常磐急行交通

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常磐急行交通株式会社
Joban Kyuko Kotsu Co., Ltd.
種類 株式会社(解散)
市場情報 非上場
略称 常磐急行バス
設立 1962年11月
業種 陸運業
事業内容 一般乗合旅客自動車運送事業
主要株主 京成電鉄東武鉄道関東鉄道茨城交通日立電鉄
関係する人物 川崎千春(京成電鉄社長=当時)
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常磐急行交通株式会社(じょうばんきゅうこうこうつう)は、1960年代 - 1970年代に存在した日本のバス事業者である。旧国道6号の長距離路線を運営するために沿線で路線バスを運行する6社(京成電鉄東武鉄道常総筑波鉄道鹿島参宮鉄道茨城交通日立電鉄)の共同で設立された。

概説[編集]

東京都心から旧国道6号を経由して茨城県水戸市日立市を結ぶ急行バスを運行するため、その沿線を営業区域とするバス各社共同で1962年11月に設立された。通称「常磐急行バス[1]

1962年12月1日に運行開始された。当時は常磐自動車道が開通しておらず[2]すべて一般道経由であって、国鉄常磐線の普通列車よりも所要時間がかかるうえ、東京寄りの区間を中心に渋滞に巻き込まれることが多いこともあったため利用者数が伸び悩み、1977年に路線廃止、1978年3月に会社解散し廃業した。

出資会社は京成・東武・常総筑波・鹿島参宮・茨交・日立電鉄の6社で、沿線地域でバス路線を持っていた各社である。京成と東武は東京都・千葉県側の会社という位置付けに止まらず、水戸方面の勢力拡大を競っていた。常総筑波と鹿島参宮は既に京成の傘下にあり、1965年には合併して関東鉄道(関鉄)となる。また京成は1971年水戸の百貨店に資本参加している。一方で関鉄には東武資本も若干入っている。東武はこの頃までに自社エリアに近い茨城県西部から水戸へバス路線を延ばしており、1965年には水戸に近い笠間市営バスを買収し、一時存在感を強めていた。

なお、常磐自動車道開通後、東京 - 水戸間1988年4月27日運行開始)、東京 - 日立間(同、同年6月1日)、東京 - 勝田・東海間(同、1996年12月20日)などの常磐高速バスは運行開始後に便数が増加しており、常磐急行バスとは逆の展開を見せている。それら高速バスは独自の会社をつくるのではなく、各社共同運行という形を採っている。

廃止路線[編集]

牛久沼。写真の東方に国道6号が通る。(2010年撮影)

1962年8月6日免許、同年12月1日運行開始。新橋 - 日立間のキロ数は158km。原研前経由系統は166km。当初は運賃400円(全線片道)と当時の国鉄線より安く設定された。所要約3時間30分 - 4時間前後であったが、実際には大幅遅延し、定時運行が困難であったと伝えられている。国鉄常磐線の客車普通列車よりも時間がかかることもあって利用者数が伸び悩み、一日8往復運転するも中期には4往復、末期には2往復までに減便。利用者がほとんどいないまま1977年に廃止された。

当初は車掌乗務であったが、中期以降は運転士のみ(ワンマン)であった。あまりに所要時間が長いため、牛久沼など途中2ヶ所で休憩停車があった。また新橋停留所であった新橋駅前ビル2号館(1966年竣工)では乗車券を発売していた。

停留所間隔は概ね数kmで、並行する国鉄(現・JR)常磐線の駅間距離に近い。全て一般道経由で全停留所相互間の乗降が可能であった。主な途中停留所は、隅田公園入口、取手、土浦、石岡、奥の谷、勝田など。鉄道駅名と一致する停留所でも駅とは別の場所にあった例が多い。

この方面は県都水戸の他、日立製作所企業城下町である工都・勝田(ひたちなか市)及び日立、さらには原子力施設の多い東海村がある。これら各地と東京を移動する出張客をコアターゲットにしたと見られるが、長距離乗車がどの程度あったのかは不明である[要出典]。ただ、所要時間がかかりすぎることもあって、ビジネス目的でこのバス路線を利用した者はほとんどいなかったといわれている。

車両[編集]

沿革[編集]

  • 1962年8月6日 - 発起人に対し路線免許交付
  • 1962年11月 - 設立
  • 1965年6月1日 - 親会社の鹿島参宮鉄道と常総筑波鉄道が合併し関東鉄道に商号変更
  • 1977年 - 路線廃止
  • 1978年 - 解散

脚注[編集]

  1. ^ 常磐急行交通 偕楽園前ゆき往復乗車券 - 菅沼天虎の紙屑談義(2012年02月18日付)
  2. ^ 常磐自動車道の最初の開通は運行終了後の1981年であり、東京の首都高速道路と直結するまでは1985年まで待たなければならなかった。

関連項目[編集]