ダン・グラッデン

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ダン・グラッデン
Dan Gladden
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 カリフォルニア州サンノゼ
生年月日 1957年7月7日(54歳)
身長
体重
5' 11" =約180.3cm
180 lb =約81.6kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1979年
初出場 MLB:1983年9月5日
NPB:1994年4月9日
最終出場 MLB:1993年10月3日
NPB:1994年10月27日
経歴(括弧内は在籍年)

クリントン・ダニエル・グラッデン(Clinton Daniel Gladden1957年7月7日- ) はアメリカ合衆国カリフォルニア州出身の元プロ野球選手(外野手)。

目次

[編集] 来歴・人物

1979年サンフランシスコ・ジャイアンツに入団。5年目の1983年に大リーグデビュー。俊足巧打の1番打者として活躍した。1987年ミネソタ・ツインズに移籍、1987年と1991年のツインズのワールドシリーズ制覇に貢献したが、1992年デトロイト・タイガースに移籍している。

1994年読売ジャイアンツに入団。三拍子揃った選手との触れ込みで、センターを守る予定であったが、肩力、走力共に全盛期より衰えており春季キャンプやオープン戦でまずい守備を連発したためレフトを多く守らせることとなり、前年までレフトを守っていた松井秀喜が急遽ライトにコンバートされることとなった。また通算222盗塁から期待されたが盗塁数は2に終わった。プロレスラー、ハルク・ホーガンを思わせる風貌で気性が荒く、後述の乱闘も含めて1年間に2度の退場処分を受けている。シーズン中は1番打者として定着し、98試合で15本のホームランを打つなど長打力を見せた。巨人のリーグ優勝、日本一に貢献も自由契約となり現役引退。

1995年ツインズのスカウトに就任。1996年コロラド・ロッキーズのスカウトを務め、1999年にはツインズの巡回コーチに就任した。現在はミネソタ州でツインズのWCCOラジオ野球解説者を務めている。

[編集] 対ヤクルトでの乱闘事件

5月11日神宮球場での対ヤクルト戦で7回表、ヤクルトの西村龍次の内角球がきっかけで乱闘騒ぎに。内角球に激怒したグラッデンは西村に詰め寄り、ヤクルトの捕手・中西親志が制止しようとしたがグラッデンが振り切り中西をキャッチャーマスクの上から殴り中西もグラッデンの顔面をミットで殴る等応戦し、本塁上で殴り合いとなる。金属製のマスクの上から殴った上、手加減無しで中西にアッパーカットまで繰り出したせいか左手小指と右手親指を骨折する。殴り合った中西も顔面を骨折した。その後西村は危険投球、グラッデンと中西は暴力行為で退場処分を受ける。なおこの時殴り合っていた二人を制止しなかったとして球審も批判を受けた。

この試合では序盤に西村が巨人の村田真一の頭部に死球を与え村田を負傷退場に追いやり、続いてその報復で今度は巨人の木田優夫が西村の腰に死球を与え、両チームに険悪な雰囲気が漂っていた。この乱闘でグラッデンは罰金10万円と10日間の出場停止処分を受けている(球審田中俊幸塁審久保田治渡田均ら)。この試合の翌日には、西村、木田、グラッデンの3選手はセントラル・リーグから事情聴取を受けている。この乱闘で、グラッデンはヤクルトナインに押し倒された上顔を踏みつけられ、中西は巨人ナインに背中等を数発蹴られた他、選手が雪崩のようにグラウンドに崩れ落ち、本来の乱闘の輪とは別のところでも揉めている選手が居たりといった、すさまじい光景であった。

この試合は当時のセ・リーグ会長であった川島廣守が観戦していたこともあり、報復合戦の末の乱闘騒ぎとなったこの試合は、両球団の選手・首脳陣や野球ファンのみならずプロ野球の関係者にも衝撃を与える結果となった。また、この試合を契機に危険球の規定が改められた。また危険球退場となった西村はオフにトレードとなってしまった上、この乱闘が原因で内角を抉るシュートが投げられなくなり成績が低迷し、グラッデンはこの年で引退、中西も最後の一軍出場になってしまうなど皮肉な結末になってしまった。

[編集] エピソード

  • 野球解説者に転身後、巨人時代チームメイトだった松井秀喜ニューヨーク・ヤンキースに入団、日本のテレビ局からインタビューを求められたが、チームメイトで主砲だったにもかかわらず「彼のことはよく覚えてないね」とコメントした。しかし、松井がメジャーで活躍すると、「私が巨人にいて彼がチームメイトだった時、彼はまだ幼かった。でも現在は見違えるほど成長している。大したものだ。」と褒めていた。
  • 1987年のワールドシリーズでは、満塁本塁打を打っている。
  • ツインズ時代の1988年1989年に1試合・1イニングずつ、(敗戦処理として)投手としての登板歴もある。通算2試合登板、2イニングを投げて防御率は4.50。相手のインディアンスドック・エドワーズ監督から、「カーブでストライクを取っているから、大したもんだよ」と褒められるほどであった。被安打2、四球1、奪三振0。また、1988年には二塁と三塁も1試合ずつ守っているが、いずれも守備機会はなかった。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別打撃成績

















































O
P
S
1983 SF 18 72 63 6 14 2 0 1 19 9 4 3 3 1 5 0 0 11 3 .222 .275 .302 .577
1984 86 384 342 71 120 17 2 4 153 31 31 16 6 1 33 2 2 37 3 .351 .410 .447 .857
1985 142 561 502 64 122 15 8 7 174 41 32 15 10 2 40 1 7 78 10 .243 .307 .347 .653
1986 102 402 351 55 97 16 1 4 127 29 27 10 7 0 39 3 5 59 5 .276 .357 .362 .719
1987 MIN 121 482 438 69 109 21 2 8 158 38 25 9 1 2 38 2 3 72 8 .249 .312 .361 .673
1988 141 633 576 91 155 32 6 11 232 62 28 8 2 5 46 4 4 74 9 .269 .325 .403 .728
1989 120 501 461 69 136 23 3 8 189 46 23 7 5 7 23 3 5 53 6 .295 .331 .410 .741
1990 136 571 534 64 147 27 6 5 201 40 25 9 1 4 26 2 6 67 17 .275 .314 .376 .690
1991 126 511 461 65 114 14 9 6 164 52 15 9 5 4 36 1 5 60 13 .247 .306 .356 .662
1992 DET 113 459 417 57 106 20 1 7 149 42 4 2 5 5 30 0 2 64 10 .254 .304 .357 .661
1993 91 386 356 52 95 16 2 13 154 56 8 5 4 2 21 0 3 50 14 .267 .312 .433 .744
1994 巨人 98 410 374 46 100 19 0 15 164 37 2 1 6 1 29 0 0 64 6 .267 .319 .439 .758
MLB:11年 1196 4962 4501 663 1215 203 40 74 1720 446 222 93 49 33 337 18 42 625 98 .270 .324 .382 .707
NPB:1年 98 410 374 46 100 19 0 15 164 37 2 1 6 1 29 0 0 64 6 .267 .319 .439 .758

[編集] 年度別投手成績





















































W
H
I
P
1988 MIN 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 3 1.0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0.00 0.00
1989 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 6 1.0 2 0 1 0 0 0 1 0 1 1 9.00 3.00
MLB:2年 2 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 9 2.0 2 0 1 0 0 0 1 0 1 1 4.50 1.50

[編集] 背番号

  • 25 (1983年 - 1984年)
  • 32 (1984年 - 1994年)

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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