河石達吾

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オリンピック
日本の旗 日本
男子 競泳
1932 男子 100M自由形
河石達吾

河石 達吾(かわいし たつご、1911年(明治44年)12月10日 - 1945年(昭和20年)3月17日)は、大日本帝国陸軍軍人、最終階級は陸軍大尉水泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピック100m自由形銀メダリスト慶應義塾大学法学部出身。

生涯[編集]

1911年、広島県佐伯郡東能美島の大柿村(現江田島市大柿町)生まれ。1924年3月、地元の大古尋常小学校を卒業後、広島市内の旧制修道中学校(現修道中学校・修道高等学校)に進学。修道中学校卒業後、慶應義塾大学法学部に進学。福澤諭吉宅へ書生として住み込み、水泳の一線級選手として活躍。

1932年ロサンゼルスオリンピックに参加し、100メートル自由形で銀メダルを獲得(金メダルは宮崎康二)。しかし男女計11種目中金メダル5個を含む12個のメダルを"水泳王国日本"が独占したため、河石の銀メダルは目立たず、すぐに普通の生活に戻ったといわれる。

1933年から2年間海軍兵学校の要請で同校の水泳教師となり、62期から64期学生の水泳指導を行った。その後福澤家の紹介で大阪へ出て大同電力関西電力などの前身)へ入社し、箕面市に在住する。その後、帝国陸軍へその学歴を生かし幹部候補生として応召入隊する。広島の歩兵第11連隊に配属されて中国戦線に5年間従軍し陸軍少尉として除隊した。大陸の戦線では血気にはやり突撃しようとする部下を宥め、無駄死にをさせまいとする指揮官だった、と伝えられている。

除隊後、再び電力会社に勤務する。結婚後の1944年6月、再び召集され硫黄島に陸軍中尉として配属、北地区隊の副官として栗林司令部の防備にあたったが1945年3月、硫黄島の戦いにて戦死を遂げた。死後陸軍大尉に特進した。享年33。

2006年アメリカ映画硫黄島からの手紙』でもバロン西は主役格であったが、同じロサンゼルスオリンピックのメダリストであるこの河石は無視されていた。ただし西の場合は、その生い立ち、馬術での唯一の金メダリストであり当時から知名度があったこと、また硫黄島戦にて戦車第26連隊長(西部隊長、陸軍大佐)として枢要な職責を担っていた。

修道中学校では2期下に大横田勉、3期下に河津憲太郎がおり、同オリンピックで揃ってメダルを獲得した。

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関連項目[編集]