茂も「音楽的に完成度が一番高い名曲」と話し[388]、ラジオのキャンディーズ リクエストで1位になったこともある[389]。キャンディーズ自身も「私たちの代表曲」と話している[390]。後期キャンディーズは、拓郎抜きに語れない[149]。拓郎も「やさしい悪魔」を自身のアルバム『ぷらいべえと』で、「アン・ドゥ・トロワ」は『大いなる人』でセルフカバー、後者はキャンディーズが解散宣言(1977年7月)した直後のリリースだったため、サブ・タイトルに「ばいばいキャンディーズ」と付け、歌のラストで“さよならキャンディーズ”と歌った[156]。
このシングル2曲の他に、「やさしい悪魔」のB面「あなたのイエスタデイ」、1977暮れに発売された5枚組アルバム『キャンディーズ1676DAYS』に収録された「銀河系まで飛んで行け![391]」(いずれも『GOLDEN☆BEST キャンディーズ』に収録)を提供。なお「銀河系まで飛んで行け!」は、事務所の先輩・梓みちよが気にいり、同曲を自身が先にシングルカットしてしまったため、キャンディーズがシングルで出せなかったとされる。
- 梓みちよ
梓みちよのレコーディングでは「アナタは歌がうまいから困るんです。僕としては、もっと下手に、そう、思い切って下手クソにやってほしいんです」と言うと、梓は『メランコリー』を目一杯下手クソに歌って一言、「これでいいわけ。フン、変なの、アンタたちの音楽」と言ったという[392]。ただ、梓は拓郎はレコーディングには来なかったと話している[393]。この曲の作曲は拓郎だが「緑のインクで手紙を書けばそれはさよならの合図になる」と書かれた喜多条忠の作詞も話題を呼びヒットした。それまでフォークの作詞家だった喜多条に「お前に歌謡曲の作詞はムリだろ?」と言う拓郎の挑発に喜多条が奮起して作詞を手掛けたもの[394]。同年、梓も紅白歌合戦で歌う際、この曲の短縮を要求されNHKともめた。
- 原田真二
フォーライフ第1回新人オーディション(1976年)に応募してきた原田真二は選考段階では不合格であったが、興味を示した拓郎が課題を再提出させ [395]原田の高校卒業と上京を待って1977年10月、拓郎プロデュースにより「てぃーんずぶるーす」でデビューさせた[396]。
デビューにあたり原田の部屋探しから、原田の曲作りのため松本隆や瀬尾一三を交えて合宿させたり[144][397]、もともとギターを弾いていた原田を当時は珍しいピアノの弾き語りに変えたり、拓郎自身が始めた"ニューミュージック系の人達はテレビに出ない"という風潮の時代に、原田には一転、パブリシティのためラジオ・テレビの出演や雑誌の取材を積極的に用意した[398][160]。
こうした戦略が功を奏し、シングル3曲が同時にオリコンベスト15位入り[399]、ファーストアルバム「Feel Happy」が史上初のオリコン初登場第1位(4週連続)を獲得する快挙を達成し[400]フォーライフの危機をも救った[83][401]。また原田はヤマハ出身の世良公則&ツイストとともに、女子中高生を中心に爆発的人気を呼び、それまでの"日本のロック系ミュージシャン"には付いてなかった女性ファンを開拓し新たな潮流を生み出した[402]。"日本のロック"のメジャー化に多大な貢献があった[403][404]。
- 石野真子
1978年デビューの石野真子については、阿久悠が他のアイドルとは違う売り方を考え拓郎に作曲を依頼した[405]。石野はフォークソングが好きで拓郎のファンだった[406]。デビュー前の石野と六本木のバーで初めて面会した際、「本当にこの人デビューするんですか」と疑いたくなるほど最初は太っていたが、不思議な芸能界は3ヶ月で見違えるように変身させて来た。「狼なんか怖くない」のレコーディングでは、唄えば唄う程上手くなると石野を徹夜で励まし、デビューに賭けたスタッフからは、レコーディングが終了すると大歓声が上がった[407]。曲の音程の上がり下がりが難しくレコーディングに8時間かかったと石野は話している[408][170]。拓郎の曲は難しいとキャンディーズも話していた。
吉田は石野真子に対して、デビューシングル「狼なんか怖くない」「ひとり娘」、2作目「わたしの首領」「いたずら」、そのほか「ぽろぽろと」、「ジーパン三銃士」(すべて作詞は阿久悠)を提供した。また1978年8月、文化放送深夜ラジオのセイ!ヤングに石野をゲスト出演させた際は、「初めてあなたと会った時は、こうゆうのは初めてですが二人で頑張りましょう!と話しましたね」、「あなたはラジオよりテレビのほうが面白いね」などと紹介した。
森進一に提供した「襟裳岬」は「襟裳岬 (森進一の曲)」を参照
[編集] ラジオ・パーソナリティとして
- しゃべり(MC)の魅力
ソノシート制作のきっかけとなった1970年6月の広島フォーク村アルバム発売記念コンサートで拓郎を初めて見たという「ヤング・ギター」初代編集長の山本隆士は「しゃべりが面白く『歌えて、しゃべりも出来る』というスタイルは拓郎が最初じゃないかな」と述べている[409]。
拓郎のファンになった切っ掛けとして長渕剛のようにギターやハーモニカを掻き鳴らして唄う姿に痺れたという人や、ルックスに惚れた、とにかく曲がよかったという人など色々だが、その他、コンサートでの"シャベリ"、"しゃべり"今でいう"MC"の面白さや歌唱時の声とは違う、喋るの時の低音でよく響く声の魅力を挙げる人も多い[410][411][412]。
ホリプロで井上陽水の初期のマネージメントを担当した川瀬泰雄は『拓郎らはしゃべりが上手で、コンサートの半分はしゃべりで客をわかせたりしていた。ところが陽水はぜんぜん受けず。たまにコンサートでポツリと受ける言葉をメモして陽水に渡した。ともかく客に受けることで必死だった』と話している[413]。
初期の拓郎の"しゃべり(MC)"は長く、持ち時間50分のステージでたった2曲を演奏し、残り40分がMCというようなこともあった[414]。
こうした拓郎の"しゃべり"を当時のアマチュアもよく真似た。この頃のフォークシンガーは自分の思ったこと、「バカ野郎、テメエ、この野郎」「テメエ、ブッ殺してやる」とか、あっさり平気で言っていた[415]。
拓郎は1972年5月の「guts」のインタビューで「日本のフォークの連中はレコードは最高だけどステージがおもしろくない」と話しており[313]、後年始めたコンサートツアーと共にこうしたコンサート/ライブでの演出スタイル、ステージングに於いても草分けであった[416]。これは後、多くのレギュラーを持ったラジオのパーソナリティでさらに活かされることになる。
- ミュージシャン・パーソナリティ
1971年10月にパックインミュージックのパーソナリティに就任したのを皮切りに、担当した多くのラジオ番組と合わせ深夜放送のミュージシャン・パーソナリティのスタイルを確立した[417][418][419]。深夜放送のDJを"パーソナリティと"いう呼び方に変え始めたこの頃から、各局はこぞってフォークシンガーを起用[420]。これは巨大メディア化するテレビに対して、若者のパーソナル・メディアとしての存在に生き残りをかけていたラジオと、この後テレビを出演拒否する拓郎を始めとするフォークシンガー達が、ステータスを維持するための利害関係が一致した結果であった[421][422]。それは商業的にも大きな可能性を秘めた市場の開拓であった[421][423]。亀渕昭信は「深夜放送ブームと並行しまして、ちょうどフォークソングも全盛期を迎えました。吉田拓郎さん、南こうせつさん、さだまさしさん、松山千春さんといった、非常にしゃべりのうまい方をラジオのパーソナリティに起用したんですね。深夜放送ブームが去ってからも彼らの力によってラジオ番組は生き延びていったと言えるでしょう」と述べている[424]。
- 楽曲のプロモーション
ラジオでレギュラー番組を持ち、ヒットを出すやり方は、その後のニューミュージック系歌手の常套手段となった[425]。また拓郎の場合は自作曲の売り込みだけでなく、フォーク、ロック普及のため、他のアーティストを広く紹介したという功績もある。ガロの「学生街の喫茶店」やダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「スモーキン・ブギ」の大ヒットは拓郎が自身のラジオ番組でプッシュしたのが大きな理由だった[425][426]。
ラジオのパーソナリティが曲を紹介するのは当たり前だが、局アナよりも現役ミュージシャンが紹介すれば、より強い影響力を持つ。現役ミュージシャンが、まだ世に出ていないミュージシャンをメディアで紹介するという今に繋がる慣習は拓郎らの時代から。
- プロモーションの具体例
小田和正は1972年、拓郎が「パックインミュージック」でかけたチューリップのデビュー曲「魔法の黄色い靴」に大きな衝撃を受けたと話している[427]。
ECDも「パックインミュージック」で拓郎が次々と紹介する未知のフォークシンガーに大きな影響を受けたと話している[428]。
古井戸の金崎芳樹(加奈崎芳太郎)も、『拓郎が「パックインミュージック」で「花言葉」をかけてくれたときには、チャボ(仲井戸麗市)と夜中電話し合って泣いた。自分たちも担当番組(ラジオ関東・ナイト・トゥゲザー)で、他のフォークシンガーの紹介役になれればいい』と話していた[429]。
浜田省吾も拓郎が「吉田拓郎のオールナイトニッポン」で「二人の夏」を流してくれたら、夢うつつ状態の時にぱっと起きて「これが日本中に流れてる!」と感動して正座して聴いたという[430]。
この他、1972年沖縄の本土復帰直後に佐渡山豊らの「沖縄フォーク村」をラジオで紹介し大きな反響を呼んだ[431]。
1973年頃から深夜放送はあのねのねや笑福亭鶴光等、関西お笑い系、を加えて、それまでの局アナ中心から芸能人、タレント中心のラインナップに大きく変化、メジャー化し全国ネットとなって深夜放送は黄金期を迎えた[432]。
[編集] フォーライフの設立
詳細は「フォーライフ・レコード」を参照
[編集] 出演
[編集] 現在の出演
- 坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD (ニッポン放送、2009年-)
- 元気です! 吉田拓郎 (ニッポン放送、2010年-)
[編集] 過去の出演
[編集] テレビ
太字は冠番組、メインパーソナリティの番組
- 音楽番組
- ミュージックフェア'74(フジテレビ、1974年11月12日)南沙織と共演。
- 輝く!日本レコード大賞(TBS、1974年12月31日)
- 愉快にオンステージ(NHK総合、1989年10月23日)ホストとして出演。
- 愉快にオンステージ(NHK総合、1990年1月29日)ホストとして出演。
- 第45回NHK紅白歌合戦(NHK総合、1994年12月31日)
- LOVE LOVE あいしてる (フジテレビ、1996年〜2001年3月31日)KinKi Kidsと共に司会を担当。
- ワールドカウントダウンスーパースペシャル24時間まるごとライブLOVE LOVE2000〜世界中の子供たちに僕らが愛でできること(フジテレビ、1999年12月31日 - 2000年1月1日)KinKi Kids、篠原ともえと共にメインパーソナリティを担当。
- 吉田拓郎デラックス(NHK-BShi、2002年12月9日)
- 堂本兄弟(フジテレビ、2003年4月4日、11日)
- 拓郎・マチャミのみんな歌えるスーパーヒット(フジテレビ、2003年10月12日)
- 吉田拓郎&かぐや姫 in つま恋2006・総集編(NHK-BS2、2006年10月29日)
- 僕らの音楽(フジテレビ、2007年7月20日)
- 大いなる明日へ 〜復活!吉田拓郎〜(NHK-BS2、2009年3月22日)
他多数
- テレビドラマ
- あこがれ共同隊(TBS、1975年)ゲスト出演
- なつかしき海の歌(TBS、1975年9月21日)
- 幕末青春グラフィティ 坂本竜馬 (日本テレビ、1982年11月16日)高杉晋作役
- バラエティ番組
- 地球ZIG ZAG(TBS、1993年4月 - 1994年3月)司会を担当。
- 吉田拓郎のお喋り道楽(TBS、1997年4月4日 - 9月26日)
- 第11回FNS27時間テレビ 疾風怒涛!FNSの日スーパースペシャルXI真夏の27時間ぶっ通しカーニバル 〜REBORN〜(フジテレビ、1997年7月26日 - 27日)
- T×2 SHOW (テレビ朝日、2000年10月〜2002年9月)高見沢俊彦と共に司会を担当。
- ドキュメンタリー番組
- スーパーテレビ情報最前線 『吉田拓郎 「復活」への軌跡』(日本テレビ、2003年10月27日)
- プレミアム10 『今日までそして明日から〜吉田拓郎・35000人の同窓会〜』(NHK総合、2006年10月23日)
他多数
[編集] ラジオ
- 吉田拓郎のオールナイトニッポン(ニッポン放送)
- Super Music Stadium(ニッポン放送、2000年10月16日 - 2001年3月30日)
- セイ!ヤング(文化放送)
- セイ!ヤング21(文化放送)
- 吉田拓郎 わがままベスト10(ニッポン放送)
- 俺たちのオールナイトニッポン40時間スペシャル(ニッポン放送、2008年2月24日)
- 吉田拓郎 残暑お見舞い申し上げます(ニッポン放送、2008年8月)
[編集] 映画
- 幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬 (1986年)高杉晋作役
- 微熱少年 (1987年)カメラマン役
[編集] CM
[編集] 関連人物
[編集] 3度の結婚
- 最初の四角佳子との結婚は、拓郎が路上で4人を相手にケンカしてメチャクチャにぶちのめされたのを四角が介抱したのがきっかけ[313]。
- 二人の結婚式は1972年6月、軽井沢の教会で行われたが、婚約発表も自身のラジオ番組、パックインミュージックの中だけ、マスコミの取材・会見も一切しなかった。おめでたい結婚でマスコミを拒否するということも当時の常識では考えられないことだった。
- スターが結婚したら人気は間違いなく落ちる、というのも世の常識だったが逆に人気が上昇した。
- 拓郎の酒癖の悪さは有名で、上京当時は酔って週に1度はケンカをやったという[313]。
- 四角との間には三度の結婚歴で唯一の子供(娘・一般人)がいる[433]。
- 二人目の妻となった浅田美代子は拓郎自身もファンで、当時21歳で人気絶頂期だった浅田を自分の持ち番組にゲストで呼び、その後結婚した。
- 後に浅田が芸能界に復帰し「オシャレ30・30」等のトーク番組でその時のことを詳しく話してしまい、拓郎の行状が明らかになった。ゲスト出演して電話番号を交換すると後日(浅田の誕生日の前夜に)拓郎から電話がかかってきて「今、小室等さんと飲んでるんだけど、誕生祝いしてあげるから0時過ぎたら来なよ」と誘われた。マネージャーからは会ってはいけない、と釘をさされていたが、言われた酒場に行くと拓郎一人しかいない。「小室さんは?」と聞くと「ああ今帰ったよ」と言った。小室をダシに使ったわけである。
- 一説には男子トイレの前で拓郎が通せんぼをして「俺と結婚しろ!」と浅田に迫ったところ、浅田は恐怖と照れと喜びが混ざって頭の中が真っ白になり、思わず「ハイ」と承諾してしまった、とも言われている。
- なお拓郎からプロポーズを受けた浅田美代子の返事は 「……ハゲない?」だった[434]。
- 最初にこの二人の熱愛報道が出た時は、まだ四角との離婚は成立しておらず、この結婚には内田裕也・樹木希林夫妻の奔走があったという[435]。
- その後再び同じパターンで森下愛子とも結婚した。二度目のオールナイトニッポンのゲストで呼んだ時、森下は警戒し親友の竹田かほり(現・甲斐よしひろ夫人)と一緒にやって来た。森下は当時、根岸吉太郎との結婚が噂されていたが急転、拓郎と再々婚した[436]。
- 「オシャレ30・30」に出演(1988年5月15日)した森下自身の話では、ラジオにゲスト出演した2、3年後に偶然?美容室で(当時、アンドレ・ザ・ジャイアントみたいな頭をしていた)拓郎に会って「今レコーディングやってるんで、見に来ませんか」と誘われて行ったのが付き合い始めた切っ掛けという[437]。
- 他に古舘の「拓郎さんみたいな人を相手にするの大変でしょう?」という質問に対して森下は「いいえ、前のお二人が角を取って下さったみたいで、今はとても扱いやすいですよ」と答えていた。これらもフォーク・ロック系ミュージシャンとアイドル、あるいは女優との結婚の先駆けであった[438]。
- その他
- なおこれとまったく同じことを長渕剛が石野真子との結婚の時にした[439][149]。こちらをセッティングしたのは当時、オールナイトニッポンの構成作家をしていた秋元康[440]。ハワイの教会で行われた長渕と石野の結婚式の仲人を務めたのは拓郎と浅田夫妻(当時)であった[440]。
[編集] 交友関係
[編集] ミュージシャン
- 拓郎は浅川マキのファンでアマチュア時代に広島から上京して渋谷ジャンジャンで唄う浅川を見に来ていたという[441]。拓郎のブレイク直前には二人でジョイントコンサートも行っている[442][443]。
- 写真家・TAMJIN(田村仁)が拓郎の写真を長く撮り続ける切っ掛けとなったのは、田村が撮った浅川マキのファーストアルバム『浅川マキの世界』の写真を拓郎が気に入り撮影を依頼をしたのが始まりで、中島みゆきも同じ理由[444]。
- 浅川マキは著書『幻の男たち』の中で拓郎とのエピソードを書いている。1980年代半ばに雑誌で拓郎の「女ともだち」を拓郎自身が写真で撮るという企画があって、拓郎は田村と共に浅川の部屋を訪れ浅川を撮った。撮影後、拓郎が「前にこの部屋に来た、新宿で一緒に飲んだ帰りだった」といった。しかしこれは拓郎の記憶違いで、拓郎が来たのは拓郎の深夜放送にゲストで呼ばれた日の後、と書いている[441]。
- 1981年、オールナイトニッポンの番組企画で、拓郎のメドレー曲の製作を依頼された"墨田川高校の拓郎"こと坂崎幸之助(覆面バンド・ビートボーイズ)は「待ってました」「俺しかできないだろ」と製作に励み、歌も生ギターの弾き方もMCもコピーする徹底ぶりで話題を呼んだ。高校時代の青春・拓郎と仲良くなれた坂崎は"僕のフォーク人生はこれで終わってもいい"と思ったという。BE∀T BOYSは遊びで作った割には完成度が高かったため話題を呼び、1988年に形を変えて復活した際は大人気となりレコード発売や全国ツアーを行った[445]。
- 高見沢俊彦が現在のようにピンでテレビやラジオに出演するのは『T×2 Show』(テレビ朝日系、2000年10月 - 2002年9月)の司会を拓郎と担当してから。それまでは積極的にテレビには出ず、出演依頼も断り、場を仕切るなど考えもしなかったが、高見沢の面白さに目を付けた拓郎から「お前はテレビが性に合う」「将来必ず財産になるから」「俺の横にいるだけでいい」などと説得されやむなく出演した。ところが進行役は全てやらされたという。が、今では心の底から拓郎さんには感謝している、と述べている。また高見沢の“王子”キャラは拓郎がそう呼んだのがきっかけで始めたもの[446]。高見沢は“王子”キャラの元祖である[447]。アルフィーにとっても拓郎はキーパーソンとなる[448]。
- 泉谷しげるはエレックレコードの後輩で、エレックを抜けた拓郎の代わりに売り出されたスターだった。世の中が泉谷の歌を下手だと言った時も「うまい、うまい」と褒めてくれたという。エレックが倒産しフォーライフを設立した時も、拓郎は泉谷を引き入れ、フォーライフが内部抗争を始めて泉谷が辞める時も懸命に引き留めた[449]。
- 1999年のかまやつひろしの還暦を祝うパーティーで、その泉谷やユーミン、井上陽水、堺正章、桃井かおり、アルフィー、今井美樹、石井竜也、NOKKOらが集まって[450]東京飯倉のキャンティで会食したおり、拓郎が酔って「お前らみんな音楽を愛していない」などと延々とまわりに絡むので、泉谷が「しつこいぞ」とブチ切れ、フォークを持ってテーブルを乗り越え拓郎に掴みかかり大乱闘となった[451]。まわりの男は、堺正章や、かまやつひろしのような小僧ばかりで(拓郎談)誰も止められず、ユーミンからは「やれ!やれ!」とケンカをけしかけられるわで引くに引けず(泉谷談)、ようやく森山良子が「外でおやんなさいよ」と一喝、ケンカをやめさせた[451][452][453][454][455]。
- この、かまやつひろしの誕生日パーティーで、拓郎が酔ってネチネチカラんで泉谷とケンカ→森山良子が一喝、という流れはフォーライフから泉谷が抜けた1970年代後半頃にもあり[455]最後のケンカ1999年以来、泉谷と拓郎は断絶状態になっていたが2011年7月、12年ぶりにラジオで再会し和解した[453][455]。
- 拓郎は1971年7月からライブハウス・渋谷ジァン・ジァンで定期コンサートを始めたが、当時拓郎の前座をよく務めていたのが「僕の好きな先生」や「2時間35分」などをアコースティックでやっていたRCサクセションだった。忌野清志郎は当時、拓郎が嫌いで出番が終わると顔も見ないで帰っていたという[456]。ただ確執があったわけではない。
- 拓郎は清志郎が好きだったようで、NHK-AM『若いこだま』 のDJ等を務め、1970年代のニューミュージック系ミュージシャンの売り出しに功績のあった吉見佑子が1970年代の後半、まったく売れてなかったRCサクセションの廃版になっていたアルバム『シングル・マン』の再発に業界を奔走した時も、拓郎は「オレはRCが好きだ」と自身の番組「セイ!ヤング」でRCの曲をプッシュしたし[457]
- 清志郎は『LOVE LOVEあいしてる』にもゲスト出演(1998年12月5日)しており、アルバム「ハワイアンラプソディ」で拓郎に「こころのボーナス」を提供した[458]。
- 清志郎がテレビで奥田民生と初共演した時には「オマエ広島(出身)かぁ 何だ、それで吉田拓郎に顔が似てるのかぁ」とムチャ言ったこともあった。
- 同期でもある小田は拓郎を盟友と呼び認めている[459]。初めて会ったのはコンサート会場の通路。ギターの弦が切れて予備がないため、面識のない拓郎に頼むと「あ、いいよ」と快く貰えたのがきっかけ。小田が売れたのはずっと後だが、拓郎は既に大スターだった。初期の拓郎について小田は「ラジカルなイメージだけかと思えば、実はそうではなく、すごくロマンチックでナイーブな、でも強い言葉を持ってるシンガー」と評していた。
- 付き合いが少々濃くなったのは前記の1982年に小田が"日本グラミー賞"を作ろうと奔走したときから。結局この構想はミュージシャン仲間の賛同が得られず頓挫したが、これは1985年、国際青年年(IYY)記念イベント"ALL TOGETHER NOW"(6月15日、国立競技場)の下敷きとなり、亀淵昭信の音頭取りもあって、これの運営に拓郎と小田は大きく関わった。コンサートのオープニングアクトでもあった拓郎のバックバンドはオフコースが務めた。
- この後1994年の長崎・普賢岳噴火災害救済コンサート(3月13日、長崎市公会堂)、「日本をすくえ'94」(8月16日、日本武道館)、1996年の阪神・淡路大震災救済支援コンサート(9月14、15日、神戸ワールド記念ホール)と、三度のチャリティコンサートを拓郎と小田、泉谷しげるで企画運営[460]。復興支援を目的とした「スーパーバンド」の発案は拓郎という[453]。長崎・普賢岳噴火災害救済コンサートは、ギター・泉谷、ベース・拓郎、キーボード・小田、ツインドラム・浜田省吾、大友康平が基本メンバーのスーパー・バンドを結成し、井上陽水や忌野清志郎、さだまさし、南こうせつなどのゲストミュージシャンの曲を演奏するというものだったが、即席バンドで短期間の合宿ではなかなか上達せず、どんどんコードが簡略化されて、さらに拓郎が「親しくない奴と2日以上いられない」とダダをこねたりでピンチを迎えた[461]。しかし、なんでも弾ける坂崎幸之助がこのピンチを救い無事開催できたという。
- 同じ1994年8月16日には日本武道館で「スーパーバンド」による「日本をすくえ'94」チャリティコンサートが行われた。このコンサートのドキュメンタリー番組「日本をすくえ'94」が、小田和正のナレーションで同年9月14日にテレビ朝日系『水曜特バン!』枠でテレビ放送された[462]。この中で拓郎の傍若無人ぶりにオロオロする泉谷と小田がテレビに映し出された。長崎でやった「スーパーバンド」のメンバーが全員揃うということで拓郎は引き受けたのだが、うち数人が参加出来ないという話になって、さらに出演が確定していないミュージシャン、出演交渉もしていないミュージシャンの名前がスポーツ新聞に出てしまい、各所属事務所から苦情の電話が掛かり出演交渉が暗礁に乗り上げ拓郎が激怒、「まわりに迷惑をかけてまでやることはない」「コンサートは中止だ」などと泉谷と小田に迫った。泉谷は「オレと拓郎、小田、伊勢正三、大友康平の5人だけでもやりたい」と「何とか開催したい」という二人の意見を却下し続け、最後に小田が「流そう(中止しよう)」と言うと、それまで散々中止すると言っていたのに拓郎は「やる。俺が決めた」と言い出した。泉谷の話では「拓郎は、いざ練習が始まると、この曲はイヤだ、あれは歌わないって言い出す。あまりにわがままなんで、そこまで言うならオレと小田さんで会見やって武道館は中止と発表しようと。ところが、やめると言うとイヤだと言うんだよ。あれは振り回された小田さんもショックだったんじゃないか」と当時の思い出を話した[455]。日本武道館時の「スーパーバンド」は、この後メンバー加えたもの。こうして拓郎と小田は苦労を共にした間柄となって、打ち上げの席で酔った拓郎が小田の膝枕で寝るということもあったという[463]。それでも泉谷は拓郎を引っ張り出して、東日本大震災支援ライブのため「スーパーバンド」を蘇らせたいという[455]。
- 2000年4月3日放映の「LOVE LOVE あいしてる」にゲスト出演した際、小田は拓郎を「コイツ、コイツ」と呼び「拓郎さんをコイツと呼べる人がいるなんて」とKinKi Kidsを驚かせた。他に1994年の対談でも小田は「拓郎の曲っていうのが、近い将来、また"くる"と思う」と話していた[464]。
- 山田パンダは師と仰ぐ拓郎を年上と思っていたが、年下と分かり、デビュー時に自ら一歳さばを読み、拓郎と同学年としてきた。彼をずっと同い年だと思ってきた拓郎は会うたび「おい!馬鹿野郎!」と呼び続けてきた。パンダは30年以上たった2005年に還暦を迎えた際、年齢詐称していたことを公表した。
- まだ3人が高円寺の風呂のない部屋に3人別々に住んでた時に,拓郎はすでにスターになっていて豪華マンションに住んでいた。3人は「神田川」みたいに拓郎のマンションの前を通って風呂屋に本当に行っていたが、ある日、拓郎がベランダで長い髪なびかせて、朝ブローをしてるのを目撃し、山田パンダは「あんなマンションに住んで、朝ブローして。あれが夢だ、こうせつ」といって南こうせつにプレッシャーをかけていた。
- かぐや姫の最初のアルバムに拓郎が参加したが、かぐや姫のアルバムなのに3人の写真より拓郎の写真のほうが大きく掲載されており、「吉田拓郎プロデュース」という字が大きく載っていた。
- かぐや姫が2000年、22年ぶりに再結成したのは、1999年の「南こうせつ サマーピクニック」で、井上陽水とゲスト出演した拓郎が、南こうせつと伊勢正三を見て「陽水も俺もいる。何でかぐや姫がいないんだ?」と、山田パンダを無理やり東京から九州まで呼びつけたのがきっかけ[465]。
- 小田和正が1982年に"日本グラミー賞"を作ろうと奔走し、六本木で拓郎やユーミンや矢沢永吉、さだまさしらを集めて飲み会をした時、加藤が「拓郎は生意気なのは許せるけど松山千春が生意気なのは許せない」と怒って帰ったというエピソードがある[469]。
- 作詞家・安井かずみの自宅は「川口アパート(プール付き)」(川口松太郎が造った高級マンション)と呼ばれ加賀まりこ、野際陽子、コシノジュンコや当時のトップモデル・シャロン宮田、ナンシー村井ら多くの業界人が集った。そこは大使館のような世界で、拓郎はカルチャー・ショックを受けた[470]。誰にも紹介してもらえず、「絶対に東京に負けてはならない」との思いを更に強くした。
- 同業者だった安井には「あなたたちが来てから日本はすごくつまらなくなった」「あなたの詩って男のエゴばかり、女のことなんか何も分かってない」と言われ大ゲンカとなり泣かれて、「拓郎にいじめられた」と言い触らされたこともあったという。
- 1994年に安井が亡くなり、拓郎は「安井の言葉はとても響き、すごい大事な人を失った感じがある」と述べている[471]。
- 2009年10月、加藤和彦が亡くなった後、拓郎は「坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」で加藤を追悼し、加藤との思い出を話した。
- 出会いは1971年、拓郎がセルフプロデュースしたアルバム『人間なんて』のレコーディングに加藤が参加してから。これは木田高介の紹介だったと思うという。このレコーディングで加藤は、拓郎が知らなかったボトルネック奏法やジェームス・テイラー奏法などを披露し拓郎を驚かせた。このアルバムの制作に先立ち、拓郎がスリーフィンガーで作った「結婚しようよ」を「パックインミュージック」で弾き語りで流したところ、大きな反響があり、シングル化の予定をしていた。ところが、この「結婚しようよ」の弾き語りバージョンは「今日までそして明日から」によく似ていて、「同じだとつまらない、何か他のアレンジはないか」と考えていたため、この「結婚しようよ」や「どうしてこんなに悲しいんだろう」「自殺の詩」などの編曲(アレンジ)を加藤に頼むことにした。
- 安井かずみとは加藤と知り合う以前から付き合いがあり、仕事を一緒にしたのは、1973年の猫の「戻ってきた恋人」の作詞を頼みに行ったのが最初。拓郎は安井に気に入られ、柳田ヒロ、加賀まりこを交えた4人で毎晩、六本木のディスコに行っていたという[472]。
- 安井と加藤が結婚してからは家族ぐるみで付き合いがあり、1986年には、安井と加藤のプロデュースによりアルバム『サマルカンド・ブルー』を出した。ただ、拓郎はこの二人の作品は自分のイメージと違うので、本当はやりたくなかったが、「NYでレコーディングするから」「(拓郎が好きな)ホイットニー・ヒューストンに会わせてあげるから」などと口説かれて仕方なくやったと話している。そのときは結局、シンディー・ローパーに会わされて終わった[473]。
- 1994年に安井が亡くなり、1年後に加藤が中丸三千繪と再婚してからは、拓郎は加藤とは疎遠となり、以後は、まったく付き合いがなかった[474]。加藤と付き合いはなくなっても拓郎は、「若者たちが自分の手でつくる『日本の若者のポップシーン』の先駆けとなったのは、フォーク・クルセダーズであり加藤和彦に間違いない」と、まわりに話し続けていたという[473][475]。
- かまやつひろしについて、拓郎は「東京へ来てから女、アルコールなど軟派系の遊びは全部かまやつさん。今日の僕があるのは、かまやつさんのおかげ。身体はガタガタですけど」と言う。
- かまやつは当時流行の最先端をいっていた業界人らと付き合い、拓郎を安井のマンション「川口アパート(プール付き)」等、そういう人達が集う場所に連れて行った。
- 武田鉄矢は拓郎に憧れて上京しエレック・レコードに入った[45]。ところが入った途端、拓郎はCBSソニーに移籍してしまった。
- つき合いが始まったのはだいぶ後の武田が映画を撮り始めてからで、1982年からの映画『刑事物語』の主題歌「唇をかみしめて」を拓郎が手掛けたり、1985年、映画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』に拓郎は高杉晋作役で出演した。これは坂本竜馬を演じた武田が「ずっと背中を追いかけてきた拓郎に一回、こっち側を向いて勝負して欲しい」と相手役として遮二無二拓郎を説得したもの。最初は「お前、頭からアブラをかぶっているのか?頼むから近づくな!」と酷く嫌われていたという[476]。また武田は拓郎を高杉晋作役で起用した理由について、「拓郎の声はアジテーターの声であり、たった一声で千とか万の若者が後について行くような声。それは高杉晋作もそんな声だったんじゃないかと思うという持論で、俳優では出せないと思い拓郎にお願いした」と説明している[45][477]。
- 武田は拓郎を"我々団塊のトップアイドル、カツコ良かった"と表現している[478]。武田はテレビドラマへの進出について「ボクは吉田拓郎さんみたいな歌手になりたかった。でも、どうあがいてもなれなかった。それで仕方なく横に流れたんですね。それはテレビに出るということだったんです」と話している[479]。
- 1980年8月10日、NHK-FMで『拓郎105分』という特番が放送された。この番組は長年(プロデビュー10周年)音楽業界に貢献してきた拓郎を讃え、他のミュージシャンが拓郎に感謝状を贈るという内容であった。この番組で学生時代拓郎の追っかけをしていた中島みゆき[480]が、拓郎のことを「よた、よた」と呼んでいた。与太者の意味か与太郎の意味か、または、「よしだたくろう」の姓と名の頭文字(「よ」と「た」)を取った呼称であるという説もあるが理由は不明。
- 拓郎は自身のソングライティングが不調に陥った1995年、中島に直に楽曲提供を依頼。拓郎が詞曲の両方を他人に依頼したのは初めてのことで[481]、渡された曲が「永遠の嘘をついてくれ」だった。この曲の歌詞が中島の拓郎に対する感情を思わす内容であったため、両方のファンから様々な憶測をよんだ。2006年のつま恋コンサートで、シークレットゲストとして登場した中島がこの曲で拓郎とデュエット、このコンサートの名シーンの一つとなった[482]。
- 中島は拓郎を尊敬しており、彼女の楽曲に数曲、拓郎調の楽曲があるといわれることもある。
- 拓郎も中島を尊敬していると公言している。彼女のライブでバックミュージシャンとしてギターを弾きたいと数年前からオファーしているが実現しておらず、彼女がオールナイトGOLDにゲスト出演した際に直接オファーを試みたが、ライブの間じっと演奏してられるかなど質問返しされて結局YesともNoとも答えてもらえなかった。拓郎によると「どうしても『悪女』を歌う中島みゆきのバックでギターを弾きたい」らしい。この時のゲスト出演について中島に「瀬尾さんが行くって言うから来た」とコメントされると「なんだよそれー!」とすねていたらしい模様が放送された。
- 長渕剛が本格的に音楽の道を志すきっかけになったのは、フォークコンサートでトリを務めた拓郎の歌を聴いて大きなショックを受けてからで、「拓郎はカッコ良かった。オレたちの世代にとっては、みんなの憧れだった」と話している[483][484]。長渕が最初にユイ音楽工房に所属したのは拓郎がいたからである[485]。
- 1979年に愛知県篠島で行われた拓郎のオールナイトコンサートに出演した長渕が、拓郎ファンから「帰れコール」を浴びながらも歌い続けたエピソードはよく知られる[484]。
- ただ、1994年に長渕と桑田佳祐が揉めたとき[175]、拓郎が桑田の方の肩を持つ発言を行ってからは、あまり拓郎の話はしない[486]。
- 広島フォーク村時代からの先輩・後輩である浜田省吾とは、師弟関係にある。拓郎は1970年にプロデビューして上京した後も広島フォーク村のイベントなどに出演するため度々帰郷。この頃はスーパーの階段の催し場やレコードショップの横、などで歌うこともあった[487]。こうした折に付いてまわったのが浜田で、空港までの送り迎え等も浜田の仕事であった[488]。浜田らが「愛奴」を結成してCBS・ソニーのオーディションを受ける際も拓郎の自宅を訪れ相談。「愛奴」プロデビュー前の1974年、拓郎の全国ツアーのバックバンドに「愛奴」を起用し浜田はドラムを担当した[489]。「愛奴」の起用はザ・バンドに断られたため回ってきたもの。
- 浜田は1997年に拓郎の50歳を祝って拓郎のデビュー曲「イメージの詩」をカバーしたり(拓郎自身もコーラスとアコースティクギターで参加している)、後のつま恋コンサートで再びドラムで参加するなど、長きに渡って交流を持ち続ける[490]。
- 職業作詞家としてデビューしたての松本隆にCBSソニーの、これまた若いディレクター/プロデューサーだった白川隆三から担当の新人歌手・太田裕美売り出しのため作詞依頼がきた。これに拓郎は「お前ら(太田+松本+白川のトリオ)は売れない」と酔って松本に毒付いた。結局このトリオ+作曲家・筒美京平での4曲目のシングルが大ヒットした「木綿のハンカチーフ」で無事拓郎を見返せた。太田は拓郎をいっぱいいじめたという[491]。
- 拓郎はその後、原田真二の売り出しに松本隆を起用した他1978年、初の二枚組アルバム『ローリング30』制作にあたり、ほぼ全曲の作詞を松本に依頼し二人で箱根の山に篭り、一人の作詞家との完全な共作がどれ程のものになるのか、という試みを行っている[492][138]。松本はこの時の拓郎との共同作業を通してより物語性を深め、1980年代にアイドルのヒットメーカーとして本格的に花開くことになる[493]。松本にとってもマイルストーン的な作品となっている[494]。
- 森山良子はまだ無名時代の拓郎を自身のラジオ番組(キョーリン・フォーク・カプセル、ラジオ関東?)に度々呼ぶなど拓郎を可愛がったという[170]。
- 森山は1971年から1972年にかけて結婚、長女(森山奈歩)出産のために休養した。そのブランクのために1973年はパッとせず。この時代になると拓郎らシンガーソングライターが台頭してきて当時、"歌謡曲歌手"というイメージがついていた森山はアルバムが売れない状況になっていた。
- 1974年の賛美歌アルバムの完成と「ある日の午後」のヒットで盛り返した森山に1975年、「襟裳岬」を大ヒットさせた拓郎が前記の恩を返す形で「歌ってよ夕陽の歌を」を提供。曲もヒットしたことで森山のイメージは再び"フォークの女王"に戻った(同曲でNHK紅白歌合戦に出場)[495]。
- その他ミュージシャン
- 「LOVE LOVEあいしてる」に出演した多くのゲストが拓郎を評している。さだまさしが"フォークソングをポピュラーにした人"など(1997年9月20日)、甲斐よしひろが"フォークの神様"など(1997年6月14日)、上岡龍太郎が"作詞家になりたい、音楽の道に進みたいというボクの夢を諦めさせた人"(1997年10月18日)等と拓郎を賛美する。
- イルカは、2007年他界した夫の神部和夫ともども、最も古くからのフォーク仲間で全国をどさまわりした間柄。当時は2人が所属したシュリークスが非常に人気があり、拓郎のほうが前座だった。神部はいい声の持ち主だったが、拓郎が出てきてから「もう自分がうたっているような歌の路線はこれからはダメだ。綺麗にうたっていくんじゃなくて自分のメッセージをガンガンうたっていく世の中に変わったな、これからは俺の時代じゃない」と話していたという[496]。イルカがソロデビューして曲作りを始めた時、拓郎は自宅の居間で親身になってアドバイスしたという[497][498]。シュリークスの持ち歌で、イルカのレパートリーでもある「クジラのスーさん空を行く」は、神部の詞、拓郎の作曲。
- 古井戸の金崎芳樹(加奈崎芳太郎)が1971年8月頃、エレック・レコードに入社が決まり、一度会社に挨拶に行こうと事務所を訪ねると、部屋の隅でダンボールの梱包をしているオジさんと、奥の机で電話している拓郎がいて、拓郎に「社長さんはどこですか?」と聞いたら梱包をしているオジさんが社長で、拓郎は電リクをしていた[499]。加奈崎も仲井戸麗市も、拓郎さんには可愛がってもらいましたと述べている[500]。
- 1971年11月6日、慶應義塾大学で行われたコンサートは、俗に"慶應三田祭事件"と呼ばれる。これは頭脳警察伝説として有名だが、はっぴいえんどの事務所と確執のあった頭脳警察が観客をアジりながら、えんえんと演奏を続けて居座り、次に出たはっぴいえんどの大滝詠一が「前のバンドが僕らのぶんもやってくれたので」と言ったため観客が反撥、石の飛ぶ中1曲だけ「はいからはくち」をやって帰ってしまったもの。その次の出番だったのが拓郎で、一人で全部を受けとめる羽目となり、ビール瓶が飛んで来て1曲も演奏出来ないまま引き下がった。この事をまったく知らなかった大滝は後で拓郎に「お前らよお、あれ、あの後も観客を静めるのに大変だったんだぜ、俺は」と散々言われたという。拓郎は頭脳警察にも憤慨していたが、その後、PANTAと話す機会を得て好意を持ちパックインミュージックで『頭脳警察セカンド』からシングルカットされた「いとこの結婚式」という拓郎のヒット曲を意識したような曲をプッシュしたり、頭脳警察をゲストで呼んだりしたがこの曲はヒットしなかった[501]。
- 小室等が1972年頃、グループを組もうと女性ボーカルを捜してりりィを決めかけていたが、その後りりィは長い旅に出てうやむやに。りりィはあの時、連絡がついていたら「今頃は私が拓郎と結婚してたんじゃないかな」と話している(小室と拓郎が非常に近い関係のため)[502]。
- 丸山圭子は1972年、コンテストで優勝するとCBSソニーとエレックレコードからスカウトが来た。当時ソニーは郷ひろみや天地真理らがいてばりばりアイドルの時代。普通だったらソニーを選びそうだが、エレックは拓郎がいて、まわりから(これからは)シンガーソングライターみたいに曲をつくりながら歌っていったほうがいいよと言われてエレックに入ったという[503]。しかしまもなく拓郎はソニーに引き抜かれる。
- 山本コウタローは1973年、一橋大学卒業時に「たくろう・スーパースター」という拓郎をテーマにした卒論を書いた。しかし内容に不満が残ったため、プロデビュー後、鹿児島や広島にまで足を運んで取材し、2年後に出版したのが「誰も知らなかったよしだ拓郎」という題名の本である[504]。"現役ミュージシャンが書いた現役ミュージシャンの伝記" という非常に珍しい本で、特にアマチュアだった広島時代について詳しく書かれており、拓郎について書かれた文章の多くは、かつてはこの本を参考にしていた[505]。何故、吉田拓郎でなければいけなかったかについては、日本の音楽を変えていく、次の世代に大きな波及力を残していくアーティストは、吉田拓郎以外には考えられなかったと述べている[506]。
- 井上陽水と石川セリが出会ったのは、石川と松任谷由実がゲストで出ていたラジオの生放送(TBSラジオ、林美雄のパックインミュージック、1975年11月26日)のスタジオに、石川のファンだった陽水と拓郎が酔って乱入したのが最初[508][509]。陽水は「あの時、オレたちは赤坂でウロウロしてて、拓郎の頭の中に"今日はユーミンがラジオに出てる"というひらめきがなければ、まったく違った人生をオレは歩いていたでしょう」と話している[510]。
- 岡本おさみの詞を使うことになったのは、岡本からの売り込みによるもの[511]。岡本との曲作りは手紙や電話でのやりとりで、プライベートでのつき合いはほとんどなかった[512][138][44]。岡本が送ってきた詞に数年後、拓郎が曲を付けて世に出ることがあったという。「襟裳岬」に関しては、拓郎にかなり歌詞を変更されたため共同作業だったと思うと岡本は述べている[513]。
- 1970年代半ばに、よくペニーレインなどで拓郎と飲んでいたガロの大野真澄は、拓郎から「一人でやれ、一人でやれ」といつも言われていたため、ガロの解散、所属レコード会社の倒産もあって1976年、フォーライフ入りした。この頃大野は、新曲より水原弘や服部メロディなど、昭和の歌謡曲のカバー・アルバムを作りたかった。ところが当時は全編カバー集を作っても売り方がわからない時代、スタッフから「そんなの作ってどうするの?」と言われ実現しなかった。ところが翌年1977年、拓郎が有名なカバー・アルバム『ぷらいべえと』を出したため大野は「別に僕のアイデアを使ったとは思わないけどね」と述べている[514]。
- 2003年夏に拓郎が癌治療で休業中、サザンオールスターズがライブで自身の楽曲『吉田拓郎の唄』の批判めいた歌詞を大幅に変更、拓郎をより賛美する内容にして、遠い地から拓郎にエールを送った。また2008年2月24日「俺たちのオールナイトニッポン40時間スペシャル」の放送で療養中、桑田から復帰を願いギターのテレキャスターを贈ってもらったエピソードを披露した。
- 松任谷由実はデビューしたての頃(その当時の姓は「荒井」) "女拓郎" と呼ばれた[515][516]。このため、それまで聴いたことがなかった拓郎の曲を聴いた。感想は、「私のやったことは拓郎やかぐや姫とは違う。私のつくった曲は今までにない新しいものと思った。拓郎らの音楽とは違う、これを区別する例えとして"四畳半フォーク"って言葉を自分が考え出した」と自著で述べている[515]。
- 中村雅俊とは1975年『俺たちの勲章』の挿入歌「いつか街で会ったなら」のレコーディング以来の付き合い[518]。中村雅俊がニューミュージック寄りのイメージがついたのは拓郎の楽曲提供がきっかけだった[519]。「拓郎は憧れ以上の存在だった」と中村は話している[520]。1999年7月25日には『吉田拓郎&中村雅俊の蘇れ青春!広島の旅!』という番組がTBSで放送された。拓郎が中村を2泊3日で広島の思い出の地を案内するという趣旨の番組で、母校・皆実高校の教室で初恋の女性・準ちゃんと30年ぶりに対面もした。
- 矢沢永吉とはキャロル時代から付き合いがあり、ソロデビューした1970代後半に、フォーライフの社長となった拓郎にマネジメントのことを聞きに夜よく電話してきたという[521]。こうした関係からか、当時は拓郎以上にテレビもラジオも出なかった矢沢が拓郎のラジオ「セイ!ヤング」(1979年7月7日放送)と「オールナイトニッポン」(1981年6月6日放送)の2度ゲスト出演した。「オールナイトニッポン」では、拓郎が矢沢を"永ちゃん""永吉君""永吉""オマエ"(矢沢も拓郎を"拓郎""オマエ"(矢沢が年下))と呼んだ。「自分の曲をプライベートで聞くか」と聞かれた矢沢は「あまり聞かない」と答えたが、拓郎は「よく聞く、それも寝るとき自分の曲を聴きながら寝る」と言っていた[522]。
- 拓郎に憧れ多大なる影響を受けたという所ジョージ[523]は、『LOVE LOVEあいしてる』に三度ゲスト出演している。1997年11月29日に初めてゲスト出演した際、拓郎の曲の中で「恋の唄」がすごい好きだからと、もう歌わないならを自分が作詞・作曲したことにさせてほしい、その代わりに自分の曲を10曲あげるから、と交換条件を出した[524]。「恋の唄」は、拓郎自身も一番好きな歌とかつて話していたが、拓郎はこの所の申し出を承諾。結局、所はそのお返しに「精霊もどし」という、グレープの「精霊流し」をパロディにした曲を拓郎に渡した。所は、『LOVE LOVEあいしてる』に二度目のゲスト出演した際、自分が作ったにもかかわらず、「拓郎さんもすごい歌を作りますね」と言って笑わせた[525]。しかし拓郎はこれを所に返したという[526]。所は「恋の唄」に2番を書き加え1999年、自身のアルバム『洗濯脱水』に収録している[523]。所はJASRACに登録されている作詞者・作曲者名も書き換えようとしたが、認められなかったという。
- 元19で現3B LAB.☆Sの岡平健治の父親は、拓郎らと広島フォーク村に参加したミュージシャンであった[527]。広島フォーク村の実質の活動期間は2年程であったが、1978年に第Ⅱ期広島フォーク村として再び活動を行った。この時に参加したミュージシャンには上綱克彦(元柳ジョージ&レイニーウッド)や原田真二、村下孝蔵らがおり、広島フォーク村の拓郎の一応の後輩となる[528]。
- 拓郎のフジテレビ系音楽番組「夜のヒットスタジオ」への初出演は1980年6月30日。その約8ヶ月前の1979年11月12日に出演が予定されていたが、直前になって曲目等の件でスタッフと折り合いがつかなくなりキャンセル。この時に拓郎の代役として「夜ヒット」初出演を果たしたのが、まだレコードデビューして間もなかったCHAGE and ASKAであり、この出演を機に一気に彼らの知名度が上昇し翌80年の「万里の河」大ヒットの土壌が育つこととなった。彼らも拓郎、陽水を聴いていた世代。飛鳥涼は「いまだに陽水さんに会うと緊張するし、拓郎さんに至っては話もできない」と話している[529]。
- テレビ出演拒否のきっかけを作った布施明からは30年後に正式に謝罪を受けた。ただし最近も布施サイドから曲の依頼があるが「俺は絶対に書かない」と言っているという話もある[530]。また2006年、つま恋の復活コンサートの大成功で、この年の『紅白歌合戦』の目玉とも言われた拓郎が出場を辞退したのは布施が出るからとも言われた[531]。
- 山下達郎は「僕と拓郎なんてある意味、今の音楽界で両極端、対極じゃないか」と話している[532]。山下は拓郎がプロデュースした1975年のTBSドラマ『あこがれ共同隊』の主題歌「風の街」に、山田パンダのコーラスとしてレコーディングに参加した。この時、拓郎にそのコーラスの歌唱指導をされて以来、拓郎とは一回も口を聞いたことがないという[533]。
- 「LOVE LOVEあいしてる」でKinKi Kidsへのギター指導を企画されたときは全くその気にならなかったというが、彼らが休憩の合間の時間に階段で一生懸命練習しているのを見かけ、それ以来熱心に指導したという[534]。拓郎もKinKi Kidsをとても可愛がり、今でも交流がある。堂本光一は「拓郎さんとの出会いが音楽を教えてくれた」「番組で拓郎さんに、いきなり『曲を作れ!』と言われて。初めて作った曲を持っていったときに『よく作ったね』って言ってくれたのは、今も忘れない」「拓郎さんは俺たちに『あ、自分にも、曲が作れるんだ』って思わせてくれた」「今、俺が曲を作っているのも、あの当時のことがキッカケ。たぶん、あの出会いがなかったら、今まで作った曲たちも生まれていなかったと思うよ」等と話している[535]。堂本剛も「拓郎さんと出会ったことにより楽器を弾くことにも繋げて頂いた」等と話している[536]。
- 松山千春は「拓郎が嫌い」とラジオや自著で発言[537]。これを聞きつけたか拓郎も「松山が嫌い」と発言する事態となり[538]、犬猿の仲ということになっていた。2000年7月29日に「LOVE LOVEあいしてる」に松山がゲスト出演。並んで座ったが2人の会話はなく拓郎は終始無言、松山の独演会となった。拓郎嫌いの理由については、岡林信康が好きだったが岡林のあと[539][540]拓郎派と加川良派に分かれ、加川良のほうが好きになったため、好きの反対なら「拓郎→嫌いだろ」と説明した[541]。この「LOVE LOVEあいしてる」では、注目の第1回放送(1996年10月5日)のオープニングで、拓郎は唐突に「さだまさし嫌い」と発言した[542]。1997年9月20日放送の同番組でさだまさしがゲスト出演したとき、拓郎はさだが嫌いな理由を「バイオリンを弾くから」と説明した。
- 高橋ジョージがもっとも影響を受けた番組は、拓郎が司会を務めていた「バイタリス・フォークビレッジ」(ニッポン放送)という。このラジオとは別に、テレビに出た拓郎がレコードとはまったく違うアレンジで「旅の宿」を弾くと頭の中が真っ白になるほどのショックを受け「こんなスゴいことができるなんて...これはギターを買わないとダメだ!」と急いで通販でギターを買ったのが本格的に音楽を始めた切っ掛けという[543]。
- 篠原ともえとは、「LOVE LOVEあいしてる」で共演する前に、番宣番組で共演しているが、篠原の濃いキャラに嫌悪感を抱いた拓郎は完全無視を決め込み、それでもめげない篠原に「なんだお前!?触るんじゃねぇ!!」と激怒し、追い払った。さらに「LOVE LOVEあいしてる」に篠原もレギュラー出演することを聞いた拓郎は、「アイツが出るなら、俺は番組を降りる!!」と断言。しかし、それを知らない篠原は、ほぼ毎日のように拓郎と接触し、何とかして仲良くなろうと思っていた。その努力が実ったのか、拓郎の口から「お前はウルサイけど、いないと寂しい。」との言葉が出て以来、仲が深まるようになった。ちなみに篠原は拓郎のことを「音楽の大先生」として尊敬しているが、初めて会ったときにブチ切れされた時、篠原は「もう芸能界で生きていけない」と思ったらしい。
[編集] ミュージシャン以外
- 明石家さんまは拓郎の大ファンで、さんまが音楽番組「LOVE LOVEあいしてる」に出演した(1996年11月9日)[544]のは拓郎が司会だったから。拓郎の凄さをもうひとつ理解していないKinKi Kidsに、さんまは拓郎の素晴らしさを一生懸命説明したという[545]。この後、拓郎が『さんまのまんまスペシャル2001』(2001年12月28日)にゲスト出演したのも、さんまからの強いオファーがあったため。さんまは「"イメージの詩"を人生の教科書とし(拓郎をまねて)ハイライトを吸って生きてきた。今はマルボロですけど」と話し、自身がカラオケで歌うのは「イメージの詩」ぐらいという。ところが拓郎は「体のこと考えて軽いフロンティアに変えたんですよ」「僕の作る歌、全部ウソだから。信用してる人がおかしい」などと話し、さんまと拓郎ファンをがっかりさせた[6][546]。
- 爆笑問題の太田光は「泣ける名曲」として拓郎の「流星」(1979年)を挙げている[549][550]。太田は拓郎に会って「この曲は僕の曲にしてください!」って頼んだら、拓郎に「そういえば武田鉄矢もおんなじようなこと言ってたな」と言われたという[550]。「流星」は「時代を越えて愛され続ける名曲」と評される[551]。歌詞は拓郎の唯一の子供である四角佳子との間にできた娘のことを歌ったものといわれている。ピースの又吉直樹はカラオケで拓郎の曲をよく歌うという[552][553]。
- 秋吉久美子は1972年高校三年生の時、将来を決めかね追い詰められた気持で夜中、ラジオで拓郎の深夜放送を聞いていると、拓郎が夏休み1ヶ月で四国に行って映画(旅の重さ)を作るのでヒロインを募集する、と言うのを聞き、"ああ、ちょうど夏休み1ヶ月間か、どっかに行っちゃいたいなあ"と思いオーディションを受けたのが芸能界入りしたきっかけだったという[554]。秋吉は"あたしは岡林信康、吉田拓郎、泉谷しげる、などで育った"と話している[555]。秋吉のデビュー作・映画『旅の重さ』は音楽を拓郎が担当した。拓郎はこの『旅の重さ』のヒロインオーディションに審査員として参加したが秋吉に最低得点を付け、高橋洋子には気づかなかったと話している[170]。
- 江口寿史は「マークII」(1985年)という拓郎に心酔する高校時代の自身を描いた短編を書いているが[558]、レコード・コレクターズ増刊「日本のフォーク/ロック アルバム・ベスト100 1960-1989」で、拓郎のアルバム『元気です。』を私のベスト1に挙げ、「レコード・コレクターズでは拓郎の評価が低い。ほぼ黙殺に近い」と、同誌に対する皮肉を述べた上で、「このレコードとの出会いがなかったら今の自分はないという意味で断然1位であります」と話している[559]。
- みうらじゅんは「気ままな絵日記」がバイブルといい、自身の文体はどんな文豪より拓郎の影響を受けているという[560][561]。みうらは「昔は吉田拓郎に憧れて、髪の毛のばして、ギターを弾くってのが大概のルールだったんですけどね。それはスチャダラパーあたりでなくなっちゃった」「80年代は吉田拓郎さんの話を熱く語るのって絶対ダメだったね。何だか話しちゃマズイような雰囲気があった。やっと出来るようになったのは真心ブラザーズの倉持君からですよ」と解説している[562]。
- 中学時代の中森明夫は「オールナイトニッポン」の拓郎の扇動にすっかり感化され、「#つま恋オールナイトコンサート」は、その拓郎から招集をかけられたようなものだったと話している。行くか行くまいか最後まで迷ったが、18歳未満の終夜観客は不可とのお達しが出たことで断念したという。中森にとって「東京は、拓郎らフォーク歌手やアイドルが棲む街」で、つま恋の行われた1975年に初めて上京し、原宿のペニーレイン(ペニーレインは原宿にあった伝説のバー。フォーライフミュージックエンタテインメント社長の後藤由多加が飲食店事業の一環として立ち上げた。1990年に閉店)などにも行き東京を感じた。「1975年に上京していなければ、私は表現者になっていない」と話している。中森は拓郎を「かつて体制と闘った若者のカリスマが、時代を経て、今や老いた団塊の星として病と闘っている」と述べている[563]。
[編集] 脚注
[編集] 注釈
- ^ 拓郎自身は鹿児島県大口市で生まれるが、なぜ鹿児島だったのかも分からないと話している。
- ^ 広島は母方の祖母の出身地という。
- ^ バンド名は「リトル・ダーリン」の大ヒットで知られるアメリカのロックバンド・ダイヤモンズから
- ^ この頃のフォークソングはうたごえ運動と重なっている部分があった。
- ^ LMC、実質のポプコンの前身
- ^ 後年の中津川フォークジャンボリーでのゲリラ演奏はこのときの経験が影響している
- ^ エレック盤にはユーゲント盤についていた写真集はついていない
- ^ 31日に4時間、1日に2時間のステージを行った
- ^ 加藤登紀子、本田路津子、赤い鳥、、フォーセインツ、ビリーバンバンほかと共演。
- ^ ゲストは高田渡、小室等と六文銭。
- ^ 高田渡、泉谷しげる、古井戸、RCサクセションと共演。
- ^ 六文銭、かぐや姫、ジローズ、シュリークス、五つの赤い風船、長谷川きよし、山本コウタローほかと共演。
- ^ ジローズ、オフコースほかと共演
- ^ かまやつひろし、六文銭、加川良、はっぴいえんど、頭脳警察、RCサクセション、エム、金延幸子、加橋かつみ、ゲッセマネ、成田賢、町田義人、南正人、鈴木ヒロミツ、乱魔堂他と共演。
- ^ 社名は小室等の愛娘・こむろゆいにちなむ。
- ^ ヒットしたシングル曲を別アレンジヴァージョンでアルバムに入れるのは当時は異例だった
- ^ 森も母親の自殺や見知らぬ女性から関係があったと訴えられ裁判になる(無罪判決)など苦難の時期であった
- ^ 浜田省吾らがいた
- ^ ボブ・ディランの『セルフ・ポートレート』と同じコンセプトに基づく
- ^ 現在は"字余りソング""字あまりソング"という言い方で定着している
- ^ 小室哲哉との対談は2008年11月5日の日本経済新聞朝刊の社説、1面コラムの春秋にも引用された。
- ^ ドラムは再建後のエレックレコード社長・萩原克己
- ^ 同時期にはっぴいえんどが岡林信康のバック演奏を務めたことは有名だが、レコーディングは、はっぴいえんど主導で行われたといわれている
- ^ 外国ではイギリスのワイト島フェスティバルが有名。
[編集] 出典
- ^ 高校時代に考えた最初の芸名は入江(順)。好きだったモデル・入江美樹(小澤征爾夫人)と好きだった女の子の名前(準ちゃんと思われる)を足したもの(いつも見ていた広島、田家秀樹、小学館、p164、184、185、ふたたび自分の事は棚に上げて、p176)。
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渡辺プロの諸岡義明専務は「渡辺プロがなかったら、地方の若者が音楽と出会える機会もなかったと思いますよ。吉田拓郎も広島で『ザ・ヒットパレード』を見て、おれも音楽をやりたいと東京へ出てきて、最初に渡辺プロを訪ねたんだそうですよ」と話している(TV博物誌、1997年、荒俣宏、小学館、p189)。 - ^ このコンテストに拓郎が出場した理由の一つは中村が審査員だったため。ボブ・ディランのアルバムの解説はたいてい中村が書いていてボブ・ディランのレコードもコロムビアから出ていた(いつも見ていた広島、p149)。
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この『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』は東京のメディアでも話題となり、テレビでも紹介された。メンバーも出演したテレビ番組のなかで司会の芥川也寸志が「じゃあぼくも1枚買いましょう」と現金を払って買ったことがあった(ニッポンPOPの黄金時代、2001年、恩蔵茂、KKベストセラーズ、222)。
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エレックレコード社長のべらんめえブログ
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- ^ 詞の内容は理解できてなかったが、泣かせるコード進行が好きで、その後の曲作りにも大いに使わせてもらったと話している(AERA in FOLK あれは、ロックな春だった!、朝日新聞社、p44)。
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ナタリー - 日本初フェス「フォークジャンボリー」映画40年ぶりDVD化
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「佐野史郎、はっぴいえんどと音楽を語る」 PART 2 of SPECIAL INTERVIEW
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日本のベストアルバム―フォーク&ロックの25年―、1992年、田家秀樹監修・シンコー・ミュージック、p230
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桑田佳祐と吉田拓郎との隠された過去。今日までそして明日から。
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NEXT、1984年1月、富澤一誠、潮出版社、p106-108
吉田拓郎 Island Concert in 篠島
長渕剛インタビュー
堂本兄弟、2004年2月29日
BOØWY B to Y THERE'S NO BEGINNING AND THE ENDS.、2002年9月、宝島社、p30
季節が君だけを変える : EARLY YEARS (STORY)
鈴木敏夫のジブリ汗まみれ
リアルライブ - 歌蔵のロッケン問答 花田裕之
Circus オフィシャルWEBサイト
「作家で聴く音楽」第六回 松井五郎
アメリカ発・音楽・楽器情報直送便!! - ギター/アンプ/エフェクター
あいつの切り札―松山千春から吉田拓郎まで36人― 富澤一誠、音楽之友社、1981年、p52、53
木根尚登インタビュー
MUMIX BLOG::pixyのプロフィール
ルーツ再発見 - 嘉門達夫のコラム
2009年07月10日のブログ|嘉門達夫オフィシャルブログ 冷やし中華始め冷やし中華始めましたか?(知らんガナ)
ROOF TOP 11月号インタビュー : KENZI スマ・ロ子 BABY
日浦孝則 Official HP| paper island
ハードロック! ROLLY(寺西一雄) 山本恭司 Webマガジン 月刊チャージャー
中村正人 | ロングインタビュー | R25.jp
東北ロックンロール物語、2008年、高橋ジョージ、ワニブックス、p61-62
ユカイなサムシング 2009.7.5 Have A Nice Day
町田紀彦インタビュー
花くまゆうさく×清水貞信(かまボイラー)('06年12月号)
吉田拓郎に憧れて始めた弾き語り -
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Musicman'sリレー 第66回 武部聡志
阿部嘉昭ファンサイト: 再帰性と再帰性が反射する--三村京子について
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Charは『Char meets ???? 〜TALKING GUITARS〜』での仲井戸麗市とのセッションで「JOHNNY, LOUIS & CHAR(PINK CLOUD)1979年のライブ盤『フリー・スピリット』に収録されている「籠の鳥」という曲は、拓郎がよく使ったG#sus4から作ったと話している(Char meets???? TALKING GUITARS〜Char×ギタリスト対談集〜vol.1、シンコーミュージック・エンタテイメント、2009年、p127)。 - ^ 別冊カドカワ 井上陽水、角川グループパブリッシング、2009年12月、p98
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歌詞の中で、自分のことを「おいら」と呼ぶのも拓郎が始まりと思われる(日本崖っぷち大賞、1998年、みうらじゅん、泉麻人、山田五郎、安斎肇、毎日新聞社、p180)。
1組の男女の別れを切なく描いた詞が、最後の最後に「年老いた男」の俯瞰の目線に変わるこれまでにない詞の展開、方法論を持つ「マークⅡ」(アサヒ芸能、2009年7月16日号、p189)。 - ^ Musicman'sリレー 第66回 武部聡志
「青春の詩」に見られるような、自分の身のまわりの、ほんのちょっとしたことを唄にしてもいい(僕の昭和歌謡曲史、泉麻人、講談社、2000年、p137)。
拓郎は、形態こそギターを弾きながら自作曲を歌うという、それまでのフォークと同じスタイルをとりながらも、歌う内容は全く変わっていた。自分の思ったことを歌う、歌いたいことだけを歌うというマイペースの姿勢に変わりはないが、社会問題をテーマにするのではなく、自分の身近な私生活をテーマにした(音楽する社会、1988年、小川博司、勁草書房、p49)。
反体制イディオムと青春歌謡を直結させる手法は新鮮で、現在のロッカーもこの手法を無意識に踏襲(J-ROCKベスト123 1968-1996、1996年、講談社、p61)。
「旅の宿」「襟裳岬」等に共通する"和"の世界 "ジャパネスク"路線も、後のシンガーソングライターたちに無意識下に下敷きにされる(歌謡ポップス・クロニクル 特集アスペクト39、アスペクト、p122)。
例えば、田上雅充の「春うらら」は「旅の宿」をベースに春歌的趣味を加えたもの(決定版「一発屋」大全、2001年、宝泉薫、彩流社、p166)。
フツーの男が、とてもマガオでは言えないような話を平気で自然に歌に出来る力強さ(歌謡曲という快楽 雑誌『よい子の歌謡曲』とその時代 、2002年、宝泉薫+ファッシネイション、彩流社、p26)。
ファンに激震!人生、最後ツアー決定|吉田拓郎 - ^ a b 演歌にも通じる日本人の歌心に新しいスタイルを提示。織田哲郎ロングインタビュー
R&B+浪花節を基盤とした曲作りの柔軟さ。現在の音楽畑ではもう生まれないと思われる不世出のコンポーザー(歌謡ポップス・クロニクル 特集アスペクト39、アスペクト、p123)。
ユーミン、陽水の前史として拓郎がある。拓郎は自身が考えていること、感じていることを、そのまま歌にして歌うという近代的な表現意識を、非常に直接的に、シンプルな形で典型的に確立した。大衆歌謡としての自己表出という非常に明瞭な方法意識を確立させた(ポスト歌謡曲の構造、1986年、足立里見著、五月社、p20、21)。
拓郎は演歌の歌唱法と歌詞法を超えて、身近な言葉を音(メロディ)に乗せえたいちばん最初の人。中島みゆきは、好むと好まざるとに関わらず、拓郎たちが領土化した発声と発想の路線上から出発した(中島みゆき その愛と歌の行方、1991年、菅間勇、春秋社、p210-212)。
小室等は、日本のフォークソングには拓郎と陽水という二つの大きな流れがある。それはアーティキュレイション(Articulation)でありフレーズ。拓郎の方が陽水よりポピュラリティがあって、日本のわらべ歌や民謡に非常に近いものがある。また言葉に対する感性のセンスがいい。陽水のほうはもっと英語に近いアーティキュレイションでの日本語。拓郎と陽水がやったことの成果、功績は大。二人がいなかったら日本語の歌って違った形になっていたと思う。だからユーミンには失礼だと思うけれど、拓郎と陽水がいなかったら、ユーミンがああいう形であったかどうかって、僕はそう思ってしまう。勿論、ユーミンも才能のある人だから、何らかの発見をしたかも知れないけども、でも拓郎と陽水という実績の上に、今のユーミンがあると思うし、日本の歌もその上にあると思うね(俺達が愛した拓郎、石原信一他著、p90、91)。「拓郎、井上陽水、ユーミン、小田和正といった人たちが、非常に洋楽的なエッセンスと日本語の感性をドッキングさせる才能に長け、日本語としての生命力を保ちつつ曲を作るという意味で、エポック・メイキングだった人たちだった思う。拓郎辺りまでは、まだ七五調な日本語感性に踏みとどまっていたが、その後日本の音楽は限りなく英語感性に寄り添っていったと思う」(ジェネレーションF―熱狂の70年代×フォーク、2001年、小室等他、桜桃書房、p27)。などと論じている。
フォークからプロテスト性をそいだ形で「自分の思ったことを自分の言葉で歌う」というテーゼだけを保持し、自身の「私生活」を表現(ロックミュージックの社会学、2001年、南田勝也、青弓社、p139)。
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また拓郎も、かなり早い時期から渡辺晋とよく酒を飲んでいたと渡辺プロの社史に記述されている。渡辺は「ニューミュージックの連中は、したたかだな。ちゃんと計算している。ウチの若いマネージャーでは歯がたたんだろう」と諸岡義明専務に感想をもらしていたという(渡辺プロダクション社史「抱えきれない夢〜渡辺プログループ40年史〜」、1999年、「渡辺プロ・グループ四〇年史」編纂委員会、p288)。
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- ^ サウンドストリートの生みの親、湊剛さんにお会いした。All Rounders Stuff ブログ
佐野元春 'SOMEDAY' 20周年記念応援メッセージ集
サウンドストリート(NHK-FM、1980年12月3日)<NHK青春ラジカセ> - ^ 365日!CDショップ店員リレーブログ | 全日本CDショップ店員組合
庄司明弘インタビュー
あの時代の風
BS-TBS「SONG TO SOUL〜永遠の一曲〜」|番組スタッフが選ぶわたしの一曲
マニア・プチ対談「吉田拓郎のギターを語る」(1) / イシバシ楽器
大人のためのフォークギター入門: 紀伊國屋書店BookWeb
磯田秀人ピンポイントフォーラム 倍音浴 - ^ きくち伸インタビュー
- 音組 - フジテレビ
HEY!HEY!HEY![レポート]
Musicman'sリレー - ^ フォークソング運動、2001年、辻俊一郎、新風舎、p77、78
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- ^ イエスタディ '60's - '80's ―音楽記者の取材ノートから―、1989年、永井晶子、CBS・ソニー出版、p77-78
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- ^ 吉田拓郎のそれまでになかった、話し言葉のような歌が若者たちの心をとらえた。拓郎節はナベプロ流の大宣伝、大がかりな売り出し作戦もなしに、まるで既存の流儀を拒否するような自然流で次々に大ヒットして、ナベプロなどの既存組が束になってもかなわない大きな流れとなった(テレビ仕掛人たちの興亡、1990年、田原総一朗、講談社、p202)。
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日本のフォーク&ロック・ヒストリーー(2) ニューミュージックの時代、シンコーミュージック、1993年、p68
日本のフォーク&ロック史―志はどこへ―、1982年9月・田川律著・音楽之友社、p105、106
読むJ-POP 1945-1999私的全史、1999年、田家秀樹著、徳間書店、p139-140
テレビだョ!全員集合 自作自演の1970年代、2007年、長谷正人、太田省一編著・青弓社、p68-70 - ^ a b 関西フォーク70'sあたり、幻堂出版、p66
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戦後ポピュラー日誌、1982年、柴田勝章、八曜社、p130
サブカルチャー神話解体 少女・音楽・マンガ・性の30年とコミュニケーションの現在、1993年、宮台真司・石原英樹・大塚明子、PARCO出版、p66
風のようにうたが流れていた、小田和正、宝島社、p104
ポピュラー音楽と資本主義、2007年、毛利嘉孝、せりか書房、p54
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365日!CDショップ店員リレーブログ | 全日本CDショップ店員組合
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戦後ポピュラー日誌、1982年、柴田勝章、八曜社、p170
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2008年のインタビューで南こうせつは"大ヒットはしたけどブームが続くとは思ってなかった""3〜4年食べられたら、その後は音楽関係に関われたらいいなと思っていた""それは拓郎や陽水も同じだったんじゃないかな"などと話している。拓郎や陽水がどう思っていたかは不明だが、そうならなかったのは後続のシンガーソングライターが続いたから(週刊ポスト、2008年8月1日号、小学館、p57)。
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1970年代に入ると、フォークは流行歌の主流ジャンルへ伸長していく。学生運動は鎮静化し、岡林信康や高田渡は時代の動向に合わせるように表舞台から姿を消すが、フォークからプロテスト性をそいだ形で、吉田拓郎が台頭、「自分の思ったことを自分の言葉で歌う」というテーゼだけを保持し、自身の「私生活」を表現する。かぐや姫や井上陽水の「抒情派フォーク」をへたうえで、1975年に荒井由実が自己肯定とサウンド志向を特徴として「ニューミュージック」を宣言。以降、サザンオールスターズや山下達郎、松山千春やさだまさしなど、人気を得るミュージシャンは軒並みニューミュージックのカテゴリーに包摂され、流行音楽の主流を占めていく。と1970年代の日本の音楽シーンは、通例このような文脈で語られる(ロックミュージックの社会学、2001年、南田勝也、青弓社、p139)。
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- ^ トーク 特別編集版 - 【LOVE LOVE あいしてる:トーク】
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- ^ 吉田拓郎LIVE〜夏と君と冷したぬき〜
有名人同士の意外な交友関係(2011/05/04) | コブス横丁 | COBSキャリア - ^ 変なおじさん、新潮社、2002年、38頁
- ^ 決定!これが日本のベスト
- ^ a b テレビ朝日|ストライクTV 2011年11月7日放送
- ^ フォーライフレコード設立35周年記念!井上陽水・吉田拓郎・小室等ら、70年代後半の名曲をコンパイルした高音質コンピ盤発売!
- ^ 痛快!明石家電視台、2011年2月14日放送
- ^ ピース『憧れの人・ダウンタウンへの想いや、青春時代のベストソングを語る!!』-ORICON STYLE
- ^ [地球は私の仕事です] 女の仕事、朝日新聞社、1997年9月、p230-231
- ^ 勝手にさせて、秋吉久美子著、河出書房新社、1986年3月、p52
- ^ 仲村トオルさん(3/3) - インタビュー - ひと - (どらく)
- ^ 「笑っていいとも」2011年7月12日放送
- ^ 江口寿史のお蔵出し、1994年4月、自著、イーストプレス、p13-27に収録
- ^ レコード・コレクターズ増刊「日本のフォーク/ロック アルバム・ベスト100 1960-1989」、2010年11月、ミュージック・マガジン、p41
- ^ en-taxi 第21号、2008年、p100
みうらじゅんの「サブカルジェッター」
日本崖っぷち大賞、1998年、みうらじゅん、泉麻人、山田五郎、安斎肇、毎日新聞社、p174 - ^ ほぼ日刊イトイ新聞- じゅんの恩返し12
- ^ みうらじゅん対談集 正論。、みうらじゅん、コアマガジン、2009年、p231、234
- ^ 週刊現代、2011年8月13日号、p126
- ^ 茅ヶ崎ロータリークラブ 創立50周年記念講演 直木賞作家・重松清『命を語ることば』
- ^ 重松清さん×糸井重里さんの対談|作家による読書の楽しさを伝える対談
- ^ 週刊現代 講談社 2009年10月17日号71頁
- ^ 「月刊ミュージックスター」にインタビュー記事掲載 - 江田けんじNET
吉田拓郎・・・我が青春|江田 けんじオフィシャルブログ Powered by Ameba - ^ 内外タイムス - 高須基仁のメディア国士無双
高須基仁の"百花繚乱”独り言
ほぼ日刊イトイ新聞 - あのひとの本棚。
週刊現代 2009年10月17日号、p71
en-taxi 第21号、p96-99
8月18日 その1219『逢坂誠二の徒然日記』 | 逢坂(おおさか)誠二
[編集] 外部リンク
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