読売ジャイアンツ

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読売ジャイアンツ
会社名 株式会社読売巨人軍
創設年度 1934年
所属リーグ
セントラル・リーグ
歴代チーム名
本拠地
東京ドーム
Tokyo Dome 2007-2.jpg
収容人員 45,600人(東京ドーム)
フランチャイズの遍歴
東京都1952年 - 現在)
永久欠番
1:王貞治 | 3:長嶋茂雄 | 4:黒沢俊夫 | 14:沢村栄治 | 16:川上哲治 | 34:金田正一
獲得タイトル
日韓クラブチャンピオンシップ(1回)
2009[1]
日本一(21回)
1951 | 1952 | 1953 | 1955 | 1961 | 1963 | 1965 | 1966 | 1967 | 1968 | 1969 | 1970 | 1971 | 1972 | 1973 | 1981 | 1989 | 1994 | 2000 | 2002 | 2009 |
リーグ優勝(42回)
1936秋 | 1937春 | 1938秋 | 1939 | 1940 | 1941 | 1942 | 1943 | 1949 | 1951 | 1952 | 1953 | 1955 | 1956 | 1957 | 1958 | 1959 | 1961 | 1963 | 1965 | 1966 | 1967 | 1968 | 1969 | 1970 | 1971 | 1972 | 1973 | 1976 | 1977 | 1981 | 1983 | 1987 | 1989 | 1990 | 1994 | 1996 | 2000 | 2002 | 2007 | 2008 | 2009
成績(タイトル以外)
日韓クラブチャンピオンシップ出場(1回)(太字は優勝、斜体は準優勝)
2009
日本シリーズ出場(32回)(太字は勝利した年)
1951 | 1952 | 1953 | 1955 | 1956 | 1957 | 1958 | 1959 | 1961 | 1963 | 1965 | 1966 | 1967 | 1968 | 1969 | 1970 | 1971 | 1972 | 1973 | 1976 | 1977 | 1981 | 1983 | 1987 | 1989 | 1990 | 1994 | 1996 | 2000 | 2002 | 2008 | 2009
クライマックスシリーズ(5回)
(太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)
2勝3敗
2007 | 2008 | 2009 | 2010 | 2011
球団組織
オーナー 白石興二郎読売新聞グループ本社代表取締役社長兼読売新聞東京本社代表取締役社長)
運営母体 読売新聞グループ本社
監督 原辰徳

読売ジャイアンツ(よみうりジャイアンツ、Yomiuri Giants読売巨人軍)は、日本プロ野球球団で、セントラル・リーグの球団のひとつ。日本に現存する中で最も歴史の長いプロ野球球団である。親会社は読売新聞グループ本社。運営法人の商号は「株式会社読売巨人軍」である。東京都保護地域とし、都内文京区にある東京ドーム専用球場(本拠地)としている。また、二軍イースタン・リーグ所属)の本拠地は神奈川県川崎市多摩区にある読売ジャイアンツ球場である。

目次

球団の歴史

誕生

1931年読売新聞社社長の正力松太郎が中心となってアメリカメジャーリーグ選抜軍を日本に招待し、全日本軍や六大学を中心とした強豪大学チームとの試合を行い興行は成功を収めた。これを受けて正力は再度のメジャーリーグ選抜軍の招待、特に前回かなわなかったベーブ・ルースの招聘を目論んだ[2]が、そこに1つの問題が発生した。1932年文部省(当時)が発令した野球統制訓令である。当時の日本は大学野球全盛であったがこの統制令によってメジャーリーグ選抜を招聘したとしても大学チームを対戦相手とすることはできなくなった[3]

市岡忠男浅沼誉夫三宅大輔鈴木惣太郎の4人は、その対策として職業野球チームを結成することを正力に働きかける。その結果1934年6月9日、日本工業倶楽部で「職業野球団発起人会」が開かれ6月11日には創立事務所が設けられた。平行して選手獲得も行われプロ契約第1号選手として6月6日付で三原脩、第2号選手として6月15日付で苅田久徳を獲得する[4]などチームが形作られていった。この時日米野球の期間中のみ契約するという選手と日米野球後に発足する職業野球団とも契約するという選手とがあった[5]

「読売巨人軍発祥の地」の碑、谷津バラ園入口脇、習志野市

1934年10月15日千葉県の谷津海岸に新設された谷津球場に30名[6]の選手が集まりチームは結成され11月2日、横浜にメジャーリーグ選抜軍が来日し全日本軍と全国で親善試合興行を行った。試合は全日本軍の15戦全敗(他に対全東京が1試合、日米混合が2試合[7])で試合内容も圧倒的だったものの、ベーブ・ルースルー・ゲーリッグらを擁した全米軍は読売新聞の報道もあって大きな注目を集めた。この時の1試合が草薙球場にある沢村栄治像とベーブ・ルース像の元となる、沢村が1失点完投した試合である。12月26日に全日本軍の選手を中心にした選手19名で株式会社大日本東京野球倶楽部(だいにっぽんとうきょうやきゅうくらぶ)が結成された。

1935年1月14日から2月3日まで草薙球場で練習を重ね、2月14日第1次アメリカ遠征に出発する。この時「大日本東京野球倶楽部」ではチーム名として長すぎる事からアメリカで一般的であったチームのニックネームをつけることが提案され、チーム名を「東京ジャイアンツ」とした。そして帰国後、1936年東京巨人軍(とうきょうきょじんぐん)へ正式改称する。これが巨人軍の始まりである。この第1次遠征ではマイナーリーグクラスのチームを相手に128日間で109試合を行い、田部武雄が105盗塁を記録するなど善戦し、対戦成績は75勝33敗1分であった。7月16日に帰国し9月6日からは国内各地を転戦する。これが翌年以降の職業野球団の相次ぐ結成の契機となった。結成当初の対外試合も参照のこと。

1936年2月14日、第2次アメリカ遠征に出発。直前の2月9日から「巨人軍渡米送別試合兼金鯱軍結成記念試合」として名古屋金鯱軍と3試合を行う。これが現在のプロ野球組織に属する球団同士が行った初めての試合である。アメリカでは1次と同じくマイナーリーグクラスのチームを相手に10州を巡回して89日間で76試合を行い、対戦成績は42勝33敗1分であった。

戦前期

1936年には正力の働きかけもあって国内には巨人も含めて7チームの職業野球団が結成され、「日本職業野球連盟」も結成されていた。春には日本国内で初の職業野球リーグが開始されたが、巨人は上記のアメリカ遠征のため春季大会を欠場し夏季大会から参加。この夏季大会で計2勝5敗と惨敗を喫し、9月5日より群馬県館林市の茂林寺・分福球場で緊急キャンプを張った。猛練習は「茂林寺の千本ノック」という名で知られる。1936年の秋季大会は6回の小規模リーグ戦の勝ち点制で開催され5回目のリーグ戦までリードしていたが6回目のリーグ戦で大阪タイガースに並ばれる。洲崎球場で3戦制の優勝決定戦を行い、2勝1敗でタイガースを下し公式戦初優勝球団に輝いた。1937年9月11日には後楽園球場が開場、以来実質的な本拠地として使用する。1939年には2度のマニラ遠征を行った。これ以降、戦前は11シーズンで8度の優勝を果たし、3度のノーヒットノーランを達成した沢村、42勝をあげたヴィクトル・スタルヒン、2度のノーヒットノーランを達成した中尾碩志、連続無失点記録62回、シーズン防御率0.73(日本記録)を記録した藤本英雄、職業野球契約選手第一号であった三原脩、日本プロ野球史上初の2桁本塁打や三冠王(1965年にプロ野球実行委員会で認定)を記録した中島治康らを擁して第1次黄金時代を築いた。この間プロ野球においても太平洋戦争による影響は避けがたく、召集によって中心選手の離脱も相次いだほか、1940年9月13日にはユニフォームのマークが「G」から「巨」に改められるなど巨人にもその影響は及んだ。遂には1944年11月10日に野球試合不可能として会社は存続するものの営業が中止され、球団は解散となった。11月13日には国の指導により日本野球連盟が改称していた日本野球報国会がプロ野球の一時休止声明を発表し戦前のプロ野球は終わった。

1937-1938年には2リーグ制導入以後スタートした今の日本選手権シリーズに相当する年間総合優勝決定戦が行われ、この時は春と秋のリーグ戦がおのおの独立したシーズンと見なされているので、1937春と1938秋のリーグ優勝は通算のリーグ優勝として回数にカウントされている。ただし2年とも年間総合優勝決定戦で大阪タイガースに敗れたため日本一は逃している。

戦後期

1946年のリーグ戦再開より参加。1947年には読売新聞社が経営に当たることとなり[8]、球団名を東京読売巨人軍に改称、ニックネームを読売ジャイアンツとする。南海ホークスの台頭や、戦後の混乱で戦力確保への苦慮があり1947年に球団史上初めて勝率5割を切るなど再開から3シーズン続けて優勝を逃すが、監督・三原脩や「赤バット」の川上哲治千葉茂青田昇をはじめとする第1次黄金時代の選手が戦地から帰国しチームに復帰、また1948年オフには南海の別所毅彦を獲得するなどして徐々に戦力が充実。1リーグ最後の1949年には戦後初優勝を飾った。1947年6月23日黒沢俊夫が死去、戦死した沢村とともにその背番号は日本プロ野球界初の永久欠番となった。

2リーグ分立

1949年シーズンオフ、読売新聞社のライバルである毎日新聞が設立した毎日オリオンズのプロ野球参入に、のちにセントラル・リーグを結成するチームが反対。このことがきっかけとなり、読売ジャイアンツ・阪神タイガース・中日ドラゴンズ松竹ロビンス大洋ホエールズ広島カープ西日本パイレーツ国鉄スワローズからなるセントラル・リーグ(セ・リーグ)と、阪急ブレーブス・南海ホークス・東急フライヤーズ大映スターズ毎日オリオンズ西鉄クリッパース近鉄パールスからなるパシフィック・リーグ(パ・リーグ)が分立することになった。

水原監督時代

1950年に復帰した水原茂を監督に据えて、リーグ分立1年目の同年こそ優勝を逃すものの、翌1951年からは同年に獲得した与那嶺要の活躍もあってリーグ3連覇、日本シリーズでは1リーグ時代からの宿敵南海を3年連続で降し日本シリーズ3連覇を達成。第2次黄金時代を築き上げた。1952年8月8日、広島11回戦の勝利で日本プロ野球史上初の公式戦通算1000勝を達成。1953年には初めての海外キャンプをサンタマリアで行う、この年は開幕から一度も2位に転落することなく優勝、シーズンを通しての1位独走優勝は球団史上唯一の記録である。

1954年杉下茂擁する中日ドラゴンズに優勝を奪われ2位となるが、1955年にはリーグ優勝。日本シリーズでは南海ホークスとの対戦となり、1勝3敗から3連勝。4勝3敗で逆転日本一を達成する。この頃から第2期黄金時代を支えた千葉茂、川上哲治らに衰えが目立ち始め、水原は新旧交代をしなければならなくなった。

1956年もリーグ優勝を果たし、日本シリーズでは水原と入れ替わりに巨人を退団した三原脩監督率いる西鉄ライオンズとの対決となる。以後日本シリーズでは、3年連続で巨人は西鉄との対決となり、両者の戦いは「巌流島の決戦」とマスコミに喧伝された。しかし、結果はいずれも西鉄に軍配が上がり、特に1958年の日本シリーズでは、第1戦から3連勝するも、第4戦から稲尾和久の力投などで4連敗を喫し、逆転で日本一を許してしまう。1959年もリーグ優勝は果たし4連覇、しかし日本シリーズでは南海ホークスと対戦。南海・杉浦忠の前に打線が沈黙、ストレートの4連敗で敗退。

そして1960年は、三原が当時6年連続で最下位だった大洋ホエールズ監督に就任し、再び「巌流島の対決」と呼ばれる。大洋は三原の手腕によって巨人と優勝争いを演じ、ついに巨人を破ってリーグ優勝し、巨人は2位に終わった。シーズン終了後水原監督は勇退した。この間、1958年に長嶋茂雄、1959年に王貞治がともに大きな期待を背負って入団。長嶋は1年目から本塁打・打点の二冠、打率2位と活躍した。

天覧試合

1959年6月25日の阪神11回戦はプロ野球史上初めての天覧試合となった。この試合で王・長嶋がはじめて二人ともホームランを打ち(ONアベック弾第1号)長嶋が阪神・村山実からこの日2本目となるサヨナラホームランを放ち5-4で勝利を収めた。

川上監督時代

1961年川上哲治がヘッドコーチから昇格して監督に就任する。就任1年目ながら打率と本塁打の二冠を獲得した長嶋を中心に2位中日と1ゲーム差でリーグ優勝、日本シリーズでも南海を破って6年ぶりに日本一を達成。しかし1962年にはこの年から一本足打法を始めた王が本塁打王と打点王を獲得したが、長嶋の低迷と投手の駒不足もあって混戦のセ・リーグで勝率.515ながら4位、2リーグ分裂後初めてのBクラスに終わる。1963年には長嶋の復活と前年は2名に留まった二桁勝利投手を5名出すなど投手陣が安定してリーグ優勝、日本シリーズでは西鉄を初めて破り日本一になる。

1963年には王と長嶋で打撃三部門だけでなく打点と本塁打の2位までをも占め、1964年は王がシーズン記録となる55本塁打を記録するものの、3位に終わる。この頃から巨人の3・4番に固定された(両名の打順は流動的だった)王と長嶋はON砲と呼ばれ、実力・人気ともに特別な存在となっていた。また牧野茂荒川博ら他球団出身のコーチが招かれ、1965年には金田正一が国鉄から10年選手制度を利用して移籍した

9年連続日本一

1965年から1973年までは日本シリーズ9連覇を果たす。この時期は、一般的にV9(ブイナイン)と呼ばれる。この記録に次ぐ日本シリーズ連覇は巨人(1951年から)・西鉄(1956年から)・阪急(1975年から)・西武(1986年からと1990年から)の3連覇である。

1965年7月25日、中日11回戦の勝利で公式戦通算2000勝を達成、勝利投手は宮田征典、勝ち越した後の8.9回をリリーフしての勝利でありこの年に巨人首脳陣が時代に先駆けて行った投手分業制に従事した中であげた1勝だった。これ以来、宮田は8時半の男として一躍注目を集めることとなる。この年、宮田は20勝を挙げたが、そのうち19勝がリリーフでの勝利だった。また、城之内邦雄が21勝、中村稔が20勝を挙げ、20勝投手3人を輩出。これは前年の東映フライヤーズに次いで2チーム目(嵯峨健四郎21勝、土橋正幸尾崎行雄各20勝)。セ・リーグでは現在まで唯一の記録である。

この間、巨人はカラーテレビ普及による露出増加も相まって絶大な人気を博し、俗に当時の子供が好きなものを表した「巨人、大鵬卵焼き」は流行語となった。また、同時期に連載が開始した漫画『巨人の星』も人気を集め、プロ野球選手、特に巨人軍の選手という職業は当時の子供たちの憧れの職業となった。

V9の間、最優秀選手を王は5回、長嶋は3回受賞している。また、川上監督や牧野ヘッドコーチのもとでロサンゼルス・ドジャースの戦術(スモールボール)を取り入れた。王と長嶋以外にも、金田正一・城之内邦雄堀内恒夫高橋一三渡辺秀武などの投手や、森昌彦捕手、土井正三黒江透修内野手、柴田勲末次利光高田繁外野手などの選手がそろっていた。

V9時代後半は長嶋など主力選手の高齢化と若手の台頭不足があり、苦戦することが多くなった。そして1974年、中日に20年ぶりのリーグ優勝を許し、V10を逸す。この年を最後に川上監督が勇退、同時に長嶋・黒江・森も現役を引退した。OBの広岡達朗曰く、「V9時代途中あたりから、歯の浮くようなおべんちゃらを言うだけで、指導者の職責を果たしているといえるコーチがいなくなっていった。この頃から、選手を育てる、という方針はなくなりつつあった」とある。この後、巨人が連覇を果たす機会は少なくなっていく。

第1次長嶋監督時代

1975年、前年に引退した長嶋茂雄が監督に就任。「クリーン・ベースボール」のキャッチフレーズを挙げたが自身の穴を埋められず、開幕6試合目で最下位に転落するとそのまま浮上することが出来ず、球団史上初の最下位を経験。全球団に負け越した上に9月には11連敗という球団史上最悪の連敗を喫し、10月15日には広島の胴上げを本拠地・後楽園で許した。その年のオフに日本ハムから張本勲、太平洋から加藤初をトレードで補強、翌1976年には前年の最下位から一転してリーグ優勝を果たす(同一監督での最下位となった翌年の優勝は史上初)。しかし、日本シリーズでは上田利治監督率いる阪急ブレーブスに3勝4敗で敗れる。1977年は王貞治が通算本塁打数の世界新記録(今までの世界記録はハンク・アーロンの755本)を樹立。チームも独走状態で2年連続でリーグ優勝を果たすが、日本シリーズでは阪急に1勝4敗で敗れた。

1978年広岡達朗率いるヤクルトと優勝争いを繰り広げる。8月末に2位のヤクルトに4.5ゲーム差をつけ優勝は堅いと見られていたが、9月以降成績が急降下、ヤクルトに逆転を許し2位に終わる。このときの戦いぶりから長嶋茂雄に対して監督としての資質に、次第に疑問が投げかけられてゆくようになる。

そして1978年オフ、当時法政大学江川卓の獲得を巡って、いわゆる江川事件が起きる。最終的には1979年3月に、江川がいったん阪神タイガースに入団し、その直後に小林繁と交換トレードをする事で決着がつく。だが、この江川事件はマスコミの総攻撃を受けることになった。

1979年は5月まで首位に立ったものの、6月以降は成績が次第に降下していき、Bクラス5位に終わる。一方で中畑清が3塁のレギュラーを獲得するなど若手の台頭も若干見られるようになる。同年オフに、青田昇がヘッドコーチに就任し、伊東での秋季キャンプでは松本(匡)、中畑、江川、西本聖角三男らを猛練習で特訓した。後に「伊東キャンプ」として語られていく。

1980年は開幕早々ペナントレースから脱落し、長嶋に対する批判はこれまでにないほど高まっていった。シーズン後半から若手を起用して5割Aクラスを確保した。しかしながら、2リーグ分立後では球団史上初となる3年連続V逸であり、10月21日長嶋はチームの不振の責任を取って「男のケジメ」という言葉を残し辞任する。当日スポーツニッポンが「長島解任」とスクープ報道したように、読売新聞の幹部により事実上の解任だった。この動きに対してファンは激怒し、読売新聞報知新聞スポーツ報知)の購読打ち切りを行うファンが続出した。[9]。同年オフ、王も現役を引退、巨人一筋22年の現役生活にピリオドを打った。

藤田・王監督時代

第1次藤田監督時代

1981年藤田元司が監督に就任。藤田元司監督、王貞治助監督、牧野茂ヘッドコーチによる「トロイカ体制」が誕生。江川卓、西本聖、定岡正二、加藤初ら先発4本柱を形成し(江川20勝・西本18勝・定岡11勝・加藤12勝)、4年ぶりのリーグ制覇。日本シリーズでは、大沢啓二監督率いる日本ハムファイターズと対戦、4勝2敗で8年ぶりの日本一を達成する。なお、この年、江川は史上5人目の投手5冠王(最優秀防御率最多勝、最多勝率、最多奪三振、最多完封)、西本は沢村賞、角三男が最優秀救援投手を獲得するなど、投手タイトル独占を達成、藤田監督の投手中心の守りの野球の成果が十分に発揮された。打者もルーキー原辰徳が新人王を獲得、篠塚利夫が3割5分7厘の高打率をマークして阪神・藤田平と首位打者争いをするなど若手の台頭が目立った。

1982年にも優勝した中日と0.5ゲーム差の2位となっている。

1983年にも、松本匡史が盗塁王(このときの盗塁76はセリーグ記録)、原辰徳が打点王(103打点)を獲得するなどしてリーグ優勝するが、日本シリーズでは西武との激闘の末、3勝4敗で敗れる。なお、テレビのプロ野球中継で現在までで最も視聴率が高かったのは第一次藤田監督時代(平均視聴率25.5%)だった[10]

王監督時代

1984年から1988年までの5年間は王貞治が監督として指揮をとるが、1987年に1度優勝したのみで、同年の日本シリーズは西武に2勝4敗で敗退。1988年からは本拠地を後楽園球場から東京ドームへ移転するが、吉村禎章ウォーレン・クロマティのリタイアが響いて2位に転落、優勝した中日に12ゲーム差をつけられる。王監督はこの年限りで引責辞任。

第2次藤田監督時代

1989年、藤田元司が監督に復帰。斎藤雅樹(20勝・防御率1.62)、桑田真澄(17勝・防御率2.60)、槇原寛己(12勝・防御率1.79)と三本柱が機能し、チームは2位の広島に9ゲーム差をつけリーグ優勝を達成する。1989年の日本シリーズでは近鉄に3連敗を喫した後、4連勝し逆転で17回目の日本一に輝く。第3戦、近鉄の加藤哲郎が「シーズン中より楽に投げられました」と述べた主旨のヒーローインタビューとその後にインタビュアーの「(その年のパ・リーグ最下位の)ロッテよりも(迫力がなかった)?」との質問に、加藤が「そうですね」と答えたことから「巨人はロッテよりも弱い」と報道され、原・駒田ら巨人の選手たちはこの大逆転についてこの報道が奮起となったと述べている。

1990年、2年連続20勝した斎藤を筆頭に桑田・宮本和知(各14勝)、木田優夫(12勝)、香田勲男(11勝)と5人が二桁勝利を挙げ、完投数が70(130試合中)という先発投手中心のチームでペナントをリードし、吉村のプロ野球史上初となるサヨナラ優勝決定ホームランにより史上最速で2位広島とのゲーム差が22という2年連続のリーグ優勝を果たす。しかし、西武相手の日本シリーズでは、0勝4敗で惨敗した。

1991年は、投手陣の不調と打撃不振が響き、1979年以来12年ぶりのBクラス(4位)。シーズン終了後、近藤ヘッドコーチ松原打撃コーチが、不振の責任を取る形で退団した。

1992年は序盤の不調が響き、5月には最下位に転落するが、大久保博元ロイド・モスビーの加入、石毛博史がリリーフエースとして頭角を現したこと等により、前半戦が終了する頃には首位に立った。しかし、8月に入ると失速し、終盤のヤクルト・阪神・広島との接戦の結果、最終的に2位となるも2年連続のV逸が決定。この年限りで藤田監督は勇退。後任には長嶋茂雄が13年ぶりに復帰。

第2次長嶋監督時代

1993年、長嶋監督が復帰、背番号は現役時代自らが付けていた「3」を2つ掛け合わせた「33」。同年のドラフト会議で注目されていた松井秀喜の交渉権を阪神・中日・ダイエーとの競合の末獲得。この松井がこの後、1990年代から2000年代前期にかけて、チームの顔としても、打撃の中心としても、精神的支柱としても重要な役割を果たした。また、現役大リーガーのジェシー・バーフィールドやヤクルトから長嶋一茂を獲得して3年ぶりのリーグ優勝を期待されたが、打撃陣の不振から3位に終わった。オフに、この年から導入されたフリーエージェント (FA) 制度によりFA宣言をした中日の落合博満を獲得する。ポジションが重複し、出場機会を奪われる事に危機感を持った駒田徳広が同様にFA宣言を行って横浜へ移籍する。その横浜からは自由契約になった屋鋪要を獲得した。

1994年、前半は首位独走したが、終盤最大10ゲーム差をつけていた2位中日に追いつかれ、シーズン最終戦(10月8日の対中日戦(ナゴヤ球場)、いわゆる「10.8決戦」)が優勝決定戦となった。史上初の同率チーム同士による最終試合での首位決戦という優勝決定戦は日本全国の注目を集め、各マスコミでも大きく報道。長嶋監督は「国民的行事」と称した。その試合を槙原寛己斎藤雅樹桑田真澄の当時のエース「三本柱」の継投で、リーグ優勝を達成。1994年の日本シリーズでは、4勝2敗で西武を破り18回目の日本一に輝く。

1995年は近鉄の阿波野秀幸を香田勲男との交換トレードで獲得。また広島の川口和久、ヤクルトの広沢克己をFAで獲得、また同じヤクルトを自由契約となったジャック・ハウエルミネソタ・ツインズシェーン・マックを獲得したものの3位に終わった。同年の最終戦で原が現役を引退。

1996年、シーズン中に補強したマリオ・ブリトーや松井の活躍等で、リーグ史上最大の11.5ゲーム差をはね返してリーグ優勝を成し遂げた。前年の雪辱を果たしたことから、「メークドラマ」とはこの年の大逆転を指すことが多い。1996年の日本シリーズではオリックスに第1戦から3連敗し1勝4敗で敗れた。

1997年に西武から清原和博がFA権を行使して入団。松井とともに、ON(王・長嶋)以来の強打者コンビ「MK砲」として期待された。この際、清原に押し出されるように落合が「長嶋監督を悩ませることはできない」と異例の会見を開いて日本ハムに移籍。ロッテを自由契約となったエリック・ヒルマンを獲得したが、ヒルマンを含め主力選手に故障者が続出し夏場まで最下位に沈むなど大苦戦。最終的には4位でシーズンを終了。同年オフにはドラフト1順目で高橋由伸が入団。

1998年は前半は横浜や中日との首位争いを繰り広げるが、前半戦の勝ち頭趙成珉がオールスターゲームで右肘を故障。さらにバルビーノ・ガルベスの危険球退場でチームから離脱するなどアクシデントが響き3位に終わる。同年オフにはドラフトで上原浩治二岡智宏が入団。

1999年村田真一や広澤の離脱、後半戦は清原の故障によるシーズン離脱などもあったが、20勝を上げた上原や途中獲得したドミンゴ・マルティネスの活躍もあり2位となった。シーズンオフ、広澤が自由契約となり阪神に移籍。

2000年は、FA宣言をしていたダイエーの工藤公康と広島の江藤智、さらに阪神のダレル・メイを獲得。長嶋監督は、江藤に背番号33を譲り自らが現役時代に付けていた背番号3を25年ぶりに復活させた。松井が4番として定着、5番にマルティネス・清原、6番に高橋を擁した打線はシーズンで投打ともに他を圧倒して2位中日に8ゲーム差をつけてリーグ優勝。9月24日の優勝決定戦では、0-4で迎えた9回裏に江藤の満塁本塁打で同点に追いつき、直後に二岡がサヨナラ本塁打を放ち優勝を決めた。日本シリーズの相手は、長嶋と共にV9時代の主軸を担った王貞治が1995年から率いるダイエーで、「ON監督対決」として全国的に大いに盛り上がった。シリーズは、2連敗からのスタートだったが、その後4連勝し4勝2敗で19回目の日本一を達成した。

2001年阿部慎之助が入団。シーズン終盤までヤクルトと優勝を争ったが2位に終わる。同年限りで長嶋監督は勇退し、終身名誉監督に就任した。それと同時に槙原寛己、斎藤雅樹両投手そして村田真一捕手が引退した。監督の後任は、原辰徳ヘッドコーチ。

第1次原監督時代

2002年原辰徳監督が就任。原監督と鹿取義隆ヘッドコーチは投手陣を立て直し、1年目でセ・リーグの全球団から勝ち越してのリーグ優勝を果たす。また、日本シリーズでも西武を相手に球団史上初の4連勝で20回目の日本一に輝いた。シーズンオフに松井秀喜がFA権を行使してニューヨーク・ヤンキースへ移籍。

2003年、松井に代わる大砲としてヤクルトからロベルト・ペタジーニを獲得。原監督は守備位置の問題を解決できず、鹿取コーチは一任されていた投手陣を整備できず3位に終わった。シーズン終盤には9連敗を喫するなど、優勝した阪神に15.5ゲーム差をつけられた。そして9月26日、原監督は責任を取り辞任した。辞任をするにあたってのセレモニーも行われなかった。[11]辞任に関して、原監督と渡邉恒雄オーナーとの確執がマスメディアに報じられた。この混乱が原因で川相昌弘がコーチ就任要請を辞退して中日に移籍した。

堀内監督時代

2004年からはV9時代のエース堀内恒夫が監督に就任。生え抜きの高橋由伸らに加え、前年までで近鉄との契約が終わったタフィ・ローズ、ダイエーから膝の靭帯を断裂した後出場のなかった小久保裕紀を獲得した。かねてより所属する清原和博、ペタジーニ、江藤智などのさまざまな球団で活躍した4番打者が1チームに顔をそろえるという超重量打線となった。長嶋終身名誉監督に「史上最強打線」と名付けられた打線は、事実この年に年間259本塁打のプロ野球新記録[12]を樹立。しかし、防御率の低下により成績は前年と同じ3位だった。近鉄・オリックスの合併問題に端を発したプロ野球再編問題では、球団スカウトが行った明治大学一場靖弘投手への不正な金銭授受の責任を取り渡邉恒雄がオーナー職を辞任した。

2005年、ポジション争いをやめさせ、打順を固定する事により1年を戦う打線として「不動明王打線」と名付けたが、高橋由伸、二岡智宏らが軒並み故障。この年から始まった「セ・パ交流戦」では4位(セ・リーグでは阪神に次いで2位)と好調だったものの、投手陣の崩壊やチームの空中分解により、8年ぶりにBクラスの5位に終わった。また、原監督辞任騒動から巨人人気が一気に下降した影響により、観客動員数の減少やテレビ視聴率の低下が起こった。そのため日本テレビでも巨人戦中継の延長が中止されたりその他の放送局でも延長時間の短縮・中止や深夜枠での録画・ダイジェスト版放送に差し替えが起きた。この低迷によって2005年シーズン中からストーブリーグを見越した活動が表面化し、成績不振と怪我の重なったローズや清原が8月頃からチーム編成からはずれ、また初の他球団出身監督として阪神の星野仙一シニアディレクターの名前があがった。星野招聘の報道が表面化すると球団出身者のみが監督となってきた伝統を崩すことに一部OBやファンが反発。星野は9月10日に会見を開き、阪神に残留することを表明した。10月5日、堀内監督は成績不振の責任を取って任期を1年残し退任し、翌年からの新監督として原辰徳が2年ぶりに復帰することを正式に発表した。

第2次原監督時代

第1次では同じ時期に巨人で現役として活躍した選手が中心であったコーチ陣容を組んだ原監督だが、第2次では彼らに加えて他球団での豊富な経験のある人材を求めた。ヘッドコーチに近藤昭仁、守備走塁コーチに篠塚和典が復帰。投手コーチに尾花高夫を招聘、また1994年から2002年まで打撃コーチを務め、2003年より広島に戻っていた打撃コーチ・内田順三が復帰した。選手補強も積極的に行った。投手陣ではオリックスを自由契約となったジェレミー・パウエル、FA宣言した豊田清(西武)、野口茂樹(中日)を獲得した。野手ではロッテの李承燁を獲得。金銭トレードで過去ゴールデングラブ賞を4度受賞した小坂誠(同)を獲得した。一方で前年シーズン途中に既に構想から外れていた清原、ローズを自由契約で、豊田の人的補償で江藤を放出した。

2006年はチーム方針として2005年のワールドシリーズを制したシカゴ・ホワイトソックスに習い「スモール・ベースボール」を掲げた。開幕当初は首位を独走していたが、5月に始まったセ・パ交流戦の途中で主力選手に負傷者が続出したことで失速することとなった。これに対して西武を自由契約となり米国挑戦したものの契約を結べず帰国していた小関竜也を入団テストで、広島の木村拓也を交換トレードで、前年阪神を解雇されたもののメキシカンリーグで好成績を収めていたジョージ・アリアスを来日させそれぞれ獲得するなど建て直しを図ったが、6 - 7月には8連敗、10連敗、9連敗と立て続けに大型連敗を喫し、一時は最下位にまで転落した。最終的にチーム防御率は1点以上の改善があったものの野手陣の不調で4位に終わり、いずれも球団史上初の4年連続完全V逸と2年連続Bクラスとなった。

この結果を重く見た球団はさらなる改革に着手した。首脳陣ではまず走塁面の強化に西武黄金期に三塁ベースコーチとして活躍した伊原春樹を野手総合コーチとして招聘。篠塚守備走塁コーチを打撃コーチへ配置転換、伊勢孝夫スコアラーを打撃コーチ補佐として現場復帰させた。なお近藤ヘッドコーチが退任し、総括ディレクターに就任、それに伴って開幕直前に伊原がヘッドコーチを兼任することとなった。選手では仁志敏久を交換トレードで横浜に放出、小久保がFAでソフトバンクに移籍したが、ソフトバンクを戦力外となったベテランの大道典嘉を無償トレードで、オリックスの谷佳知を交換トレードで、日本ハムの小笠原道大をFAでそれぞれ獲得したほか、残留を前提としたFA交渉を打ち切られた横浜の門倉健も加入する。一方門倉の加入に伴って補償選手として工藤を放出することとなり、逆にソフトバンクから小久保の補償選手として吉武真太郎を獲得した。

2007年5月2日に行われたナゴヤドームの中日5回戦でプロ野球史上初となる球団通算5000勝を達成した。また2軍も5月29日のヤクルト戦でイースタンリーグ史上初の通算2000勝を達成した。これまで主にクリーンナップを打っていた高橋由伸を1番に、怪我で出遅れていた上原浩治を先発からクローザーとして起用するなどの大胆な配置転換を行った。これが成功し、前年のような大型連敗もなく安定した戦いを続けた。鬼門だった交流戦も2位でクリア。そして9月23日の横浜戦に勝利し、この年から導入されたクライマックスシリーズの出場権をセ・リーグ一番乗りで獲得。中日・阪神との三つ巴のデッドヒートの末、優勝マジックナンバーが1となってむかえた10月2日のヤクルト戦、9回裏二死満塁から、清水隆行の遊撃内野安打と、宮本慎也の一塁悪送球の間に二塁走者が生還し、サヨナラ勝ちで5年ぶりのリーグ優勝を達成した。しかし、同年より導入されたクライマックスシリーズ第2ステージで、第1ステージで阪神を2連勝で破った中日に0勝3敗でストレート負けを喫し、史上初の「リーグ優勝しながら日本シリーズに出場できないチーム」となってしまった[13]。このため恒例の銀座での優勝パレードも中止となった(巨人はこれまでリーグ優勝しても日本一になれなかった場合は優勝パレードを行ってこなかったが、日本シリーズ不出場による優勝パレード中止はこれが初である)。また、2軍も9月21日のヤクルト戦に勝利しイースタンリーグ優勝を飾ったが、9月29日に行われたファーム日本選手権では中日に2-7で敗れ、こちらも日本一はならなかった。

球団は、期待不足に終わったGGジェレミー・パウエルデーモン・ホリンズの外国人3選手を自由契約とすると、ロッテを自由契約になった藤田宗一投手、横浜を自由契約となったマーク・クルーン投手、ヤクルトから自由契約となったセス・グライシンガー投手およびアレックス・ラミレスを獲得した。

2008年はオープン戦から主力選手の故障、台頭した坂本勇人を除いた若手の伸び悩み等でなかなか満足な試合運びを出来ず、黒星を重ねていった。ペナントレース開幕直後もチームはオープン戦の不調を引きずり、開幕戦となる3月28日のヤクルト戦(神宮球場)から4月2日の中日戦(東京ドーム)まで、球団ワースト記録となる開幕5連敗を喫した。開幕戦で4番打者を務めた李承燁、昨年のクローザーから先発に復帰した上原浩治が共に不調で二軍降格するなど戦力が揃わず開幕ダッシュに失敗した。だが、交流戦あたりから調子を上げはじめ、若手の積極的な起用策が功を奏し、後半戦も順調に勝ち星を重ね、7連勝中の9月19日から首位阪神に3連勝、最終的に球団32年ぶりの12連勝を記録するなど猛追し、同率で迎えた10月8日の最終直接対決で勝利し単独首位に立ち、10日に接戦の末にセ・リーグ記録となる最大13ゲーム差[14]からの逆転優勝を果たした。11.5ゲーム差を逆転し「メークドラマ」と呼ばれた1996年の優勝時以上の大差を逆転したことから、マスコミ等は、「メークレジェンド」と呼んだ。

クライマックスシリーズでは、第2ステージで中日ドラゴンズと対戦、アドバンテージの1勝を含む3勝1敗1分で勝ち抜けし、2002年以来の日本シリーズへの出場を決めるが、3勝4敗で埼玉西武ライオンズに敗れた。

2009年シーズンは、原辰徳監督が2009 ワールドベースボールクラシック日本代表監督に就任したこともあり、オープン戦は伊原春樹ヘッドコーチが監督代行を務めた。シーズンに入ると、坂本を1番打者、松本哲也を2番打者に固定するなど選手起用が当たり、開幕8試合目で首位に立つとそのままシーズンを乗り切り、2009年9月23日の対中日ドラゴンズ戦に5-3で勝利し、1965年~1973年のV9時代以来となる3年連続の33回目のセントラルリーグ優勝を決める[15]クライマックスシリーズでは、第2ステージで中日ドラゴンズと対戦、アドバンテージの1勝を含む3勝1敗で勝ち抜けて日本選手権シリーズに出場を決めた。1981年の後楽園シリーズ以来となった北海道日本ハムファイターズとの日本選手権シリーズは、4勝2敗で勝利し、2002年以来、7年ぶり21回目の日本一を獲得した。11月14日には長崎で行われた韓国シリーズ勝者起亜タイガースとの日韓クラブチャンピオンシップに勝利、日韓王者に輝いた。

2010年は開幕直後に前年限りで現役引退しコーチとなっていた木村拓也が試合前の練習中にくも膜下出血を発症して急死、野手では亀井義行、投手ではゴンザレスが不調でグライシンガーも故障で長期離脱だったが、ルーキーの長野久義を加えた強力打線は相変わらずで開幕からしばらくの間は先発投手陣も好調であり、首位に立っている時期も長かったが、7月以降は相次いで好調だった先発投手陣が不調に陥り[16]、野手陣でも坂本と松本が調子を落としてしまう。また、この年のクローザーのマーク・クルーンが不振に陥り、抑え投手がたびたび変わるなど中継ぎ投手陣も安定しなかった。それでも最後まで首位争いに絡み続けるが、前述の投手陣の低迷とナゴヤドームの中日ホームゲームで2勝10敗と大きく負け越したのが尾を響き、優勝した中日と1ゲーム差ながら3位に終わる。クライマックスシリーズでは第1ステージで阪神に2連勝し勝ち上がるものの、続く第2ステージでは中日相手に1勝4敗で敗れ敗退している。

2011年、この年は3月11日に発生した東日本大震災の影響で開幕が3月25日から4月11日に延期。開幕戦は山口県の宇部市野球場で行われ[17]、巨人初の地方球場での主催試合開幕となった。また電力の節電要請で4月の東京ドームの使用を自粛、延期になった分を含めて大幅に試合日程が変更となっている。この年から導入された統一球の影響で、小笠原とラミレスが不調に陥り、打撃陣全体の長打力も2010年までと比べると激減(特に本塁打)するなど、打撃陣が不振に陥った。一方で投手陣はルーキーの澤村拓一が4月21日に初勝利を挙げるなど、先発投手陣が引っ張った。その反面、前半は抑え投手が固定出来なかったこと、阿部が開幕時にケガで離脱したこと、獲得した多くの外国人選手が活躍できなかったこともあり、オールスターまでの前半戦はBクラスに低迷することとなった。後半戦に入り抑え投手に久保裕也が固定できたことなどで8月に7連勝するなど調子を上げていく。終盤は阪神との3位争いとなったが、10月の阪神、中日との6連戦を5勝1敗として、クライマックスシリーズ進出を決め、最終的には首位から3.5ゲーム差の3位で終えている。クライマックスシリーズはヤクルトと対戦するが、先発投手が好投するも継投でつまづき、1勝2敗で敗退している。打撃陣では長野が首位打者、藤村大介盗塁王のタイトルを獲得している。11月11日、ヘッドコーチ人事を巡って球団代表の清武英利が球団会長の渡邉恒雄が不当に介入したとして渡邉を告発する問題が起きた。清武はこれを理由に18日付で職を解任されている(詳細は清武英利による渡邉恒雄告発問題参照)。このオフ、FAで横浜DeNAベイスターズから村田修一を、ソフトバンクから杉内俊哉をそれぞれ獲得。その一方でラミレス、グライシンガー、大村三郎らが退団(ラミレスは横浜DeNAに、大村とグライシンガーはロッテにそれぞれ移籍)。

チーム成績・記録

  • チームに関する記録に関してのみ記載する、所属選手・監督の個人記録に関しては各個人のページ参照。
  • 特に断りのない場合は2006年シーズンまでの数値。

試合、勝敗、勝率に関する記録

1950年以降の順位の変遷。赤い丸は日本シリーズ優勝を示す
  • 優勝 42回(日本プロ野球記録)
    • (1936年秋 - 1937年春、1938年秋 - 1943年、1949年、1951年 - 1953年、1955年 - 1959年、1961年、1963年、1965年 - 1973年、1976年 - 1977年、1981年、1983年、1987年、1989年 - 1990年、1994年、1996年、2000年、2002年、2007年 - 2009年)
  • 日本一 21回(日本プロ野球記録)
    • (1951年 - 1953年、1955年、1961年、1963年、1965年 - 1973年、1981年、1989年、1994年、2000年、2002年、2009年)
  • 連続優勝最長記録 9年(日本プロ野球記録)
    • (1965年 - 1973年)
  • Aクラス 69回
    • (1936年秋 - 1946年、1948年 - 1961年、1963年 - 1974年、1976年 - 1978年、1980年 - 1990年、1992年 - 1996年、1998年 - 2004年、2007年 - 2011年)
  • Bクラス 8回
    • (1947年、1962年、1975年、1979年、1991年、1997年、2005年 - 2006年)
  • 連続Aクラス入り最長記録 14年(1948年 - 1961年)
  • 連続Bクラス最長記録 2年(2005年 - 2006年)
  • シーズン最多勝利 92勝(1955年)
  • シーズン最多連勝 15連勝(1951年7月16日 - 8月3日)※1引き分けを挟む
  • シーズン最多敗戦 80敗(2005年)
  • シーズン最多連敗 11連敗(1975年9月4日 - 11日)
  • シーズン最多引分 16引き分け(1978年)
  • シーズン最高勝率 .769(1938年秋)(2リーグ制以降.731 1951年)
  • シーズン最低勝率 .382(1975年)
  • 通算試合 8748試合(日本プロ野球記録・2リーグ制以降7527試合)
  • 通算勝利 4982勝(日本プロ野球記録・2リーグ制以降4199勝)
  • 通算敗戦 3503敗(2リーグ制以降3093敗)
  • 通算引分 263引き分け(2リーグ制以降235引き分け)
  • 通算勝率 .587(日本プロ野球記録・2リーグ制以降.576)
  • 最小ゲーム差 0.0ゲーム(1974年、1986年)
  • 最大ゲーム差 27.0ゲーム(1975年)
  • 最長試合時間 5時間42分(2004年8月20日対広島東洋カープ)
  • 最短試合時間 1時間14分(1951年3月31日対大阪タイガース)

チーム打撃記録

  • 通算本塁打 8402本(日本プロ野球記録・2リーグ制以降7829本)
  • シーズン最多得点 738得点(2004年)
  • シーズン最多安打 1332本(2004年)
  • シーズン最多2塁打 221本(1953年)
  • シーズン最多3塁打 57本(1946年)
  • シーズン最多本塁打 259本(2004年・日本プロ野球記録)
  • シーズン最多塁打 2340本(2004年・日本プロ野球記録)
  • シーズン最少本塁打 1本(1936年秋)
  • シーズン最多打点 719打点(2004年)
  • シーズン最多盗塁 212盗塁(1950年)
  • シーズン最多犠打 144犠打(1990年)
  • シーズン最多犠飛 43犠飛(1978年)
  • シーズン最多四死球 591個(1950年・日本プロ野球記録)
  • シーズン最多三振 1083三振(2004年)
  • シーズン最高打率 .292(1952年)
  • シーズン最低打率 .208(1943年)(2リーグ制以降.227 1961年)
  • ゲーム最多得点 26得点(1946年8月31日対中部日本軍、1948年10月16日対大陽ロビンス)
  • ゲーム最多安打 27本(1948年10月16日対大陽ロビンス)
  • ゲーム最多2塁打 11本(1948年10月16日対大陽ロビンス・日本プロ野球記録)
  • ゲーム最多3塁打 4本(1947年8月16日対阪急ブレーブス、1957年8月27日対大洋ホエールズ)
  • ゲーム最多本塁打 8本(1984年7月4日対ヤクルトスワローズ、1984年9月4日対中日ドラゴンズ、1985年6月28日対阪神タイガース)
  • ゲーム最多塁打 59本(1948年10月16日対大陽ロビンス)
  • ゲーム最多打点 25打点(1948年10月16日対大陽ロビンス)
  • ゲーム最多盗塁 5盗塁(1943年4月11日対西鉄軍、1951年9月12日対国鉄スワローズ)
  • ゲーム最多犠打 4犠打(1952年2度、1966年1度、1987年1度)
  • ゲーム最多犠飛 4犠飛(1939年10月8日・日本プロ野球記録)
  • ゲーム最多四死球 16個(1946年8月31日対中部日本軍)
  • ゲーム最多三振 17三振(2004年8月1日対阪神タイガース)
  • イニング最多得点 13得点(1972年6月23日対ヤクルトアトムズ6回・日本プロ野球記録)
  • イニング最多安打 10本(1941年5月11日対阪急軍4回、1951年8月8日対広島カープ7回)
  • イニング最多2塁打 6本(1948年10月16日対大陽ロビンス5回・日本プロ野球記録)
  • イニング最多3塁打 4本(1947年8月16日対阪急ブレーブス3回・日本プロ野球記録)
  • イニング最多本塁打 4本(1985年9月9日対横浜大洋ホエールズ4回、1987年5月12日対阪神タイガース7回、1999年7月31日対広島東洋カープ1回、2000年6月21日対中日ドラゴンズ7回)
  • イニング最多塁打 18本(1948年10月16日対大陽ロビンス5回)
  • イニング最多打点 13打点(1972年6月23日対ヤクルトアトムズ6回・日本プロ野球記録)
  • イニング最多盗塁 5盗塁(1937年5月16日対名古屋金鯱軍1回)
  • イニング最多犠打 3犠打(多数)
  • イニング最多犠飛 2犠飛(多数)
  • イニング最多四死球 8個(1959年10月20日対中日ドラゴンズ5回)
  • イニング最多三振 4三振(2004年8月1日対阪神タイガース2回)
  • 最多連続得点 10得点(2003年4月27日対横浜ベイスターズ8回)
  • 最多連続試合得点 174試合(1980年8月4日 - 1981年9月20日)
  • 最多連続イニング無得点 31イニング(1985年6月5日対阪神タイガース4回 - 6月8日対中日ドラゴンズ7回)
  • 最多連続打席安打 9打席(1996年7月9日対広島東洋カープ2回・日本記録)
  • 最多連続打数安打 9打数(1954年9月29日対広島カープ1回、1四球を挟む)
  • 最多連続イニング安打 21イニング(1985年7月10日対中日ドラゴンズ6回 - 7月16日対横浜大洋ホエールズ1回・日本記録)
  • 最多連続試合本塁打 33試合(2004年4月2日 - 5月12日、開幕からの連続記録)
  • 最多連続イニング本塁打 6イニング(1967年10月10日対広島カープ2回 - 7回)
  • 最多連続本塁打 3人(通算5度)
  • 最多連続打数本塁打 4人(1四球を挟む)
  • 最多連続四死球 5人(1963年5月3日対国鉄スワローズ2回、1964年4月7日対国鉄スワローズ9回)
  • 最多連続試合盗塁 16試合(1951年7月29日 - 8月9日)

チーム投手記録

  • シーズン最多被安打 1427本(2005年)
  • シーズン最多被本塁打 193本(2004年)
  • シーズン最多与四死球 529個(1978年)
  • シーズン最多奪三振 1123個(2003年)
  • シーズン最多失点 737点(2005年)
  • シーズン最高防御率 1.38(1943年)
  • シーズン最低防御率 4.80(2005年)
  • ゲーム最多被安打 25本(1994年9月10日対広島東洋カープ)
  • ゲーム最多被本塁打 8本(1949年4月26日対大映スターズ)
  • ゲーム最多与四死球 16個(1985年7月30日対広島東洋カープ)
  • ゲーム最多奪三振 16個(1967年6月7日対大洋ホエールズ、1994年8月13日対阪神タイガース)
  • ゲーム最多失点 19点(1994年9月10日対広島東洋カープ、2003年6月11日対ヤクルトスワローズ、2003年9月16日対中日ドラゴンズ)
  • イニング最多被安打 10本(1994,1997,1998,2003に4度)
  • イニング最多被本塁打 3本(多数)
  • イニング最多与四死球 10個(1978年7月6日対広島東洋カープ)
  • イニング最多奪三振 4個(1997年7月4日対阪神タイガース3回、2005年4月6日対横浜ベイスターズ6回)
  • イニング最多失点 12点(2003年9月16日対中日ドラゴンズ6回)
  • 最多連続試合完封勝利 4試合(9度・日本記録)
  • 最多連続イニング無失点 50イニング(1966年6月15日 - 6月22日)
  • 最多連続試合被本塁打 18試合(2001年8月11日 - 9月2日)

チームの特徴

球団名

  • ニックネームの「ジャイアンツ」はアメリカメジャーリーグのニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)から取り、創設時には東京ジャイアンツと名乗った。
    • 現在でもアメリカのマスコミや日本の英字新聞などではTokyo Giantsと呼称される事がある。

呼称について

戦前から、「ジャイアンツ」を日本語に意訳した愛称「巨人軍」が用いられている。球団の運営会社は現在も「株式会社読売巨人軍」である。球団広報等では、多く球団の自称に「巨人軍」を用いている。

野球規約上定められている球団呼称は「読売ジャイアンツ」であるが、テレビ放送などでは、一般には日本野球機構の球団名を漢字2字で表す慣習から、「軍」を略して「巨人」と呼ぶことが多い。読売グループを含めた全てのマスコミが「読売」と略称せず「巨人」と称するのは、他球団と異なり「巨人」という和名的愛称が広く定着しているためである。ただし、ドラフト会議においては「読売」と呼称されている。例えば自軍主催試合ではチケットの印字など他球団の表記も略称を使っている場合には「巨人」と表記され、場内アナウンスなど他球団でも球団呼称を使用する場合には「読売ジャイアンツのスターティングラインナップをお報せいたします」などのように使用されている。したがって、本球団を指す呼称は「巨人」および「読売ジャイアンツ」の両方とも正しい事が明らかであるため、どちらか一方のみの呼称が正しいとするのは適切ではない。なお、読売巨人軍を指して「巨人」と言った場合、アクセントは「きょじん」の「きょ」に置かれる。他球団の応援スタイルで「○○倒せーオー」とコールする際、「巨人を倒せーオー」とはコールせず、「読売倒せーオー」とコールすることが多い。

マスコット

  • 初代マスコットはミスタージャイアンツ。長嶋茂雄が「ミスタープロ野球」と呼ばれているのは、敬意の他にこのマスコットと混同しないという目的も当初あったが現在ではそう呼ばれることが自然となっている。ミスタージャイアンツは長嶋茂雄の太い眉、王貞治の大きな目、川上哲治の太鼓腹がモチーフになったと言われている[18]。デザインを手掛けたのは、相沢光朗[19]。後に漫画家森田拳次雑誌『少年』で、このキャラを主人公とする漫画コミカライズ版)を手掛けた(同年4月号〜1967年頃まで連載)。
  • 2代目はバットに乗りボールに帽子と顔と手足を足した「バットに乗った少年」で、1980年から1991年までの12年間の長きにわたり使用された。
  • 3代目は1992年から今日まで使われている「ジャビット」である。これはチームのロゴマークであるYGの組み合わせに、ウサギを絡ませたものである。また、「ジャビットファミリー」として5人のキャラクターが登場する。2007年からそれぞれ個別のキャラに愛称がつけられた([2]を参照)。
  • 2006年からエンブレムが変更、都会のシルエットの中に「G-KING」という巨人が描かれたものになった。マスコットはジャビットのままである。
  • 2011年1月11日からエンブレムを「ウイニングジャビット」に変更した。

応援スタイル

ジャイアンツの応援は、それぞれの地域の私設応援団の先導によって行われる。声援とメガホンか手拍子で応援するスタイルとなっている。 ただし、応援団としてはメガホンを使用しない応援スタイルを採用している。 なお、2010年シーズンまで活動していた東京読売巨人軍応援団(東京)は、東京団員1名が、野球観戦チケットの不正転売を行い、試合観戦契約約款や特別応援許可規程に違反していたことがわかり、その責任を取って東京の応援団は自主解散した。 新設される読売ジャイアンツ応援団東京読売巨人軍応援団の伝統とスタイルを引き継いで応援活動を行うとしている。 これにより関東圏は読売ジャイアンツ応援団・北海道は東京読売巨人軍応援団北海道・関西圏は読売ジャイアンツ応援団大阪・中国や四国及び九州は読売巨人軍応援団GLOVE(広島・九州)がそれぞれの地域を先導する。

応援時の格好は他球団同様、ホーム、ビジター用のユニフォームやシャツを着ることが多いが、ホームゲームにおいてビジター用のユニフォームやシャツを着ていたり、すでに退団した監督・コーチ(木村拓也など)・選手(特に松井秀喜)のユニフォームやシャツ、松井が2009年まで所属していたニューヨーク・ヤンキース(松井のロゴが入っているもの)のユニフォームやシャツを着ていることも多くその統一性はあまり高くない。

2003年、応援団が暴力団からの依頼で外野自由席の席取りを行っていたことが社会問題化し刑事事件に発展した。

その他

  • 監督は創立当初を除けば全てチームの生え抜き選手が就任しており、他球団OBが監督になっていない唯一の球団である(球団創立時の初代監督:藤本定義はプロ選手の経験がないので他球団OBではなく、巨人軍生え抜き扱いになる)。
  • 1949年セ・リーグ成立以降、1950年から2009年の60回のうちリーグ制覇は33回。
    川上哲治監督の下でV9を達成した第三期黄金時代(1965(昭和40年) - 1973(昭和48)年)以降、長嶋茂雄第一次監督時代から現在の原辰徳第二次監督時代までの35年間、セ・リーグを13回(そのうち日本シリーズ制覇は6回)制覇している。
  • パ・リーグで大映が毎日に吸収合併され大毎となり6球団制となった1958年から近鉄がオリックスに吸収合併されて近鉄が消滅した2004年までの47年間、パ・リーグの当時の6球団全てと日本シリーズで対戦していた(日本一も6球団全てで経験)。巨人が日本シリーズで敗北したことがあるのは西武(西鉄)とオリックス(阪急)、南海(現-ソフトバンク)の3球団。西武(西鉄)との相性は悪く、西鉄時代からの対戦成績は3勝7敗と大きく負け越している。

ユニフォームの変遷

創立〜水原監督時代

  • 1935年 球団創立(大日本東京野球倶楽部)時の第一次米国遠征では、背番号を漢数字にしたユニホームが使われた。左胸には「日の丸」をあしらったマークで「TOKYO」の文字が入り、右袖に(背)番号、左袖に漢字で「日本」と入る。色はグレー地。帽子は濃紺色でマークはオレンジで「T」。
  • 1936年 - 1937年 球団名が「東京ジャイアンツ」になり、第二次米国遠征。背番号は普通のアラビア数字に、胸のレターが花文字(一般に早稲田型ロゴという)で上に「TOKYO」下に「GIANTS」の2段組になっている。色はグレー地。帽子は濃紺色でマークは金糸で「G」。帰国後は白地で胸に黒で「GIANTS」、帽子は白に濃紺のつばに黒の「G」マーク。グレー地で同じ物が作られ、これを着用するときは帽子は濃紺色、「G」マークは赤に白を縁取った七宝焼きで出来ていた。どちらも袖に黒のダブルライン、パンツはシングルのサイドラインになっている。
  • 1938年 - 1940年 白いユニフォームをマイナーチェンジし、パンツのサイドラインをダブルに変更。このユニフォームが戦後V9を達成したときのユニフォームの原型となる。
  • 1941年 太平洋戦争勃発の年、軍事色が濃くなりユニフォームの胸のレターも「GIANTS」から漢字の「巨」に変更された。白地とグレー地の二種類があり、帽子のマークも「巨」、国防色の戦闘帽タイプも作られた。
  • 1945年 - 1947年 白地に胸にエンジ色ないしは黒で「GIANTS」と入った二種類のユニフォームが作られ、左袖には読売新聞社の当時の社章が付いた。
  • 1947年 - 1949年 戦前のユニフォームに近いスタイルに戻る。1936年 - 1937年に使用されたユニフォームに近いが、パンツのサイドラインがダブルになっている。白地とグレー地があるがグレー地のパンツには腰に番号(背番号と同じ)が入る。
  • 1950年 日本で初めて野球ユニホームにラグランスリーブを採用する[20]
  • 1951年 - 1952年 白地に胸ロゴ・背番号とも赤色の、子供受けを狙ったデザインが使用される。1951年途中から戦後から続いていた前立てラインが消えシンプルになった。ビジター用の左袖に初めて「TOKYO」の文字が入る。
  • 1953年 - 1960年 MLBニューヨーク・ジャイアンツ(NYG)を真似てチームカラーをオレンジと黒とし、胸のロゴも従来の花文字からNYGと同じ書体に変わったが、このユニフォームはウィルソン社製のもの(戦前、第二次米国遠征に使用したものと同じく、二段組みで「TOKYO GIANTS」と表記した胸ロゴが入ったものも作られた)だけで、日本社製のものは従来の花文字が使用された。この年からビジター用の胸に「TOKYO」のロゴが入り、左袖に「GIANTS」と入ったユニフォームがお目見えした。ホームは白地、ビジターはグレー地だった(先述のウ社製のホーム用には、胸に「TOKYO」が入ったものも使用された)。この年の帽子のマークは東京の「T」とジャイアンツの「G」を組み合わせた「TGマーク」だったが、翌年に現在まで使用され続けているYGマーク(YとGを重ねたマーク)が登場する。
  • 1959年、9月に、ライン・背番号・胸マークの縁を赤色にしたホーム用を採用。シーズン終了まで使用。翌年開始予定のカラーテレビ放送の試験放送に合わせての採用。
  • 1960年6月11日の対広島カープ戦からシーズン終了まで、カラーテレビ用として、帽子のつばに朱色、胸のロゴ・背番号に赤色・白縁・黒縁を取り入れたユニフォームが使用された。またこのユニフォームより胸ロゴの下に胸番号が付いた。
    • ホーム用は、白地のままだと、当時のカラーテレビではハレーションを起こすため、ベージュ地のユニフォームが採用された。

川上監督時代〜第二次藤田監督時代

  • 1961年 - 1974年 最も長期間にわたって使用されたデザイン(2012年現在)。黒とオレンジの組み合わせに戻り、ホーム用がクリーム地、ビジター用がブルーグレーになり、首、パンツに黒とオレンジのダブルのラインが入る。また首、ベルトループに黒とオレンジのラインが入り、川上哲治監督率いるV9時代(1965〜1973年)に象徴される常勝巨人のシンボルとなる。長嶋茂雄引退、川上哲治監督勇退の1974年まで使用された。1972年頃、伸縮性に優れたニット生地に切り替わっている。
  • 1975年 - 1980年 長嶋茂雄監督就任に伴い、「GIANTS」「TOKYO」(胸ロゴ・左袖ロゴ)の書体がサンフランシスコ・ジャイアンツと同タイプのものになり、胸番号・背番号の書体も変わる。さらに首のライン、両袖およびパンツのラインがシングルになり太くなる。
    • 1976年より、ホーム用の左袖の「TOKYO」ロゴが「YOMIURI」に変わり、背番号の上に選手名が入る。
  • 1981年 - 1992年 藤田元司監督就任に伴い、V9時代のタイプに戻る。マイナーチェンジを繰り返し、基本デザインは1992年まで使用された。
    • 1984年のみ、球団創立50周年エンブレムが右袖に入る。
    • 1986年より、ボタン式からプルオーバー式のVネックになる。
    • 1990年より、ホーム用がクリーム地からオフホワイト地に変わる。

第二次長嶋監督時代

  • 1993年 - 2005年 長嶋茂雄監督復帰により、モデルチェンジ。プルオーバー式からボタン式に戻り、首元から胸にかけてのラケットラインが入り、ベルトループのラインが消える。また、ビジター用がグレー地に変更され、帽子も黒からミッドナイトブルー(濃紺)に変更される。
    • 1994年は球団創立60周年エンブレム、1995年1997年は前年のリーグ優勝を記念したエンブレム、1996年はチームスローガン(チャレンジ)エンブレムをそれぞれ右袖に入れた。これらは全て、マスコットのジャビットをあしらったものである。
    • 1997年 - 2001年頃、二軍のみ、コナミスポンサーについたため、左袖の「YOMIURI」ロゴの上に、コナミのロゴが入ったワッペンがついた。
    • 2001年、ホームゲーム3連戦の2日目に選手名を外す「バックナンバーデーユニフォーム」を採用。
    • 2002年 - 2004年 オープン戦や公式戦の試合前の練習用に限定したセカンドユニフォームをホーム、ビジター共に2004年まで使用。さらに2002年7月1日より、読売グループの組織変更に伴い、球団を運営する会社が株式会社よみうりから株式会社読売巨人軍に移行(詳細は後述参照。)した為、ビジター用の胸ロゴが「TOKYO」から「YOMIURI」に変わり、胸番号・背番号の書体がImpact体に変わる。
    • 2005年、ビジター用の胸ロゴが「YOMIURI」から、帽子と同一のYGマークが左胸につき、胸番号は右腹部に移る。

第二次原監督時代

  • 2006年 - 原辰徳監督復帰に伴い、1975年以来31年続いたデサント社製からアディダス社製になる。同時にデザイン変更。ホーム、ビジター共パンツにアディダスの3本線、右胸にアディダスのブランドロゴが入り、細めのストライプシャドー(3本線の縦縞)が入る。胸ロゴが早稲田書体から変更になり、同時に選手名の書体も変わり。背番号の大きさがやや小ぶりになる。また帽子のツバのふちがオレンジ色になる。
    • ホーム用は、基本的にデザインは変わらない。
    • ビジター用は、上着が黒、パンツがライトグレー(白色に近い)になり、ビジター用の胸ロゴも「GIANTS」となり、胸ロゴ・胸番号・背番号がグレーに白の縁取りとなる。
    • 2007年より、主将の右袖にキャプテンマークが入る。
      • 2006年 - 2007年、日曜日・祝日のホームゲーム限定で、デザインは白色ベースに「Giants」の筆記体文字(2002年 - 2004年に採用されたビジター用セカンドユニフォームで使われたものと同じロゴ)が取り入れられて、胸番号・背番号がゴシック風斜体のユニフォームを併用して使用。
    • 2008年、当初交流戦のビジターゲーム限定で、ホーム用に似た、上下とも白に近いライトグレーのものを使用。両腋部に黒のカッティングが施されている。交流戦終了以降のビジターゲームでも使用され、2009年より正式に採用されることになった。
    • 2010年のビジター用は上下ともにダークグレーとなり、脇のカッティング部も同色となった。この地色は前年に着用された「75周年記念ユニホーム」(後述の限定版ユニホーム参照)に使用されたものをベースとしている。
    • 2011年からはビジター用の地色が「ライトオニキス」と呼ばれる明るいグレー色を採用。また、原辰徳監督自身の発案により東日本大震災犠牲者追悼と被災地復興への祈りを込めてホーム・ビジター両方のユニホーム左袖に黒のリボン(喪章)を縫い付けることとなった[21]

限定版ユニフォーム

  • 2007年5000勝達成記念として東京ドーム6月8日 - 6月11日に行われた東北楽天ゴールデンイーグルス北海道日本ハムファイターズとの交流戦で9年連続日本一を決めた時代のユニホームをモチーフにした復刻ユニホームを着用した(詳しくは後述する)。
  • 2009年、球団創立75周年記念行事の一環として、大日本東京野球倶楽部時代の第二次アメリカ合衆国遠征で採用されたユニホームを復刻し、7月7日〜7月9日の対横浜ベイスターズ3連戦(於:東京ドーム)にて一軍登録全選手が着用して試合に臨んだ[22]
    • 当時のユニフォームとの違いは、シャドウストライプが入っていることと、右袖にアディダスのロゴマーク(黒色)が入っていること。また、ヘルメットは2009年現在のものをそのまま使用する。
  • 2010年7月19日からの対東京ヤクルトスワローズ3連戦限定で、中学生以下のファンによるユニホームデザインコンテストでグランプリを獲得したものを基にしたユニホームを採用する。採用されたデザインは埼玉県在住の女子中学生による「ジャイアンツ スターズ」で、星と稲妻がちりばめられている。左胸に番号に入り、その下に「GIANTS」ロゴが入る。
  • 同年8月にセ・リーグ主催で行なわれる「オールドユニホームシリーズ」では、2リーグ分裂後の1950年当時のものが復刻された。
  • 2012年、読売巨人軍と読売新聞社は、巨人軍のオフィシャルパートナーであるアディダスジャパン株式会社とともに、新たなプロジェクト「橙魂(とうこん)2012」を実施する。下記7試合で監督・コーチ・選手がオレンジのユニホームを着用して試合を行う。5月16・17日のオリックスとの交流戦開幕カードと7月12日の広島戦では、選手と同じデザインのレプリカユニホームが来場者全員にプレゼントされる。また、監督・コーチ・選手が着用したユニホームは、慈善オークションに出品して震災復興のための義援金とする予定。

対象試合[23]

  • 4月29日 阪神戦
  • 5月16・17日 オリックス戦
  • 6月10日 ロッテ戦
  • 7月12日 広島戦
  • 8月19日 広島戦
  • 8月30日 中日戦

球団旗の変遷

  • 1935年 - 1940年:えんじ色地に白文字で「G」
  • 1940年 - 1944年:戦時中に軍部より英語禁止令が出たため、「G」の部分を巨人の「巨」に変更。えんじ色地に白文字で「巨」
  • 1946年 - 1949年:白地にえんじ色の文字で「G」
  • 1950年 - 1959年:2リーグ分裂を機に球団旗を変更。えんじ色地に白文字で中央に「G」、「讀賣」の文字が加わる。「讀 G 賣」
  • 1960年 -:えんじ色地に白文字。左上に「読売」、右下に大きく「G」

ユニフォーム等のスポンサー

  • セ・リーグでは2006年からホーム用ユニホームにスポンサーロゴの掲示を認めているが、ジャイアンツでは同年よりユニホームサプライヤーであるアディダスがスポンサーとなり、ロゴを右胸(限定ユニホームなどでは右袖に掲示する場合あり)に掲示している。ヘルメットは12球団で唯一、スポンサー掲示をしていない(代わりにチームスローガン「GIANTS PRIDE」が入る)。
  • 公式戦主催ホームゲームは全試合を「伊藤ハムシリーズ」と題して開催し、「小さな時からジャイアンツ・小さな時から伊藤ハム」を合言葉に、東京ドームの1・3塁側1階席と2階席の仕切りにある広告看板に伊藤ハムの商品の広告看板を掲げている。かつては中畑清らをCMモデルに起用した。(1986年までは明治製菓がそれを担当し、「Meijiチョコレート」などの看板を掲げており、チケットや後楽園球場のバックネット裏の看板にも「明治スイートシリーズ」と銘打たれた公式戦であった)

歴代本拠地

二軍の本拠地

歴代監督

太字は優勝達成監督

※1 ここから東京巨人軍
※2 ここから読売ジャイアンツ
※3 1949年は4月15日まで指揮、7月23日に復帰するまでは中島治康が代行

永久欠番

  • 1王貞治(1989年 - )
    • 本塁打世界新記録(868本)の功績を称えて決定。巨人では選手、助監督そして監督と通算30年使用していた。1人の人物が同じ背番号を30年続けて使用した例は他にない。
  • 3長嶋茂雄(1974年 - )
    • 第二次監督時代の2000年から2年間復活した。
  • 4黒沢俊夫(1947年 - )
    • 現役中に腸チフスで死去。後述の沢村と共に球界初の永久欠番となった。
  • 14沢村栄治(1947年 - )
    • 太平洋戦争で戦死。戦後今泉勝義坂本茂がつけていたが、上記黒沢と同時に永久欠番となった。
  • 16川上哲治(1965年 - )
    • 引退後も着用していたが、1965年1月の野球殿堂入り決定後に永久欠番になった。当時監督だった川上はこの年から背番号を77に変更。
  • 34金田正一(1970年 - )
    • 球界初の通算400勝の功績を称え制定。

尚、2006年シーズン開幕よりこれら永久欠番の選手のユニフォームを模った(背番号のみで選手名ローマ字表記は無し)像を東京ドームの外野スタンド後方部の支柱部に設置。除幕式が同年開幕戦に行われ、本人や遺族等が招かれた。当時福岡ソフトバンクホークス監督だった王は現場を離れられないと言う事で次女の王理恵が代理出席。なお、黒沢の遺族は消息がつかめなかったという。

2007年現在、期間限定で、現在のホームユニフォームをアレンジした形で、ジャイアンツの公式ホームページの通販コーナーで予約発売している。

完全試合・ノーヒットノーラン達成者

読売ジャイアンツでは球団史上2人の投手がこれまでに完全試合を、9人の投手が延べ12回ノーヒットノーランを達成している。

完全試合達成投手

年月日 選手名 スコア 相手 球場
1950/06/28 藤本英雄 4-0 西日本 青森市営
1994/05/18 槙原寛己 6-0 広島 福岡ドーム

ノーヒットノーラン達成投手

年月日 選手名 スコア 相手 球場
1936/09/25 沢村栄治 1-0 タイガース 甲子園
1937/05/01 沢村栄治 4-0 タイガース 洲崎
1937/07/03 ヴィクトル・スタルヒン 4-0 イーグルス 洲崎
1939/11/03 中尾輝三 1-0 セネタース 後楽園
1940/07/06 沢村栄治 4-0 名古屋金鯱 西宮
1941/07/16 中尾輝三 3-0 名古屋金鯱 後楽園
1943/05/22 藤本英雄 3-0 名古屋 後楽園
1952/07/26 大友工 17-0 松竹 大阪
1967/10/10 堀内恒夫 11-0 広島 後楽園
1968/05/16 城之内邦雄 16-0 大洋 後楽園
1970/05/18 渡辺秀武 2-0 広島 後楽園
1976/04/18 加藤初 5-0 広島 広島

参考記録

1971/09/06 菅原勝矢 4-0 ヤクルト 神宮

7回表1死降雨コールドゲームの為、セ・リーグ参考記録

史上初のノーヒッター

ノーヒットノーランの日本プロ野球第1号達成者は東京巨人軍(当時)から誕生した。巨人軍の当時の豪腕投手だった沢村栄治1936年9月25日甲子園で開いた秋季大阪1次リーグ戦・大阪タイガースとの対戦で達成したもので、沢村は翌1937年5月1日洲崎で開かれた春季戦・タイガース戦、更に1940年7月6日西宮で開かれた名古屋戦の都合3回ノーヒットノーランを達成。これは戦後達成した外木場義郎広島)と並ぶ日本プロ野球最多タイ記録である。

完全試合

日本プロ野球において完全試合を達成した選手はわずかに15人。1936年から職業野球連盟に加盟しているジャイアンツで完全試合を達成したのは2人である。

日本球界初の完全試合を決めたのは藤本英雄。1950年6月28日青森市営野球場で開かれた西日本との一戦で自身2度目(戦前の1943年にも名古屋戦で達成)のノーヒットノーランを完全試合で飾った。日本球界初の偉業でありながら、北海道遠征の帰路だったため取材記者が4人、カメラマンは誰もいなかったこともあって報道の扱いは小さく、また新聞も製紙事情からページを割くことが出来ず、写真も掲載されなかった。

そして20世紀最後の完全試合を決めたのが槙原寛己である。1994年5月18日福岡ドームで開かれた広島戦。ジャイアンツ創設7000試合目の公式戦となった試合で、槙原はそれに花を添える史上15人目、1978年今井雄太郎阪急)以来のパーフェクトを達成。

逆に、ジャイアンツが完全試合を達成されたことは70余年の球団史上一度もない。

歴代の球団歌・応援歌

読売ジャイアンツには球団歌と応援歌の2つの定義があり、球団歌は現在までに3曲が制定されている。それに対して応援歌は球団が作成する応援歌もあるが広義に捉えれば私設応援団による選手別応援歌も応援歌といえるので数は非常に多い。その為ここでは球団歌のみを紹介する。

  • 初代「巨人軍の歌(野球の王者)」1939年発表(作詞:佐藤惣之助、作曲:古関裕而
  • 2代目「巨人軍の歌」1949年発表(作詞:西條八十、作曲:古関裕而)
  • 3代目「巨人軍の歌(闘魂こめて)」1962年発表(作詞:椿三平、補作:西條八十、作曲:古関裕而)

曲名に関しては読売ジャイアンツ公式HPの年表に準じて巨人軍の歌で統一し、括弧内に通称を記載する。初代巨人軍の歌の作詞・作曲コンビは、阪神タイガースの応援歌「大阪タイガースの歌(六甲おろし)」も作っている。

本拠地東京ドームの最寄り駅であるJR水道橋駅では同駅の開業100周年を記念して2006年7月4日から、発車メロディに「闘魂こめて」を流すようになった。

キャンプ地

現在

過去

出来事

結成当初の対外試合

チーム結成当初は、まだ職業野球のクラブチームがジャイアンツ1チームしか存在しなかった。その為1935年は上半期をアメリカ合衆国遠征、後半は日本国内の社会人チームとの対戦に割り当てて、長期間にわたる遠征をこなすことになった。

まず、アメリカ遠征。2月(まだこの時は「大日本東京野球倶楽部」)に当時の選手ら総勢18人で秩父丸に乗船し横浜港からアメリカに向けて出発。当時日本とアメリカはフェリーで2週間以上の期間を要したので、選手たちは船上でも試合に向けての練習をこなした。

この時、先発隊で渡米していた鈴木惣太郎マネジャーは「『大日本東京野球倶楽部』では長ったらしいから何か簡単な名前が思いつかないだろうか」と、現地マネジャーのフランク・オドールに相談する。すると「ジャイアンツとヤンキースのどちらかはどうだろう。アメリカではどちらも(ニューヨークに本拠地を置く)人気があるチームだから」と提案。鈴木は「ヤンキースは日本語で適当な言葉が見当たらない。ジャイアンツなら巨人。これならいけるだろう」ということでジャイアンツのチーム名は決まった。

チームは2月27日(現地)にサンフランシスコ湾に到着し、全米各地で128日間109試合(ダブルヘッダー17日34試合含む)という超異例の過密日程を戦った。主な対戦相手は大リーグマイナークラスのチーム。最初は物珍しもあって観客が集まったものの徐々に減少。その為ダブルヘッダーを開催することで、ファン確保を狙ったが、選手らは体力の負担を強いられるとして反対意見も相次いだという。それでも75勝33敗1引き分けの好成績でアメリカ遠征は無事終了した。このアメリカ遠征では日本独特の文化を出そうということで選手の背番号は漢数字(例えば沢村栄治だと十七=17)を使用した。ところが漢字文化のないアメリカ人にはさっぱり分からず、「あのプラス(+=10)とマイナス(-=1)は何を意味するんだ?」という疑問が後を絶たなかったといわれる。

選手らは帰国後夏休みを挟んで9月6日から今度は日本の社会人野球チームとの親善試合をこなすことになる。この国内巡業も原則的にはファン確保の名目で1日2試合のダブルヘッダー開催が多く、後座試合として巨人軍選手による紅白戦が開かれた。この国内巡業の試合は40試合行い36勝3敗1引き分け。圧倒的な実力を見せたが、社会人チームに3敗したことが響いたのか、三宅大輔監督は解任される。3敗のうちの2敗は東京鉄道局からであり、三宅解任後は同チームの監督をしていた藤本定義が後任として迎えられた。

職業野球連盟所属チーム同士の初対戦

1936年2月9日に、名古屋市郊外・鳴海球場で開かれた名古屋金鯱軍との対戦は現在の日本野球機構にあたる職業野球連盟に所属するチーム同士が行った初めての試合である。この試合は巨人軍の2回目のアメリカ遠征の壮行会と金鯱軍の結成記念を兼ねたもので、第1試合は金鯱軍に敗れたが、翌日行われた第2戦、第3戦は巨人が連勝した。

提訴したためにV逸

第二次世界大戦が終わった翌年の1946年、日本プロ野球は1944年以来2年ぶりに公式戦を再開したが、兵役についていた選手たちが元の球団に復帰するかどうかでもめごとがあった。当時は「元いたチームが敗戦前に解散していれば元のチームに戻る必要はないが、元いたチームが敗戦後も解散せずかつチームから何らかの形で給与を受けていた場合は、敗戦前に所属していたチームに復帰しなければならない」という決まりがあった。

しかし巨人からはヴィクトル・スタルヒンと白石勝巳が、阪神からも藤井勇が、球団の許可なくパシフィックへ入団してしまった。これによりパシフィックは連盟から問題が解決するまで3選手の出場を禁止するように言い渡されたが、藤本定義監督は3選手を5月下旬に行われた4試合に出場させてしまった。このことで巨人と阪神はパシフィックを提訴した。

提訴が受け入れられ、3選手が出場した4試合は全て0-9でパシフィックの敗戦となったが、パシフィックの実際の勝敗は1勝3敗であった。その1勝はこの年巨人と優勝争いをしていたグレートリングから上げたものだったため、ライバルに1勝をプレゼントしてしまう結果となった。最終的に1ゲーム差でグレートリングが優勝し、同率でプレーオフとなるはずが提訴をしたために優勝を逃した。

日本シリーズ終了後にペナントレース

1955年、この年のペナントレースは大洋との3試合が天候不順の中止による順延が続いたため、日本シリーズの対南海戦の開幕までに全て消化し切れなかった。そのため、日本シリーズ(ジャイアンツ優勝)、更にその後にも日米野球ニューヨーク・ヤンキースを招待した親善試合が組まれていたこともあって、それらの大会が終了した11月下旬にようやく残った大洋戦3試合を消化。最終戦の開催は11月23日となった。

なおジャイアンツは以下のシーズンに未消化試合を残したままペナントレースを終了している。

  • 1937年秋季は10月27日東京セネタース戦がきっかけとなる。
    1-2とリードされた9回裏1死1・3塁のジャイアンツの攻撃で、水原茂の打球は投手ゴロ。投手→二塁手一塁手と転送されるも、一塁がセーフとなる。この時にセネタースの二塁手・苅田久徳が「一塁走者の平山菊二が送球を妨害した」と抗議。これが認められ一塁もアウトとなり、試合が終了した。
    ジャイアンツはこの判定を不服として日本野球連盟に提訴(プロ野球初の提訴試合)。11月30日の連盟理事会でこの試合を無効として再試合を行うことを決定したが、すでに大阪タイガースの年度優勝が決まっており、仮にこの試合が行われたとしてもシーズンの順位に影響が及ばないことから、12月9日に中止が決定された。
  • 1949年は2リーグ分立のあおりを受けて11月26日に日本野球連盟が解散したため、11月29日にペナントレースを打ち切った。このため6試合(阪急戦・大映戦・阪神戦各1試合、大陽戦3試合)を未消化のまま終了した。
  • 1951年は120試合の予定だったが、日米野球の日程が迫っていたので10月9日をもって打ち切りとなり、6試合(国鉄戦2試合、広島戦4試合)を消化しないままで公式戦を終了。この時は9月23日に「打ち切り」が決定したことを受けてリーグ優勝が確定した。
  • 1953年も国鉄との5試合の対戦が未消化だったが、これも日本シリーズ、更には日米野球がこの年は2チーム(エド・ロパット・全米オールスターチームとニューヨーク・ジャイアンツ)が招待されており、残り試合の日程調整が付かなかったため、その5試合の開催を打ち切った。この年のジャイアンツは海外キャンプを行っていて、帰国が4月4日となり、3月28日のセ・リーグ開幕に間に合わなかったことも大きい。
  • 2004年はオリックス・ブルーウェーブと大阪近鉄バファローズの合併に端を発した一連の球界再編問題で2日間(中日戦2試合)がストライキの対象となった。この2試合の代替日が設定されなかったため、138試合でリーグ戦を終えている。

史上初の2日またぎの試合

1961年9月7日の対国鉄戦(後楽園)で、史上初めての2日間またぎの試合が行われた。事の発端は延長11回表の国鉄の攻撃。3塁ゴロを捕球した長嶋茂雄がベースを踏んでアウトにしたはずが、2塁走者・土屋正孝の脚が早かった。ところが、アウトと思っていた土屋は三塁コーチスボックスに入っていた砂押邦信監督に促されてホームに向って走った。これを見た長嶋が土屋を追いかけ三本間で交錯、そこへ長嶋からの送球を受けた捕手藤尾茂が土屋にタッチした。島秀之助球審は一旦はアウトと宣告したものの国鉄側が長嶋の走塁妨害を主張、審判団協議の結果判定が覆ってホームインが認められることになったため、今度はジャイアンツ側が土屋はラインアウトだったと主張するなど両チームが論争になった。更に興奮したファンがスタンドに火を付けたり物をグラウンドに投げ込んだりするなどの行為を行い、2人のファンが公務執行妨害の現行犯で逮捕された。2時間近くの中断の末、土屋のホームインが認められ試合が再開されたのは23時53分で、結果的に試合終了は翌9月8日の0時11分となり史上初の2日間またぎの試合となった。

2日間またぎの試合はセ・リーグの大会規定で1990年-2000年に「時間無制限・延長15回・引き分け再試合」という取り決めがあった際、15回フルイニングス戦ってそうなった事例が数例あった。

疑惑のホームラン

1990年の開幕戦・ヤクルトスワローズとの地元・東京ドームでの試合で、篠塚利夫内藤尚行から放った打球が、1塁塁審を務めていた大里晴信審判員によってホームランと判定された。この判定に対して、「打球はライトポールより前方で通過し、ファールスタンドへ入った。」と、ヤクルト野村克也監督は抗議したが、判定が覆ることはなかった。同日のスポーツニュースではこの打球のVTRを再三放送し、「打球はライトポールより前方で切れ、ファールスタンドへ入った。」と結論付けるものが多かった。この年からセントラル・リーグでは外野審判を廃止して4人制で行っていた。この疑惑後、東京ドームのポールは打球がわかるように黄色に塗装され、その後オレンジ色に変更された。

セントラル・リーグ唯一のサヨナラ勝利V決定球団

1990年、2000年、2007年の優勝をサヨナラ勝ちで決めており、これは他のセ・リーグ5球団では例がない。また、試合がない日に優勝が決まったケースが5度(1958年・1961年・1965年・1977年・1987年)とセ・リーグでもっとも多い[25]

キーワード

「常に紳士たれ」

スタイル

正力松太郎が「巨人軍は常に紳士たれ」という言葉[26]を残したように、巨人の選手は社会人、そして人間として模範となることを求められており、テレビ出演や移動の際はスーツネクタイ着用が義務付けられてきた。

また、髭を生やす事と茶髪・金髪・長髪も禁止されている。しかし、この規定は他チームからの移籍選手や外国人選手には適用を除外されるケースがある。具体的には、髭がトレードマークの屋鋪要が横浜ベイスターズから移籍した時は条件付き(巨人で活躍すること)で認めていたり、日本ハムファイターズからFA移籍した小笠原道大の無精髭に対しては「無理強いをするつもりは無い」と認めるつもりでいたが、小笠原は「球団の伝統に従う」と自らの判断で髭を剃った。外国人選手では大洋時代に「ライオン丸」と形容される顎髭がトレードマークのジョン・シピンや、近鉄バファローズから移籍してきたタフィ・ローズコーンロウと髭を例外として認めていた(シピンはその後、「紳士たれ」のルールに従って髪とひげを切り落とした)。

さらに、清原和博が巨人在籍時代ピアスを付けていたが、OBを中心に「外すべきだ」という意見が存在した。

野村克也は自著「巨人軍論」で、上記のような「紳士野球」については肯定的見解を示し、自身が監督を勤める際も茶髪、ピアスなどを禁じている。また、堀内恒夫が監督就任後に茶髪やピアスを承認した[27]時はかなり否定的な意見を発した。野村曰く「強いチームを作るには厳しいルールが必要で、選手は茶髪やピアスではなく、プレーでこそ目立つべきだ」と主張している。また、厳しいルールの下で人間性が鍛えられ、それが野球に良い影響を与えるとしている。

登録名

巨人では本名以外を登録名にすることは改名もしくは本名の表記変更に限られており、イチローに代表される愛称の使用は原則として認められておらず[28]カツノリサブローは巨人への移籍にあたって登録名を本名に戻している。

ただし、いくつか例外があり、河野博文が登録名を「ゲンちゃん」で申請している(ただし、セリーグ会長により却下されている)ほか、ジェレミー・ゴンザレスが、すでにルイス・ゴンザレスジェレミー・パウエルが在籍していたことから、これらとの混同を避けるために「GG」となった例、マイケル中村が登録名を日本ハム時代と同じ「MICHEAL」とすることを認められた例がある。

禁則事項

現役監督の原辰徳は以前までは喫煙者であった。しかし、2003年に第1次監督退任後から禁煙トレーニングを行い、同年12月31日付で卒煙した。2004年以降は非喫煙者であり、2005年秋に第2次監督就任後以降は、チーム内の選手スタッフの現役喫煙者全員に「禁煙」の指示を出し、球団事務所内の「全面禁煙」を徹底した。原辰徳は「強いチームを作るのに喫煙行為は巨人の選手としてはもちろん、アスリートとしての自覚も欠けている。」とコメントした[29]2011年時点ではチーム内の選手、スタッフはほとんどが非喫煙者であり、最終的にはチーム内の喫煙率を0.0%を達成出来る様に全力を尽くしている。

移動手段などに利用するバイクの使用も全面禁止されており、現役選手が事故により選手生命に終止符を打つリスクが極めて高確率であるからである。

伝統の一戦

主にマスコミなどで、対阪神タイガース戦を「伝統の一戦」と表現されることがある。

1936年のプロ野球が始まって以来、11シーズン中8度の優勝を果たしていた巨人に対して、阪神は残り3シーズンで優勝を果たすなど、プロ野球を代表する強豪同士であったといえる。実際に1949年までの1リーグ時代の対戦成績は巨人の84勝85敗3分けと拮抗していた。しかし2リーグに分裂した際に阪神の主力選手が大量に引き抜かれて戦力格差が生じてしまい、さらに阪神の長い低迷もあり、2011年までの通算成績は巨人の959勝750敗62分で、77シーズン中の7割に当たる53シーズンで巨人が勝ち越すなど、戦績は一方的である。特に2リーグ分裂以後は長く巨人がリードする年が続き、1950年~2002年で見ると巨人が阪神に負け越したシーズンはわずか6シーズン(タイが1シーズン)しかなく、巨人は分裂初年度の1950年~1961年までは1958年のタイを除いては全て勝ち越し、また、1986年~2002年までは巨人が17年連続で勝ち越している。

同じセ・リーグ内で言えばむしろ対中日ドラゴンズ戦において巨人の通算勝率は悪く、純粋に勝敗の拮抗を争う関係であればそちらが適している。

それでも、この対戦カードが伝統の一戦と表現されるのは単純な勝敗を超えて、戦前の野球ファンの注目の的となった「沢村栄治vs景浦將」に始まり、「ミスタータイガース・村山実vsミスタージャイアンツ・長嶋茂雄」「奪三振王・江夏豊vs本塁打王・王貞治」「ミスタータイガース・掛布雅之vs巨人のエース・江川卓」といった人気選手同士の真剣勝負など、日本を代表する人気球団同士のライバル関係も同時に示しているからである。

なお、2003年に巨人が阪神に18シーズンぶりに負け越して以降は阪神の巻き返しが見られるようになり、この年以降巨人が勝ち越したのは2008年だけであとはタイか、巨人が負け越しという成績になっている。2003年から2005年にかけては2リーグ分裂後初めて巨人が3年連続で阪神に負け越しており、2009年から2011年は3年連続でタイとなっている。

読売ジャイアンツの球団運営会社

株式会社読売巨人軍
Yomiuri Giants
種類 株式会社
略称 読売ジャイアンツ、読売、ジャイアンツ、巨人、巨人軍
本社所在地 〒100-8151
東京都千代田区大手町二丁目1番1号 大手町野村ビル7階
設立 2002年7月1日
業種 サービス業
事業内容 プロ野球競技の運営並びに選手の指導、養成など
代表者 取締役オーナー 白石興二郎
取締役会長 渡邉恒雄
代表取締役社長 桃井恒和
常務取締役球団代表・GM兼編成本部長 原沢敦
主要株主 読売新聞グループ本社 100%
関係する人物 正力松太郎(創立者)、正力亨(2代目オーナー)
外部リンク http://www.giants.jp/
特記事項:創立は1934年12月26日(株式会社大日本東京野球倶楽部として)。2002年7月1日に株式会社よみうり(当時の読売ジャイアンツの運営会社)を会社分割して設立。
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ジャイアンツの運営会社は複雑な変遷を辿っている。1934年に大日本東京野球倶楽部が発足したとき、読売新聞は大いにバックアップを行ったが実際の出資額は僅少で、あくまで正力松太郎の関係による独立企業であった(因みに筆頭株主は京成電鉄東芝阪神電気鉄道東京急行電鉄吉本興業がこれに続いていた)。1947年2月、読売新聞社が全株式を買収し、完全に系列下。球団旗の右肩に「讀賣」の二文字が入り、社名を「大日本東京野球倶楽部」から「読売興業」に改めたが、1950年1月に「読売巨人軍」(第1期)として分離。しかし僅か1年2か月で読売興業に吸収されている。

1963年、読売新聞は九州に進出するに当たり、読売興業に読売会館(当時の有楽町そごう[現ビックカメラ有楽町店]や当時の読売新聞東京本社ビル[現プランタン銀座]の保有・管理会社)を合併させ、読売興業内に事業本部としての「読売新聞西部本社」を設けた。先が見えない九州での新聞事業の赤字をプロ野球興業と不動産の収入で補填するとの意図であったが、この結果読売興業はプロ野球、不動産、新聞の3事業を抱えるコングロマリット(複合型企業)となった。1988年には経営不振の中部読売新聞社から東海地方での新聞事業を受け継ぎ、「読売新聞中部本社」としている。2002年7月の読売新聞グループの再編により、「よみうり」(1992年6月に読売興業から改称)は新聞事業を読売新聞東京本社中部支社(中部本社が読売新聞社改め読売新聞東京本社に吸収)と読売新聞西部本社に分割してプロ野球専業となり「読売巨人軍」(第2期)の社名が復活した。これに伴いビジター用ユニフォームの胸マークも「TOKYO」から「YOMIURI」に変更となった(2004年まで使用)。

当初の背番号

戦前の巨人軍は基本的に、ニューヨーク・ヤンキースに倣って打順によって背番号を決めていた。

例えば1936年夏季の場合、1番・田部武雄(上層部との対立により公式戦参加前に退団したので、その後は林清一が受け継いだ)、2番・津田四郎、3番・中島治康、4番・永沢富士雄、5番・伊藤健太郎までは背番号と打順が一致する。当時の巨人軍には背番号6の選手がいなかったため、6番は背番号7の筒井修、7番は背番号8の白石敏男が「繰り上がり」、8番は捕手、9番は投手が入るのが基本オーダーだった。背番号9の山本栄一郎をはさんで捕手の背番号は10番から始まり、10番が中山武、11番が内堀保、12番が倉信雄と続いていた。13番からが投手の背番号で、青柴憲一(13番)、沢村栄治(14番)、畑福俊英(15番)と続く。再び16番が欠番でヴィクトル・スタルヒン(17番)、前川八郎(18番)と続いた。秋季以降に加入した選手はヤンキース方式の背番号が適用されず、19番は田部と同様に上層部との対立により退団したもののその後復帰した水原茂、林が1番に変更して空き番となった20番は青森林友から入団したチーム初の左腕投手・成田友三郎、21番は助監督として入団したものの夏季のチームの不甲斐なさに現役復帰を決意した三原修がつけ、藤本定義監督がチーム最大となる22番をつけた。

選手が増えたため1938年以降はこの基本から外れることが多くなったが、川上哲治が16番をつけたのはヤンキース方式の背番号の名残で、川上が投手として入団した証拠とも言える。

カラーテレビ用ユニフォーム

1957年、ジャイアンツ正力松太郎オーナーが会長を務める日本テレビカラーテレビ試験放送を開始した。正力はカラーテレビを普及させるためにジャイアンツのユニフォームを変更した。

最初の変更は1959年9月。袖のオレンジ×黒×オレンジのライン、背番号、胸の「GIANTS」の縁取りが赤に変更された。しかしこの変更はホーム用のみでビジター用は従来通りのユニフォームが使われたため、ファンにも気付かれることのないままこの年の公式戦終了と同時に元のユニフォームに戻された(南海ホークスとの日本シリーズでは元のユニフォームが使用された)。

次にカラーテレビ用ユニフォームが登場したのは1960年6月11日。ホーム用・ビジター用ともに帽子のつば・胸のロゴ・背番号が赤いユニフォームで、それまでのジャイアンツのチームカラーを覆すものだった。当時のカラーテレビは白いものが映るとハレーションが起こったため、ホーム用の地色もドーラン効果を狙ってベージュに変更された。

しかしこのユニフォームは選手の評判も悪く、全員で号令をかけあって一斉に着替えたとも伝えられている。反対意見を言う選手はいなかったもののその声を代弁したのが解説者たちで、三宅大輔は「考え方が逆。これではカラーテレビのためにプロ野球があるようなものだ」、また小西得郎も「クリーブランド・インディアンスミルウォーキー・ブレーブス(現:アトランタ・ブレーブス)の真似で、ジャイアンツらしくない」と批判した。

このようにカラーテレビ用ユニフォームは世間の評判が悪かった上、前年まで6年連続最下位だった大洋ホエールズにリーグ優勝をさらわれたこともあって、このユニフォームもこの年限りでお役御免となった。当時の東京23区にはカラーテレビが100台ほどしかなく、当初の目的だった「カラーテレビの普及」にも貢献することが出来なかった(カラーテレビが普及するきっかけとなったのは1964年東京オリンピックである)。

最下位転落で大集会が開かれる

1975年に球団史上初となる最下位に転落したが、それ以前にも途中経過だが最下位に沈んでいたシーズンがあった[30]。そのため、この年のシーズン中に日本雑学協会の主催で「長嶋巨人を励ます緊急大集会」を、当時の練習場である多摩川グラウンドで開いたという逸話が残っている。巨人ファンの思いをプラカードや横断幕に書いてデモ行進するもので、前年まで巨人応援のためのデモが開かれたケースは無かったため、大きな話題となった。

結局、大集会の甲斐もなく低空飛行のままペナントレースを終えた。

藤田野球と三本柱

藤田元司は、先発投手陣を中心に守備力を重視した野球を展開し、通算監督在任7年間に4度のリーグ優勝、2度の日本一に輝いた。この藤田野球に欠かせない存在だったのが「三本柱」といわれる、3人の先発ローテーション投手である。

1981年から1984年で中心となったのは江川卓、西本聖定岡正二である。西本は愛媛県立松山商業高等学校からドラフト外で入団したものの、持ち前の反骨心で同年齢の定岡、法政大学から入団した江川と肩を並べるまでに成長した。藤田の監督在任時の成績は、江川55勝(20-19-16)、西本48勝(18-15-15)、定岡33勝(11-15-7)の成績を残している。

1989年から1992年で中心となったのは斎藤雅樹桑田真澄槙原寛己。斎藤は安定感、桑田は投球術、槙原は球威と、それぞれ違った持ち味を発揮して白星を積み上げていった。藤田の監督在任時の成績は、斎藤68勝(20-20-11-17)、桑田57勝(17-14-16-10)、槙原40勝(12-9-9-12)の成績を残している。

ワンピース型ユニフォーム

1982年・83年に盗塁王を獲得し、盗塁時に青い手袋をしていた事から「青い稲妻」の愛称で知られた松本匡史は、1981年 - 1985年にかけてワンピース(つなぎ)型のユニフォームを着用していた事がある。これは、盗塁時にズボンの中に土が入るなどの余計な心配をせずに済むためだとのこと。ユニフォームがプルオーバー形に変更された1986年からは通常のユニフォームを着るようになった(プルオーバー形ではつなぎ状にできないため)。

主催試合開催方法関連

地方球場開催

かつては地方都市の球場での開催も積極的に行い、特に北海道シリーズ(円山旭川札幌ドームでの2-3連戦)、九州シリーズ(平和台北九州福岡ドーム熊本など)、更に隔年で北陸シリーズ(金沢富山県営富山市民(アルペンスタジアム)福井などでの2-3連戦。富山が正力松太郎の出身地であることから継続して開催されてきた)、東北シリーズ(盛岡仙台郡山などでの2-3連戦)を率先的に実施してきた。また秋田青森市営なども開催していた。 しかし近年は東京ドームの試合を中心に編成したため(ドーム開催のほうが観客収入が多いことと、移動を減らして選手の負担を減らそうとするフロントの考えと思われる)、東北シリーズ・北陸シリーズは廃止、更に北海道や九州のシリーズも会場を1ヵ所(福岡ドーム・札幌ドームでナイターのみ)に絞る形にして試合数を減らしていた(2004年度には九州シリーズの1試合に、ジャイアンツのキャンプ地である宮崎での開催がある)。それが災いして、ファン離れが深刻になってしまった。そこで、2005年以降は地方都市での開催を進めている。

詳細は読売ジャイアンツ主催試合の地方球場一覧を参照。

大阪ドーム(京セラドーム大阪)での主催ゲーム

関東以東の球団が近畿圏各地でホームゲームを行う機会は1952年フランチャイズが確立してからは稀で、確立当初、球場難等を理由に西京極大阪などでいくつかのチームが試合をした事例がある程度だ。特に1955年大映スターズは西京極で15試合を開催し、事実上準本拠としていた(親会社の大映が京都太秦に撮影所を持っていた事も関係している)。

ジャイアンツもフランチャイズ確立前は近畿圏の球場でもホーム扱い(後攻)となる試合が稀にあったが、それが確立されてからは近畿圏でのホームゲームを行う機会は西京極球場でのオープン戦を除き、殆どなかった。しかし1997年大阪ドームが竣工し、その年には読売新聞大阪本社の創刊45周年も重なって、ヤクルトを帯同した公式戦2試合を同球場で開いた。その後大阪ドームでは年1回もしくは隔年で開催している。2002年以後は東京ドームで開く都市対抗野球の開催時期が8月下旬-9月初めに移動したためによる処置であった。2006年、2007年及び2010年は4月に開催されている。この2007年は神戸(スカイマークスタジアム)でも1試合組み込まれており、巨人軍初の関西3連戦が実現したことになる(これまでも大阪ドームを含めた3連戦の遠征はあったが、1試合は倉敷や松山での開催で、大阪ドームは2連戦だった)。

カードは、東京ヤクルトスワローズ戦(1997年、1999年、2002年、2005年、2006年)が最も多く、横浜ベイスターズ戦(2001年、2004年、2009年、2010年)が4回、広島東洋カープ戦(2007年、2008年、2012年)が3回、中日ドラゴンズ戦(2003年)が1回となっている。阪神タイガース戦は保護地域の関係からかまだ1回も行われていない。

長期ロード

長期ロードといえば全国高等学校野球選手権大会開催中の阪神が有名だが、巨人も2週間近く長期ロードが毎年組まれている。これは毎年、東京ドームで都市対抗野球大会が開催されるためで、阪神の死のロードと入れ替わる形で始まる(この間、巨人は地方球場で主催試合を行う)。2007年は、札幌ドームでの主催ゲームを含め、11試合を東京ドーム以外で行った(8月24日 - 9月6日)。なお都市対抗が7月下旬 - 8月初旬の開催だった頃も長期遠征があったが、この時は主催試合はなかった(全て他球団主催のビジターマッチ)。 2008年は8月29日 - 9月11日までの12試合が組まれ、京セラドーム大阪松山坊っちゃんスタジアムの変則3連戦が主催試合となっている。

本拠地でのデーゲーム開催

東京ドームでのデーゲーム開催の恒常化も検討されている。後楽園球場時代は、日曜日や大型連休中のデーゲームが開催されていたが、東京ドームが開業した1988年以降は、初期に大型連休中や開幕シリーズなどで部分的に開催したことはあるものの、ビジターゲームも含めてデーゲームで開催されることは無くなり、ナイター設備がない円山球場・旭川スタルヒン球場での北海道シリーズ(現在は札幌ドーム)と、優勝チーム決定後の消化試合で組まれる程度となった[31]

しかし、ファン離れが深刻になったことを踏まえて、近年では春季の試合を中心に週末の試合をのデーゲーム開催で対応することで、ファンの増加を目指そうとしている。

FA制度導入以後の補強傾向

マスコミ(読売・報知・日テレなど)をグループ会社に持っており、チーム成績が放映試合の視聴率や新聞の売上に直結しているため、好成績を目指して投入される資金額は大きい。またチームに真新しさを求める親会社の意向の為に毎年のように新しい大物選手の獲得を目指すこととなる。1990年代では「巨人軍」或いは当時監督であった「長嶋茂雄」というブランドの求心力でFA宣言した他球団の4番・エース、またアメリカのメジャーリーグなどで活躍した外国人選手などを獲得。特に4番を集めるというのは当時の長嶋監督の「ホームランをたくさん打って子供たちに夢を与えたい」という方針でもあった。特にFA制度が導入された1993年以降は同制度を利用して大物選手の獲得が容易になった事もあって、毎年のように選手獲得が目指されている。-読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧も参照

しかし、そのような親会社の事情が反映されるあまり、2000年以降は松井秀喜を除いて高校生出身の生え抜きのスター選手が少ない。2005、2006年度のBクラスの要因として、主力選手の故障もさることながら、選手層の薄さ、特に若手選手の層の薄さが挙げられる。これは本来の強化ポイントではなかったりポジションの被る選手の獲得が原因といえる。また他球団の4番打者、エースが獲得対象となりがちなため、他球団のファンの顰蹙を買うことも少なくない。鹿取義隆退団以来の課題である「絶対的なクローザー」については2007年は上原浩治が務め、オフには横浜ベイスターズのマーク・クルーン投手を獲得した。また「FA選手の獲得は1球団2選手まで」という制限も誕生した。

新外国人の獲得についても、NPB他球団で実績を残した選手を引き抜く事が中心戦略となった。ライバル球団の弱体化ができ、かつ大きな失敗が少ないため理には適っているが、他球団ファンからの批判は大きい。並行して、NPB未経験の外国人の開拓も自前で行ってはいるが、その失敗が非常に多いのがこのチームの特徴であり、「来日1年目」の外国人打者での規定打席到達は1995年のシェーン・マック、投手での規定回数到達は1996年のバルビーノ・ガルベス以来現れていない。

主催試合の中継

長年、主催試合のテレビ中継は読売系の日本テレビによる独占状態が続き(但し1959年6月25日の天覧試合・阪神戦だけNHK総合テレビジョンとの併用中継)、全国の系列局へネットされていた事から、全国に多数の巨人ファンを獲得した。2004年から視聴率の低迷をうけて日本テレビの独占が崩れ、他局による中継も行われるようになった。それにあわせて中継試合の削減、中継時間の短縮がおこなわれている。

関連項目

読売ジャイアンツを主な舞台とする作品

参考文献

  • 項目全般
    • 宇佐美徹也 『宇佐美徹也の記録巨人軍』、2000年
    • 越智正典 『ジャイアンツの歴史』、1974年
    • 巨人軍歴史新聞編纂委員会『巨人軍歴史新聞』、2000年
    • ベースボール・マガジン社 『日本プロ野球40年史』、1976年、同社『プロ野球70年史』、2004年12月 ISBN 4583038089  

巨人軍5000勝の記憶読売新聞社ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296

 

  • チーム成績・記録節については以下のとおり
    • 読売巨人軍広報部『2007年 メディアガイド』、2007年

脚注・出典

  1. ^ 2009年度はアジアシリーズの代替として、日韓クラブチャンピオンシップを開催。
  2. ^ 前掲『日本プロ野球40年史』p.30
  3. ^ 前掲『ジャイアンツの歴史』p.37
  4. ^ 前掲『ジャイアンツの歴史』p.40 - 43
  5. ^ 前掲『ジャイアンツの歴史』p45
  6. ^ 前掲『日本プロ野球40年史』p.33 尚『ジャイアンツの歴史』p.45によれば32名
  7. ^ 前掲『宇佐美徹也の記録巨人軍』p.11
  8. ^ それまでも読売新聞との関係は深かったが、球団主要株主に読売新聞社が名を連ねることはなく、経営上も一応独立していた。現在の読売巨人軍は親会社である読売新聞グループ本社(持株会社)の完全子会社(事業子会社)であり、事実上読売新聞の一事業である。
  9. ^ 読売新聞で約30万部、報知新聞で約5万部の売上部数減少。
  10. ^ ビデオリサーチ関東地区調べ。年間最高視聴率は1983年の27.1%(1965年の調査開始以来)。
  11. ^ 辞任に際してのセレモニーがないことに、阪神の星野監督(当時)がたまたま最終試合は甲子園球場での試合だったために、「せめて花束贈呈をして、花道を飾りたい。」と球団に直訴。そして、最後の試合の終えた後、球団史上、前代未聞の敵陣地での辞任セレモニーが執り行なわれた。星野氏の花束贈呈のあと、原監督は男泣きをし、スピーチをした。そして、阪神ファンに温かく迎えられて無事にセレモニーを終えることが出来た。
  12. ^ それまでのプロ野球最高記録は1980年の近鉄の239本、セ・リーグ最高記録は1985年の阪神の219本であった。
  13. ^ 2004 年と2005年のパリーグでシーズン1位のホークスがプレーオフで敗退し日本シリーズ未出場であるが、これはプレーオフ勝利チ-ムをその年の優勝チームと定めていたためである。
  14. ^ 7月8日時点でのゲーム差。日本プロ野球全体では1963年の西鉄ライオンズに次ぐ2番目
  15. ^ 巨人V9以来の3連覇 スポーツニッポン 2009年9月23日閲覧
  16. ^ この年の7月、球団ワースト新記録となる12試合連続2桁被安打を記録
  17. ^ これは東京ドームの代替ではなく、震災発生前よりこの日の宇部での試合が決まっていた
  18. ^ 読売巨人軍公式HPより[1]
  19. ^ 画家1919年生まれ)。日本水彩画会審査委員、日展水彩作家協会委員。
  20. ^ このラグランスリーブのユニホームを製作したのは、スポーツ用品店でなく、『銀座テーラー』という老舗の紳士服専門店であった
  21. ^ 原監督提案、巨人が全試合喪章縫いつけ戦う! スポーツ報知 2011年4月5日閲覧
  22. ^ 復刻ユニホームが完成! 読売巨人軍ニュース 2009年6月25日閲覧
  23. ^ 8月30日のみ福島県郡山市の開成山野球場で、そのほかの試合は東京ドーム。
  24. ^ 巨人が2011年から那覇を第二キャンプ地に サンケイスポーツ 2008年12月11日閲覧
  25. ^ 巨人以外では1954年2010年の中日のみ
  26. ^ 巨人軍憲章」とも呼ばれる遺訓のうちの1つで、残りは「巨人軍は常に強くあれ」「巨人軍はアメリカ野球に追いつけ、そして追い越せ」で計3か条である。
  27. ^ なお、堀内自身も監督就任後にチームの気分転換を図るため、髭を蓄えた時期があった。
  28. ^ デイリースポーツonline サブロー、巨人では登録名「大村」濃厚
  29. ^ 2010年原辰徳本人が出版した自伝による内容。
  30. ^ しかし、この年に最下位に沈んだのはそのまま低空飛行を続けていたためである。
  31. ^ 2002年度の北海道シリーズ(札幌ドーム)では、FIFAワールドカップ日韓大会(札幌ドームが会場の1つ)の関係で3試合ともデーゲーム開催だった。また、2004年9月23日の対横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)もデーゲームで開催された。
  32. ^ 前身のかっとばせ!キヨハラくんにおいても「東京カイアンツ」というパロディで登場している。

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外部リンク


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