カーペンターズ

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カーペンターズ
Carpenters
当時のアメリカ大統領のリチャード・ニクソンとともに(1972年8月1日)
当時のアメリカ大統領リチャード・ニクソンとともに(1972年8月1日
基本情報
出身地 アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス
ジャンル ポップ・ミュージック
活動期間 1969年 - 1983年
レーベル A&Mレコード
公式サイト Richard and Karen Carpenter
www.universal-music.co.jp内
旧メンバー
リチャード・カーペンターピアノ
カレン・カーペンタードラムス
  

カーペンターズ (Carpenters) は、アメリカの兄妹デュオ。1969年4月22日に命名された。楽器を兄のリチャード・カーペンターが受け持ち、ヴォーカルを妹カレン・カーペンターが行った。The Carpentersと表記されることが多いが、公式なレコード作品や出版物においては定冠詞なしのCarpentersを名称として用いている[1]。ロック全盛の1970年代に、リチャードとカレンは独自の音楽スタイルを貫き、大きな成功を収めた[2][3]1983年2月4日のカレンの死によりその活動を終えた。

カーペンターズのポップ・ソングはアメリカのトップ40やアダルト・コンテンポラリー・チャートの記録を塗り替え、ソフト・ロックイージー・リスニングアダルト・コンテンポラリー・ミュージックといったジャンルにおける主要なヒットメーカーになる。ビルボード・ホット100チャートで1位となったシングルが3曲、アダルト・コンテンポラリー・シングル・チャートで1位が15曲ある。さらに、トップ10入りは12曲に及ぶ。カーペンターズのアルバムおよびシングルの総売上枚数は1億枚を上回ると推定されている[3]

カーペンターズは14年間の活動で、11枚のアルバム(うち『遙かなる影』『スーパースター』『ア・ソング・フォー・ユー』『ナウ・アンド・ゼン』『緑の地平線 (ホライズン)』の5枚がトップ10シングル曲を収録)、31枚のシングル、5本のテレビ・スペシャル番組、テレビ・シリーズ番組を1本制作した。アメリカ本国をはじめ英国、日本、オーストラリア、オランダ、ベルギーなど多くの国をめぐって数多くのツアーを行った。

カレンは神経性無食欲症(いわゆる拒食症)の合併症による心停止のために死去した。カレンの死亡の理由が報道され、その結果、深刻な摂食障害の危険性の認識が深まったほどである[4][5]

オリコンチャートブックの集計では1970年から1989年(いわゆるレコード時代)の日本での海外アーティスト別アルバム売上枚数はビートルズに次いで第2位である。シングル売上枚数は第1位。CD時代に入った後も、1995年発売の青春の輝き〜ベスト・オブ・カーペンターズ〜が300万枚越えるセールスを記録する等、日本においてはビートルズと並び、時代を超越して愛され続けているグループである。

目次

[編集] 歴史

[編集] 生い立ち

カーペンター兄妹は、アメリカ合衆国コネチカット州ニューヘイブンで生まれた。リチャード・リン・カーペンターは1946年10月15日、妹カレン・アン・カーペンターは1950年3月2日生まれである。リチャードは父親の膨大なコレクションのレコードを聴き、ピアノの練習に熱心だった。[6]。一方カレンは親しみやすく外向的でスポーツを好んだが、兄と一緒に音楽を聴くことも多かった[6]

1963年6月、両親のハロルドとアグネスは家族を連れてカリフォルニア州ロサンゼルス郊外のダウニーに移り住んだ。リチャードを音楽産業へ近づけることと、カレンと父がニュー・イングランドの厳しい冬を嫌ったための移住である[7]。しかし生まれ故郷のニューヘイブンの友人との別れはカレンにとって、辛いものとなった[7]。同年の秋からリチャードはダウニー高校へ通い、体育の代わりにバンドを選択科目として取ることができた。これは、後のカレンに選択を体育から音楽に変更する参考になった。音楽教師のブルース・ギフォードは、リチャードが「ラプソディ・イン・ブルー」を指示されて演奏するのを聞いて、リチャードのピアニストとしての才能を認めた[3]。翌年度からリチャードはカリフォルニア州立大学ロングビーチ校へ通い、将来の作曲パートナーとなるジョン・ベティスと出会った。ベティスの協力のもとに、リチャードはやがて「トップ・オブ・ザ・ワールド」 ("Top of the World") 「愛にさよならを」 ("Goodbye to Love") 「オンリー・イエスタデイ」 ("Only Yesterday") といった名曲を生み出してゆくのである。またリチャード・カーペンター・トリオベースチューバを演奏することになるウェズリー・ジェイコブズや、1966年クリスマス・ソングのスタンダードメリー・クリスマス・ダーリン」 ("Merry Christmas Darling") を共作するフランク・プーラーらと知り合ったのもこの学校でのことである[8]

カレンは1964年ダウニー高校へ入学し、同校でドラム演奏の才能を見せはじめた[3]。カレンは運動好きであったが、彼女自身は体育の授業が嫌いだったと述べている。カレンは体育から逃れるため、カリフォルニア州立大学学生のリチャードに、恩師の中で(リチャードがやったのと同じように)自分を体育からマーチング・バンドへ移らせてくれる教師の紹介をたのみ[9]、ダウニー高校マーチング・バンドの一員となることを認められた。バンドに所属したカレンに、1963年、リチャードを教えていた教師のブルース・ギフォードはグロッケンシュピールを担当楽器として与えたが、カレンはこの楽器を嫌った。あるインタビューでカレンは、「演奏に不便で運びにくく、バンドの演奏よりも常に4分の1音高い音を出すことなどに苛立っていた」と述べている[10]。その後間もなく、友人でありバンド仲間のフランキー・チャベスからカレンはドラムの演奏を勧められ、チャベスのセットを借りてドラムを教わった。「基礎から始めて2人で何時間も練習したのだろう」とリチャードは語っている。1964年に両親からラディックのドラムセットを買って貰ったころには、カレンの腕前はプロ並みに上達しており、リチャードが後年のドキュメンタリーリメンバー・ザ・カーペンターズ』 ("Close to You: Remembering the Carpenters") で語っているところによれば「エキゾティックな拍子記号の列を叩き出せるほどになっていた」[11][12]

[編集] 初期の活動

1965年まで1年間カレンはドラムの練習に励み、リチャードは教師フランク・プーラーの指導の下にピアノの演奏を研鑽した。兄妹はジャズ・トリオの結成を真剣に考えるようになり、これがやがてリチャード・カーペンター・トリオとなる。このころリチャードはウェス・ジェイコブズに感銘を受けて自己紹介し、すぐに親しくなった[8]。カーペンター兄妹はリチャードの友人となったウェス・ジェイコブズとトリオを結成しようと考えた。ドラムはカレン、ピアノはリチャード、ベース/チューバはジェイコブズという、最低限のパート編成でのジャズ・トリオを構想した。

こうして1965年後半にウェス・ジェイコブズとリチャード・カーペンター、妹のカレンからなるインストゥルメンタル・ジャズ・グループ、リチャード・カーペンター・トリオが結成された。1966年、トリオはハリウッド・ボウルで毎年行われていた "Battle of the Bands" (いわゆる対バン形式のコンテスト)に出場し、「イパネマの娘」のインストゥルメンタル・ヴァージョンや自作曲「アイス・ティー」を演奏した。1966年6月24日、トリオはこの大会で優勝し、RCAレコードとの契約を勝ち取った[3]。そこで彼らはビートルズの「エヴリー・リトル・シング」 ("Every Little Thing") やフランク・シナトラの「夜のストレンジャー」 ("Strangers in the Night") などといった曲を録音した。しかし、RCAはこれらの曲のリリースを取り止め、彼らが商業的に成功できる可能性を疑ったため、すぐに契約は破棄された[13]

1966年、ロサンゼルスのベース奏者ジョー・オズボーンが所有していたガレージ・スタジオで深夜にセッションが行われることとなり、そこでオーディションを受けるトランペット奏者の伴奏を務めるために参加することとなったリチャードにカレンも同行した[12][14]。この時、ためしに歌ってみるようオズボーンから頼まれたカレンの声のすばらしさが認知され、1966年5月13日、カレンはオズボーンが立ち上げたばかりのレーベル、マジック・ランプ・レーベルとソロ・アーティストとしての短期レコード契約を結ぶこととなった。このレーベルからはリチャードが作曲した「ルッキング・フォー・ラヴ」 ("Looking for Love") と「アイル・ビー・ユアズ」 ("I'll Be Yours") を収録したシングルが制作されたが、レーベル自体がその後すぐに閉鎖された。しかしオズボーンは、カレンとリチャードがA&Mレコードからのオファーを受けることとなる1969年まで2人にデモ・テープの録音を続けさせた[15]

1967年、リチャードとカレンはカリフォルニア州立大学ロングビーチ校の学生ミュージシャン4人と協力して、「ザ・サマーチャイムズ」という名のセクステット(6重奏団)を結成した。しかしサマーチャイムズ自体は短命に終り、彼らはすぐに「スペクトラ」と改名し、最終的には「スペクトラム」の名に落ち着いた[16][12]。グループはジョリー・ナイト・ステーキ・ハウスやウィスキー・ア・ゴーゴーなどで頻繁に演奏するようになった[15][17]。スペクトラムにレコード会社と契約を交わせなかったが、同じバンドのメンバーであると同時に、のち1983年のカレンの死まで多くの楽曲の共作者となるジョン・ベティスとリチャードは親交を深めた。

1968年、スペクトラム解散。リチャード・カーペンター・トリオのウェス・ジェイコブズは、ベースとチューバを演奏していたが、デトロイト交響楽団へ加入するためグループを去った(1970年首席チューバ奏者となった)[18]。リチャードとカレンは1968年の中ごろにテレビ番組 "Your All American College Show" からの出演依頼を受けた。このテレビショーは、全国の大学からさまざまなグループを集めてコンテストに参加させるオーディション番組である。兄妹はマーサ&ザ・ヴァンデラスの名曲 "Dancing in the Street" で参加することとしたが、バンドを去ったジェイコブズの代わりとなるベース奏者が必要であったため、オーディションを行った。結局、そのテレビ出演だけの臨時参加という形でビル・シショフが選ばれた[3]。この一時的なラインナップによる新しいリチャード・カーペンター・トリオは1969年6月22日にテレビデビューを飾った。この演奏はリチャードとカレンにとっては初めてのテレビ出演でもあった。この出演を最後にリチャード・カーペンター・トリオは最終的に解散し、レコード・レーベルから声がかかるのを待つこととした。

当時はジミ・ヘンドリックスビートルズジャニス・ジョプリンローリング・ストーンズロックグループ主流で、音楽業界からのカーペンター兄妹の需要は低かった。しかし、リチャードとカレンは自分たちの路線を貫いた。二人は友人たちの手を借りながらさまざまなレコード・レーベルへデモ・テープを送りつづけ、ついにそのソフトなサウンドは、A&Mレコードの共同所有者でありトランペット奏者・ヴォーカリストでもあるハーブ・アルパートの関心を惹いた。このアルパートがリチャードとカレンを世に送り出すことになる。

[編集] カーペンターズ

1969年4月22日、リチャードとカレンは「カーペンターズ」名義でA&Mレコードとの契約を結んだ。当時の州法で19歳のカレンは未成年者だったため、両親も署名した[3][19]。兄妹はあえて定冠詞 "The" の付かない "Carpenters" を契約上の名義とすることに決めた("The Carpenters" は「カーペンター兄妹」ないし「カーペンター家」を意味するが、 "Carpenters" だけでは「大工たち」の意味になる)。その理由についてリチャードは、2004年に発売された "Gold: 35th Anniversary Edition" のライナーノーツにおいて、バッファロー・スプリングフィールドジェファーソン・エアプレインのように、「ザ・~~ズ」ではないバンド名のほうがかっこいいと思ったからだと述べている[1]

A&Mレコードとの契約において、リチャードとカレンはスタジオ内における自由裁量件を与えられた[12]。『オファリング』 ("Offering|") と題されて1969年にリリースされた彼らの最初のアルバムには、リチャードがスペクトラム時代に作曲ないし共作した楽曲もいくつか収録されている[20]。このアルバムにおいて最も重要な曲はビートルズのヒット曲をバラード風にアレンジした「涙の乗車券」 ("Ticket to Ride") で、ビルボード・ホット100で最高54位、アダルト・コンテンポラリー・チャートでトップ20位入りするなど、爆発的とはいえぬまでもそれなりのヒットとなった[21][22]。この曲が成功したことを受けて、『オファリング』は1970年に『涙の乗車券』へと題名を変えて再発された。

「涙の乗車券」のチャート・アクションは今一つ振るわなかったが、リチャードとカレンはバート・バカラックハル・デヴィッド作曲の「遙かなる影」 ("(They Long to Be) Close to You") でついに成功を手にする。このシングルは1970年にリリースされて初登場56位となり、その週の初登場曲の中では最高位となった[23]。1970年7月22日にはチャート1位に昇りつめ、ビルボード・ホット100で4週にわたって首位の座を守った[12]。1970年ビルボード誌年間ランキングでは第5位となっている。ベストセラーとなったアルバム『遙かなる影』の収録曲からはこの曲と「愛のプレリュード」 ("We've Only Just Begun") がRIAAによってゴールドディスクに認定され、同アルバムは『ローリング・ストーン』誌による『偉大なアルバム500選』 ("500 Greatest Albums of All Time") の175位にも選ばれている[24]。その年の最優秀新人部門をはじめとする2つのグラミー賞も受賞した。

「遙かなる影」が1位となった直後に、カーペンターズがカヴァーした「愛のプレリュード」(ポール・ウィリアムスロジャー・ニコルス作)がビルボード・ホット100で第2位を獲得し、アダルト・コンテンポラリーチャートでは首位を7週間保持した。リチャード自身もこの曲はグループの「代表曲」だと認めている[12][22]。この曲はもともとウィリアムズとニコルズがクロッカー・ナショナル銀行のテレビCM曲として前年に作曲したものだが、リチャードはテレビで聴いたときにその曲のもつ潜在的な可能性にいち早く気づいたのである。「愛のプレリュード」はウィリアムズとニコルズにとって初めてのヒット・シングルとなった。

2人はその年の締めくくりとして、クリスマス・ソング「メリー・クリスマス・ダーリン」 ("Merry Christmas Darling") をリリースした。この曲は、カリフォルニア州立大学時代に2人の参加していた合唱団の監督を務めていたフランク・プーラーとリチャードが共作した作品で、1970年のビルボードのホリデイ・チャートで高位にランクインして、翌年以降も同じチャートにたびたび登場した。

一連のヒット・シングルやアルバムによって、カーペンターズは1970年代を通じてヒット・チャートの常連となった。1971年のヒット曲「ふたりの誓い」 ("For All We Know") は、ラリー・メレディス監督による1970年の映画 "Lovers and Other Strangers" の結婚シーンのためにレコーディングされたものである[25]。映画館でこの曲を聴いて魅せられたリチャードは、その後間もない1970年秋にこの曲を録音し、カーペンターズにとって3枚目のゴールド・シングルとなった[26]

カーペンターズの手によって送り出された「雨の日と月曜日は」 ("Rainy Days and Mondays") はビルボード・ホット100の最高第2位を記録し[22]、ポール・ウィリアムズとロジャー・ニコルにとって2曲目のヒット・シングルとなった。カーペンターズの評伝を著した作家コールマンは、「雨の日と月曜日は」をおそらく最もポピュラーなカーペンターズの楽曲であろうと評している。さらにこの曲はカーペンターズ第4のゴールド・シングルとなり、1位獲得を阻んだのはキャロル・キングの不朽の名曲「イッツ・トゥー・レイト」 ("It's Too Late") だけであった[27]

レオン・ラッセル/ボニー・ブラムレット作曲のシングル「スーパースター」 ("Superstar") はカーペンターズの次の代表曲となり、ここで聴かれる痛切で心に残るカレンの歌声は高い評価を受けている。この曲もまたビルボード・ホット100において第2位となった[22]。1971年には彼ら自身の名をタイトルとしたアルバム『カーペンターズ』("Carpenters" 、日本盤タイトルは『雨の日と月曜日は』、後に『スーパースター』へと改題)がリリースされた。この作品は彼らにとって最も売れたアルバムの1つであり、RIAAのプラチナムを4度にわたって獲得(売上400万枚以上)している[28]。この作品でカーペンターズはグラミー賞 (Best Pop Performance by a Duo or Group with Vocal) を受賞し、3部門でノミネートされている[29]

1972年にリチャードはエレキギターによるソロを導入したバラードを考案した。後にこうした形態の曲をハードロックヘヴィメタルのバンドが継承して Power ballad と呼ばれる1ジャンルにまでなったことから、リチャードがこのジャンルの先駆者とみなされることもある。この曲「愛にさよならを」 ("Goodbye to Love") はリチャードとベティスによって作曲されたもので、カーペンターズが1972年に出した2枚目のシングルとして最高7位を記録した[22]。「愛にさよならを」はビング・クロスビー主演の映画 "Rhythm on the River" に着想を得たものである[30]。この映画は1940年に制作され、作中にはベイジル・ラスボーンが演じる作曲家が登場する。この作曲家は歴史上最も美しい歌 "Goodbye to Love" の作者として有名という設定である。リチャードによれば、この曲は映画の中に言及があるだけで演奏されてはいなかったが、同名の曲を自分で書こうと思いつき、1972年にベティスと共作するまでそのアイディアを温めていたのである[30][12]。2人はリードギタリストとしてトニー・ペルーソを招き、A&Mのスタッフもペルーソの大胆なソロに満足した。これを機にペルーソは1983年までカーペンターズの伴奏者を務めることとなった。しかし、ファンの中にはカーペンターズのレコードにエレキギターのソロが入ることに不満を抱く者も少なくなく、リチャードとカレンのしたことに怒りを覚えて嫌がらせの手紙を送りつける者さえいた[31][12]

「トップ・オブ・ザ・ワールド」はグループのカントリー・ソングとしては最大のヒットとなった。1972年に出たこの曲のアルバム・ヴァージョンを聴いたリン・アンダーソンがこの曲をカヴァーして1973年にリリースすると、リチャードとカレンも自分たちのヴァージョンをシングルとしてリリースするべきかどうかについて議論しあった。A&Mの仕事仲間であったギル・フリーセンは、アルバム『ア・ソング・フォー・ユー』からはすでに4枚ものシングル(「ハーティング・イーチ・アザー」 "Hurting Each Other" 、「愛にさよならを」 "Goodbye to Love" 、「小さな愛の願い」 "It's Going to Take Some Time" 、「愛は夢の中に」 "I Won't Last a Day Without You" )をカットしていることを理由に反対したが[32]、それにもかかわらず、一般からの需要は高いという判断により「トップ・オブ・ザ・ワールド」を1973年5月にシングルカットした。「トップ・オブ・ザ・ワールド」に対する世間の反応はきわめて大きなものだった。このシングルはカーペンターズにとって2枚目のビルボード1位の曲となり[22]、今日に至っても世界的な知名度を保っている。

1973年のアルバム『ナウ・アンド・ゼン』のタイトルは2人の母アグネス・カーペンターが考案したものである。この作品にはセサミ・ストリートで挿入歌として使用された楽曲「シング」 ("Sing") や、懐古的な調子の「イエスタデイ・ワンス・モア」 ("Yesterday Once More") などが収録されている。彼らにとって全世界を通じた最大のヒット曲は「プリーズ・ミスター・ポストマン」 ("Please Mr. Postman") であるが、イギリスと日本ではこのシングルが最高の売上枚数を記録している[33]。このアルバムのジャケットは、日本人デザイナーの長岡秀星の代表作のひとつである。

カーペンターズにとって初となるコンピレーション・アルバムは "The Singles: 1969-1973" と題された。アメリカとイギリスではチャートのトップに立ち、その10年間で最も売れたアルバムのひとつとなった。また、このアルバムはアメリカだけでも700万枚以上を売り上げ[28]、2008年現在で7回のプラチナムを授与されている[28]。レイ・コールマンによれば、"The Singles: 1969-1973" は1974年2月9日に1位を獲得し[22]リック・ウェイクマンの『地底探検』にトップを奪われる前週の1974年6月1日まで、実に16週にわたってその座にあった[34]

[編集] 1970年代後半

カーペンターズは1974年には新しいアルバムを発表しなかった。リチャードはこれについて「単に時間がなかったから。アルバムを作る気分にもなれなかったし」と語っている[35]。その代わりに、2人はポール・ウィリアムズ/ロジャー・ニコルズ作曲のシングル "I Won't Last a Day Without You" をリリースしている。これはもともと1972年のアルバム『ア・ソング・フォー・ユー』に収録されていたものだが、カーペンターズはそのLPをリリースした2年後になってからこの曲をシングル・カットすることを決めたのである[36]。1974年3月、そのシングル・ヴァージョンはビルボード・トップ100チャートの11位に達し、アルバム『ア・ソング・フォー・ユー』からの5番目のトップ20ヒットとなった。

一方、同1974年には『ナウ・アンド・ゼン』に収録されたハンク・ウィリアムズの「ジャンバラヤ」 ("Jambalaya (On the Bayou)") をアップテンポにリメイクした。この曲はアメリカでシングルとしてリリースされたほか、日本のチャートでも30位以内にランクインし、イギリスをはじめとする他の多くの国でもヒットした。オランダでは、カーペンターズにとって最大のヒット曲となったほどである[37]。また1974年の暮れには、ジャズ調の編曲を施したクリスマス・ソング「サンタが街にやってくる」 ("Santa Claus Is Coming to Town") をシングルとしてリリースしている。

1975年はまだ彼らにとって大豊作の年であった。マーヴェレッツが1961年にチャート1位を獲得したヒット曲で、モータウン・サウンドのクラシックであった「プリーズ・ミスター・ポストマン」 ("Please Mr. Postman") をカヴァーしたシングルがまたもヒットとなったのである。これは1974年にリリースしたものだが、75年の1月にビルボード・トップ100で1位を獲得し、彼らにとっての3度目の(そして最後の)首位獲得作品となった[38][39]。このシングルはまた、カレンとリチャードにとっての12番目のアメリカでのミリオンセラーにもなった[39]

「プリーズ・ミスター・ポストマン」に続き、春にはリチャードとジョン・ベティスの共作「オンリー・イエスタデイ」 ("Only Yesterday") がビルボードで4位まで上昇し、これは彼らにとって最後のアメリカでのトップ10ヒットとなった[40][39]。リチャードとベティスはこの曲がヒット・シングルになるとは思っていなかったので、ロジャー・ヤングとの賭けでトップ5入りしない方に賭けており、2人はヤングに対して1000ドル支払うはめになった[41]

1975年の上半期に成功を収めたこの2曲はいずれも1975年のアルバム『緑の地平線 (ホライズン)』 ("Horizon") に収められている。このアルバムはほかにもイーグルスの「デスペラード」 "Desperado"ニール・セダカの「ソリテアー」 "Solitaire" のカヴァーを収録しており、これらも同じ年に中ヒットを記録した。ただし、以降彼らのレコード・セールスは次第に下降線を辿り始めた。『緑の地平線』はプラチナム・アルバムに認定されたが、その後(アルバムからの2枚目のシングルがチャートから消えて以降)カーペンターズにとっては初めてマルチ・プラチナムに達することのなかったアルバムとなった。

1976年6月11日に発売された次のアルバム『見つめあう恋』 ("A Kind of Hush") も、ゴールド・ディスクには認定されたものの、彼らにとってはファースト・アルバム『涙の乗車券』以来の7年間で初めてプラチナ獲得に至らなかったアルバムである。それでも1976年のシングル・リリースは成功を収めていたが、当時のヒット・ラジオ番組は音楽的スタイルを変化させており、ついにはカーペンターズのような「ソフト」なグループの多くを苦しめるようになった。カーペンターズのその年最大のポップ・シングルはハーマンズ・ハーミッツのカヴァー「見つめあう恋」 ("There's a Kind of Hush (All Over the World)") で、最高12位であった。「青春の輝き」("I Need to Be in Love" 、カレンの最も好きな曲といわれる)はビルボード・ホット100では25位にとどまったが、アダルト・コンテンポラリー・チャートでは「見つめあう恋」に続き14枚目となる1位を獲得した。これは同チャートの歴史上他に類を見ない記録となった。

彼らの功績の1つとして数えられることは少ないが、カーペンターズはアメリカでは最も早く自分たちのレコードの宣伝のためにミュージック・ビデオを制作したグループの1つである。1975年の初めに、彼らはディズニーランドで「プリーズ・ミスター・ポストマン」の演奏を撮影しているほか、「オンリー・イエスタデイ」 ("Only Yesterday") をハンティントン・ガーデンで収録しているが、ここでのカレンは健康で調子良さそうに見える。しかし、1年後に撮影した「見つめあう恋」のビデオに出演した時には目に見えて違いが表われるようになっていた。

1977年ごろはディスコ・ブームの真只中であり、カーペンターズやジョン・デンヴァーヘレン・レディジェームス・テイラーオリビア・ニュートン=ジョンといった大人向けの「イージー・リスニング」のアーティストは、ラジオなどで放送される機会がやや減りつつあった。1977年にリリースされたカーペンターズの実験的なアルバム『パッセージ』 ("Passage") は、他の音楽ジャンルへ挑むことによって、より多くの層へ訴えかけようとする試みであったといえる。このアルバムが1970年代後半のSFブーム(いずれも1977年の映画『スター・ウォーズ』や『未知との遭遇』など)から少なくとも部分的に影響を受けたものであることは疑いの余地がない。このアルバムはラテン音楽(「一人にさせて」 "B'wana She No Home")、カリプソ(「恋の強がり」 "Man Smart (Woman Smarter)")、ポップ・ソング(「想い出にさよなら」 "I Just Fall in Love Again" 、「あの日、あの時」 "Two Sides")という不釣合いな混ぜ合わせに、いくつかのヒット曲「二人のラヴ・ソング」("All You Get from Love Is a Love Song" 、アダルト・コンテンポラリー・チャート4位「星空に愛を(コーリング・オキュパンツ)」 ("Calling Occupants of Interplanetary Craft") を抱き合わせたというものである。最も有名な曲、ミュージカル『エビータ』から取られた「月影のバルコニー~泣かないでアージェンティーナ」 ("Don't Cry for Me, Argentina") やクラトゥの「星空に愛を」などのカヴァーはいずれも合唱とオーケストラによる伴奏が加えられた。シングル「星空に愛を」はイギリスではヒットしたが、アメリカのポップ・チャートでは32位止まりとなり、カーペンターズとしては初めてゴールド認定となる50万枚の売り上げに達することのなかったアルバムとなった[42]

リチャードは『パッセージ』のもう1つの曲「想い出にさよなら」はきっと成功するに違いないと感じていたため、A&Mにシングルでのリリースを決断させた。この曲はアン・マレーのシングルとして発売され、1979年のアダルト・コンテンポラリーおよびカントリー・チャートの両方で1位を獲得し、この曲のもつ魅力を信じたリチャードの感性の正しさを証明した。カーペンターズによる「二人のラヴ・ソング」と「星空に愛を」のミュージック・ビデオがDVD "Gold: Greatest Hits" で観ることができる。

国内チャートでの成績はやや振るわなくなってきたとはいえ、カーペンターズはまだ人気には恵まれていた。1978年の初めには、アップテンポでフィドルを加味した「スウィート・スマイル」がカントリー・チャートで意外にもトップ10入りを果たしたのである(ビルボード・ポップ・チャートではトップ40に若干及ばなかったが、アダルト・コンテンポラリーおよびカントリー・チャートでそれぞれ7位、8位を獲得した)。この曲は後年カントリーやポップのスターとなるジュース・ニュートンが作曲したものである。イギリスでは2作目のコンピレーション・アルバム "The Singles: 1974-1978" が発売となった。一方アメリカではカーペンターズ初のクリスマス・アルバム『クリスマス・ポートレート』 ("Christmas Portrait"( が発売されてその季節の人気作品となり、勢いの衰えはじめたこの時期にあっては例外的な売れ行きを見せて、カレンとリチャードにふたたびプラチナムをもたらした。

[編集] 1980年代初頭

1979年、リチャードはカンザス州のリハビリ施設で薬物依存症からの回復を試みる。そのあいだにカレンはニューヨークに渡って、プロデューサーにフィル・ラモーンを迎えた初のソロ・アルバムの制作を決意する。彼女はこのアルバムのためにより大人向けでディスコ調の作品を選び、これまでのイメージを払拭しようと努めた。だが、1980年の初頭にでき上がったソロ作品に対し、リチャードやA&Mが見せた反応はすげないものであった。その結果彼女は自身のソロ・プロジェクトに専念することをためらうようになった。カレンにとっては不幸なことに、このアルバムは発表しないものとする決定が下され、この作品の制作費として印税から50万ドル以上の負債を請求されたのである。この決定に怒りを覚えつつも、ある面では慣れぬ仕事から解放されたカレンは、依存症から立ち直った兄と新しいアルバムの制作にとりかかる。お蔵入りになったカレンのソロ・アルバムは1996年10月に『遠い初恋』 ("Karen Carpenter") としてリリースされるまで未発表だったが、録音された楽曲のうち4つは1989年のカーペンターズのアルバム『愛の軌跡』 ("Lovelines") の中で陽の目を見た。その際に「イフ・アイ・ハド・ユー」 ("If I Had You") はシングルとしてリリースされ、アダルト・コンテンポラリー・チャートで20位以内にランクインした。

カーペンターズは1980年に『Music』と題されたテレビの特番に出演し、エラ・フィッツジェラルドジョン・デヴィッドソンをはじめとする著名なゲストと共演した。これはカレンがトム・バリスと結婚したのと同じ年に撮影されたもので、この時期のカレンは比較的健康な体重を取り戻していた。[12]

1981年6月16日にリリースされたカーペンターズのデュオとしての次なるLP『メイド・イン・アメリカ』 ("Made in America") は、商業的には失敗に終わった。この作品はアメリカでは、カレンが亡くなる1983年初頭までは20万枚ほどしか売れていなかった。しかしながら、収録曲の中からシングル・カットされたロマンティックな「タッチ・ミー」はHot100で16位まで上昇し、全米ポップ・チャートにおける彼らの最後のトップ20ヒットシングルとなった。この曲はビルボードのアダルト・コンテンポラリー・チャートでは彼らにとって15番目の首位記録作品でもある。

カレンのトーマス・ジェイムズ・バリスとの結婚や、彼女が患っていた拒食症などの個人的な問題は、グループの復帰に暗い影を落とした。瞬く間に恋に落ちたあと、カレンは不動産業者のバリスとの結婚式をビバリーヒルズ・ホテルのクリスタル・ルームで盛大に行った。1980年の8月31日に挙げられたこのセレモニーの中で、カレンは翌年に「タッチ・ミー」のカップリングとしてリリースされる、リチャードとベティスが書き下ろした楽曲「ウエディング・ソング」を披露している[43]。だが、結婚してから1年ほどの間に、彼女の容姿は変わり果てていった。『メイド・イン・アメリカ』の販売促進用に制作されたビデオで窺えるその姿は、もはや彼女が重病人であったことを裏付けるのに十分な証拠といえるものであった。カレンとバリスの結婚生活は惨憺たるものであり、彼らは1981年の終わりには別居する。1982年、カレンは障害の診療を受けるためニューヨークの著名な心理セラピスト、スティーブン・レベンクロンを訪ね、この年の11月には仕事に復帰して離婚手続きを完了するためにカリフォルニアへ戻った。カレンの甲状腺は通常のものであったが、新陳代謝を加速するために甲状腺の薬を通常の10倍服用していることが分かった。これに加えて大量の下剤(日に90錠から100錠)を服用していたことが、彼女の心臓を弱める原因となった。

[編集] カレンの突然の死

ニューヨークの病院での2ヶ月以上にわたる治療を経て、カレンは30ポンド(13.6キログラム)以上も体重を戻したが、急激な体重の増加は長年の無理なダイエットですでに弱っていた彼女の心臓に対してさらに負担をかけてしまった。1983年の2月4日の朝、カレンはダウニーの両親の家で心肺停止状態に陥ってダウニー・コミュニティ病院に運ばれるが[44]、それから20分後に死亡が確認された。彼女はその日、離婚届へ署名するつもりであったという。

検死によると、カレンの死因は神経性無食欲症に起因するエメチンの心毒性であった。解剖学的な結論としては、心臓麻痺が第1の原因で、拒食症は第2の原因であった。第3に挙げられるのが悪液質で、これは負担や衰弱としては非常に軽いもので、慢性的な疾患と関連した一般的な体の衰えというべきものであった。エメチンの心毒性が死因であったことは、カレンが当時は簡単に入手できた薬である吐剤(誤って毒物を摂取してしまった人が即座に嘔吐できるようにするためのもの)を悪用していた可能性を示唆するが、明確な証拠はない[45]

彼女の告別式は1983年2月8日火曜日にダウニーの統一メソジスト教会で執り行われた。カレンは白い開いた棺にピンクのドレスを着せて横たえられ、およそ1,000人の会葬者が最後の別れを告げた。会葬者の中には、ドロシー・ハミルオリビア・ニュートン=ジョンペトゥラ・クラーククリスティナ・フェラーディオンヌ・ワーウィックといった彼女の友人たちがいた。別居中であったカレンの夫も葬儀に出席し、結婚指輪を外して棺の中に入れた[41]

1983年10月12日、ハリウッド名声の歩道コダック・シアターから2、3ヤードほどのところにカーペンターズの星型プレートが飾られた。多くのファンと並び、リチャード、ハロルド、アグネス・カーペンターが除幕式に出席した[46]

カレンの死は拒食症だけでなく過食症に対してもメディアの注目を呼び寄せた。カレンの死によって有名人たちも自らの摂食障害を公表するようになったが、その中にはトレイシー・ゴールドダイアナ妃といった人々がいた。医療センターや病院はこうした障害に悩む人々からの相談を受けることが多くなった。カレンの死が大きく報道されるまでは、一般大衆の間では拒食症や過食症についてあまり知られていなかったため、症状を正確に認識して対処することは困難だったのである。2003年12月、カレンと両親の遺骨がカリフォルニア州サイプレスのフォレスト・ローン記念公園から掘り起こされ、カリフォルニア州ウェストレイク・ビレッジのピアース・ブラザーズ・ヴァリー・オークス記念公園に改めて埋葬された。

[編集] カーペンターズ以降

カレンの死後も、リチャードは未発表音源集やコンピレーション・アルバムなどデュオの作品のプロデュースを続けた。『メイド・イン・アメリカ』やそれ以前のアルバムでお蔵入りになっていた完成曲を収録したアルバム『ヴォイス・オブ・ザ・ハート』 ("Voice of the Heart") は1983年の終りにリリースされ[47]、チャート46位に達してゴールド認定を受けた。このアルバムからは2枚のシングルがカットされた。「遠い初恋」 ("Make Believe It's Your First Time") はカレンのソロ・アルバム用に録音された曲の2つ目のヴァージョンである(1979年にボビー・ヴィントンによりマイナー・ヒットとなっていた)。このシングルはアダルト・コンテンポラリー・チャートで第7位となったが、ポップ・チャートでは101位にとどまった。次のシングル「ユア・ベイビー」 ("Your Baby Doesn't Love You Anymore") はACチャート12位となったが、「バブル・アンダー」(ポップ・チャート100位以下のマイナー・ヒット)にも入らなかった。

リチャード・カーペンターは1984年5月19日にメアリ・ルドルフと結婚した。1987年8月17日には長女クリスティが、1992年7月25日には次女ミンディ・カレン(叔母の名を継いだ)が生まれ、その後もコリンとテイラーが生まれた。

1984年、リチャードはデュオの最初のクリスマス・アルバム『クリスマス・ポートレート』からのアウトテイクに新しい音源素材を加えた2枚目のクリスマス・アルバム『オールド・ファッション・クリスマス』 ("An Old-Fashioned Christmas") を、カーペンターズの「新作」として制作した。また1987年には、リチャード初のソロ・アルバム『タイム』 ("Time") をリリースした。このアルバムからは、ダスティ・スプリングフィールドをゲスト・ヴォーカルに迎えた「サムシング・イン・ユア・アイズ」 ("Something in Your Eyes") がヒット・シングルとなった。

カーペンターズのイメージを守りレコードの版権管理をしてゆこうと務めるリチャードに対しては批判が集中した。彼らを題材として扱うドキュメンタリーやドラマが制作されることになると、リチャードがそれらすべてに対して実質的な監督権を主張したためである。1987年には、トッド・ヘインズの自主制作短編映画 "Superstar: The Karen Carpenter Story" (カレンが衰えて早すぎる死を迎えるまでを、実際の女優ではなくバービー人形を用いて描いている)の配給に介入した。この映画のカレンに対する描写は同情的なものだったが、カレンの不幸を浮き立たせるために家族に対しては悪印象を与えるような表現がとられており、リチャードはカーペンターズの曲が無許可で使用されていることを根拠に訴訟を起こし、映画の配給を差し止めさせた。1989年のテレビ映画『カーペンターズ・ストーリー』("The Karen Carpenter Story" 、シンシア・ギブ主演)はリチャードの協力下に制作され、好意的な評価と高い視聴率を獲得した。この映画の放映後数週間はレコード屋からカーペンターズの在庫がなくなったほどである。

カレンのソロ・アルバム『遠い初恋』 ("Karen Carpenter") は1996年10月にリリースされた。CDにはA&Mが1980年にこのアルバムをお蔵入りにした経緯などを説明した、リチャードによるライナーノーツが付されている。ここに収録された楽曲は、ロック(ピーター・セテラをゲスト・ヴォーカルに迎えた「メイキング・ラヴ・イン・ジ・アフターヌーン」 "Making Love in the Afternoon")からブルース(「ラスト・ワン・シンギン・ザ・ブルース」 "Last One Singin' the Blues" )まで、幅広いジャンルの音楽をカヴァーしている。偶然にも、このアルバムのプロデューサーであるフィル・ラモーンはセテラがかつて所属していたバンド、シカゴの楽曲も数多く手がけている。カレンが1979年から1980年にかけて録音したソロ曲はその他にも9曲存在するが、公式にリリースされる可能性が薄いため、ファンの間ではブートレグとして流通している。

1997年にリチャードは自身のピアニスト・編曲家・作曲家としての才能のすべてを注ぎ込んだアルバムを録音して発表したが、そのタイトルはまさに "Pianist Arranger Composer Conductor" というものであった(日本盤タイトルは『新たなる輝き:イエスタデイ・ワンス・モア』)。日本におけるカーペンターズの人気は非常に高く、カレンの死後も長く続いた。日本人でないアーティストのシングルが日本で大きく売れることは稀である(アルバムならばそれなりに売れることもある)が、カーペンターズは例外である。カーペンターズのシングル3枚(「スーパースター」、「イエスタデイ・ワンス・モア」、両A面の「青春の輝き」/「トップ・オブ・ザ・ワールド」)がオリコンチャートのトップ10入りし、その他にも7曲がトップ40に入っている。1995年には日本市場向けにリチャードが編纂した『青春の輝き:ヴェリー・ベスト・オブ・カーペンターズ』 ("22 Hits of the Carpenters") がチャートトップを獲得し、2002年には出荷枚数300万枚を突破する。2003年には300万枚突破記念盤として再発、2005年には10周年記念盤として再々発された。

リチャード・カーペンターは、妻のメアリ・ルドルフ・カーペンターおよび4人の娘と1人の息子らとともにカリフォルニア州サウザンド・オークスに住んでおり、夫妻は芸術家の後援活動をしている。2004年にリチャードと妻はカレンを記念したサウザンド・オークス市民芸術プラザ基金 (Thousand Oaks Civic Arts Plaza Foundation) に対し、300万ドルの寄付を行うことを公約した。これを受けて2006年9月20日には初年度となる「リチャード・カーペンター奨学金コンクール・ショー」 (Richard Carpenter Scholarship Competition Award Show) が開催された。ショーの後にはリチャードと娘のトレイシーやミンディも演奏した。リチャードはカリフォルニア州立大学ロングビーチ校の「リチャード&カレン・カーペンター・パフォーミング・アーツ・センター」とも提携している。彼はカーペンター・センターの資金繰りを目的とすることも含めて、コンサート活動を継続している。2001年にはヴァージニア州ノーフォークで行われたペトゥラ・クラークの「サイン・オブ・ザ・タイムズ」コンサートにゲスト出演し、演奏の一部はCDやDVDでリリースされたほか、PBSの特番で放映された。2002年にリチャードはクラークをカーペンター・センターへ招いたり、クラークのCD "The Ultimate Collection" で客演するなどもしている。2007年、中国のラジオ番組 China Drive がリスナーに対して「初めて聞いた英語の歌」を募ったところ、50%以上が「イエスタデイ・ワンス・モア」の名を挙げた[48]

2008年、アルバム『ナウ・アンド・ゼン』(1973年)のジャケットで有名になった、カリフォルニア州ダウニーのニューヴィル・アヴェニューにあるカーペーンター家の家屋の取り壊しが間近に迫った際には、ファンによって抗議運動が展開された[49]

[編集] 音楽と歌詞のスタイル

カーペンターズの音楽を特徴的なものにした要素の1つは、カレンの用いた低い音域の声である。ジャズカントリー・ミュージックの分野には見られたが、当時のポピュラー音楽の世界にアルト歌手はほとんど存在しなかった。しかし、カレンはおよそ3オクターヴにわたる広い声域をもっていたのである[50]。リチャードの声もカレンの歌声と非常に相補的なものだと評価されていた。カレンは高い音域の声も出すことはできたが、低音(カレンは自分の "basement" と呼んでいた)ほど特質のあるものではなかった[50]。リチャードはカーペンターズのオフィシャル・サイトのファンからの質問のページで、カレンと自分は彼女の「胸声」に魔法のようなものを感じており、音の豊かさという点では比較にならなかったため、彼女の高音を強調するつもりはまったくなかったと述べている[50]

カレンの「魔法」が低音域にあったため、リチャードはカヴァー曲はもちろん自作曲もカレンにふさわしいキーで編曲しなおした。カーペンターズの曲の多くはD(「ユー」「見つめあう恋」)、E(「イエスタデイ・ワンス・モア」)、G(「恋よさようなら」「リーズン・トゥ・ビリーヴ」「ふたりの誓い」「ユール・ラヴ・ミー」)などのキーを用いている。カレンはこれらDからGまで、場合によってはABCも用いているが、こうした芸当のできる歌手は多くないことから、カレンの声域の広さはよく知られている。

歌手であると同時にドラマーでもあったカレンは、1974年まではしばしばドラムも演奏していた。リチャードによれば、カレンは自分を「歌えるドラマー」だと考えていた[12]。5フィート4インチ(163センチメートル)しかなかったカレンは、ライヴでドラムを演奏するとキットの陰に隠れてよく見えなかった。やむをえず2人は、バラードの時にはカレンが立ち上がって歌い、それ以外のあまり有名でない曲の時には座るという妥協案を見出した。年が経つにつれ、カレンがドラムを演奏している時にも彼女のヴォーカルを求める声が高まるようになり、カレンがドラムの前に座る時間は徐々に減っていった。1976年のアルバム『見つめあう恋』のころには、カレンはまったくドラムを叩かなくなっていた[51]

カーペンターズの音楽は、そのアレンジの見事さによって高く評価されている。アレンジは大抵リチャードが担当し、その手腕は広く賞賛された。アレンジの大半はクラシックのスタイルで、多くの弦楽器や、ときには金管楽器や木管楽器も用いた(「星空に愛を(コーリング・オキュパンツ)」では、160人以上の歌手と演奏家を迎えている[3])。著名な音楽評論家のダニエル・レビティンは "Electronic Musician" 誌において「リチャード・カーペンターこそ、ポップ・ミュージック界で最も才能あるアレンジャーの1人である」と述べている[52]

[編集] プロモーション活動とツアー

1969年の最初のアルバム『オファリング』に対するレヴューはあまり芳しいものではなく、カーペンターズのスタートは順調なものではなかったが、2人はバート・バカラックの前座として自分たちのプロモートに励んだ[53]。1974年のラスヴェガスのホテルリヴィエラにおけるコンサートのときに、リチャードはそのいきさつについて説明した。映画『ハロー・ドリー!』封切り後のベネフィット・ディナーの際にバカラックの方から彼らの元を訪れて、後日行われるバカラックのディナー・ショーの前座をやってみないかと誘ったのである。このときにバカラックは自分の曲をどれでもいいからメドレーにして歌ってみろとの要求を出した[54]。カーペンターズは2ヶ月をかけて8曲のメドレーをまとめ上げた[54]。このメドレーは全部で13分近くあったものを5分に短縮した上で1971年のアルバム『スーパースター』に収録された[54]

カーペンターズはコンサート・ツアーやテレビ出演などの過密なスケジュールをこなしていった。彼らが出演したテレビ番組には『エド・サリヴァン・ショー[55]ジョニー・カーソン司会の『ザ・トゥナイト・ショー[56]、『キャロル・バーネット・ショー』( "The Carol Burnett Show" 、1971年および1972年)、『マイク・ダグラス・ショー』( "The Mike Douglas Show" 、1971年)[57]などがあり、『ジョニー・キャッシュ・ショー』( "The Johnny Cash Show" 、同じく1971年)では「ふたりの誓い」と「雨の日と月曜日は」を演奏した[58]。BBCのテレビ特番 ("Carpenters: Live at the BBC") では生演奏を披露している。彼らはまた夏の間だけのシリーズ番組 "Make Your Own Kind of Music" で主演を務め、アメリカでは毎週火曜日の午後8時にNBCで放送された。1980年のラジオでのインタビューでカレンとリチャードのいずれもが、1970年代初めのテレビとの関わりにおいて自分たちはつけ込まれ利用されていたこと、その後の作品を制作してゆく上での支配権を握られそうになっていたことなどを述べている[59]

1973年5月には、時のアメリカ大統領リチャード・ニクソンと訪米中の西ドイツ首相ウィリー・ブラントからの招待を受け、ホワイトハウスで演奏することになった[12]

カーペンターズは1971年から1975年にかけて数多くのコンサートを行っている。以下の表はリチャードが保存していた旅行記録に基づいたものである[60]

コンサート回数 TV出演回数
1971 145公演[35] 10番組("Make Your Own Kind of Music"など)
1972 174公演[35] 6番組
1973 174公演[35] 3番組
1974 203公演[35] なし
1975 118公演 + 延期46回[35] なし

1970年代の中ごろには、度重なるツアーや長期に及ぶレコーディング・セッションが2人を蝕みはじめており、2人の十数年にわたる活動の後半は仕事の上でも個人生活の上でも問題を抱えたものとなっていた。カレンは強迫観念的にダイエットをするようになり、やがて神経性無食欲症になって症状も進行していった。この拒食症が最初に現われたのは、ラスヴェガスでのショーの途中でカレンが倒れた1975年のことである。カレンは消耗しきっており、フィリピンとイギリスおよび日本へのコンサート・ツアーはキャンセルするよう命じられた。リチャードはその時期の6、7日の過密スケジュールのことを後悔しており、現在明らかになったことを当時すでに知っていたら絶対にそのような日程には同意しなかっただろうと語っている。カレンはシングル「オンリー・イエスタデイ」のミュージック・ビデオを撮影したころには(まだ病的ではなかったが)顕著に痩せて見えるようになった。一方リチャードもメタカロン(催眠剤)の中毒に陥っており、1970年代後半には演奏に悪影響を及ぼしはじめ、これらをきっかけとして1978年に2人はライヴ・コンサートへの出演を辞めることとなった。

カーペンターズとして行った日本公演は、1972年、1974年、1976年の3回である。1974年の日本公演では、武道館ではひばり児童合唱団と、京都では地元の合唱団(リチャードが「Kyoto Children's choir」と紹介していた。[61])と「Sing」を日本語で歌った。

[編集] テレビ特番

カーペンターズ主演のテレビ特番も非常に好評で、彼らは1970年代を通じてお茶の間にその姿を見せていた。彼らは計5本のテレビ特番をもち、いずれも1976年から1980年にかけて放映された。1976年12月8日放送の "The Carpenters' Very First TV Special" はヒット番組となり、アメリカの視聴率調査会社ニールセンのランキングでも第6位となった[12]。彼らのテレビ特番には大抵「shtick」(演出上の見せ場として、お決まりのギャグなどを演じる滑稽な場面)があり、リチャードはこれをたいへん嫌っていたが、カレンは気に入っていたようで、その個性をカメラの前で花開かせることとなった。

カーペンターズ最後のテレビ特番 "Music" は1980年5月に放送された。この番組には「shtick」もなく、最初から最後まで音楽だけで構成されていた[12]。テレビ司会者のジョン・デヴィッドソンや有名なスタンダード歌手のエラ・フィッツジェラルドらがゲスト出演し、さまざまな歌を披露した。この番組で演奏された曲の多くは2004年にアルバム "As Time Goes By" としてCDでリリースされた。カーペンターズのオフィシャルサイトで、このアルバムに収められた15曲のうち5曲が "Music, Music, Music!" から取られたものであると明記されている。しかし、ABCは純粋に音楽だけで番組を作るというカーペンターズの決定に不満を覚えていた。ドキュメンタリー『リメンバー・ザ・カーペンターズ』 ("Close to You: Remembering the Carpenters") で、リチャードはABCのスタッフがこぼした「一体あいつらはこれを何だと思ってるんだ? PBSの番組か?」という言葉を引用している(PBSは教養番組を主とするアメリカの公共放送局で、日本ではNHK教育にあたる)。皮肉にも、このドキュメンタリーは翌1998年にMPIホーム・ビデオ社からDVDとして発売される前にPBSで放映された。

[編集] 評価と影響

カーペンターズの絶大な人気は音楽評論家たちの批判をはねのける勢いをもっていた。バラードやミドルテンポのポップスを中心とした2人の音楽性は、批評家たちから退屈で甘ったるいと斬り捨てられていたのである。しかしレコード業界は2人にいくつもの賞を授与した。カーペンターズはそのキャリアにおいて3度のグラミー賞を受賞している(1970年に最優秀新人賞および「遙かなる影」で最優秀ボーカル・グループ賞[62]、1971年に『スーパースター』で最優秀ボーカル・グループ賞[29])。また、1973年には、投票によって第1回アメリカン・ミュージック・アワードの最優秀ポップ・ロック・デュオにも選ばれた[63]

多くの批評家たちから「ミルクを飲んで、アップル・パイを食べて、シャワーを浴びる」とでもいったような印象だと批判されたことに対して、リチャードはインタビューにおいてたびたび自分はミルクなど好きではないしワインも飲む、マリファナ合法化のために投票さえしたとまで言いながら、そうした評価を払拭しようと努めている[64]

レイ・コールマンの著書 "The Carpenters: The Untold Story" (『カレン・カーペンター:栄光と悲劇の物語』)においてもリチャードは、カーペンターズのイメージをひたすら「清廉潔白」にしておこうと務めるA&Mの経営陣や、彼らの音楽によってではなく彼らのイメージによってしか彼らを評価しない批評家に対して、自分がいかに嫌悪感を抱いていたかを強調している[65]

カーペンターズの本格的な再評価は、1990年代から2000年代にかけて各国で制作された、 "Close to You: Remembering the Carpenters" (アメリカ)や "The Sayonara" (日本)、 "Only Yesterday: The Carpenters Story" (イギリス)などさまざまなドキュメンタリーによってもたらされた。作品の技術的な質の高さや歌に奥底に秘められた悲しみ、カレンの歌声やその人生に刻まれた苦悩が多くのファンを惹きつけた。彼女の特徴的なヴォーカルが、その後のポップ・ミュージックにアン・マレーリタ・クーリッジメリサ・マンチェスターといったアルト歌手を登場させる契機になったといわれている。1990年代のR&Bグループ、ボーイズIIメンさえもが自分たちに影響を与えたアーティストとしてカーペンターズの名を挙げている。1990年にオルタナティヴ・ロック・バンドのソニック・ユース"Tunic (Song for Karen)" という曲を録音した(アルバム『GOO』収録)。これはカレンが新しい「友だち」のデニス・ウィルソンエルヴィス・プレスリージャニス・ジョプリンらの元を訪ねてもう一度ドラムを演奏するために家族へ別れを告げるという内容の歌である[66]。批評家からはそのサウンドが「ソフトすぎる」と批判されていたにもかかわらず、カーペンターズをロックの殿堂へ入れるべきだとする運動や嘆願書が数多く存在する[67]

1994年のトリビュート・アルバム『イフ・アイ・ワー・ア・カーペンター~カーペンターズに捧ぐ』 ("If I Were a Carpenter") では、ソニック・ユースベティー・サーヴァート少年ナイフグラント・リー・バッファローマシュー・スウィートクランベリーズといった現代のアーティストによって、カーペンターズのヒット曲のオルタナティブ・ロック的解釈が試みられた[68]

カーペンターズの曲の多くは、もはやポップ・スタンダードとなっている。特に「遙かなる影」などはカラオケで歌われることも多い。この曲は『バックマン家の人々』 ("Parenthood") で挿入歌として使用され[69]、『ザ・シンプソンズ』の2つのエピソードや『ザ・シンプソンズ MOVIE』でも使われている[70]。「代表曲」である「愛のプレリュード」は結婚式や披露宴の定番であり、映画『スタスキー&ハッチ』 ("Starsky & Hutch")[71]や『1408』 ("1408")[72]でも印象的に用いられている。「スーパースター」はルーサー・ヴァンドロスルーベン・スタッダードからベット・ミドラーソニック・ユースに至るまで、数多くのアーティストによってカヴァーされた。クレイ・エイケンはテレビ番組『アメリカン・アイドル』でこの曲を歌い、若い世代にもこの曲を知らしめた[73]

「愛のプレリュード」と「遙かなる影」は、その良質さと歴史的重要性からグラミーの殿堂入りを果している[74]

自分に大きな影響を与えた人物としてカレン・カーペンターの名を挙げている現代のアーティストには、クリスティーナ・アギレラグウェン・ステファニーシャナイア・トゥエインアナスタシアメアリー・J・ブライジアリシア・キーズリアン・ライムス、ケリー・ジョーンズ(ステレオフォニックス)、ジョニー・ボーレル(レイザーライト)、ジョー・オメアラ(S Club 7)、マドンナなどがいる[75][76]

リチャードと妻メアリ・ルドルフ・カーペンターは2007年にベンチュラ郡のフィランソロピスト(社会奉仕家)・オブ・ザ・イヤー賞を授与された[3]

[編集] ディスコグラフィ

その経歴を通じて、カーペンターズは解散までに30枚のシングルをリリースした。この30枚のうち13枚がRIAAによってゴールドディスクに認定され、22枚がアダルト・コンテンポラリー・チャートのトップ10に到達した。またカーペンターズは1969年から1983年までに10枚のアルバムを発表した。そのうち6枚のアルバム(『遙かなる影』、『スーパースター』、『ア・ソング・フォー・ユー』、『ナウ・アンド・ゼン』、『緑の地平線 (ホライズン)』、『ナウ・アンド・ゼン』)がビルボード・ホット100のトップ20入りした曲を収録している。

[編集] スタジオ・アルバム

タイトル チャート最高位 ゴールド認定等
[77] [78] [79] [80]
1969 オファリング (Offering) 150 20[1]
35[2]
88 19
1970 遙かなる影 (Close to You)
  • 1970年8月19日リリース
  • レーベル:A&Mレコード
2 23 53 16
プラチナム
1971 スーパースター (Carpenters)
  • 1971年5月14日リリース
  • レーベル:A&Mレコード
2 12 47 16
プラチナム
1972 ア・ソング・フォー・ユー (A Song for You)
  • 1972年6月13日リリース
  • レーベル:A&Mレコード
4 13 5 6
プラチナム
1973 ナウ・アンド・ゼン (Now & Then)
  • 1973年5月9日リリース
  • レーベル:A&Mレコード
2 2 1 3
プラチナム
ゴールド[81]
1975 緑の地平線 (ホライズン) (Horizon)
  • 1975年6月6日リリース
  • レーベル:A&Mレコード
13 1 1 21
プラチナム
ゴールド[82]
1976 見つめあう恋 (A Kind of Hush)
  • 1976年6月11日リリース
  • レーベル:A&Mレコード
33 3 5 57 ゴールド ゴールド[83]
1977 パッセージ (Passage)
  • 1977年9月23日リリース
  • レーベル:A&Mレコード
49 12 7 48 ゴールド[84]
1981 メイド・イン・アメリカ (Made in America)
  • 1981年6月16日リリース
  • レーベル:A&Mレコード
52 12 44 50 シルバー[85]
1983 ヴォイス・オヴ・ザ・ハート (Voice of the Heart)
  • 1983年10月18日リリース
  • レーベル:A&Mレコード
46 6 41 54 ゴールド[86]
1989 愛の軌跡 (Lovelines)
  • 1989年10月31日リリース
  • レーベル:A&Mレコード
- - - -
2002 レインボウ・コネクション〜アズ・タイム・ゴーズ・バイ (As Time Goes By)
  • 2001年8月1日リリース
  • レーベル:A&Mレコード
- - 18 -

^  [1] は1972年のチャート・ポジション
^  [2] は1975年のチャート・ポジション
「 - 」はチャート入りしなかったことを表す。

[編集] ライヴ・アルバム

カーペンターズの公式ライヴ・アルバムは少なく、アメリカ本国においては発売さえしていないが、1974年に日本で『ライヴ・イン・ジャパン』(およびその模様を収めたヴィデオ)を、また1976年にイギリスで『ライヴ・イン・ロンドン』をそれぞれ1作ずつ発売している。これらのコンサートの映像はDVDなどで公式に発売されてはいないが、日本でのみ1974年5月31日武道館での未発表コンサートが『ライヴ・イン・ジャパン~イエスタデイ・ワンス・モア 武道館1974』として発売されている。またイギリスでは、1971年の "Carpenters: Live at the BBC" と題されたスタジオ・コンサートや、 "The Carpenters: Live at the New London Theatre" という題のライヴ・コンサートなどがテレビ放送された。

タイトル チャート最高位 備考
[78] [79]
1975 ライヴ・イン・ジャパン
(Live in Japan)
- 8
  • 1974年6月録音、1975年3月7日リリース[79]
  • レーベル:A&Mレコード / ポリドール・ジャパン
  • 日本でのみリリース
1977 ライヴ・イン・ロンドン
(Live at the Palladium)
28 24
  • 1976年11月録音
  • レーベル:A&Mレコード
  • イギリス・日本でのみリリース

[編集] ソロ・アルバム

カレンが1983年2月4日に夭逝したのち、リチャードはソロ活動を開始したが、反応はそれほど熱のこもったものではなかった。カレンも一時期ソロ活動をしているが、現在に至るまで唯一となる彼女のソロ・アルバムは彼女自身の名をタイトルに冠したものである(ただし日本盤タイトルは『遠い初恋』)。この作品がCDとして発売されるのは1996年、すなわち彼女の死後13年を経てからのことである。このアルバムには、カレンがフィル・ラモーンをプロデューサーに迎えて1979年にニューヨークで録音した楽曲などが収録されている。2人のソロ・アルバムは、いずれもチャート入りすることなく、RIAAによるプラチナムやゴールドの認定を受けることもなかった。

タイトル 備考
1987 タイム
(Time)
1996 遠い初恋
(Karen Carpenter)
  • 1996年10月8日リリース
  • カレンの没後に発表された、最初にして最後のソロ・アルバム
  • 1979年から1980年にかけてニューヨークでフィル・ラモーンと行ったセッションからのアウトテイクを含む
  • レーベル:A&Mレコード
1998 新たなる輝き:イエスタデイ・ワンス・モア
(Pianist, Arranger, Composer, Conductor)
  • 1998年1月27日リリース
  • リチャードのソロ第2作
  • カーペンターズのポップ・ソングをインストゥルメンタルに編曲して収録
  • リチャードの亡き母アグネスに捧げられている[87]
  • レーベル:A&Mレコード

[編集] コンピレーション

以下の表は、アメリカ合衆国で発売されたカーペンターズの「ベスト・アルバム」一覧である。カーペンターズには多くの編集盤があり、その大半はチャート入りやRIAAによる認定を受けるに至ってはいないが、初のコンピレーション・アルバム "The Singles: 1969-1973" は、2008年現在でカーペンターズ最大のベストセラーであり、700万枚の売り上げを記録している。このアルバムは彼らの大ヒット曲を網羅しており、4チャンネル・レコードで発売された作品の1つでもある。

タイトル チャート最高位 ゴールド認定等
[77] [78] [79] [80]
1973 The Singles: 1969-1973 1 1 -
プラチナム
プラチナム[88]
1978 The Singles: 1974-1978
  • 1978年リリース
  • レーベル:A&Mレコード
- 2 - プラチナム[89]
1985 Yesterday Once More
  • 1985年4月リリース
  • レーベル:A&Mレコード
- 10 35
プラチナム
プラチナム[90]
1991 From the Top
  • 1991年リリース
  • レーベル:A&Mレコード
- - -
1995 Interpretations
  • 1995年2月7日
  • レーベル:A&Mレコード
- 29 - ゴールド[91]
1997 Love Songs
  • 1997年リリース
  • レーベル:A&Mレコード
106 47 - ゴールド ゴールド[92]
1998 Reflections
  • 1998年6月30日
  • レーベル:A&Mレコード
- - -
2000 The Singles: 1969-1981
  • 2000年リリース
  • レーベル:A&Mレコード
- - -
2002 The Essential Collection
  • 2002年リリース
  • レーベル:A&Mレコード
- - -
2003 Carpenters Perform Carpenter
  • 2003年7月29日リリース
  • レーベル:A&Mレコード
- - -
2004 Gold: 35th Anniversary Edition
  • ヨーロッパ編集盤(2000年)に収録曲を追加
  • 2004年2月10日リリース
  • レーベル:A&Mレコード
100 - 79 ゴールド プラチナム[93]

「 - 」はチャート入りしなかったことを表す。

[編集] シングル

曲名 チャート最高位 ゴールド認定等[80] アルバム
米ポップ 米AC
1966 "Looking for Love"
/ "I'll Be Yours"
カレンのソロ)
- - - - - - - From The Top
The Essential Collection
1969 "Ticket to Ride"
/ "Your Wonderful Parade"
54 19 - - - - - Offering
1970 "(They Long to Be) Close to You"
/ "I Kept On Loving You"
1 1 6 71 1 1 ゴールド Close To You
1970 "We've Only Just Begun"
/ "All of My Life"
2 1 28 71 2 6 ゴールド Close To You
1970 "Merry Christmas Darling
/ "Mr. Guder"
- - 45 - 50 - ゴールド Christmas Portrait
1971 "For All We Know"
/ "Don't Be Afraid"
3 1 18 - 7 10 ゴールド Carpenters
1971 "Rainy Days and Mondays"
/ "Saturday"
2 1 - 72 3 35 ゴールド Carpenters
1971 "Superstar"
/ "Bless the Beasts and Children"
2 1 18 7 3 35 ゴールド Carpenters
1971 "Bless the Beasts and Children"
("Superstar" のB面)
67 26 - 85 - - ゴールド Carpenters
1972 "Hurting Each Other"
/ "Maybe It's You"
2 1 - 56 2 4 ゴールド A Song for You
1972 "It's Going to Take Some Time"
/ "Flat Baroque"
12 2 - 48 13 24 - A Song for You
1972 "Goodbye to Love"
/ "Crystal Lullaby"
7 2 9 55 4 25 - A Song for You
1973 "Sing"
/ "Druscilla Penny"
3 1 - 18 4 24 ゴールド Now & Then
1973 "Yesterday Once More"
/ "Road Ode"
2 1 2 5 3 9 ゴールド Now & Then
1973 "Top of the World"
/ "Heather"
1 2 5 21 1 1 ゴールド オリジナル:A Song For You
1973年リミックス:The Singles: 1969-1973
1974 "Jambalaya"
/ "Mr. Guder" (UK)
12 28 - 95 - Now & Then
1974 "I Won't Last a Day Without You"
/ "One Love"
11 1 9/32 40 7 63 - A Song for You
1974 "Please Mr. Postman"
/ "This Masquerade"
1 1 2 11 1 1 ゴールド Horizon
1974 "Santa Claus Is Comin' To Town"
/ "Merry Christmas Darling"
- - 35 - - - ゴールド An Old Fashioned Christmas
1975 "Only Yesterday"
/ "Happy"
4 1 7 12 2 16 - Horizon
1975 "Solitaire"
/ "Love Me for What I Am"
17 1 32 44 12 61 - Horizon
1976 "There's A Kind Of Hush (All Over the World)"
/ "(I'm Caught Between) Goodbye and I Love You"
12 1 22 27 11 33 - A Kind of Hush
1976 "I Need to Be in Love"
/ "Sandy"
25 1 36 62 31 47 - A Kind of Hush
1976 "Goofus"
/ "Boat to Sail"
56 4 - - 82 - - A Kind of Hush
1976 "Breaking Up Is Hard to Do"
/
- - - 71 - - - A Kind of Hush
1977 "All You Get from Love Is a Love Song"
/ "I Have You"
35 4 - 68 38 89 - Passage
1977 "Calling Occupants of Interplanetary Craft"
/ "Can't Smile Without You"
32 18 9 - 9 13 - Passage
1977 "The Christmas Song"
/ "Merry Christmas Darling"
- - - - - - - Christmas Portrait
1978 "Sweet, Sweet Smile"
/ "I Have You"
44 7 40 59 33 100 - Passage
1978 "I Believe You"
/ "B'wana She No Home"
68 9 - - 81 - - Made in America (1981)
1981 "Touch Me When We're Dancing"
/ "Because We Are in Love (The Wedding Song)"
16 1 - - - 78 - Made in America
1981 "(Want You) Back In My Life Again"
/ "Somebody's Been Lyin'"
72 14 - - - - - Made in America
1981 "Those Good Old Dreams"
/ "When It's Gone (It's Just Gone)"
63 21 - - - - - Made in America
1982 "Beechwood 4-5789"
/ "Two Sides"
74 18 - - - - - Made in America
1983 "Make Believe It's Your First Time"
/ "Look to Your Dreams"
101 7 60 - - 80 - Voice of the Heart
1984 "Your Baby Doesn't Love You Anymore"
/ "Sailing On the Tide"
- 12 - - - - - Voice of the Heart
1984 "Little Altar Boy"
/ "Do You Hear What I Hear?"
- - - - - - - An Old-Fashioned Christmas
1986 "Honolulu City Lights"
/ "I Just Fall in Love Again"
- - - - - - - Lovelines (1989)
1987 "Something in Your Eyes" (リチャード・カーペンター&ダスティ・スプリングフィールド)
/ "Time"
- 12 84 - - - - Time (リチャードのソロ)
1989 "If I Had You*" (Karen Carpenter)
/ "The Uninvited Guest"
- 18 - - - - - Lovelines (1989年)
Karen Carpenter (1996年)
1990 "Merry Christmas Darling"
/ "(They Long to Be) Close to You" (UK再発)
- - 25 - - - - Close to You (1970)
1991 "Let Me Be the One"
プロモCDのみでB面なし
- - - - - - - Carpenters (1971)
1993 "Rainy Days and Mondays" (UK再発) - - 63 - - - - Carpenters (1971)
1994 "Tryin' to Get the Feeling Again" - - 44 - - - - Interpretations
1995 "I Need to Be In Love"
/ "Top of the World" (日本再発)
- - - 5 - - - 22 Hits of the Carpenters (日本独自編集盤)
2001 "The Rainbow Connection"
/ "Leave Yesterday Behind"
/ "Medley: Superstar-Rainy Days and Mondays"
- 47 - - - As Time Goes By
2003 "Top of the World" (日本再発)
/ "Top of the World" [カラオケ]
/ "Sing" [カラオケ]
- - - 83 - - - Gold (日本盤)

「†」はその国ではリリースされなかったことを表す

[編集] 注記

  • 「トップ・オブ・ザ・ワールド」 ("Top of the World") は日本で4回チャート入りしている。1972年に21位、1973年に(アメリカ本国での成功を受けて)52位となったが、1995年に「青春の輝き」 ("I Need to Be In Love") がテレビドラマ『未成年』の主題歌・挿入歌に起用され再発された際にはシングルのB面として、その後A面としても83位にランクインし、4度目のチャート入りを果した。
  • "Sweet, Sweet Smile" はビルボード・カントリー・チャートでは最高6位を記録。
  • 「スーパースター」 ("Superstar") と「ふたりの誓い」 ("For All We Know") はイギリスでは両A面としてリリースされた。
  • 「愛は夢の中に」 ("I Won't Last A Day Without You") は1971年にアメリカで "Goodbye To Love" をB面としてリリースされたが、その直後にAB面が入れ替えられた。のち1974年には、アメリカで最初にA面として発売されたことに合わせてイギリスでもA面としてリリースされた。
  • 1990年イギリスにおいて "Merry Christmas Darling" が再発された際には、1970年のオリジナル・ヴァージョンではなく、1978年のアルバム『クリスマス・ポートレイト』に収録された再録ヴァージョンが使用された。

[編集] クリスマス・シングルなど

タイトル チャート最高位
1970 "Merry Christmas, Darling" / "Mr. Guder" 1 45
1974 "Santa Claus Is Coming to Town" / "Merry Christmas, Darling" - 37
1984 "Little Altar Boy" / "Do You Hear What I Hear?" - -

[編集] 映像作品

2008年現在、カーペンターズは2本のミュージック・ビデオDVD(いずれも、VHSでも発売されていた)と、MPIホーム・ビデオ社からリリースされたドキュメンタリーDVD1本を発表している。リチャード・カーペンターは、これ以上の映像作品をDVDでリリースするつもりはないと語っている[87]

タイトル 備考 ゴールド認定等[80]
1985 Gold: Greatest Hits
  • 当初は1985年に Yesterday Once More のタイトルでリリースされた。
  • 2002年に Gold: Greatest Hits のタイトルで再発。
  • カーペンターズ初の映像作品である。
  • レーベル:A&Mビデオ
-
1995 Interpretations
  • 1995年5月9日リリース
  • カーペンターズ2作目の映像作品。
  • レーベル:A&Mビデオ
-
1998 Close to You:
Remembering the Carpenters
  • 1998年3月1日リリース
  • カーペンターズ初のDVDドキュメンタリー。
  • レーベル:MPIホーム・ビデオ
ゴールド

[編集] サウンドトラック

リチャードとカレンは1本の映画全体のためのサウンドトラックこそ制作していないが、映画に主題歌を提供したり、映画の主題歌ないしクライマックス・シーンでの挿入歌をカヴァーしたりしている。

タイトル 備考 アルバム
1970 "For All We Know"
  • リチャードとカレンによるカヴァーであり、この曲を最初に演奏したのは彼らではない。
  • この曲「ふたりの誓い」は映画 "Lovers and Other Strangers" から取られたものだが主題歌ではなく、2人の主人公たちの結婚式のシーンで演奏されるものである。
Carpenters
1971 "Bless the Beasts and Children"
  • リチャードとカレンが1971年夏にオリジナルの演奏をした曲である。
  • カーペンターズは映画 "Bless the Beasts and Children" 全体のサウンドトラックを制作したわけではない。
Bless the Beasts and Children (サントラ・ヴァージョン)
A Song for You (アルバム・ヴァージョン)
1978 "Leave Yesterday Behind"
  • ジョン・リッター主演のテレビ映画 "Leave Yesterday Behind" の主題歌。
  • 作曲者は「ふたりの誓い」と同じで、木管楽器によるイントロなど構成に類似点がある。
As Time Goes By (released in 2004)

[編集] トリビュート・アルバム

タイトル 備考
1994 If I Were a Carpenter
  • 題名はティム・ハーディンの楽曲 "If I Were a Carpenter" に由来。
  • カーペンターズの名曲を現代風にアレンジして収録。
  • 1994年9月14日リリース

[編集] 参考資料

[編集] グラミー賞受賞歴

1970年代を通じて、リチャードとカレンはグラミー賞に何度もノミネートされている。リチャードはインストゥルメンタル曲『フラット・バロック』 ("Flat Baroque") によって、個人でもノミネートされた[94]。2人はグラミー賞を3度受賞し、2曲が殿堂入りを果している[74]

部門 受賞/
ノミネート
タイトル
1970 最優秀新人賞 受賞 カーペンターズ
最優秀ボーカル・グループ賞 受賞 遙かなる影
最優秀レコード賞 ノミネート 遙かなる影
最優秀アルバム賞 ノミネート 『遙かなる影』
最優秀アレンジメント賞 ノミネート 「遙かなる影」
最優秀楽曲賞 ノミネート 愛のプレリュード
最優秀コンテンポラリー・ソング賞 ノミネート 「愛のプレリュード」
最優秀録音賞 ノミネート 『遙かなる影』
1971 最優秀ボーカル・グループ賞 受賞 スーパースター
最優秀アルバム賞 ノミネート 『スーパースター』
最優秀アレンジメント賞 ノミネート 「スーパースター」
最優秀オリジナル・キャスト・アルバム賞 ノミネート "Bless the Beasts and Children"
最優秀録音賞 ノミネート 『スーパースター』
1972 最優秀アレンジメント賞 ノミネート "Flat Baroque"[94]
1973 最優秀ボーカル・グループ賞 ノミネート シング
最優秀アレンジメント賞 ノミネート 「シング」
1974 最優秀アレンジメント賞 ノミネート 「愛のプレリュード」
1977 最優秀アレンジメント賞 ノミネート 「星空に愛を(コーリング・オキュパンツ)」

[編集] 備考

  • 1971年、A&Mのグラフィック部門はクレイグ・ブラウン&アソシエーツを雇い、カーペンターズの最新作となる3枚目のアルバム "Carpenters" (日本盤タイトルは『スーパースター』)のジャケットのデザインを依頼した[95]。リチャードは仕上がったロゴを一目見るなり最高の出来だと感じたと語っている[95]。その後カーペンターズのアルバムすべてにおいてこのロゴが使用されることになったが、ファンからは「なぜ『パッセージ』にだけこのロゴが使用されていないのか」という質問が多く寄せられている。これに対しリチャードは裏ジャケットの下中央で使われているはずだと答えている。
  • 日本でも現在に至るまでその人気は確かなもので、CM・ドラマの主題歌などさまざまなメディアで耳にする機会は少なくない。また、彼ら自身が1970年代森永製菓のハイクラウンチョコレートや、サントリーのソフトドリンク、ポップのCMに起用されていたことがある。

[編集] 脚注

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  11. ^ Coleman (1994) 52
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  14. ^ Coleman (1994) 58
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  16. ^ Coleman (1994) 63
  17. ^ Coleman (1994) 54
  18. ^ Detroit Symphony
  19. ^ Coleman (1994) 76
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  23. ^ Coleman (1994) 85
  24. ^ Rolling Stone Magazine: 500 Greatest Albums
  25. ^ Cy Howard (Director), David Susskind (Producer). (1970-08-12). Lovers and Other Strangers. [DVD]. Buena Vista Pictures. 
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  27. ^ Coleman (1994) 104
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  31. ^ Coleman (1994) 127
  32. ^ Coleman (1994) 132
  33. ^ Coleman (1994) 135
  34. ^ Coleman (1994) 165
  35. ^ a b c d e f Coleman (1994) 137
  36. ^ http://www.richardandkarencarpenter.com/SN_IWon'tLastADay.htm
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  43. ^ Coleman (1994) 343
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[編集] 参考文献

  • Coleman, Ray (1994). The Carpenters: The Untold Story (paperback), 1st edition, Harper Collins Publishers. ISBN 0-06-018345-4. 
    • レイ・コールマン (1995年). カレン・カーペンター:栄光と悲劇の物語, 第1版, 株式会社福武書店. ISBN 4-8288-1749-2 C0073. 
  • 小倉ゆう子 (1996年). カーペンターズ 永遠の輝き (ムック), 共同通信社. ISBN 4764130297. 

[編集] 外部リンク