サム・クック

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
サム・クック
Sam Cooke
}
基本情報
出生名 Samuel Cook
別名 デール・クック
Dale Cooke
出生 1931年1月22日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ミシシッピ州クラークスデイル
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 イリノイ州シカゴ
死没 1964年12月11日(33歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス
ジャンル R&Bソウルゴスペルポップス
職業 ミュージシャンシンガーソングライター起業家
担当楽器 ヴォーカルピアノギター
活動期間 1950年 – 1964年
レーベル スペシャルティ・レコードキーン・レコードRCAレコード
共同作業者 ソウル・スターラーズ
ボビー・ウォマック
ジョニー・テイラー

サミュエル・クック(Samuel Cooke、1931年1月22日 - 1964年12月11日)はアメリカミュージシャン

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第4位[1]

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第16位。

Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第15位[2]

略歴[編集]

ミシシッピ州クラークスデイル生まれ。後に家族とともにシカゴに移住。父親は牧師であり、幼い頃から聖歌隊で歌う。19歳のときにゴスペル・グループのソウル・スターラーズのリードボーカルとなり、端正なルックスでゴスペル界ではアイドル的人気を博した。1957年にソロ歌手としてR&Bに転向し、「ユー・センド・ミー」がヒット。これをきっかけにR&B界で数々のヒットを飛ばし、発展目覚ましかったソウル/R&B界のスターとなる。それまでの黒人歌手のスタイルとは一線を画した洗練された音楽性で、声の良さと歌唱力もさることながら、「クック調」と呼ばれる鼻にかかった歌い方は白人にも高く評価され、後世に大きな影響を与えた。

1958年には、マネージャーのJ.W.アレクサンダーと共に音楽出版社を設立。後にはSARレコードを設立する。R&Bが流行した当時、黒人のアーティストは曲を作っても満足な対価を得られず、白人の会社に「搾取」されるのが通例だった中にあって、自らの著作権を管理するのは画期的なことであった。

クックの曲は、『ビルボード』のR&Bチャートだけでなくポップ・チャートでも上位に入った。1960年代には「チェイン・ギャング」(2位)、「ツイストで踊りあかそう」(9位)、「こんどの土曜に恋人を」(10位)、「シェイク」(7位)を全米トップ10に送り込んでいる[3]

黒人の権利に対する意識が高く、公民権運動にも積極的な関わりを持ち、マルコムXモハメド・アリとも親交を深める。ただし、ボブ・ディランの「風に吹かれて」などのプロテストソングについては「白人の坊やが政治や社会のことを歌にするのは、黒人の自分にとってはつらいものだ。」という醒めた見解を述べている。1964年の「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」は、人種平等社会が訪れることへの期待を込めたメッセージソングであった。

1964年12月11日、クックはハリウッドの酒場で知り合った女性を「別の店へ行こう」と誘い出し、そのままイタリア製の高級スポーツカーでサウスセントラル地区にあるモーテルにチェックインした。酒場ではなくモーテルに入った事に驚いた女性はクックがシャワーを浴びてる間に、追われないようにと服を隠した上でモーテルを飛び出した。シャワーから出たクックは彼女を探し、全裸にコートだけを羽織ってモーテルの管理人室まで行った。この時かなり酔った状態で怒鳴りつけたりしたため、身の危険を感じた管理人の女性が発砲、クックは射殺された。裁判所は正当防衛と認定したが、クックの不審な死をめぐり後に多くの疑問が呈された。

影響[編集]

R&Bにゴスペルの感覚を持ち込んだ歌唱スタイルは、ソウル・ミュージックというジャンルの隆盛に大きく貢献した。また、作詞・作曲にも長け、様々なジャンルのアーティストがカバーを取り上げている。下にその一部を紹介する。

脚注[編集]

  1. ^ Rolling Stone. “100 Greatest Singers: Sam Cooke”. 2013年5月26日閲覧。
  2. ^ Rocklist.net...Q Magazine Lists..”. Q - 100 Greatest Singers (2007年4月). 2013年5月21日閲覧。
  3. ^ Sam Cooke | Awards | AllMusic

関連項目[編集]

外部リンク[編集]