ザ・バンド

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ザ・バンド
The Band
左からマニュエル、ダンコ、ロバートソン、ヘルム(1971年5月、ハンブルク)}
左からマニュエル、ダンコ、ロバートソン、ヘルム(1971年5月、ハンブルク
基本情報
別名 ザ・ホークス
出身地 カナダの旗 カナダ オンタリオ州トロント
ジャンル ロックフォークカントリーニュー・オーリンズ・ジャズ、グッド・タイム・ミュージック
活動期間 1967年 - 1976年
1983年 - 1999年
レーベル キャピトル・レコード
ライノ・エンタテインメント
リヴァーノース・レコード
共同作業者 ロニー・ホーキンス
ボブ・ディラン
公式サイト The Band web site
メンバー
リヴォン・ヘルム
ロビー・ロバートソン
リック・ダンコ
リチャード・マニュエル
ガース・ハドソン

ザ・バンド (The Band) は、1967年から1976年アメリカで活動したロック・バンド。オリジナル・メンバーは、カナダ人4人(ロビー・ロバートソンリチャード・マニュエルガース・ハドソンリック・ダンコ)とアメリカ人1人(リヴォン・ヘルム)。1983年にロバートソン以外のメンバーが再結成し、メンバー・チェンジやサポート・メンバーを加えながら1999年まで活動した。

ミュージシャンズ・ミュージシャンとして、今なお多くのアーティストから尊敬を集めている。1989年にカナダのCanadian Music Hall of Fame殿堂入り[1]1994年ロックの殿堂入り[2]を果たしている。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第50位[3]2008年グラミー賞の Lifetime Achievement Award を受賞した[4]

バイオグラフィー[編集]

ザ・バンド以前[編集]

ボブ・ディランとセッションを行った「ビッグ・ピンク」(2006年)

1959年、アメリカのロックンローラー、ロニー・ホーキンスは彼のバック・バンド、ザ・ホークスを連れロックンロールが落ち目になりつつあったアメリカを離れカナダへと活動の中心を移した。しかし、次第にドラムスのリヴォン・ヘルム以外のメンバーがホームシックにかかり脱退したため、現地カナダの若者をメンバーに加入させる。その際集まったメンバーが、ギターのロビー・ロバートソン、ベースのリック・ダンコ、ピアノのリチャード・マニュエルガース・ハドソン、後のザ・バンドのメンバーである。1963年までロニー・ホーキンス (Ronnie Hawkins) のバックバンドとして活動していた。

1964年、ロニーと意見の相違から別れたザ・ホークスは、「リヴォン&ザ・ホークス」と名乗りカナダとアメリカで地道なライブ活動を続ける。やがて、ボブ・ディランのマネージャーのアルバート・グロスマンの目に留まり、ブルース・シンガーのジョン・ハモンド(ディランを世に出したプロデューサーのジョン・ハモンドの同名の息子)の推薦もあって、彼らはボブ・ディランのバックバンドとして抜擢されることとなった。折しも、ディランがアコースティックギターの弾き語りによるフォーク路線から、エレキギターを使用したフォークロック路線へと転換する時期であり、電気楽器を嫌う従来のフォークファンからは壮絶なブーイングを受けた。しかしこれが逆にバンドの知名度を高めることになる。

ディランとホークスとのコンサートツアーは全米、オーストラリアヨーロッパと続き、行く先々で賛否両論を巻き起こす。この様子はディランのライブ・アルバム『ロイヤル・アルバート・ホール(ブートレッグ・シリーズ第4集)』(1998年)に記録されている。ツアー半ばで、保守的な観客のブーイングに嫌気が差したリヴォン・ヘルムが脱退し、後任にはミッキー・ジョーンズが一時的に参加した。

ツアー終了直後の1966年7月、ディランは交通事故で負傷。仕事を失っていたメンバーはディランに誘われ、彼の隠遁地であるニューヨーク郊外のウッドストックに住みつく。このころリヴォンも復帰する。彼等の家はピンクのペンキで塗られており、「ビッグ・ピンク」と名付けられた。ここではディランとのセッションが行われ、その音源は長く未発表であったが、1975年に『地下室(ザ・ベースメント・テープス)』としてリリースとなった。

ザ・バンド全盛期[編集]

ライブでのダンコ、ヘルム、リチャード(1971年5月、ハンブルク)
ボブ・ディランとの全米ツアーにて。左よりダンコ、ロバートソン、ディラン、ヘルム(1974年5月、シカゴ)
ラストコンサート「ラストワルツ」より(1976年11月25日、サンフランシスコ)

1968年、ホークスはバンド名をザ・バンドとし、『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』でデビューする。「ザ・ウェイト」は映画「イージー・ライダー」にも使われヒットした。ロックにカントリー、フォーク、R&Bといったルーツ・ミュージックの要素を色濃く反映させた音楽性は非常に高い評価を獲得し、当時の多くのミュージシャンたちに大きな影響を与えた。

1969年8月17日にはウッドストックコンサートに出演。同じ8月末にはディランとともにワイト島フェスティバルに参加。このワイト島出演の際ザ・ビートルズジョン・レノンジョージ・ハリスンリンゴ・スターと親交を深めた。

その後も1969年に第2作のアルバム『ザ・バンド』を発表、1970年『ステージ・フライト』と、引き続き高い人気を博す。1971年には野心作『カフーツ』でアラン・トゥーサンを招き、ホーンセクションを取り入れるが、このころからメンバー間に摩擦が生じ曲作りもスランプに陥る。そんな中でも、ライブ演奏は積極的に行われ、トップクラスのライブバンドとしての名声を確保した。

1973年にはカバーアルバム『ムーンドッグ・マチネー』をリリース。エルヴィス・プレスリーのナンバー『ミステリー・トレイン』や映画音楽『第3の男』を演奏するなど話題を集める。1974年にはディランと共にツアーを行い、興行的にはその年で一番といわれるほどの大成功を収めた。このときの様子はアルバム『偉大なる復活』(1974年)で聴くことができる。また、1972年に発表されたライブアルバム『ロック・オブ・エイジズ』は、スタジオ録音と変わらない演奏スタイルで話題を呼んだ。このあたりから、ロバートソンがバンドのイニシアチブを取るようになり、ヘルムとの関係が微妙になる。

以後も、リンゴ・スターエリック・クラプトンマディ・ウォーターズのアルバム制作に参加、1975年アルバム『南十字星』発表する。だが、バンド内ではツアー活動よりアルバム制作を重視すべきとの意見をもつロバートソンと、ツアー活動にこだわるメンバーとの対立が激しくなったり、マニュエルが疲労とストレスから酒とドラッグに溺れ体調を崩すなどの問題を抱える。こうして音楽活動が行き詰まる中、ロバートソンは1976年にライヴ活動の停止を発表する。ロバートソンは解散して新たなステップを目指していたが、ヘルムは解散・ライブ活動停止には反対であった。またロバートソン以外のメンバーも解散を望んでいなかった。そのような中、11月24日にサンフランシスコのウインターランドでラスト・コンサートを行なう。(実質的に解散コンサートとなる。)コンサートには多数の大物ミュージシャンが参加した。ホーキンス、ディラン、ニール・ヤングジョニ・ミッチェルマディ・ウォーターズドクター・ジョンヴァン・モリソン、リンゴ・スター、エリック・クラプトン、ロン・ウッドポール・バターフィールドニール・ダイヤモンドら、そうそうたる顔ぶれである。この模様はマーティン・スコセッシの手により撮影され、映画「ラスト・ワルツ (The Last Waltz)」として公開、3枚組サントラ盤もリリースされた。

1976年、キャピトルとの契約が残っていた関係上(「ラスト・ワルツ (The Last Waltz)」のサントラをワーナーブラザーズから発表するため)アルバム『アイランド』をリリースするが、最早往年の出来映えは見られず不評に終わる。結局これを最後にザ・バンドとしての活動に終止符が打たれる。

ラスト・ワルツ以降[編集]

解散後はメンバー各自がソロ活動を始める。

ヘルムは、ドクター・ジョン、ポール・バターフィールド、スティーヴ・クロッパー、ドナルド・ダック・ダンらとRCOオール・スターズを結成。一枚のスタジオアルバムを製作し、ライヴ活動の一環で来日も行う。2006年には、RCOオール・スターズのライヴ音源も発表されている。その後もアルバム「リヴォン・ヘルム」、「アメリカン・サン」を発表する。音楽活動の傍らで映画俳優としても活動している。

ダンコは、メンバーの中でいち早くソロアルバムに着手する。映画「ラスト・ワルツ」の中でも語っていた、アルバム「リック・ダンコ」をリリースする。ゲストにクラプトン、ロン・ウッドも参加している。ツアー活動も精力的に行い来日公演も実現している。

再結成[編集]

1982年、ダンコとヘルムがアコースティック・デュオを組みツアー「リヴィング・ルーム・セット」を開始する。ある公演では、ボブ・ディランの飛び入りも確認されている。そのツアーの最中に、ザ・バンド再結成の機運が高まり、1983年にロバートソン抜きで再結成しツアーを行なう。同年には、ザ・バンドとして初来日公演も行われる。ツアー・メンバーはロバートソン抜きの4人に加え、ケイト・ブラザーズがサポート・バンドとして参加した。

1986年3月4日にマニュエルが自殺するも、ツアー活動は続行。

1990年ベルリンの壁崩壊後のドイツにて、ピンク・フロイドロジャー・ウォーターズ主催のライブ・イベント「The Wall Live In Berlin」にヴァン・モリソンジョニ・ミッチェルらと共に出演する。20万人もの観客を動員し、その模様はCD、現在はDVDに収められている。

1992年マディソン・スクエア・ガーデンで行われたボブ・ディランのデビュー30周年コンサートに出演。アルバム『カフーツ』にも収録されていた『マスターピース』を演奏。この模様はコンサートを記録したCD/LDに収められている。

1990年代初頭、メジャー・レーベルであるCBSと契約。再結成後初のスタジオアルバムを製作するも、先に発表されたロバートソンのソロ・アルバムのセールス不振を理由に、レーベルの方針でお蔵入りとなる。結局、CBSからはアルバム発表されることはなく、1993年になってピラミッドというマイナー・レーベルから『ジェリコ』のタイトルでリリースとなった。

1994年、米ロックの殿堂入りを果たす。式には脱退したロバートソンも参加するが、反発したヘルムが参加を拒否。クラプトンを交えて『ザ・ウエイト』を演奏する。

1997年ジェリー・ガルシアのトリビュート (Dead Heads Festival)、ダンコ・フィヨルド・アンダーセンとしての活動のためダンコが来日。 しかし、日本滞在中の5月6日、米国にいる妻にヘロインをホテル宛に送らせた罪で逮捕されてしまった。7月24日、千葉地裁にて彼の有罪が確定し、強制送還となった。[5]

再編ザ・バンドとして3枚のアルバムを発表するも、1996年にヘルムの喉頭ガンが発覚し、アルバム「JUBILATION」では咽頭ガンの後遺症から、かすれた声となってしまう。

さらに1999年12月10日にダンコが死去、以後活動を停止してしまった。

リヴォン・ヘルムは、ドラムスとマンドリンの演奏活動は続け、その後再び歌えるようになるまで回復した[6]。自身のバンドであるリヴォン・ヘルム・バンド名義で、2005年には二作のDVD付のライヴ・アルバム「ミッドナイト・ランブル・セッションズ Vol.1」「同 Vol.2」を発表した。2007年には久々のスタジオ・ソロ作「Dirt Farmer」で元気な歌声を聴かせた。なお、このアルバムは2008年の第50回グラミー賞で、ベスト・トラディショナル・フォーク・アルバムを受賞した。しかし2012年4月19日、リヴォン・ヘルムはニューヨークで死去した。

現在[編集]

ガース・ハドソンは、2001年にファースト・ソロ・アルバム「ガースの世界」(原題:The Sea To The North)を発表。また、妻のモード・ハドソンと演奏活動を続けている。モードとの共同名義でのライヴ・アルバム「ライヴ・アット・ザ・ウルフ」も2005年に発表している。

ロビー・ロバートソンは、映像音楽の制作を活動の中心としている。その一方で、ザ・バンドのボックス・セットのコンピレーション・プロデュースや監修を行っている。ソロ・アルバムは2011年の「How To Become Clairvoyant」が現段階での最新作である。

エピソード[編集]

  • ロニーと別れたバンド(当時はレヴォン&ホークス)の苦難に満ちた下積み生活は、「ヒモと娼婦とアル中と人生の敗北者」(ガースの発言)相手の演奏を繰り返し、その日暮らしの流浪の日々であった。映画「ラストワルツ」ではマニュエルが、その頃、食料に困ってスーパーに入ったメンバーが大きなコートを使って食料を万引きしたことを証言している。だが、「ナップザックを背負って道に立ち、人生というものをみんなで学んだ。僕たちはお互いに守られ励ましあった」とロバートソンが証言しているように、苦難の中でバンドの結束が固まっていった。
  • エリック・クラプトンは、『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』を「人生を変えたアルバム」と評しており[7]、1976年に発表されたクラプトンのアルバム『ノー・リーズン・トゥ・クライ』にはザ・バンド全員が参加。後の1986年に発表された『オーガスト』収録の「ホーリー・マザー」は、その年に亡くなったリチャード・マニュエルに捧げられた曲である。2005年のアルバム『バック・ホーム』は、レイ・チャールズらと共にマニュエルとダンコにも捧げられている。
  • バンドとしてのデビュー・コンサートは、1969年4月17日サンフランシスコ市内のウインターランドであった。初日はロビーがインフルエンザに罹り、心配したマネージャーのアルバート・グロスマンが催眠術師を呼んで治療に当った。散散なステージで、7曲ほどを演奏して逃げるように退場したため、「ロックンロールのショウでは初めて経験する怒りと激情」(グリール・マーカスの言葉:『流れ者のブルース』バーニー・ホスキンズ著、奥田祐士訳、1994年、大栄出版)が溢れた。だが、翌18日のステージは、ロビーの体調も戻ったこともあり、見違える程の出来で前夜の屈辱を晴らした。特に、アンコールの「スリッピン・アンド・スライデン」(リトル・リチャードのヒット曲)では客席は興奮の坩堝と化し、「ロックンロールの歴史に残る瞬間」(グリール・マーカスの言葉、前掲書より)と180度違う評価を受けた。
  • 1973年吉田拓郎(当時はよしだたくろう)は1974年のツアーでザ・バンドとの共演を実現させるため、ユイ音楽工房の社長・後藤由多加を渡米させ、交渉の末ロビー・ロバートソンから口頭の受理を得た。しかし契約の直前に、ザ・バンドはボブ・ディランからツアーの誘いを承諾したため、結局実現しなかった[8]。コンサート会場などはすでに抑えていたため、拓郎は広島から後輩バンドを呼んでツアーを敢行した。そのバンドが、浜田省吾が所属していた愛奴である[9]。その後、拓郎は1980年に渡米しシャングリ・ラ・スタジオにてアルバム『Shangri-La』の録音を行ったが、この時ガース・ハドソンがアルバム制作に参加した。これらの経緯はこのアルバムの紹介とともにザ・バンドの公式HP[1]に記録されている。

ディスコグラフィー[編集]

アルバム[編集]

発表年 アルバム名 認定
邦題 原題 RIAA[10]
オリジナル・アルバム
1968年 ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク Music From Big Pink ゴールド
1969年 ザ・バンド The Band プラチナ
1970年 ステージ・フライト Stage Fright ゴールド
1971年 カフーツ Cahoots
1972年 ロック・オブ・エイジス Rock Of Ages ゴールド
1973年 ムーンドッグ・マチネー Moondog Matinee
1975年 南十字星 Northern Lights - Southern Cross
1977年 アイランド Islands
1978年 ラスト・ワルツ The Last Waltz
再結成後
1993年 ジェリコ Jericho
1996年 ハイ・オン・ザ・ホッグ High On The Hog
1998年 ※日本未発売 Jubilation
編集盤、ベスト・アルバムなど
1976年 軌跡 The Best Of The Band ゴールド
1978年 アンソロジー Anthology
1989年 トゥ・キングダム・カム To Kingdom Come
1995年 ライヴ・アット・ワトキンス・グレン Live at Watkins Glen
1999年 ※日本未発売 The Best of The Band, Vol. II
2000年 グレイテスト・ヒット Greatest Hits
ボックス・セット
1994年 グレイト・ディバイド・ボックス Across The Great Divide
2002年 ラスト・ワルツ 完全盤 The Last Waltz
2005年 ザ・バンド・ボックス ミュージカル・ヒストリー A Musical History

ボブ・ディランと共演

映像作品[編集]

単独名義

  • The Last Waltz/ラスト・ワルツ[1978]
  • The Band Is Back/ザ・バンド・イズ・バック[1983]
  • The Band Japan Tour/ザ・バンド・ジャパン・ツアー
  • The Authorized Biography [1995]
  • Live at the New Orleans Jazz Festival [1996]#日本盤未発売
  • Classic Albums: The Band /メイキング・オブ・ザ・バンド[1997]
  • Live at Loreley [2001]#日本盤未発売

参加作品

  • Roger Waters The Wall Live in Berlin/ザ・ウォール~ライヴ・イン・ベルリン~ [1990]
  • Bob Dylan 30th Anniversary Concert Celebration /ボブ・ディラン 30[1993]
  • Let it ROCK!/ロニー・ホーキンス’60thバースデイ コンサート[1995]
  • Festival Express/フェスティバル・エクスプレス[2004]

メンバーの変遷[編集]


1967 - 1976年

1976 - 1983年


76年に解散。活動停止。


1983 - 1985年

再結成

  • リック・ダンコ - b., gt., vo.
  • リヴォン・ヘルム - ds., madolin, vo.
  • リチャード・マニュエル - key., vo.
  • ガース・ハドソン - key., sax.

サポート・メンバー(ケイト・ブラザーズ)


1985 - 1986年
  • リック・ダンコ - b., gt., vo.
  • リヴォン・ヘルム - ds., madolin, vo.
  • リチャード・マニュエル - key., vo.
  • ガース・ハドソン - key., sax.
  • ジム・ウィーダー - gt.

1986 - 1989年
  • リック・ダンコ - b., gt., vo.
  • リヴォン・ヘルム - ds., madolin, vo.
  • ガース・ハドソン - key., sax.
  • ジム・ウィーダー - gt.

1989 - 1990年
  • リック・ダンコ - b., gt., vo.
  • リヴォン・ヘルム - ds., madolin, vo.
  • ガース・ハドソン - key., sax.
  • ジム・ウィーダー - gt.
  • スタン・ゼレスト - key.

1990 - 1991年
  • リック・ダンコ - b., gt., vo.
  • リヴォン・ヘルム - ds., madolin, vo.
  • ガース・ハドソン - key., sax.
  • ジム・ウィーダー - gt.
  • ランディ・シアランテ - b., ds., vo.
  • スタン・ゼレスト - key.

1991 - 1992年
  • リック・ダンコ - b., gt., vo.
  • リヴォン・ヘルム - ds., madolin, vo.
  • ガース・ハドソン - key., sax.
  • ジム・ウィーダー - gt.
  • ランディ・シアランテ - b., ds., vo.

1992 - 1999年
  • リック・ダンコ - b., gt., vo.
  • リヴォン・ヘルム - ds., madolin, vo.
  • ガース・ハドソン - key., sax.
  • ジム・ウィーダー - gt.
  • ランディ・シアランテ - b., ds., vo.
  • リチャード・ベル - key.

1999年 -


リック・ダンコの死去に伴い活動停止。


来日公演[編集]

ザ・バンド名義では、以下計3回の日本ツアーを行っている。

1983年日本ツアー(The Band Is Back)[編集]

1987年日本ツアー[編集]

1994年日本ツアー[編集]

情報源と注釈[編集]

  1. ^ Canadian Music Hall of Fame: Past Inductees”. Canadian Academy of Recording Arts And Sciences (CARAS). 2009年8月1日閲覧。
  2. ^ Inductee List”. Rock and Roll Hall of Fame. 2009年8月1日閲覧。
  3. ^ Williams, Lucinda (2004年4月15日). “The Immortals - The Greatest Artists of All Time: 50) The Band”. Issue 946. Rolling Stone. 2009年8月1日閲覧。
  4. ^ Lifetime Achievement Award”. Grammy.com. 2009年8月1日閲覧。
  5. ^ The Band Guestbook July, 1997
  6. ^ Levon Helm Biography
  7. ^ エリック・クラプトン『ノー・リーズン・トゥ・クライ』日本盤CDライナーノーツ(伊藤秀世、1996年9月)
  8. ^ ザ・バンドの公式HP(http://theband.hiof.no/albums/shangri-la.html)より
  9. ^ 坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLDより
  10. ^ RIAA Gold and Platinum Search for albums by The Band

外部リンク[編集]