横田みさを
横田 みさを(よこた みさお、1917年[1][2]2月3日 - 消息不明[注釈 1])は、日本の水泳選手、女優。同志社高等女学校在学中に女子100m背泳ぎの日本記録を更新し、1932年ロサンゼルスオリンピックに15歳で出場した。その後は芸能界に転身し、松竹歌劇団と宝塚歌劇団に入団、さらに映画女優となった。夫は作曲家の竹岡信幸。
生涯
[編集]水泳選手
[編集]京都市出身[2]。同志社高等女学校(現在の同志社女子中学校・高等学校)に学ぶ[3]。横田在学中の同志社高女は、団体優勝を重ねる水泳の強豪校であった[4]。もっとも学校にはプールがなかったため、スイミングクラブである大日本武徳会遊泳部(のちの京都踏水会[5])に属し、夷川ダム(琵琶湖疏水)で練習を重ねていたという[4]。高女1年生の1929年、京都市八瀬で行われた第3回女子中等学校競泳大会での団体優勝に貢献[4]。また、1929年・1930年と日本選手権水泳競技大会の100m背泳ぎで2連覇を達成[4]。
1931年、第5回女子中等学校競泳大会において、100m背泳ぎの日本記録を更新(1分29秒4)[4]。1932年、同志社高等女学校4年生(15歳)の時、ロサンゼルスオリンピックの日本代表選手に選ばれた[6][注釈 2]。同志社出身者として初のオリンピック選手の一人である[3][注釈 3]。同じリレーに出場する荒田雪江も京都の高等女学校生徒(市立二条高女[11])であった[12][注釈 4]。
オリンピックでは100m背泳ぎと4×100m自由形リレーに出場[10]。100m背泳ぎの予選で1分25秒1の日本記録を出すもの、着順は5位で決勝進出はならなかった[2]。4×100mリレー(小島一枝・横田みさを・守岡初子・荒田雪江)では5位入賞を果たした[12][15][注釈 5]。
女優
[編集]1933年、高女卒業を待たずに[注釈 6]、松竹少女歌劇団に入団[14]。「女子水泳の花形選手」の芸能界への転身は世間を驚かせ、新聞に大きく取り上げられた[14]。当時の新聞取材に兄が答えたところによれば、競技の道を選ぶか芸能の道を選ぶかで相当の悩みがあったという[14]。その後に宝塚少女歌劇団に宝塚歌劇団23期生として入団して、「水尾みさを」の芸名で娘役として活動した[17]。同期生に美空暁子(退団後は南美江)、初霜菊子(退団後は岸井あや子)や三代あずさらがいる。
なお、横田の宝塚入団に際し、1933年(昭和8年)8月15日に浜寺水練学校(大阪府)が宝塚に当時存在した50mプールで水上ページェント「楽水群像」(前年に一般公開が始まった、日本におけるアーティスティックスイミング(シンクロナイズドスイミング)導入の先駆とも評される群舞[18])を行った[19][注釈 7]。
宝塚退団後は映画女優に転身、芸名を本名に戻した[21]。映画デビュー作は成瀬巳喜男監督『禍福(前編)』(1937年、東宝)であるが、タイトルロールに名はない[1]。日活に移籍し、入社第1作となる清瀬英次郎監督『背広の王者』(1937年、日活)でヒロインに抜擢される[1][22]。女優時代に作曲家の竹岡信幸と結婚した[1]。
映画女優としては大きな活躍を見せたとは言い難いが[1]、第二次世界大戦後も増村保造監督『恋にいのちを』(1961年、大映)などに出演している[1]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 2001年の『著作権台帳』発行時点では存命であった[1]。
- ^ 横田も映るオリンピックチームの集合写真は雑誌のウェブサイトに掲載がある。記事本文は『婦人公論』1936年(昭和11年)11月号に前畑が寄稿した「祖国に帰りて」再掲(一部)[7]。
- ^ 1932年ロサンゼルスオリンピックには西貞一(同志社大学、陸上競技)も出場している。1924年パリオリンピックに入谷唯一郎が出場したという主張もあるが、オリンピックの公式記録では確認できない[8]。なお、横田の次に同志社出身の女性オリンピック選手となったのは、1968年グルノーブルオリンピックの石田治子(同志社大学、フィギアスケート)である[9][10]。
- ^ 1932年ロサンゼルスオリンピックには、京都から5人の選手が出場した[8]。ほかに土倉麻(府立第一高女、陸上競技)[13]、中西みち(市立二条高女[11]、陸上競技)[14]などがいる。1932年6月23日、京都駅から出発する選手たちの見送りには2000人が詰めかけたという[8]。
- ^ NHK大河ドラマ『いだてん』は7月27日放送分より横田役に斎藤希実子(1992年生まれ)を配した[16]。
- ^ 卒業に関係する記録が確認されておらず、同志社高等女学校を中退したとみられる[14]。
- ^ 本井は横田が関与して「楽水群像」が始まったように記しているが[20]、それ以前に浜寺水練学校で創始されたページェントである[19]。藤丸論文では、1933年8月15日に横田の宝塚入団を契機に「楽水群像」が披露されたと記すものの、横田と「楽水群像」に直接の関わりがあったかは記していない[19]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g 本井康弘 2019, p. 77.
- ^ a b c “Misao Yokota Olympic Results”. Sports Reference LLC. 2020年4月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月18日閲覧。
- ^ a b 本井康弘 2019, p. 70.
- ^ a b c d e 本井康弘 2019, p. 72.
- ^ 藤丸真世 2007, p. 2.
- ^ 本井康弘 2019, pp. 70, 72.
- ^ 前畑秀子. “(写真キャプション)1932年のロサンゼルス・オリンピックに出場したメンバーたち。(右より)守岡初子、荒田雪江、横田みさを、鎌倉悦子、松沢初穂、小島一枝、前畑秀子”. 婦人公論.jp. 教養 |『いだてん』で話題! 金メダリスト・前畑秀子の手記「泳いで、泳っで、泳ぎぬいて」. p. 2. 2021年4月14日閲覧。
- ^ a b c 本井康弘 2019, p. 71.
- ^ 本井康弘 2019, pp. 71–72.
- ^ a b “オリンピック出場者一覧”. 同志社スポーツユニオン. 2021年3月18日閲覧。
- ^ a b 中澤篤史 2010, p. 41.
- ^ a b 本井康弘 2019, p. 73.
- ^ 本井康弘 2019, p. 74.
- ^ a b c d e 本井康弘 2019, p. 75.
- ^ “1932年ロサンゼルス大会 | 5位 | 水泳 | 女子400mリレー 小島 一枝、横田 みさを、守岡 初子、荒田 雪江”. 大会別日本代表選手入賞者一覧. 日本オリンピック委員会. 2021年3月18日閲覧。
- ^ “ニュース |『いだてん』に水泳選手・横田みさを役で出演中の新人女優・斎藤希実子 オーディションを勝ち抜く力になった演技講師の言葉”. Deview-デビュー. 2021年4月14日閲覧。
- ^ 本井康弘 2019, pp. 75–76.
- ^ “第234話 シンクロナイズドスイミング 美しくもハードなシンクロの世界!”. ピートのふしぎなガレージ. TOKYO FM(エフエム東京) (2017年9月30日). 2021年3月18日閲覧。
- ^ a b c 藤丸真世 2007, p. 6.
- ^ 本井康弘 2019, p. 76.
- ^ 本井康弘 2019, pp. 76–77.
- ^ “背広の王者”. 日活. 2021年3月18日閲覧。
参考文献
[編集]- 中澤篤史「オリンピック日本代表選手団における学生選手に関する資料検討:1912年ストックホルム大会から1996年アトランタ大会までを対象に」『一橋スポーツ研究』第29巻、2010年、37-48頁、2021年3月3日閲覧。
- 藤丸真世「日本におけるシンクロナイズド・スイミングの受容過程に関する研究 : 浜寺水練学校における能島流泳法に着目して」『日本体育大学紀要』第37巻第1号、2007年、2021年3月3日閲覧。
- 本井康弘「同志社初の女性オリンピアン ―横田みさを(1932年LA大会)―」『同志社時報』第147号、学校法人同志社、2019年、2021年3月18日閲覧。
関連項目
[編集]- 1932年ロサンゼルスオリンピックの日本選手団
- 藤本隆宏 - 横田みさをと同じ水泳選手で活動した後、俳優に転身した。
関連資料
[編集]- 橫田みさを「第三部 競泳(写真)§ 女子選手団一人一語」『伯林オリムピックの為に : 第十回羅府国際オリムピック大会水上競技報告書』東京:日本水上競技連盟(編)、1935年(昭和10年)、209頁 - 。doi:10.11501/1214099、 国立国会図書館デジタルコレクション、図書館送信参加館内公開。
外部リンク
[編集]- 日本代表選手団 記録検索:横田 みさを - 日本オリンピック委員会