武蔵中学校・高等学校
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| 国公私立の別 | 私立学校 |
|---|---|
| 設置者 | 学校法人根津育英会 |
| 設立年月日 | 1922年 中学設立は1949年 |
| 創立記念日 | 4月17日 |
| 創立者 | 根津嘉一郎 |
| 共学・別学 | 男子校 |
| 中高一貫教育 | 完全一貫制 |
| 課程 | 全日制課程 |
| 単位制・学年制 | 学年制 |
| 設置学科 | 普通科 |
| 高校コード | 13705H |
| 所在地 | 〒176-8535 |
| 外部リンク | 公式サイト |
武蔵中学校・高等学校(むさしちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、東京都練馬区豊玉上にある私立中学校・高等学校である。中高一貫制男子校。
目次 |
[編集] 概観
根津育英会が設置した旧制武蔵高等学校を前身とする進学校。東京都立高校全盛の頃より、筑波大学附属駒場高等学校などと共に、東京大学への高い合格率を誇る学校として知られた。学界・官界に多くの卒業生を送り出している。
[編集] 教育目標
三理想という、事実上の校訓ないし校是があり、その内容は、
- 東西文化融合のわが民族理想を遂行し得べき人物
- 世界に雄飛するにたえる人物
- 自ら調べ自ら考える力ある人物
である。これは、開校初年度の入学式で一木が述べたものについて、1929年に表現上の変更をしたものである。実質的には山本の創案と思われ、彼が1920年から1年間行った欧米視察旅行の反省をふまえたものであった[1]。山本は1937年の創立15周年座談会で三理想の第1項、第2項について次のように述べている。
あれは私の洋行の結果ですが、将来世界の文明が二つ現れるだらうと云ふのが私の考へであつた。一つは東洋文明と西洋文明が東の方を廻つて、日本で東西文明が新しい実を結ぶだらう。今一つは東洋文化が太平洋を渡つて、アメリカで以て違つた実を結ぶだらうと考へて帰つて来たものです。その考へが第一節に入つて居るのです。殊にその頃は日本文化なんて云ふ考へは、不思議な話だけれども社会全体に於て今と較べると余程薄かつたものです。矢張りまだ文明と云へば西洋の文明と云ふやうな考へが、日本には満ちて居たものです。これをどうしても壊さなくちやいかんと云ふ頭があつたものです。それで東西文化と言つたのですけれども実は西は付たりで、東の方を拡げなければならぬと云ふことがあつたのです。それから世界に雄飛する人間を作ると云ふ意味は、日本の文化、東洋の文化を世界にもつと拡げなくてはいかん。さう云ふ人間を作る必要があると云ふ意味です[2]
また、第3項は「従来の暗記中心の『注入主義』的な教育に対し、『自分の頭で考える』ことをすすめるもの」[3]であり、「教授とは人生に必要な一切の知識を与えることではなく、『よく自ら考へ、自ら判断し、最も適当の方法を取って行く』ための力を養うことが肝要」[3][4]との山本の考えを表しているという。
[編集] 沿革
1922年、第二次高等学校令に基き七年制の旧制高等学校「武蔵高等学校」として創立されたのがはじまり。創立者は根津財閥初代総帥の根津嘉一郎で、賛同した宮島清次郎、正田貞一郎らは理事となった。初代校長には一木喜徳郎、さらに評議員として北条時敬、平田東助、岡田良平、山川健次郎などを教育界から迎えた。官立の東京高等学校と並んで日本最初の七年制高校であり、日本で最初の私立高校[5]でもあった。後に七年制高校としては府立高等学校も設立され、七年制高校は、当時の府立一中 - 一高 - 東大ラインに代わりうる新たなエリートラインとして台頭しつつある存在でもあったが、太平洋戦争に突入し人気が急落、道半ばとなってしまった。そのため、七年制高校の評価は定まっていない。1948年に学校教育法に基き新制高校「武蔵高等学校」が発足、1949年に新制中学「武蔵中学校」が発足した。中学校の定員は3クラス140名、高校の定員は4クラス180名(40名を外部から募集)であったが、2000年には高校からの募集を停止し、完全な中高一貫校となり、現在に至る。
旧制武蔵高校は、山本良吉教頭(当初)の主導のもと、英国のパブリックスクールを模範とし、一学年の定員80人で純粋培養・少数精鋭の知的スパルタ教育を掲げ、当時流行していた野球を禁じ、ガリ勉を推奨した。それゆえ 東京帝国大学合格者数では及ばないまでも進学率で旧制第一高校、旧制東京高校等と首位の座を争ったこともあった。しかし、厳格な成績評価による留年、スパルタ教育に嫌気の差した生徒の退学が相次ぎ、当初の入学者数が卒業時には半数以下の38人になる年もあった[6]。
もともとは「東京高等学校」という名称になる予定だったが、官立で東京高等学校を設立することが決定され、名称を譲渡して欲しいとの申し入れを受け、東京府の旧国名から「武蔵」と命名された。
[編集] 施設
所在地は東京都練馬区豊玉上一丁目26番地。西武池袋線江古田駅徒歩7分、西武有楽町線新桜台駅徒歩11分。都営大江戸線新江古田駅徒歩8分。
環七通り沿いに位置しながら、中学・高校としては東京都内でも最大規模のキャンパスを持つ。キャンパス内の自然の多さが特徴で、緑の多さは武蔵野の面影を今に残し、今では人工河川となったもののキャンパス内にすすぎ川という小川が流れる。名称は『楚辞』の「漁父」に因む。以前は同川の流域を中心にニワトリやアヒルが敷地内に放し飼いにされていたが現在では、愛好会であった「豊作会」の消滅とともに姿を消した。しかし、2009年現在ではアヒル一匹の生存が確認できる。校歌にも謳われる大欅は樹齢200年を数える大木で、大学3号館の中庭にある。
1928年落成の大講堂は、大隈講堂・日比谷公会堂などを手掛けた佐藤功一により設計された。ときどきテレビドラマの撮影などに使われることがある[7]。佐藤は1923年に竣工した校舎も設計しており、これは現在の武蔵大学3号館として知られる建物である。
運動設備は、バスケットボールコート2面とプールを備える体育館の他、合わせて5面のテニスコートや2面のグラウンドなどを備える。これらは中高専用設備である。グラウンドは2007年に人工芝化された。
2004年に完成した図書館棟には中高図書館があり、蔵書は6万冊。また、大学図書館も中高生が利用可能で、蔵書は65万冊。
その他、学校外に秩父の学校山林、赤城の青山寮、外房の鵜原寮などを有する。
[編集] 校風
今日では自由な校風で知られる本校ではあるが、戦前は制服・制帽の着用が義務づけられていた。ほとんどの旧制高校の制帽には白線が巻かれていたが、白線は巻かないよう取り決められた。ほかに白線を巻かない制帽を採用した旧制高校には成城高校などがあるが、成城高校においてこれに反発した生徒が「白線運動」を起こしたように、これを歓迎しないものもいた。戦後、白線に関する議論が浮上し、その結果として服装規則が撤廃されることが決定され、現在に至るまで私服校として続いている。また、校則で定められている禁止事項はバイク通学や校舎内での下駄履きなどごく限られている。
徽章のデザインは、当時東京美術学校の生徒であった一木の次男が原案を作成し、伊東忠太と新海竹太郎の協力により完成されたもの。『続日本紀』の「神護景雲二年武蔵国献白雉」に因み、白雉をモチーフにしている。
旧制高校時代の寮歌には「武蔵讃歌」や「惜別の譜」があり、前者は新制高校及び大学でも校歌とされている。詳しくは寮歌の一覧も参照されたい。
- 水投げ
- かつて、上級生が「歓迎」と称して、水を入れたビニール袋を新入生の教室に向けて投げこむいたずらが、4月の恒例となっていた時期があった。水投げの被害によって授業が中断したこともあり、現在では事実上禁止されている。その様子は大岡玲の芥川賞受賞作「表層生活」の中にも登場する。
[編集] 教育
授業では文科省指定教科書はほとんど用いず、プリントや文庫本等を教材にする。一部科目では高校レベルを大きく超えた内容も扱うなど、教養教育が大きな特徴。また、夏期休暇前に行なわれる「特別授業」や、高校1年の「総合講座」では科目編成にとらわれない実習や講演が開かれる。[8]
語学教育は、英語ではCALL (en:Computer-assisted language learning) を取り入れるなど、先進的手法の導入に積極的である。また、中学3年より全員(高校からは選択者のみ)が週2時間の第二外国語を学んでおり、ドイツ・オーストリア・フランス・中国・韓国の各校と提携し、交換留学を行っており、武蔵からは毎年十数名の生徒を派遣している。また、イギリスのイートン・カレッジとも交換している。
生徒の自主研究活動に授与される、山川賞・山本賞という表彰制度があり、それぞれ理科的研究・文化的研究に与えられる。
中学入試問題は創立当初から記述力・発想力を問う形式で、一般的な入試問題とは一線を画している。応用問題のみで構成される算数、字数制限なしの論述問題が出題される国語、高いテーマ性を持った社会、「観察問題」の出る理科など、全ての科目が特徴的。高校からの募集は2000年に停止され、以後実施されていない。
大学入試対策の授業は行わない。そのため多くの生徒が予備校に通っている。
[編集] 学校行事
- 記念祭
- 4月末。他の学校の文化祭に相当する。この時期に文化祭を行う学校が少ないこともあり、毎年かなりの来客で賑わう。2006年には小柴昌俊が講演を行った。
- 山上学校
- 中学一年生全員を対象として赤城の青山寮にて開かれる夏期学校(林間学校)。
- 海浜学校
- 中学二年生全員を対象として外房の鵜原寮にて開かれる夏期学校(臨海学校)。遠泳や着衣泳、サーフィンを行う。
- 体育祭
- 9月末。例年、球技のトーナメント + 組対抗の大会 + 予備日1日の3日間で構成される。天候により日程が変動するので、見学を希望する場合は事前に問い合わせるのがよい。
- 強歩大会
- 2月中旬。小委員会が山地や住宅地に設けたコース(20〜30km)を歩く。開催地は毎年異なる。教職員には人気があるが、生徒からの支持は必ずしも高くない。
記念祭・体育祭・強歩大会の3行事は「武蔵三大行事」と呼ばれ、いずれも選挙で選ばれた小委員長を中心として生徒が主体となり計画・実行される。
その他天文実習等、校外学習はいくつか行われているが、修学旅行は1978年に廃止されている。
[編集] 学校関係者一覧
武蔵中学校・高等学校の人物一覧を参照。
[編集] 関連学校
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ 兵頭高夫「山本良吉小論」『武蔵大学人文学会雑誌』第37巻第4号、2005年、117頁。
- ^ 上田久『山本良吉先生伝―私立七年制武蔵高等学校の創成者』、南窓社、1993年、152-153頁。
- ^ a b 兵頭、118頁。
- ^ 山本良吉『晁水先生遺稿〈続篇〉』、川崎明編、山本先生記念会、1966年。
- ^ 文部省『学制百二十年史』、ぎょうせい、1992年。
- ^ 秦郁彦『旧制高校物語』、文藝春秋[文春新書]、2003年。
- ^ 「オレンジデイズ」・「華麗なる一族」・「魔女の条件」・「三姉妹探偵団」など。
- ^ 『セオリー vol.4 学歴社会の楽しみ方 2006-2007年度版』、講談社、2006年。