湯口事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

湯口事件(ゆぐちじけん)は、読売ジャイアンツに投手として所属した湯口敏彦1973年3月22日に急死したことをきっかけに、監督の川上哲治はもとより、球団全体へのバッシングに発展した事件。

発生に至るまでの経緯[編集]

巨人は1965年川上哲治のもと2年ぶりに日本一を達成し、以降1973年まで日本一連覇を続け前人未到のV9を達成する。日本一連覇の新記録となった4連覇を達成した1968年からドラフト1位指名選手を即戦力から将来性重視の方針に切り替えた(即戦力クラスを指名したこともあったが、結果的に即戦力→主力とはなりえなかった)。1970年のドラフトでは岐阜短期大学附属高等学校の湯口敏彦を指名し獲得した。

湯口は島本講平箕島高等学校)・佐伯和司広陵高等学校)と共にこの年の「高校三羽烏」に数えられ、プロでの活躍も期待されていた。しかし、入団直後は二軍で育成するチームの方針から二軍での調整が続く。1年目は肘の故障もあり二軍戦に17試合登板して5勝6敗と思うような結果が出ず、2年目は1年目に記録された76四死球を問題視され、フォーム改造を受けたが(後に中村稔2軍投手コーチにより、フォームは元に戻された)、2勝3敗という結果だった。数字的な結果を残せなかったものの、同シーズンの後半からは球団首脳陣からも評価され、年俸は上昇した。

この頃から湯口はうつ病の発作が見られるようになった。そして2年目のシーズン終了後の1972年11月23日、ファン感謝デーの紅白戦で、この前日に無礼講の例会があったこともあり体調が優れない中で登板。打者一巡・2ホームランの滅多打ちに遭い、これにより、川上監督をはじめ二軍監督の中尾碩志からも激しく叱責された。さらにこの夜湯口は寮に戻らなかった。これに対し中尾は湯口を拳で殴り、湯口はうつ病を悪化させた。11月27日の納会では誰が話し掛けても無言で、視点も定まらなかった。11月28日チームドクターからうつ病と診断され、11月29日には、都内の病院に緊急入院をする。

明けて翌1973年1月10日には東京都新宿区晴和病院(元日本野球機構コミッショナー内村祐之が当時院長を務めていた)に移される。うつ病の発作に回復の兆しが見え始めたが、マスコミの追及を恐れた球団側の意向により、2月15日には多摩川グラウンドに復帰、2月19日から宮崎県宮崎市で行われた春季キャンプに合流した。ところが、初日に同室の淡口憲治が話し掛けても反応しない、また真夜中に奇声を発する等の異常に気づき、淡口は藤本健作マネージャーに報告した。事態を重く見たチーム首脳陣は翌日2月20日、湯口にキャンプ合流を差し止め、強制送還(藤本マネージャーも同行)した。羽田空港到着後もロビーで奇声を発したり暴れたりしたため空港警備隊に取り押さえられ、再び晴和病院に緊急入院させられた。なお、球団は3月に入ってから、内規により入院費の支給を打ち切っている。

3月22日夕刻、湯口は病院のベッドで変死体となって発見された。

球団・病院は「湯口敏彦投手の死因は心臓麻痺である」と発表したが、湯口の死因を巡ってマスコミから「湯口は自殺し、その原因は球団にあるのではないか」と非難されることとなる。

マスコミのバッシング報道[編集]

川上監督は湯口が死去した際に声明を発表したが、この時「巨人こそ大被害を受けましたよ。大金を投じ年月をかけて愛情を注いだ選手なんですから。せめてもの救いは、女性を乗せての交通事故でなかった事です」と発言した。この発言が決定打となり、巨人はマスコミから激しいバッシング報道を受けた。

週刊ポストは湯口の急死を「事件」と報じ、死から約2週間後「巨人軍・湯口敏彦投手の死は自殺だった」という特集記事を掲載。湯口の父親の手記を登場させるなどバッシング報道を展開した。これに報知新聞以外のスポーツ新聞週刊誌も追随したため、スポーツマスコミのほぼ全体から非難を受けることになった。

巨人のイメージ低下[編集]

巨人は1973年のドラフト会議で7人の選手を指名するが、1位の小林秀一、2位の黒坂幸夫、3位の中村裕二、5位の尾西和夫の4人が入団拒否し、入団したのは3人だけだった(3人のうち2人は、既に練習生として所属していた)。拒否した4人のうち3人がドラフトの上位指名1位から3位であった事からマスコミは本件と関連付けて「天罰だ」と報じた。小林は2014年現在、巨人のドラフト1位指名を拒否した唯一の選手となっている。ただし、小林の指名拒否は本人が希望するアマチュア野球の指導者への道が、プロとアマチュアの関係が冷え込んでいた当時の状況下ではプロ入りすると事実上絶たれてしまうという要因が大きかった(詳しくは本人の項を参照)。また、3位指名を拒否した中村も当時所属していた住友金属が将来の監督候補としていたため、企業及び本人がプロ入りに消極的だった。一方、2位指名を拒否した黒坂は「自信もなかったですが、湯口選手の件もありましたしね・・」と拒否の理由にこの一件があったことをはっきりと語っている(なお黒坂は1976年にヤクルトにドラフト4位で、尾西も同年に近鉄にドラフト2位で入団)。

なお、この年に入団した4人(ドラフト外入団の1人を含む)のうち、一軍公式戦に出場した選手は4位の迫丸金次郎のみであった。巨人への入団を拒否し、後に他球団に入団した黒坂と尾西(共に投手)は、いずれも公式戦出場は果たしたものの、通算0勝に終わっている。

湯口の急死は「自殺」でその原因は球団の湯口に対する態度にあるというバッシング報道が加熱したように、湯口事件のバッシング報道の先導役は男性向け総合週刊誌の業界であった。当時の球界の盟主たる巨人へのバッシングが、むしろ発行部数の増加や売上増に繋がるという事を示した事件となった。

「鬼寮長」と呼ばれた武宮敏明も、自著「巨人軍底力の秘密」(ABC出版・1983年)で、「生真面目すぎて相手の性格に合わせる指導をせず、常に湯口を緊張状態においていた二軍監督(中尾)と繊細な湯口との取り合わせは最悪だった」と長年の寮長としての若手指導経験から中尾を批判している。武宮は、当時コーチ兼任ながら、スカウト部長に転出していた関係上寮長職を離れていたため、湯口を直接指導する機会は少なく、詳しい経緯を把握できなかったという。

関連書籍[編集]

  • 『巨人軍に葬られた男』 (1997年6月刊、風媒社、ISBN 4833131005
  • 『巨人軍に葬られた男たち』 (2000年10月刊、新潮OH!文庫、ISBN 4102900330
  • 『巨人軍に葬られた男たち』 (2003年2月刊、新潮文庫、ISBN 4101077215

関連項目[編集]

外部リンク[編集]